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2013年6月5日水曜日

志水辰夫『夜去り川』

 昨日、今日と、日中は暑い陽射しが差して、暑くなっている。梅雨入りは宣言されたが、それ以降、こちらではまだ雨が降らない。昨夜は、吉祥寺までの往復で少し疲れを覚えながらぼんやりとサッカーのワールドカップの出場を決めるオーストラリア戦を眺めていた。勝敗に関心があるわけではなく、人間の動きというものやマスコミと解説者の反応に面白いものがある。

 それはともかく、志水辰夫『夜去り川』(2011年 文藝春秋社)を読んでいた。このところこの作家の作品を続けて読んでいる。これもいい作品ではあるが、読むのに少し忍耐がいった作品だった。

 これは、秩父の商家に入った押し込み強盗に、たまたまその商家に居合わせた剣術指南役の父親を殺され、侍ならば父親の仇を討ち、汚名を注ぐのが当然と言われて、その強盗の行くへを探り出すために桐生(現;群馬県)にやってきた武士の物語である。

 ただ、その武士、檜山喜平次の背景はずっと伏せられたまま、物語は彼が渡良瀬川の渡し守となったいきさつから始まっていく。喜平次は父親の仇を討つという目的を持ってそこへやって来たのだが、その時に、柿の木に登って柿を取ろうとした少年が木から崖下に落ち、それを助けようとした渡良瀬川の川渡し守をしていた船守の弥平も落ちて、二人共大怪我をし、剣術道場で打ち身や骨つぎなどについてはよく知っていた彼が応急の手当をしたのである。そして、動けなくなった弥平の代わりに渡し舟の船守をしながら、時を待っているのである。

 喜平次はそこでの生活の中で、貧しい中で懸命に生きている人々と出会う。彼が手当をしてやった少年が桐生で一番大きな呉服問屋の息子であったことから、その問屋を女手一つで見事に切り盛りしている「いち」という女性や、その娘で少年の母である「すみえ」と出会うし、機織りをして生計を立てている人々とも出会っていく。

 桐生は山間部で田畑が少なく、足尾銅山が盛んな頃は一時栄えたが、銅山が衰退するとともに衰退し始めていたが、養蚕による絹織物で息を吹き返したところであった。その絹織物を、多くの織子を使って取り扱う「春日屋」を、「いち」は見事に切り盛りしている女性だった。「すみえ」は、早くに夫を亡くし、息子の正之助を育てながら、その「いち」の跡を継ぐ「いち」の娘であった。「春日屋」は、元は作り酒屋であったが、「いち」の時代を見る目と才覚によって呉服問屋として成功したのである。

 この二人の女性が素晴らしい。礼に厚く、働く者を大切にしながら、商人としての厳しさも、毅然とした態度も身につけ、自分の分もよくわきまえているし、器が大きい。「すみえ」はやがて喜平次に想いを寄せていくようになるが、本書にはもう一人素晴らしい女性が登場してくる。

 それは、喜平次の幼馴染で、自由で闊達な気質を持つ娘で、喜平次は士分の差から彼女と添い遂げることは諦めていたが、そんなことはものともせずに、喜平次が侍をやめて町人になるなら自分も町人になると平然ということができる女性だった。彼女は、喜平次が桐生にいることを知ってそこまで会いに来るが、喜平次の意図を知って、待つ道を選んでいくのである。

 渡し守の生活の中で、喜平次は侍であることに疑問を感じ、むしろ人間として日々を懸命に生きていくほうが尊いのではないかと実感していくのである。そして、これまでの自分の生き方に決着をつける意味で、父親を殺した強盗団との対決を待ち続けるのである。作品の時代設定が黒船到来の後の激動が始まろうとする時代で、武士だけでなく意識ある者のだれでもが自分の行き方を問われるという社会状況であるのが、喜平次の思いにリアリティを与えている。

 「ここら辺の百姓はな、ほとんど米なんか作っていないんだ。米は買って食えばいいものになっている。その金は、蚕を飼ったり、糸を染めたり、紡いだり、機を織ったり、反物を運んだりすることで得ている。金を稼げる百姓くらい強いものはないぞ。黒船が来ようがオロシアの軍艦がやって来ようが、そんなことはどうだっていいんだ。自分たちの商売や稼ぎが大きくなってくれたらいい。世の中がひっくり返り、ご公儀に代わるものがあらたに登場してきたとしても、やつらは平気だ。上のほうがどう変わろうが、下の暮らしには関わりがない。自分たちの商売や暮らしはこのまま続けられると、知ってしまったからだ。わかるか。世の中が変わろうがひっくり返ろうが、しぶとく生き残るのはおれたち侍じゃない。そういう連中なんだ」(128ページ)と彼は言う。こうした目覚めを檜山喜平次は感じていくのである。

 物語は、後半になって一気に展開されていき、喜平次が睨んだとおり、村の祭りを利用して喜平次の父親を殺した強盗団が、今度は「春日屋」を狙っていることが分かり、喜平次は、ひとり、「春日屋」に泊まり込み、彼らと必死の攻防を繰り返して、決着をつけるのである。しかし、そうした展開以上に、ひとりひとりの人間のあり方などが日常の姿を通して描かれているのである。

 こうした展開の他に、本書には優れた文章がたくさん綴られている。たとえば、「いち」が亡くなった時のことで、「葬儀の前日からは雪が降り始めた。宵のうちはちらつくくらいだったが、夜にはいってから粉雪になり、切れ目なく降りつのって明け方までつづいた。風のない清冷な夜だった。すべての物音を思惟の中に閉じ込め、雪はしんしんと降りつづけた」(211ページ)という一文である。情景と主人公の思い、そして、死を迎えた「いち」の姿が重なるような一文である。「清冷な夜」というのは作者の言葉であるだろうが、懸命に生きた「いち」という女性の最後にふさわしい言葉である。

 物語の構成として、主人公の檜山喜平次の目的がずっと伏せられたままなのは、ミステリーの手法ではあるだろうが、作品の山場が後半に偏ることになり、「読ませる」という点からすれば、老人の忍耐がいるようなところがある気がする。しかし、主題や文章は味わい深い。

2013年5月31日金曜日

志水辰夫『つばくろ越え』

 今日は梅雨の晴れ間という感じで青空が広がっている。気温も少し高めになっていて、まことに洗濯日よりの感がある。インターネットの接続契約の変更をしなければならなくなって、その手続きをしているのだが、こういう書類などを書いていると、今の社会が本当に「一時的(Temporary)」であることを強く感じる。20世紀の終わりごろにアメリカの社会学者たちが現代社会を「Temporary Society(一時的社会)」と呼んでいたが、ますます社会のシステムそのものが一時的になった気がしてしまう。

 閑話休題。先日、志水辰夫『みのたけの春』(2008年 集英社)を読んで、いい作品だと思い、次に書かれた『つばくろ越え』(2009年 新潮社)を読んでみた。

 しかしこれは、私にとっては少し読むのに時間のかかる作品で、渋味と言えば言えるのだが、描写が押さえ込まれているだけに描かれる人物像がなかなか掴みきれないところがあるような気がしたのである。作家が長く作品を書き続けると、文章が簡素化して、それはそれで味わい深いものになるのだが、「艶」というのが薄れていくからかもしれないとも思う。

 本作は、大金や重要なものを目的地まで各宿の飛脚問屋を通さずに一人で運ぶという「通し飛脚」の仕事をする人物たちを主人公にした短編連作である。江戸で「蓬莱屋」という飛脚問屋をしていた勝五郎は隠居したが、それでも「通し飛脚」の仕事を請け負って、仙造や宇三郎といった健脚で義理も人情にも厚く、状況判断も的確にできる男たちを使って「蓬莱屋」の出店のような仕事をしているのである。

 飛脚というのは、当時の身分制度では武士でも商人でもなく、あるいは博徒や侠客でもなく、どちらかといえば職人に入るような仕事であるが、単に健脚であるだけでなく道中の危険から身を守らなければならず、的確な状況判断も必要とされ、強い忍耐力もいる仕事である。江戸時代は交通基盤も整えられて、一般の飛脚はひと目でそれとわかる格好をしていたが、「通し飛脚」は大金や密書を運ぶことが多かったために、密かに、しかも早く運ぶことができるよう股旅者のような旅人の姿をしていたと思われる。

 この作品でも、道中合羽をまとって、まんじゅう笠をかぶり、道中差しを差しただけの目立たない格好で主人公たちが登場する。このあたりや主人公たちが通る峠や村の地理は、さすがにきちんと踏まえられて、目立たないが確実な人物が主人公になっている。

 さて、表題作にもなっている第一作「つばくろ越え」は、新潟から江戸に向かう山間で「通し飛脚」として大金を運んでいた弥平が襲われ、大金を奪われるのを避けるために谷に投げ捨てて息を引き取ってしまったのだが、その大金の行くへがわからず、弥平の弟分にあたる仙造が、弥平を襲った者たちと金の行くへを探るという設定で始まる。場所は「つばくろ越え」と言われる裏道で、あたりには寒村があるだけのところであった。

 仙造は何度もその峠に足を運び、金のあり場所に見当をつけていたが、金が投げられたと思われる崖の中腹の出っ張った岩場に降りることができないでいた。その探索の途中で、彼はひとりの子どもと出会う。その子は、物貰いをしながら父親と旅をしていたが、その父親がとうとう力尽きて死んでしまうところに行き会ってしまうのである。その子は巳之吉という少年で、巳之吉はしたたかに生きることを覚えた少年だった。

 仙造は身の軽い巳之吉を縄で吊るして岩場に降ろし、弥平が投げた金を探させるが、巳之吉はないという。その時は仕方なく、仙造は巳之吉を近くの村に預けて江戸に帰る。しかし、再び「つばくろ越え」を訪ねて見たとき、巳之吉は預けられた村の家の女中と懇ろになったり、村の娘と交わったりする少年になっており、したたかな生き方をする巳之吉の本性を現した姿になっていた。仙造は巳之吉をそのまま放っておくこともできずに、江戸に連れて帰り、飛脚問屋の蓬莱屋で働かせることにする。

 巳之吉は、しばらくは蓬莱屋で真面目に働く素振りを見せ、他の奉公人からの評判も悪くなかったが、ある時、金をもったまま出奔する。仙造は勝五郎とともに巳之吉の行くへを探し、つばくろ越えの寒村にまできてみると、巳之吉は、実は前に岩場で釣り下ろされた時に金のありかを知っており、その金を取りに来たことがわかる。だが、巳之吉がその金を手にした時に寒村に住んでいた銀三親子に捕らわれて、その金を奪われていた。銀三親子は、弥平を襲って金を奪おうとした人間たちであった。仙造と勝五郎は金を取り返し、助命を懇願する巳之吉を連れて帰る。だが、巳之吉は自分の命が助かった後、再びしたたかぶりを見せるのである。

 物語は、巳之吉のしたたかぶりを示すところで終わるが、貧しさゆえに強盗になって金銭を奪おうとする者、したたかに生きる者、死んだ者を忘れて新しく生きなければならない者、そういう人間の姿がデフォルメされて描かれているのである。

 次の「出直し街道」は、越前丹生郡の陣屋で代官所手代元締加判(元締代理)をしていた男が、在職中の代官の不正に絡んで処罰されるところを逃走し、江戸で八年間もの間苦労しながら貯めた金を故郷の妻子のもとに届けたいと蓬莱屋を訪ねてきたという設定で物語が展開されていく。「通し飛脚」の宇三郎がその任を負い、越前丹生郡宮本村まで出かける。彼はようやくにして男の妻の行くへを探し出すが、男の妻は男を密告してその地位を手に入れたかつての部下の囲われ者になっていた。

 男の妻のすみは、囲われ者として何不自由ない暮らしをしていた。子どもは病気で亡くなっており、彼女を囲っている昔の部下の人品は褒めたものではないが、暮らし向きはいい。だから彼女は夫が託した5両の金と手紙を宇三郎から受け取った時に、迷い、悩み、逡巡する。だが、彼女はついに今の暮らしを捨てて宇三郎と共に江戸にいる夫のもとへ行く決心をする。しかし、彼女の迷いは残る。宇三郎は「生きている人間には、いつだってこれから先のことしかないんです。・・・何回でもやり直しなせえ」(171172ページ)と言う。耳にタコができるほど、何回もそれを言う、と言うのである。

 宇三郎自身、妻がなくなってしまって娘を一人で育てられないのではないかと悩んでいたが、これを機に、娘を自分の手で育てる決心をここでしていくのである。

 人には反復は不可能である。出直すとしたら、人は新しい自分にならなければならないが、それが人に可能かどうか、それは、もちろんここでは問われない。しかし、「出直すことができる」というのは、確かに、人の希望とはなりうる。すみは、一度は自分を捨てて逃げた男を追い、自分を追う男を捨てる。このあたりの機敏は、少なくともわたしには謎で、江戸に出て、元の夫に会ったからといって、新しい出直しができるのかどうか、その結末が触れられないのがいいのかもしれないと思ったりもする。

 第三話「ながい道草」は、越後の小柳村というところにいる医者のところに江戸から薬を届けた仙造は、仁に厚くて病人を放おっておけない医者の道安と妻のりくが、実は「追ってに追われて人目を避けて各地を点々としなければならない身の上」であったことを知る。りくは武家の妻だったが、ただ夫の慰み者としての扱いしか受けず、その夫に背いて道安と駆け落ちしてきたのである。夫が追っ手として差し向けた者のひとりは彼女の息子であった。彼女の夫はその他にも、素破者と呼ばれるゴロツキ侍を雇っており、仙造は道安とりくの人柄や働きに感銘して二人をなんとか追っ手の手から逃れさせようと苦心する。だが、ついに追いつかれてしまう。

 そこで、りくと息子は話をし、母の心を聞いた息子は、そのまま見つからなかったことにして、引き返すことにし、母であるりくと道安は再び村医者としての生活に戻ることができたのである。

 第四話「彼岸の旅」は、長い間飛脚をし、通し飛脚としても勝五郎とは深い結びつきをもっていた半助が、自分の病を知って、突然、故郷へと死出の旅をしていくのを、それを案じた勝五郎が追っていく話である。勝五郎とは長いつきあいであっても、だれも半助の素性は知らなかった。半助は誰にもそのことを語らなかったし、また秘していたのである。

 だが、勝五郎が彼の故郷を探り当て、あの跡を追って行くに従い、山崩れで壊滅した村で生き残った主家の娘に対する秘められた悲しい恋心や彼自身が巻き込まれたとは言え犯した事件などが明らかになっていくのである。半助は、その重荷を負って生きてきて、そうして望み通り故郷の山で死ぬのである。

 これらの作品は、いずれも、生きることの重さを抱えた人間が描かれたものである。この4作の中では「ながい道草」が明白に将来の希望を見出せるものとなっているが、改めて見ると結末は、やはり、かすかな希望が見いだせるものになっている。最後の「彼岸の旅」も、死ぬことによる解放があるのである。これはその後、蓬莱屋の物語としてシリーズ化されているが、重厚といえば重厚で、それだけに読むのに少し疲れを覚えたのである。

2013年5月25日土曜日

志水辰夫『みのたけの春』(2)

 梅雨入り前という感じで強い陽射しが差して、日傘をさした人々が街を歩いている。今週は少し忙しくしていたので、今日になって疲れがどっと出た感じであるが、昨日仙台から帰宅したら、知り合いのSさんが自宅菜園で採れたレタスを机の上に置いていてくださっていた。さっそくつめたく冷やしてサラダにして美味しくいただいた。疲れきっていたので、本当にありがたいことだと思っている。

 閑話休題。志水辰夫『みのたけの春』(2008年 集英社)の主人公榊原清吉は、老いて病んだ母を抱えながら養蚕によってかろうじて家計を支える貧しい郷士の生活の中で、尚古館で武を学び、柳澤宋元の三省庵で学問をひたすら地道に学びながら、幕末という激動する時代の中を誠実に生きていこうとする。

 彼の学友の何人かは、揺れ動く京都の尊王攘夷運動に感化されて、「天誅組の運動」に加担していったり、やがては「生野の変」に加わったりしていく。憤怒に耐え兼ねて公儀役人を斬った諸井民三郎は、追っ手の手を逃れていく。榊原清吉は残された民三郎の幼い兄弟姉妹たちを親身になって守ろうとするし、諸井民三郎を逃がしてくれと尚古館の指導者で「入山衆」の頭領格でもある橘川雅之に懇願する。その中で諸井民三郎の祖母が亡くなった時も、清吉は深い配慮をして民三郎の兄弟姉妹を助けていく。

 清吉の働きによって、諸井民三郎は京都に逃れることができ、幼い兄弟姉妹たちの引取り先も決まっていく。民三郎の兄弟姉妹たちはそれぞれが健気に生きるが、弟の又八は、川に落ちた幼い女の子を救おうとして命を落としてしまう。民三郎の兄弟姉妹たちの健気さにには心を打たれるものがある。

 榊原清吉は、三省庵の柳澤宋元の娘の「みわ」に密かに想いを寄せていたが言い出せないでいた。柳澤宋元は、京都で「ころり」が流行った時に、家族を守るために貞岡の地での学塾の師としての仕事を引き受けて、この地で三省庵を開いたのだが、彼が大事に守った妻が亡くなってしまい、娘の「みわ」が身の回りの世話をしていたのである。宋元は妻を亡くした当たりから次第に生きる意欲をなくして酒に溺れるようにもなっていた。彼がこの地に来たのは、単に「ころり」から逃れるためだけではなく、「安政の大獄」で吹き荒れた弾圧から逃れるためでもあったが、その最愛の妻を失い、時代が大きく変わろうとする中で取り残されていく寂寞感もあったのであろう。

 清吉の学友で塾生の多くは尊王攘夷運動へと心を寄せていき、「天誅組の変」の時には、清吉にも誘いが来るし、「生野の変」の時にも誘いが来る。だが、自分には老いた母がいるからとこれをきっぱり断るのである。百姓衆を農兵として束ねようとする動きにも、彼は知り合いの百姓の息子がその運動に加担しようとするのを止めて、家族の生活を守るように諭していったりするのである。

 多くの仲間たちが時代のうねりに身を投じ、その波に乗ろうとする空気の中で、彼は老いて病んだ母との生活という足元に立ち続ける。清吉は涙が出るほど心優しい。寒くなると母の具合が悪くなるので、囲炉裏で石を温めて湯たんぽ代わりに使うようにしてあげたり、母の痛む手足を何時間も揉みほぐしてあげたり、母親の体を温めるためになんとかして内風呂ができないかと苦心したりする。

 その母親との日常の穏やかな会話の一コマが次のように描かれている。
 「突然鶯が飛び立った。ちょうど母が手を止めたときだった。
 去年も鶯は来た。昨年の母はそれを床のなかで見つめた。冬が長くて寒かったから、なかなか起きられなかったのだ。
 『ねえ、母上、あの鶯、毎年同じ鳥がきてるんじゃないでしょうか。そんな気がしてならないんですけど』
 『同じですよ。ことしきたのは、去年きた鶯の子どもです』
 母は信じ切っている口調で答えた。たしかにそう考えたほうが気分はよくなる。
 いまでも母には教えられることが多かった。くよくよしないのである。少なくともせがれには、そう見えるようにふるまっていた。それをせがれはありがたいと思っている。
 仕事にもどります、と答えて清吉は立ちあがった。」(57ページ)

 この一コマも、なんでもないような情景として描かれているが、母子の温かい愛情の姿と、日常の連続である歴史の重さがひしひしと伝わる場面なのである。

 本書は次のような言葉で終わっている。
 「暗かった。何も見えない。それを歩いた。これが自分の道なのだ。これからも歩いていかなければならない道なのだ。
 行かなければならなかった。帰らなければならなかった。
 母が待っている。
 たったひとりの親が待っている。
 親がいる。子がいる。親と子の暮らしがある。
 親、親、親。親くらいむごいものがこの世にあるだろうか。
 一方で、子の苦しみや喜びを、だれよりも倶にしてくれるもの、それもまた親をおいてないのだ。
 なにもかもひっくるめたその上に、いまの自分がいるのだった」(357ページ)

 「変わりばえのしない日々のなかに、なにもかもがふくまれる。大志ばかりがなんで男子の本懐なものか」と清吉は心底思っているのである。日常のなんでもないことの中の絶大な価値、清吉はそこに立って生きようとするのである。

 彼は、京都に逃れた友人の諸井民三郎が、「入山衆」の頭領の橘川雅之の弟で、過激な尊王攘夷運動を展開する高倉忠政の手先として暗殺者になっていることを知り愕然とするし、その高倉忠政が捕縛されて、事件をもみ消すための「とかげの尻尾切り」として民三郎が殺されることも知る。諸井民三郎も捕縛されて拷問を受けていたが、獄屋を脱走していたことを知り、どうにもならなさを感じて、民三郎の兄弟姉妹たちのためにも、民三郎に自害を勧めに行く役割も引き受ける。清吉は、あらゆる困難を自分の手で引き受けていく覚悟をもつ人間である。そして、山中に隠れていた民三郎を見つけ、民三郎と斬り合うことになり、民三郎を刺す。民三郎も、そのことを自覚して、自ら刺されたようなものであった。清吉は、それら一切のことを黙って背負っていくのである。

 榊原清吉は、病んだ母親を抱えてかつかつの百姓生活をする貧しい郷士だった。彼は目立たず、武芸においても学問においても、人よりも前に出ることをしないような温和な人間だった。好きな女性にも、それを明かすことも泣かれば、土産に買った櫛を渡すこともできないような日々を送っていた。しかし、覚悟をもって、自分の日々の生活を送り、あらゆる風雪に耐えて、優しく、しかししっかりと大地に根をおろす生き方をしていくのである。「みのたけの春」、まさにそうのように生きる姿が描かれるのである。

 多くの者たちが騒乱の流れの中に身を投じていく中で、彼は、家族のために、友人の家族のために、そして村の共同体のために、その平穏を願って命がけの行動を起こす。「変わりばえのしない日常」は、日々の努力の中でしか営まれない。その努力を穏やかに、しかし懸命に果たしていくのである。

 素晴らしい視点と素晴らしい描写が叙情豊かに綴られていく、いい作品だと思う。

2013年5月22日水曜日

志水辰夫『みのたけの春』(1)

 初夏の陽射しが、時折強く射して、いくぶん汗ばむほどの陽気になってきた。西の空に灰色の雲がかかっているので、これから少し陰ってくるだろうとは思うが、寝具を夏用に取り替え、扇風機を押入れから出してきたりしていた。こうした日常生活を保つ作業もなかなか大変なことではある。しかし、何も考えないでいることができるのもいいものだと思ったりもする。

 先日、図書館で志水辰夫の2作目の時代小説である『みのたけの春』(2008年 集英社)という作品を見つけて、叙情的で静謐な美しい描写の中で人間の生き方を描き出した優れた作品だと思いながら読んでいた。志水辰夫は、ハードボイルド風の作品だったり冒険譚だったりする作品が多くて、あまり触手が伸びない作家だったのだが、2007年から時代小説に転じて、時代小説だと人間が素朴に描かれうることもあって、これは感動を呼び起こさせられるいい作品だった。作品の中で、何度も感動する場面が描かれて、非常に丁寧に書かれたものであるというのが最初の読後感だった。

 物語の舞台は、京都から因幡へと向かう山陰道沿いの天領であった貞岡とされている。実際は、北但馬(兵庫県北部)の豊岡・出石(いずし)盆地であろう。本作では、生野銀山(現:兵庫県朝来市)の産出量が衰退して、かろうじて養蚕に活路を見出して生活が守られているよう寒村地帯とされている。山間に点在する村々の中での生活は、ぎりぎりの生活で、百姓の暮らしは養蚕にかかっているような状態だった。

 この地方一帯に、鉱山の開発などに携わり、山中鹿之助と毛利家の戦いの際には(1578年 天正6年)山中鹿之助の側について滅びの運命をたどった「入山衆」と呼ばれる有力者たちがいて、相互寄り合いとして互助組織を作って、共同自治統治のような形態を保っていたが、その「入山衆」が設置した武道を学ぶ尚古館と、江戸から京都を経てやってきた儒学者の柳澤宋元が学問を学ぶ塾として開いている三省庵に学ぶ青年たちを中心にした物語が展開されていくのである。もちろん、「入山衆」も尚古館も三省庵も作者の創作であろうが、実在したのではないかと思える程のリアリティがある。

 物語は、この尚古館と三省庵で学ぶ郷士の榊原清吉が友人の諸井民三郎と共に、病んでいる学友の武井庄八を見舞いに行くところから始まる。郷士は、戦時下のみ兵となるが普段は百姓として暮らしているもので、苗字帯刀は許されているが実質は百姓である。人別帳でも百姓になっている。その郷士である榊原清吉の家は、一時は「つぶれ」と言われるまで没落し、貞岡のはずれにある西山村というところの荒家で暮らし、かろうじて、養蚕によって借財を返済しながら、郷士の対面を保ちながら、老いて病んでいる母と暮らしているような家であり、諸井民三郎は、祖父と両親、兄という一家の大黒柱を「ころり(ペスト)」で失い、残された幼い四人の兄弟姉妹を抱えてかろうじて生活しているような状態だったのである。彼らが見舞う学友の武井庄八は、学問にも優れた青年だったが労咳を病んでいた。

 時代は幕末の1863年(文久3年)前後で、三省庵の師である柳澤宋元が、その4年前の1859年(安政6年)にこの山地に来て学塾を開いたとされており、安政6年の「安政の大獄」との関わりが暗示されているし、1863年(文久3年)8月の「天誅組の変」と、この地方の豊岡藩と出石藩、天領地の農民を組織して挙兵しようとした「生野の変」が描き出されていく。

 幕末の尊王攘夷運動というのは、実態があやふやなままで、いわば時代の空気のような流れのままに局地的な蜂起が行われたりしていったのだが、その「空気のようなもの」を作者は貧農者の側から描いているのである。京都に近い但馬は、昔から尊皇の気風があり、尚古館と三省庵の青年たちも、その尊王攘夷の空気に巻き込まれていくのである。挙兵のための農兵を集める運動が展開されていく。

 さて、榊原清吉と諸井民三郎は、武井荘八の見舞いに行く途中で運悪く生野代官の代行格であった新村格之進と出くわしてしまう。新村格之進は公儀の役人あることを笠に着て、二人に頭の下げ方が悪いと激怒し、雨の中を這いつくばらせ、身分の違いを嫌というほど思い知らせるのである。新村格之進は、郷士に対して陰湿で不遜な態度をとるし、それがやがて、堪忍袋の緒を切らした諸井民三郎の怒りとなり、民三郎が新村格之進を斬るという大事件に発展し、民三郎とその兄弟姉妹の運命を変えていくことになる。

 物語の展開は、後に記すことにして、少し感じ入った描写があるので、それを、まず記しておこう。それは、榊原清吉が労咳を病む武井庄八を見舞っている場面である。

 「部屋の隅に、文机と書箱が片づけてあった。重箱状の書箱が三つもある。蓋がしてあるところを見ると、いまでは本を開くこともかなわなくなっているのかもしれない。
 部屋は二方に開け、西方も障子になっていた。西日が当たっている。
 『清さん。すまないけど、そこの障子を開けてくれませんか』
 光が軒の上へ消えかけているのを見て、荘八がいった。
 『開けてもいいんか』
 『うん。夕日を見たいんだ』
 それで二枚の障子を開け放してやった。
 風が吹き込んできたみたいに澄んだ気配がはいってきた。
 向かいが庭の西隅に当たるようだ。前方は土塀で取り囲まれているが、堀の上に氷ノ山をはじめとする山並みが横たわっていた。
 日が落ちかけている。いまの時期は氷ノ山より西側へ落ちる。
 『ああ。きれいやなあ』
 庄八が目を細め、うっとりとした顔で言った。
 『大雨が降ったからねえ。靄がとれて、こんなにきれいな夕日は久しぶりだよ』
 正八のところからだと、首をねじ曲げなければ夕日は見えなかった。清吉は布団を引っぱり、楽に見られるよう方向を変えてやった。ついでに二尺くらい前へ出してやった。これで夕日が山に落ちるところまでながめられるようになった。
 ありがとう、と庄八が言った。」(2931ページ)

 これはなんでもない情景のように見えるが、主人公の榊原清吉の人柄をよく表すと同時に、何を大事に生きているのかを端的に示す。そして、それと同時に、沈みゆく夕日を二人で「きれいやなあ」といって眺める美しい光景は、庄八が抱える人生のはかなさと重なって、しみじみと胸に響く。

 そして、こうした光景の描写が随所にあって、その度に味わい深く読まされる。優れた作品というのは、こういう描写の作品だろうと思う。もちろん、そこに人間と人生への深い理解がにじんでいるからである。続きは、また次回に記すことにしよう。