西から低気圧が近づき天気が崩れていくそうだが、今日はまだよく晴れて少し暑いくらいの初夏の陽射しがさしている。このところ、怠惰な自分にさらに拍車をかけて怠惰に過ごしたいと思っていたが、そうもいかない状況が続いて、夏までもつだろうかと思ったりもする。
そういう中で、乙川優三郎『男の縁 乙川優三郎自撰短編集 武家編』(2006年 講談社)を再び感じ入りながら読んだ。これまで読んだこの作者の短編は非常に優れていて、短編時代小説の名手かもしれないと思ったりもするほど良質の作品が多い。作品の文学性は高いものがある。
この「自撰短編集」は、「武家編」と「市井編」があり、「武家編」には、「悪名」、「男の縁」、「旅の陽射し」、「九月の瓜」、「梅雨のなごり」、「向椿山」、「磯波」、「柴の家」の八篇が収められている。このうちの「九月の瓜」、「梅雨のなごり」、「向椿山」、「磯波」は、前に読んだ『武家用心集』(2003年 集英社)にも収録されており、ここでは割愛する。
「悪名」は、藩政改革のために藩主の密かな命を受けて、わざと不行績のためにお役御免となり、領内で収賄によって私腹を肥やしていた藩の重鎮や商人たちから金銭を脅し取るということをして悪名を轟かせている武士の話で、彼と相愛ながらも他家に嫁ぎ、子がなくて離縁され、茶屋勤めをしている女性の目を通して、それが描かれていく。
下級藩士の家で育った「多野」は、密かに隣家の次男である山野辺重四郎への想いを持ちながらも、十七歳で他家に嫁いだ。病気の舅の世話をさせられたが、その舅が亡くなると、用なしとばかりに子ができないことを理由に離縁され、貧しい実家に戻ったが、そこで厄介をかけることもできずに茶屋の女中奉公に出た。
重四郎は、次男であり、末期養子の縁組が決まって、山野辺家を出て、やがて養家の家格もあって、勘定方から勘定奉行のひとりになっていき、財政難に陥っていた藩政をなんとかしようとしたが、彼の提案は賛同を得ずに諦めざるを得ない状態となり、そのうちに不埒を働いたということでお役御免になったのである。
二人は偶然に再会したが、重四郎は昔の溌剌とした面影もなく、自堕落で、辛辣な皮肉を「多野」に言うばかりだし、侍としての品位もなくし、女にもだらしがなく、市中のよからぬ噂も聞こえていたが、「多野」は、心のどこかで重四郎をまだ信じている自分を感じていた。
だが、そうした「悪名」を流したのは、私腹を肥やした藩の執政や豪商たちから金を脅し取り、それで逼迫した藩庫を補うためで、不正の手口と裏金の流れを掴んで、そのような不正が二度と起きないようにするという藩主の密かな命令を受けてのことであった。
そして、重四郎は、不幸な境遇に身を置き、茶屋の女中奉公をしている「多野」に妻となるように申し出るのである。
文章に独特の「情」というものがあって、ひとつの光景がひとつの心情を表すような描き方で、ここでは臘梅と風花が全体を醸し出すものになっていて、その光景を眺め見る時の心情が巧みに描かれている。
表題作にもなっている「男の縁」は、藩の家臣譜(家臣の歴史)の執筆を依頼され、二十年もの長きに渡ってその仕事を続けてきた宇津木丈太夫という人物を通して、一人の早見伝兵衛という老家臣の生涯とその姿に触れていくというもので、あるい意味では、武士として壮絶でもあるその姿が描き出されていく。
早見伝兵衛は宇津木丈太夫が記している家臣譜に加筆して欲しいことがあると言って、これまで秘してきていた自分の生涯を語り始める。彼は、元は大和国柳生の庄で柳生新陰流の門人で、免許をもつほどの使い手だったが、兄弟子とふたりで新しい主君と扶持を求めて諸国を歩いた。しかし、彼らの仕官先はなかなかなかった。
そして、ある時、伝兵衛の伯父で武芸はうまくなかったが世辞に長けた人物の話になり、兄弟子は彼の伯父のことをひどくなじり、罵倒したために、伝兵衛が伯父をかばうと、愚かにも立会をするまで発展してしまった。伝兵衛はその立会に勝ち、兄弟子を殺してしまった。そこで、名前を変え、柳生新陰流の使い手であることを秘して、弓術で藩に仕えるようになり、今日を迎えたと言う。そのことを自分は秘してきたが、家臣譜に付け加えて欲しいと言うのである。それは、早見老人が自分の死を前にして過去を清算する姿でもあった。
他方、宇津木丈太夫は、病身の母親と自分の世話のために嫁き遅れている一人娘の縁談のことで悩んでいた。娘は、もうしばらく父母と暮らしたいと言い、結婚する気配もなく、宇津木丈太夫はそれを案じたりしていたが、二度も妻を離縁し、三度目の妻を迎えるために家臣譜を見せて欲しいと訪ねてきた犬井荘八という男が気のある素振りを見せたりしていた。宇津木丈太夫の目には、犬井荘八は軽薄な男にしか見えなかった。
そんな中で、早見伝兵衛は、十年ほど前に複数の藩の重職たちが結託して空米相場に手を出して私腹を肥やした事件の告発状を江戸藩邸に送り、藩の大目付が調べ始める動きが起こった。早見伝兵衛は自分が死病にかかり、余命幾ばくもなくなっているという。そして、早見伝兵衛は、その時不正を働いた藩の重職たちがいる御用部屋に乱入して立てこもるという事件を引き起こしてしまう。伝兵衛は柳生新陰流の使い手であり、藩の中老なども斬られ、役人も手が出せない状態になった。
その時、軽薄としか見えなかった犬井荘八が名乗り出て、伝兵衛が立てこもる屋敷に入っていくのである。そして、彼は伝兵衛との激闘の末に、伝兵衛を斬って出てくるが、この事件が藩の重職の方から仕掛けた斬り合いで、早見伝兵衛は乱心したのではなく、覚悟の討ち死にをしたと語るのである。
早見伝兵衛は、こうして自分の最後をきちんと清算し、潔く死を迎えたのである。犬井荘八には、そのことがよくわかっていた。宇津木丈太夫は、人を見直す目をもって犬井荘八は見るのである。直接には記されないが、犬井荘八と宇津木丈太夫の娘とは、このあと結ばれてくだろうことが余韻として残る。
「旅の陽射し」は、死を目前にした老夫婦が、再び愛情を取り戻していく話である。長い間医者としての研鑽を積み、藩医にまでなった意伯は、半年ほど前、自分が死病を患ったことを悟った。医者として多くの死を看取ってきてはいたが、自分の死に直面して、彼はうろたえ臘梅した。我儘になり、癇癪を起こしては、妻の「万」につらく当たった。
妻の「万」は、夫の我儘に耐え、癇癪に耐えたが、これが長年連れ添ってきた夫婦の終わり方だろうかと冷たく感じていた。そういう中で日々が過ぎていったある日、夫が銚子に行こうと言い出す。間に合せの覚悟ではどうにもならない人生の終わり方を「万」は考えざるを得なくなる。そうして二人は銚子につき、銚子の海を眺めるのである。
旅先で、意伯も万も、解放された景色を眺め、珍しい美味しいものを食べ、それまでの死の気鬱が吹き払われていくようになっていく。旅先の銚子では、子どもの頃から病弱で何度も死の危険にさらされながらも、医者であった意伯によって生きのび、今では丈夫になっている中川奥右衛門という郡奉行にも会い、彼によって道案内のための娘の世話を受けたりする。
娘は、いつも死と隣り合わせに生きている漁師の娘で、貧しくはあったが清楚で溌剌としていた。そうしていくうちに、意伯はだんだんと素直さを取り戻し、冷え切った夫婦の間が溶かされて温められていくのである。磯巡りで、意伯は死にかけていた子どもの病状を診たりするし、そのために岩場を登ったりしていくが、夫婦が夫婦として穏やかに終わりを迎えていく道を見つけていくのである。
最後の「柴の家」は、十七歳で旗本家の婿養子に入り、夫婦仲も冷えたままで、ただお家大事、跡取り大事で存在するだけのつまらない日々を送っていた武士が、ふとしたことで陶芸に魅入られ、そこに弟子入りし、陶芸師の孫娘で、陶芸に命を燃やす女性と生きていく決心をしていく物語である。彼は、分別のある中年になっているが、家を捨て安泰な生活を捨て、命の炎を燃やしていく人生を選び取っていく。そうした姿が、作陶に向けられる二人の思いとともに描き出されていくのである。
これらのいずれの短編も、情緒あふれる文章で描かれており、物語の展開というよりも、文章の余韻で物語が綴られるようなところがあって、じんわりと読める作品になっている。いずれの作品も美しい。
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