2009年12月10日木曜日

諸田玲子『其の一日』(2)

 普段の倍くらいのことをしなければならないあわただしい日々になってはいるが、昨夕、そろそろ九州の母から頼まれていた年賀状のデザインを考えなければと思って、あれこれ試作したりしていた。来年の干支は「寅」。年賀状を作るのに彫刻刀で板に彫らなくなってもうずいぶんになる。この時期、あまりゆっくりすることがなくなったからだろう。油絵も、2年ほど前に描きかけた「ピエタ」がそのままにしてある。なんともまあ、という思いではある。

 諸田玲子『其の一日』の第三話「小の虫」は、駿河小島藩の家臣で、安永・天明記の代表的戯作者でもあった倉橋寿平(恋川春町 1744-1789年)の姿を、その息子倉橋寿一郎が知っていくという形で表わしたものである。

 倉橋寿平(恋川春町)は、小島藩の家臣として謹厳実直に仕える傍ら、『金々先生栄華夢』(1774年)や『高慢斉行脚日記』(1776年)を表わして江戸時代の「黄表紙」(草双紙)の祖ともなった人で、狂歌も「酒上不埒(さけのうえのふらち)という名前で発表したりして、なかなか洒落とウイットに富んだ面白い人である。彼は、『鸚鵡返文武二道』を寛政年に発表したが、これが松平定信の寛政の改革を揶揄したものと受け取られて、松平定信から出頭を命じられ、病気を理由にそれを辞して、まもなく死んでいる。そのために、小藩である小島藩からも責められて自害したという説もある。

 諸田玲子の「小の虫」は、その寿平の跡目を継いだ十五歳の息子寿一郎が、ふとしたきっかけで、家では謹厳実直だった父が、実は、恋川春町として戯作を書いた人間であったことを知り、すでに死んだと言われていた自分の実母が、実は離縁されて暮らしており、父の恋川春町と共に、深い愛情を育てながら戯作者としての父を支えていたことを知った、「其の一日」の姿を描いたものである。そしてまた、彼は、そこで父親の死の真相を知るのである。

 作者は言う。「倉橋家の養子となり、厳格な養父母に仕え、上級家臣とは名ばかり、野菜をつくって飢えをしのぐほどの貧乏暮しをしていた父だ。遺誡(家訓)を書かされ、惚れた女と引き離され、それでも愚痴一つ言わずに主家のために尽くしてきた父が酒を口にしたときの高揚感。それこそが、父に黄表紙を書かせる源となったのだろう」(135ページ)。それが、狂名「酒上不埒」なのだと。

 それにしても、作者の諸田玲子は、この作品を書くにあたって恋川春町のことをよく調べ、それを息子の目を通して描き出すという作品に昇華させている。その想像力にはつくづく敬服する。

 第四話「釜中の魚」は、幕末の大老井伊直弼(1815-1860年)が「桜田門外の変」で水戸藩浪人によって暗殺される前夜から当日の朝までの一日、20年ものあいだ彼を慕い続け、生涯彼のために尽くそうと思って、密偵として働き、その危険を知らせようとする女性の姿を描いたものである。

 井伊直弼を描いた作品として船橋聖一『花の生涯』(1953年 新潮社)があるが、諸田玲子のこの作品は、彼を慕うひとりの女性の思いと危機を感じての不安が見事に描かれている。ただ、井伊直弼について、彼が「安政の大獄」をおこなった点で、わたしはどうしても好きになれない。

 しかし、この『其の一日』の四話の構成をぼんやり眺めていると、第一話と第三話が男の心情、第二話と第四話が女の心情となって、なかなかうまい構成になっているように思われる。この作品は、2003年に第24回吉川英治文学新人賞を受賞しているが、作者の力量を示す作品の一つといえるだろう。

 今日は「あざみ野」の山内図書館に本を返却しなければならない。平日は午後7時まで開館しているので本当に助かる。気温が低く、寒いので、重装備をして出かけよう。

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