7月の声を聞くようになってしまった。せっかく「文月」という名前があるのだから、懐かしい人々に手紙でも書こうかと思わないでもないが、日々の暮らしが追いかけてくる。そういえば、月の英語表記は歴代のローマ皇帝の名前が付けられているが、7月の「July」は、ユリウス・カエサル、つまりジュリアス・シーザーである。「賽は投げられた」と言ってルビコン川を渡り、ローマを帝国とした彼もまた、信じる者に裏切られた一人である。七夕の月にそのことをふと思ったりする。
閑話休題。梶よう子『宝の山 商い同心お調べ帖』(2013年 実業之日本社)の第二話「犬走り」は、澤本神人が子犬を拾うところから始まる。てんぷらを盗んで追いかけられた子犬が堀端の犬走りを走って逃げ、堀に落ちたところを神人が拾い上げて、家に連れ帰るのである。「犬走り」とは、本来、土手や溝で犬が走れるくらいの幅しかない通路のことをいい、表題から、これが細く狭い道を行くことであることを暗示させる。
大晦日が近づいたとき、澤本神人は北町奉行の鍋島直孝から佐賀藩が遠国の丘田藩主のために進物した花器が献残屋(贈答品や余剰品を買い取って、売る商売)の手を経て市中に出回った理由を調べるように命じられる。そこで献残屋に出かけてみると、一人の若侍が店の前で腹を斬ろうとしていた。事情を調べてみると、若侍はある藩の納戸役をし、私腹を肥やそうとして売るべきでない品を献残屋に売ってしまい、しかもそれをかいもどすこともできない状態だという。また、佐賀藩鍋島家の花器は確かに献残物として売りに出されたという。
腹を斬ろうとした若侍は丘田藩の枝島兵衛という。枝島は料理茶屋で見初められた女に入れあげ、博打にも手を出すようになり、ついには献残品の売買で金額をごまかして私腹を肥やすようになったのである。多かれ少なかれみんなしていることだという。だが、売ってしまった花器の中に献残品売買の帳簿を隠していて、それが発覚しそうだというのである。追い詰められた枝島は、ついに精神に異常をきたしてしまう。
そして、鍋島家の花器は手違いで売られてしまったこととして献残屋がうまくとりはからうことになる。枝島は、いわば、犬走りに逃げ込み、しかも出口なしで抜け出せない道にはまり込んだのだと神人は思う。犬走りに逃げ込んだ子犬は澤本神人によって助けられたが、枝島に救いの手を出す者はいない。それはいわば、人生の分かれ道でもあるだろう。
第三話「宝の山」は、澤本家に出入りする紙屑買いの三吉の話である。三吉は自分が生まれた年も場所も知らない。物心ついたときには紙屑買いの爺さんと暮らしていた。だが、この爺さんは三吉をかわいがり、三吉が誰よりも素直で正直であることをほめていた。その爺さんも五年ほどして死んでしまい、三吉は長屋の者たちから面倒を見てもらいながら、爺さんの跡を継いで紙屑買いの仕事をしていた。三吉は、物を覚えるのにも人の倍はかかり、銭勘定も遅い。そのうえ人を疑うことをしないから、すぐにだまされた。それでも三吉はいかったり、相手をなじったりしない。しじゅう、にこにこ笑って、「人にはいろいろあるからなあ」と爺さんの口癖をまねて済ませてしまっていた。三吉は二十五歳になる。その三吉は叶えたい夢があると神人に言う。それがどんな夢かはわからないが、三吉はそのために銭を貯めていた。
そして、その三吉が何者かに襲われるという事件が起こった。それとは別に、紙漉き職人の伝蔵という男が料理屋で芸者におれの女になれと無理やり迫って騒ぎを起こした事件があった。伝蔵は普通ではありえないほどの金をもっていたという。伝蔵はろくに仕事もしないのに金をもっていた。澤本神人は、伝蔵が何か悪いことをしていると察し、紙漉き職人は紙屑買いから反故紙を買うので、何かつながりがあるのではないかとピンとくる。
三吉の家に行ってみると家は荒らされていた。神人は、伝蔵が三吉から買った反故紙に書かれていたもので脅しの種を見つけ、その反故紙の持ち主を強請って金を得ていたのではないかと推察する。
その推察通り、伝蔵は買った反故紙に書かれたことで強請を働き、金を得ていたことが判明して伝蔵は捕縛される。そして、三吉を襲ったのは、恋文を間違えて三吉に売った坊主が、その恋文を取り戻そうとして三吉の家に忍び込んで、おもわず襲ってしまったのである。
こうして事件が落着した後、伝蔵のもとで紙漉きの仕事をさせられていた子どもたちを三吉が引き取って育てることになる。子どもたちはみんな親なしだった。三吉の夢は、その子どもたちをみんな引き取って紙屑屋をやることだった。かつて自分が爺さんに育てられたように、親なしの子どもたちを引き取ること。それが三吉の夢だったのである。
第四話「鶴と亀」は、言うまでもなく男女の話であるが、これが単純ではないし、妹の子である多代を男手ひとつで育ててきた澤本神人の淡い恋心も絡んだ話になっている。
話は、将軍の献上物となっているために禁猟となっている鶴が一羽行方不明となり、その探索の命が下るところから始まる。雛祭りのころである。その話が出ていたころ、突然、多代の母であった初津の元夫の芝里六蔵が訪ねてくる。六蔵は多代の父である。初津は子ができないことを理由に離縁され、澤本家に戻されたが、その時に不運にも妊娠しており、多代を産んで難産で死んでしまったのである。だが芝里家からは何の音さたもなく八年が過ぎていた。六蔵は再婚し、再婚相手の縁で出世していた。神人は、もう芝里家とは縁が切れていると突き放す。だが、六蔵が来たのはそのことではなく、どうやらだまされて庶人が食べてはならない鶴を食べさせられたらしいから、助けてほしいと言い出すのである。六蔵の屋敷に「ズイチョウは腹の中」と記された投げ文があるのを六蔵の妻女が見つけたという。六蔵は同僚と獣肉を食べさせるももんじ屋に行っており、身に覚えがあった。そして、それが発覚すれば、改易どころか切腹ものであった。
芝里六蔵が帰った後、幼い多代は、六蔵が自分の父親であることを察し、神人もそれを告げるが、多代は「多代は、澤本多代です」と言う。神人は、そういう多代の心を汲んで切なくなったりするのである。
それはともかく、澤本神人は、六蔵がどうなろうと知ったことではないが、鶴が食されたとなると諸色調掛として調べなければならないと、その探索に動き出す。神人は市中のももんじ屋にいてみる。そして、そのうちの一軒である湊屋で、その店の女主人で美貌の「お勢」と出会うのである。「お勢」は、凛とした中にも可愛げのある女性で、柚の香のする小袖を身につけていた。神人はその柚の香が妙に気になった。その「お勢」に六蔵のところに投げ込まれた投げ文の話をすると「ズイチョウ」は鶴のことではあるけれども「よい兆しの瑞兆」もあると語り、神人はその一言で、六蔵への投げ文が、実は妻女の懐妊を伝えるものであるとピンと来るのである。六蔵の後妻もなかなか子どもに恵まれなかったが、ようやく懐妊したのである。後妻は、前妻が子どもを産めなくて離縁されたことを知って心を痛めていたのである。こうして六蔵の不安は払拭された。もともと鶴などは自由の鳥で、その行方を探るなどばかばかしい話であった。
この物語は、離婚経験のある夫に嫁いだ嫁が、亡くなった前妻に対する思いやりを示す物語ではあるが、そのあたりは実にあっさりと記されている。しかし、そのあっさりさの中で、それこそ移り香のように「情」が滲んでいくのである。
この後、この一件で知り合ったももんじ屋の「お勢」と澤本神人の淡い恋が始まっていく展開になる。その展開については、また次回に記すことにする。