昨日から雪になりそうな冷たい雨が降っている。どことなく気忙しい日々ではあるが、この一年は、ついに、自分がしようと思っていたことが何一つできずに暮れていきそうだな、とも思う。キルケゴールについて書いたものや西洋思想史について書いたものを整理しようとしたことさえできていないなあ、としきりに反省する。倫理学もそのままになっている。来年の3月までは、おそらくこの状態が続くから、それらは、まあ、4月からだなとは思ってはいるが。
それはともかく、南原幹雄『江戸吉凶帳』(1997年 新潮社)を比較的面白く読んだ。これは文化文政のころ、江戸の堺町、葺屋町、木挽町にそれぞれ芝居小屋(江戸歌舞伎)が置かれ、俗に江戸三座と言われていたころ、堺町の中村座と葺屋町の市村座の近くで「江戸屋」という芝居茶屋を営む三十五歳という若い男盛りの弁之助を探偵役にして、芝居小屋にまつわる様々な事件を解決しながら、その人間模様を描いた一話完結型式の短編連作の作品である。
芝居茶屋は、芝居見物のための席を予約したり、芝居見物の休息所を提供したり、食事や飲み物をまかなう茶屋(食事処・レストラン)で、庶民から大名に至るまで芝居茶屋の食事を堪能し、この時代の最大の娯楽のひとつだったとも言われている。芝居茶屋は、その規模や客層などによって大茶屋、小茶屋などの区別があるが、本書で描かれる「江戸屋」は大名などが利用しているから「大茶屋」である。「大茶屋」は高級料亭に近いものだった。そして、芝居茶屋の切り盛りは、ひとえにその女将の器量にもかかっていると言われ、芝居茶屋からは有能な役者が出たりしている。「成田屋」とか「音羽」といった歌舞伎役者の屋号は、その出身か関わりのあった芝居茶屋の屋号から取られているものが多い。
本書でも、「江戸屋」を切り盛りするのは、その女将の「おわか」である。「おわか」は弁之助よりも八歳年下の美貌で機転の利いたしっかりもので、芝居見物に来た時に弁之助を見初めて、惚れて、押しかけ女房のようして嫁いだのだが、その美貌と切り盛りのうまさで評判の女性だった。忙しい合間を縫って弁之助の世話をこまめにやいたりもする。
「江戸屋」はその女将の「おわか」の見事な采配で繁盛しており、「江戸屋」の主人としての弁之助は暇である。芝居茶屋の主人が表に出ることは無粋なことでもあるから、することがない。若い頃は剣術道場に通って免許皆伝の腕前になっているが、それもせずに俳句や絵を書いたりして趣味を満喫する暮らしをしているのである。彼のところに出入りする友人は、芝居の看板絵を書いている役者崩れの友蔵と岡っ引きの鶴吉で、描かれる事件はこの三人によって探索され、解決されていく。
第一話「芝居茶屋亭主」は、その芝居茶屋に出入りしている中村座の座元である中村勘三郎の嫡男である四歳の勘太郎が何者かに誘拐されるという事件が描かれる。勘太郎は夏興行で初舞台を踏む予定で、その初舞台が迫ってきていた時に拐かされたのである。夏興行は、暑いこともあって、休業したりする芝居小屋が多いのだが、中村座は、惣領息子の初舞台を打ち、人気役者や大物役者などもその祝儀で出演することになっていた。
弁之助は、勘太郎が「江戸屋」で拐かされたこともあって、友蔵と鶴吉らと勘太郎の行くへをひとつひとつ探ることで、拐かし事件の真相を暴き、勘太郎を助け出していくのである。当時の芝居は資金を出す金主というのがいて、芝居小屋の客の動向は金主の損得に関係する。中村座が役者を揃えて息子の初舞台としての夏興行を行えば、人気が出ることは間違いなく、ほかの芝居小屋の客の出入りに大きな影響がでる。そこに目をつけた弁之助が拐かしの犯人を突き止めていくのである。
第二話「お役者買い」は、青物問屋の内儀によって「お役者買い」されていた中村座の若手人気役者が何者かに殺されるという事件を取り扱ったものである。「お役者買い」というのは、贔屓の役者を呼んで遊ぶというもので、いわば、役者を金で買うのである。弁之助たちは、殺された役者に嫉妬や恨みを持つ者を洗っていくが、手がかりがつかめないでいた。
そうしているうちに、強請のようなことをして嫌われている岡っ引きが、青物屋の内儀と役者の密通をネタにして、役者を強請、それを役者が断ったりしたことが原因で、その岡っ引きが役者を殺したのではないかという疑いが出てくる。だが、その岡っ引きには事件当日のアリバイがあった。彼は夜通し落語の催しの会に出ていたという。調べてみるとその通りで、落語の会を途中で出たのは一人しかおらず、しかもその男は違う羽織を着ていたから岡っ引きとは別人であるという。
だが、弁之助は、女房の「おわか」が表裏で着ることができる無双羽織を来ていたことから気がついて、岡っ引きのアリバイを崩していくのである。
こうした展開が、第三話「ことぶき興行」、第四話「夫婦道成寺」、第五話「お欄の方騒動」、第六話「鳥居派五代目」、第七話「料理八百善」と続き、最後に「名家の陰謀」となっている。
この第八話「名家の陰謀」は、四千石の旗本の後継者を芝居茶屋遊びに誘い出して、自堕落へと誘い込んで、その家を乗っ取ろうとする妾腹の兄の企みを弁之助らが暴いていくというものだが、その旗本の相手が、こともあろうに「江戸屋」の女将「おわか」なのである。「おわか」も若い男から言い寄られて満更ではなく、表面はただの客だと取り繕っていても態度に出ていく。そして、その男からの呼び出しに応じていくのである。
だが、事に及ぶ途中の寸前のところで、事態を察知していた友蔵と鶴吉が踏み込んで、事件の真相もはっきりするところで終わる。この後、「おわか」の浮気心を知っていた弁之助がどうするのか、寸前の恥ずかしい場面を見られた「おわか」がどうするかは触れられないで終わる。それは読者の想像に委ねられるという心憎い終わり方ではある。「おわか」は弁之助に惚れて夫婦となったが、言い寄る男がいて、それが少し気に入ればそうなるのは、ある意味現実的ではある。「おわか」の姿は妙にリアリティがある気がする。
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