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2013年8月5日月曜日

火坂雅志『武者の習』

 八月の声を聞いて、再び太平洋高気圧が関東地方を覆い始め、猛暑を迎えようとしている。今年の暑さは、本当に身体にこたえる。冷えたビールを片手に夕涼みをする日々にならないかなあ、と思ったりする。

 先日、図書館に行った折に、火坂雅志『武者の習』(2009年 祥伝社文庫)があったので、借りてきて読んだ。これは、「尾張柳生秘剣」、「吉良邸異聞」、「鬼同丸」、「結城恋唄」、「愛宕聖」、「浮かれ猫」、「青田波」の7篇の短編が収められた短編集だが、それぞれの短編は一応のまとまりがあるものの、作者が長編で示したような作風をあまり感じることなく、あっさりと読んでしまうような作品だった。

 第一話「尾張柳生秘剣」は、尾張柳生を創設した柳生兵庫助利厳(15791650年)の長男であった柳生清厳の姿を描いたもので、剣術兵法者である父の兵庫助利厳との確執と美しい叔母へのかなわぬ恋に悩む姿が描かれている。

 柳生清厳は、幼少から読書を好み、詩歌を善くするなどの学問を積み、父親の兵庫助利厳の柳生新陰流もよく身につけて、早くから尾張藩主の徳川直家の小姓として仕え、特別に300石を賜るほどの人物であったが、剣の天分は、天才と言われた弟の柳生連也斎厳包には劣り、やがて、病を得たために蟄居となり、島原の乱が起こったときに、このまま病死するのは不名誉なこととして島原に行き、そこで討ち死にした人であった。

 本作では、彼の名前が新左衛門と記されて、柳生新左衛門といえば、柳生新陰流の祖であった柳生石舟斎を思わせるので混同しやすいし、彼の境遇を妬んだ父親の兵庫助利厳によって殺されかけるなどの設定になっている。恋に悩み、剣に悩み、父親との確執に悩みながら修行を積み、やがては父親と互角に渡り合える剣を身につけるようになるが、「剣鬼であるよりも、おれは人でありたい」(124ページ)と語って去っていく姿が描かれる。

 第二話「吉良邸異聞」は、1638年(寛永15年)に鳥取で急死したと伝えられる剣豪と言われた荒木又右衛門が赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際に現れて、討ち入りの夜に堀部安兵衛と対決したという話である。

 荒木又右衛門の死については謎が多く、実際には1643年(寛永20年)という説もあるが、赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、1702年(元禄15年)であり、まさにこれは「異聞」ではある。ただ、「鍵屋の辻の決闘」(1634年 寛永11年)で本懐を遂げて剣豪としての名をなした荒木又右衛門と「高田馬場の決闘」で名をなした堀部安兵衛との対決という面白い組み合わせではある。

 第三話「鬼同丸」は、摂津(兵庫県)で初めて武士集団を形成し、武家の源流ともなった清和源氏(第56代清和天皇の子どもたちを祖とする皇族)の二代目、源満仲(912997年)の長男で、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』、『御伽草子』に登場する源頼光(9481021年)の物語で、彼が「鬼同丸」と呼ばれる悪党と対決していく姿が描かれている。

 源頼光は、大江山での酒呑童子退治や土蜘蛛退治といった説話で知られているし、渡辺綱や坂田金時などの四天王と呼ばれる人物たちを率いていたという説話が残されているし、本作でも剣の達人として描かれている。物語はそれと同時に、頼光の祖父で清和源氏の祖でもあった源経基の若い妻である叔母の「美子」との道ならぬ恋も描かれる。

 第四話「結城恋唄」は、結城紬にまつわる話で、徳川家康の子でありながら、家康から忌避されて、兄の結城秀康の養子となった松平民部の悲しみを描きながら、彼が新しい結城紬を生み出そうとする若い職人と織子の恋の橋渡しをして、旧来の風習が変わっていく中で新しい姿を求めていくという筋立てである。

 第五話「愛宕聖」は、室町幕府の管領家(将軍を補佐して幕府の政務を司る)であった細川政元の野望を彼に使えるようになった若い武士の姿を通して描いたもので、本作では、細川政元は愛宕山に篭り、修験道を会得して恐るべき呪術の使い手となった人物として描かれる。細川政元は、やがてもう一つの管領家であった畠山家を滅ぼし、将軍の足利義材を追い出して、意のままに操ることができる足利義澄を将軍にして室町幕府を牛耳った。だが、そのあまりの傲慢さによって、入浴中に家臣から殺されている。こうして時代は戦国時代に突入していくのだが、怪しい修法を使う人物として細川政元を描いているのである。欲に固まった人間というのは怪物のようでもあるのだから、それもありかもしれないとも思うが、どうにも三文話のような気がしないでもない。

 第六話「浮かれ猫」は、幕末の剣士と言われる新選組の沖田総司が猫に取りつかれていく話であり、第七話「青田波」は、明治初期の混乱期に重税で苦しめられた貧村を自ら命をかけて救っていく武士の話である。高崎県(高崎藩)の検見役(農作物の出来を調べる役)として派遣された片柳礼三は、心底村のことを心配し、重税と冷害にあえぐ村で自分の世話をしてくれる少女の小春が身売りされると聞き及び、減税を訴えるが聞き届けられず、ついに、命をかけて減税の令を発し、責任を取って自害するが、村の窮乏を救うのである。

 第七話だけが、剣にまつわる話ではないが、この結末が、本書では一番いい。
 「あくる年―。
 越後では、青々とした稲田が豊かに風に揺れた。
 その青田波のなかに建つ片柳の墓の前に、小春は焼き味噌の握り飯をそなえ、両手をそっとあわせた。
 (また、私(おれ)の握り飯を食ってくんなせて・・・・)
 小春の目から大粒の涙がこぼれた」(327328ページ)

 こういう光景とか、一個のまんじゅうを涙をぽろぽろこぼしながら「おいしい、おいしい」と言って食べる姿とか、ようやく手に入れた肉饅頭を握りしめて、降りしきる雪の中を足を引きずって歩きながら、「ほら、おまえへのおみやげだよ。苦労をかけたね」とつぶやいて、やがて倒れて死んでいくような光景とか、そういう人間の姿には心が震えるような思いがして、それが描かれる作品には駄作はないと、わたしは思っている。
 

2013年5月6日月曜日

火坂雅志『心中忠臣蔵』


 3日の憲法記念日から、気温は高くはないが五月晴れの日々が続いていた。あまり気乗りのしない行事に駆り出されたりして、気分的には爽やかとは言い難かったのだが、それでも立夏の頃は過ごしやすくていいものである。

 この連休中に火坂雅志『忠臣蔵心中』(1999年 講談社)を読んでいた。個人的に、元禄151214日(現歴:1703年1月30日)に起こった赤穂浪士による吉良上野介(義央)の斬殺(討ち入り)事件である「忠臣蔵」には、あまり関心はないのだが、本書はそれに近代江戸文学の華といわれ、今なお、歌舞伎や浄瑠璃だけではなく、多くの影響を残している近松門左衛門(16531725年)を絡ませて、近松門左衛門から見た忠臣蔵という構成をとっており、面白く読めた。

 作者は、「あとがき」の中で、経済学者であった滝本誠一という人が、『乞食袋』(1929年 日本評論社)という書物の中で、赤穂浪士の中心的人物であった堀部安兵衛(武庸)が近松門左衛門と兄弟であったという説を述べているのに触発されて、兄である近松門左衛門と堀部安兵衛の関わりを通して、近松門左衛門から見た忠臣蔵を描いたという趣旨のことを記しているが、歴史的に信憑性のある話ではなく、まあ、その辺りは差し引いても、物語としては面白く読めるものになっている。

 近松門左衛門は日本のシェークスピアと言っても過言ではないだろう。確かに、彼の前半生は不明のままであり、その出生地にしてもいくつかの説があるが、だいたい、越前福井藩士であった杉森信義の子で、その後、越前福井藩の分家であった吉江藩(現:鯖江市)に移り、その後、1664年に父の信義が吉江藩を辞したため、父親と共に京都に移り住んだというのが、一応の定説になっている。

 他方、堀部安兵衛は、1670年に越後新発田藩の家臣中山弥次右衛門の長男として生まれ、彼には姉が三人いたが、男兄弟はいなかった。彼の母親は、安兵衛(武庸)を出産した直後になくなっている。従って、近松門左衛門とは藩も異なっているし、知られている母親も違い、血縁関係があったとは思われない。

 もちろん、そんなことは百も承知で、作者は元禄時代の大事件であった赤穂浪士討ち入り事件ろ、それを最初に芝居に仕立てたといわれる近松門左衛門を巧みに絡ませてみて、本書を仕立てたのだろう。

 それと、本所の吉良邸の近くで、吉良上野介の娘を娶った弘前藩津軽家の分家で四千石の黒石領を領していた釣り好きの津軽采女を絡ませて、元禄時代の五代目将軍徳川綱吉が発した「生類憐れみの令」などに対する批判的な空気を醸しだしたりしている。また、堀部安兵衛の吉良邸の下調べの協力者として女忍者を登場させたりして物語が盛り上げられている。さらに、近松門左衛門がふとしたことで、京都で遊蕩にふけるふりをしている大石蔵之介に出会うという場面を作り出して、大石内蔵助の人物像を描いたり、赤穂浪人で仇討ち派の一人であった橋本平左衛門が大阪の遊女と心中事件を起こして、仇討ちの計画から脱落していく姿なども盛り込まれたりしている。

 圧巻は、討ち入りの夜に近松門左衛門が吉良邸の屋根の上から討ち入りの様子を眺めて、それを書き取っていくという結末であろう。もちろん、それは作者の創作であるが、書くことによって己の志を遂げようとする近松門左衛門をそういうふうに描き、それが鬼気迫る姿となっている。

 本書の基本的な線は、武士の一分を果たすために仇討ちに向かう堀部安兵衛と、そんなものは何の意味もないと武士を捨てた近松門左衛門の二人の生き方を描き出すというもので、それを兄弟として赤穂浪士の事件で描くというものである。

 赤穂浪士の討ち入りの展開そのものに何か新しい視点があるわけではないが、そうした基本線で織り成される物語として、本書は面白く読めた。「忠臣蔵心中」という表題は、そう言う意味でつけられているのだろうし、その後、近松門左衛門が心中物を描いていく根底に、死を賭して意思を貫徹するという忠臣蔵と心中事件の似たような構造を見出して、筆によって無念を晴らすという意思があると作者は見ているのではないかと思う。わたし自身は、「無念など晴らさなくても良いと」思うが、ともあれ、忠臣蔵は武士のあり方を変えた大事件であったとは思っている。

2013年3月4日月曜日

火坂雅志『臥竜の天』


 この2~3日、寒い日が続き、北海道では猛吹雪による被害が生じた。以前、札幌にいたころも地吹雪で前が全く見えなかったり、雪で道路に立ち往生したりするということがあったが、今回通過した低気圧は台風並みの風が吹いいて、猛威を振るった感じだ。ここでも寒い。

 いくつかのしなければならないことが頭を横切っていくが、何となく面倒だな、と思ったりもする。

 週末から、独眼竜の名で畏敬され、激動の時代に常に天下を睨み、悠然と志を貫きながらも生き残った伊達政宗(15671636年)の生涯を描いた火坂雅志『臥竜の天 上下』(2007年 祥伝社)を、面白く読んでいた。伊達政宗を描いた作品は、これまでにも小説や映画、テレビドラマなど数多くあり、その生涯も、彼の多くのエピソードもよく知られているが、火坂雅志『臥竜の天』は、文章の歯切れもよくて非常に読みやすい本だった。

 仙台には、仕事の関係で年に数回は訪れるが、青葉城址を訪れたりした時に、政宗が没して既に450年近くも経った今でも、その城下町の形成の仕方にいつも驚嘆させられる。

 本書は、著者自身が「あとがき」で記しているように、同じように傑出した人物であり、また互いに意識し合っていた上杉家の直江兼続との対比も意識されてはいるが(著者は前年の2006年に直江兼続を描いた『天地人』を発表している)、伊達政宗の独自の風采をよく描き出している。

 ちなみに、「あとがき」では、次のように述べられている。
 「政宗という男のおもしろさは、信長、秀吉、家康らほかの戦国群雄たちから遅れた時代に生まれ、地の利にもめぐまれなかったにもかかわらず、彼らに匹敵する強烈な印象を史上にとどめたことにある。
 それは直江兼続にしても同じで、二人はたがいの方法論に反発を覚えながらも、関が原合戦前後の激動期をしたたかに生き抜き、歴史の荒波をみごとに乗り切った。
 臥竜のごとくひたすら天下をめざし、目的のためなら手段を選ばなかった政宗と、みずからの理想に従って上杉家の舵取りをした直江兼続――。
 一見、正反対のように見える彼らだが、じつは大きな共通点がある。
 一炊の夢のような人生の中で、いかに自分らしく生き、悔いなくおのれをつらぬき通したか。結果として、伊達政宗は天下を取る夢が叶わず、直江兼続も上杉家を存亡の危機に陥れた張本人として長く汚名を着ることになるが、彼らが与えられた運命のなかで、ぎりぎりの自己実現をしたことはたしかである。そして、その果敢な生き方が人の心に響き、ある意味で、天下人となった秀吉や家康以上に勁い輝きを放つのではないか」(402403ページ)。

 「自己実現」というのは、その是非はともかく、いつでも個人にとっての大きな課題であり、ましてや下克上の世情の中では、意識ある人々にとっては最大の目標ともなるのだから、たとえそれが叶わなかったとしても、そこに向けて邁進していく人間の姿は大きな光彩を放つものとなる。伊達政宗は、まさにそうした人間の代表のような人物であるに違いなく、本書が、そうした伊達政宗の自己実現の記録として描かれるのは的を射ていることだろうと思う。

 本書でも描かれる伊達政宗の生涯やその事跡については、よく知られていることでもあり、ここでは触れないが、本書を読み終えての所感として次の二つのことを記しておきたい。

 ひとつは、伊達政宗という傑出した人物の形成には、彼の学問や人生の師として京都妙心寺出身の禅僧であった虎哉宗乙(こさいそういつ 15301611年)という人と、直江兼続と並び称されるほどの優れた人物であった片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな 15571615年)の力が大きかったということである。

 仏教の守護神である梵天に守護されているとして梵天丸と名づけられた政宗であったが、五歳の時に疱瘡(天然痘)にかかり、生死の境をさまよい、かろうじて命をとりとめたものの顔中に醜いあばたが残り、右目を失明するという悲劇で、そのあまりの醜さのために母親の義姫から嫌われる中で、政宗は幼少期を過ごさねければならなかった。

 そのために彼は、劣等感の強い、いじけてひねこびた子どもであったが、父親の伊達輝宗が守役(側近)としてつけてくれた片倉小十郎景綱と学問の師である虎哉宗乙が、実にしんぼう強く彼を包んで養育していくのである。片倉小十郎景綱は、政宗の中に眠る非凡な才能をどこまでも信じ、彼を将来の主君としてどこまでも仕えたし、虎哉宗乙は、隻眼(片目)であるのは心眼への道と説き、折に触れて人の歩むべき道を教えたのである。両者とも、伊達政宗の生涯を通じての優れた相談役であり、また、政宗自身も彼らを慕った。

 伊達政宗がもっていた底の抜けたような生死観は、それがその後に遭遇した幾度もの危機を救うが、この二人の人物によって育まれたのではないかと思う。こうした人物が人生の途上でいるかどうかで、人間は大きく変わる。三者は、共に絶大な信頼と尊敬の関係を築いた。

 もうひとつは、伊達政宗は退くべき時に退く力をもっていたということである。伊達政宗は、戦において連戦連勝したわけでは決してなかった。その事跡を見てみると、むしろ負け戦の方が多い。1854年の佐竹氏が率いる南奥州諸候連合軍との安達郡人取橋での戦いでは、政宗自身が矢弾を浴びるなどの敗北をきっしているし、1588年の大崎合戦では最上義光によって敗北している。豊臣秀吉の小田原合戦の際には、遅参によって叱責を被っているし、蒲生氏郷には頭が上がらなかった。関が原合戦の際の上杉軍との攻防にも苦慮している。徳川家康の治世下でイスパニアとの交易を図るために派遣した慶長遣欧使節も、結果的に見れば失敗である。

こうした敗北や失敗の中で、伊達政宗は退却を余儀なくされる。しかし、その退却は、単なる退却ではなく、自らの力を貯める退却であった。これは直江兼続もそうであったが、彼らの退き方は、決して敗北を意味しなかったのである。秀吉や家康からも恐れられ、常に警戒された中で、「鄙の華人」と言われるほどの教養も高かった伊達政宗は、自分が退かなければならなかった時に何をしなければならないかを知っていたのである。

改めて、本書で伊達政宗の姿を見ながら、そういうことを考えていた。なお、政宗の遺訓というのが残されていて、そこに直江兼続を意識した言葉などもあり、「なるほど」と思うところもあるので、以下に記しておく。

「伊達政宗遺訓」
1)仁に過ぐれば弱くなる。義に過ぐれば固くなる。礼に過ぐればへつらいとなる。智に過ぐれば嘘を吐く。信に過ぐれば損をする。
2)気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備うべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思えば、何の苦しみもなし。
3)朝夕の食事はうまからずとも褒めて食ふべし。元来、客の身に成れば好き嫌いは申されまじ。
4)今日行くをおくり、子孫兄弟によく挨拶して、娑婆の御暇申すがよし。

このうちの「気長く心穏やかにして」は、伊達政宗には似つかわしくないかもしれないが、おそらく、ひとつの到達点でもあるだろう。

ともあれ、本書は「自己実現」を志した者としての伊達政宗の生涯を描いた力作であろうと思う。

2012年10月12日金曜日

火坂雅志『家康と権之丞』


 移ろいやすい秋の天気の中で、花屋の店先の秋桜が風に揺れていた。金木犀も甘い香りを漂わせ始めている。そして、数葉の銀杏の葉がひらひらと散っていく。「残された日々」と、ふと思う。いろいろなことを思うと少々うんざりしないわけではないが、「鋭利な刃物のように研ぎすまされた人間」であるよりは、デクノボーの愚鈍でいたい。

 昨夜は、火坂雅志『家康と権之丞』(2003年 朝日新聞社)を面白く読んだ。これは、徳川家康の子と言われる(史的確証はない)小笠原権之丞(1589?‐1615年)を主人公にしたもので、小笠原権之丞は、本来なら家康の六男である松平忠輝の兄にあたると言われるが、家康が手をつけた母が懐妊したまま家臣の小笠原広朝に妻として押しつけられ、権之丞は広朝の子として成長し、小笠原家の家督を継いだ。

 小笠原広朝は、小笠原家の庶流で武田水軍の流れを組み、徳川家康の水軍の一役を担った人で、小笠原権之丞も徳川家の御船手として六千石の旗本であった。彼が家康のご落胤かどうかの確証はないが、いくつかの歴史資料では家康の子としての名前が挙がっている。家康は二人の正室と十五人の側室がいたと言われ、その他にも手をつけた女性がいたと思われる。

 真偽は定かではないが、小笠原広朝はキリシタンで、権之丞の母親も熱心なキリシタンであったと言われ、その影響から権之丞もキリシタンであった。彼がいつごろキリスト教の洗礼を受けたのかは定かではないが、家督を継いだのが二十四歳で、その六年前の十八歳の頃ではないかと思われる。キリスト教側の資料では1606年となっており、フランシスコ会の記録では駿府に小笠原権之丞名義の教会も建てられている。権之丞の洗礼名はディエゴで、これは当時のフランシスコ会の宣教師ボナベンツェラ・ディエゴ・イスパニエスからとられたのではないかと推測される。

 徳川家康は、当初、南蛮貿易のためにキリスト教を禁止してはいなかったが、家康が重用していた本田正純の家臣で岡本大八が肥前の有馬晴信を相手にした収賄・詐欺事件を起こし、両者がともにキリシタンであったことから、この事件の飛び火が飛んでくることを恐れた本多正純と家康の外交僧であった金地院崇伝が手を結んでキリシタン禁教令を進言し、幕府は、1612年(慶長17年)に、江戸・京都・駿府などの幕府直轄地での教会の破壊と布教の禁止を命じた。そして、翌年にはこれを全国に「伴天連追放令」として広げた。1612年のキリシタン禁教令の際には、徳川家の家臣団や奥女中が調査され、改宗しない者は改易処分にされ、居住が禁止されるなどの厳しい処罰が行われた。

 小笠原権之丞は、このときにキリシタンとして改易され、放逐された。彼が再び歴史に登場してくるのは、16141615年(慶長1920年)の大阪の陣の時で、家康の子であるにもかかわらずに豊臣側について大阪城に入り、夏の陣の最後の戦いである天王寺口の戦いで戦死したと言われている。その間の彼に関する資料はほとんどない。

 本書は、家康の落胤として生まれながらもキリシタン禁教令で追放され、ついには家康と戦って大阪で戦死する小笠原権之丞の姿を、父と子、しかも子として認めない父親への反発を抱きながら、青年らしい夢とロマンを求めて生きる姿として描き出したもので、特に、棄教せずにキリシタンとして改易されたあと、すべての人間が平等に生きる無君主立国の建設を目指して、彼の叔父が発見したとされる小笠原諸島で貿易立国を設立しようと小笠原諸島に向けて船旅をしていく海洋ロマンが、まさにロマンとして描かれている。

 この時代に「無君主国家」という発想があったのかどうかは別にして、無人島に理想の国を建てるというのは壮大なロマンである。父親の徳川家康から見捨てられ、キリシタン禁教令で追放された小笠原権之丞は、そのロマンに生涯をかけようとする優れた精神の持ち主であったと作者は展開するのである。彼はそこに日本を追放された多くのキリシタンなどを受け入れて、家康が断念した海外貿易による建国を夢見るのである。

 彼は、京都の豪商であり、家康の側近でもあった茶屋四郎から金を出してもらい、南蛮船を建造し、小笠原諸島に向かい、小笠原諸島の父島、母島を探索し、建国の可能性があることを確信する。だが、帰路、台風に遭遇し、船は難破し、彼の夢は露と消えてしまう。時は、徳川家康が豊臣家を滅ぼすために強引に無理難題を押しつけ、大阪冬の陣が始まろうとしていた時であった。

 船の難破からかろうじて助かった小笠原権之丞は、しばらくは無為の日々を送っていたが、父親の家康の豊臣家を滅ぼすためのあまりにも強引なやり方に反発して大阪城に入るのである。大阪城には、多くの追放されたキリシタンがおり、関ヶ原の戦いで西軍についたために滅亡した宇喜多家の家老で、秀吉も家康も優れた武将として認めていた明石全登(あかし てるずみ 掃部)も熱心なキリシタンで大阪城に入城しており、小笠原権之丞は尊敬する明石全登の指揮下に迎えられるのである。

 本書では明石全登の娘として「レジナ小雪」を登場させ、彼女との恋を描き出す。一節では小笠原権之丞は明石全登を養父にしたとあり、それを踏まえて、小笠原権之丞と「レジナ小雪」が大阪城内で婚礼を行ったとなっている。そして、冬の陣のあと、家康の策謀で大阪城の堀が全て埋められて夏の陣が始まると、小笠原権之丞は明石全登と共に激戦となった天王寺・岡山の戦いに行き、そこで戦死する。小笠原権之丞は徳川の系譜から抹殺された。なお、明石全登の生死は不明で、その後も生き残って九州に潜んだという説もある。スペインに行ったという説や台湾に行ったという説もある。

 いずれにしても、本書は、家康と権之丞という父と子の葛藤を描き出すと同時に、ひとりの男が壮大なロマンを描き、やがてそれが破れていく姿を描いたものだと言えるだろう。小笠原諸島での理想国家の建設、徳川軍と大阪城で戦うのも、そのロマンの延長で、それが現実に破れていった人間の姿を描き出しているのである。徳川家康という現実主義者と小笠原権之丞というロマンチストの戦い。それが本書の骨格だろうと思っている。少ない資料を巧みな想像力で無理なく補っている作者の創作力がいかんなく発揮された作品だと言えるだろう。

2012年9月7日金曜日

火坂雅志『天地人』


 このところ暑さがぶり返しているが、それでも季節がゆっくりと巡っていくのを感じている。この秋の予定やいくつかの仕事の依頼などをぼんやり見ていて、気力の減退もあって、いささかうんざりしないわけではないが、これも性分と思って諦め、ぼちぼちやっていこう。

 そんな思いを持ちながら、信義というのを生涯貫いていった戦国時代の武将である直江兼続の生涯を描いた火坂雅志『天地人』(2006年 日本放送出版協会)を、感銘をもって読んだ。これは200310月から2006年4月までの約2年半に渡って各地の新聞に掲載された新聞小説をまとめたもので、NHK2009年に大河ドラマとして放映し、人気を博した作品の原作ともなったものである。

 NHKのドラマ自体は、取り上げた直江兼続という人間の魅力や演じた俳優の名演もあり人気を博したが、小松江里子という人が記した脚本には、時代考証の問題や非歴史的事実が平気で盛り込まれ、原作とは異なった人物設定などもあって若干の問題を感じながら観ていた。しかし、この世における「利」で動くことに対する直江兼続や当時の上杉家がとった「義(信義)」が明瞭に強調されて、その点では原作の意図がきちんと表明されていると思っていた。

 そこで、改めて原作を読んで見たのだが、新聞小説だけあって展開も丁寧で、直江兼続の人物像がよく浮かび上がる作品になっていた。

 直江兼続(15601619年)は、通説としては、樋口兼豊の長男として越後の上田庄、あるいは坂戸城下(現:新潟県南魚沼市)、あるいは南魚沼郡湯沢町で生まれたと言わる。父親の兼豊の身分は、坂戸城主長尾政景の家臣で、台所の薪炭の係りの役だったとも、あるいは上田長尾家の家老・執事だったとも言われており、母親についても諸説があるなど、実は、その誕生や実家についての歴史的確定がされているわけではないのである。本書では、兼続の父親の兼豊は算勘に優れた才能を持ち、薪炭吏から上田長尾家の家老にまで出世した人物とされている。しかし、父親が苦労人であったことは容易に想像がつく。

 兼続(幼名与六)は、幼い頃から聡明だったと言われ、上杉謙信の姉で長尾政景の妻であった仙桃院にその利発さを見出されて、政景の次男である顕景(あきかげ 後の上杉景勝)の小姓(遊び友だち)に推挙されている。特に、1564年に長尾政景が野尻湖で溺死したあと、上杉謙信は姉の仙桃院の子である顕景を養子とし春日山城に引き取ったときに、兼続も近習として春日山城に移ったと言われ、この時、顕景九歳、兼続四~五歳で、まさに異例中の異例と言っていいほどの子どもだったのである。

 上杉謙信は、顕景と共に春日山城にやってきた樋口与六(直江兼続)をことのほか可愛がり、自分の全てを教える愛弟子としたと言われ、兼続は名将謙信の薫陶を受けて育っていくのである。ただ、兼続の幼少年期についての歴史資料が確認されているわけではない。しかし、兼続が謙信の教えを生涯の杖としたことは事実である。

 生涯独身を貫いた上杉謙信には子がなく、顕景の他にもうひとり養子があり、上杉謙信が1570年に北条氏康と和睦した際に北条家から人質として出された北条氏康の七男である北条三郎(北条氏秀)を気に入って養子とし、上杉景虎の名を与えて、姉の仙桃院の長女と妻せるなどして自分の後継者候補の一人としていた。上杉景虎は美男で人を惹きつけるところがあったが、利にさといところもあり、無口で無骨なところがあった顕景とは対称的な人物でもあった。謙信が二人の養子を持ったことが、後に、上杉家の家督を巡って顕景と景虎は熾烈な争いをすることとなる。

 本書は、1573年に上杉謙信の長年の仇敵であった武田信玄が死去して後、1575年に長篠の戦いで武田軍が織田信長に敗れ、天下の情勢が大きく変わろうとしていた時代から始まる。与六は17歳となり、謙信の薫陶をますます受けつつも、新しい時代の到来を予感していくところが、かつて謙信と信玄が戦った川中島を見下ろす地に立ち、それを弟の与七(後に大国実頼と改名)と語り合うという展開で行われている。与七は兄の与六を「兄じゃ、兄じゃ」といって生涯尊敬し慕っていたと言われる。こういう書き出しの設定は、歴史の経過と物語の今後の展開を予測させる上で実に巧みである。

 やがて、越中を平定した上杉謙信は、前将軍足利義輝の弟で、織田信長のもとを去って亡命していた足利義昭の要請を受けるという形で上洛の軍を進める。上杉景勝もこれに従い、兼続も行を共にする。1577年、能登に侵攻した上杉軍は七尾城を包囲し、これを打ち破ることになるが、ここで直江兼続にとって手痛い事件が起こる。

 それは陣中で上杉景虎の兵たちが兼続の主君である長尾顕景を小馬鹿にする現場に行き合い、激怒して私闘をしたために、兵の私闘を、理非を問わず禁じた上杉謙信によって蟄居を命じられるという事態になったことである。謙信は愛弟子である兼続に厳しい処断をし、兼続を坂戸に帰す。兼続の生涯の中でそれは大きな挫折であるといえるかもしれない。

 しかし、人は挫折した時のあり方で、その後の人生が決まる。兼続は自ら深く反省し、座禅を組み、自らの精神を高めていく道を静かに選んでいくのである。それが兼続を大きく変えていく。彼は謙信が伝えた「義」から「自分にとっての義とは何か」を求めていくのである。そして、これがやがて「愛」の兜をかぶっていくという道につながっていく。直江兼続の「愛」は「仁愛」のことである。

 兼続がそうした自省の日々を過ごしている時に、突然、上杉謙信が倒れて死去してしまう。脳卒中だったと言われているが、1578年3月(現4月)のことである。謙信は前年に織田信長軍との手取川の戦いで勝利を収め、再び春日山城で遠征の準備をしている時だったと言われている。兼続は謙信が死去する前に蟄居を解かれてゆるされていた。

 しかし、この謙信の死で上杉家の状態は一変する。謙信が後継者を明白に定めなかったことから、養子であった景虎と景勝の間で、後継者をめぐる争いが勃発してしまうのである。この争いは「御館の乱」と呼ばれ、かつて上杉謙信が関東管領であった上杉憲政の居館として建てた「御館」に景虎が陣をしき、景勝が春日山城に陣をしいて戦ったことからこの名がつけられている。領内はこれによって二分してしまうのである。互いに死闘が繰り広げられることになる。

 景虎は実家である北条家と手を結んで景勝を攻めたが、直江兼続の進言もあっていち早く春日山城を収め、また、甲斐の武田家と同盟を結ぶことによって北条家からの援軍を抑えてこの戦いに勝利していくのである。景勝はこの時に武田家との同盟を結ぶしるしとして武田勝頼の妹の「菊姫」を正室として迎えている。しかし、一年以上続いたこの内乱で、上杉景勝は厳しい状況に置かれ、また世情もめまぐるしく変化していった。彼が同盟を結んだ武田家は、織田・徳川・北条同盟軍によって1582年に滅亡し、越後上杉家は北陸の柴田勝家、米沢の伊達輝宗、会津の蘆名盛隆、信濃の森長可、上野の滝川一益といった具合に全方向を敵に囲まれることになり、崩壊一歩手前まで追い詰められるのである。

 この時、上杉景勝は最も信頼できる兼続を若くして家老に抜擢し、兼続はその才能を発揮して困難によく耐えていく。しかし、兼続の実家である樋口家の家格が低かったことから、彼に更に重きをもたせるために上杉家中で名門であった直江家の直江信綱の妻であった「お船」と妻せられて、兼続は樋口与六兼続から直江兼続となるのである。「お船」の夫の直江信綱は、「御館の乱」で景勝側につき、景勝に重用されていたが、重臣の遺領をめぐるトラブルで春日山城内において殺されてしまっていたのである。「お船」は、直江家の姫で前夫の信綱は婿養子であり、直江家は「お船」によって存続していたのである。越後一の美女だったと言われている。本書では兼続と「お船」は幼い頃から知り合いで、それぞれの慕情を抱いていたと展開する。

 この後、状況は急激に変化し、時代はめまぐるしく変わっていく。何よりも周囲を敵に囲まれて存亡の危機に陥った越後上杉家に天が味方したとしか思えないような出来事が起こる。それは、明智光秀による本能寺の変である。甲斐の武田家を破り、破竹の勢いで天下布武を行ってきた織田家は、何よりも信長という中心に回っており、その信長を失って、上杉家を取り囲んでいた織田軍は撤退を余儀なくされたのである。そして、天下は秀吉のもとに統一されていく。その経過も詳細に追われているが、秀吉が直江兼続を見初めて自分の家臣にしたいと強く願ったが、兼続と上杉景勝の主従関係が強い信頼で結ばれていたことを知らされただけであったことはよく知られている。

 秀吉は、東北の要として上杉家を越後から会津に移封するが、その時、直江兼続に特別に30万石の所領を与えて厚遇したのである。しかし、直江兼続はこれを上杉景勝に返上し、6万石を受けただけである。直江兼続の名は天下に広まっていくし、また、文人としてもその深い知識と教養が京都で発揮されていくことになる。本書はここで直江兼続と千利休の娘「お涼」との出会いを描くが、やがて利休が秀吉によって自刀に追い込まれる過程も描き出している。また、石田三成との関係と相違点も明瞭に描き出していく。こうした展開と手法は実に見事であり、歴史理解もすっきりしている。

 直江兼続の生涯は、織田、豊臣、徳川と激動した戦国後期の時代と直接に関係があるから、それを述べると戦国史の全部を語ることになるので、詳細は割愛するが、やがて秀吉の朝鮮侵攻と死、徳川家康の天下覇権に向けた策略と石田三成、そして上杉家を守る直江兼続との関係、有名な「直江状(家康に堂々と渡り合った書簡)」などを経て、関ヶ原の戦いと大坂の陣、そして上杉家の減封と兼続の苦心などが、丁寧に展開されていくのである。

 本書は、真田幸村の異母姉「初音」を登場させたり、千利休の娘「お涼」を登場させたりして、人間直江兼続の姿を描くと同時に、利が支配する世の中で義を通していく姿をいかんなく描き出していくし、人間の信頼の強さともろさも描き出す。

 図書館の返却日が迫り、長くなったので、随分と省略してしまったが、直江兼続は、その智も勇も兼ね備え、多くの人々を魅了し、おそらく戦国の世の超一流の人間であったと思っている。彼を描いた作品も多いが、本書は一読に値するものだと思う。

2012年7月16日月曜日

火坂雅志『軍師の門』(3)


 「夏日」になった。窓を開け放ち、湿気を追い払い、洗濯をして寝具を干し、ゆっくりと日常を取り戻していく。今年の夏は、もう少し晴れ間が続くようになったら部屋の壁塗りをしようかと思っているので、今日はそのためにいくつかの道具を準備したりしていた。

さて、火坂雅志『軍師の門 上下』(2008年 角川学芸出版)の続きであるが、物語の後半は秀吉の天下取りに合わせて急速に進んでいく。

秀吉は、尾張の小牧で膠着状態にあった徳川家康との戦いを避けるために黒田官兵衛の献策を入れて、織田信雄と和議を結び、戦の大義名分をなくすことで家康を引き下がらせ、かねてから懸案であった四国の平定へと向かう。

中国地方の毛利との交渉を成功裏に収めた黒田官兵衛は、その命を受け、淡路、讃岐の地侍たちを陣営に引き入れることに成功し、四国を支配していた長宗我部元親との争いへと展開していく。それによって長宗我部元親率いる軍勢は、圧倒的な数の有利を誇る秀吉の前に敗れて降伏する。黒田官兵衛の城攻めの工法がここでも光っていくが、秀吉は、他の者たちに比べてほとんど恩賞もない状態に黒田官兵衛を置いたままである。人に報いることで天下を掌握してきた秀吉だが、官兵衛にだけは、その働きを報いることはなかったのである。

この時期に、黒田官兵衛の父親の宗円が死去するが、本書で、その死の床を見舞った官兵衛と宗円の会話が次のように記されている。

「讃岐十万石は仙石、同じく二万石を十河(そごう)。伊予は毛利軍の小早川隆景と安国寺恵瓊、村上水軍の来島康親に与えられたそうだな。それに引きかえ、そなたはまたしても恩賞の御沙汰なしとか」
「よくご存じですな」
・・・・・・
「腐っておるか」
・・・・・・
「これも、それがしに与えられた宿世でありましょう。天を恨まず、運命から逃げずに肚をくくり、堂々とおのが道をゆく所存」(下巻 282283ページ)

「天を恨まず、堂々とおのが道をゆく」それが、作者が描く黒田官兵衛の姿であり、また、実際、彼はそういう人だっただろう。それをこういう会話の中で、黒田官兵衛の生き様を盛り込むと、それが生きた言葉になることを感じながら、黒田官兵衛が「富貴を望まず」と語ったことを改めて考えたりする。

やがて、秀吉は四国平定のあとで九州へと向かう。九州の最大の敵は島津家であるが、秀吉は黒田官兵衛に毛利家が先鋒を取るように計らわせ、九州を平定していくのである。

ここで作者は、同じように「智将」と言われた毛利家の小早川隆景と黒田官兵衛のやりとりの場面で、二人の違いを次のように記す。小早川景隆は毛利元就の息子で、毛利家を支えてきた人物である。

「-智将
 言われているが、その知恵にはゆったりとした余裕があり、“善”と“悪”あわいでぎりの智略を働かせる官兵衛とはまったく異なっていた。
 官兵衛が即断即決で動くのに対し、小早川景隆はじっくりと思慮を重ねてから行動を起こす。毛利家の御曹司として生まれた者と、智恵一つで必死にいまの地位を築いてきた者の違いかもしれない」(下巻 295ページ)。

この観点はなるほどと思う。

やがて秀吉は九州を平定するが、その時も、黒田官兵衛には恩賞らしい恩賞は与えなかった。そして、小田原の北条家攻略へと向かい、前代未聞の大部隊で包囲しての戦となり、北条が滅んで秀吉の天下となっていくのである。秀吉は、このころ絶頂で、次第に黒田官兵衛のような人物ではなく、自分におもねる石田三成らのような者を側近として重用していく。そして、朝鮮出兵が起こる。

本書では、黒田官兵衛はこの朝鮮出兵には何の意味も見い出せなかったと記されていくが、秀吉の家臣の中では次第に世代交代が起こり、しかも、石田三成の台頭によって、中央集権化による権力集中を目指す石田派と加藤清正や福島正則らとの対立の溝が深くなり、豊臣政権に亀裂が入り始めていくのを黒田官兵衛はじっくり眺めていく。黒田官兵衛は、このころ、四十四歳で隠居し、家督を黒田長政に譲っている。朝鮮出兵によって官兵衛の心は秀吉から離れることが決定的となったと言えるかもしれない。

そして、秀吉が死去し、その後の石田三成の行動と徳川家康の行動が展開するのを官兵衛は静かに見守りながら、関ヶ原の合戦を迎える。家督を譲った長政は徳川陣営についている。官兵衛は九州中津に戻り、ここで初めて官兵衛は、自分のための戦としての九州平定の戦いをはじめるのである。しかし、関ヶ原の決戦は、官兵衛の予想に反して一日で終わり、官兵衛も九州平定を途中で断念せざるを得なくなっていくのである。作者は、その断念のくだりを、官兵衛の夢の中に竹中半兵衛があらわれて、「もうようかろう」と語ったと伝えている。

徳川家康の天下の下で、黒田長政はその武功によって筑前福岡五十二万石を与えられ、官兵衛は隠居として福岡城の築城に才を発揮させながら、まさに「流れる水の如く(如水)」過ごしていくのである。慶長9年(1604年)、官兵衛は福岡城下の伏見屋敷で死去する。享年59

その最後のところで、自分は軍師として生き、秀吉や家康のような政治家ではなかったが「これでよかった」と自らに語る場面で本書は終わる。

竹中半兵衛と黒田官兵衛の二人の軍師を描いた本作は、二人とも「欲」や「利」で動くのではなく、信義を大切にし、状況と人間をよく観察した上で、しかも信頼していくということがいかに傑出したものであるかを語り、その主題が一貫しているので、感動もあり、読ませる一冊になっていると改めて思った。

まだ二十歳前の頃に、わたしは黒田官兵衛のことを知り、大いに感動したことを覚えている。「流れる水の如く、人に媚びず、富貴を望まず」これは、今も変わらずに自分の生き方を考えるときに思うことである。