今日は梅雨の晴れ間という感じで青空が広がっている。気温も少し高めになっていて、まことに洗濯日よりの感がある。インターネットの接続契約の変更をしなければならなくなって、その手続きをしているのだが、こういう書類などを書いていると、今の社会が本当に「一時的(Temporary)」であることを強く感じる。20世紀の終わりごろにアメリカの社会学者たちが現代社会を「Temporary Society(一時的社会)」と呼んでいたが、ますます社会のシステムそのものが一時的になった気がしてしまう。
閑話休題。先日、志水辰夫『みのたけの春』(2008年 集英社)を読んで、いい作品だと思い、次に書かれた『つばくろ越え』(2009年 新潮社)を読んでみた。
しかしこれは、私にとっては少し読むのに時間のかかる作品で、渋味と言えば言えるのだが、描写が押さえ込まれているだけに描かれる人物像がなかなか掴みきれないところがあるような気がしたのである。作家が長く作品を書き続けると、文章が簡素化して、それはそれで味わい深いものになるのだが、「艶」というのが薄れていくからかもしれないとも思う。
本作は、大金や重要なものを目的地まで各宿の飛脚問屋を通さずに一人で運ぶという「通し飛脚」の仕事をする人物たちを主人公にした短編連作である。江戸で「蓬莱屋」という飛脚問屋をしていた勝五郎は隠居したが、それでも「通し飛脚」の仕事を請け負って、仙造や宇三郎といった健脚で義理も人情にも厚く、状況判断も的確にできる男たちを使って「蓬莱屋」の出店のような仕事をしているのである。
飛脚というのは、当時の身分制度では武士でも商人でもなく、あるいは博徒や侠客でもなく、どちらかといえば職人に入るような仕事であるが、単に健脚であるだけでなく道中の危険から身を守らなければならず、的確な状況判断も必要とされ、強い忍耐力もいる仕事である。江戸時代は交通基盤も整えられて、一般の飛脚はひと目でそれとわかる格好をしていたが、「通し飛脚」は大金や密書を運ぶことが多かったために、密かに、しかも早く運ぶことができるよう股旅者のような旅人の姿をしていたと思われる。
この作品でも、道中合羽をまとって、まんじゅう笠をかぶり、道中差しを差しただけの目立たない格好で主人公たちが登場する。このあたりや主人公たちが通る峠や村の地理は、さすがにきちんと踏まえられて、目立たないが確実な人物が主人公になっている。
さて、表題作にもなっている第一作「つばくろ越え」は、新潟から江戸に向かう山間で「通し飛脚」として大金を運んでいた弥平が襲われ、大金を奪われるのを避けるために谷に投げ捨てて息を引き取ってしまったのだが、その大金の行くへがわからず、弥平の弟分にあたる仙造が、弥平を襲った者たちと金の行くへを探るという設定で始まる。場所は「つばくろ越え」と言われる裏道で、あたりには寒村があるだけのところであった。
仙造は何度もその峠に足を運び、金のあり場所に見当をつけていたが、金が投げられたと思われる崖の中腹の出っ張った岩場に降りることができないでいた。その探索の途中で、彼はひとりの子どもと出会う。その子は、物貰いをしながら父親と旅をしていたが、その父親がとうとう力尽きて死んでしまうところに行き会ってしまうのである。その子は巳之吉という少年で、巳之吉はしたたかに生きることを覚えた少年だった。
仙造は身の軽い巳之吉を縄で吊るして岩場に降ろし、弥平が投げた金を探させるが、巳之吉はないという。その時は仕方なく、仙造は巳之吉を近くの村に預けて江戸に帰る。しかし、再び「つばくろ越え」を訪ねて見たとき、巳之吉は預けられた村の家の女中と懇ろになったり、村の娘と交わったりする少年になっており、したたかな生き方をする巳之吉の本性を現した姿になっていた。仙造は巳之吉をそのまま放っておくこともできずに、江戸に連れて帰り、飛脚問屋の蓬莱屋で働かせることにする。
巳之吉は、しばらくは蓬莱屋で真面目に働く素振りを見せ、他の奉公人からの評判も悪くなかったが、ある時、金をもったまま出奔する。仙造は勝五郎とともに巳之吉の行くへを探し、つばくろ越えの寒村にまできてみると、巳之吉は、実は前に岩場で釣り下ろされた時に金のありかを知っており、その金を取りに来たことがわかる。だが、巳之吉がその金を手にした時に寒村に住んでいた銀三親子に捕らわれて、その金を奪われていた。銀三親子は、弥平を襲って金を奪おうとした人間たちであった。仙造と勝五郎は金を取り返し、助命を懇願する巳之吉を連れて帰る。だが、巳之吉は自分の命が助かった後、再びしたたかぶりを見せるのである。
物語は、巳之吉のしたたかぶりを示すところで終わるが、貧しさゆえに強盗になって金銭を奪おうとする者、したたかに生きる者、死んだ者を忘れて新しく生きなければならない者、そういう人間の姿がデフォルメされて描かれているのである。
次の「出直し街道」は、越前丹生郡の陣屋で代官所手代元締加判(元締代理)をしていた男が、在職中の代官の不正に絡んで処罰されるところを逃走し、江戸で八年間もの間苦労しながら貯めた金を故郷の妻子のもとに届けたいと蓬莱屋を訪ねてきたという設定で物語が展開されていく。「通し飛脚」の宇三郎がその任を負い、越前丹生郡宮本村まで出かける。彼はようやくにして男の妻の行くへを探し出すが、男の妻は男を密告してその地位を手に入れたかつての部下の囲われ者になっていた。
男の妻のすみは、囲われ者として何不自由ない暮らしをしていた。子どもは病気で亡くなっており、彼女を囲っている昔の部下の人品は褒めたものではないが、暮らし向きはいい。だから彼女は夫が託した5両の金と手紙を宇三郎から受け取った時に、迷い、悩み、逡巡する。だが、彼女はついに今の暮らしを捨てて宇三郎と共に江戸にいる夫のもとへ行く決心をする。しかし、彼女の迷いは残る。宇三郎は「生きている人間には、いつだってこれから先のことしかないんです。・・・何回でもやり直しなせえ」(171-172ページ)と言う。耳にタコができるほど、何回もそれを言う、と言うのである。
宇三郎自身、妻がなくなってしまって娘を一人で育てられないのではないかと悩んでいたが、これを機に、娘を自分の手で育てる決心をここでしていくのである。
人には反復は不可能である。出直すとしたら、人は新しい自分にならなければならないが、それが人に可能かどうか、それは、もちろんここでは問われない。しかし、「出直すことができる」というのは、確かに、人の希望とはなりうる。すみは、一度は自分を捨てて逃げた男を追い、自分を追う男を捨てる。このあたりの機敏は、少なくともわたしには謎で、江戸に出て、元の夫に会ったからといって、新しい出直しができるのかどうか、その結末が触れられないのがいいのかもしれないと思ったりもする。
第三話「ながい道草」は、越後の小柳村というところにいる医者のところに江戸から薬を届けた仙造は、仁に厚くて病人を放おっておけない医者の道安と妻のりくが、実は「追ってに追われて人目を避けて各地を点々としなければならない身の上」であったことを知る。りくは武家の妻だったが、ただ夫の慰み者としての扱いしか受けず、その夫に背いて道安と駆け落ちしてきたのである。夫が追っ手として差し向けた者のひとりは彼女の息子であった。彼女の夫はその他にも、素破者と呼ばれるゴロツキ侍を雇っており、仙造は道安とりくの人柄や働きに感銘して二人をなんとか追っ手の手から逃れさせようと苦心する。だが、ついに追いつかれてしまう。
そこで、りくと息子は話をし、母の心を聞いた息子は、そのまま見つからなかったことにして、引き返すことにし、母であるりくと道安は再び村医者としての生活に戻ることができたのである。
第四話「彼岸の旅」は、長い間飛脚をし、通し飛脚としても勝五郎とは深い結びつきをもっていた半助が、自分の病を知って、突然、故郷へと死出の旅をしていくのを、それを案じた勝五郎が追っていく話である。勝五郎とは長いつきあいであっても、だれも半助の素性は知らなかった。半助は誰にもそのことを語らなかったし、また秘していたのである。
だが、勝五郎が彼の故郷を探り当て、あの跡を追って行くに従い、山崩れで壊滅した村で生き残った主家の娘に対する秘められた悲しい恋心や彼自身が巻き込まれたとは言え犯した事件などが明らかになっていくのである。半助は、その重荷を負って生きてきて、そうして望み通り故郷の山で死ぬのである。
これらの作品は、いずれも、生きることの重さを抱えた人間が描かれたものである。この4作の中では「ながい道草」が明白に将来の希望を見出せるものとなっているが、改めて見ると結末は、やはり、かすかな希望が見いだせるものになっている。最後の「彼岸の旅」も、死ぬことによる解放があるのである。これはその後、蓬莱屋の物語としてシリーズ化されているが、重厚といえば重厚で、それだけに読むのに少し疲れを覚えたのである。