2009年12月31日木曜日

宇江佐真理『三日月が円くなるまで 小十郎始末記』

 日本海側は大荒れの天気だそうだが、よく晴れた大晦日になった。何とはなしの大晦日ではあるが、「今年もまた一年が終わる」という思いは、やはりある。人は、こうして自然の流れの時間に区切りをつけて生きることを学んできたのだから、つけられるものならつけた方がいいと思う。

 先日、図書館が年末の休館をする前に出かけ、まだ読んでいない宇江佐真理『三日月が円くなるまで 小十郎始末記』(2006年 角川書店)があったので、すぐに借りてきて昨日読み終えた。調べてみると、この人の作品で読んでいないのは、残すところ数冊であり、どの作品も素晴らしい。

 『三日月が円くなるまで 小十郎始末記』は、文政4年(1821年)に盛岡藩士であった下斗米秀之進(しもとまい ひでのしん)が弘前藩主であった津軽寧親(つがる やすちか)を狙って起こした暗殺未遂事件を題材に、弘前藩と敵対していた盛岡藩の重臣の息子が父の命によってその暗殺計画を手伝うように言われ、町屋に住み、世間を知り、恋を知り、成長していく過程を描いた青春時代小説である。

 歴史的に言えば、南部一族であった弘前藩主の津軽家の祖である津軽(大浦)為信(つがる ためのぶ)が戦国時代の1571年に挙兵して同じ南部一族を攻撃し、津軽地方一帯を支配し、豊臣秀吉の小田原城攻めにも参戦して秀吉から正式な大名として認められたが、そうした経緯から南部一族の盛岡藩から遺恨をかっていたのである。以後も領地をめぐっての「檜山騒動」と呼ばれるような事件が起こっていた。

 そして、文政3年(1820年)に盛岡藩主の南部利敬(なんぶ としたか)が、一説では弘前藩への積年の恨みから悶死したといわれるような死に方を39歳の若さでおこない、後を継いだ南部利用(なんぶ としもち)がまだ14歳で無位無冠であったのに対し、津軽寧親はロシアに対する北方警備を命じられて従四位下に任じられたり、盛岡藩八万石を越える十万石と石高を改められたりしたために、盛岡藩は、自分たちより格下だと思っていた弘前藩に対して遺恨を抱いていたと言われている。

 盛岡藩士の次男に生まれた下斗米秀之進は、江戸で夏目長右衛門(なつめ ちょうえもん)の下で武術をおさめ、また当時の兵法家であった平山行蔵(ひらやま こうぞう)の下で兵法を学び、文武共に優れた人物として師範代まで務めている。そして、1818年に父の病で郷里に帰り、そこで私塾兵聖閣(へいせいかく)を開設して多くの武家や町人の子弟教育にあたっていたが、藩主の悶死事件で「忠」をつくさんと津軽寧親に果し状を送り隠居を勧めたが、聞き入れられなかったために津軽寧親が参勤交代で帰国する途上をねらって暗殺を企てるのである。

 しかし、仲間の密告によって失敗に終わり、下斗米秀之進は「相馬大作」と名前を変えて盛岡藩を脱して江戸へ向かうが、幕吏(実際は弘前藩士)に捕えられ、1822年に処刑されている。

 この事件は「相馬大作事件」と呼ばれ、後に勤皇思想を説いた水戸藩の藤田東湖やさらには吉田松陰にまで影響を及ぼし、「みちのく忠臣蔵」と呼ばれたりして、講談や小説、映画にもなっている。

 宇江佐真理は、この事件を背景にして、その事件と関わる一人の青年武士が成長していく姿を、彼女の柔らかな文体で実にさわやかに描き出す。作品の中では、弘前藩は「島北藩」、藩主の津軽寧親は「島北利隆(しまきた としたか)、盛岡藩は「仙石藩」、下斗米秀之進は「正木庄左衛門(まさき しょうざえもん)」と名前が変えられ、暗殺計画のもととなった事件としても、時の第十一代将軍徳川家斉の実父で権勢を誇っていた一橋治済(ひとつばし はるさだ)が自分の隠居所をたてるための賄賂として檜を要求したのに「仙石藩」は応えられず、「島北藩」がこたえたために、江戸市中で「仙石藩」が馬鹿にされるようになったということで、その汚名をそそぐために暗殺計画が起こったということになっている。

 この辺りにも、作者が「世の権力」や世間体、外聞というものがいかにつまらないものであるかを示すものであると言えるだろう。

 物語は、その「正木庄左衛門」の補佐を命じられた主人公・刑部小十郎(おさかべ こじゅうろう)が父命によって、町の骨董屋の長屋に住むところから始まる。その骨董屋は、かつては長崎奉行同心であったが武家に嫌気がさし、骨董屋をしながら岡っ引きをしている変わり種で、美貌の娘と妻の三人暮らしである。後にその娘が、実は「拾い子」であることが分かるが、娘もさっぱりしたちゃきちゃきの江戸っ子で、主人公は彼らを通して、世間を知り、生きることの喜びを知っていくのである。彼は修業中の青年僧とも友人になっていく。

 一方、彼が補佐しなければならない「正木庄左衛門」が計画の途中で父の病のために郷里に帰って行ったために、その後の詳細を調べる目的で郷里にいくことになるが、金がないために友人となった青年僧と寺に泊めてもらうことにして、そのため禅寺での生活を学ぶ修業をしたりする。

 やがて、暗殺計画は見事に失敗し、「正木庄左衛門」は捕えられ、主人公は軟禁状態に置かれる。そういう出来事の中で、骨董屋の娘への恋心も増し、「いったい人間の幸せとは何か」をつくづく知っていくのである。

 物語の結末は、主人公の刑部小十郎は自分の意を通し、また、骨董屋の娘も自分の気持ちに素直になって結婚し、主人公も、一度は父親や武家の面目を保とうとして果てた正木庄左衛門などの姿や軟禁状態が続いたりして、武家など捨てようと思っていたが、事態が好転して父の家督を継いでいくということになるが、展開の仕方に無理がなく、主人公と骨董屋の娘の会話にもユーモアがあり、友人の青年僧の姿や骨董屋家族の温かさがにじみ出て、主人公のまっすぐな性格も柔らかい筆致で描かれているために、取り扱われている事件の暗さが「爽やかさ」と「温かさ」で覆われている。

 たとえば、父命をうけて町の骨董屋を訪ねることになった最初の部分で、骨董屋のある久松町を訪れた時、当時流行っていた戯作の「お染と久松」をもじって、「お染参上」と口に出したり(6ページ)、郷里への旅程のために金がなくて寺に泊まるために禅寺で生活作法を学ぶときに、厳しくしつける年長僧侶に対して、今までそれに従順に従ってきたが、その修業の終わりに、「なるほど、道元は偉い坊主だ。だが、もっと偉い奴がいることをお前は忘れている。言え、言ってみろ」と啖呵を切って、「釈迦だろうが。お前は釈迦の教えを忘れておるようだ。釈迦は八正道を会得せねば涅槃には至らぬと説いた。すなわち、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定だ。この七日間、お前には八正道の教えがことごとく欠けていた。お前は『正方眼蔵』におれを当て嵌めることに躍起となっていただけだ。よいか、お前達は道元を崇めるが、道元は釈迦の中間だ。さよう心得よ、くそ坊主!」と言ったりする(177ページ)。

 主人公は鷹揚でまっすぐで、そのくせ短気だが、その彼を骨董屋の家族や郷里の母親が温かく包んでいく。ひとつひとつの逸話が、そうした主人公の成長には欠かせないものとして描かれていく。

 やはり、この人の作品は、読んでいて本当に嬉しくなる作品である。言いつくせない嬉しさがある。

 さて、明日は元旦で、2010年はどんな年になるだろうと誰もが思っているだろう。個人的にあまりいいことも続いていないが、多くの感動があればと願っている。これからお雑煮の材料でも買いに行くとしよう。

2009年12月29日火曜日

北原亞以子『新地橋 深川澪通り木戸番小屋』(2)

 よく晴れた寒い師走の日になった。昨日はなんだかんだと過ぎてしまった。前夜に眠るのが遅くなったので起き出すのも遅く、中学生のSちゃんに数学の因数分解のこつを教えたり、「あざみ野」の「神戸珈琲物語」が年末セールをするという案内が来ていたので、新年用もあわせて買いにいったりして、時間が過ぎてしまった。

 北原亞以子の『新地橋 深川澪通り木戸番小屋』は、やはり、いい作品だと思う。「第四話 鬼の霍乱」は、木戸番小屋の笑兵衛の妻「お捨て」が急な病気で倒れ、夫婦の深い絆が描かれて、「よく分れずに、ここまで来た――。今、落ち着いた気持ちで毎日を過ごせるのは、お捨てが連れ添ってきてくれたからではないか」(文庫版 176ページ)と笑兵衛が思ったりする。

 お捨ての病が癒えて帰ってきた時、出かけていた笑兵衛が帰って来るとそこにお捨ての姿を見る場面が、何とはなしにしみじみしていい。

 「お捨てが寝床の上に座り、おけいと弥太右衛門(木戸番小屋の向かいにある自身番の責任者夫婦で、お捨てを引き取って看病していた)が女房にはさまれて、白湯を飲んでいた。
 『お帰りなさいまし、あなた』
 笑兵衛はふと、涙ぐみそうになった。
 お捨てが弥太右衛門の家に運ばれて行ったのは三日前のことだった。その上、今日も見舞いに行っているのである。が、片頬に深い笑靨(えくぼ)のできるお捨ての面に、ようやく会えたような気がするのだ。
 『もういいのか』
 と、笑兵衛は言った。
 『熱なんざ、やたらに出すな』
 お捨てのころがるような笑い声が、狭い番小屋の中に響いた」(文庫版 175-176ページ)

 こういう味わいのある情景が随所に描かれていくのである。

 その一方で、隠居させられた木綿問屋の主人が、妻をなくし、話し相手をなくして、人付き合いが不器用で孤独のうちに日々を過ごしていく姿が丹念に描かれていく。

 「三国屋(木綿問屋)からはじき出され、長屋の人達はなじんでくれず、忠実な喜兵衛(手代)にはその姿は見せられない。浜吉(隠居させられた木綿問屋の主人)の言う通り、天涯孤独にひとしい淋しさではないか。お捨ての作った味噌汁を飲んでいる時の、或いは弥太右衛門(木戸番小屋の向かいにある自身番の責任者)と深夜まで将棋を指している時の浜吉は、いったいどこで笑っていたのだろうか」(文庫版 184ページ)と笑兵衛は思う。

 浜吉は、ひとりですねて、ひとりで孤独になっているのである。しかし、この老人の心情を木戸番夫婦は察していくのである。

 「第五話 親思い」は、木戸番夫婦を親のように慕う複雑な生育経過を持つ蔬菜(青物野菜)売りの豊松が、自分の生みの親が、自分が嫌っている老婆であることを知り、また、父親がひどい武家だったことを知り、その中で葛藤していくが、生みの親と育ての親、そして笑兵平夫婦に「親孝行」をしていく話である。

 人違いから豊松に自分の武家としての家を再興するチャンスが訪れる。家を再興するために育ての親のもとを離れ、四国丸亀藩へ行こうとする。そのくだりは、次のように表わされている。

 「『戸田(武家としての豊松の家)を再興する時がきた、俺あ、そう思ったよ。おふくろは、親父を自慢していた。その親父を殿様も藩の人達も見直してくれたのだもの。あの世でどんなにか喜んでいるだろうと思った。すっかり気持ちが昂っちまってね。寝床の中で、武家の礼儀作法を、あらためて小父さん(笑兵衛)に仕込んでもらわなくっちゃならねぇと、そればかり考えていたんだが』
 でも――と、豊松は言う。
 『六つの鐘が鳴る前に起きて台所に行くと、もうおみねおっ母(育ての親)がめしを炊いているんだ。赤飯を炊いているんだと言ったけど、おみねおっ母は泣いていた――』
 お捨ても、ふと涙ぐみそうになった。
 八歳の時から、いや、赤子の時からあとを追われ、田圃や畑にも連れて行って育てた豊松であった。この子は武士の子、いつか離れてゆくことがあるかもしれないと自分に言い聞かせていても、諦めきれぬものがあるにちがいない。それは、吾助(育ての父親)とて同じことだろう。
 『俺あ、おみねおっ母や吾助父つぁんと顔を合わせているのがつらくなって、うちを飛び出して来たんだ』」(文庫版 207ページ)

 こういうくだりは、それぞれの優しい思いやりが素朴ににじみ出ている。

 「第六話 十八年」は、指物大工をしてそれぞれに修業を重ねた二人の男の姿を描いたもので、ひとりは、不器用で気が聞かない奴と言われながら、修業を重ね、親方の娘に惚れていたが、娘はもう一人に惚れて結婚し、もう一人の男を羨みつつすねて、自分の職人としての腕にも言い訳ばかりしていたが、良きできた女房をもらい独立し、もう一人は、優れた腕を持って親方の娘と結婚したが、自分の職人としての気質が理解してもらえず、夫婦別れをして上方に修業に出ようとするのである。

 一人は独立し、その祝いの席にお捨てが招かれ、もう一人は、上方へ立つ前に留守番をしていた笑兵衛を訪ねる。人生は、まことに奇異。

 『深川澪通り木戸番小屋』は、人の幸いも不幸も描き出される。不幸には涙を流し、幸いには喜ぶ。そういう木戸番夫婦の姿が、人情味あふれて描かれるのである。

 本書の「第五話 親思い」に最初に、お捨ての人柄を見事に描いた場面が出てくる。お捨ては、土間の床几の上で居眠りをして、床几から転げ落ちそうになる。

 「『あら、いやだ』
 床几から落ちそうになっていたにちがいない自分の姿を想像して、お捨ては笑い声を上げそうになった。
 が、夫の笑兵衛は、一間しかない四畳半で眠っている。枕屏風の向こう側から、少々荒い寝息が聞こえてくるのは、昨夜の騒動で疲れているせいかもしれなかった。
 お捨ては両手で口許をおおい、急いで外へ出た。指の間から笑い声がこぼれてきて、お捨てはふっくらと太った軀を二つに折って笑った。床几から転げ落ちそうになっている自分の姿は、想像すればするほどおかしかった。
 ころがるような笑い声が澪通りにひびいたが、向かいの自身番は静まりかえっている」(文庫版 187-188ページ)

 お捨ては、自分に正直で素直で、天真爛漫である。そういうお捨てを夫の笑兵衛は、包み込むように愛していくのである。こういう夫婦に触れた人々が、その夫婦の姿を見ただけで、深い慰めを覚えていくのである。彼らの木戸番小屋は、いつも開いている。

 北原亞以子のこの作品は、本当にいろいろな意味で噛めば噛むほど味わいが出てくる作品だと思う。このシリーズは、読み終わった後の読後感が優しい気持ちで満たされる。肝心の一作目をはやく読みたいものである。

2009年12月26日土曜日

北原亞以子『新地橋 深川澪通り木戸番小屋』(1)

 朝のうちはどんよりと曇っているし、雨模様であるが、午後からは晴れるらしい。昨夜は、人間関係が冷え切ってしまった出来事を聞いて、なんとなく気の重い夜となったので、こういう時は、今とてもいいと思っている『のだめカンタービレ』を見るに限ると思い、三度目だが、「パリ編(ヨーロッパ編)」をぶっ続けで見て、細かい演出と演技で表わされる上野樹里が演じる「のだめ」の姿に深い感動を覚えながら眠った。

 そんなわけで、読みかけの北原亞以子『新地橋 深川澪通り木戸番小屋』(1995年 講談社 1998年 講談社文庫)も読みかけのままである。これは、この人の作品の中でも一番好きなシリーズで、4冊出ている中での3番目の作品である。武士をやめて木戸番として細々とした生活をしている「笑兵衛」と「お捨て」の夫婦、彼らを最後の心の拠り所としている人々の話で、しみじみとした人間のあり方が伝わる珠玉の作品である。

 『新地橋 深川澪通り木戸番小屋』は、「第一話 新地橋」、「第二話 うまい酒」、「第三話 深川育ち」、「第四話 鬼の霍乱」、「第五話 親思い」、「第六話 十八年」の全六話からなっており、「第一話 新地橋」は、かつては新地と呼ばれる岡場所で遊女をし、今は、相愛の男の犠牲によって岡場所を出て小さな団子屋をしている「おひで」という女性の話である。

 彼女の相愛の男は、「おひで」を岡場所から脱け出させるための金を作ろうと質屋に強盗に入り、捕まって遠島になっている。彼が遠島になる時、彼の弟分の男に「おひで」を頼むと言い残していった。弟分は風采のあがらない笊売りだったが、「おひで」に憧れ、彼女を助け、やがて夫婦になる。しかし、「おひで」の心には彼女を身受けして岡場所から脱け出してくれた前の男への思いがある。

 「おひで」の夫となった弟分はそのことを知ってはいるが、生活の中で次第にやりきれない気持が膨らみ、「おひで」に暴力を働いたり、博打に走ったりして借金を作ってしまう。「おひで」が心に抱いている前の男が罪を減じられて赦免になって帰って来るという。「おひで」は夫との間にできた子どもを夫の暴行で流産する。

 だが、「おひで」は、その夫の借金を返すために再び岡場所に身売りする。そして、夫は、苦界に沈む「おひで」を助け出そうと、彼の兄気分がしたことと同じように質屋に強盗に入ろうとする。

 木戸番の「お捨て」は、そういう「おひで」にそっと寄り添う。そして、彼女の夫が強盗しようとするところを、身を呈して止める。木戸番夫婦は、そういうどうにもならないところでもがく「おひで」夫婦を見守っていくのである。

 「第二話 うまい酒」は、女房を弟弟子に寝とられて自棄になって江戸へ出てきた腕のいい左官が、一文なしになり、空腹を抱えて木戸番の焼芋の匂いに誘われ、蹲ってしまったところに、木戸番の裏の炭屋が穴のあいた壁の修理が必要だとの話を聞き、ふらふらと名乗り出る。木戸番の「お捨て」は、彼に「にぎりめし」を作り、「笑兵衛」は、その仕事をしろと言う。その瞬間の出来事が次のように表わされている。

 「気がつくと、木戸番の女房の姿が見えなかった。炭屋から支払われる賃金で、焼芋を買わせてくれと頼むつもりだった偬七(左官)は、垣根の破れをふりかえった。木戸番小屋の前まで、破れの向こうの路地を立って歩いていけるかどうか、自信がなかった。
 その破れから、木戸番の女房があらわれた。板のように平らなものと、丸いものを持っていた。
 偬七は、かすんできた目をこらした。平らなものは盆、丸いものは土瓶で、盆の上にはにぎりめしがのっていた」(文庫版 66ページ)

 彼はこうして木戸番のある「いろは長屋」に住むことになる。しかし、女房に裏切られ、弟弟子に裏切られ、人を信じることができないでいる。

 その「いろは長屋」に、心から人の良い「善蔵」という油売りがいた。「善蔵」は、偬七と友だちになりたいと願って偬七を助けようとする。だが、人を信じることができなくなっている偬七は、それを鬱陶しく思う。

 「お前、――それほどまでにして、どうして人の世話をやくんだ」
 善蔵は黙って笑った。
 「どうしてだよ。買いたいものも買わずに、どうして人の世話をやくんだよ」
 「だってさ・・・」
 善蔵は、土間を眺め、自分の膝を眺め、それからやっと偬七を上目遣いに見た。
 「俺、人に好かれねえから・・・」
 蚊の鳴くような声だった。
 「俺、小さい時から好かれねえから。――一所懸命、人の面倒をみて、ようやくつきあってもらえるんだよ」
 偬七は口をつぐんだ。小さい頃から頭がよいと言われ、左官となってからは親方より腕がよいと評判をとった偬七も、気がついてみれば、心を許せる友達は一人もいなかった。(文庫版 72ページ)

 だが、偬七は思う。

 「けっ、何が『偬さんならずっとつきあってくれると思った』だ。何が『長屋の人達は親戚みたようなものだ』だ。
 笑わせないでもらいたい。二世を契った女でさえ、何くわぬ顔で亭主を裏切るのである。文字通り、弟のように可愛がっていた弟弟子は、『兄貴の恩は忘れねえ』と言いながら女房の袖を引いた。血でつながった弟はいなくとも、仕事でつながった弟がいると思い、博奕の借金を払ってやり、割のいい仕事をまわしてやって、そのあげくに突きつけられたのが、『姐さんは俺に惚れているんだ』という科白なのだ。
 何が身内だ、何が親戚だ・・・・・
 誰も、あてにならねえ。女房だって、兄弟だって。――(文庫版 80-81ページ)

 そういうふうにして「善蔵」のひたむきな気持ちを踏みにじった偬七を、木戸番の「笑兵衛」は殴りつける。「善蔵」は、どこまでも偬七を大事にしようとする。「笑兵衛」に殴られた傷の心配をする。そういう温かさに触れて、彼の不信で尖ったような心が和らいでいく。

 「第三話 深川育ち」は、木戸番小屋のある地域に仲の良い姉妹二人で切りまわしている居酒屋に、いい男だが遊び人で金が目当ての男が通い、その男をめぐって姉妹が争い合うという話である。姉は妹のために嫌なこともして居酒屋を開いた。だが、いい男が妹に色目を使って手を出そうとする。姉は妹があきらめてくれるようにと、妹を守るためにその男と寝るが情が移ってしまう。その男は妹も誘う。そして、妹は姉がその男と寝たことを知り、姉を殺そうとまでする。

 木戸番夫婦は、様子がおかしくなった姉妹を案じ、妹が出刃包丁を振りかぶったところに飛び込んで、それを止める。木戸番の「お捨て」は言う。

 「お二人とも深川育ちですもの。いやなことは、川に流してしまわれますよ」(文庫版 133ページ)

 本当にその通りだ、と思う。嫌なことや取り返しのつかないことが山ほどある。そんなものはみんな川に流してしまえ。生きることは前を見ることだから。そんなことを思いながら、ここで本を閉じた。今夜は、また、静かにこの続きを読もう。

2009年12月25日金曜日

藤原緋沙子『白い霧 渡り用人 片桐弦一郎控』

 よく晴れたクリスマスの朝になった。昨夜少し遅くなったので起きるのも遅く、なんとなくボーっとして午前中が過ぎてしまった。今日はこんなふうに一日が過ぎていきそうだ。

 朝、Tさんが親戚の家でとれたというキャベツや白菜をもって来てくださった。Tさんはプロテスタント教会の牧師の娘として生まれ育ち、今はたくさんのお孫さんに囲まれて過ごされている。90歳を越えている介護を必要とするお母さんのお世話にも心を砕かれている。御主人は植木職人として現役で働かれている。

 昨夜、というか丑三つ時を過ぎていたが、ベッドの中で藤原緋沙子『白い霧 渡り用人 片桐弦一郎控』(2006年 光文社文庫)を読んだ。これは、五日ほど前に読んだ『桜雨 渡り用人 片桐弦一郎控(二)』の第一作目で、勧善懲悪の娯楽時代小説ではあるが、やはり第一作目の方が作者の熱意や思い入れも深くていい。特に、金貸しで借金の取り立てを生業としている「おきん」という女性をめぐる事情など、主人公の片桐弦一郎を取り巻く登場人物たちの詳細が描かれていて、その描き方も丹念であるし、浪人となった主人公の生活苦もにじみ出ている。

 主人公の片桐弦一郎は、仕えていた大名家が取潰しにあい、その騒動で新妻も失い、就職活動をするが叶わず、ようやくわずかな労賃で筆耕の仕事をもらって細々と裏長屋で暮らしを立てている浪人で、地主大家の知り合いの「口入屋」(現:人材派遣屋)から頼まれて、貧苦にあえいでどうにもならなくなった旗本家の再興のために臨時の「用人(秘書官)」として働くようになるところから話が展開していく。

 その旗本家の道楽息子がした借金の取り立てに現れるのが「おきん」で、「おきん」は、飲む・打つ・買うの三拍子もそろった亭主を追い出し、女手一つで借金取り立て業をして子どもを育てるが、成人した子どもたちはそういう母親の生業を嫌って家を出ている。「おきん」は「青茶婆(金取り婆)」と嫌われているが、その内実は、気風のいいさっぱりした女性であり、やがて主人公を助けていく人物となる。

 雇われ用人として旗本家の借金を何とか減らしたいと思った主人公の片桐弦一郎は、その「おきん」の実情を知り、「おきん」の窮状を助け、祖語のあった親子の関係を修復させ、その息子を助けていったりする。このあたりは、親と子の関係の修復の姿が素朴に描かれていていい。

 主人公は、窮状していた旗本家を再興するために、旗本家の道楽息子を立ち直らせ、旗本家の領地に赴き、その実情を調べ、そこで無理難題を言うのではなく、紅花の栽培などのていあんをするなどして領民たちの暮らしも成り立つように知恵を働かせていく。その領地の村で起こった事件のために奔走したり、強盗を捕えたりする。物語は、旗本家の息子が妾腹の子であったり、友人から利用されていただけだったり、また、領民の中で村八分のようにして扱われていた娘が殺されたりと伏線がたくさんあり、それが繋がって主人公の再興の努力が実っていくというふうになって、結構面白く読めるように構成されている。

 主人公の片桐弦一郎は、細々とした自分の暮らしは貧しいが、そのことにあまり拘泥しないし、事にあたっても内情を正直に話して対応しようとする。彼は飾らない。そういうところが人々から信頼されて事件の解決にあたっていくのである。

 こういう主人公の設定は、それを言葉ではなく事柄で描き出そうとすると、なかなか難しいのだが、作者は、この作品ではそれを、出来事を丹念に描いていくことによって成功していると言えるような気がする。こういう作品は面白く読めればそれでいいのだから欲を言う必要はないが、万事がうまくいきすぎているような気がして、出来たら、主人公が手痛い失敗をしてしまうような状況の中で苦労することもあってもいい気もする。もちろん、それはない物ねだりではあるが、藤沢周平の『用心棒日月妙』のような展開になればいいと期待したりする。

 ただ、個人的には、何事にも拘泥しないという人間の姿は、わたしはとても好きで、臨時雇いの「渡り用人」だから自分の地位や名誉にも拘泥しないし、もちろん生活苦もあるのだから金銭の必要性もあるが、それにも拘泥しないところがいい。その意味で、この主人公は魅力的である。

2009年12月24日木曜日

佐藤雅美『白い息 物書同心居眠り紋蔵』(2)

 It’s Christmas Eve.
 朝方かかっていた薄雲が晴れて、蒼碧の空が広がっているが、気温が低いので空気に刺すような冷たさを感じる。

 このところ『のだめカンタービレ』にはまっていて、昨夜は、そのアニメ版を見たりしていた。一途な思いは、やはり人を動かす力がある。作品の中で使われているJ.ブラームス(1833-1897年)の「交響曲第1番」を聴いて見ようかと思ったりする。ブラームスはなかなか自分の気持ちを素直に伝えることが苦手で表面に出ることを嫌って、おそらくシューマンの妻クララへの恋心もあっただろうが、質素な生活を好み、自然を愛した人だとも言われている。

 わたしは音楽に関してはほとんど無知だが、「無駄なものは何もない」という彼の哲学は、晩年の「クラリネット三重奏」や「クラリネット五重奏」などを聴いているとわかるような気もする。

 さて、佐藤雅美『白い息 物書同心居眠り紋蔵』の続きだが、第四話は旗本と町火消しとの争いにからむ事件に絡む話で、紋蔵のゆっくりとした、しかし確実な真実の追求の姿が描かれ、「何事もなかったことにする」結末がこの作品らしくて優れている。第五話は、贋金作りに関わる事件で、紋蔵の手下が播州龍野の脇坂家の家来を誤って捕えたことにより事柄が公となって紋蔵の左遷の噂が流れるが、贋金作りの犯人を捕えることによってなんとか沙汰止み(左遷の中止)となっていく展開になっている。

 作品中に登場する脇坂中務大輔は、脇坂安宅(わきさか やすおり 1809-1874年)のことで、安政4年(1857年)に幕府の老中となるが、井伊直弼の桜田門外の変後の文久2年(1861年)4月に隠居し、再び5月に老中として勤めた人である。寺社奉行時代(弘化2年 1845年~)に風紀の乱れを起こしていた僧侶の取り締まりを厳しく行ったことで有名で、その後、自分の妾のことで罷免されたが、再び寺社奉行として登用された経緯がある。

 佐藤雅美は、その脇坂安宅の寺社奉行復帰と紋蔵の失敗とを絡めて、双方が丸く収まる出来事としてこの作品を仕立てている。こういうところが作者の歴史通を思わせる。

 主人公の紋蔵は、突如眠りに陥る奇病をもちながらも頭脳明晰で人情厚い人物であるが、奉行所の下役人であり、勤め人のつらさを背負っている人物である。彼の生活は、その小さなバランスの上に成り立っているのだから、定廻り同心として少し生活が楽になったが、左遷されるとたちまち家計に響いてくる。そういう危うさの中で、紋蔵は苦慮していく。

 何とか左遷は免れたが、しかし、また吹上上聴(将軍の前での各奉行の公開裁判のようなもの)が行われることになり、判例に詳しい紋蔵は、再び例繰方の仕事を手伝うようになる。そして、一見、明白に見えるような事件の裏に隠されている事実を上げて、例繰方としての優秀な働きを示してしまう。そのことによって、収入の多い定廻りから再び例繰方へと戻されるのではないかと戦々恐々とする日々を過ごす。そして、彼の予測通り、彼は再び例繰方に戻されてしまう。彼は再び物書同心に戻るのである。

 紋蔵はいつも「損」をする人である。優秀であればあるほど、彼は「損」をする。そういう役割を演じながら、紋蔵はその中を飄々と生きていく。「紋蔵はこの日の朝も弁当を片手に、白い息を吐きながら、背中を丸めて役所に向かった」(309ページ)という言葉で、この作品は終わる。下役人としての勤め人のつらさがにじみ出ている。紋蔵は諦念を抱いて生きる。

 しかし、彼は自分の置かれた状況の中で、あくまでも自分のスタイルを貫いていく。こういう主人公の姿がこのシリーズを豊かなものにしている。それはおそらく作者の人生観とも重なっているのだろう。そうして見ると、これはやはりなかなかの作品だと思う。

 クリスマスの夜は、いつも独りで静かに過ごしたい。更けゆく夜の中で、「さやかに星はきらめき」の讃美歌を聴き、しみじみと自分の小ささを感じたい。今夜もそうして過ごすだろう。「It’s Christmas Eve」なのだ。

2009年12月22日火曜日

佐藤雅美『白い息 物書同心居眠り紋蔵』(1)

 よく晴れてはいるが、底冷えのする日になった。

 先日テレビで見た『のだめカンタービレ』があまりに面白かったので、以前フジテレビで放映された全部のドラマを見たいと思ってネットで検索したら見つかり、全11話を抱腹絶倒しつつ感動しつつ、夜半まで見ていた。若い音楽家たちの歩みを記した物語の展開も、描かれている人物も、出演者の演技も、演出もいい。上野樹里の「のだめ」も素敵だ。一話一話で使われている音楽も素晴らしい。完結編の前編が映画になり公開されたので話題になっているが、ドラマとして本当にいい作品だと思う。

 そういうわけで、昨夜はほんの少しだけ、佐藤雅美『白い息 物書同心居眠り紋蔵』(2005年 講談社)を読んだだけだった。

 この作品は、このシリーズの七作目で、主人公の「居眠り紋蔵」は、奉行所の例繰方(判例調査官・記録係)から定廻り同心(現場の刑事といったところか)になっており、江戸市中で起こる蘭の花の売買にからむ民事事件(第一話)や隣家との日照をめぐる争いに絡んだ盗み(第二話)、死罪になることが分かっているのでなかなか盗みを自白しない事件(第三話)などに関わっていく。

 そういう中で、主人公の「居眠り紋蔵」は、「根気と人情で吐かせる(自白させる)定廻り同心」(115ページ)として徹しようとする。彼は、根気強く事件を調べていく。そういうところは、おそらく作者の佐藤雅美の一つの姿勢でもあるだろう。佐藤雅美は、おそらくこうした事件を当時の『御定書』や『御定書例書』、あるいは『仕置例書』などの犯罪例を伝える関係資料に丹念にあたりながら物語を構成しているのだろうと思われる。

 ただ、このあたりになると取り扱われている事件と主人公には客観的な関係しかなく、ただ事件の解決にあたって主人公の、できる限り罪人を作らないようにするという「情け」が描き出されるだけで、このシリーズの第一作目の作品に比べるとやや作品としての深みにかけるような気もする。

 だが、第三話目の「それでも親か」は、なかなか自白しない盗人に手を焼いているころに、主人公の娘が重い病になり、その娘のもとにかけつけたくてもかけつけられない状態に悶々とし、そのことを知った犯人が、ついに「それでも親か」といって涙をこぼして自白する話で、そうして自白した犯人に「死罪」だけは免れさせるという話になっている。昨夜は、この第三話までしか読んでいないので、続きは今夜にでも、と思っている。

 今朝は、福岡からK氏が訪ねて来られた。K氏は、銀行を定年退職された後、法人の財務などをボランティアでされていたりしておられる。以前、九州で催していたセミナーでわたしの講義を受講され、それ以来、わたしの著作などを集めておられる方で、10年来の親交がある。コーヒーを入れて飲みながら、午前中いっぱい、いろいろな話をしてくださった。夕方は中学生のSちゃんが来ることになっている。こういう人たちと会うのは楽しい。

2009年12月21日月曜日

藤原緋沙子『桜雨 渡り用人 片桐弦一郎控え(二)』

 よく晴れて入るが、今日も寒い朝になった。朝から掃除や洗濯などの家事を2時間ほどかけてして、一息入れ、少し仕事をして、プリンターインクがなくなって印刷ができなくなったので、今日は、近くの家電店まで歩いて出かけようかと思ったりしている。

 昨夜、少々疲れを覚えていたが、テレビで「JIN-仁」の最終回を見て、これが終わってしまうのを残念に感じながら、主演の綾瀬はるかの演技力に感心していた。テレビといえば、18日(金)と19日(土)に連続して二ノ宮知子原作の『のだめカンタービレ』が放映されて、あまりのおもしろさと着想の良さに抱腹絶倒して見入っていた。原作は漫画で、そちらは読んだことはないが、ドラマは傑作だった。とくに「のだめ」を演じた上野樹里がすばらしくいい。使われる音楽も本当にいいし、場面と音楽がぴったり合って、演出の素晴らしさを感じた。だから、金・土・日と久しぶりで3日間もテレビで嬉しさを与えられた。

 「JIN-仁」の放映の後で、コーヒーを飲みながら、藤原緋沙子『桜雨 渡り用人 片桐弦一郎控(二)』(2007年 光文社文庫)を読んだ。この作者の作品は、以前、『見届け人秋月伊織事件帖』のシリーズを読んでおり、これも文庫書き下ろしのシリーズとなっているが、主人公の片桐弦一郎は、安芸津藩(現:広島県)の江戸留守居見習いであったが、藩の世継ぎ継承問題で主家がとりつぶされ、そのときに国元にいた妻もその事件の道連れで失い、江戸で古本屋の筆耕をしながら暮らしている浪人である。

 しかし、剣の腕も立つし、頭脳も明晰で、爽やかな人柄も買われて、時折、「渡り用人」(臨時雇いの秘書官)として用いられて、雇い主が抱えている問題を解決していくという筋立てになっている。

 この作品でも、ふとしたことで関わりをもった信濃(現:長野県)の飯坂藩という藩の世継ぎ問題と絡んだ政権争いによって困窮に陥っている紙漉き百姓や町人、貧苦にあえぐ下級武士たちを「渡り用人」となって助けていくという話で、勧善懲悪の娯楽時代小説としてけっこう面白く読んだ。

 この作品の構成が「第一話 鳴鳥狩(ないとがり)」、「第二話 蕗の盃」、「第三話 桜雨」の三部構成で物語が展開されているのだが、なかなか趣向が凝らしてあり、第一話が「梅」にまつわり、第二話が「桃」にまつわり、第三話が「桜」にまつわる話となって、たとえば、「第一話」の書き出しが、「片桐弦一郎は、手酌で酒を飲みながら、時折部屋に忍びこんでくる梅の香に気づいていた」(7ページ)となっており、「第二話」の書き出しが、「日毎に春を感じてはいたが、昨日終日降った雨が、一本の桃の木の花を一気に咲かせてしまうとは・・・その神秘な自然の力に弦一郎は驚いていた」(101ページ)となっている。そして、「第三話」の表題「桜雨」は、桜の花びらが雨のように降り注いでいる様を指す。

 第一話の表題として使われている「鳴鳥狩(ナイト狩り)」とは、前日の夕方、鳥が鳴いている場所を覚えていて、翌朝早くその鳥を、鷹を放って狩りをすることで、前々から目をつけられていて悪事の道具として使われた人々を示すものらしい(90ページ)。主人公は、その「鳴鳥狩」として政争の道具に使われた人物への仕打ちに憤りを感じて、この事件に関わっていくのである。

 彼が関わった飯坂藩は「紙漉きによる元結」の産地として成り立っており、作者の藤原緋沙子は、その「紙漉き」の過程も詳しく調べて書いているし、藩の悪家老と悪徳商人によってその制作者が困窮に陥っている状態や、人々が爆発して一揆になっていく過程も盛り込んで、なかなか味のある作品に仕上げている。

 ただ、主人公の片桐弦一郎が、あまりにも格好良すぎるきらいがある。この作品の第一作目を読んでいないので確かなことは言えないが、すこぶる格好いい。浪人でありながら、臆することも卑屈になることもなく、また、屈託もなく、颯爽と事件を解決していく。そして、藩政にからむような大きな事件を解決したからといって。それに執着することなく元の生活に戻る。彼は、極めて優しく、困窮にあえぐものを助けていく。まさに、拍手喝采の主人公なのである。

 だから、読み物としてはとても面白い。が、少し物足りなさを感じるような気もする。出来たら、この作品の一作目を読んでみたい。

2009年12月19日土曜日

佐藤雅美『八州廻り桑山十兵衛』(2)

 よく晴れているが、すこぶる寒い朝である。日本海側では大雪とのこと。このところ続けて伊豆で地震があり、ここでも揺れを感じていた。一昨夜の地震は、伊東で震度5というから、かなり揺れたかもしれない。今年の2月に修善寺の温泉に行き、帰りに「浄蓮の滝」を経て伊東を廻って、魚の干物を買って来たことを思い起こす。そのとき、伊豆半島は「逃げ道」がないので、半島全体を地震や津波が襲うと大変なことになるのではないかと思ったりした。

 数年後にはどこかに終焉の居を構えようと思って、あのあたりも、温泉はあるし、暖かくていいだろうと思い、下調べを兼ねて出かけたわけだが、どこに住んでもいいというのは、住むところがどこにもないということで、このままずるずると仕事を続けることだけは避けようと、いつも頭の片隅にその問題を抱えているので、ときおり、ふらっと下調べを兼ねて出かけたりする。

 この夏、九州の実家の近くにいい家の出ものがあるというので見に出かけたが、一足遅く、買い手がついてしまっていた。書斎として使えるような離れもある家だったので、残念だった。

 今日は土曜日でかなり忙しい土曜日になるのだが、昨日、佐藤雅美『八州廻り 桑山十兵衛』が途中で終わっていたので、これを記すことにした。

 昨日の続きであるが、主人公の桑山十兵衛は、自分流の自然体で生きているので、判断の間違いや失敗もある。第五話「密通女の高笑い」では、ある富農の女房が密通している現場を夫に見つかり、夫が相手の男を殺すという事件に関わるのだが、その女房は、相手の男に無理やり犯されたのだと主張する。当時、密通は死罪に値したが、そうであれば、女房は無罪となり、夫は殺人罪となる。

 桑山十兵衛は、どちらの言い分が正しいか判断できない。そうしているうちに、夫が獄死してしまい、その事件は不問のままに終わる。しかし、実際は、その女房が夫の財産を狙って、密通を仕掛け、わざと夫にばれるようにして、夫の気持ちを操り、罪を犯させようとしたのである。だが、夫が死んだあとでは妻の言い分が通り、桑山十兵衛は苦い思いを抱いたままである。女の策略は見抜けない。

 また、最後の「霜柱の立つ朝」では、自分の妻が不義を働き、娘の父親であるのが、娘を引き取って育てたいと願い出た旗本ではないかと疑い、その相手と剣を抜いて立ち会うが、実は自分の妻が不義を働いた相手は自分に忠実だと思っていた下僕であったことがわかるというものである。

 第四話「密命」の終わりでは、「小者の粂蔵、雇足軽の五兵衛、老僕の佐平――。男ばかりだが、彼らが親身になって支えてくれているのが、男鰥(やもめ)の桑山十兵衛にとって、救いといえばいえた」(文庫版 195ページ)と述べられていたのだが、彼の妻と不義を働いたのは、彼を支えていた老僕の佐平であったのでる。それを知った桑山十兵衛は、どうにもならない「いきどおり」を抱えて生きていかなければならなくなる。

 彼は、勘違いして立ち会った相手の旗本に、
 「江戸は広い。おぬしのような腕の男は掃いて捨てるほどいる」
 「おぬしは多分、瑞江殿(妻)に毛嫌いされていたのであろう。だから間男されたのだ」
 「おぬしなんかが相手にしてもらえるのは、せいぜいが白粉を塗りたくった田舎の安女郎。江戸の女の誰が相手するものか」(文庫版 399-400ページ)
 と罵倒されてしまう。

 彼は、このことによって娘までも失うことになる。こうした一切を主人公は背負って生きていく。それは、ある意味で、いくつかの「負」を背負ったまま日常を生きていかなければならない人間の姿でもある。それは、爽やかでもないし、颯爽としているのでもない。

 人は、どんなにまみれたものであっても、自分なりに自分の道を歩いていくしかない。佐藤雅美は、この作品でそういう人間の姿を赤裸々に描き出そうとしているのではないかと思う。シリーズとして続編が出されているので、そういう人間がどういうふうに描かれているのか、続きのシリーズをちょっと読んでみたいと思う。

2009年12月18日金曜日

佐藤雅美『八州廻り桑山十兵衛』(1)

 昨夕、なんだか疲れを覚えて何もする気がなく、久しぶりに「あざみ野」の「神戸珈琲物語」というお店にコーヒー豆を買いに出かけた。たいていは「モカブレンド」を買うのだが、少し飽きた気もしたので、昨日は「キリマンジャロブレンド」を買って来た。

 昨年末から続いている不況が深刻化しているのだろう。クリスマスや年末の街の華やかさはほとんど見られない。寒さの中で、「宝くじ」売りの声がし、人々が身を縮めて行き交うだけである。

 昨夜から佐藤雅美『八州廻り桑山十兵衛』(1996年 文藝春秋社 1999年 文春文庫)を読んでいる。これは、通称「八州廻り」と呼ばれた江戸時代の関東取締役出役という勘定奉行のもとに置かれた下っ端役人で、おもに上州(現:群馬県)、野州(現:茨城県)、常州(現:茨城県北東部)、武州(現:埼玉、東京北部、神奈川北部)、と下総(現:千葉県、埼玉東部、東京東部、茨城西部)といった、いわば江戸周辺地域を見廻って刑事事件などに携わった犯罪取締役人をしている「桑山十兵衛」を主人公にした物語で、この後、いくつかの作品が出されて、シリーズ化されている。

 主人公の桑山十兵衛は、自分が八州廻りをして留守にしていた間に、妻の不義によって生まれた幼い娘をもつ「男やもめ」であり、その妻は子どもの出産と同時に亡くなっているので真相が分からず、そこのことが彼の心に重くあるが、娘を人に預けながら、八州廻りとして数々の事件に関わり、鋭い勘を働かせていくつかの事件に関与していく。

 彼は、上役の言うことなどは聞き流し、いつも自分流の自然体であり、無理をしないし、貧しい者たちが犯した罪などは見逃すようにしている。居合と素振り千本の武芸修業を日課として課している剣の腕前も相当なものだが、自分を誇ったりもしないし、あまり饒舌でもない。どこまでも、自分流の自然体でいくのである。だから、もちろん失敗も多いが、その失敗も黙って背負っていく。

 こういう主人公を中心にして、誘拐されたと届けられた娘が、実は、義父の性的暴行から逃れたものであることをつきとめる「拐かされた女」や、同僚さえ怖れるヤクザと対決する「木崎の喜三郎」や、貧困にあえぐ村人同士の殺人を種にして強請を働いていた彼の下役である「道案内」(手下としてその地方々々で働く者)の裏切りを暴いて、強請られていた村人を助けたりする「怯える目」などの物語が展開されている。

 昨日はその三話まで読んだところで眠りに落ちてしまったが、何も頓着せずに事柄に当たっていく主人公の姿が、佐藤雅美の『物書同心 居眠り紋蔵』とは、また違った姿で、「居眠り紋蔵」よりも妻の不貞という重いものを抱えているだけに、少し重厚に描かれているのがいい。続きは、また今夜にでも読むことにする。

 それにしても、空気が冷たい。朝は覆っていた雲が今は晴れてはいるが、足もとから寒さが忍び上がって来る。書斎が煙草の煙で満ちないように窓を開けているので、よけいに足もとの寒さが感じられる。今夜は早く仕事を切り上げて、鍋の材料でも買ってきて、コタツで鍋でもつつくとしよう。

2009年12月17日木曜日

佐藤雅美『物書同心居眠り紋蔵 お尋ね者』

 昨夜、佐藤雅美『物書同心居眠り紋蔵 お尋ね者』(1999年 講談社)を読む。この作品は、前に読んだこのシリーズの3作目『密約』に続く第4作目の作品で、主人公の藤木紋蔵は、南町奉行所の例繰方の与力に仕える物書(記録係)という閑職につき、時と所構わずふいに眠りこんでしまう奇病の持ち主で「居眠り」と渾名され、他の同心などに馬鹿にされたりするが、頭脳明晰で、物事の真相を見抜いていく力をもっている人物である。

 「まあ聞け、雛太夫」、「越後屋呉服物廻し通帳」、「お乳の女」、「乗り逃げ」、「お尋ね者」、「三行半」、「明石橋組合辻番」、「左遷の噂」の八話構成になっている『お尋ね者』では、この藤木紋蔵が、それぞれの事件を起こした人々ができる限り大罪に定められないように苦慮していく姿が描き出されていく。

 特に最後の「左遷の噂」では、魚河岸をめぐる「抜け荷買い(不法買いつけ)」とそれに続く殺人事件に関与していたと思われる男を返してやり、その男の行き先が分からなくなるという失態を演じて、左遷されるという噂が流れ、紋蔵は同僚の冷ややかな視線の中で事件を解決していく羽目になる。こういうあまり人から評価されないような状況の中でも、紋蔵は、裏方に徹しようとし、また、できる限り罪人を出さないような思いやりと穏やかさをもって事柄に当たっていく。

 その紋蔵が、時折、自分の力を垣間見せる場面がある。それは、たとえば「明石組合辻番所」の中で、彼が引き取って育てている文吉という子どもが手跡所(塾)で苛められている他の子どもを助けて苛めている子どもと大喧嘩をして、相手の駕籠屋をしている乱暴な親が匕首(短刀)を突きつけてきた時、紋蔵はこれと向き合って、脇差に手をやり、腰を落として、「倅は腕が折れただけですんだかもしれぬが、俺は容赦をしない。匕首を抜けば、間違いなくお前の腕は落ちる」と言って対峙するのである。

 「鬼六(相手の親)は顔を真っ赤にして、犬のようにはあはあ息を弾ませていたが、やがて肩から力を抜き、へなへなとその場にへたり込んだ」(263ページ)と描写されている。「居眠り」と言われ馬鹿にされている紋蔵の「すごみ」が、真によく表わされている場面である。

 紋蔵は、あまり人の評価というものを気にしない。無能と思われていても、自分をよく見せようと思ったりもしない。しかし、彼の中には一本筋の通った姿勢があり、それを無理なく貫いていく。

 佐藤雅美は、こういう、少なくともわたしにとっては魅力的に思える主人公を、じつに巧みに描き出しているのである。わたしは、どうも大成した人間や武将や英雄ではなく、何の評価もされずに、地味に市井をこつこつと生きながら、しかも、愛情や思いやりをもって、それを貫いている凡人が好きらしい。このシリーズの他の作品も、ぜひ読んでみたいと思っている。

2009年12月16日水曜日

藤沢周平『三屋清左衛門残日録』

 頬を刺す空気が痛く感じられるほど、ただ寒い。寒いとどうしても肩に力が入り、やがて何もしたくなくなる。そろそろ冬眠の季節なのだろう。毎年、この季節は異常なほど日程が混むが、いつも、冬眠したいと思ったりする。

 昨夜、気づいたら八時を過ぎていて、それから夕食を作って食べ、藤沢周平『三屋清左衛門残日録』(1989年 文藝春秋社 1992年 文春文庫)を読んだ。

 これは、文藝春秋社から出ている『藤沢周平全集』の第21巻にも収められており、その藤沢周平の全集はすでに一度読み終えているので再読したわけだが、以前には何でもなかったところにひどく感激したりして、改めて藤沢周平の作品の完成度の高さや人間観、描写の細やかさ、文章の素晴らしさや、彼の人間に対する優しい思いなど、しみじみと感じて、深夜に読み終えた時には、じんわりと涙が滲んできたほどだった。

 物語は、ある藩(藤沢周平が山形県庄内藩をモデルに創作した海坂藩)の用心(秘書官)という要職を退き、家督を息子に譲って隠居した三屋清左衛門が無聊を囲う隠居の日々の中で、藩が決して表沙汰にはすることができない藩の派閥争いと関わり、人情味あふれる仕方で解決していくという大きな構成を基に、老いの日々を綴っていくというもので、随所に、「老い」や「隠居して無用の人になること」や、周囲の人間の細やかで温かい配慮が出て来て、藤沢周平らしい、何とも言えない味わいのある作品になっている。

 その三屋清左衛門の心情の過程の描写だけをたどってみても、この作品の良さがよくわかる。

 要職を退き、隠居して、家督相続の披露の祝いが終わった後、すべてが順調に終わってほっとした時の心情として、藤沢周平は、「これで三屋家は心配がない、と相続にからむ一切の雑事から解放されたとき清左衛門は思ったのだが、その安堵の後に強い寂寞感がやって来たのは、清左衛門にとって思いがけないことだった」(文庫版 10ページ)と記す。

 そして、「夜ふけて離れに一人でいると、清左衛門は突然に腸をつかまれるようなさびしさに襲われることが、二度、三度とあった。そういうときは自分が、暗い野中にただ一本で立っている木であるかのように思い做されたのである」(文庫版 12ページ)と続け、「ところが、隠居した清左衛門を襲って来たのは、そういう開放感とはまさに逆の、世間から隔絶されてしまったような自閉的な感情だったのである」(文庫版 13ページ)と語る。

 「隠居することを、清左衛門は世の中から一歩しりぞくだけだと軽く考えていた節がある。ところが実際には、隠居はそれまでの清左衛門の生き方、ひらたく言えば暮らしと習慣のすべてを変えることだったのである」(文庫版 14ページ)と無聊を囲い、その空白感を埋めるために、中途半端に終わっていた学問(経書を読む)や道場通い、釣りなどを始めようとする。

 そうした中で、若い頃からの友人で町奉行をしている「佐伯熊太」が訪ねて来て、表沙汰にはできない事件の解決を依頼して来て、そのことをきっかけにして藩の派閥争いの込入った問題と関わっていくのだが、清左衛門は、現役の町奉行として働くその友人に「隠居は急がぬ方がよい」と言い、「やることがないと、不思議なほどに気持ちが萎縮して来る」と言ったりするし、事件が解決した後でも、「隠居と働きざかりの町奉行とは、感想にも差が出る」(文庫版 42ページ)と思ったりする。

 また、30年ぶりで道場通いを始めた頃、「三屋清左衛門の身体は油の切れかかった車同様にさびついていたのである。少し無理に動かすと、身体はたちまち軋み声を立てた」(文庫版 44ページ)とあり、自分と同年輩の者が、残り少なくなった日々のためか、昔のことを自分の思いこみで悔み、自害したりする事件の真相を知ったり、昔の同僚で、藩の勢力争いに敗れて落ちぶれてしまっている人間から、嫉妬のために命を狙われたり、あるいは、昔、ふとしたことで袖摺りあった美女の娘と出会い、その娘が陥っていた問題を解決したり、悋気を起こしてやつれた自分の娘の夫が、藩の派閥争いのために働いていることを知ったりしていく中で、次第に気力を取り戻していくのである。

 その姿を藤沢周平は、「道場に通いはじめたころは、長い間使わなかった身体があちこちと痛み、木刀で型を遣うだけで息が切れ眼がくらんだものだが、近ごろはそういうことはなくなった。そして身体が馴れるにしたがって、不思議にも清左衛門は、有望だと言われた若いころの竹刀遣いの勘までもどって来るのを感じたのである」(文庫版 131-132ページ)と記す。

 そして、「たかが隠居と侮らぬ方がよい」(文庫版 188ページ)と派閥争いを企む者に言い、子どもたちの剣の稽古の面倒を見ては、「-わしも・・・・。まだ捨てたものではない」(文庫版 191ページ)と思ったりする。

 こうして清左衛門は、友人に依頼されたり、藩の奥女中の難儀を救ったり、また通い始めた小料理屋の女将が抱えていた男問題から女将を助けだしたりしながら、次第に家督相続争いにまで発展しそうになった藩の派閥の争いに関わっていくことになるのである。彼は忙しくなる。

 しかし、夏風邪をひいて寝込んだ時、「うたた寝からさめたときなど、清左衛門はそういう自分をたとえば一枚の紙のように、軽くて頼りないものに感じたりした。そして床について三日ほどすると、急に足が弱くなって、起き上がると身体がふらつくのにもおどろいた。ふだん釣りに出かけたり道場に通ったりして足腰を鍛えているつもりでも、齢はあざむけぬと清左衛門は思った。たがが風邪でこんなにへこたれるとは、若いころは思いもしなかった」(文庫版 270ページ)と思ったりする。そして、息子嫁に手厚く看護されながらも、「その手厚い庇護が、連れ合いを失った孤独な老人の姿をくっきりと浮かび上がらせるのも事実だった。その老境のさびしさは、足もとを気遣いながら紙漉町の道場にたどりつくまで、清左衛門につきまとった。病は気をも弱らせるものかも知れなかった」(文庫版 272ページ)と心境が語られ、昔の友人が若い妾をもったことを聞いても、「病気で倒れたとき、あの若い妾が親身に看護してくれるかどうかは疑問だと、清左衛門は思った。しかし偬兵衛(友人)も自分も、そういうことで足掻く齢になったのはたしかだと思いながら、清左衛門は頭の痛みをこらえて歩きつづけた」(文庫版 295ページ)と表わされていく。昔のことを悔やんで悪夢を見たりもする。

 そして、子どもの頃からの友人が中風で倒れて歩けなくなったのを見舞ったとき、「清左衛門にはひとごととは思えなかった。むろん自分にも中風になりそうな徴候があるというのではない。しかし平八も、そんな徴は何もなかったという。病はにわかに平八を襲ったのである。そういう齢にさしかかったのだと思わないわけにはいかなかった。平八の病はいつわが身にふりかかって来るかも知れない災厄だった。その思いが、家に近づいたいまも気持の底に沈んでいた」(文庫版 350ページ)りする。

 そういう中で、藩の派閥争いは次第に激しくなっていくが、清左衛門は、通っている小料理屋の女将の彼を慕う思いを知っていったり、通っている道場主の遺恨試合に立ち会ったりしながら、派閥争いを解決に導き、謀略を謀った者の手先に使われた若者たちではあるが、彼らを助けようとしたりしていく。
そして、最後に、中風で倒れた友人を見舞ったとき、その友人が懸命に歩く練習をしている姿を見て、「人間はそうあるべきなのだろう。衰えて死がおとずれるそのときは、おもれをそれまで生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終えればよい。しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽くしていきぬかねばならぬ、そのことを平八に教えてもらったと清左衛門は思っていた」(文庫版 436ページ)のである。

 この作品は、物語の展開の醍醐味の中で、こうした主人公の老いを迎えた心境が丹念に語られていき、老いを生きることが真正面に据えられて、深い感動と味わいを与えてくれているのである。藤沢周平の語り口の柔らかさとうまさも随所に見られる。

 これは、「別冊文藝春秋」第172-186号に掲載された作品であるので、藤沢周平が61-62歳の頃の作品であろうが、その心境が見事に織り込まれた絶品とも言える作品だろうと思う。藤沢周平のような優れた作家の作品を読むと、この「独り読む書の記」に記すことも、どうしても多くなる。文章表現のうまさは、また別の機会でも触れよう。

2009年12月15日火曜日

諸田玲子『髭麻呂』

 シベリアから寒気団が南下して寒い日になった。雲の切れ間から時折陽がのぞくが、冬の雲に覆われている。3日間ほど特別な予定が重なり、食生活も乱れているのだろう、体が重い感じで目覚めた。昨夜は池袋まで出て帰宅が遅くなったのだが、それでも、諸田玲子『髭麻呂 王朝捕物控え』(2002年 集英社 2005年 集英社文庫)を一気に読んだ。

 この作品は、平安中期に時代設定がされており、作品の中で、986年に「花山天皇」が突然出家した出来事が触れられているので、藤原家を中心にした摂関政治と武士層の出現、また、貧富の拡大や平安貴族たちの政権争い、群盗の跋扈が起こり、飢餓と天変地異によって治安が混乱していたなどの社会背景をもった時代であった。

 主人公は平安京の検非違使庁(けんぴいしちょう・・・現在の警察)の下級役人看督長(かどのおさ・・・現在の刑事)をしている藤原資麻呂(ふじわらの すけまろ・・・作者の創作人物)で、強面の髭を生やして何とか威厳を保とうとして、通称「髭麻呂」と呼ばれているが、実は気が小さく臆病者で、血を見たら卒倒してしまうようなユーモラスな人物であり、都で捨てられて野犬の餌食になりそうだった子どもを助けて養ったり、羅生門で何とか生き延びている孤児たちの世話をしたりする心優しい人間である。

 彼には「梓女(あずさめ)」という大変頭脳明晰な恋人があり、「髭麻呂」が抱えている事件の謎を、ロッキングチェアー・ディテクテイヴ(揺り椅子探偵)のように解いていくが、彼女の家には、いわゆる一流のデザイナーとして活躍している母と、目も耳も遠いが嗅覚が鋭くて、これも一流の調香師である祖母がいて、それらの自立した婦人たちに翻弄されながらも、彼女たちのざっくばらんで温かい家に迎えられながら「髭麻呂」が、まことに「よたよた」という表現がふさわしいような形で活躍していくのである。

 当時は「通い婚」で、一夫多妻の社会であったが、「髭麻呂」の「梓女」に対する思いは一途で、彼女の母親や祖母に気の弱い「髭麻呂」は恐れを抱きながらもその恋を成就させていくストーリーが一本あり、それに当時の藤原兼家や藤原道長兼、源満仲らのどろどろした政権争い、失脚させられた源高明などの事件が絡み合い、殺人事件や誘拐事件など八話の物語が展開していく。

 作品の構成と展開が見事で、一方では、「髭麻呂」の仇敵として盗賊「蹴速丸(けはやまる)」という人物を登場させて、やがては二人が意気投合して、実は「蹴速丸」が源高明の失脚事件の真相を探る目的をもっていることを知り、共に、その黒幕を暴いていくという形で、「花山天皇」の出家事件や源高明の失脚事件という歴史的事件が縦糸にあり、それが、主人公の「髭麻呂」や「梓女」、「梓女」の母や祖母、彼に育てられている従者の「雀丸」という少年など、それぞれの個性が発揮されて、二人の恋が横糸となり、「面白く」展開されている。

 したがって、通常の「捕物帳」や「ユーモア探偵小説」とは異なって、社会や歴史に対する視座がはっきりしていて、味のあるものになっている。完成度の高い作品といえるだろう。

2009年12月14日月曜日

平岩弓枝『はやぶさ新八御用帳(7) 寒椿の寺』(2)

 土曜日(12日)の夕、「アフロ橘ゴスペルシンガーズ」という人たちのゴスペルコンサートがあって、その素晴らしい歌声に深く感動した。

 以前、米国のシカゴにいた時、シカゴ郊外の、いわゆる黒人スラム街にある教会に行って、そこの人たちと大変仲よくなり、毎週、ゴスペルを聴いていたが、ゴスペルは、やはり「魂の歌」という気がする。黒人のホームレスの人たちとは、ミシガン湖で魚釣りをよく一緒にした。

 ある時、「God set me free」という歌を、涙をこぼしながら歌われたことがある。祖父や祖祖父の方々が、米国南部で黒人奴隷として生きなければならなったことを、後でわたしに話してくださった。自由と希望を祈り求めざるを得ない人間の魂の叫び。単調なメロディーにその叫びが込められていることを、今、思い起こす。

 「アフロ橘ゴスペルシンガーズ」は青年たち八人のグループで、本当に礼儀正しい人たちで、その声量も見事で、ゴスペルの良さを見事に引き出して、10曲以上の歌を歌ってくださった。

 さて、平岩弓枝『はやぶさ新八御用帳(7) 寒椿の寺』の第四話「桜草売りの女」であるが、この話は、いわば「取り換えっ子」にまつわる事件を扱ったもので、旗本の家に行儀見習いにいっていた姉が旗本の子を宿し、商家に嫁いでいた妹と同じ時期に子を生み、姉の方は女の子で妹の方は男の子だったが、旗本の家の跡継ぎを生んだことにしたいために子どもを取り替えて育てた。

 その子どもたちが成人し、商家の子どもとして成長した娘は、その商家が火事で焼け出されて「桜草売り」などをして苦労している。そのことを知った旗本が、自分の家の家宝を売って、その娘のために金を工面してやるのだが、そのために旗本家が改易されるかもしれないと、旗本の嫁が騒いだところから事件になったものである。

 第五話「青山百人町の傘」は、自分の家系と財産を振りかざして威高で嫉妬深い妻をもつ上役から、その上役の浮気のために妾を押しつけられた貧乏御家人(甲賀組に属し、傘張りをして生計を維持している)とその許嫁の話で、許嫁の「露路」は、その男のために身を引いて家を出たのである。

 隼新八郎と南町奉行所の同心は、そのことの真相を暴き、行くえ不明だった「露路」を探しだす。貧乏御家人(「秋山長三郎」)と許嫁の「露路」は、上役の非道に耐えながらも、互いに別れ別れになっていたが、互いに思いは同じで、ようやく新八郎たちによって一緒になることができた。

 裏長屋で傘の内職をしながらひっそりと暮らしていた「露路」のところを貧乏御家人が訪ねていくのだが、その最後の表現が洒落ている。

 「どういう話が二人で取りかわされていたのか外で待っていた新八郎にはわからない。
 小半時ばかりで出て来た長三郎の背後には目を泣き腫らした露路がいて、二人そろって新八郎に深  く頭を下げ、それからそっと目を見合わせるのを確かめて、新八郎は長屋の路地を出て行った。
 江戸は間もなく師走であった」(文庫版 215ページ)

 この「江戸は間もなく師走であった」という一文は、言ってみれば、毛筆で字を書くときに、最後に万感の思いを込めて「シュッとはねる」ような、そういう一文である。見事、としか言いようがない。

 第六話「奥祐筆の用心」は、上野の寛永寺の大仏殿の脇にある大灯籠の下で奥祐筆(幕府老中の書記官)の用心(秘書)の死体が発見され、隼新八郎がその謎を解いていくという話である。

 奥祐筆は役職がら賄賂が横行する職務であるが、奥祐筆の用心は、結局、親子ほども歳の離れた娘と深い中になり、そこで食べた毒キノコにあたって死んだことがわかるのである。これは、もしかしたら根岸鎮衛の『耳嚢』からの題材かもしれない。

 第七話「墨河亭の客」は、向島で高級料亭として売り出していた「墨河亭」を常用していた旗本のお内儀が、その「墨河亭」のお菓子を口にして毒殺されるという事件を取り扱ったもので、お内儀は、豪商三井家の分家の娘で財力を遣い、コネを使って自分の息子の就職運動に奔走し、ついには養女にしている夫の先妻の姪まで、いわば「人身御供」として就職の世話をする者に差し出す画策をしていた。そして、そのことに耐えがたさを覚えていた夫が彼女を毒殺したということが判明するのである。

 この話の結末は不幸で、お内儀を毒殺した旗本は、可愛がっていた姪を殺して自分も切腹し、豪勢を誇った墨河亭もそのあおりで店が傾いていったというもので、これも『耳嚢』の説話からの題材ではないかと思われる。第七話ににじみ出ているものは、「何らかの欲をもって生きることの大変さとつまらなさ」である。隼新八郎と彼の周辺にいる人々の無欲さと対比されて、欲をもつ人間の不幸が良く描き出されている。

 これらの作品の中では、第五話「青山百人町の傘」が一番胸を打つ。「人を思う真直な思い」ほど貴いものはないだろう。

2009年12月11日金曜日

平岩弓枝『はやぶさ新八御用帳(7) 寒椿の寺』(1)

 小糠雨が音もなく降っている。聞こえてくるのは、道路を行き交う車の騒音とドップラー効果の救急車のサイレンだけである。エンジン音だけでなく、タイヤが水しぶきを上げる音が痛めている頸椎に響く。「静寂」と言うことは、ここでは望むべきではないことであるが、昨夜、たぶんよく眠ったのだろう精神が妙に落ち着いている。眠り続ければ、いつまでも寝ることができるような気がするが、そうもいかない。

 昨夕から平岩弓枝『はやぶさ新八御用帳(7)寒椿の寺』(1996年 講談社 1999年 講談社文庫)を読んでいる。平岩弓枝の『御宿かわせみ』にひどくはまった頃に、このシリーズも、ほとんど以前に読んでいるので、もしかしたら前に一読したかもしれないと思いながらも、図書館の本棚で目についたので借りてきた。このシリーズで一番おもしろかったのは、『はやぶさ新八御用旅 東海道五十三次』ではないかと思う。

 このシリーズは、江戸中期に下級幕吏(下級役人)から南町奉行になった根岸肥前守鎮衛(1737-1815年)の内与力(今で言えば秘書官)である「隼新八郎」(作者の創作した人物)が、あまり表沙汰にはできない事件を解決していくという物語で、「隼新八郎」が内与力であるという設定によって、通常は町方が介入できない武家の事件にも正面切って関わることができるという、たいへん「うまい」設定になっている。時代小説の、いわゆる「捕り物帳」ものでも設定が異色のものだろう。

 もともと、根岸肥前守鎮衛は、自身で、約30年間に渡って在任中に聞いた公家から町人にまで及ぶ世間話を書きとめた『耳嚢』という全10巻、1000話以上にものぼる随筆を著しており、くだけたところのある名奉行で、平岩弓枝は、そこからこの物語の題材をとっているのだろうと思われる。

 平岩弓枝がこのシリーズで表わす根岸肥前守の姿も、頭脳明晰で懐の深い人物として描かれているし、主人公の「隼新八郎」をはじめとして、常に、弱者の側に立つ視座が明瞭に打ち出されている。

 主人公の「隼新八郎」は、神道無念流の達人で、頭脳は明晰、きっぷがよくて、非常に心優しい青年であるが、色恋には奥手で、それでも美貌の、あまり物事には拘泥しないのんびりした気質の妻がありつつも、かつての自分の母親の世話をしていた女中で、今は上役である根岸肥前守の奥女中をして細やかな配慮を見せる「お鯉」や、町方(岡っ引き)の娘で、粋でいなせなちゃきちゃきの江戸っ子気質の「小かん姐さん」に慕われたりして、物語に花を添えている。特に、彼と「お鯉」との関係は微妙で、ある種の緊張があるが、いわゆる「どろどろしたもの」はない。それが非常にいい。

 講談社文庫『はやぶさ新八御用帳(7)寒椿の寺』に収められているのは、1994年から1996年までの『小説現代』で発表された、「吉原大門の殺人」、「出刃打ち花蝶」、「寒椿の寺」、「桜草売りの女」、「青山百人町の傘」、「奥祐筆の用人」、「墨河亭の客」の7編で、それぞれ別々の事件である。

 この内、昨日は最初の3編を読んだ。第一話「吉原大門の殺人」は、越前大野藩の重役の息子が吉原でもめ事を起こし、ついには、そこで惚れていた素朴な性質をもつ妓を斬り殺して自らも割腹する無理心中事件を起こすという話である。

 これに関わった新八郎と、かつては「鬼勘」と呼ばれた名岡っ引きで引退している「勘兵衛」(「小かん」の父)が交わす会話が洒落ている。

 「岡源次郎(重役の息子)にしても、吉原なぞ行かなければ、よけいな恥をかかずに済んだのだ」
 「それは仕方がございますまい。万事、なりゆきでございますから・・・」
 「そりゃあそうだ」(文庫版 34ページ)

 「万事、なりゆき」、ほんとうにそうだろう。そして、その「なりゆき」でどうにもならない中に陥っていくのが人間かもしれない。わたしも「なりゆきでこうなったのだ」と思うことがしばしばある。平岩弓枝の、こういう人生の妙をさらりと流すところがいい。

 第二話「出刃打ち花蝶」は、上州(現在の群馬県)で大百姓が出刃包丁で殺害される事件の探索に隼新八郎が出かける話で、その事件は、殺された大百姓が金と権力で小作人の娘たちを凌辱していたことへの恨みを晴らすための事件であったことが分かるというものである。殺された大百姓は、その近郊では、いろいろなことを支援する有徳の人物だと言われていたが、実は、年端もいかない小作人の少女たちを凌辱していたことが明るみに出る。新八郎は、ここでも殺した側に思いやりを見せる。

 大体において、「有徳者」とか「人格者」とか言われるような人間の腹の底はわからないものである。人間は、基本的には「胃袋と性器」で出来ており、「精神(心)」がなければ、それまでなのだから。

 第三話「寒椿の寺」は、ある旗本が蔵前の札差(今で言えば銀行)の寮(別宅・・今で言えば別荘)で殺される事件を取り扱ったもので、彼は、その札差の出戻りの娘の許嫁であり、娘と寮に泊まった夜に殺されたのである。ふとしたことでこの事件と関わった隼新八郎は、この殺人の犯人が、娘の前夫で、表面は美丈夫で、堂々とし、自信に満ち、神道無念流の免許皆伝をもち、武道だけでなく漢学をよくし、茶道のたしなみもある名門の家中の若侍であることを突きとめる。この男は、他に好きな女ができて娘を離縁したのだが、その離縁した妻が他の男と結婚して幸せになることが我慢できないという狭い嫉妬心で相手の男を殺したのである。

 度量の小さな人間というのは山ほど存在する。わたしの周りにもそうした人は山ほどいる。自分の度量の小ささを知っている人間はともかく、自分の小ささを何かで誤魔化そうとする人間もいる。人はまた、その誤魔化された表面で誤魔化される。小さな人間は大きな人間がわからない。だから、人の評価ほどつまらないものはない。人は、その現れているものではなく精神に何を宿しているかによって、その人の大きさが決まっていく。度量の大きな人間ははじめからそういうことさえ考えないが、大きな人間だけが大きな人間を知っていくことができる。

 この小説で言えば、主人公の隼新八郎と上役の根岸肥前守、あるいは彼が友人と思っている同心の大久保源太、岡っ引きの「鬼勘」や彼を慕う「お鯉」や「小かん」などの、そうした関係が実に「さわやか」なのは、それぞれが度量の大きさをもっているからだろう。こうした「さわやかな関係」は『御宿かわせみ』でも貫かれている。それぞれが、自分の思いに素直で正直なのだ。そして、それで「よし」とする大きさがあるのである。

 平岩弓枝のこれらの作品が「おもしろい」のは、そうした素直さが一貫しているからだろうと思う。ともあれ、続きは、今夜にでも読み終えることにする。外は、雨は上がっているが灰色の寒空が広がっている。

2009年12月10日木曜日

諸田玲子『其の一日』(2)

 普段の倍くらいのことをしなければならないあわただしい日々になってはいるが、昨夕、そろそろ九州の母から頼まれていた年賀状のデザインを考えなければと思って、あれこれ試作したりしていた。来年の干支は「寅」。年賀状を作るのに彫刻刀で板に彫らなくなってもうずいぶんになる。この時期、あまりゆっくりすることがなくなったからだろう。油絵も、2年ほど前に描きかけた「ピエタ」がそのままにしてある。なんともまあ、という思いではある。

 諸田玲子『其の一日』の第三話「小の虫」は、駿河小島藩の家臣で、安永・天明記の代表的戯作者でもあった倉橋寿平(恋川春町 1744-1789年)の姿を、その息子倉橋寿一郎が知っていくという形で表わしたものである。

 倉橋寿平(恋川春町)は、小島藩の家臣として謹厳実直に仕える傍ら、『金々先生栄華夢』(1774年)や『高慢斉行脚日記』(1776年)を表わして江戸時代の「黄表紙」(草双紙)の祖ともなった人で、狂歌も「酒上不埒(さけのうえのふらち)という名前で発表したりして、なかなか洒落とウイットに富んだ面白い人である。彼は、『鸚鵡返文武二道』を寛政年に発表したが、これが松平定信の寛政の改革を揶揄したものと受け取られて、松平定信から出頭を命じられ、病気を理由にそれを辞して、まもなく死んでいる。そのために、小藩である小島藩からも責められて自害したという説もある。

 諸田玲子の「小の虫」は、その寿平の跡目を継いだ十五歳の息子寿一郎が、ふとしたきっかけで、家では謹厳実直だった父が、実は、恋川春町として戯作を書いた人間であったことを知り、すでに死んだと言われていた自分の実母が、実は離縁されて暮らしており、父の恋川春町と共に、深い愛情を育てながら戯作者としての父を支えていたことを知った、「其の一日」の姿を描いたものである。そしてまた、彼は、そこで父親の死の真相を知るのである。

 作者は言う。「倉橋家の養子となり、厳格な養父母に仕え、上級家臣とは名ばかり、野菜をつくって飢えをしのぐほどの貧乏暮しをしていた父だ。遺誡(家訓)を書かされ、惚れた女と引き離され、それでも愚痴一つ言わずに主家のために尽くしてきた父が酒を口にしたときの高揚感。それこそが、父に黄表紙を書かせる源となったのだろう」(135ページ)。それが、狂名「酒上不埒」なのだと。

 それにしても、作者の諸田玲子は、この作品を書くにあたって恋川春町のことをよく調べ、それを息子の目を通して描き出すという作品に昇華させている。その想像力にはつくづく敬服する。

 第四話「釜中の魚」は、幕末の大老井伊直弼(1815-1860年)が「桜田門外の変」で水戸藩浪人によって暗殺される前夜から当日の朝までの一日、20年ものあいだ彼を慕い続け、生涯彼のために尽くそうと思って、密偵として働き、その危険を知らせようとする女性の姿を描いたものである。

 井伊直弼を描いた作品として船橋聖一『花の生涯』(1953年 新潮社)があるが、諸田玲子のこの作品は、彼を慕うひとりの女性の思いと危機を感じての不安が見事に描かれている。ただ、井伊直弼について、彼が「安政の大獄」をおこなった点で、わたしはどうしても好きになれない。

 しかし、この『其の一日』の四話の構成をぼんやり眺めていると、第一話と第三話が男の心情、第二話と第四話が女の心情となって、なかなかうまい構成になっているように思われる。この作品は、2003年に第24回吉川英治文学新人賞を受賞しているが、作者の力量を示す作品の一つといえるだろう。

 今日は「あざみ野」の山内図書館に本を返却しなければならない。平日は午後7時まで開館しているので本当に助かる。気温が低く、寒いので、重装備をして出かけよう。

2009年12月9日水曜日

諸田玲子『其の一日』(1)

 予報どおり天気が崩れて、灰色の冬空が広がっている。早朝には、少し雨もあったかもしれない。配達されていた新聞が丁寧にビニールでくるまれていたから。昨日は、先日書きあげた「大江健三郎論」の校正刷りが届いていたので、それを読み返したりしていた。急いで書いたので荒削りなものになってしまったが、もう一度書き直す時も与えられるだろう。 

 そして、昨夜は、先日購入したコタツに足を入れて、九州から送られてきた「富有柿」を剥いて食べながら、諸田玲子『其の一日』(2002年 講談社)を読んでいた。

 人には、自分の人生が決定的に変わってしまうような経験をしなければならない「一日」というのがある。もちろん、その渦中にいる時は「それ」とは分からないのだが、後から顧みてみると「あの時の、あの出来事が人生を変えた」と思われるような出来事がある。それは、歴史を変えてしなうような大きな出来事ではなかったかもしれないが、ささやかではあるが自分の人生が変わってしまったと思える出来事を、人は経験しながら生きている。出会いや別れは、その最たるものかもしれない。また、これまで自分が築き上げてきたものが一気に崩れおちて、すべてを失ってしまうようなこともある。

 そう言えば、1945年8月14日の正午から15日の正午までの、日本が敗戦を受け入れて天皇の玉音放送が行われるまでを描いた半藤一利編『日本のいちばん長い日』(文藝春秋社)というのがあり、岡本喜八の監督で映画化されたものもあった。それは、近代日本にとっての「決定的な一日」であった。

 諸田玲子の、この作品は、「立つ鳥」、「蛙(かわず)」、「小の虫」、「釜中(ふちゅう)の魚(うお)」の、それぞれ独立した4話からなり、それぞれの人間の「一番長い日」となった決定的な出来事を描き出したものである。

 「立つ鳥」は、江戸初期の元禄文化華やかなりし頃の勘定奉行であった荻原重秀(1658-1713年)が新井白石らの弾劾を受けて罷免された1711年9月11日(日付は本文では記されていない・・・こういうことは誰にでも起こりうることだろうから)の出来事を中心にして、その日を迎える彼の心情を描いたものである。

 荻原重秀は、賄賂をとり私腹を肥やした悪奉行として名高いが、佐渡金山を復興させたり、貨幣経済の発達によって陥っていたデフレ政策のために貨幣の鋳造改革をおこなったりした。しかし、彼が改鋳させた貨幣は、金銀の含有量が少なく、そのため悪貨として、インフレーションを引き起こし、江戸庶民を苦しめたと言われている。そして、新井白石の数度に渡る弾劾を受けて、ついに、罷免されるのである。新井白石が、『折たく柴の記』などで「荻原は26万両の賄賂を受けていた」などと根拠のない悪宣伝を繰り返したために、一方的な悪評が定着した人である。

 諸田玲子は、この荻原重秀が、貧しい勘定下役の次男として生まれ、勉学に励み、ひたすら立身出世を求めてきて、努力に努力を重ねて、勘定奉行という地位と贅沢な暮しを手に入れてきた人間であると記し、その彼が落ちぶれる時には、今まですり寄って来ていた妾や家臣や商人たちが、手のひらを返したようにして去っていく姿を描き、それを諦念をもって見る荻原重秀の姿を描き出す。

 彼はその最後の日に、これまでの自分の人生を思い返して、かつて自分が出世のために捨てた女性の安否を訪ねて行ったり、どんな時でも彼に忠実だった下僕の将来に配慮したりしていく。そして、そういう中で、今まではあまり顧みることがなかった彼の妻だけが、どこまでも彼と共にあろうとすることを知っていくのである。

 彼は保身に走ることを止める。「そうやってあれこれ策を弄すること、それがおかしい。事あるたびに権政者に泣きついて保身を計る、幕吏という存在そのものがおかしい。これまでそのことに何の疑問も感じなかったばかりか、どっぷり浸かっていた自分がおかしい」(39ページ)と思う。そして、すべてを失うことによって、さばさばとした気持ちで、罷免の宣告を受けるために登城するのである。

 わたしは、以前、自分が「使い捨てカイロ」のようなものだと、自戒したことがある。役に立つ時は重宝されるが、中の化学変化が終了して冷たくなり、役に立たなくなると、「燃えるゴミ」か「燃えないゴミ」か、わからないようにして捨てられる。能力に寄ってきた人は、能力を失うと去る。それは、真に見事としか言いようがないくらいで、「手のひらを返す」とは言い得て妙である。

 諸田玲子は、この作品で、そういう事態に陥った人間の姿をよく表わしている。旧約聖書のヨブのように「人は裸で生まれたから、裸で土に帰る」とは、なかなかいかないものである。喪失の経験はつらいものである。もちろん今は、拘泥するものがあまりないので、淋しく思う以外に何の執着もないが。

 それにしても、その最後の日に、どこまでも自分を支えようとしてくれている妻と下僕のひとりを見出せたことは、荻原重秀の救いであり、諸田玲子は、それを描ききっている。だから、悪名高い荻原重秀が、すべてを失ったが自分の本当の救いを見出した「幸いな人」に映る。人は、失うことによって真実を見出せたなら、それで十分なのだから。ただ、実際の荻原重秀は、罷免後、55歳で、断食して自害したと伝えられている。

 第二話「蛙」は、心優しい夫のもとに嫁いで、男子二人、女子一人をもうけて幸せに暮らしていたと思っていた女性が、「その日」、夫がなじみの吉原の遊女を斬り殺し、自らも割腹して心中したという出来事が起こり、実は、夫の養母と夫が互いに思いを寄せあって、しかし、それをお互いに胸に秘めて歳月を過ごして来ていたことを知る、という話である。

 こういう類の話は、家計の維持のために「家」の存続を第一義に計ってきた武家社会では養子をとるのが普通であって、起こりうることではあるが、少なくともわたしにはその心情が分からないので、主人公の嫁と姑の関係を描いた場面が、ついにわからないままに読み終えるしかなかった。どうにもこういう愛憎劇は苦手である。愛憎劇よりも、昨日、お歳暮に「ハムの詰め合わせ」をいただいたので、明日はハムステーキでも作って食べようか、と思うぐらいが、わたしにはちょうどいい。

 第二話の後半の部分はベッドの中で読んでいたので、昨夜はそこまで読んで眠ってしまった。

2009年12月8日火曜日

北原亞以子『誘惑』

 昨日に続いてよく晴れた空が広がっている。「青」というより「蒼」と呼んだ方がいいような空で、低い気温ながらさわやかな空気が広がっている。ただ、この天気も今日までらしい。昨日は暦の上では「大雪」だったのだが、雪はまだ降らない。大体、江戸時代の頃よりも1~2ヶ月は季節のずれが生じているような気がする。 

 北原亞以子『誘惑』(2009年 新潮社)を読んでいた。この作品は、2007年から一年間をかけて『週刊新潮』で発表されたらしいので、おそらく、今の時点での作者の最新作だろう。井原西鶴(1642-1693年)の『好色五人女』の中の「中段に見る暦屋物語」から題材を採ったもので、井原西鶴の物語は、近松門左衛門(1653-1725年)によって浄瑠璃『大経師昔暦』として脚色されており、実際に、1683年(天和3年)に京都の大経師(暦の出版元)の妻おさんが手代の茂兵衛と密通し、それを手引きした女中おたまと丹波に潜んでいたところを捕えられ、磔刑に処せられた事件から、井原西鶴が「浮世草子」として物語化したものである。

 井原西鶴の『好色五人女』は、閉鎖した武家社会の中で自分の愛情を貫いたために、それぞれ不幸に終わってしまった恋愛を取り上げたもので、そこには武家倫理の閉鎖性に対する自由人としての井原西鶴の鋭い批判があり、北原亞以子は、それをよく汲み取って、物語の中心人物である「おさん」や「茂兵衛」をはじめとする夫の大経師や周辺人物たちの、それぞれが、どうにもならない中でもがいていく姿を描き出している。

 「序幕」、「中幕」、「終幕」の3幕構成にしているのも、おそらく、近松門左衛門の浄瑠璃『大経師昔暦』を意識してのことであろうが、それぞれの幕の始まりに、井原西鶴と近松門左衛門を登場させて、この事件を外から眺める視点をもたらせているのは、作者の見事な手法と言えるかもしれない。

 ただ、大経師の妻となった「おさん」が手代の茂兵衛に魅かれていくくだりが作品の大部分を占めているが、結局は、「おさん」が美女であり、茂兵衛が美男で優秀な手代であるだけのことであり、それが、読んでいて、どこか腹立たしさを感じさせられる。

 作者は読者にそのように感じるように構成しているのかもしれないし、容姿だけで、人がくっついたり離れたりするのが現実なのかもしれないが、しかし、そのような人間には、どこか腹が立つ。人が人を好きになり、その人を愛することは、それがどのような立場であれ、人間として自然なことであり、最も尊いことである。しかし、人間のどこに魅かれるのかということによってその人間の深みもあるとしたら、「おさん」は、あまりにも浅はかな人間の代表ではないかと思えるほどである。

 この物語には、「武士」であることに固着し、牢人(浪人)している夫の仕官のために自らつまらない商人の妾になっていく女性や、茂兵衛に恋焦がれていき、ついには「おさんと茂兵衛」の駆け落ちを奉行所に密告する人形屋の娘も登場するが、それらの女性の姿も、少なくとも、わたしには腹立たしく感じられて、途中で、これは北原亞以子にしては駄作ではないかと思ったほどである。

 しかし、たとえば、夫の仕官のためにと浅はかに考えてつまらない商人の妾となり、その子を身ごもって、再び、夫のもとに帰ってきた妻を、自ら深く省みて受け入れ直す「牢人(浪人)」や丹波へ逃げた「おさんと茂兵衛」の丹波での短い生活の姿が描かれ、それが、この馬鹿らしくて腹の立つ恋愛の結末として記されていることが、この作品を救っている。

 そして、「終幕」で、井原西鶴をして、「いくら大経師の家に嫁いだかて、大経師とうまが合わなんだら、ちいとも幸せにはなれへん。大経師は好きな女子といくらでも浮気ができるからええが、亭主とあわなんだら女子は気の毒や」(409ページ)と語らせ、「ま、何をどう考えても、あかんのは武士や。金もない、知恵もない武士が、えばりたがるとろくなことはない。生きてゆく知恵がないさかい、牢人になっても武士に戻りたがるのや」(410ページ)と思わせているところが、この作品の全体を通しての作者の姿勢を示して、この作品の読後感を、どろどろしたものから爽やかなものに変えている。

 しかし、個人的な好みを言えば、地位や名誉や財産もなく(あるいは捨てて)、ただ市井の人間として、愛情深く、たくさんの思いやりをもち、耐え忍ぶことが多くても、花鳥風月を慈しみ、宇宙の大きさを心に宿して、「イツモシズカニワラッテイル」、そういう人間がわたしは最も好きで、この作者には、そういう人間の姿を描いて欲しい、とは思う。

 明日は分別ゴミの回収日だから、今日は部屋の掃除もしなければならないし、冷蔵庫も空だから買い物にも行かなければならないが、なかなか気分を奮い立たせることができないでいる。こんな日は、ただぶらぶらと歩くのもいいかもしれない。予定をキャンセルして、少し時間をかけて、冬支度の三種の神器を身に着けて、散策でもしてみよう。

2009年12月7日月曜日

北原亞以子『風よ聞け 雲の巻』(2)

 5日の土曜日は雨で、夜八時ごろに夕食の買い物に出かけようとして止めたほどだったが、6日の日曜日は、富士山が見えるほどの快晴になった。今日も快晴だが、昨日ほど気温が上がらない。晴れた青空の下で街路樹の銀杏の葉が舞い落ち、ほとんど尖った枝だけが天を指すようになってきた。


 前回の続きであるが、北原亞以子『風よ聞け』で、伊庭八郎を慕い続ける娼婦の目を通して、彰義隊と新政府軍の上野戦争の姿が描き出される。それは、これがどのような戦いであったのかの歴史報告などでは決してなく、戦場である上野に近い吉原で、砲火の音におびえながら過ごさなければならない人間の戦争体験であり、戦火にまどう庶民の日常の体験にほかならない。人の姿とはいつもそうだろう。

 歴史上の大きな出来事は、いつも、人間にとっては、渦中の中での不安や脅え、そして、戸惑いとして経験されていくものに過ぎない。出来事を客観的に分析する思想が歴史を作るのではなく、その小さな不安の経験が歴史を作るのである。人は、それぞれの自分の世界でしか生きることができない。作者は、それを本当によく知っている。

 伊庭八郎を慕う娼婦がいる妓楼の客に、彰義隊に参加した者も、また、新政府の密偵として入りこんでいる者も、そして、その頃に出始めた新聞を作る者もいる。それぞれの事情がある。その事情を語ることで、作者は、決して歴史の善悪の軽々しい判断をしない。わたしがこの作者が好きなのは、そういうところもあるからである。そして、それらの人たちの会話を通して、旧幕府軍と新政府軍の状況の推移が知らされていく。そして、彼女の思い人である伊庭八郎の消息が、噂を含めて少しずつ知らされていく。こういう仕掛けが、本当にいいと思う。

  一方、伊庭八郎の姿を描き出すためにだが、福沢諭吉らと米国に渡った英語通詞(通訳)を務める夫婦が描かれている。この夫婦は、深い愛情と思いやりで強く結ばれている夫婦で、夫は、攘夷運動が盛んな頃には、さんざん苛められたり、身の危険を感じなければならなかったことが多かった人で、新しい気風を身に着けた人であり、妻は、そのような夫を心から支えていく。この妻が、伊庭八郎の妻となる御徒士の娘と友人である。この夫婦の姿は、ほのぼのとして、読んでいて嬉しくなる姿である。この二人が、伊庭八郎とどのように関わっていくのかは、この巻ではまだ記されていない。

 江戸湾から幕府海軍のにらみを利かせて戦況を有利に運ぼうとした勝海舟をはじめとする旧幕府軍は、榎本武揚の優柔不断さ(解釈はいろいろある。榎本武揚もそれなりの人物であったが、わたしは個人的にはどうも函館戦争での彼の決断が気に入らない)と烏合の衆であった彰義隊の統制のとれなさによって、伊庭八郎は箱根で孤立する。こういう策略や作戦は、いつも失敗するのが歴史の教訓というものである。やがて、伊庭八郎は会津に向かい、それから榎本武揚と共に函館に向かうが、この「雲の巻」は、ここで終わっている。伊庭八郎と結ばれた娘は、彼を待ち続ける。

 それにしても、北原亞以子が描いている三人の女性は、それぞれ境遇が異なり、その境遇の中で精一杯生きており、奥ゆかしいが、しかし、自分の考えをはっきりもって、それを表わしていく女性たちである。社会と運命の激流の中で、けなげで、毅然として、そしてそれゆえに、美しい。それは、決して揺らぐことのない自分の「愛する心」を大切にする美しさである。女流作家ならではの描き方かもしれないと思ったりする。

 この続編が書かれたのかどうか、北原亞以子の作品一覧を調べてみたが、見当たらなかった。これは1996年の講談社文庫書き下ろし作品として出されており、彼女は、現在、70歳を越えている(1938年生まれ)ので、もしまだだとしたら、続編を早く望みたい気もするが、これはこれで、いいのかもしれない。「結末」などは、人の人生にはないのだから。

2009年12月4日金曜日

北原亞以子『風よ聞け 雲の巻』(1)

 天気が一転して、よく晴れた空が広がっている。だが、明日からはまた天気が崩れるという。早朝から起き出して洗濯をしたりした。先日、「あざみ野」の「大正堂」という家具屋さんで注文していたテーブル式のコタツが届くというので、これまで使っていた大きな座卓を処分するために、座卓の上においていた碁盤やらノートパソコンやら、本やらを片づけた。少し気分が変わるだろう。

 また、たいていは夕方から夜にかけて買い物を兼ねて散策に出たりしていたが、友人の勧めもあって陽の光を浴びるようにして出かけることにした。今日は晴れているのでちょうどよい。
 
 昨夜から北原亞以子『風よ聞け 雲の巻』(1996年 講談社文庫)を読んでいる。

 相変わらず、「瀬戸物のこわれる音がした。くぐり戸のあたりからだった」(7ページ)という書き出しが素晴らしい。物語を構成している作者の視点が一気にわかるような、そして、その後の展開を予測させるような意味の深い、また、無理のない書き出しである。

 この作品は、幕末に幕府側の遊撃隊の隊長をして散って行った伊庭八郎(1844-1869年)を描いた作品で、彼を巡る三人の女性の姿を通して、彼を描き出したもので、物語は、慶応4年(1868年)の「大政奉還」後の「鳥羽伏見の戦い」の後から始まり、伊庭八郎が暮らしていた江戸の下谷和泉通りにあった「伊庭道場」の向かいに住む貧乏御徒士の娘の姿を描き出すところから始まっていく。彼女と彼女の家族の姿を通して、明治維新の大変動に振り回されていく人々の姿を克明に描き出すのである。

 彼女の兄は御徒士として遊撃隊に加わり、薩長に対して徹底抗戦をしようとし、父は、田舎に土地を借りて移り住もうと考え、家族がばらばらになっていく。このくだりは、政治と社会状況に翻弄されなければならない姿を描くことで、人間の姿を浮かび上がらせる文学の力が見事に見られる。そういう中で、親の決めた許嫁がいる娘は、幼い頃から自分をかわいがってくれていた伊庭八郎に思いを寄せていく姿が描かれるのである。

 彼女は、許嫁との結婚が迫って行く時に、自分が抱いていた伊庭八郎への思いをはっきりと自覚して、一時帰宅した伊庭八郎に会いに行く。その心理描写が次のような光景で描かれている。

 「茶をいれてくれるというつもりか、八郎(伊庭八郎)はもっていた湯呑を差し上げて見せて、千遠(彼を慕う娘)に背を向けた。
 『兄様・・・・』
 声をふりしぼった筈だった。が、唇の外へ出てきたそれは、痰がからんだようにかすれていた。
 『私は、八郎兄様を待っていてもようございますか』
 長火鉢に向かっていた八郎の足がとまった。
 返事が聞こえるまでに、少し間があった。そのわずかの間が、千遠にはきのとおくなるほど長い時間のように思えた」(53-54ページ)

 こういうくだりが、この娘の人柄と思いを切々と伝えるものになっている。情景の描写と、それに伴う句読点の使い方が素晴らしい。句読点一つで、行間の情景がにじみ出る。

 伊庭八郎の生き方を伝える言葉として、作者は次のように記す。

 「俺は、勝さん(勝海舟)ほど人間の出来がよくねえのよ」(52ページ)
 「なにもかも幕府側が正しかったとは言わねえが、俺は、俺達の持っていた刀や鉄砲の前に錦旗をつきつけて、これでお前達は朝嫡だ、科人だというようなやりくちにゃ我慢ならねえ。一寸の虫にも五分の魂だ、勝さんは今のうちだけ頭を下げているというが、どうしても『はい』とは言えねえのよ」(53ページ)
 「あいすみませんでしたと頭を下げれば、奥詰になったことも、道場や講武所で剣を磨いていたことも、すべて間違いであったと認めることになるのじゃねえか。俺は俺の名誉のために戦うとつい言っちまってね。徳川家の恩を忘れたのかと、袋叩きにあったよ」(53ページ)

 伊庭八郎は、自分でも勝てる見込みなどないとわかっていながら、箱根での薩長との戦いに加わって、左腕の肘から下を斬り落とされ、それでも、会津若松の戦いに参戦し、やがて函館の榎本武揚の戦いに加わり、函館で艦砲砲撃を受けて戦死している。

 彼は、いわば、人間としての「筋目」を通した人であり、作者は、そういう姿を上のような言葉で表しているのである。

 伊庭八郎を取り扱った文学作品として優れていると思えるのは、池波正太郎の『その男』や『幕末遊撃隊』があり、わたしは、以前、池波正太郎のそれらの作品を深い感動をもって読んだことがある。伊庭八郎は、幕末の人間たちの中でも、わたしが好きな人間のひとりなのだ。伊庭八郎は、報われることの少ない人生を歩んだ人だが、飄々として、「いい男」なのである。

 だから、北原亞以子が『風よ聞け』で彼を三人の女性の姿を通して描き出すことに、大きな喜びを感じながら、これを読んでいる。

 二人目の女性は吉原の妓楼の娼婦である。彼女は、伊庭八郎の「さわやかさ」と「思いやり」にとことんまいって、娼婦として生きなければならない中で、伊庭八郎を思い続ける人である。

 このことについては、また、明日書くことにする。それにしても、こういう人間を大勢殺して成立した近代日本とは、一体何だったのかと、改めて思ったりする。大久保利通などの功利的な人間が創った近代日本とは何だったのかと思ってしまう。日本を含む世界の19世紀からの歩みは、どこか間違って来ているのではないかと思えてならない。ひとりの小さな人間の幸せや生きることの喜びを踏みにじってはならないのだから。

2009年12月3日木曜日

佐藤雅美『啓順純情旅』(2)

 予報どおり雨になった。「しとしと」と降っている。雨の光景をぼんやりと窓から眺めるのは好きだが、ここは、窓を開けると車の騒音がやかましい。銀杏の落ち葉が貼りついて悲しみを誘う。

 昨日は晴れて比較的温かかったのだが、やはり、陽が落ちると急に冷えてきて師走の風が寒々と感じられた。昨夜、目いっぱいの一仕事を終えて、散策のついでに郵便局とクリーニング屋に寄り、夕食の支度にかかろうと思ったが、佐藤雅美『啓順純情旅』を読み終えていたので、パソコンを開いて昨日の続きを書くことにした。結局、夕食は10時過ぎになってしまった。

 伊勢で愛する女性の死の報に接した主人公の啓順は、伊勢で落ち着いたらどうかと誘われるのを断って、彼を庇護しようと言ってくれた竹居の安五郎のもとへ戻り、甲府で医者として開業することにした。比較的穏やかに三年が過ぎた。

 しかし、竹居の安五郎が伊豆の修善寺に保養に行くのについて修善寺から下田へと向かう。その道中で、竹居の安五郎と子分たちが、今や甲州一円の親分となったことに浮かれ、大名行列のまねごとをしてしまい、そのことで竹居の安五郎が代官所に捕縛され、ほうほうの態で甲府へと逃げ帰らなければならなくなった。その途中で、かつて岩淵で子どもの病気を治してやった母子を訪ねるが、母親はすでに死亡しており、幼い子どもだけが、啓順が迎えに来るといった約束を信じて待っていることが分かった。

 啓順は、その子を引き取って育てようとするが、江戸からの追手がその子どもを人質に取ったので、追手の手に落ちてしまう。しかし、追手の首領格の人間と、竹居の安五郎と津向の文吉の渡世人同士の出入り(大ゲンカ)の時に息が合うようになっていたので、話をつけて、追手を差し向けていた江戸の町火消しの親分と協力して戦おうということになる。

 こうして舞台は江戸に移る。啓順は岩淵の男の子を連れて、その子の今後を依頼するために絶縁されていた師である大八木長庵を訪ね、一方では、いよいよ彼を追っていた町火消しの親分との対決も始まっていく。そして、啓順は、知恵を働かせて、町火消しの親分と渡りあい、真相を納得させて、身を引かせる。かつて大八木長庵から依頼されていた医学書『医心方』も手に入れる。

 啓順は、ようやく江戸で落ち着き、医者としての看板も掲げられるようになり、彼を最初に罠にはめた旗本の娘と所帯をもつ。時は幕末で、彼の旅もそこで終わる。

 この物語全体は、医者でありながら渡世人であり、落ち着いたかと思ったらそこを出なければならなくなる不運を背負った主人公の変転を通して、「心やさしい」、そして筋の通った生き方をし、そのために苦労を重ねていく人間の姿を描いている。

 幕末近くの渡世人の姿も、またその頃の医学界の状況も綿密に盛り込まれているし、それぞれの物語の山場山場の構成も、また、それが伏線となって全体に流れていく展開も、まさに「うまい」としか言いようがないくらいに面白く構成されている。啓順という人物像もいい。啓順は、何度も修羅場をくくっているので、度胸も万点である。竹居の安五郎は、実際には、もっと欲の強い極悪な人間だったが、ここでは義理堅い人情家として描かれていたりする。3巻に及ぶ長編だが、読んでいて飽きがこない。

 長編の醍醐味は、その物語の展開にあるが、「飽きがこない」というのも重要な要素であるに違いない。これは2004年に出されているの、作者の佐藤雅美の63歳の作品であり、老成した、じっくりとした筆の運びを感じさせるものである。

2009年12月2日水曜日

佐藤雅美『啓順純情旅』(1)

 今日もよく晴れて、少し気温が上がったようだ。だが、好天気も今日までらしい。明日からまた天気が崩れるという予報が出ている。

 昨日は、新約聖書の『使徒言行録』のギリシャ語原文を少し時間をかけて読みながら、いくつかのことをまとめたりした。『使徒言行録』は、イエス後の弟子たちの活動の記録を記したものだが、これを書いた著者ルカと呼ばれる人は、本当に心の柔らかな人だとつくづく思う。

 それをしている途中で、中学生のSちゃんが訪ねてきてくれたので、化学の「イオン」についての話をしながら、ふと、人間にもそれぞれの「イオン価」というものがあるのかもしれないと思ったりした。「イオン価」によって、ある者はつながり、またある者は反発して離れていく。ある者はつながっても持て余して、他の者と繋がろうとする。そして、イオンの交流によって電気エネルギーが生じていく。おもしろい現象がそこで生じてしまう。人間と世界の現象はそんなものかもしれない。

 昨夜から、佐藤雅美『啓順純情旅』(2004年 講談社)を読んでいる。これは、昨日も書いたように、前作『啓順地獄旅』の続編で、丹波篠山を追われるようにして旅立った啓順が、行くあてもなく、竹居の安五郎のところへでも行って村医者でもしようと甲州へ向かう途中に、話のついでだと伊勢路を通り、伊勢に向かうところから始まっている。

 やっと幸せをつかんだと思ったら、そこを追われるようにして出る。啓順の旅は、そのことの繰り返しである。

 啓順は、伊勢で、同行になった者に冗談をしかけられて行った妓楼での一悶着から、衰退してしまった渡世人一家と知り合い、結局、その渡世人一家を助けることになってしまい、渡世人一家を束ねる親分になって、その渡世人一家の争いを解決したりするが、結局、竹居の安五郎と津向の文吉の渡世人同士の争いに加担することになり、甲州へと向かうことになる。

 その時、彼は、以前、甲州で病を治し、惚れていた美女のことを聞き、その女性に会いたいという思いもあって、竹居の安五郎のところへ行くのである。ところが、その女性はすでに結婚していた。だが、彼女は亭主に乱暴され、亭主の元を逃げ出して啓順のことを聞いて会いに来る。啓順と彼女はお互いに思いを寄せていたからである。しかし、彼女の夫が彼女を追って来る。啓順は彼女を安全なところにかくまい、自分は竹居の安五郎と津向の文吉の出入り(大ゲンカ)に出かける。その間に、彼女は亭主に見つかり、連れ戻されようとするが、逃れていく。啓順は、彼女の行き先を探すが、わからない。

 そしている間に、江戸から追ってきた追手と息が合うようになったり、病気の子どもの治療をしたりして月日が過ぎ去って、ようやく、彼女が伊勢にいることが分かり、伊勢へと向かう。その途中でも、彼は、またしても、立ち寄った農夫の訴訟事件に巻き込まれたりしてしまう。そして、彼が伊勢についた時は、彼女は疲労が重なって死んでしまっていた。

 まことに不運がついてまわる。出会った人の止むに止まれぬ事情を感じ、そこで道草を食い、それぞれの人を助けるが、自らは、結局、行きついたところで不運が待っている。啓順の旅は、その不運の連続なのである。

 それから、啓順がどうなるか。これはまた、明日、読了後に書くことにする。今日は、何か大きな予定があったような気もするが、予定表に控えていなかったので忘れてしまった。困ったものだが、まあ、生き死にかかわることでもないだろうから、何とかなるだろう。銀行からお金を下ろしてこなければならないのは確かだ。吉行淳之介ではないが、「天井から銭子がバラバラ降ってこないかなぁ」ではある。

2009年12月1日火曜日

佐藤雅美『啓順地獄旅』(2)

 ころころと天気が変わっていく。昨日のどんよりした雲が晴れて、今朝は快晴である。昨日、たぶん大学の卒論か何かに使われるのだろうが、キルケゴールの哲学に関する質問がメールで寄せられていたので、それに少し答えたりしたが、佐藤雅美『啓順地獄旅』を昨夜読み終わったので、これを書くことにした。

 『啓順地獄旅』の主人公で、医師であり渡世人でもある啓順は、日本最古の医学書である『医心方』の探索のために船旅で京へ向かうが、書類上のミスのため、浦賀の船改番所で船を降りなければならなくなり、陸路を鎌倉経由で向かうことにし、途中の沼津で、昔、医学館で机を並べた友人と出会い、その友人の頼みで、城代家老の娘で郡奉行の奥方である女性の病気と、その奥方の突然死に関わったことから、城代家老と郡奉行との争いに巻き込まれ、それを丸く収めるために濡れ衣を着せられて投獄される。そして、それが彼の追手の知るところとなり、策略をめぐらされた罠にはまるのである。

 彼は、どこまでも「ついていない」歩みを続けなければならない。ところが、それが彼に京都行きを命じた奥医師の大八木安庵の知るところとなり、無罪放免され、郡奉行の奥方の突然死の真相が明らかになっていく。しかし、その時、啓順がもっていた金が召し上げられたまま帰って来ず、彼は、それを取り戻そうと城代家老を襲い、浜松の水野家(水野越前守-老中)と沼津の水野家の争いを利用して身の安全と金を取り戻そうとする。金は四分の一ほど戻ってきたが、彼は沼津を出なければならなくなり、富士川をさかのぼって甲州へ出て、そこから信州、中山道を通って京に向かうことにする。

 ところが、甲府へ向かう途中の岩淵で幼い姉弟を助けたことから甲州鰍沢へ船人足として向かうことになり、鰍沢で竹居の安五郎(吃安)と津向の文吉との渡世人の抗争に巻き込まれたりしながら甲府へと向かう。そして、そこで、沼津での出来事を水野筑後守へ訴えてくれと書き送った師の大八木長庵から呆れられて、とうとう絶縁されてしまう。甲府で、追手にも追われ、金もなく、進退極まった彼は、按摩として潜み暮らすようになる。按摩としての評判が上がるにつれ、本物の盲目の按摩から自分たちの生計を脅かしていると聞かされ、自分が人を脅かす人間になっていることに衝撃を受け、按摩を廃業して旅立とうとするところに、贔屓にされていた呉服屋から息子のごたごたの解決を依頼されたりする。

 やがて、甲府から鰍沢を経て岩淵に戻ろうとする船の中で、身延詣でに来ていて急に産気づいた婦人のお産に立ち会い、婦人を助けるために子どもを水子としてしまう。そのために立ち寄った身延で、胎児を殺してしまったことの罪意識もあって、できるだけ多くの人を医術によって助けようと決心し、診立(みたて)を依頼されたことからそこに居着くようになる。

 しかし、そこでも追手との諍いを避けたい津向の文吉から身延を出るように言われて、そこを出ることになってしまい、最初の目的通り京へ向かう。彼は、そこまで、五年の歳月を要してしまったのである。

 啓順は、ようやく京に辿りついて、どこかの医者の内弟子になろうとするが、京の医学界では、体制が固められていて入り込むことができない。それで、やむなく大八車に荷物を載せて配達する力仕事をして生計を立てていきながら、『医心方』の探索を始めるが、疲労も重なり、啓順は医者であると同時に渡世人でもあるのだから、賭場の用心棒にでもなろうと思って賭場を訪ねるが、そこで人探しを依頼されて丹波篠山に向かうことになる。

 丹波篠山で、依頼された仕事を解決したが、そこで豪農・豪商の奥方の病気を治すことになり、それが縁で、その付近で医者をすることになる。ようやく落ち着いた暮らしができるようになったが、しかし、そこに江戸からの追手が迫り、そのことで豪農・豪商からそこを出るようにと言われ、彼の旅がまだまだ続くところで、この作品は終わっている。

 啓順は、いわば、流浪の旅を続ける人として描かれている。彼は、どこに行っても、最初は歓待され、重宝がられ、ようやくそこで落ち着くことができるかと思うと、疎まれて、その場所を去らなければならなくなる。「辿りついたら、いつもどしゃ降り」の人生を歩んでいく人である。彼にとって、この世は、いつも「生き難い」場所である。

 作者は、そうした生き方を強いられる「心やさしい」、そして「男儀のある」人間の姿を歴史の中に投げ入れ、状況の中でやむをえずに巻き込まれていく姿を、卓越した才能をもつ医者でありながら渡世人でもある主人公を通して描いていく。この主人公のこうした設定は、自分自身と照らし合わせても納得できるものが多いことを、わたしは感じている。

 今、この続編である『啓順純情旅』(2004年 講談社)を読んでいるので、その後、主人公がどのようになっていくか、楽しみである。この作者の『物書き同心居眠り紋蔵』のシリーズを読みたいのだが、なかなか、図書館で借り出し中のことが多くて、借り出すことができないでいる。「運」のようなものだろう。そして、いつもわたしには「運」がない。