2013年3月2日土曜日

高橋義夫『渤海国の使者』


 昨日は春一番が吹き荒れて、強風の中でも暖かく感じられ、本当に春が近づいて来た、という感じだった。今日は冬型の気圧配置の中で、気温は上がらないものの、以前のように寒さに震えるということはない陽射しがさしている。このところ小さな地震が頻発して、2011年の東日本大震災を思い起こしたりする。どことなく気が重い。

 それはさておき、日本の奈良時代(710794年)に交流があった中国東北部の沿海に位置した渤海国との最初の使節団の活躍を描いた高橋義夫『渤海国の使者』(2003年 廣済堂文庫)を読んだ。高橋義夫は、エンターテイメント性の高い時代小説だけでなく、優れた歴史小説もいくつか書いているが、これもまた、そのひとつである。

 渤海国(698926年)の詳細な歴史は不明なところが多く、主に中国で記された『旧唐書』、『新唐書』や朝鮮の『大金国史』などの周辺の諸国の歴史書による以外にはないのだが、中国東北部(現在はロシア連邦の日本海沿岸地方)で農耕と漁業を行っていた靺鞨族(まっかつぞく)の指導者大祚栄(だいそえい)が、それまで中国東北部の南部から朝鮮半島の北中部までの広範囲な領土をもって治めていた高句麗(紀元前37668年)が唐と朝鮮半島南東部の新羅(しらぎ・しんら)の連合軍によって滅んだことにより、自立を画策して、698年に自立の動きを抑制しようとした唐軍を破って、「震国」を建国したのが始まりとされている。

 唐は、その後も懐柔策を打ち出したり軍事的な圧力をかけたりし、特にこの時代には朝鮮半島全域を治めていた新羅と共同して渤海国に脅威を与えており、唐とは緊迫した状態にあったが、周囲との交易で栄えて、最盛期の領土は朝鮮半島北部からロシアの沿岸にかけての広大なものとなったのである。

 渤海国二代目王の大武芸は、唐から「渤海国王」の冊封(中国の天子が称号や任命書、印章などを授けて名目的な宗属関係を結ぶこと)を受けたが、独立色を強め、唐との関係は常に大きな問題となり、特に隣接した新羅との関係は悪化し、これらを牽制するために日本との交流を求めたのである。

 本書は、その渤海国からの最初の使者として727年に日本海の荒海を越えてやってきた高仁義らの使節の山形漂着から始まる。その時、高仁義らは蝦夷と呼ばれていた人々によって殺され、生き残った高斉徳ほか8名は翌年に聖武天皇に奈良で拝謁し、やがて、引田虫麻呂を頂点にした送渤海客使を派遣して彼らを送り返し、軍事同盟的な交流が始まった。そういう過程を、それぞれ渤海国の高文矩(こうぶんく)と日本側の船人(ふなひと)という二人の人物の深い信頼と友情を描くことで描き出したものである。渤海国との交流は、その後軍事的なものから商業的、文化的なものに変わったが、以後200年ほど続いた。

 渤海国側では、二代目王大武芸の兄弟で唐に渡って親唐派であった高武門との確執や、武芸の子で三代目となった大欽茂(だいきんも)による親唐的な文治政治への転換などの変化が起こっているし、日本では、729年に権勢を誇った長屋王(天武天皇の孫)と藤原家の争いが起こり、藤原不比等の子らが長屋王を自殺に追い込む事件が起こっている。

 こうした事件を織り込みながら、高文矩と船人の妹秋津との恋や新羅側の画策などが展開されて、読み物として面白く読めるように構成されている。渤海国の文化や風習などは、詳細は知られていないが、唐の影響が強く、唐文化を踏襲したものとして描き出されるし、高句麗の住習慣なども取り入れられている。政治は唐の制度を模倣したものであったと言われる。

 それにしても、よくこれだけの物語にまとめたものだと感服する。渤海国は、やがて、907年に唐が滅びたあと、926年に、中央アジアの民族であった契丹に滅ぼされて歴史から姿を消したが、華北人として命脈を保っている。奈良時代について、わたしはあまりに知らなさ過ぎるところがあるが、この時代がわずか84年しかなかったことを改めて思ったりする。

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