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2013年4月23日火曜日

高橋義夫『元禄秘曲』


 ようやくまたほんの少し暖かさが戻ってきた。日曜日(21日)は真冬並みの寒さで震えてしまったが、ほっとしている。

 最近、我が家の家電製品が買い替えの時期を迎えているのか、あまりうまく機能しなくなっているのだが、見回してみて、これらはなくても生活できるがあれば便利という類だなあ、と改めて思ったりした。パソコンも、またそろそろ限界に近づいて、買い替えの時期かもしれないとも思う。使っているOSが二時代前のOSである。

 それはともかく、高橋義夫『元禄秘曲』(2009年 文藝春秋社)をあっさりと、しかし面白く読む。高橋義夫は多才な作家だと思っているが、この作品は、「生類憐れみの令」で有名な五代将軍徳川綱吉のころ、1684年(貞享元年)に江戸城中で老中堀田正俊が従叔父に当たる若年寄の稲葉正休(いなば まさやす)に刺殺された事件を背景にして、その後の非遇を受けた堀田家の家臣による抵抗などを盛り込みながら、一人の青年武士の活躍を描いたものである。

 江戸城中での堀田正俊刺殺事件は、今も多くの謎を残したままで、本書でその事件が直接取り扱われるわけではないが、堀田正俊が綱吉の「生類憐れみの令」に反対していたことや、その後幕府の中で権勢を誇っていくようになる柳沢吉保などとの関連で、暗殺陰謀説が出てきたりする。

 ともあれ、本書の主人公は、旗本の次男坊で冷や飯食いである花房百助という青年武士で、彼は兄が家督を継いだ家を出て、本所の石川礫斎の一刀流の剣術道場の内弟子として住み込んで剣術修行をしているのである。彼はその道場で、本所の小天狗と呼ばれるほどの腕をもち、市中で起こる事件に関係したりしていくのだが、彼の師である石川礫斎は、かつては堀田家に仕えた家臣で、堀田家が殿中事件後に移封されたり、減封されたりする中で身を引いて剣術道場を開いていたのである。

 花房百助と並んで大天狗と呼ばれる師範代の古木要蔵も元は堀田家の家臣で、堀田家の没落によって解雇になった家臣たちと、なんとか意趣返しをしたいと望んでいた。堀田家の遺臣たちは、権勢を誇るようになった柳沢吉保が主君の堀田正俊の暗殺を企んだと思い、柳沢吉保を誅しようと企てていたのである。その企てには、医師をしている石川礫斎の弟も関係ししていた。

 そして、花房百助が慕って行くへ不明になっていた叔父も、実は、幕府目付の隠密同心として堀田家の遺臣たちの動きを密かに探っていたりしたのである。

 こうした大筋の展開の中で、女敵討ちやサド・マゾ好みの武家の妻女が殺された事件などが展開されると同時に、花房百助の縁談話や道場の隣家の旗本の娘との恋などが描かれていく。ただ、こうした事件は比較的あっさり片づいていくし、堀田家の遺臣たちの企ても、意趣返しなどを望まない石川礫斎や花房百助の活躍でうまく抑えられていき、流れるように物語が展開されるだけである。狙われている柳沢吉保が放つ刺客による剣術道場の弟子たちへの襲撃なども堀田家の恨みを晴らそうとする古木要蔵の決起を促すものとなっていたりもする、

 しかし、結末で、石川礫斎の弟が、剣によって柳沢吉保を誅するのではなく、事件を物語にしてそれを市中に配布することで、殿中の暗殺事件の真相を人々に知らせようとしたということが述べられて、元禄時代らしい結末の取り方だと思ったりした。

 全体が軽いタッチで描かれており、もう少し人間像が掘り下げられれば(たとえば、火盗改めになる「のっそり十郎」など)とは思うが、これはこれで軽く読めるような展開になっており、個人的には面白く読めた一冊だった。

2013年3月6日水曜日

高橋義夫『ご隠居忍法 不老術』

 温かさに誘われて土中の虫たちが顔を出すという啓蟄も過ぎて、ようやく昨日あたりから春を感じる日々となり、今日は、気温も20度近くまで上がって穏やかに晴れ渡っている。「春は平和にのんびり」が一番似つかわしい。

 ただ、中国からの大気汚染や黄砂が広がって、花粉も大量に飛び、「う~む」と思ったりするし、ちょうど中国で「全人代」が開催され、新たな富国強兵策が打ち出され、富国強兵策が向かう先が帝国主義的侵略であることを思うと、「騒がしい国」を隣に控えて何とも言えない気になったりする。「あげひばり、名のりいで、かたつむり、枝にはひ、神、空に しろしめす、すべて世は 事もなし」とはいかないものだろうか。

 閑話休題。少し軽いものをと思って、高橋義夫『ご隠居忍法 不老術』(2001年 中公文庫)をおもしろく読んだ。これは、『続・ご隠居忍法 黄金谷秘録』として1997年に実業之日本社から出されたものを文庫化したものである。「続」と付いているように、このシリーズの2作目で、このあとに続く『鬼切丸』、『唐船番』、『亡者の鐘』などを既に読んでおり、四十歳の声を聞くとさっさと家督を息子に譲って隠居した元公儀隠密の鹿間狸斎の活躍を描いたもので、中年の悲哀なども盛り込まれて娯楽時代小説のおもしろさがある。

 彼は隠居して、奥州笹野藩(現:山形県米沢市)の五合枡村というところで暮らしているが、「おすえ」という手伝いの娘に手をつけて子どもをもうけ、気の強い実の娘のひんしゅくを買っている人物だが、元公儀お庭番伊賀忍者としての抜群の技量をもっている。当然、薬草などにも詳しく、生薬を作って生計の足しにしたりしている。

 本書では、その彼が男として役に立たなくなり、烏骨鶏の卵などの回春を試みるがうまくいかないところから始まり、ふとしたことから笹野藩領北部で隣藩と接する霧降山での不可解な事件と関わっていくという展開がされている。

 霧降山の麓で、白骨化された人の手首が発見され、なおそのあたりで多数の殺害遺体が発見されたのである。近隣の村々から行くへ不明になった男たちの話も伝わってくる。狸斎の友人で娘の義父である元郡奉行の新野耕民も何事かを秘しているようであり、公儀隠密も関わっているような事件であった。

 霧降山山麓は、その昔、銅山や金山があり、今は廃鉱になってしまっているが、どうやらそこに隠し金があるようで、狸斎は、この事件が隣藩の戸沢藩の奏者番と天領の代官、そして京都の金工が関わって、金の横流しをしていることをようやく突きとめていくのである。

 物語の大筋としてはそれだけだが、五合桝村の祭礼としての相撲取りがあったり、その相撲取りが狸斎を助ける振りをしながら、実は隣藩の奏者番と繋がっていたり、新野耕民が幽閉されたのを助け出したり、天領の代官の悪巧みがあったりするし、真相を突きとめようとする狸斎が襲われたり、様々な事件が勃発していく。その間に、狸斎の回春の苦労が盛り込まれ、なかなかの妙味で物語が展開されていくのである。

 隠し金山を巡る物語では、その多くが最後は金山が爆破されたり、跡形もなく土中に埋没したりする展開になるが、本書も、黄金谷という隠し金の埋蔵地は土砂に埋もれていく。こうした展開は、ひとつの安心感と期待感が交差して、気楽に読める物語となる。気楽に読める一冊だった。

2013年3月2日土曜日

高橋義夫『渤海国の使者』


 昨日は春一番が吹き荒れて、強風の中でも暖かく感じられ、本当に春が近づいて来た、という感じだった。今日は冬型の気圧配置の中で、気温は上がらないものの、以前のように寒さに震えるということはない陽射しがさしている。このところ小さな地震が頻発して、2011年の東日本大震災を思い起こしたりする。どことなく気が重い。

 それはさておき、日本の奈良時代(710794年)に交流があった中国東北部の沿海に位置した渤海国との最初の使節団の活躍を描いた高橋義夫『渤海国の使者』(2003年 廣済堂文庫)を読んだ。高橋義夫は、エンターテイメント性の高い時代小説だけでなく、優れた歴史小説もいくつか書いているが、これもまた、そのひとつである。

 渤海国(698926年)の詳細な歴史は不明なところが多く、主に中国で記された『旧唐書』、『新唐書』や朝鮮の『大金国史』などの周辺の諸国の歴史書による以外にはないのだが、中国東北部(現在はロシア連邦の日本海沿岸地方)で農耕と漁業を行っていた靺鞨族(まっかつぞく)の指導者大祚栄(だいそえい)が、それまで中国東北部の南部から朝鮮半島の北中部までの広範囲な領土をもって治めていた高句麗(紀元前37668年)が唐と朝鮮半島南東部の新羅(しらぎ・しんら)の連合軍によって滅んだことにより、自立を画策して、698年に自立の動きを抑制しようとした唐軍を破って、「震国」を建国したのが始まりとされている。

 唐は、その後も懐柔策を打ち出したり軍事的な圧力をかけたりし、特にこの時代には朝鮮半島全域を治めていた新羅と共同して渤海国に脅威を与えており、唐とは緊迫した状態にあったが、周囲との交易で栄えて、最盛期の領土は朝鮮半島北部からロシアの沿岸にかけての広大なものとなったのである。

 渤海国二代目王の大武芸は、唐から「渤海国王」の冊封(中国の天子が称号や任命書、印章などを授けて名目的な宗属関係を結ぶこと)を受けたが、独立色を強め、唐との関係は常に大きな問題となり、特に隣接した新羅との関係は悪化し、これらを牽制するために日本との交流を求めたのである。

 本書は、その渤海国からの最初の使者として727年に日本海の荒海を越えてやってきた高仁義らの使節の山形漂着から始まる。その時、高仁義らは蝦夷と呼ばれていた人々によって殺され、生き残った高斉徳ほか8名は翌年に聖武天皇に奈良で拝謁し、やがて、引田虫麻呂を頂点にした送渤海客使を派遣して彼らを送り返し、軍事同盟的な交流が始まった。そういう過程を、それぞれ渤海国の高文矩(こうぶんく)と日本側の船人(ふなひと)という二人の人物の深い信頼と友情を描くことで描き出したものである。渤海国との交流は、その後軍事的なものから商業的、文化的なものに変わったが、以後200年ほど続いた。

 渤海国側では、二代目王大武芸の兄弟で唐に渡って親唐派であった高武門との確執や、武芸の子で三代目となった大欽茂(だいきんも)による親唐的な文治政治への転換などの変化が起こっているし、日本では、729年に権勢を誇った長屋王(天武天皇の孫)と藤原家の争いが起こり、藤原不比等の子らが長屋王を自殺に追い込む事件が起こっている。

 こうした事件を織り込みながら、高文矩と船人の妹秋津との恋や新羅側の画策などが展開されて、読み物として面白く読めるように構成されている。渤海国の文化や風習などは、詳細は知られていないが、唐の影響が強く、唐文化を踏襲したものとして描き出されるし、高句麗の住習慣なども取り入れられている。政治は唐の制度を模倣したものであったと言われる。

 それにしても、よくこれだけの物語にまとめたものだと感服する。渤海国は、やがて、907年に唐が滅びたあと、926年に、中央アジアの民族であった契丹に滅ぼされて歴史から姿を消したが、華北人として命脈を保っている。奈良時代について、わたしはあまりに知らなさ過ぎるところがあるが、この時代がわずか84年しかなかったことを改めて思ったりする。

2012年6月29日金曜日

高橋義夫『かげろう飛脚 鬼悠市風信帖』


 めまぐるしく変わる今年の梅雨の天気は、体調の管理がなかなかのところがあるが、雨であれ晴れであれ、日常生活が変わらないというのが現代の生活様式かもしれないと、溜まった仕事を横目にしながら思ったりする。相変わらず、政治も経済も酷い有様だが、能天気に暮らすことにもてる才能を発揮して、明日のことは明日、と決め込んで、今日も一日を過ごしている。

 その中で、高橋義夫『かげろう飛脚 鬼悠市風信帖』(2003年 文藝春秋社)を面白く読んでいた。物語の構成と展開のうまさが光る作品で、主人公は、東北の松ケ岡藩(作者の創作)という小藩で、御家人の中では最も軽格の足軽をしている鬼悠市という鬼のような風貌と巨体を持つ人物である。

 彼は、表向きは決まった役職もなく、竹で鳥籠を作る職人仕事をしているが、風貌に似合わない繊細な彼の鳥籠は江戸や上方でも知られ、藩内では売買が禁じられているものの献上品として用いられたりするほどのものであった。しかし、彼には裏の役目があり、藩の奏者番(藩主への取り次ぎ役で、たとえば江戸幕府内では大目付と並ぶ重職であった)をしている加納正右衛門からの直接の任務を引き受ける、いわば隠密であったのである。

 物語は、この鬼悠市が加納正右衛門から、松ケ岡藩の分家である黒岩藩の元家老を預かり、彼を監視すると同時に保護するという役を言い渡されるところから始まる。鬼悠市は、彼を自宅に隣接している長源寺で預かり、養子としてもらっている少年の柿太郎にその世話を依頼することにする。

 彼が預かった黒岩藩の元家老であった日向杢兵衛は、藩政上の何らかの事情で長預かりの身となったのだが、その日常は穏やかで落ち着き、草花の絵を描いたりする静かなもので、世話をする少年の柿太郎が次第にその人徳に惹かれていくほどのものであった。

 鬼悠市は藩政のことなどに全く関心はないのだが、鬼悠市が日向杢兵衛を預かることを知った上司の足軽組頭の竹熊与一郎がさっそくやってきて、黒岩藩の内情を知らせる。竹熊与一郎は日向杢兵衛がいる長源寺周辺の警護を命じられているのである。もともと二万石弱しかない黒岩藩では、実高が少ない上に不作が続き、収穫が半分も満たなくなったために藩士に半知借上げ(俸給の半分しか出さないこと)をしてもまだ足りずに、あちらこちらで貧窮が続いていた。藩主は、そうした藩の窮乏をよそに公儀の役を次々と引受け、藩は破綻寸前にまで追い込まれていたのである。黒岩藩の御家人たちは、武具や刀まで質入して窮乏をしのいでいたし、領民には一揆の気配も濃厚になっていた。

 日向杢兵衛は、こうした藩の危機を救うために、まず、公儀の役を次々と引き受ける藩主の交代を上訴したのである。しかし、それが不忠不義であるとして免職され、長預かりの身となったのである。そのため、彼を不忠不義者として黒岩藩の血気盛んな若者たちが誅せんとして襲ってくる。鬼悠市は、そうした襲来者から日向杢兵衛を守らなければならなくなるのである。鬼悠市は、屈指の剣の遣い手でもあった。

 人望の厚かった日向杢兵衛が免職され、藩政から排斥されていった影には、黒岩藩の城代家老と本藩である松ケ岡藩の家老の結託による米札の売買に絡んだ私腹を肥やす陰謀が渦巻いていたことが次第に明らかになっていく。黒岩藩では祿米の支給の代わりに米札を出していたが、この米札は額面の三分の一でしか米と引替できず、しかもこの米札を半値で買い取ることで、その差額を懐に入れようとしたのである。この米札のからくりを、鬼悠市は、零落したが平然と生きている米相場師に依頼して探り出していくのである。この零落した米相場師の姿もなかなか魅力的である。

 こうした中で、黒岩藩の城代家老一派から送り込まれてくる刺客との死闘を繰り返しながら、日向杢兵衛を護っていくが、藩の上層部の意向で、日向杢兵衛は捕らえられ、奏者番であった加納正右衛門の改易も行われてしなう事態となってしまう。

 だが、黒岩藩には「かげろう飛脚」と呼ばれる内密の連絡網があり、日向杢兵衛はその「かげろう飛脚」を使って藩政の改革派と連絡を取っており、いよいよの行動を起こす手はずを整えていた。その「かげろう飛脚」とは思いもかけない人物で、その連絡方法も思いがけないものであったが、鬼悠市は、「かげろう飛脚」と共に、日向杢兵衛の意志を伝えるために雪山の中を奔走していくのである。

 日向杢兵衛がとっていた秘策とは、領民の苦渋を知る郡代や家中の御家人すべてが死装束をして登城し、藩主や城代家老の非を改めるというものであった。そして、これが成功して、黒岩藩の一連の騒動が終わり、日向杢兵衛が帰藩し、鬼悠市の日常が戻るのである。

 こうした筋立が、一つ一つの具体的な出来事を通して描き出され、作者の構成のうまさと手法が見事に織り込まれて読み易い展開になっている。

 ただ、個人的な好みをいえば、不遇の状態に置かれても泰然と生きる日向杢兵衛の姿や、彼と接して感化を受けていく少年柿太郎の姿がもう少し描かれて、そこに人格の交流というものが醸し出されていくならば、鬼悠市がこの事件に加担していく姿も、もっと胸を打つのではないかと思ったりした。

 しかし、よく考え抜かれた作品で、面白く読め、ちょっと調べてみたら、これはシリーズ化されているようで、機会があればそれを読んでみたいと思うような作品であった。

2012年3月2日金曜日

高橋義夫『御隠居忍法 鬼切丸』

寒さが戻っているのだが、1923年(大正12年)に百田宗治という人が発表した「どこかで春が生まれてる」という童謡をふと思い起こすような弥生になり、そんな気がしている。「弥生(やよい)」という言葉の響きはとても柔らかい。「弥生」という言葉そのものは草木が生い茂ることをいうのだろうが、よくぞ三月にこの名を付けてくれたものだと感心する。だが、今年はまだまだ寒い。

 閑話休題。時代小説の多くは気楽な娯楽作品として読んでいるのだが、その一つである高橋義夫『御隠居忍法』のシリーズで、『御隠居忍法 鬼切丸』(1999年 実業之日本社 2002年 中公文庫)を、これもまた気楽に読んだ。

 このシリーズは、隠居した鹿間狸斎という元公儀御庭番の伊賀者を主人公にした活劇小説で、隠居して奥州笹野藩(現:山形県米沢市)の五合枡村というところで暮らすようになり、彼が関係する人々の事件や元の上司で御庭番を束ねる人物からの依頼などで、隠居の身とはいえ探索する事件に関わっていく話が展開されているもので、本書では、主に五合枡村や近郊で起こる事件が取り上げられている。

 一話完結形式の連作で、本書には「鬼切丸」、「闇の羅刹」、「地下法門」、「火勢鳥の怪」、「犬抱峠」、「びいどろ天狗」、「ただしい隠居道」、「虎の牙」の八話が収められている。

 「鬼切丸」は、剣術修行中という武士が五合枡村にやってきて、おもだった者をたぶらかして五合枡村に道場を開くと言いはじめるところから始まる。彼は、老人や婦人たちの人受けもよく、「鬼切丸」という伝来の刀を持ち、押し出しも立派だった。鹿間狸斎は、そこにいぶかしさを感じたが、多くの者はころりと騙されてしまう。そして、金をだまし取って逐電するのである。

 この話の結末は、見た目に人受けがよい彼が、実はもと修験者で、里で女犯をおかし、金をだまし取ったことが露見して追われていたことがわかり、彼を追ってきた修験者仲間によって成敗されるというものである。

 「闇の羅刹」の設定は、五合枡村を縄張りにしている岡っ引きの文次のところに柔術使いがやってきて、強い者が好きな文次は彼に肩入れして柔術の稽古を子分たちにさせるようになるというものである。だが、その男は幼児を犯して殺すことに快感を覚える人間で、被害者が出る。鹿間狸斎は男の正体を見抜き、対峙して捕らえるのである。

 「地下法門」は、文次の女房で五合枡村の近くの大黒湊で旅籠の雁金屋を切り盛りする「おきみ」と古道具屋の婆さんが突然いなくなり、怪しげな宗教に取り込まれているのを狸斎が助け出していく話である。古道具屋の婆さんの遺体が川から上がったことから、二人が同じ村の出身で、その寒村で怪しげな宗教でその村の住人たちを取り込んでいるという出来事が起こっていたのである。

 「火勢鳥の怪」は、大黒湊の薪炭問屋の真木屋でぼや騒ぎがあり、その火付けと思われる男が、藁の編物を頭からかぶって騒ぎ廻るという行事の格好をして自死しているのが発見され、その事件の真相を探るという話である。狸斎の見分で、その男が自死ではなく殺されたことが判り、薪炭問屋の真木屋も何者かに大金を脅し取られていることがわかっていく。どうやら仕入れている炭のことで揉め事が起こっているらしいということで、狸斎は、炭の産地である蕨沢村まで出かけていくことにするのである。

 そこには、かつて飢饉の時に搗き米屋が襲われ、その責任を捕らされた隣村の加津木村の肝煎りの三男が、修行を積んで不動坊と名乗る男となって帰って来て、蕨沢村の村人たちにいうことを聞かなければ呪い殺すと脅して寄進を強要しているという出来事が背景としてあったのである。

 狸斎はその男と対峙し、男は身につけていた藁に火がついて自ら焼死する。呪術というのが信じられていたので、それを利用して村を乗っ取るという出来事が起こるが、結局は自滅を招くという話である。

 「犬抱峠」は、岡っ引きの文次がほおけたように帰って来て、その理由が犬抱峠の山伏に襲われたことがわかり、犬抱峠のある合ノ海という寒村に狸斎がでかけ、そこで、合ノ海村にかつてあった砦の跡を使って独立を企む出来事にあうという話である。

 「びいどろ天狗」は、金箱の封印を巧妙に仕掛けて大金を盗む「びいどろ天狗」という泥棒を捕まえる話で、利用される人間の悲哀が盛り込まれている。

 「ただしい隠居道」と「虎の牙」は、鹿間狸斎が江戸に出かけていき、かつての上司から行くへ不明になっている隠密の捜査を依頼されたり、昔の俳句仲間が非道な旗本に殺されたことを暴いて仇を討ったりする話である。

 これらの物語そのものは、事件が比較的あっさりとかたづけられて、主人公の活躍が光ると同時に、隠居して女中に手をつけて子どもまで作ってしまった主人公の苦労などが描かれていて、それなりに軽妙で面白く読める。少しあっさり過ぎるというきらいはあり、娯楽時代小説と言ってしまえばそれまでだが、村でなんとか糊口をしのぎながら、しかも頼りにされて隠居生活を送るという、いってみれば羨ましい生活をする姿が面白く描かれているのである。しかし、主人公の生活は何とも騒がしい隠居生活ではある。隠居できるだけまだましかもしれないが。

2011年12月23日金曜日

高橋義夫『亡者の鐘 御隠居忍法』

寒波の襲来した冬らしい寒い曇り空が広がっている。昨日は冬至で、これから徐々に日中の時間が長くなっていくのだが、「地球は何もかも乗せて巡るなあ」と思ったりする。静かに時が流れていくのをぼんやり眺めていた。北朝鮮での指導者の死も、行き交う人たちも自分の「実存」にはかすかな意味しかもたらさないので、目くじらを立てて騒動することもなく、再び、ひたすら日常の自己満足に向かっていくのも悪くないと思っている。結局は、自分が満足できるかどうか、それが自己の関心事であってもよい。

 そんなことを考えながら夜を過ごし、高橋義夫『亡者の鐘 御隠居忍法』(2006年 中央公論社)を気楽に読んだ。これは、このシリーズの五作品目の作品だが、一話完結の形で記されているので、前作を知らなくても気楽に読めるが、四作目の『御隠居忍法 唐船番』(2002年 実業之日本社)を以前に読んでいた。出版社が変わっているので表題の表記の仕方が変えてあるのだろう。

 主人公は、鹿間狸斎という元公儀御庭番の伊賀者で、四十歳の声を聞くとさっさと家督を息子に譲り、隠居して、嫁いだ娘が住む奥州笹野藩(現:山形県米沢市)の五合枡村というところで暮らすようになった人物である。隠居といってもまだ四十歳代で、知力も気力もあり、伊賀者として身につけた探索力と手腕もある。彼が隠居すると同時に、彼の妻は彼の元を去ったが、五合枡村で「おすえ」という手伝いの女性との間に子どももできている。ある意味で羨ましい境遇ではある。

 このシリーズは、その鹿間狸斎が関係する人々の事件や元の上司で御庭番を束ねる人物からの依頼などで、隠居の身とはいえ探索する事件に関わっていく話が展開されているのだが、本書では、彼が住む五合枡村の近くの天領であった小板橋郷の奥寺で住持学頭(寺の総責任者)が鐘つき堂の釣り鐘の下敷きになって死に、それ以来、その奥寺の時の鐘が「亡者の鐘」と呼ばれるようになったことから、その噂の真相と住持学頭の死の真相を探っていく話である。

奥寺の住持学頭の死についての探索のために幕府から靑山俊蔵という侍が遣わされることになり、鹿間狸斎に、狸斎の上司であった御庭番頭からの添書をつけての助力の依頼があったことから、狸斎が靑山俊蔵に同行して小板橋郷まで出かけていく所から始まるのである。

 死んだ住持学頭の奥寺は、江戸の東叡山が直轄する寺で、東叡山寛永寺が徳川家の菩提寺であり、奥寺での事件は幕府にとっても大きな事件だったのである。派遣されてきた靑山俊蔵は、自分は算学侍だというが、どうも御庭番のひとりらしい。

 その靑山俊蔵とともに狸斎は、医者で冬虫夏草を探しているという触れ込みで奥寺まで出かけ、奥寺の住持学頭が鐘の下敷きで死んだのではなく、殺されたことを見抜いていくが、奥寺の村民全部が彼らの探索の邪魔をし、命さえ狙おうとするのである。奥寺の住民全部が外からの介入を阻止しようとしているのである。

 そんな中で探索に出た靑山俊蔵も崖から落とされて怪我をしたり、矢を射かけられたりするし、同行した岡っ引きの手下も怪我をしてしまう。だが、鹿間狸斎は探索を続け、この村が昔の「隠れ忍びの里」で、殺された住持学頭が江戸から奥寺の財政改革のためにやってきて、末寺の寺領を取り上げる策に出たために、末寺と村民たちが刺客を放って住持学頭を殺したことを突きとめていくのである。

 全体を通してみれば、主人公の鹿間狸斎は、隠居とはいえまだ40代の若さであり、しかも公儀御庭番として鍛え抜かれた技量と知識があり、彼が関わる事件が、人の欲が絡んだ財政問題、あるいはお家騒動であったりするという展開は、まあ、いってみれば気慰めの娯楽小説としての面白さがある。

 地方色の豊かさや村の閉鎖性などがよく表されている。村が閉鎖されているだけに人間関係が複雑にならざるを得ず、わたしのようなボヘミアン的志向の強い人間には、その人間関係に縛られている姿が不思議に思えたりする。嫌ならさっさと出て行き、そうして野垂れ死にしても良いと、今のわたしは思っている。物語の本筋とは無関係だが、本書の犯人のひとりが即身仏なる場面が描かれているが、若いころに野ざらしの中で餓死することを考えていたことを、ふと思い出したりした。

 村を守る、あるいは国を守る、家を守るという意識の強烈さはよく知っているが、守るべきものはあまりないと思っているから、そういう意識が下敷きになっている人々に会うと、わたしも閉口してしまう。思想的なことをいえば、この物語は閉鎖性と開放性の戦いの物語のようなものだろう。

2011年11月23日水曜日

高橋義夫『メリケンざむらい』

今日はよく晴れていて、澄みきった碧空が広がっている。日毎に寒さが強く感じられるようになってきてはいるが、今日のような素敵な天気の休日にはぶらぶらと近所を歩くのも悪くはない。花屋の店先では、シクラメンやポインセチアが色鮮やかに並べられ、苦労の多かったこの一年にも慰めを与えてくれている。

 前回、現在の五千円札にも肖像が描かれている明治初期の極めて優れた作家である樋口一葉を描いた出久根達郎『萩のしずく』を読んだが、続いて、歴史上の人物である米田桂次郎(こめだ けいじろう)を描いた高橋義夫『メリケンざむらい』(1990年 講談社 1994年 講談社文庫)を、かなり面白く読んだ。面白いというよりも、むしろ、この人の人生の悲哀のようなものを感じながら読み、作品はその悲哀がどことなく漂うような見事な仕上がりとなっている。

 米田桂次郎(1843-1917年)という人は、幕末から明治にかけて、一種の「西洋かぶれ」のようにして生きた人であるが、一言で言えば、トミーと呼ばれ人気を博し、幕末期の幕府の中で抜群の語学力で通詞(通訳)として活躍したが、深い挫折を経験した人であった。その概略を記すと以下のようになり、本書も彼の人生を追うようにして記されていて、それが本書の内容ともなっているので、少し詳細に記しておこう。もちろん、作家としての優れた視点と描き方が本書には十分ある。

 米田桂次郎は、天保14年(1843年)に江戸小石川の旗本小花和庄助(度正-のりまさ)の次男として生まれたが、病弱のために出生届けが幕府に出されておらず、彼が3歳の頃、病弱を理由に松戸の豪農であった横尾金蔵方に里子に出され、横尾為八と呼ばれた。そして、母方の実家である米田家に継嗣がいなかったことから、米田家へ引き取られ米田猪一郎の養子となった。10歳のころではなかったかと思われるし、喘息の持病があった。やがて、11歳の時に、米田家の叔父で幕府のオランダ語通詞の立石得十郎のもとで語学を学び、下田で森山栄之助から英語を学んだ。その頃から江戸幕府はオランダ以上に英語の必要性を認識し始めており、桂次郎は、叔父の立石得十郎を通じて、安政4年(1857年)にアメリカ総領事ハリスや通訳のヒュースケンから英語を学んだといわれている。桂次郎の人生にとって、叔父の立石得十郎の存在は極めて大きいものとなるのである。

 安政2年(1855年)には江戸では安政の大地震が起こっているが、下田にいた米田桂次郎はその混乱を免れ、1858年にハリスが下田から江戸へ移住したのを機に長崎へさらなる英語の習得に行っている。長崎には姉の寿賀とその夫がいて、彼の面倒を見た。長崎の英語伝習所に入学したが、彼の英語のレベルは相当に高く、生徒というよりは助教のような働きまでしていたといわれる。

 1859年に江戸幕府は、長崎に加えて横浜と函館の三港を開港し貿易を許可せざるを得なかったが、それにともない英語の通詞(通訳)が必要となり、長崎の英語伝習所で卓越した英語力を持った桂次郎を呼び戻し、横浜運上所(税関)の通詞見習いとして採用した。若干16歳で、見習い通詞ではあったが幕府の役をもらうというのは格段の出世であったといえるだろう。そして、翌年の安政7年(1860年)、江戸幕府は日米修好通商条約の批准書交換の為に遣米使節派遣を検討し、桂次郎は叔父の立石得十郎の養子となって立石斧次郎と改名し、使節団の随行を許されるのである。この遣米使節団に勝海舟や福沢諭吉らが咸臨丸で同行したのである。

 養父の立石得十郎は、斧次郎(桂次郎)のことを幼名の為八から「タメ、タメ」と呼んでいたことから、彼はアメリカ人に「トミー」と呼ばれ、親しまれて可愛がられ、米国では熱烈な歓迎を受けた。16歳の少年であり、下ぶくれのぽっちゃりした顔立ちをしていた釜次郎は、持ち前の豊かな好奇心と物怖じしない明るい性格も幸いし、巧みな英語を語ることから、「トミー、トミー」と親しまれて、アメリカの婦人たちからもてはやされた。「トミーポルカ」という彼を讃える歌まで作られている。おそらく、それが彼の人生の絶頂期だったと言えるだろう。米国での桂次郎の歓迎ぶりは、彼を有頂天にさせ、以後彼はその熱烈に歓迎された経験をずっと抱いて生きることになるのである。

 帰国後、彼は暗殺されたヒュースケンに代わり、ハリスの通訳として勤め、18歳から20歳まで幕府の開成所の教授職並出役になり、田辺太一(フランス語通訳)や益田孝(後の三井物産社長)、福沢諭吉らと親交をもちながら、下谷七軒町の自宅で英語塾を開き、英語以外は話すことを禁止した教育を行ったている。彼の「西洋かぶれ」ぶりは相当なもので、時にはひんしゅくを買ったりしているが、他人を見下したようなところがあり、決して好意的には見られなかったといわれる。彼の少年のころの絶頂期の経験が次第に禍しはじめたのだろうと思う。また、19歳の時に妻の「照」との間に長男をもうけるが、家庭を顧みるようなことはほとんどなかった。そして、20歳の時に実兄の小花和重太郎によって幕府に「弟丈夫届け」が出され、名を米田桂次郎と改めた。

 慶応元年(1865年)には、長州征伐に向かう将軍徳川家茂に随行し、大阪城では通詞として活躍するが、慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いの時に、実兄の小花和重太郎と共に将軍徳川慶喜に随行して海陽丸で大阪を脱出して江戸へ帰っている。その後、兄の重太郎と共に大鳥圭介率いる旧幕府軍に合流して薩長軍と戦い、宇都宮で兄の重太郎が死亡し、次いで大桑の戦いで太ももに貫通銃創を負うが、大鳥圭介と共に仙台へ脱出して、堪能であった英語を駆使して旧幕府軍の武器の調達のために上海に渡る。だが、時代と状況は一気に動き、桂次郎は、武器の調達を断念し、明治2年頃(1869年)に帰国した。しかし、新政府から旧幕府軍の隊長として賞金首の人相書きが廻っていたために、父の小花和度正は小花和家の先祖で上州長野原箕輪城主であった長野姓を名乗らせ「長野桂次郎」と改名し、慶応義塾の福沢諭吉の推薦で金沢の英学校に英語教員の職を得る。だがそれを一年で切り上げ、翌年、政府の筆頭書記官の田辺太一の強い推薦で岩倉具視、大久保利通、木戸孝允等岩倉使節団に二等書記官の肩書きで通訳として随行することになり、明治政府から帰京命令を受けた。

 米田桂次郎はアメリカへの夢が捨てきれず、12年前の少年時代のような熱烈歓迎を期待していたが、現状は変わっており、大した活躍も出来ないままに二等書記官の職を解任され、工部七等出仕に格下げされた。格下げの理由として、アメリカへ向かう船内で無礼な振る舞いをしたと言いがかりをつけられ船中裁判にかけられた為だとも言われている。本書では、同行した女性たちにダンスを教えようとしたことが、今でいうセクシャルハラスメントに当たるものだということで船中裁判にかけられたことになっている。帰国後も政府の官吏として働くが、明治10年(1877年)に工部省鉱山寮が廃止になって失業する。ある意味で、栄華を極めてきたが34歳で路頭に迷うことになるのである。

 失業した桂次郎は、かつての旧幕府軍が夢と描いた北海道開拓を志し、家族を連れて北海道石狩へ移住し、缶詰事業を興すが失敗し、家族で開拓に従事するが厳しく、やがてすべての収入の道が閉ざされて帰京し、明治20年(1887年-44歳)の時にハワイ移民監督官となってハワイ王国に移住した。しかし、そこでも生活が困窮して、わずか一年で帰国し、二度目の妻の「おわか」の実家からの援助で酒屋を営み生計を立てていた。明治24年(1891年-47歳)の時に、ようやく大阪控訴院に招かれ、桂次郎は、単身赴任をし、官舎に雪という女性と暮らしている。その間に妻の「おわか」が死去するが、明治42年(1909年-66歳)まで勤めている。、そして、退官した後に西伊豆の戸田村に買ってあった家で余生を送り、世話をしていた雪を呼び寄せて再婚し、静かな余生のうちに大正6年(1917年)に77歳で死去した。

 米田桂次郎の晩年は、西伊豆の戸田村で、妻の雪と愛犬(ラブラドール)とで暮らす静かなものだったようであるが、激動する時代の中で翻弄され続けた人生だったと言えるかも知れない。彼はこの晩年に洗礼を受けてクリスチャンになっている。

 「時流」という言葉がある。それに乗るときもあれば、押し流されるときもある。利発で明るく、才気あふれる少年だった米田桂次郎は、まさに時流に乗って活躍し、やがて、時流に押し流されて人生を送り続けた人だったと言える気がする。政治や社会の状況に翻弄されたとも言える。

 本書の中心は、彼が「トミー」と呼ばれた絶頂期と戊辰戦争に巻き込まれていく姿であり、ちょっとしたことで死を免れるが、「死に損なった者」の没落をたどり、やがてすべてが終わったようにして静かに人生を終えていく姿である。多かれ少なかれ、明治初期の知識人たちは「西洋かぶれ」であり、第二次世界大戦後もそれが繰り返されたが、米田桂次郎は、そういう「知識人」の先駆けだったとも言えるであろう。知識人は、その知識の故にともすれば状況に振り回されやすい。米田桂次郎という人の人生を考えるとき、そんな思いがふつふつと湧いてしまう。

 歴史小説というのは、作者が取り扱う人物をどのような視点で見ているかで内容が異なってくるが、作者が米田桂次郎に注いでいる視線は、温かい。そんなことを感じながら、この作品を読み終わった。

2011年8月15日月曜日

高橋義夫『御隠居忍法 唐船番』

 昨夜、陽が沈むと共に東の空にぽっかり浮かんだ丸い月をぼんやり眺めていた。気温が高いので蒼く澄み渡るような月光ではなかったが、黄白色の月は宇宙の孤独を感じさせるには充分だった。

 その月光の中で半分眠りながら、高橋義夫『御隠居忍法 唐船番』(2002年 実業之日本社)を読んでいた。これはシリーズ物の一冊で、1995年から201年までで7冊の作品が出されているうちの4作目にあたるが、ほかの作品はまだ読んでいない。だが、おおよその構成はわかる。

 主人公の鹿間狸斎(名は理助、狸斎は号)は、元公儀御庭番の伊賀者で、四十歳の声を聞くとさっさと家督を息子に譲り、隠居して、嫁いだ娘が嫁ぎ先の国元に行ったことから娘が住む奥州笹野藩(現:山形県米沢市)の五合枡村というところで暮らすようになった。隠居といってもまだ四十歳で、知力も気力もあり、伊賀者として身につけた探索力と手腕もある。彼が隠居すると同時に、彼の妻は彼の元を去ったが、五合枡村で「おすえ」という手伝いの女性との間に子どももでき、そのことで笹野藩士のところに嫁いでいる娘と一悶着あったらしい。

 娘の嫁ぎ先の義父は、笹野藩郡奉行を務めたこともある新野耕民で、主人公の鹿間狸斎とは俳句仲間の友人であり、物語では、この二人の隠居が活躍していくのである。

 本書では、久しぶりに江戸に出てきた鹿間狸斎が元の同僚たちである公儀御広敷御庭番を挨拶に訪ねる。そこで、組頭であった者から、数年前に羽後(秋田県)に探索に出て、現地で病死したと届けられている御庭番の一人が残した符丁が少し前に見つかり、もしかしたら生きているかもしれないから、その生死を確かめて欲しいと依頼される。

 彼はその依頼を受けて、羽後の久保田藩へと向かうことにする。その道中に娘の義父であり友人である新野耕民も病後回復のためにということで同行し、秋田の汐越に向かう途中で、行くへ不明の兄を捜し出そうとする女武芸者の青田志満と出会う。

 行くへを絶った御庭番が汐越に足跡を残していたことから、鹿間狸斎はまずそこで探索を始め、御庭番の失踪にはどうも松前渡りの船によるロシアとの抜け荷(道貿易)が絡んでいるらしいことがわかっていく。だが、汐越ではあまり明確な手がかりがないまま、狸斎は汐越から本庄へ向かい、そのあたりから狸斎を狙う者たちにつけ回されるようになる。そして、幾たびかの修羅場を切り抜けなければならないようになる。船頭宿や本庄藩の金蔵といわれる角屋という廻船問屋が怪しい。同行となった青田志満の兄も角屋で行くへがわからなくなている。どうやら彼女の兄も抜け荷に絡んでいるらしい。そういうことが徐々にわかっていくのである。

 彼らはさらに久保田へ向かう。そして、途中の船で海賊に襲われたりしながら津軽との国境にある能代へ向かうことになる。能代にも本庄の角屋の親戚筋の角屋があり、さらに骨董品や珍しい品を扱う宮腰という店があり、その宮腰という店が黒幕であることがわかっていく。志満の兄が足を洗おうとして殺され、海賊を装った一大抜け荷(密貿易)組織について語るのである。

 鹿間狸斎は、海賊の女を捕らえたり、殺された志満の兄の女房とその兄から事情を聞いたりして、海賊の根城が津軽との国境近くの山中にあることを突きとめ、単身でそこに乗り込んでいく。だが、捕らえられて殺されかけるところを唐船番と呼ばれる公儀隠密に助けられて抜け荷の首魁である海賊一味を打ち倒していくのである。海賊たちは山中で芥子を栽培し、阿片を作って、それでロシアとの密貿易
を図り、莫大な利益を得ていた。そして、その海賊の首魁は、実は、生死を確かめようとした元公儀御庭番であったのである。

 この物語は、いわば、羽後(秋田県)を巡る冒険活劇譚である。ただ、細かな物語が若干錯綜したところがあって羽後(秋田県)全体を網羅している抜け荷(密貿易)一味組織の実体が掴みにくいことと、探していた元公儀御庭番が黒幕であるという結末が比較的ありきたりのような気もする。これだけ大がかりな組織を造り上げる人物が阿片中毒であるというのも、なんとなく劇的すぎる気がしないでもない。豪商たちの強欲ぶりがもう少し描かれてもいいような気がするのである。

 しかし、隠居した中年が思うままに生きて、思うままに活躍し、活劇を繰り返していくというのは、娯楽小説としてのおもしろさを備えた作品だと思っている。あっさりと読める冒険譚であることは間違いない。

2011年8月8日月曜日

高橋義夫『江戸鬼灯』

 焦がすような陽射しが照りつけ、うだる夏の暑さが戻ってきた。湿度もかなりあって戸外でちょっと体を動かすだけで汗が滴る。やはり、夏は何もしないで休むに限る、と思ったりする。

 週末にかけて、高橋義夫『江戸鬼灯(えどほおずき)』(1998年 廣済堂出版)を、かなり時間をかけて読んだ。江戸時代の文化・文政から天保にかけて、紫式部の『源氏物語』を下敷きにした『偐紫田舎源氏』(にせむらさきいなかげんじ)で流行作家となった柳亭種彦(りゅうていたねひこ-1783-1842年)が作家として名をなしていく過程を描いたもので、病弱な御家人の息子として生まれ、狂歌や歌舞伎に懲り、古典文学の研鑽を積みながら作品を書いていく姿がいくつかの色合いをもたせながら綴られていくので、かなり味わい深い作品だった。

 柳亭種彦(高屋彦四郎)は、二百俵の旗本の家に生まれ、病弱だったためか武芸にはいっさい関心がなく、少年の頃から漢籍などに親しみ、歌舞伎や浄瑠璃を好んで井原西鶴や近松門左衛門に傾倒し、狂歌や国学などを学んでいった人で、当時の小普請(無役)の旗本・御家人は、たいていは、金はないが暇だけはうんざりするほどあって、武を頼んで放蕩無頼をするか、狂歌や三味線、唄、浄瑠璃などの遊芸に精を出すかのどちらかだった。

 少年の頃から漢籍に親しみ、古典文学や狂歌、俳句を学んできて考証を重ね、性格的に真面目な柳亭種彦が、やがて文学の世界で身を立てたいと望んだのは、彼の自然な成り行きだっただろう。そのあたりについて、高橋義夫は「何かを書き、版木に刷って世に問いたいという気持ちが年をおって強いものになる。それがなにか、狂歌、狂詩、狂文か、あるいは随筆、考証のたぐいか、自分にもはっきりわからなかった。ともかく、なにかを世に問いたい。ここに高屋彦四郎ありと、世に訴えたいのである」(15ページ)と適切に述べている。

 この作品では、こうした柳亭種彦の姿を、武士を捨てて高利貸しになった友人の「豆彦」や、女遊びが過ぎて旗本から三味線芸人になった「好也」、小普請の境遇から何とか脱しようとする隣人、そして、彼の妻の勝子や浮気相手の「りく」などの姿を交えながら描き出すし、当時の江戸の文壇ともいうべき烏亭焉馬や山東京伝、滝沢馬琴、そして絵師の葛飾北斎、歌川国貞らとの交流、版元との関係なども丹念に描かれている。そこには、世相の息苦しさの中で巧みに政治の弾圧をかいくぐりながら作品を発表していく反骨精神もある。

 柳亭種彦は、やがて彼の『田舎源氏』が大奥の内密を暴くものであるとの言いがかりをつけられて天保の改革の時に水野忠邦によって弾圧を受けるが、本書は、彼が作家として発心し、やがてその作品が流行作品となっていき、次々と作品を発表していくところまでを描いたものである。

 それにしても、この時代の文人たちの洒落っ気にはつくづく感心する。1787-1793年に松平定信が行った寛政の改革で手鎖の刑を受けた山東京伝が出した書物の題名は『手前勝手御存知商売物(てまえがってごぞんじのしょうばいもの)』というのや『江戸生艶気蒲焼(えどうまれうわきのかばやき)』というものだったり、柳亭種彦を世に出した烏亭焉馬(江戸の落語の中興の祖といわれる立川談州楼)の別号は「桃栗山人柿発斎(ももくりさんじんかきはっさい)」だったりする。この時代の狂歌をした文人たちの名前も洒落ている。

 こういう粋で洒落た姿は、今ではもう廃れてしまったのが何とも残念で、「遊び心」の質が変わって、今では「遊び心」も大らかさがない気がする。今では、自己主張ばかりが謳歌されすぎるきらいがある。「遊び心」には、「どうせたいしたことはない」という自戒があって、江戸時代の戯作者たちの姿を見ると、文学に限らず、芸術には「遊び心」があったほうがよいように思ったりするのである。

2011年6月27日月曜日

高橋義夫『花輪大八湯守り日記 若草姫』

 台風で押し上げられていた梅雨前線が再び南下して雨が降りしきる日になった。梅雨らしい天気といえば梅雨らしいのだが、少々うんざりしないわけではない。人の感情や精神というのは勝手なもので、気分次第というところがあり、論語の「而して小人ここに乱る」の「小人」に成り果ててしまうところがある。人というのは、思った以上に非論理的な存在なのだから、こういう季節には「気分を変える」ということが大事かもしれない。温泉にでも行こうか、と思ったりする。

 昨日はなんだか疲れを覚えて夕方からずっと寝て、夜中に目が覚めて、それから食事を作り、シャワーを浴びたりしていたら眠れなくなって、こういう時は軽い読み物でもと思って、高橋義夫『花輪大八湯守り日記 若草姫』(2005年 中央公論新社)を読み続けた。

 これはこのシリーズの『湯けむり浄土』(2004年 中央公論新社)に続く二作目で、この後に三作目の『艶福地獄』(2009年 中公文庫)が続いており、主人公が生一本の素朴さと剛胆さを兼ね備えた大らかなところがあって、ある種の爽快さを醸し出していくので、比較的軽く読み飛ばせて面白く読んできた作品のひとつである。

 シリーズの基本的な構成は、前にも記したが、出羽の新庄藩(現:山形県新庄市)で次男の部屋住みであった主人公の花輪大八が、私闘の責任を負う形で勘当され、日本有数の豪雪地帯で知られる山深い肘折温泉(ひじおれおんせん)の湯守りとなり、そこでの人々との交わりを通じて、湯治客などが持ち込む事件などに関わって、時にそれが新庄藩全体を巻き込むものであったりする出来事を解決していく顛末を描くもので、本書でも、肘折温泉に湯治客としてきた藩の子女が、新庄藩を二分する内紛に関わる者であることから、花輪大八もその内紛に関わらざるを得なくなっていく展開になっている。

 豪雪のために閉ざされたようになっている肘折温泉に、雪を分けて二人の武家の女性が湯治にやってきた。やがて、その付き人が殺されるという事件が起こった。そして、肘折温泉を守る湯守りとして事情を調べていた花輪大八は二人の武家の女性から、もし自分たちに万一のことがあるときは、城下の藩士に届けて欲しいという「若草ものかたり」という草紙本を預かることになる。

 ところが付き人殺しの犯人がわかってしまうと、犯人は武家の女性の実家から送られてきた護衛役で、殺された付き人は女性の婚家からきていた監視役ということで、女性の実家と婚家の間で争いごとがあり、その争いが実は藩の実権を内分するような争いであったことがわかっていくのである。女性は両方の争いの要の立場に立っていたのである。

 その大筋の中で、新庄藩にあった剣術道場の道場破りをした剣の修行者が湯治にやってきたことから、遺恨のために追いかけてきた剣術道場と道場破りをした者との争い、それに新庄藩にあったふたつ剣術道場の争いが絡み、さらにそれが藩の実権を巡る争いに絡んでいくということがあったり、病に蝕まれて湯治にやってきた手品師が死を迎えるということがあったりして、事柄が輻湊していく。

 そういう中で、花輪大八は、湯治場を守り、また湯治客を守るという立場を貫きながら、藩の内紛に彼の兄も巻き込まれていたことから、事件の収束に当たっていくのである。

 物語そのものは、読み物として特別なことではないが、世間と隔絶したようなのんびりした湯治場の雰囲気と、それに合うかのような主人公のあまり物事に拘らない大らかさがあり、その中に外の世界の人の欲望と思惑が突入し、「人の生活を守る」ということに徹することでその思惑を解決して退けるという展開に絶妙なところがある。

 ただ、欲を言えば、主筋の展開の中にいくつかの話が挿入され、それぞれが絡んではいるが、それぞれに独立した話でもあり、いつの間にか主筋が疎くなってく所があって、若干の散漫さが残念な気もする。もちろん、人の生活というのはそんな風に織りなされていくわけだから、それがリアルであるといえばリアルなのだが、物語として読む方は、途中でどこか待たせられているという気になったりする。表題の「若草姫」からすれば、もう少し事件の要となった武家の女性と主人公の絡みがあっても面白いのではないかと思ったりする。その意味では、このシリーズはやはり三作目の『艶福地獄』が一番面白かった。

 今日は午後からもいくつか予定があって、疲れが抜けきれないままに過ごしているが、こんな日はろくな仕事はできないだろう。

2011年6月16日木曜日

高橋義夫『天保世なおし廻状』

 梅雨の隙間のようにして時折晴れ間が見え隠れする日になったので、洗濯をしたりした。九州地方では今日からまた大雨とのことで、九州の親しい人たちのことを案じたりしている。このところ就寝時間が夜中の3時過ぎになることが多く、いささか睡眠不足なのだろう身体が気怠いが、日常的には変わりはない。

 二日ほどをかけて高橋義夫『天保世なおし廻状』(2001年 新潮社)を読んだ。これは江戸末期の天保年間(1830-1843年)に起こった大塩平八郎の乱(1837年)と蛮社の獄(1839年)、老中水野忠邦による天保の改革などの激動する社会の姿を、1833年に大阪西町奉行となり元与力であった大塩平八郎の意見に耳を傾け、さらに、1841年に江戸南町奉行となって水野忠邦の改革に反対した矢部定謙(やべ さだのり・・1789-1842年)を中心にして描き出そうとしたもので、それを大塩平八郎の乱に荷担した庶民の側の仙吉という人物と矢部定謙の用人の狩野晋助という人物の二人を主人公にして、物語として見事に展開した作品である。

 ちなみに、矢部定謙は水野忠邦と政治上の対立をしたために、南町奉行の座を狙っていた鳥居耀蔵につけ狙われて、言いがかりのようにして、鳥居耀蔵の策謀によって南町奉行を罷免され、桑名藩の預かりとなったが、自ら絶食して非業の死を遂げている。ただ、水野忠邦と鳥居耀蔵は矢部定謙をおとしめたが、彼の死の翌年に、改革の失敗と不正を理由に共に罷免されている。策謀がいかに愚かであることかの典型のようなものである。

 江戸時代の天保年間は、社会の不安定さが急激に露呈しはじめてきた時代であった。以後、幕藩体制が揺らぎ始め、徳川幕府は急速に崩壊の道を辿っていくことになるが、まず、天保元年(1830年)に水戸藩主であった徳川斉昭の幕政批判が公になり、水戸や薩摩で藩政改革が起こっている。京都では大地震があり、1500人以上の死傷者が出ているが、社会体制の地盤が大きく揺らぎ始めていたのである。

 1833年あたりから天候不順で水害や冷害によって全国的な凶作が始まり、1836年から1837年にかけての大飢饉となって各地で大多数の餓死者が出、米価を初めとする諸物価が高騰し、百姓一揆が頻発し、農民の都市流入によって打ち壊しなどが相継いだ。他方では、「オットセイ将軍」と異名をとる徳川家斉の贅沢三昧と閨房による権力争い、収賄が大手を振ってまかり通っており、政治は腐敗の一途をたどっていた。逼迫した幕府の財政再建のために貨幣の改悪が重ねられ、それによって諸物価はさらに高騰し、社会的格差ははなはだしいものとなった。ちなみに、徳川家斉は、1837年に将軍職を家慶に譲るが、1841年に死去するまで大御所として幕政の実権を握り、家斉の側近たちによる政治が続いている。

 うち続く飢饉によって窮乏を極めた庶民の実情と収賄によって私腹を肥やしていくような腐敗した政治に見かねて、1837年2月に大塩平八郎が「救民」の旗を掲げて大阪で乱を起こし、ロシア船の蝦夷地侵入やモリソン号事件に見られるような諸外国からの脅威(これには中国でのアヘン戦争の影も大きい)など、内的にも外的にも危機感を募らせる状況が続いたのである。

 1838、1839年と江戸での大火が続く中で、水野忠邦の腹心で目付であった鳥居耀蔵の策謀によって蘭学者の渡辺崋山や高野長英が捕縛されるという蛮社の獄が起こり、1841年に徳川家斉が死去するやいなや、あらゆる贅沢が禁止され、価格が統制され、旗本や御家人の貸付金を帳消しにする棄損令が出され、貨幣の鋳造が行われた。そして、それらによって消費が押さえ込まれて流通経済の混乱に拍車がかけられ、不況が蔓延する状態を招いてしまったのである。

 つまり、天保年間というのは、一方では権力争いを巡る政治の暗躍が盛んになると同時に、他方では、普通の人々が生きることさえ困り果てたり、困窮を極めたりする状態が続いた時代であり、社会的危機が増大した時代だったのである。やがて27~28年後に、江戸幕府は崩壊する。

 こうした事柄を背景にして、大塩平八郎の乱の時に大塩側についていた仙吉という正義感の強い渡世人が、大塩平八郎から矢部定謙あての密書を預かり、大阪から江戸に向かう途中で、その密書を奪われるというところから物語が始まる。仙吉は山中で数人の侍に襲われて密書を失ってしまうのである。

 そして、密書を失った仙吉が矢部定謙の用人である狩野晋助に会い、狩野晋助は主人である矢部定謙を守るために善後策を講じていく。仙吉は大阪で親しくしていた講釈師(講談師)の西流斎吐月が住む達磨長屋という貧乏長屋に吐月の弟子という触れ込みで身を隠し、裏店での生活を始めながら吐月がたい金をだまし取られた詐欺事件の解決などに関わっていく。その長屋にお咲という娘が住んでいた。お咲は、姉のお芳とその亭主と一緒に生活していたが、姉の亭主によって手籠めにされ、姉の亭主を刺し殺してしまう。姉のお芳はお咲の罪を一身に引き受け、亭主を刺し殺した毒婦として処刑される。仙吉もまた吐月が巻き込まれた詐欺事件で相手を殺し、仙吉とお咲は逃亡することになる。

 身寄りがなくなり、頼る者がないお咲は、仙吉だけを頼りにして逃亡生活を続け、やがて一緒に大阪に戻り、そこで下駄の出店などをして暮らし始める。

 やがて、仙吉は、大阪で大塩平八郎の乱に荷担して生き残った者たちと会い、大塩平八郎の志を継いで「救民」運動を起こそうとする仲間たちと大塩平八郎を貶めた大阪東町奉行の跡部良弼(あとべ よしすけ)暗殺計画に荷担する。彼を唯一頼りにしていたお咲を振り切って、「救民」という大儀のために暗殺計画に荷担したのだが、その計画は失敗し、大塩の残党はことごとく殺され、彼は再び流浪の逃亡生活に入るのである。

 他方、主人である矢部定謙と乱を起こした大塩平八郎との繋がりの発覚を恐れた用人の狩野晋助は、策略が入り乱れた政治状況の中で主人を守るべく奔走していく。矢部定謙は、大阪西町奉行から勘定奉行となったが、水野忠邦が行った幕府財政救済のための貨幣の改悪に、これが物価を高騰させて経済を疲弊させることから反対し、ついに勘定奉行の任を罷免されて西丸留守居役に左遷される。そして、蛮社の獄が起こる。

 蛮社の獄で標的とされた渡辺崋山と江川太郎左衛門(英龍)との繋がり、かつて江川英龍が韮山代官であった時に大塩平八郎が江戸に送った書簡などをすべて押さえていたことから、矢部定謙の用人である狩野晋助は主人の立場を守るために蛮社の獄でうごめいていた鳥居耀蔵らの行動の裏を探し出したり、貨幣の改悪でかなりの金額が裏金として水野忠邦に流れている事実を探り出したりして奔走していく。しかし、鳥居耀蔵につけ狙われ、水野忠邦に対立した矢部定謙は、西丸留守居役からさらに小普請組支配に左遷させられる。1840年のことである。

 矢部定謙は悶々とした日々を過ごすが、大御所として幕政の実権を握っていた徳川家斉の死去によって、1841年4月に江戸南町奉行に抜擢される。しかし、彼を執拗に狙っていた水野忠邦と鳥居耀蔵の陰謀で、同年12月に罷免され、桑名に永のお預けとなってしまうのである。物語ではその経過が用人の狩野晋助の立場から記されていくのである。そして、狩野晋助は、桑名で矢部定謙が絶食して憤死するまで付き従い、その後始末をしていくが、どこまでも主家のために苦労を重ねていくその姿が克明に描かれている。

 一方、物語の最後で、各地を放浪していた仙吉が、ふとしたことで旅芸人のようにして大阪に向かう吐月と再開し、彼と一緒に大阪に帰り、自分がやむを得ず捨てたお咲を探し出していく姿が描かれる。その際、「世なおし、世なおしと大きなことをいうたかて、女房一人救えんのかいな」(459ページ)という深い反省が彼を突き動かしていく姿が描き出されている。そして、仙吉に捨てられたが、信じて仙吉を待ち続けたお咲との再開が果たされていくのである。

 この最後の部分は圧巻で、天保という歴史の激動を矢部定謙の側から描きだしてきた作者の意図が凝縮されたものとなっている。

 歴史的な事柄が綿密に押さえられて、その中で二人の主人公を通して時代が描かれているし、作者の意図(思想)が明確に盛り込まれて、まことに読み応えのある作品だった。それにしても、矢部定謙が大阪西町奉行時代や江戸南町奉行の時に行った人情味溢れる名奉行ぶりについて、その資料がどこから集められたのか、簡単には手に入らないので、資料調査について驚嘆に値する仕事ぶりだと改めて思ったりする。

2011年6月3日金曜日

高橋義夫『意休ごろし-投げ節お小夜捕物控』

 久しぶりに晴れ間が覗いたので、洗濯をしたり掃除をしたりしていたら、あっという間に時間が過ぎていった。ひとつのことをするのに時間がかかるようになったからだが、時間がかかるというのは、無聊を感ぜずにすむ天の配剤だろうとも思ったりする。
 
 昨夜、児戯に等しい国会の茶番劇を「地に足がつかない根のない社会」の典型のように感じて眺めながら、やがてこれがこの国の人間にとって大迷惑を及ぼすことに繋がることを覚えて愕然としたりした。この国の政治から哲学が失われて、もうどれくらい経つだろうか。深く考えたわけではないが、末期の徳川幕府の老中の姿を見るような気もした。

 そういうことを感じながら、高橋義夫『意休ごろし-投げ節お小夜捕物控』(1995年 中央公論社 2000年 中公文庫)を読んだ。書物の頁数はそんなに多くないし、短編連作なのだが、なぜか読むのに時間がかかった。江戸中後期の火付盗賊改与力の「踏ん張り」のようなものを描いたものである。

 池波正太郎の『鬼平犯科帳』で著名になった江戸中後期の火付盗賊改役で、「本所の平蔵さま」とか「今大岡」とか呼ばれて人々に慕われた長谷川平蔵こと長谷川宣似(はせがわ のぶため-1745~1795年)の死去後、わずか一年余の期間に過ぎなかったが火付盗賊改役を任じられたのは森山源五郎(孝盛)という人で、どうも長谷川平蔵を敵視していたところがあったようだし、文人で狂歌師として著名だった蜀山人こと太田南畝(1749-1823年)が登用試験である「学問吟味」の最初の受験の時に、成績が抜群だったにもかかわらず彼を嫌って落とした上役だったようで、狭隘な人物像しか浮かんでこないのだが、その人の下で新規に火付盗賊改方となった若い与力の活躍を描いたものが、本書である。

 森山源五郎の下で新たに火付盗賊改廻り方与力として登用された若い妹川数馬(せがわかずま)は、ぼや騒ぎの最中に起きた殺人事件の現場に出かけ、そこでであった町方の同心に素人と馬鹿にされて闘志を燃やし、事件の解決に臨むが、規約を重んじ現状維持を図る上司の森山源五郎のやり方ではどうにもならなくなり、同僚の書物役与力である吉羽清一に相談し、長官の森山源五郎は嫌っているが森山には内密にして探索のための付人(密偵)を使うしかないと言われ、前任の長谷川平蔵の元で与力をしていた山辺友之丞を紹介してもらう。この山辺友之丞は、優秀な与力として働いていたが平蔵の死去に伴って免職となり、釣り三昧な生活をしているところなどから「竿月」と名乗ったりしていた人物で、妹川数馬は、彼からさらに付人(密偵)の「お小夜」を紹介される。

 「お小夜」は、深川の芸者であり、当時の流行歌である投げ節の師匠などをしているが、裏では私娼たちのとりまとめ役などもしており、弥次郎という用心棒もいる。竿月の愛人でもあり、竿月は家をほったらかしにして彼女のところに入り浸ることもある。

 こうして、妹川数馬とその手下同心である相沢銑二郎、同僚の吉羽清一、山辺竿月、お小夜、そしてお小夜の用心棒である弥次郎の五人で、ぼや騒ぎの最中に小料理屋の夫婦を殺し、金を奪ったのが、辻番でぼやを消し止めた男であることを突きとめたり(「腐れ縁」)、「髭の意休」と呼ばれていたやり手の女衒(女性を売る)が殺された事件に、奥州黒岩郷の代官による手ひどい女漁りの背景があることを明白にしたり(「意休ごろし」)、次々と夜鷹が無惨に殺されていく事件に女の狂気が隠されていたり(「どでごんす」)、役者の奇妙な素振りから強盗団の一味に繋がっていることを突きとめたり(「謎坊主」)、火事で焼け死んだはずの息子が帰ってきたという大店の強盗事件(「初穂勧進」)や蔭間(男娼)茶屋の主殺害事件(「三筋の鳴子」)の真相を暴いていったりするのである。

 ただ、表題が「投げ節お小夜捕物控」とあるわりには、物語の中心は「お小夜」ではなく、あまり理解のない上司の下で、上司に不満を持ちながらも、青年らしい熱意で事件の解決を行おうとする妹川数馬が主人公で、それなりにまとまった面白さはあるが、事件にうごめく人間の業の深さや社会的人広がりなどはあまり感じられないし、登場人物像もいまひとつ深く描かれないのが残念な気がする。

 この作者の『花輪大八湯守り日記』が面白かっただけに、少し残念な気がした。若干の物足りなさが後を引いた。

2011年4月29日金曜日

高橋義夫『花輪大八湯守り日記 湯けむり浄土』

 薄く雲が広がり気温も低めだが、爽やかで新緑が嬉しい。昔「天皇誕生日」だった今日を「みどりの日」とはよく名づけたものだとつくづく思う。今朝、起き出して新聞を取りに玄関に行った時に数冊の時代小説が置いてあることに気づき、どなたが置いてくださったのだろうと思っていたら、脚本などを手がけておられるT氏が訪ねてきてくださったようで、せっかくおいでくださったのに、昨日は外出して会えずに残念だった。ブログをご覧になって連絡をくださり、彼が同級生だったことが最近わかって、今度会うことにしている。

 閑話休題。高橋義夫『花輪大八湯守り日記 湯けむり浄土』(2004年 中央公論新社)を読む。これは先に読んだ『花輪大八湯守り日記 艶福地獄』(2009年 中公文庫)のシリーズ第一作目の作品で、現在の山形県新庄市の肘折温泉の湯守りとなった主人公の花輪大八のユニークさや当時の雪深い湯治場を巡る人々の人間模様、関わっていく事件の展開や全体を包んでいる大らかさなどが面白く、その第一作目の主人公が湯守りとなる経過を描いた一作目を読んだ次第である。そして、この一作目も、一気に読むことができる面白さをもった作品だった。

 山形新庄藩で在郷の代官を務める六十石の花輪家の次男の部屋住みであった大八は、城下で横暴を振るっていた黒川武平に捕らわれた友人を救い出すために武兵と対決し、祖父から習った具足術で武平を傷つけるが、大事にしないために私闘とされ、喧嘩両成敗ということで城下を追放され、兄や周囲の人々の計らいで雪深い鄙びた湯治場である肘折温泉の湯守りとなる。

 主人公の剛胆で物怖じしないが思いやりのある真っ直ぐな気質は、湯治場の人々に受け入れられ、湯治宿や村の人たちからも次第に認められるようになっていく。その中で、病を抱えた武士の親子と出会い、その武士が仇打ちの旅にあることを知っていく。だが、武士の病は重く、ようやく仇のいるところを探し出すが、その仇も銀山で働くうちに死病を患っていることを知る。やがて、武士の親子が仇と狙う相手は銀山で史に、武士も、己の一分を通しながら死んでいく。そして、大八は残された息子を湯治場の医者のところで働き、医者になるように計らっていくのである。

 そうしているうちに、私闘で破れた黒川武平が修行を積んで私闘の決着をつけるために現れる。花輪大八と黒川武平は雪の中で闘いを繰り広げ、、二人とも雪崩に巻き込まれてしまい、武平はもはや闘うことができなくなって私闘に決着が着いていく。

 こういう展開が、鄙びた肘折温泉の風情やそこで暮らす人々の暮らしぶり、主人公の大らかで物事に執着しない姿などを合わせて、時にはユーモラスに、時にはシリアスに描かれて、物語全体に何とも言えない柔らかな雰囲気が包んでいるのである。山形といえば、今頃は桜がきれいだろう。

 こうした作品は、疲れた時など、本当に気楽に読めていい。このシリーズは、第二作目があるので、機会があればそれも読んでみたい。

2011年2月28日月曜日

高橋義夫『花輪大八湯守り日記 艶福地獄』

 所用で小田原まで出かけ、一本の紅梅が可憐な花を咲かせているのを目にした。なんだかほっこりしたような光景で、「小さくは小さく咲かん、小さきままに」という言葉を思い出したりした。今日は初春の冷たい雨が降っている。

 帰宅して、高橋義夫『花輪大八湯守り日記 艶福地獄』(2009年 中公文庫)を読んだ。出羽の新庄藩(現:山形県新庄市)で次男の部屋住みであった主人公の花輪大八が、私闘の責任を負う形で勘当され、日本有数の豪雪地帯で知られる山深い肘折温泉(ひじおれおんせん)の湯守りとなり、そこでの人々との交わりを通じて、湯治客などが持ち込む事件などに関わって、時にそれが新庄藩全体を巻き込むものであったりする出来事を解決していく顛末を描いた本書は、シリーズ化されており、これはその三作目の作品である。

 「湯守り」とは、本来、温泉湯治場のお湯の管理をする者のことだが、江戸時代から月山などの登山口で湯治場として知られていた肘折温泉では、入り札(入札)で決められる村役で、温泉場全体を管理する役務として位置づけられていたことから、主人公の花輪大八は、そこで起こるあらゆる事件や揉め事に関与するのである。

 この主人公は、正義感が強くて生一本で、どこか夏目漱石の『坊ちゃん』を思わせるような人物なのだが、父祖伝来の具足術(柔術)を身につけ、無鉄砲なところもあるが「分をわきまえる」ところもあって、温泉郷の人々から親しまれ信頼されていく人物で、池波正太郎が『鬼平犯科帳』で描いた若い頃の長谷川平蔵の姿を彷彿させるところもある。池波正太郎は、長谷川平蔵の若い頃の姿を、善も悪も、酸いも甘いもかみ分ける剛胆な人物として描いているが、この主人公の花輪大八も、そういうところがあるのである。

 本書は、その主人公の花輪大八が湯守りをする肘折温泉の湯治客として、「思庵」という医者に引き連れられた一団の女性たちが訪れ、様々な婦人病の湯治による治療をするところから始まるのだが、夫に淋病を移されて婚家を出てきた女性を連れ戻そうとする出来事などが起こっていく中で、その女性たちの一団の中に新庄藩全体を二分するような城主の跡継ぎとなる子を懐妊した女性がいて、それを巡る争いの顛末を山場として展開したものである。

 そこに、婦人病への無理解や蔑視を抱えて生きなければならなかった女性の姿や山間の湯治場で暮らす人々の姿が盛り込まれ、あるいはまた、武家の次男の悩みや恋模様などもあり、「書き下ろし」のために文章や表現にほんの僅かだが推敲が必要だと思えるところもあるが、しっかりしたリアリティーに裏づけられた作品になっている。だから、主人公と彼を巡る人間模様は、作品が書き進められるうちにさらに深まったものになっているだろうと思われる。

 本書の最後に、湯につかった主人公が湯治客の老人が唄う「大津絵節」の一節を聞く場面が描かれ、
 「げに定めなき 浮雲の 月の光を 見やしゃんせ 晴れては曇り 曇りては 晴れ渡る みな何事も かくあらむ」(295-296ページ)という言葉が記されて終わるが、「晴れ・曇り・雨・嵐」の繰り返される人間模様が「何事もかくあらむ」として描かれたのが、この作品だと言えるかも知れない。

 直木賞受賞作家でもある作者の作品を読むのは、これが初めてのなのだが、江戸が舞台ではなく、地方の湯治場を舞台にした作品は、特に山形にはあまり縁のないわたしにとって、情景の妙味もあって面白く読むことが出来た。

 それにしても肘折温泉は、なかなか風情がある温泉郷らしい。江戸時代はもちろん混浴なのだが、今はどうなのだろう。そこにある露天の石抱温泉は炭酸成分が多くて体が浮くので石を抱いて入ることからこの名があるそうだが、行ってみたい気がする。