2013年5月6日月曜日

火坂雅志『心中忠臣蔵』


 3日の憲法記念日から、気温は高くはないが五月晴れの日々が続いていた。あまり気乗りのしない行事に駆り出されたりして、気分的には爽やかとは言い難かったのだが、それでも立夏の頃は過ごしやすくていいものである。

 この連休中に火坂雅志『忠臣蔵心中』(1999年 講談社)を読んでいた。個人的に、元禄151214日(現歴:1703年1月30日)に起こった赤穂浪士による吉良上野介(義央)の斬殺(討ち入り)事件である「忠臣蔵」には、あまり関心はないのだが、本書はそれに近代江戸文学の華といわれ、今なお、歌舞伎や浄瑠璃だけではなく、多くの影響を残している近松門左衛門(16531725年)を絡ませて、近松門左衛門から見た忠臣蔵という構成をとっており、面白く読めた。

 作者は、「あとがき」の中で、経済学者であった滝本誠一という人が、『乞食袋』(1929年 日本評論社)という書物の中で、赤穂浪士の中心的人物であった堀部安兵衛(武庸)が近松門左衛門と兄弟であったという説を述べているのに触発されて、兄である近松門左衛門と堀部安兵衛の関わりを通して、近松門左衛門から見た忠臣蔵を描いたという趣旨のことを記しているが、歴史的に信憑性のある話ではなく、まあ、その辺りは差し引いても、物語としては面白く読めるものになっている。

 近松門左衛門は日本のシェークスピアと言っても過言ではないだろう。確かに、彼の前半生は不明のままであり、その出生地にしてもいくつかの説があるが、だいたい、越前福井藩士であった杉森信義の子で、その後、越前福井藩の分家であった吉江藩(現:鯖江市)に移り、その後、1664年に父の信義が吉江藩を辞したため、父親と共に京都に移り住んだというのが、一応の定説になっている。

 他方、堀部安兵衛は、1670年に越後新発田藩の家臣中山弥次右衛門の長男として生まれ、彼には姉が三人いたが、男兄弟はいなかった。彼の母親は、安兵衛(武庸)を出産した直後になくなっている。従って、近松門左衛門とは藩も異なっているし、知られている母親も違い、血縁関係があったとは思われない。

 もちろん、そんなことは百も承知で、作者は元禄時代の大事件であった赤穂浪士討ち入り事件ろ、それを最初に芝居に仕立てたといわれる近松門左衛門を巧みに絡ませてみて、本書を仕立てたのだろう。

 それと、本所の吉良邸の近くで、吉良上野介の娘を娶った弘前藩津軽家の分家で四千石の黒石領を領していた釣り好きの津軽采女を絡ませて、元禄時代の五代目将軍徳川綱吉が発した「生類憐れみの令」などに対する批判的な空気を醸しだしたりしている。また、堀部安兵衛の吉良邸の下調べの協力者として女忍者を登場させたりして物語が盛り上げられている。さらに、近松門左衛門がふとしたことで、京都で遊蕩にふけるふりをしている大石蔵之介に出会うという場面を作り出して、大石内蔵助の人物像を描いたり、赤穂浪人で仇討ち派の一人であった橋本平左衛門が大阪の遊女と心中事件を起こして、仇討ちの計画から脱落していく姿なども盛り込まれたりしている。

 圧巻は、討ち入りの夜に近松門左衛門が吉良邸の屋根の上から討ち入りの様子を眺めて、それを書き取っていくという結末であろう。もちろん、それは作者の創作であるが、書くことによって己の志を遂げようとする近松門左衛門をそういうふうに描き、それが鬼気迫る姿となっている。

 本書の基本的な線は、武士の一分を果たすために仇討ちに向かう堀部安兵衛と、そんなものは何の意味もないと武士を捨てた近松門左衛門の二人の生き方を描き出すというもので、それを兄弟として赤穂浪士の事件で描くというものである。

 赤穂浪士の討ち入りの展開そのものに何か新しい視点があるわけではないが、そうした基本線で織り成される物語として、本書は面白く読めた。「忠臣蔵心中」という表題は、そう言う意味でつけられているのだろうし、その後、近松門左衛門が心中物を描いていく根底に、死を賭して意思を貫徹するという忠臣蔵と心中事件の似たような構造を見出して、筆によって無念を晴らすという意思があると作者は見ているのではないかと思う。わたし自身は、「無念など晴らさなくても良いと」思うが、ともあれ、忠臣蔵は武士のあり方を変えた大事件であったとは思っている。

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