九州南部が梅雨入りするかもしれないとの予報が出ていたが、こちらはまだ雲が広がって少々の蒸し暑さを感じるだけである。
なぜか久しぶりに宮部みゆきの作品が読みたいと思って、先日、あざみ野の山内図書館に行った際に『長い長い殺人』(1992年 光文社 1999年 光文社文庫)を借りてきて読んだ。これは、もちろん時代小説ではなくミステリーであるが、テレビドラマ化もされた作品で、それぞれの「財布」を語り部にしてその持ち主を語りながら殺人事件の真相を綴っていくという異色の作品である。
こうした文学手法がほかにないわけではないが、持ち主の人格に合わせて財布の語り口も異なり、しかも「見守るもの」としての財布を際立たせて客観性を持たせると同時に人物像を浮き上がらせていくという傑出した、そして、作家の技量が問われるような書き方がされており、それが見事に成功している傑作である。
物語そのものは、ある男が車に轢き殺されて、それが、最初は保険金目当ての交換殺人の様相を呈しながらも、第三者を使った計画殺人であったということが分かっていくというものだが、そこに複雑な人間心理と人間模様が展開されている。
事件は、ある晩に一人の男が轢き殺されるところから始まる。彼には多額の保険金がかけられており、彼の妻には愛人がいた。妻の森元法子にはアリバイがあるが、愛人の塚田和彦のアリバイは不明で、容疑は塚田和彦へと向かう。しかし、証拠がない。次に、結婚したばかりの塚田和彦の妻が殺され、彼の妻にも多額の保険金がかけられていた。その時には塚田のアリバイはあるが、愛人の法子のアリバイは不明である。調べてみると、塚田には前妻があり、その前妻もひき逃げ事件で死亡していた。
森元法子の夫のひき逃げ事件で法子を強請ろうとした女も殺され、その女が残した財布を拾ったバスガイドが危険な目にあったりもする。こうして、塚田和彦と森元法子の共犯による一連の犯行は明らかなようだが、一切の証拠がない。
マスコミは、この事件を大々的に取り上げ、塚田和彦と法子は「時の人」となっていく。塚田和彦はハンサムであり頭も切れるし、レストランの共同経営者であり、生き方がスマートに見えるし、法子は美女で、いわゆるマスコミ受けがするのである。そのうち、塚田和彦のアリバイを証明するようなことも出てきて、彼らは容疑者から一転して被害者になったりする。塚田和彦も法子も、そうしたマスコミの取り上げ方を楽しんでいるようでもある。彼らは自分たちが絶対に手を下していないという確信があった。
やがて、自分が真犯人だと名乗り出てくる者も現れたりしていく。そして、ついに自己顕示欲に負けた真犯人が見つかるのである。真犯人は塚田和彦によって心理的に操られていたことがわかるのである。
この物語には、この事件とは直接関係のない他の事故を装った殺人と万引きの少女が登場するが、それらは、人間の心理の闇を表すもので、塚田和彦の人物像をそうしたことで浮かび上がらせるものとして挿入されているのである。
こうした人間を描くところには、強烈な自己意識を必要とする現代社会の中で、自己のリアリティの充足をマスコミが大々的に取り上げる犯罪によって求めようとする衝動があることを鋭く掘り下げる作者の視点がある。
優れた小説は社会の預言的な機能をもつと思うが、実際、この作品が書かれた後の2000年代には、こうした自己のリアリティを求める行動が多出した。病める現代の病める状況が次々と起こったのである。現代人のこの深い問題がミステリーの形を借りた物語として展開されているのである。
直木賞作品となった『理由』も同じであるが、物語の展開の中で宮部みゆきは現代社会が抱えている人間の問題に深く、そして鋭く迫るのである。彼女の作品が通り一遍のスト-りーではなく、人間の問題を、社会的にも心理的にも鋭くえぐったものであるところに、この作家のすごさを感じる。そして、それと同時に全体がさわやかなのである。深刻な話を深刻にすることは比較的平易だが、深刻な話を深くさわやかにできるのは彼女の天分だろうと思う。日常を楽しみ、日常を大事にするという作家の姿勢が一貫していると改めて思う。宮部みゆきは、面白くて意味のある作品を書き続けている。彼女の作品の中の時代小説の中では『孤宿の人』が最高だと、今でも思っている。
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