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2012年11月28日水曜日

中村彰彦『知恵伊豆と呼ばれた男 老中松平信綱の生涯』


 このところ寒い日が続いている。日没が早いので、気づけば、もう真っ暗ということが多くなっているが、昨日は、薄く暮れゆく薄藍の空に白い月がぽっかり浮かんでいるのを坂道を登りながら見ていた。冬の月も冴えざえとしていていい。

二日ほどかけて中村彰彦『知恵伊豆と呼ばれた男 老中松平信綱の生涯』(2005年 講談社)を読む。作者は歴史資料を丹念に当たって独自の視点から歴史上の人物を描き出すことに定評があるし、わたし自身もいくつかの作者の作品を読んで、いわいるその「史伝」に感じ入ることが多いのだが、作者が取り上げる歴史上の人物には「知者」と呼ばれた人が多いような気がする。

 本書は、「知恵伊豆」とまで称された江戸時代の知者を代表する人物であった松平信綱(15961662年)の生涯を描いたもので、松平信綱を取り扱った作者のほかの作品として『知恵伊豆に聞け』(2003年 実業之日本社)がある。

 松平信綱は、家康の家臣で武蔵国小室(現:埼玉県北足立郡伊奈町)の代官をしていた大河内久綱の長男として生まれたが、6歳か8歳の時(二説がある)、代官の子では御上の近習を勤めることは叶い難いので、松平姓をもつ叔父の松平正綱の養子にして欲しいと懇願して松平家に入ったと言われる。これは、もちろん、信綱の知者ぶりを示すために後に語られたことだろうが、信綱が松平正綱の養子となり、やがて直ぐにやがて二代目将軍となる徳川秀忠に謁見し、慶長9年(1604年)に徳川家光が生まれると、家光付きの小姓に任じられている。信綱8歳の時で、翌年の慶長10年(1605年)には五人扶持を与えられている(扶持はだいたい大人一人の男で一日に一合の米で計算されたとして年間でおおよそ360合(一年の日数はいろいろあったので360日で)、五人扶持で1800合、おおよそ270キロぐらいで、仮に10キロを4000円とすれば、現在のお金で110万円ほどであろうか。もちろん、貨幣価値が異なっているが)。

 信綱は小姓時代にから利発さを発揮し、ひたすら真面目に忠勤に励み、秀忠や於江に目をかけられていたようで、いくつかのエピソードが残され、本書でも取り上げられている。18歳くらいで、後に横須賀藩主となり老中となった井上正就の娘と結婚し、次々と加増されて、寛永5年(1628年)には一万石の大名となっている。彼が加増されたのは、知恵働きや忠勤ぶりで家光の覚えもめでたく、家光が将軍位を嗣ぐときの上洛に従い、その采配ぶりが見事であったためと言われる。信綱は先見の明があり、先を見越した準備に怠りがなく、合理的な精神を発揮したからであると言われる。そのエピソードもいくつか残されて、まさに「知恵伊豆」と呼ばれるほどの才能を発揮している。

 時代は武から官に移ろうとした時代で、彼のような才能を持つ人物を必要とした時代であったとも言えるだろう。武から文、それがこの時代であった。寛永9年(1632年)に大御所となっていた秀忠が死去し、名実ともに家光の時代になった寛永10年(1633年)に幕政の実務を行う「六人衆」となり、さらに老中に任じられ、3万石で武蔵国忍(おし 現:埼玉県行田市)の藩主となっている。信綱は老中として幕府における職務制度(老中職務定則、若年寄職務定則、寺社奉行や勘定頭などの職務)を次々と制定して、江戸幕府の基礎を作り、後には武家諸法度の改正や鎖国政策を完成させている。江戸幕府の幕藩体制は彼によって形成されたといってもいいかもしれない。

 寛永14年(1637年)に「島原の乱」が起こると、江戸幕府は乱の鎮圧のために最初は総大将に板倉重昌を任命したが、乱が長期化し、寛永15年に総大将に任じられ、大きな犠牲を出しながらも結局は兵糧攻めによってこれを鎮圧し、寛永16年(1639年)に3万石を加増され、6万石で川越藩主になった。この時に彼が藩主として川越の城下町を整えたり川越街道を整備したり、玉川上水を開削したりしたのが、今も残っている。寛永15年(1638年)から老中首座であった。

 慶安4年(1651年)に家光が死去し、その家光の遺言によって4代将軍となった家綱に補佐役として仕え、由井正雪らが反乱を企てた「慶安事件」を鎮圧したり、明暦3年(1657年)の「明暦の大火(これによって江戸城の天守閣も焼け落ちた)」の対応をしたりした。そして、寛文2年(1662年)、老中在職のままで病によって死去した。享年67(満65歳)の生涯である。

 松平信綱は、秀忠から家綱までの3代の将軍の時代に、江戸幕府の治世の基礎を築いた人間で、彼によってその後の250年以上にも渡る政治体制が築かれたといっても過言ではなく、「困ったら伊豆に聞け」と言われるほどの知者ぶりを発揮した人物であった。そして、謹厳実直を絵に書いたような生活をし、隙を作らず、面白みがないために同僚などからは「才はあっても徳はなし」と揶揄されたところもあるが、人徳もかなりあった人で、本書はその彼の才と徳を描き出そうとしたものなのである。

 ただ、何らかの人物を描き出そうとするときは、その人物に肩入れして、いわば惚れ込む形でないと描き出せないが、作者はかなり松平信綱に肩入れし、「あばたも笑窪」ではないが、いくつかの点で高評価し過ぎの気がしないでもない。彼は官僚としては極めて優れた人物であったが、その分独善的なところも多分にあったと、わたしは思っている。彼が発揮した知恵も、金と力がある人間の側のものであるように思えるからである。

 ともあれ、松平信綱という人間がどういう人間であるかを知る上では、資料がよくまとめられていて、エピソードもたくさん盛り込まれ、面白く読めた。歴史小説として、ここからもう少し膨らみを持たせることができるのではないかと思えるほど内容は豊かであった。巻末に作者が作成したと思われる松平信綱の詳細な年表が収録されていて、これは貴重な年表になっている。作者の労の多い作品である。

2012年10月10日水曜日

中村彰彦『鬼官兵衛烈風録』(2)


 日毎に気温が低くなり、秋が一段と進んでいる。空気がすっかり秋の気配で、「もの思う」にはいい季節になってきた。昨日、少し体調を壊したこともあって、これは「気分が高揚しないための戒め」と受け取り、改めて自分の歩みをコツコツと続けていく必要を自戒したりした。

 もう随分以前に書いていたわたしの論文などが掲載されていたHP『思想の世界』が閉鎖されていることを岡山県の方が連絡くださり、これを作成してHPとしてアップしてくださっていた千葉県のT氏に深く感謝するとともに、長い間連絡もしなかったことをお詫びしたいと思っている。

 T氏は、わたしが発行していたメールマガジン「思想の世界」の読者の方で、IT技術を専門とされて、好意でHPの作成とアップを申し出てくださった方で、このHPは世界各地のキルケゴールの研究家の方々や哲学、倫理学、社会学などの関係の方からたくさん閲覧され、また引用されたりしていたので、閉鎖の問い合わせが、最近よくある。

 わたし自身が、メールマガジンを発行していた時から仕事の関係で何度か転居したり、メールアドレスが変わったりして、メールだけのやり取りだったT氏との連絡がいつの間にか取れないままに過ごしてきたので、更新などもできず、また、アップルのHPはアップが有料なこともあり、T氏に対して非礼であったと反省している。出版や広告掲載の依頼もたくさんあったがお断りしていた。「思想の世界」に掲載していたものは、いずれまた時を見て、とは思っている。

 それはさておき、中村彰彦『鬼官兵衛烈風録』(1991年 新人物往来社)の続きであるが、佐川官兵衛が戊辰戦争で越後を転戦して、長岡近郊の見附(現:見附市)の塗師今井庄七の家を本拠としていた時、今井家の人たちも官兵衛の人柄をいたく尊敬し、彼を手厚くもてなしている。官兵衛も塗師として三代続いていた今井家の在り方に心を動かされるところがあり、この家に家人の求めに応じて春夏秋冬の歌を四首残している。

 春月 朧々(ろうろう)
 天のがは 雪げの水やまさるらん かすみに濁る春の夜の月
 夏月 涼
 ゆく水に 影をとどめて 水よりも すずしく澄めるなつのよの月
 社頭 賞月
 よの人のこころの声や払ふらむ 月住のよの松のあらしに
 寒夜 月
 霜のうへに  冴え行く月や穐草(あきくさ)のつゆのやどりを おもひ出づらむ

 薩長軍から「鬼官兵衛」と恐れられた佐川官兵衛が繊細な心の持ち主であったことがよくわかる歌である。強靭、豪胆であると同時に繊細、それが佐川官兵衛の人柄であったと言えるだろう。

 会津若松戦争は悲惨を極めた。官軍は会津若松の徹底的な破壊を行い、官軍はまさに「奸軍」となり、暴虐の限りを尽くした。この時の官軍を指揮したのは山形有朋であった。会津藩の藩士の婦女子は官軍に恥ずかしめを受けないように自害し、子どもから老人に至るまで殺された。

 この時、佐川官兵衛は遊撃隊として城外に打って出ることになっていたが、一藩の命運をかけた戦いの朝、官兵衛は、前夜に藩主の松平容保から名刀の政宗を贈られ、酒席を設けられて酔いつぶれてしまい、寝坊してしまうのである。肝心な時に寝坊するというのも、わたしは好きである。だが、そのために遊撃隊の出陣が遅れ、作戦は失敗に終わる。この時に、官兵衛は、自分が敗れるようなことがあれば、二度と城には帰らずに城外で戦い抜くと語っていたが、そのとおりに官兵衛が鶴ヶ城に帰ることはなく、城外で戦い抜いた。だが、奥羽越列藩同盟のうち、長岡藩が破れ、米沢藩が恭順の意を示し、戦死者と負傷者が折り重なるように城内にあふれ、砲撃は絶え間なく続くなかで、ついに松平容保は降伏する。官兵衛は、なおも戦い抜こうとするが、藩主の命が下って戦を終える。

 この時、藩主の松平容保は全ての責任を一身に背負うと述べ、家臣は、非は自分たちにあるから藩主親子の命は助け、自分たちが至らなかったのでこのようになったのだからその責任を負うと語る。こういうところが「会津」のよさだとつくづく思う。佐川官兵衛も藩主に対しての寛容な処置を願い、自らが責任を取って切腹する覚悟であった。新政府は、松平容保に罪一等を減じ、江戸での謹慎とし、家老に切腹を命じた。このとき在命だったのは次席家老の萱野権兵衛だったので、彼が全ての責任をとって切腹した。官兵衛は、萱野権兵衛の代わりに自分を切腹させるように嘆願書を出すが、認められなかった。また、この時に官兵衛がこよなく可愛がっていた妻の「おかつ」は労咳のためになくなってしまう。

 官兵衛はすべてを失い、自失した生活を茫然と送ることになる。やがて新政府は徳川慶喜と松平容保の罪を許し、容保の実子慶三郎に青森最北端に「斗南藩」を起こすことをゆるす。生き残った会津藩士たちは斗南藩に移り、そこの開墾を手がけることになったのである。官兵衛も老いた母親を連れてそこに移り、開墾生活を始めるが、土地は耕作に不向きで、過酷な冬は長い。開墾生活は苦渋を極めた。

 1871年(明治4年)に廃藩置県が行われ、斗南藩は、やがて弘前県となり、弘前県は青森県になっていく。松平慶三郎(容大)も東京に戻され、官選の県知事が赴任し、会津藩士たちが斗南に留まる理由もなくなり、官兵衛は母を連れて再び会津に帰り、寺子屋をしていた叔父のもとに身を寄せるのである。そして会津での日々を過ごすうちに彼のもとに旧会津藩士や青年たちが集まってくるようになる。人としての官兵衛の魅力は、青年たちの支えとなっていくのである。

 そのころ、新政府に対する不満が各地で爆発し、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱といった士族の反乱が各地で起こり、明治維新の中核であった西郷隆盛も、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視らと衣を分かって鹿児島に戻るという出来事が起こる。この対立のもとになったと言われる西郷の「征韓論」にはいくつかの要素があって単純ではない。その西郷に見出されて、特に新政府の司法省の重責を担っていた川路利良は、1871年(明治4年)に西郷隆盛とともに警察制度(邏卒制度)をつくっていたが、1873年(明治6年)に西郷が鹿児島に戻った年に、内務省を発足させて、東京警視庁を誕生させ、全国に巡査大募集を行った。

 そして、川路利良は、強靭の誉れ高い旧会津藩士たちを巡査として採用したいと思い、旧会津藩士の中でも最も武勇と人望が高かった佐川官兵衛に白羽の矢を立てるのである。

 官兵衛は、戦で多くの者を死なせた責任を痛感し、川路の申し出を断っていたが、貧苦に喘ぐ旧会津藩士や青年たちの生活のために、彼らに請われてついにこれを引受け、旧会津藩士や青年たち三百人ほどをつれて警察に入るのである。これによって彼は東京に移り、母親を東京に呼んで生活をする。そして、「佐川」の血筋を絶やさないためと母親に説得されて、21歳の年の離れた「カン」と再婚し、男子が誕生する。

 やがて西南戦争が勃発する。東京警視庁は内務省の管轄下で警視局東京警視本署となり、川路利良は鹿児島で蜂起した西郷軍鎮圧のために七百名を派遣し、さらに千百八十名を九州各地に派遣する。佐川官兵衛もこのとき九州に派遣され、西郷軍が熊本の南阿蘇の要所であった二重峠を占拠したとの報を得て、白水村の吉田新町に陣を置く。だが、その時に南阿蘇方面を指揮していたのは、檜垣直枝という決断力のない凡人で、官兵衛はここでも苦労する。やむなく黒川村あたりに軍を展開した折、西郷軍と遭遇し、西郷軍の鎌田雄一郎と真剣で対峙した時、横合いから農民が銃で官兵衛を撃った。佐川官兵衛の生涯は、この南阿蘇で閉じられた。真剣勝負をしている人間を横合いから狙い撃ちして自分の手柄にしようとする下卑た人間はいるもので、不意の出来事というのは、たいていそういう人間によって引き起こされる。

 かつて、「会津の二川」と言われ、「知恵山川、鬼佐川」と言われた佐川官兵衛は、彼を慕った人々の心にその痕跡と人物をしっかり刻みながら、一発の兇弾によって大木が倒れるようにして倒れた。享年四十五の生涯であった。

 本書は、丹念に歴史資料にあたりながら、それを縦横に駆使して、佐川官兵衛の姿を感動的に描き出す。佐川官兵衛についての資料はいくつかあるが、小説は少なく、この作品は貴重だと思う。また、小説として人間が生き生きと描かれているので、作者の作家としての力量が大きいことを知ることができるが、それにしても、佐川官兵衛という「武」の在り方は感銘的である。

2012年10月8日月曜日

中村彰彦『鬼官兵衛烈風録』(1)


 澄み渡る秋空の下で、少し暑い日差しを残しながら好日が過ぎていく。黄昏時の風は、真に心地よい。山積みしている仕事がなかなか片づかないが、ぶらりぶらりと歩くのも悪くない。日々を愉しむ術を身につけることが肝心。そんなことを思いながらパイプたばこを吹かしていた。

 幕末の頃に、薩長や尊王攘夷の人々から「鬼官兵衛」とか「鬼佐川」とかいって恐れられた会津藩士の佐川官兵衛(18311877年)の姿を描いた中村彰彦『鬼官兵衛烈風録』(1991年 新人物往来社)を読んだ。作者の史料の取り扱いにはここでも感嘆する。

 本書は、幕末史を丹念にたどりながら、いくつかのエピソードを交えて「鬼官兵衛」の姿を描き出したもので、会津という幕末の嵐の中心にあって、しかも激烈な会津藩士の中で最も慕われ、尊敬された人物である佐川官兵衛の姿を描き出すのであるから、当然、幕末における会津藩の姿が重要な意味を持つ。佐川官兵衛は、藩主の松平容保に請われて会津藩最後の家老となった人物である。

 佐川官兵衛は、1831年(天保2年)に会津若松城下の佐川幸右衛門直道の嫡男として生まれ、体が大きく、腕力もあり、幼少から文武両道において非常に優れていたと言われている。父親の幸右衛門は三百石の物頭(足軽大将)で、当時、会津藩では三百石以上の嫡子は、藩校の日新館で四書五経から春秋左氏伝、蒙求、十八史略といった漢学を修めなければならず、武芸においても、弓馬槍刀銃のうち一芸以上は免許を得なければならなかった。会津の日新館での学びは相当に厳しいものがあったが、佐川官兵衛はその両方において優れ、和歌をよく詠み、一刀流溝口派の剣技に優れ、馬術も抜きん出ていたと言われる。人柄もよく、人情に厚くて人望を集めた。後に刀工にも深い関心を持ち、刀鍛冶に弟子入りして自ら小刀を造るほどであり、豪放磊落であると同時に繊細でもあったのである。

 彼に残されたエピソードのうち、ひとつは若い頃のもので、父の隠居によって家督を継いだ官兵衛が会津藩江戸藩邸の火消し頭を勤めていたとき、火事で出馬した幕府定火消し役の内藤某(本書では五千七百石取りの大身の旗本内藤家の内藤外記とされている)と道を譲る、譲らないで争いとなり、その内藤外記を斬ってしまったというのがある。その不祥事を内密にするという処置が取られたが、相手が死んでおり、官兵衛は百石の減禄の上、国許での謹慎処分となるのである。本書はこのエピソードから始まっている。

 藩主の松平容保が、蒲柳の質のためにさんざん辞退したが受け入れられずに京都守護職を命じられ、千名もの藩士を連れて上洛した際も、官兵衛は謹慎中のため国許に留め置かれている。この時期、官兵衛は、一度妻帯したが、相手の女性がほとんど感情を表に出すことのない女性で、細やかな愛情を求めていた官兵衛と合わずに離縁し、公私にわたって挫折を味わった。しかし、人の価値というものは、自分が評価されない時にどうするかで決まるものである。彼は学問と文武の修行に励み、それと同時に自分の性格もより豊かな人間性を備えるものになるために物事をおおらかに受け取っていくことに心をくだいていくのである。

 やがて、京都の情勢が激化して、官兵衛も許されて上洛し、物頭となり、会津藩が京都でも開いていた京都日新館の学校奉行を兼ねるようになっていく。彼の人望と信頼は高まり、会津藩の最も優れた精鋭部隊である「別選組」と日新館で学ぶ若い藩士たちで組織された「諸生組」の隊長も兼務するようになっていく。官兵衛は、この時期に再婚したが、婚礼の日に、槍の名人を学校に招いて酒宴をし、そのまま酔い潰れて寝てしまい、後で弟二人から叱責され、官兵衛はその叱責を、肩をすぼめて聞いていたというエピソードが残されている。だが、夫婦仲はよく、年の離れた妻をこよなく愛したと言われる。

 この間、京都では、1864年(元治元年)に長州藩による「禁門の変(蛤御門の変)」が起こり、第一次長州征伐の命が下ったりするのである。前年に公家の七卿とともに京都を追われた長州藩は、三条実美を擁して攘夷の断行と天皇の御親征を訴えて武装をして上京し、これに対して一橋慶喜(後に徳川慶喜)が武力でそれを抑えることを主張して、京を守る会津藩士と蛤御門で激突したのである。

 この時、刀と槍で戦った会津藩士は長州藩の洋式銃の前で苦戦し、薩摩藩が動くことでかろうじて長州藩を退けることができたが、この時に官兵衛は洋式銃の強さをつくづくと実感していた。だが、旧態依然の会津藩では、その進言を取り入れることに消極的だったのである。

 第一次長州征伐は、長州藩が恭順の意を表したことで腰砕けに終わったが、幕閣は、情勢も判断できないまま、それでますます増上慢になってくるし、そういう幕府を見限った薩摩藩は長州藩と手を結んで倒幕の動きを密かに始めていく。会津で至誠を大事にする一徹な教育を受け、藩内もよくまとまっていた会津藩士にとって、長州藩のように藩内で争いあうとか、情勢に応じてめまぐるしく態度を変えるというような薩摩藩や長州藩のあり方は理解できなかったのではないかと思う。ましてや、外面的なメンツだけで生きていた当時の公家のあり方とも立場を異にしていただろう。

 やがて長州藩は、高杉晋作らを中心に恭順から一変し、武力を整え、江戸幕府は長州藩が幕命に従わないことを理由に第二次長州征伐を行う。この時、会津藩は京都守護のためにこれに加わらなかったが、幕府軍は長州軍によって撃退されていく。その最中に、1866年(慶応2年)、将軍家茂が二十一歳の若さで死去し、続いて会津の松平容保のよき理解者でもあった孝明天皇が1867年に死去し、事態は一変していくのである。186711月(慶応3年10月)に、第十五代将軍となった徳川慶喜が大政を奉還する。これによって松平容保は京都守護職の任を解かれるのである。

 しかし、大政奉還が朝廷に出された1014日(現:11月9日)、岩倉具視によって薩摩藩と長州藩に倒幕の密勅が密かに出されていた。これは偽勅の疑いのあるものであり、実行は延期されたが、薩長による武力倒幕は初めから強いものがあったのである。

 将軍徳川慶喜は、松平容保らの反対を押し切り、やがて京都の二条城から大阪の大阪城へと移る。慶喜はこの時から既に逃げのびることを第一にしていたのだが、従った家臣らの意気は高く、やがてこれが鳥羽伏見の戦いへと繋がるのである。松平容保と会津藩士は慶喜に従って京都から大阪城へ移り、会津藩士は大阪城の警護を命じられ、佐川官兵衛も警護の役につく。そして、ついに、1868年正月に鳥羽伏見の戦いが勃発する。

 この戦いは、兵力は幕府軍の方が多かったのだが、薩長軍の銃火器と幕府軍の稚拙な戦いぶりで、薩長軍の勝利で終わるが、佐川官兵衛らの会津藩士は勇猛果敢によく戦い、官兵衛はこの頃から「鬼の官兵衛」と言われるようになった。彼の戦いぶりがよく描き出されている。官兵衛はこの戦いで目を撃たれて負傷したが、それをものともせずに戦い抜いた。そして、徳川慶喜は、鬼神のように戦った佐川官兵衛を歩兵頭並(幕府軍歩兵総督)に任命し、「余が自らこれより直ちに出馬する。皆々、出陣の用意をいたせ」と大阪城にこもった幕府軍を鼓舞した。しかし、その下の根も乾かないうちに、その夜、わずか数名を連れて大阪城を脱出したのである。将軍の裏切り、これは決定的となり、加えて、薩長軍が錦の御旗を掲げたことによって、幕府軍が賊軍となったために幕府軍全敗となったのである。

 慶喜は自分に従った幕府軍に嘘をつき、これを捨て去り、庭を散策するふりを装って脱出した。会津藩主の松平容保は、慶喜の散策につき従うつもりであったところ、ともに脱出することを命じられてやむなく慶喜と行を共にすることになり、後にこれを悔やんだとも言われる。

 将軍に裏切られて憤懣やるかたない官兵衛ら、残された幕府軍にやがて解散が命じられ、会津藩士たちは紀州を山越えして、やがて船で江戸に向かう。松平容保は、江戸に来る会津藩士を迎に出て、彼らに頭を下げ、家督を養子の喜徳(のぶより)に譲る。会津藩士たちは、藩主のこのような姿に打たれて、このような仕打ちをしでかした徳川慶喜をさらに軽蔑するに至ったとも言われる。

 やがて、江戸城の無血開城が行われ、なお各地で薩長軍と戦おうとする者たちを残して官兵衛は藩命に従って会津へ帰る。彼は、鳥羽伏見の戦いの敗北から新式銃の重要性を痛感し、会津藩の武装化を整えていくのである。なお、この時に江戸に残った官兵衛の弟又三郎は、幕府軍の結集を呼びかける際に誤って殺されている。

 会津に帰った松平容保は、何度も朝廷に恭順の意を示したが、「会津憎し」の薩長軍はこれを受け入れず、やむなく会津は薩長軍との戦いに入っていくのである。官軍(薩長軍に錦の御旗が下り、諸藩が従った)に対抗する奥羽列藩同盟が結成され、佐川官兵衛の働きによって越後長岡藩の河井継之助もこれに加わることになって奥羽越列藩同盟が結成されていく。かくして戊辰戦争が始まる。だが、奥羽越列藩同盟は次第に敗北を重ねて行き、自主独立の気概が高かった河井継之助も銃弾に倒れ、ついに、会津は若松鶴ヶ城を中心として官軍と対峙していくようになる。会津鶴ヶ城の会津藩士や城下の商人や農民たちの勇猛な戦いぶりはよく知られるし、その悔しさや悲しさもよく知られている。佐川官兵衛を中心に、会津はよくまとまり、決死の戦を続けたのである。

 この戦いには「会津魂」が込められ、佐川官兵衛にもいくつかのエピソードが残されているし、九州の阿蘇で没するまでにも記したいことがあるので、それを記すと長くなってしまうから次回に記すことにする。

2012年8月17日金曜日

中村彰彦『北風の軍師たち 上下』


 厳しい残暑が続いているが、それでもミンミンゼミが鳴き始め、九州からはアキアカネが飛び始めたとの便りがあった。晩夏の気配を虫たちは感じ始めているのだろう。だが、すこぶる暑いことに変わりはない。夏バテ気味でこの夏を過ごしてきた気がしないでもない。朝から陽射しが強い。

 それはともかく、江戸時代の幕藩体制の中で、徳川幕府はその体制の強化のためや幕府支配の威光を示すために、大名家の領地替えというのを度々行い、三つの大名家の領地を同時に替える三方領地替えや、時には四つの藩の領地を替える四方領地替えというのも行っているが、天保11年(1840年)に画策された三方領地替えは、まれに見る失敗例としてよく知られている。

 これは、川越藩主松平斉典(なりつね)を出羽国庄内へ、庄内藩主酒井忠器(ただかた)を越後の長岡へ、そして、長岡藩主牧野忠雅(ただまさ)を川越へ転封しようとしたもので、天保8年(1837年)に第十一代将軍徳川家斉は次男の家慶に将軍位を譲ったが、大御所として実権は握ったままで、その意を受けて老中首座であった水野忠邦が行なおうとしたものである。

 財政破綻状態が続いて莫大な借金に喘いでいた川越藩主松平斉典は、徳川家斉の51番目の子である紀五郎(斉省-なりやす)を養子に貰い受けることで裕福な庄内藩への領土替えを画策し、大奥などに手を回して家斉を説き伏せ、二藩だけによる領地替えだと川越藩の画策があまりに露骨なために、越後の長岡藩を巻き込んでの三方領地替えを水野忠邦が発案して、天保11年(1840年)11月に幕命を下したのである。

 長岡藩を巻き込んだのは、天保8年(1837年)の「モリソン号事件」などによって脅かされてきた海防の強化の必要性から、領地替えに便乗して長岡の良港であった新潟港や庄内の酒田港を天領にしようとする水野忠邦の意図があったとも言われている。

 しかし、領民に対して比較的良政を行ってきた庄内藩の酒井家の下にあった農民たちにとって、この三方領地替えの話は大きな動揺を引き起こすことになった。借金だらけの川越藩松平斉典が領主になると重い税を課せられ、餓死者が出るようになることを感じたのである。その危機感が増大して、この三方領地替えを撤回させようと、江戸に上って命懸けで幕閣に駕籠訴(登城したり下城したりする幕閣が乗る駕籠に嘆願を直接訴えること)を繰り返し、このことを快く思っていなかった諸大名の働きかけなどもあり、ついに、この三方領地替えは撤回されることになるのである。

 幕命が撤回されることは前代未聞の出来事でもあり、この出来事は「天保義民事件」とか「庄内騒動」とか呼ばれており、藤沢周平が『義民が駆ける』という作品を書いていた。

 この事件を、比較的客観的に描き出そうとした中村彰彦『北風の軍師たち 上下』(2006年 中央公論新社)を、少し時間をかけて読んでいた。

 作者自身の「あとがき」によれば、この出来事に関係した人物たちを描くために、回り舞台に見立てて様々な人物が回転木馬のように登場していくような「メリーゴーランド・スタイル」と呼ばれるような小説作法を採用したということで、徳川家斉や水野忠邦、あるいは川越藩や庄内藩のそれぞれの人物たち、そして幕府の横暴に毅然と立ち上がっていった庄内での農民の指導者であった玉龍寺の文隣、庄内出身で管財の才を江戸で発揮して、いわば経営コンサルタントのようなことをしていた佐藤藤佐(とうすけ)、当時の江戸町奉行で、庄内の百姓たちに温情ある裁きをし、出来事の決着に導いた矢部定謙などの姿が、実に詳細にわたって描き出されている。

 また、物語の引き回し役として、川越藩の下級の隠密と空を飛ぶことに熱中して「飛行器」を作成していくその弟などを設定することで、庄内藩の商人たちの状況、それぞれの城下町の状況などをうまく盛り込んで、三方領地替えに携わる者たちの無謀さやこれに反旗を翻した庄内藩の住民たちの姿が浮かび上がるように描かれている。

 物語は、財政破綻の窮乏にあえぐ川越藩が、家斉の第51番目の子である紀五郎を養子に迎え、付届け(賄賂)と大奥への策謀によって、三方領地替えが起こるところから始まる。そして、そのことの内諾を受けて、川越藩の下級隠密が庄内藩に内情の下調べを行いに出かけるところへと展開していく。

 また、庄内藩では、玉龍寺の文隣を中心にして、「天狗」と称しながら藩内の百姓たちをまとめていく過程が詳細に描かれていく。文隣らは、「天狗廻状」というのを各農村に回しながら、三方領地替えの阻止に向かって駕籠訴を繰り返していくのである。通常、駕籠訴の訴人は厳罰に処せられるのだが、「酒井家が自分たちのことを大事にしてくれたので、その酒井家に出て行って欲しくない」、「百姓も二君にまみえず」と訴えたため、その忠義が江戸の人々や諸大名たちに好意をもって受け取られたのである。その知恵を出したのが、玉龍時の文隣であったのである。

 江戸で財務コンサルタントのような仕事をして諸大名に信頼されていた佐藤藤佐は、この庄内の百姓たちの側に立って、一揆も辞さない死を賭す情勢を作り上げるように助言をし、文隣たちは数万にものぼる百姓たちを集めていくのである。そして、川越藩が庄内に移封されて農民に対して税を重くするなどの圧政を敷いたなら一揆も辞さない構えを取るのである。

 そして、佐藤藤佐は、最も信頼できる武士として矢部定謙に白羽の矢を立て、彼に庄内藩の内情と三方領地替えが行われたいきさつが全くの私情によるものであることを告げて、助力を願うのである。

 矢部定謙は勘定奉行のときに老中首座である水野忠邦に江戸城二の丸の再建計画が無謀であるとの意見をし、幕閣から退けられていたが、家斉の死後に家斉側近たちの粛清に伴い、再び江戸町奉行として登用されることになり、この三方領地替えについての撤回を主張していくのである。

 こうして、一方では庄内藩内における百姓たちの一揆の準備、他方では、幕閣やほかの有力諸大名への働きかけを展開して、ついに、天保12年(1841年)にこの幕命は撤回され、庄内藩は酒田家のままとなり、百姓たちが勝利を収めるのである。

 こうした経過が実に丹念に歴史的検証を経て本書で綴られていく。ただ、作者が「メリーゴーランド・スタイル」と呼ぶ小説作法のためか、あるいは作者自身の特質なのか、人物たちの歴史的エピソードや歴史的事象、あるいは状況の詳細な記述のわりに、今ひとつ人物が生き生きと浮かび上がってこないきらいがあるようにしてならないのが少し残念で、出来事そのものは明瞭にわかっても、人間の深みがあまり展開されていない気がした。小説としての物語性をどこに置くのかという問題かもしれないが、私のような読者にとっては、望み過ぎかもしれないが、ほんの少しが物足りなさを感じた作品だった。

2012年4月16日月曜日

中村彰彦『若君御謀反』


 雲が重く垂れ込めて花冷えのする寒いに日になった。まだ暖房がいる気もするが、その花曇りの空であったとしても、空を仰いで、「ああ、春」と思う。どこからか遅咲きの桜の花びらが一枚飛んできてひらひらと舞う。その風情がたまらなくいい。

 この空気の中で、中村彰彦『若君御謀反』(2003年 角川書店)を面白く読んだ。これは、「若君御謀反」、「母恋常珍坊」、「二度目の敵討」、「おりん小吉 すかしの敵討」、「おとよ善左衛門」、「紺屋町の女房」、「堀部安兵衛の許嫁」の7編が収められた短編集である。

 作家には、それぞれに作品に取り組むときの姿勢(思想)のようなものがあり、特に歴史時代小説ではそれが顕著に表れ、人物を歴史的な事象の中で生きた人間として描き出そうとするときには、その歴史的背景や社会的背景をきちんと盛り込んだり、他の人との関わりの中で描き出そうとしたり、あるいは情景描写一つにしても、人が感じる情景がその人の心情を表すことを必要とする。それを意識する良心的、かつ意識的な作家は、そのためにそれが大きな事件や出来事を描かなくとも、勢い長編にならざるを得ないところがある。

 中村彰彦は、これまで読んだ理解では、歴史的な背景を可能な限り踏まえて描き出そうとするから、作品が長編になる作家だと思っていた。短編には短編としての別の切れが必要で、文外や行間の余韻、結末に俳句の余韻のようなものが必要であり、人間の一断面を鋭く切るほど味わい深い作品になり、その場合、歴史的な背景などは、それが踏まえられていればいるほど言外になるからである。

 しかし、この短編集に収められている作品は、その短編の切れが十分に発揮された作品だと思った。本書の巻末に「あとがき」があり、作者自身によるそれぞれの作品の解題のようなものが記されているが、この中で一番完成度の高い作品は、やはり、表題作となった「若君御謀反」だろうと思う。

 これは、戦国の名将と言われ、名城の熊本城を築いて豊臣秀頼を守ろうとした加藤清正の後を継いだ加藤忠広の凡愚さと嫡男で清正の孫に当たる加藤光正の愚かさの話である。加藤家はこの三代で潰れたが、その潰れたいきさつを記したものである。

 加藤清正は、豊臣秀頼を庇護した後、大阪から熊本に帰る船中で急に病を得て死亡したが(一説では
清正を恐れた徳川家康か徳川秀忠の影の手が伸びたともいわれるが真相は不明)、石田三成と反目していたために関ヶ原の合戦では徳川方について、家康の天下平定の後も、加藤家はその子である加藤忠広が継いで、肥後五十四万石の藩主となった。有力な外様大名だったのである。

 しかし、忠広は凡愚だった。そして、その子の光正ともなれば、愚かを二乗しても足りないほどの人物でしかなく、贅を好み不遜で、単に知り合いを貶めて笑い飛ばそうとして、時の老中土井大炊頭利勝の名を使って謀反の計画書を作り、それに右往左往する知り合いたちを眺めて笑おうとしたのだが、それが発覚し、飛騨高山に配流され、父親の忠広も庄内藩に蟄居されるのである。この時、光正十五歳である。

 徳川幕府は三代将軍の徳川家光の時代に入り、参勤交代や武家諸法度などの諸制度を制定して戦国武将たちの影響を払拭しようとしていたころで、隙あらばお家断絶にもちこもうとしていた状勢で、光正のいたずらを、事柄が謀反に関わるだけに見逃すはずがないのである。ことに知恵伊豆とまでいわれた松平信綱は、こうしたことには手厳しい手段を執った。九州には最も有力な島津家が鹿児島にあり、肥後熊本はその島津家を押さえる重要な要で、肥後に加藤家を置いておくこと自体に危惧があったのだから、徳川幕府はこれを幸いに、細川家を加藤家に代わって肥後に置くことにするのである。こういうところは、江戸幕府初期の頃の人たちに抜かりはなかった。加藤清正の子の加藤忠広も、その子の光正も、こういう自覚はなかったし、情勢を分析していく才覚もなかった。

 この光正の愚かさは、昨今の青少年の愚かさと通じるところがあり、自分の行為がもたらす結果を考えることができない愚かさの典型と言えるだろう。加藤清正はその死後も現在まで名将と言われ、慕われるが、その子と孫はひどいものだったのである。光正に仕えた家臣も主と同様にひどかった。

 本書は、その愚かさの極みの姿が、よく描かれていて、光正が飛騨高山に配流される途中の駕籠の中で自害したことを伝えて終わる。「うつけもの」の短い生涯である。

 その他の短編もそれなりに面白く、特に「紺屋町の女房」は、高潔な人として生涯を全うした名奉行の矢部定謙の名奉行ぶりを描き出した作品で、先に読んでいた『天保暴れ奉行 気骨の幕臣矢部定謙』の中にも取り入れられていた。

 7作目の「堀部安兵衛の許嫁」は、赤穂浪士として著名になった堀部安兵衛の許嫁だったと語っていた老婆の話で、この稀代とも言える詐欺師の姿を描いたものである。これは、どちらかと言えば、歴史を資料で解説するような司馬遼太郎の方法に近い展開がされている。その他の作品は、敵討ち物が3編で、定説をくつがえすような解釈もなされているし、親孝行の一つの典型といわれた話を覆すような「母恋常珍坊」も味わいのある作品になっている。

 個人的には、短編よりも長編を好むので、最初の「若君御謀反」のような作品を良いと思うのだろうが、短編には短編の良さがあり、本書はそうした良さを味わうことができる作品群である。

2012年4月4日水曜日

中村彰彦『いつの日か還る』


 昨日のすさまじいほどの暴風雨から一転して、嘘のように春の蒼空が広がっている。風はまだ強く、雲の流れも速いが、春の陽射しが柔らかい。自然に翻弄される小さな生き物である人間にとってこれは嬉しいことだと思ったりする。

 以前、天保のころの名奉行と言われた矢部定謙を描いた中村彰彦『天保暴れ奉行 気骨の幕臣矢部定謙』(2007年 実業之日本社)を読んで、しっかりした歴史考証の上で矢部定謙の人物を巧みに描いてあることに目を見張る思いがしたので、幕末のころの新撰組の隊士であった島田魁(嶋田ともいうし、名の読みも「かい」といったり「さきがけ」といったりする 18281900年)の姿を描いた『いつの日か還る』(2000年 実業之日本社)を、これも面白く読んだ。

 582ページに及ぶ長編で、島田魁が盟友となる永倉新八と出会い、新撰組に加入するところから明治33年(1900年)に死亡するまでの姿が描かれると同時に、新撰組の詳細な記述が、一人の隊士の目から見たものとして描かれ、特に、永倉新八とのつきあいから時代に流されるようにして新撰組隊士となり、180㎝以上ある力士のような大柄な体格にも関わらず、俊敏であると同時に細やかな情をもつ人間として描き出されていくのが圧巻である。

 本書の参考文献には挙げてないが、島田魁は「島田魁日記」を初めとするいくつかの記録を残しているので、著者はおそらくそれらにもあたりながら、新撰組の結成当時から鳥羽伏見の闘い、近藤勇と土方歳三などの死に至る姿、そして、維新後に京都の西本願寺の夜警をしていくまでの彼の生涯を詳細に考慮したのではないかと思われる。

 新撰組の顛末については、ここで記しても仕方がないが、島田魁が鳥羽伏見の闘いに行く直前に恋女房に「いつの日か、かならず還る」と伝えたことや、やむを得ずに手にかけてしまった人間の霊を慰めるために南部鉄の鉄瓶に記された「南無妙法蓮華経」の文字を慈しみながら贖罪の晩年を送った姿などが胸を打つ。

 時代の奔流に流されながらも、その中で自らのあり方を求めつつ、ひとりの武芸者として、あるいは人間として生きていく姿が描かれているのである。内部で争ってしまうようになってしまう新撰組、無策の幕府の姿などが、ひとりの人間としての島田魁と対比されるようにして描かれるのが、何とも味わい深い。

 それにしても、こういう書物を読むと、やはり江戸幕府は倒れるべくして倒れたという思いをもつ。最後の将軍であった徳川慶喜が大阪城から夜逃げしたことは、どういう理屈をつけても言い逃れできない愚行であったと思う。その下で働き、死んでいった者たちの無念は計り知れない。幕末から明治にかけてのころの薩摩藩に対しても、わたしは疑念をもっているが、明治がもう少しまともに始まっていたら、今の日本とは違った姿になっていたのに、とほぞをかむ気がしないでもない。

 作者は、歴史の中心的人物ではなく、歴史に巻き込まれながらも騒ぎ立てずに静かに、しかし毅然と生きた人間の姿を描きたいという意味のことを語られているが、本書も、そういう書物で、そして頗る面白い。長編歴史小説の本領がいかんなく発揮されている作品だと思う。

2012年3月7日水曜日

中村彰彦『天保暴れ奉行 気骨の幕臣矢部定謙』

昨日、今日と、曇ってはいるが気温が少し上がって、風邪気味のわたしとしては助かる日々になっている。ある古文書研究会の人たちと話をしていて、「ひらがな」の当て字(万葉仮名なのだから当然ではあるが)の読み下しの難しさを感じて、もともと日本語は書かれた言葉ではなく語られた言語に重点が置かれていたのではないかと思ったりした。

 言語学でいう「パロール(書き言葉)」と「ラング(話し言葉)」の区別で言えば、日本語は「ラング」が中心の言語ではないかと思ったのである。だから「誤字」ということはなく、「音」で区別するだけだったのではないだろうか。昔の人たちは、漢字を自由に音で使っていたのだ。比較的当て字を使うことの多いわたしは、そんなことをふと思った。

 昨日、中村彰彦『天保暴れ奉行 気骨の幕臣矢部定謙』(2007年 実業之日本社)を読み終えたので記しておく。作者は、1949年栃木県の生まれで、いくつかの文学書を受賞され、1994年に『二つの山河』で直木賞を受賞された後も、1995年に『落花は枝に還らずとも』で新田次郎賞などを受賞されている。

 わたしはこの作家の作品を読むのはこれが初めてであるが、図書館の書架に並べられている著作のタイトルを眺めていると、いくつかの歴史的な人物を掘り下げていく歴史小説とでもいうべき作品が多いのに気づいた。歴史の主役たちではなく、むしろ騒ぎ立てることなく静かに世を去りながらも、凛とした姿勢を崩さずに生きた人を描いた作品を書かれているのだろうと思った。会津に深い関心があるのか会津の武士たちを取り扱った作品が多いような気がする。

 『天保暴れ奉行 気骨の幕臣矢部定謙』は、そのタイトルの通り、天保というひどい政治状況の下で名南町奉行といわれた矢部定謙の生涯を描いたもので、史実に基づきながら優れた筆法で読む者を魅了する作品だった。

 矢部定謙(1789-1842年)は、その剛直な性格と才能で小姓組(将軍の日常生活の雑用をするもの)から先手鉄炮頭、火付盗賊改めを経て、1831年(天保2年)に堺奉行、1833年(天保4年)に大阪西町奉行へと順調に経歴を重ねていった人物で、この経歴は、彼がいかに優れた人物であったかを物語るものとなっている。だからといって、彼は、人におもねることもなかったし、たとえば小姓時代に先輩たちのいじめに遭い、これを厳然とはね除けたエピソードが本書でも記されているが、自ら出世を望むようなところもなかった。自ら保身に走ることもなく、ただ、誠実な務め振りと見識の深さ、才能と人格的な懐の深さが彼を奉行職へと進ませたのである。

 大阪西町奉行の時、元与力であった大塩平八郎とも昵懇になり、飢饉であえぐ人々のために大塩平八郎の意見なども考慮して、飢餓対策を施したりしている。運の良さもあって、やがて大塩平八郎が貧民救済を掲げて乱を起こしたとき(1937-天保7年)には、すでに大阪西町奉行から江戸幕府の勘定奉行となって大阪を去っていた。

 だが、江戸幕府の大塩平八郎に対する処遇をめぐっては、これを逆賊とした老中水野忠邦と対立し、大塩平八郎に注がれた汚名を晴らそうとしている。しかし、そのために水野忠邦から勘定奉行の職を追われ、閑職であった西の丸留守居にさせられた。だが、その処遇を平然と受け止め、やがて、3年後の1840年(天保11年)に小普請組支配となり、翌1841年(天保12年)に南町奉行となった。

 この時に彼が行った名裁きがいくつか残っており、その中でも、やむにやまれぬ事情から新吉原で火をつけた遊女に対して、その事情を考慮して、刑期を80年にしてこれを助けた話は著名である。

 彼が南町奉行であったとき、天保の改革を無理やり推し進めようとする老中水野忠邦の強引な政策に対して、北町奉行であった遠山景元(遠山の金さん)と共に、それが江戸の経済を疲弊させ人々を困らせるものだと反対する。

 だが、そのことが原因で、水野忠邦におもねて町奉行の座を狙った鳥居耀蔵につけねらわれ、明白な理由もなしに鳥居耀蔵の策謀によって、1年足らずで南町奉行を罷免され、伊勢桑名藩預かりとなった。そして、桑名藩に預けられたまま、自ら絶食して死去した。彼の死は、いわば憤死であるが、死後も彼の高い見識が見直され、その非業の死は惜しまれた。自ら餓死を選んで非業の死を遂げるのは相当の覚悟がいるし、意志の強さがなければできないことで、武人としての彼の姿がそこに結実している気がする。

 彼は、本書のタイトルか示すとおり気骨の人で、「剛の者」であり、それだけに弱者や貧しい者に対しては限りなく優しい「情の人」でもあった。家臣はもちろん、江戸市民にも絶大に支持され、彼が取り止めさせた三方領地替え(三つの藩の領地を替えること)によって救われた出羽庄内藩では、復領の恩人として祭神に祀られているほどの人である。

 本書は、この矢部定謙の生涯をその人物像や数々のエピソードを交えて描き出したもので、単に史実を述べるのではなく、物語の形式で綴り、それによっていっそう生き生きと人物を浮かび上がらせたものである。わずか一年足らずの町奉行職だったとはいえ、人間としての筋を通した名奉行と言えるだろう。矢部定謙という人物を知る上では、少なくとも名著といえるかも知れない。