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2013年12月19日木曜日

南原幹雄『江戸吉凶帳』

 昨日から雪になりそうな冷たい雨が降っている。どことなく気忙しい日々ではあるが、この一年は、ついに、自分がしようと思っていたことが何一つできずに暮れていきそうだな、とも思う。キルケゴールについて書いたものや西洋思想史について書いたものを整理しようとしたことさえできていないなあ、としきりに反省する。倫理学もそのままになっている。来年の3月までは、おそらくこの状態が続くから、それらは、まあ、4月からだなとは思ってはいるが。

 それはともかく、南原幹雄『江戸吉凶帳』(1997年 新潮社)を比較的面白く読んだ。これは文化文政のころ、江戸の堺町、葺屋町、木挽町にそれぞれ芝居小屋(江戸歌舞伎)が置かれ、俗に江戸三座と言われていたころ、堺町の中村座と葺屋町の市村座の近くで「江戸屋」という芝居茶屋を営む三十五歳という若い男盛りの弁之助を探偵役にして、芝居小屋にまつわる様々な事件を解決しながら、その人間模様を描いた一話完結型式の短編連作の作品である。

 芝居茶屋は、芝居見物のための席を予約したり、芝居見物の休息所を提供したり、食事や飲み物をまかなう茶屋(食事処・レストラン)で、庶民から大名に至るまで芝居茶屋の食事を堪能し、この時代の最大の娯楽のひとつだったとも言われている。芝居茶屋は、その規模や客層などによって大茶屋、小茶屋などの区別があるが、本書で描かれる「江戸屋」は大名などが利用しているから「大茶屋」である。「大茶屋」は高級料亭に近いものだった。そして、芝居茶屋の切り盛りは、ひとえにその女将の器量にもかかっていると言われ、芝居茶屋からは有能な役者が出たりしている。「成田屋」とか「音羽」といった歌舞伎役者の屋号は、その出身か関わりのあった芝居茶屋の屋号から取られているものが多い。

 本書でも、「江戸屋」を切り盛りするのは、その女将の「おわか」である。「おわか」は弁之助よりも八歳年下の美貌で機転の利いたしっかりもので、芝居見物に来た時に弁之助を見初めて、惚れて、押しかけ女房のようして嫁いだのだが、その美貌と切り盛りのうまさで評判の女性だった。忙しい合間を縫って弁之助の世話をこまめにやいたりもする。

 「江戸屋」はその女将の「おわか」の見事な采配で繁盛しており、「江戸屋」の主人としての弁之助は暇である。芝居茶屋の主人が表に出ることは無粋なことでもあるから、することがない。若い頃は剣術道場に通って免許皆伝の腕前になっているが、それもせずに俳句や絵を書いたりして趣味を満喫する暮らしをしているのである。彼のところに出入りする友人は、芝居の看板絵を書いている役者崩れの友蔵と岡っ引きの鶴吉で、描かれる事件はこの三人によって探索され、解決されていく。

 第一話「芝居茶屋亭主」は、その芝居茶屋に出入りしている中村座の座元である中村勘三郎の嫡男である四歳の勘太郎が何者かに誘拐されるという事件が描かれる。勘太郎は夏興行で初舞台を踏む予定で、その初舞台が迫ってきていた時に拐かされたのである。夏興行は、暑いこともあって、休業したりする芝居小屋が多いのだが、中村座は、惣領息子の初舞台を打ち、人気役者や大物役者などもその祝儀で出演することになっていた。

 弁之助は、勘太郎が「江戸屋」で拐かされたこともあって、友蔵と鶴吉らと勘太郎の行くへをひとつひとつ探ることで、拐かし事件の真相を暴き、勘太郎を助け出していくのである。当時の芝居は資金を出す金主というのがいて、芝居小屋の客の動向は金主の損得に関係する。中村座が役者を揃えて息子の初舞台としての夏興行を行えば、人気が出ることは間違いなく、ほかの芝居小屋の客の出入りに大きな影響がでる。そこに目をつけた弁之助が拐かしの犯人を突き止めていくのである。

 第二話「お役者買い」は、青物問屋の内儀によって「お役者買い」されていた中村座の若手人気役者が何者かに殺されるという事件を取り扱ったものである。「お役者買い」というのは、贔屓の役者を呼んで遊ぶというもので、いわば、役者を金で買うのである。弁之助たちは、殺された役者に嫉妬や恨みを持つ者を洗っていくが、手がかりがつかめないでいた。

 そうしているうちに、強請のようなことをして嫌われている岡っ引きが、青物屋の内儀と役者の密通をネタにして、役者を強請、それを役者が断ったりしたことが原因で、その岡っ引きが役者を殺したのではないかという疑いが出てくる。だが、その岡っ引きには事件当日のアリバイがあった。彼は夜通し落語の催しの会に出ていたという。調べてみるとその通りで、落語の会を途中で出たのは一人しかおらず、しかもその男は違う羽織を着ていたから岡っ引きとは別人であるという。

 だが、弁之助は、女房の「おわか」が表裏で着ることができる無双羽織を来ていたことから気がついて、岡っ引きのアリバイを崩していくのである。

 こうした展開が、第三話「ことぶき興行」、第四話「夫婦道成寺」、第五話「お欄の方騒動」、第六話「鳥居派五代目」、第七話「料理八百善」と続き、最後に「名家の陰謀」となっている。

 この第八話「名家の陰謀」は、四千石の旗本の後継者を芝居茶屋遊びに誘い出して、自堕落へと誘い込んで、その家を乗っ取ろうとする妾腹の兄の企みを弁之助らが暴いていくというものだが、その旗本の相手が、こともあろうに「江戸屋」の女将「おわか」なのである。「おわか」も若い男から言い寄られて満更ではなく、表面はただの客だと取り繕っていても態度に出ていく。そして、その男からの呼び出しに応じていくのである。

 だが、事に及ぶ途中の寸前のところで、事態を察知していた友蔵と鶴吉が踏み込んで、事件の真相もはっきりするところで終わる。この後、「おわか」の浮気心を知っていた弁之助がどうするのか、寸前の恥ずかしい場面を見られた「おわか」がどうするかは触れられないで終わる。それは読者の想像に委ねられるという心憎い終わり方ではある。「おわか」は弁之助に惚れて夫婦となったが、言い寄る男がいて、それが少し気に入ればそうなるのは、ある意味現実的ではある。「おわか」の姿は妙にリアリティがある気がする。

2013年7月31日水曜日

南原幹雄『付き馬屋おえん 吉原大黒天』

 曇天の重い空が広がり、今にも雨が落ちそうである。なかなかスカッと晴れた日がないのだが、晴れたら暑いだろうとは思う。

 吉祥寺までの往復の電車の中で、読んでいた南原幹雄『付き馬屋おえん 吉原大黒天』(1993年 新潮社 1996年 新潮文庫)を読み終えた。これはシリーズ化された作品の4作目で、以前、角川文庫で出された3作目の作品の『付き馬屋おえん 女郎蜘蛛の挑戦』(1997 双葉社 2004年 角川文庫)を読んでいたもので、遊郭の吉原で焦げ付いた借金の取立てを稼業とする「付き馬屋」の、若くてきっぷのいい美貌の女性である「弁天屋おえん」の活躍を描いたものである。前作までは短編連作の形だったのだが、本作では長編になっており、物語としては読み応えのあるものになっている。

 物語の始まりに、江戸城の雑事を行う御数寄屋坊主(茶事や茶器の管理を行う軽輩)で悪名高い河内山宗春が登場し、彼が吉原でした借金の取立てを「弁天屋おえん」が行うという話が語られ、一癖も二癖もある河内山宗春がきっぷのいい「弁天屋おえん」を逆に気に入っていくという話になっている。

 そしてやがて江戸城西の丸御書院番(番士は警固に当たる役目で、御書院番は、中流旗本のエリートコースだったと言われている)の松平外記(忠寛 17911823年)による江戸城内刃傷事件へと展開されている。

 松平外記(忠寛)は、桜井松平家の流れを組む家柄の出で(本書では家康の六男で、家康から嫌われ、兄で2代目将軍の徳川秀忠から改易されて流浪の生涯を送った松平忠輝の末裔とされているが、忠輝の流れがある松平家は長沢松平家で、これは作者の誤認か、あるいは同じように優れた人物であったために排除されたことを強調するために、作者が意図的にしたことだろう)、馬術や弓術に優れ、真っ直ぐで剛毅な性格をもった人物だったと言われ、それが、風紀がゆるみ馴れ合いで腐敗しきっていた当時の旗本たちの気風に合わずに忌み嫌われて、先輩格や同僚の手酷いいじめや嫉妬にあい、ついに堪忍袋の緒を切らして、江戸城西の丸の書院番部屋で、3名を惨殺し、2名に手傷を負わせて自害した人物である。

 これらのことは太田南畝『半日閑話』に記されているが、松平外記は書院番となっていらいずっと様々な嫌がらせを受け、特に、将軍徳川家斉が鷹狩りに出ることとなり、西の丸の世子の家慶も随行することとなり、文武に優れた松平外記が番士たちを指揮する拍子木役を命じられた時に、その演習の際に同僚や先輩たちが外記の弁当に馬糞を入れたり、拍子木を打っても誰も動かずに勝手な行動をしたりして彼を困らせたり、羽織の家紋を済で塗り潰し、悪口雑言を吐いて、彼を陰湿にいじめ抜いたりしたのである。

 もともと、いじめは陰湿なものだが、松平外記に対するいじめは執拗で、彼が番士入りしたり拍子木役をもらったりした時に行った(行わなければならない饗応とされていた)もてなしが気に入らなかったという説があるが、いじめる側に正当な理由などないのだし、人は、他者よりも抜きん出ているというだけで排除される。

 本書は、この事件を、松平外記が同僚や先輩を饗応したのが吉原で、宴会の後で同僚や先輩格の旗本たちが勝手に遊女たちと遊んだ金を払わずに、松平外記の借金としようとして企んだことで、その借金の取り立てを付き馬屋おえんが引き受けるという筋立てになっている。そして、御書院番の旗本たちのあまりの非道ぶりが描かれていく。

 その中で、剛毅で真っ直ぐな松平外記におえんが淡い恋心を抱いたりする姿が描かれるが、外記は意を決して、城中で刃傷事件を起こして自害する。だが、そのあとも旗本たちは吉原で無軌道な豪遊を繰り返し、彼らがその金を自分たちが守るべき江戸城西の丸のご金蔵から盗んでいたことが分かっていくのである。

 無軌道で目も当てられぬくらいに卑劣な旗本たちと付き馬屋の死闘が繰り返されて、おえんは、ついに彼らの金が西の丸の御金蔵であることをつきとめ、それをネタにして、彼らの借金を取り立てていくという爽快な結末を迎える。

 読んでいく中で、こんな愚かな旗本たちもいるのだろうかと思えるほど、彼らの無軌道ぶりや愚かさが卑劣極まりないものとして描かれていくが、中途半端に悪い者というのは、意外とそんなものかもしれないとも思う。欲だけがあって知恵も胆力もないからであるが、中途半端に悪い者ほど始末に困るのも事実であろう。悪名を取ったがどこか剛毅なところがあった河内宗春の悪ぶりと旗本たちの悪ぶりが、一方がからりとし、他方が陰湿として描かれるのも面白い。

 物語の構成や展開、山あり谷ありの読ませる力というのは、ここで記すまでもなくあって、エンターテイメントとしての娯楽時代小説の面白さがある。まあ、気楽に読める一冊であった。

2013年4月17日水曜日

南原幹雄『御三家の反逆』


 曇ってはいるが春の気温で暖かい。昨日、ハナミズキが綺麗な花をつかせているのを見て、なんとなく心が和んでいた。今週から、週に一度の割合で吉祥寺まで通うことになり、渋谷から井の頭線に乗り換えて、井の頭線の沿線風景を眺めながら、昨日は南原幹雄『御三家の反逆 上下』(1991年 新人物往来社)を読んでいた。

 これは、徳川家の御三家と言われる、尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家が幕府政策の転換によって危機的状況を迎え、その存続のために苦慮していく姿を、主に初代尾張藩主となった徳川義直(16011650年)とその附家老であった成瀬正虎(15941663年)の側から描いたもので、歴史小説としてなかなか面白いものあった。

 戦国武将と言われる人たちの多くは、肉親の情愛というのを現代の尺度とは違った感覚でもっており、下克上はなにも他者との関係だけでなく、親子の関係でもよく起こり、子が親を蹴落とすということが頻繁に起こっている。徳川家康も、彼が江戸幕府を築いて安定させるまでの間に生まれた子どもたちを、どこか嫌っていたようなところがあり、親子関係にもいびつさをもった人だった。

 しかし、晩年に生まれた子どもたちは、孫のような感覚があったのかもしれないが、可愛がって、特に、九男の義直、十男の頼宣、十一男の頼房は寵愛した。そして、各地の有力諸大名を抑えるためと後継者の維持のために、それぞれの要所であった尾張(名古屋)と紀州(和歌山)、水戸に親藩を置き、これを身内で固め、御三家とした。義直が初代尾張藩主になったのが7歳で、義直は3歳で甲府藩主であったが、6歳で元服して尾張清洲藩主となり、ついで尾張一帯の藩主として名古屋に城を構えたのである。頼宣が紀州藩主となったのは17歳の時であるが、彼は2歳で水戸藩主である。頼房が水戸藩主となったのは6歳である。そして、徳川宗家に後継者がない場合は、これらの三家、特に尾張と紀州から後継者を出すようにして徳川一党の支配の継続を図ったものである。

 家康は、また、それぞれの藩主が幼年のために、信頼できる自分の側近を附家老として派遣し、藩政をとらせた。成瀬家は義直に家康がつけた附家老で、尾張藩には成瀬正成と竹腰正信が附家老としてつけられ、慶長12年(1607年)には平岩親吉が附家老になったが、平岩家は後継者がなくて、慶長16年(1612年)に排除されている。成瀬家は尾張藩附家老であると同時に尾張犬山藩の藩主でもあった。本書の主人公のひとりである成瀬正虎は、その2代目で、正成の子である。

 徳川御三家は、将軍を補佐するという名目ではあったが、権力者というものは、どうしても自分の一手に権力を掌握し、その地位を脅かすものは排除する傾向をもつのだから、2代将軍秀忠や3代将軍家光のころになると、その立場が微妙に変化していく。2代将軍秀忠は、おそらく自分よりも優れていると目されていた自分の兄の秀康、弟の忠輝を排除したし、家光は、明らかに自分よりも優れていると考えられ、両親からも寵愛された弟の忠長を排除し、御三家を排斥しようとした。時代も武から文へと変わりつつあり、武を誇る者たちの排斥が続いたのである。

 こういう中で、自分の権力を確立し、御三家を排斥しようとした家光と、家康の子であり将軍位候補でもある御三家の間に、当然、確執が生まれ、陰に陽に闘いが展開されるし、それに幕閣やその意を受けた柳生宗矩を中心とする隠密働きとか陰働きと言われるような者たちの画策が行われた。

 特に、家光の将軍家と義直の尾張は関係がぎくしゃくし、一触即発の状態が続いたのである。義直は家康の子であるという自尊心も強かったし、大坂の陣にも参戦し、文武ともに優れた人物だったという評もあるくらいであり、家光は、幼少の頃は病弱で、吃音で容姿も美麗とは決して言えず、父の秀忠と母のお江が弟の忠長を寵愛したために嫉妬心も強くて、人一倍権力志向の強い人で、権力掌握のための幕府機構を次々と制定していった人であった。

 尾張徳川家と幕府将軍家の確執として残されている記録は、寛永11年(1634年)に家光が病床に伏した際に義直が幕府に無断で大軍を率いて江戸に向かった事件で、家光が万一にも死去すれば、後継者がないために、義直としては御三家の筆頭として徳川家を慮ったとも言われるし、あるいは、将軍位の第一候補として江戸入りを目指したとも言われる。そのときの義直の意図の真偽は定かではないが、いずれにせよ幕府閣僚の土井利勝や松平信綱は尾張藩が大軍を率いて江戸入りされれば、自分たちが敷いてきた幕政体制が壊れるのは必定だから、これを小田原で足止めさせて、義直に江戸入りをさせなかった。

 もう一つは、同じ年に行われた家光の大上洛の際に、家光はこの上洛で朝廷との関係がよくなったことを示すと同時に、幕府の権力の強大さを誇示したと言われるが、その帰路に当然寄るべきとされていた名古屋城を素通りしていった事件である。尾張藩としては彼のために造営した御成御殿がまったく無駄になり、その面目を全く無視された格好になり、尾張徳川家と将軍との間の亀裂がますます深まったと言われる。

 これらを背景にして、本書は、江戸幕府の権威確立を急いだ家光を中心にする幕閣の意を受けて暗躍する柳生宗矩が放つ隠密と、尾張藩の護衛を行う御深井衆(おふけしゅう)との間の暗闘などを盛り込みながら、2代将軍秀忠の死も、大御所政治を嫌って、権力を掌握するために家光の幕閣による毒殺ではないかという説を展開したりする。圧巻は、寛永13年(1636年)に家光が日光東照宮を造営して参詣した際に御三家が反逆して兵をあげ、一時は江戸城も占拠されたが、調停側の働きで和解し、その事件そのものが歴史から抹消されたという結末が記され、将軍家と御三家の軋轢が爆発したとされていることであろう。

 もちろん、そうした反逆事件が実際に起こったかどうかの歴史的確証はどこにもないが、将軍家と御三家の齟齬はこのあともずっと江戸幕府が倒れるまで続いている。御三家どうしも紀州の徳川吉宗が8代将軍になったときに、尾張と紀州の間に熾烈な争いが起こっている。

 なお、本書では成瀬正虎は高潔の人物で、強く将軍家光と幕閣に憤りを覚えていたとされているが、附家老という立場は微妙で、実際にはどちらにもとれる解釈が可能であろう。

 いずれにせよ、権力争いというのはどこにでもあるが、人は権力や力をもとうとすると、つまらぬことで争わなければならないと、本書を読みながら思っていた。力をもつことは、人の幸せとは無関係である。「力への意志」は、まことに愚かな結末を迎える。

2013年3月21日木曜日

南原幹雄『王城の忍者』


 ようやく春が歩き始めた。近くに「桜台」という桜並木のある街があり、その桜もだいぶ咲き始めている。先日、その桜並木の道を通りながら、桜の花びらの美しさは、その淡さと相乗してつくづくいいと思ったりした。

 このところ少し慌ただしくて、ゆっくりと机に向かう時間も取れなかったし、今日も午後から仙台に向かうことになっているが、忘れないうちに、南原幹雄『王城の忍者(しのび)』(2005年 新潮社)を読んでいたので、記しておくことにする。

 これは江戸時代の中期に起こった尊皇思想の最初の弾圧事件であったと言われる「宝暦の変(1758年 宝暦8年)から、続く「明和の変(1767年 明和4年)」までの京都の公家を中心にした反幕府運動を背景にした天皇家の忍者たち(天皇の駕籠を担ぐ駕輿丁として従事しながら密命を受けて働く者たち)の闘いを描いたものである。

 「宝暦の変」は、神道と儒学を統合した山崎闇斎(16191682年)が唱えた「垂加神道」を信奉していた竹内敬持(竹内式部)が桃園天皇の若手近習たちに尊皇思想を中心にした彼の学説を講義し始めたのが始まりで、幕府の専制と摂関家による朝廷支配に憤慨していたこれらの若手公家たちが桃園天皇に竹内式部の学説を進講させたのである。

 その尊皇思想は、とうぜん、江戸幕府の存在を批判するものであり、幕府との関係を悪化させるものであるが、それを憂慮した関白一条道香は、摂関家を形成していた近衛内前らと図って、天皇の近習7名(徳大寺公城、正親町三条公積、烏丸光胤、坊城俊逸らの7名)の追放を行い、徳大寺公城と関係していた公家を処分し、禁じられていた公家の武芸稽古を理由に竹内式部を京都所司代に告訴して、竹内式部を重追放としたのである。

 これは朝廷内における公家の勢力争いと言ってしまえばそれまでのことであるが、後の幕末における尊皇思想にも大きな影響を与えた事件で、この頃から次第に尊皇思想が広まっていった事件でもあった。

 その後、蟄居を命じられた徳大寺公城らは、再び密議を行って再起を図るのだが、本書はそのあたりから始まっていく。彼らが天皇を中心にした親政政治奪還のための実質的戦闘部隊として用いたのが、天皇の護衛役であった静原冠者であったとして、その静原冠者の頭領である竜王坊を主人公にして物語を展開していく。

 作者によれば、静原冠者は1186年(文治2年)に後白河法皇が鞍馬から静原をとおり大原に建礼門院を訪ねた時に、法皇の駕籠を担いでいったことを機に、免租の特権を受けて駕輿丁として命じられるに至り、駕輿丁は同時に天皇の護衛と密命を受ける忍者であったとしているのである。

 他方、1336年(延元元年)に後醍醐天皇が足利尊氏に追われて近江の坂本に逃れた際に、天皇を護衛し、天皇の輿を担いで比叡山から坂本まで駆け、その功績によって課税の永代免除を受け、天皇家の駕輿丁としての役割を担った八瀬童子がおり、八瀬童子と静原冠者とは天皇家の駕輿丁を歴代争う存在であったとする。

 この八瀬童子は、民俗学者の柳田國男が「鬼の子孫」として研究したのが有名であるし、作家の隆慶一郎がこの八瀬童子を天皇家の忍者とした作品を描いており、また、近年の1989年(平成元年)に行われた昭和天皇の大葬の礼でも葬列につらなっており、連綿とその歴史が続いている存在である。

 物語は、尊皇思想によって武力倒幕を図る若手公家たちとその危うさを危惧する摂関家の争いを、静原患者と八瀬童子の争いとして描き出し、それに静原冠者の頭領である竜王坊の悲恋を絡めて展開するものである。

 賊に襲われていたところを助けたことから竜王坊と大原女の「利根」は相思相愛の中となり、密会を重ねるようになるが、それぞれの村のしきたりから結婚には至らない状態が続くし、「利根」自身が、実は敵対する八瀬童子から送り込まれた忍者であるという苦悩の中に置かれていくのである。

 加えて、「宝暦の変」は、やがて山県大弐と藤井右門らの「明和の変」につながっていくが、そこに至るまでの朝廷内での争いが連綿と続いていくのである。

 「明和の変」は、江戸で幕府若年寄の大岡忠光に仕えた後に、塾を開いて儒学や兵学を教えていた甲斐(甲府)出身の山県大弐が、「柳子新論」などの激烈な尊皇思想を展開していたが、彼の学問に心酔していた上野小幡藩家老の吉田玄蕃らの小幡藩の内紛に関与したということで、謀反の疑いがあるということで密告され、捕縛されて、1767年(明和4年)に処刑された事件で、これに「宝暦の変」に関わっていた藤井右門も山県大弐の弟子として処刑され、竹内式部も遠島の処分を受けている。「宝暦の変」の竹内式部と「明和の変」の山県大弐につながりがあったことは明白で、結局、この時代の尊皇思想と倒幕運動は頓挫したのである。

 朝廷の若手公家たちの甘さというのを、本書を読んで感じていた。彼らは力もないのに権力意識だけが強くてにわか仕込みの尊皇思想で策謀を巡らす。

 「宝暦の変」で永蟄居を命じられた若手公家たちは密議をこらして「天皇の宣旨をもらい、それによって兵を起こして、幕府に不満のある外様大名を引き入れ、大阪商人から名目銀で資金を集める」という計略を立てる。そして、その尊皇思想の鼓舞のために再び竹内式部を担ぎ出すのである。

 この計略は、すべて「人頼み」の計略でしかない。彼らはその根拠のない計略の危うさに気づかないで、運動を進めていく(4748ページ)。しかし、やがて挙兵直前にまで進んでいくが、その時も、例えば、時を見定めるにしても、「正月ははみんながのんびりしているし、行事が続いて気持ちがゆるむので正月がよかろう」などという(297ページ)。また、大政奉還を狙って江戸を火の海とすることが簡単にできると考えたりもするし、それが実現すれば、それができれば朝廷内での上下関係をなくして平等に役職につけると捕らぬ狸の皮算用で盛り上がったりする(298ページ)。彼らは挙兵するというが、それは浪人たちをあてにした挙兵でもある。彼ら自身に兵力があるわけではない。

 計略の粗略さもさることながら、彼らの視野にあるのは権力の座であって、庶民の暮らしではない。これがうまくいくはずがないのである。ただ、こういうことは、実は幕末から明治まで続き、明治維新は、公家の権力闘争ででもあったのである。

 しかし、こういう中で、静原冠者の頭領である竜王坊は、自分の役割に忠実に、しかし八瀬童子との権力争いをしながら、行動していく。彼は実際家であり、実際家としての彼の姿が婚礼や恋に悩む者として描かれている。彼の恋は不幸にしてそれぞれの立場のために実を結ばないが、着実に歩んでいく者の姿が残るのである。

 本作は、歴史の中で静原冠者と八瀬童子の天皇家の忍者の地位をめぐる争いとして描き出されると同時に、この時代の尊皇思想の危うさと公家のいやらしさと愚かさも描き出されているのではないかと思ったりする。ただ、作者が公家を「愚か者」として描く意図があったかどうかは別にしても、である。

2012年9月28日金曜日

南原幹雄『将軍家の刺客』


 接近している台風の影響で、曇って、ときおり、「野分」という言葉がぴったりのような強い風が吹く。今年の中秋の名月は30日(日)だそうだが、台風の本土上陸が予想されているので、観月はむりだろう。

少し前に、南原幹雄『将軍家の刺客』(2003年 徳間書店)を読んだ。これは江戸時代初期に徳川家康と共に江戸幕府を作り、智者、切れ者と言われながらも失意のうちに晩年を過ごさなければならなかった本多正純の晩年の姿を、幕閣から送り込まれる刺客と本多正純を守ろうとする忍者たちとの攻防を織り込みながら描き出したものである。

 本多正純(15651637年)は、徳川家康が最も信頼して参謀・相談役としていた本多正信(15381616年)の長男として生まれ、家康の側近となり、その才気で家康の寵愛を受けて、父正信とともに江戸幕府草創期の中心人物となった人間である。家康が将軍職の座を秀忠に譲り、駿府で大御所として二元政治を始めると、正純は家康の補佐として、そして秀忠の補佐に秀忠を支えてきた大久保忠隣がつき、両者の調停を正純の父親の正信が果たすという形が取られたが、当然、江戸の秀忠は駿府の家康に頭が上がらないのだから、正純は家康の懐刀として比類ない権勢を誇っていった。

 やがて、秀忠の補佐をしていた大久保忠隣を、慶長19年(1614年)に起こった「大久保長安事件」に関連させて謀略を用いて失脚させ、徳川幕府初期の政治の一切を掌握するようになり、豊臣家を滅ぼすための口実となった「方広寺鐘銘事件」(豊臣家が建立した鐘楼に家康を侮辱する銘が刻まれている問の言いがかりをつけた)を金地院崇伝らと画策して大阪冬の陣の発端を開くようにしたとも言われ、また、冬の陣の後、大阪城の外堀を埋め立てる交渉を成功させている。これによって難攻不落と言われた大阪城は裸城となり、続く夏の陣で豊臣家は滅びたのである。彼は策略家として徳川家第一の功労者になったのである。

 しかし、その2年後の元和2年(1616年)、徳川家康と、それに続いて後を追うようにして父親の本多正信が死去し、正純は秀忠の幕閣に加えられ、家康の遺言を聞いた者として、遺産の分配や日光東照宮造営奉行などを務めるが、亡き家康の権勢を傘にきたところもあり、秀忠やその側近の幕閣に疎まれ、秀忠側近として力をつけてきていた土井利勝から排斥されていく。

 正純の父の正信は、権勢を得て自ら大身になると、人々の嫉妬や恨みを買うことになるので、決して加増を望んではならないと言い残し、自らも家康の度々の加増を断るほど身を律していたが、正純は自分の働きの報酬としては当然のこととして宇都宮十五万五千石の大名となる。

 だが、このことが正純失脚の始まりで、正純が改築した宇都宮城に秀忠暗殺の仕掛けが施されているということが訴えられたのである。正純の宇都宮拝命で宇都宮城を追い出されることになった前城主の奥平忠昌の祖母は、家康の長女で、秀忠の姉に当たる加納御前(亀姫)であり、亀姫はまた、正純の策謀によって失脚させられた大久保忠隣の長男忠常の妻でもあったから、正純に対する恨みは骨髄のものだったのである。将軍秀忠は造成された日光参詣の帰路、宇都宮城に一泊する予定であったが、「正純が宇都宮城の天井に仕掛けを施して秀忠暗殺を企んでいる」との直訴を受けて、宇都宮城一泊を中止した(宇都宮釣天井事件)。

 やがて、幕閣は都合14箇条からなる罪状嫌疑を突きつけ、このうち、城の修築で正純の意に従わなかったという理由で将軍家直属の根来同心を処刑したこと、鉄砲の無断購入、許可なく抜け穴の工事をしたことの三つが咎められることになる。秀忠は、先代から忠勤に励んだことを鑑みて、出羽の由利郡への五万五千石の減封に処すが、正純は謀反に身に覚えがないということで毅然とこれを拒絶した。それが秀忠の更なる怒りを買い、秀忠は本多家を改易し(取り潰し)、正純の身柄は佐竹義宣に預けられて、出羽の横手に流罪となったのである。正純の改易の表向きの理由は「日頃の奉公、よろしからず」である。こうした正純への処置には、将軍秀忠と老中土井利勝の思惑が働いていたというのが通説である。

 正純を預かった佐竹家では、流罪とはいえ、かつての老中首座であった正純を手厚くもてなしていたが、後に幕府がこれを知り、厳しい監視のもとで屋敷を釘付けにし、ひどい幽閉状態に置くことを命じたので、陽も射さない屋敷の中で、正純の嫡男の正勝は35歳で病死した。やがてこの釘付け状態はあまりにもひどいということで改善され、正純はその7年後の1637年まで生きた。享年73である。

 本書は、家康の時代に智謀を誇り、権勢を誇った正純が一瞬にして転落していき、佐竹家預りとなって生きていく姿を追いながら、正純を徹底的になき者にしようとする土井利勝が放つ刺客と、正純の身を守ろうとする者たちの死闘を描いたもので、放たれた刺客とそれを阻止しようとする者たちが、かつては師弟の中であり、それぞれの手の内を知る者どうしであることを前提に戦う姿を描いていく。ひどい境遇に落とされた正純がよく耐え抜いていく姿も克明に描かれる。

 もちろん、エンターティメント性の高い南原幹雄の作品であり、緊迫する死闘の描写や男女の絡みなども十分に描かれているが、本多正純と石田三成が同じような智略に溺れる者であるとされている点が興味深い。「智に働けば角が立つ」ではないが、謀に生きる者は謀に滅び、自分の智を頼りとする者は智によって裏切られていく。図る者は図られる。そんなことを痛切に感じさせる作品ともなっている。本田正純という、栄華を誇り、やがて転落して非業のうちに人生を終えなければならなかった人物を中心にエンターティメント性をふんだんに盛り込んだ作品である。

2012年6月18日月曜日

南原幹雄『闇の麝香猫』


 昨日は午後から晴れて暑いほどだったが、今日も晴れ間が見えている。しかし、天気は西より下り、台風の接近もあって西日本は雨が降っているらしい。

 昨日、M.ウェーバーの『古代ユダヤ教』を基にしてキリスト教と近代世界の切り口を見せた橋爪大三郎氏の『ふしぎなキリスト教』の講演の主催者として池袋まで出かけ、橋爪ご夫妻の礼儀正しい姿に触れる機会があったが、礼儀正しく謙遜であることは大事なことだと改めて思ったりした。

その往復の電車の中で、半分眠りこけながらではあるが、南原幹雄『闇の麝香猫』(1993年 角川書店)を面白く読んだ。これは、安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて行われた、いわゆる「安政の大獄」事件下にあって、厳しい弾圧の嵐が吹き荒れた京都を舞台に、幕府側の弾圧に対抗したひとりの公家を主人公にした痛快時代小説で、弾圧の先鋒だった長野主膳(18151862年)と京都所司代であった酒井忠義(18131873年)を翻弄させながら、尊皇攘夷の志士たちを京都から逃がしていくという筋立てになっている。

 物語の構成や展開が、どこか大佛次郎の『鞍馬天狗』を思わせるものがあるのだが、「麝香猫」と名乗る正体不明の人物が、大獄の危機下にあった西郷隆盛(吉之助)や清水寺の住職であった月照らを司直の手から逃れさせるというもので、「安政の大獄」を指揮した長野主膳との対決を面白く描き出している。

 長野主膳は、もともと本居宣長の国学を学んだ人物で、天保12年(1841年)に近江で私塾を開き、この時に、第11代近江彦根藩主井伊直中の十四男で部屋住みであった井伊直弼と出会い、井伊直弼が第15代近江彦根藩主となるにしたがって藩校の教師となり、直弼の藩政改革に協力し、これによって井伊直弼は名君の誉れを得るようになって、幕府政治に参画するようになると井伊直弼の懐刀として存在感を増していった人物である。やがて、井伊直弼が、第13代将軍徳川家定の継嗣問題から攘夷派であった水戸の徳川斉昭などと対立し、その溝が深まる中で安政5年(1858年)に大老に就任して、日米修好通商条約を天皇の勅許を得られぬままに結んでいく際、反対する尊皇攘夷派の人々や公家を押さえ込んでいくのである。

 史上に例を見ないほどの思想大弾圧事件となった「安政の大獄」は、もともと、幕府側についていた九条家の家臣であった島田左近などを通じて朝廷内部の動向を探っていた長野主膳が、尊皇攘夷派であった水戸藩士などの「悪謀」を過度に井伊直弼に伝えたことが原因だと言われ、孝明天皇から日米修好通商条約を天皇の許可なく締結したことに対する叱責の書が直接水戸藩に送られたこと(戊午の密勅・・・幕府の権威を無視し、これによって水戸藩が井伊直弼らの幕閣の責任を問うことができる)の首謀者を小浜藩の儒学者であった梅田雲浜と断じて、京都所司代であった酒井忠義に命じて捕縛させたことから始まっている。

 長野主膳は、その後も尊皇攘夷派の志士たちの処罰を進言し、自ら京都で井伊直弼から送られた老中の間辺詮勝(まなべ あきかつ)と共に志士や公家を粛清していくのである。

 本書は、信濃の大名主であった近藤茂左衛門と梅田雲浜の捕縛から始まり、尊皇攘夷派の志士や公家を一掃しようとする長野主膳と、これを護り、弾圧の嵐が吹き荒れる京都から逃れさせようとする「麝香猫」の戦いに展開していくのである。

 作者が「麝香猫」として主人公に据えたのは、弾圧によって関白職を追われた鷹司政通の次男で鷹司惟在(たかつかさ これあり)という人物で、高司政通(17891868年)は、実際に主だった子どもだけで五男六女を設け、さらに養子も何人かいるが、惟在はおそらく作者の創作上の人物だろうと思う。

 作者が描く高司惟在は、詩学や文学に加えて公家には珍しく武道にまで精進していたが、ある時から蹴鞠や当扇、舞や音曲、香道といった遊びに熱中し、特に蹴鞠に興じ、それがあまりにひどすぎて大納言の官職まで投げ打って、人々から蹴鞠大納言と揶揄されるほどの、箸にも棒にもかからない頼りない人間になっていった人物である。鷹揚で懐の広い人物だが、ただ遊んでばかりいる人間で、親兄弟はもちろん、美貌の妻からも愛想を尽かされている人物である。

 その惟在が、そうした姿を隠れ蓑にして、「麝香猫」と名乗り、尊王攘夷派の有為な人々を弾圧下の京都から逃がしていく活躍を展開するのである。捕縛の手が差し伸べられていた西郷吉之助(西郷隆盛)と月照を鹿児島に逃し(西郷隆盛と月照は薩摩まで逃げるが、状勢が変わった薩摩で捕縛されそうになり、錦江湾で入水自殺を行い、月照は一命を落としてしまい、西郷隆盛はかろうじて助かるが薩摩藩の手によって捕縛される)、次いで、月照の弟で清水寺首座を継いだ信海を長州に逃がしていくのである。

 この「麝香猫」こと高司惟在が長野主膳の裏をかき、彼を翻弄させながら志士たちを逃がしていく過程が面白い活劇風に描かれ、颯爽とした活躍振りが展開されていくのである。物語は、高司惟在と彼の真の姿を知った美貌の妻、そして信海が無事に長州へ向けて船出して行くところで終わる。ストーリーテラーとしての南原幹雄の活劇の面白さが十分に楽しめる作品だった。

2011年7月19日火曜日

南原幹雄『箱崎別れ船』

 台風が太平洋沿岸部に沿って北上してきているので、雨が降ったり止んだりする日になった。高温で湿度が高いために、むあーとした空気に包まれている。

 昨日は半日ほどかけて掃除や洗濯などの家事をこなした後、南原幹雄『箱崎別れ船』(1983年 青樹社 1990年 徳間文庫)を読んだ。読んでいてなんとなく一時代前の男女関係の姿を描いた時代小説を読んでいるような気もしないではなかったが、本書は、川の流れに浮かぶ船になぞらえて十一人の江戸の庶民の生活の中で息づいていた女性たちの点描を十一の短編でまとめた短編集である。

 ここで描かれているのは、作者の初版本のあとがきの言葉を借りて言えば、「いずれも高い身分や格式をもつ者ではなく、茶屋の女、仲居、女中、妾、酌取女、遊女・・・たちである」

 それぞれに男が絡んで、その男との関係の中で人生が決まっていくような人生を歩んでいくのだが、結末も様々で、好きな男とうまくいく場合もあれば、いっそうひどい状態に陥る場合もあるし、性に溺れ、破局したり、罪を犯したりする場合もある。ただ、いずれの場合も、その時々であるとはいえ、また、生活の問題が色濃く関係しているとはいえ、たとえ性的に奔放であったとしても、どろどろとした関係に陥ったとしても、その時々の男に対しての思いは純粋なものがあるものとして描かれている。作者には、相手が好きであったり惚れたりしている時に性的な幸福感も増すという考えがあるように見受けられる。

 だが、そういうことは男の幻想かもしれないという気がしないでもない。そうでも思わないとやってられないというところがあるような気がしないでもないのである。人間は、他の動植物と同じような生物であり、すべてはホルモンの働きであったりもするが、それと同時に精神性ももつから、そこに意味を見出さないと人間性を失ってしまうので、男と女という基本的には生物学的関係にも何らかの意味を見出したいと願う。そしてそれゆえに、男女それぞれがそこで幻想を抱くし、その幻想で悩みもする。 

 とは言え、誰かを好きになるというのは純粋で崇高な精神の働きであることは間違いない。そして、特に男女の場合は、その思いは具体的に生殖行動へと繋がるから、その意味では、生殖行動は純粋な精神の働きと言えないわけではない。そのあたりが人間の不可思議さでもある。

 そういうことはこの作品とは無関係なことなのだが、これだけ男女間における女性の姿が点描されると、わたしのような人間にはなんとなく人間に対する不信感が起こるのを禁じ得ない。「騙し騙されるのが男と女」というところには留まりたくないと思っているので、駆け引きの中で生きている人間の姿に、どこかいやらしさを感じるのだろう。

 作品そのものに対する評価は別にして、作者が言うほどこの作品で描かれる女性の姿に、「人間らしい、女らしい人生」を感じることはできなかった。もちろん、それはわたしの経験不足なのかもしれないが。今のわたしは、男女の話よりも、もっと違う話を読みたいと思っている。

2011年6月8日水曜日

南原幹雄『見廻組暗殺録』

 梅雨らしいといえば梅雨らしい雨模様の空が広がり、高い湿度が少々気分を萎えさせる。ひとつひとつのことにじっくり取り組みたいと願っているのだが、なかなかそうもいかない忙しない日常があって、この日常を早く切り捨てたいという思いが再び鎌首を持ち上げたりする。今頃の季節は仕事や生活に疲れを覚える時期からかもしれない。

 昨夜は、南原幹雄『見廻組暗殺録』(1995年 徳間書店 1998年 徳間文庫)を読んだ。

 幕末の騒然とした京都で跋扈した新撰組については、それぞれの人物についても含めて数多くの小説や研究書もたくさん出されて、いわばひとつの定説のようなものも出来上がっているが、同じ江戸幕府の京都守護職松平容保の配下におかれて、新撰組と並んで京都治安部隊であった京都見廻組については、一般には、せいぜい、坂本龍馬暗殺の実行部隊ではなかったかというぐらいでしか名前が挙がってこないところがある。

 京都見廻組は、1864年(元治元年)に、騒然としていた京都の治安維持のために幕府の軍事教練所であった「講武所」出身の旗本や御家人の次男・三男から隊員を募集して組織され、新撰組と並んで京都守護職の管轄下に置かれた特殊警察のような組織であった。最初の組織の長は、蒔田広隆と松平康正で、構成員は蒔田広隆の浅生藩(現:岡山県)の藩士と旗本であった松平康正が募集した幕臣で、後に増員されたりしている。松平康正などは、僅か数年で辞任し、組織の長は数年ごとに変わっている。しかし、実質的な指揮官は「与頭」と呼ばれる佐々木只三郎で、佐々木只三郎は、幕府「講武所」師範で小太刀の名手であったと言われている。

 この佐々木只三郎の下で京都見廻組は長州藩士殺害などを行っていくが、新撰組に比して遅れがちな行動しかとれなかったとも言われる。ちなみに、この佐々木只三郎は龍馬暗殺にも関係したと言われるが、真偽は定かではなく、龍馬の暗殺には政治的な裏があったと、わたしは思っている。

 坂本龍馬暗殺について記せば、明治2年になって函館で捕縛された元京都見廻組の組士だった今井信郎が佐々木只三郎以下七名で龍馬を襲ったと供述し、明治44年にも同じく見廻組士だった渡辺篤も龍馬暗殺に加わったと明かしたことから(二人の証言には食い違いがあって信憑性に欠けるところがある)、京都河原町の醤油屋(酢屋)の近江屋で龍馬を襲った人物の名前として、佐々木只三郎、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安二(次)郎、桂早(隼)之助、土肥仲蔵、桜井大三郎(今井の供述には渡辺篤は出てこない)などの名前があがり、今井の供述では、佐々木は階下で待機し、今井と土肥、桜井は見張り役だったという。

 この供述の信憑性は薄いところがあるのだが(幕府側は龍馬殺害の禁令を既に出しており、幕命によって動く見廻組が組織をあげて暗殺したということなどは考えにくいなど)、たとえこれらの見廻組が龍馬暗殺の実行犯だったとしても、龍馬に対してはいくつかの思惑が働いており(薩摩の大久保利通などは薩土同盟の後、「目障りごわんどんな、あん男は」と龍馬に対して目を光らせたと言われる)、その後の明治政府のあり方などを考えると、政治的な裏があったのではないかと思えてならないのである。

 それはともかく、今井信郎の供述に出てくる桜井大三郎と桂早(隼)之助いう人物の名を借りて、南原幹雄は、この『見廻組暗殺録』では、主人公を旗本家の次男で京都見廻組の組士となった若い「桜井千之助」を登場させ、彼を主人公にして、彼が見廻組に入隊するところから坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺するところまでを描いているのである。

 桜井千之助の父親が幕府の御使番として京都巡視中に何者かに殺されるところから物語が始まるが、桜井千之助は、その父親殺害の犯人を捜し出すためにも、募集があった見廻組に入隊するのである。そして、京都で、見廻組と新撰組との対抗意識を含めながら、剣の遣い手として活躍し、長州が起こした「禁門の変(蛤御門の闘い)」や桂小五郎を追い詰めることなどを交え、祇園の芸者との恋と父親の仇探しも絡めて、物語が展開していく。

 この物語では、佐々木只三郎は「佐々木唯三郎」になっており、桜井千之助の父親を殺したのが中岡慎太郎になっていて、坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺が仇討ちでもあったということになっている。中岡慎太郎の描き方や歴史的事件や人物に対する理解があまりに通説的すぎるところなどに、いまひとつ納得がいかないところがあるのだが、幕末の京都の状況や新撰組と見廻組の立場や対抗意識、血気に満ちた青年らしさなどが踏まえられて、「物語」としての面白さは充分にある。だから、どこまでもフィクションであることを承知しながら読む必要がある。

 京都見廻組は、政治に利用され翻弄させられた青年たちだったので、そのあたりも掘り下げられるともっと面白かったかも知れない。勤王にしろ佐幕にしろ、幕末は青年の純粋さがほとばしり出たものとして描かれることが多いのだが、考えようによっては、単なる権力争いに過ぎないとも言えるのである。今の政争もあわせて、人の争いの姿はつくづく変わらないと思ったりもする。

 日本の社会は、明治維新と第二次世界大戦後に再生の大きな機会をもったが、いずれも人の思惑が優先されてしまった。人は自らの手に「力」を握りたがる。

2011年2月26日土曜日

南原幹雄『付き馬屋おえん 女郎蜘蛛の挑戦』

 昨日は春を思わせる陽気で、何か徳をしたような気分さえ与えられたが、今日は風が冷たく、近くのクリーニング屋の旗がはためいている。

 昨夜は少し遅くまで起きていて、南原幹雄『付き馬屋おえん 女郎蜘蛛の挑戦』(1997年 双葉社 2004年 角川文庫)を読んでいた。この作者の作品も初めて読むのだが、これはシリーズ化されていて、本書はその三作品目らしい。

 「付き馬屋」というのは、遊郭であった吉原の焦げついいた借金を取り立てる取り立て代行をする稼業で、吉原で遊んだ客の後に付いていってその代金を回収することから「付き馬」と呼ばれたものである。本書では、亡くなった父親の後を継いで、若くしてその「付き馬稼業」をする弁天屋の「おえん」という美貌の女性の小気味のいい活躍が、一話完結の連作として描き出されている。

 遊郭の吉原での話が中心なのだから、当然、彼女が扱う事柄は、男と女、そしてお金にまつわる話であり、表面の装いに隠された、いわば「意地汚い」裏を暴くことが作品のテーマであり、本書でも、潰された海苔問屋の娘が吉原に身売りされ、元の店の奉公人で、その海苔問屋を潰して自分の海苔問屋をもった男に買われ続け、その代金さえ踏み倒されるという状況の中で、「おえん」を初めとする付き馬稼業の弁天屋の手代たちが、海苔問屋の乗っ取り事件を暴き出して、遊興代金を回収するという第一話「おいらん地獄」や、人格者で大店の主人として治まっていた男が、どうしても昔の枕探し(泥棒)の癖が止められずに、吉原で枕探しをしてしまうことを暴き出す第二話「吉原枕探し」など、人間には表と裏があって、その裏を暴き出すというような形で物語が展開されている。

 本書では、こうした作品が七話収められており、その中で、表題作ともなっている第四話「女郎蜘蛛の挑戦」では、網を張ってそこにかかった餌を食べる女郎蜘蛛に似た美貌の女性「おとよ」が、「おえん」に男を使って挑戦してくる好敵手として登場し、この「おとよ」と「おえん」の確執が、シリーズの中で何度か描かれているようで、既に一度、二人の対決が行われ、本書では、そこで破れた「おとよ」が「おえん」に復讐を企てるという筋立てになっている。

 全体的にこういう作品は、「人には隠された裏がある」というだけの話なのだが、一話完結の連作として、人のよこしまな意地汚い裏が様々に描き出され、そこに遊郭という苦界で苦しむ女の姿やそれなりの情をもつ姿があり、娯楽小説として読ませるものがある。

 幕切れが、「おえん」を中心にした弁天屋の手代たちが、悪意をもって遊興代金を踏み倒そうとする男たち(あるいは女)のところに踏み込んで行き、そこで「おえん」が啖呵を切って悪行を暴露し、代金を回収するという同じパターンであるとはいえ、そうしたパターンも、ちょうど『水戸黄門』の印籠のように、作品の妙味といえば言えないこともないし、代金さえ回収できればそれでいいという付き馬屋稼業に徹した姿も爽快感を残すものとなっている。

 個人的な好みからいえば、どちらかといえばお金が絡んだ男と女の話はあまり触手が伸びる話ではないが、比較的作品数の多い作者の作品を一度くらいは読んで見ようと思っていたところであった。