今日も雨模様で寒い。先日、作家の北原亞以子さんが、享年75で帰天されたと報じられて、これまで『深川澪通り木戸番小屋』や『慶次郎縁側日記』のシリーズなど、かなり読んでいて、その柔らかい筆致が好きだっただけに、大変残念に思っていた。ちょうど、『慶次郎縁側日記 あした』(2012年 新潮社)を図書館から借りてきており、これが彼女の最後の作品になったと、感慨深く読みすすめた。
『慶次郎縁側日記』は、元南町奉行所の同心で、「仏の慶次郎」と呼ばれた森口慶次郎が、隠居して酒屋の寮番人をしながら江戸市中で生きる様々人たちが起こす事件や出来事に関わっていくという設定で、市井で生きる人々の姿を短編連作の形で描き出したもので、その最後の作品になった『あした』は、暖かい余韻を残しながらもすっきりとまとまった作品になっている。
本書には「春惜しむ」、「千住の男」、「むこうみず」、「あした」、「恋文」、「歳月」、「どんぐり」、「輪つなぎ」、「古着屋」、「吾妻橋」の十篇が収められており、いずれも生きることの悲しみとそれをそっと包む人間の姿が味わい深く描かれたものになっている。
「春惜しむ」は、女髪結いの亭主として働くこともせずに身勝手に遊んで暮らし、あげくの果てには若い女に入れあげ、離縁をされて、尾羽打ち枯らして体調を崩し、隠居している慶次郎を訪ねてきた磯吉という男の話で、慶次郎は、治療費は自分が密かに負担する覚悟で、貧乏人からは金は取らない友人の医者である玄庵のところへ行くように言う。
磯吉が女房としていた女髪結いのお俊は、縄暖簾の女将の髪結いに行ったところで源次という男と知り合いになり、つきあっていた。源次は一度結婚したが、世話も何もせずに好き勝手をする女房と分かれて、船宿の船頭をしている男だった。二人は夫婦になるつもりであったが、お俊は、女ひとりで生きていける髪結いの仕事を辞めることにも不安を覚えていた。しかし、貧乏しても夫婦でいることを決断して、二人は夫婦になる。
磯吉は、少し立ち直って、慶次郎がもった治療代を少しずつでも返していくというようになるが、別れた女房であるお俊が源次と結婚したと聞いて、その様子を見に行く。お俊の亭主となった源次は、実は磯吉の血の繋がらない兄弟で、小さい頃は、源次は可愛がられるが磯吉は除け者にされるような暮らしをしてきていた。だが、源次は兄思いで、ずっと真面目に働いてきた人間であり、お俊と源次は幸せそうだった。
磯吉は二人の様子を陰ながら見て、嫉妬心を覚えたりするが、結局は自分が消えることが一番だと悟ってそこを立ち去るのである。慶次郎は、磯吉が律儀に金を返しに来るのを彼が一人前になった証としてそっと見守っていくのである。身勝手なことしか考えなかった人間がほんの少し立ち直っていく。これはそういう物語である。
「千住の男」は、強盗に入り幼い小僧まで殺した男を追いかけて、慶次郎を慕っている岡っ引きの辰吉が千住まで出かけていったとことから始まる。森口家の夫婦養子となって慶次郎の後を継いだ森口晃之助からその捕物のことを聞いて、慶次郎も千住まで行ってみることにする。どこに行ったのかわからないと心配している辰吉の女房のおぶんから相談を受けていたからでもあった。
強盗殺人犯は旅籠にいるということで捕り方が旅籠を取り囲んでいたが、慶次郎は船着場のある河原に下りて行ってみることにする。そこで川面に向かって小石投げをしているとひとりの男が近寄ってきた。慶次郎は、その男の話を聞くことにする。
男は、鬼怒川の西岸の宿場に近い村の豪農の生まれで、気立てがよく働き者の女房をもらっていたが、悪友の勧めで宇都宮の城下に遊びに行った時に、「おしん」という遊女と昵懇になった。「おしん」は十二歳で遊女屋に売られ、十四歳で見世に出され、男と知り合ったときはまだ十五歳の弱々しい暗い女性だった。男と女房とのあいだに子どもまで出来、男は子ともを可愛がったが、「おしん」に対する想いは募る一方で、「おしん」を身請けしたいと思うようになっていた。そして、彼は女房と子どもを捨てて、「おしん」と暮らすことにする。女房は金もあって何不自由なく暮らせるが、「おしん」は自分だけが頼りだからというのである。男は、父親から大金をもらって勘当され、「おしん」を身請けして、「おしん」と暮らし始める。だが、それから三年して「おしん」が病で亡くなってしまい、父親からもらった金も使い果たし、つい、江戸に出てきた旅籠で盗みを働くようになったと言う。そして、盗みを繰り返しているうちに、盗みに入った家の主人に見つかり、逃げたい一心で、夫婦と小僧を殺してしまったと慶次郎に告白するのである。
慶次郎は、その男の話をゆっくり聞いてやり、そこに捕り方がやってくるという結末で終わる。慶次郎は、男が取り方の追う強盗殺人犯だと感づいていたが、ともかく、その男の話をゆっくり聞くのである。そして、男が見せた別れた女房と子どもへのほんの少しの思いやりを受け止めていくのである。
「むこうみず」は、水戸家の御用達を務める煙管屋の子守の女中が、自分が好きになった手代との間に子どもが出来て、その相手を問い詰められて、少しだけ知っている煙管師の弟子を相手だと嘘をついていく話である。手代は奉公人に手をつけたことが知られれば店を追い出される。だから女は嘘をつくのだが、彼女が相手だといったのが、実は岡っ引きの太兵衛の次男で、弟子入りしている煙管師の娘との養子縁組の話が持ち上がっており、身に覚えがないと断言する。太兵衛も森口慶次郎を慕っている岡っ引きだった。
煙管屋では女中の話を聞いて、辰吉の次男との縁組を進めようとするし、女中の嘘はのっぴきならないところまで進んでいくように見えた。そこで、女中は手代と密かに会って、駆け落ちの計画をするようになる。高価な煙管をネコババして、それで金を作って駆け落ちしようというものである。彼らは東海道を下って行く計画を立て、女中は手代と生まれる子どもの三人で暮らすことを夢見ていく。
やがて、二人は出奔し、女中の嘘もばれる。女中は手代と約束したように品川まで行ったいたようで、そこで連れ戻されるが、男は、甲府に向かう内藤新宿で捕らえられる。どちらがどちらを騙したのかはわからないが、岡っ引きの太兵衛は、子どもを抱えることになる女中を陰ながら支えていこうかと思うのである。
表題作ともなっている「あした」は、森口慶次郎の夫婦養子となって跡を継いでいる森口晃之助に与力になるという出世話が起こる話である。晃之助は慶次郎の娘と相思相愛だったが、慶次郎の娘が自害したあとも、南町奉行所同心である慶次郎の夫婦養子となって跡を継いでいた。昔、慶次郎自身にも与力になる出世話があったが、慶次郎はそれを断り、そのため彼を推挙した上役から不愉快な人間と思われていたが、晃之助の実父は吟味方与力であり、与力と同心では雲泥の差のある身分だった。
晃之助にそういう出世話が持ち上がる中で、「おみね」というこそ泥をしながら暮らしている老婆が捕まえられて自身番に突き出される。「おみね」は何度もこそ泥や食い逃げで捕らえられていて、伝馬町の牢にもはいったことがある老婆で、泥棒長屋に住み、こそ泥を繰り返して生きているのである。彼女は、年寄りが安心して暮らせないのだから仕方がないとうそぶいたりする。
自身番の書き役(記録係り)は、「おみね」が食い逃げしたという蕎麦の代金を払ってやり、「おみね」を返す優しい男だったが、「おみね」はその書き役にも悪態をつく始末だった。
「おみね」は、子どもの頃は裕福ではなかったが人並みの暮らしをしていた。しかし、十三歳の時に左官をしていた父親が死に、続いて母親も亡くなり、藍玉問屋で女中奉公をしていた。そして、十七歳で結婚し、子どもも生まれたが、子どもが三歳の時に亭主が急死した。それから女手一つで子どもを懸命に育てたが、その子どもが九歳の時に川で溺れて死んでしまったのである。次々と愛する者を失いながらも、「おみね」はかろうじて生きてきた。そして、料理屋に務める同じ長屋の娘のおきみがなつき、「おみね」はその娘を我が子のようにして面倒を見ていたが、娘の母親が男を作って駆け落ちし、「おみね」はおきみを引き取って育てた。そのおきみも、やがて煙草の葉をきざむ職人と結婚し、所帯を持って子どももできた。だが、そのころからおきみは「おみね」に金の無心に来るようになり、それが度重なった。「おみね」は老後の生活の不安を抱えながらもおきみに金を都合つけていたが、金額も大きくなっていき、「おみね」が病んで倒れた時には、数度見舞いに来ただけで「おみね」の家の飯まで食べてくようになっていた。
金は底をつき、病で中断していた内職を再開しようにも、五十一歳になる「おみね」の仕事はなく、折れ釘拾いや短くなった蝋燭を集めて問屋に売るといった暮らしをしていたが、どうにもならなくなり、ふと入った家でわずかの金や食べ物を盗むようになっていったのである。彼女は泥棒長屋に住み、盗みを繰り返しながら生きている老婆になっていったのである。
森口晃之助は、与力への昇進話を聞いて、自分も養父の慶次郎と同じように、この話を断ろうと思っていた。同心の仕事は想像以上に過酷なものだったが、定町廻り同心として市中を見回っているうちに市井の人々のふとした思いやりに触れたりすることに大きな喜びを感じ、養父の慶次郎のことがわかるようになっていたのである。
その晃之助が、薄暗くなった川べりでぼろを着た老婆が蹲っているのに出会い、老婆は晃之助の姿を見て、逃げようとして土手を滑り落ちてきたのである。「おみね」である。「おみね」は晃之助に悪態をつき、「生きるってのは苦労なんだよね。さっきも言ったけど、生きていりゃ、胃の腑がめしを食わせろと泣きわめく。つめたい風が吹きゃあ、手も足も衿首も寒いって言うし」(121ページ)と言う。
森口晃之助は、それを黙って聞き、老婆に背を向けて、おぶって送っていくと言う。そして、「そのなんとか長屋をでてえというのなら、別の長屋を探してやるよ。婆さんに、洗濯や繕いものを頼む奴のいるところを、な」と言う。「おみね」は、「ちぇっ、この年寄りをまだ働かせる気かよ」と言い、晃之助は「ああ」と言って老婆を背負っていくのである。そして、「出世はしなくても、明日も定町廻りどうしんでいられるありがたさが、よくわかったと思った」(122ページ)のである。
もちろん、これは小説であるが、こういう温かみがあるということが、人間であるということだとつくづく思う。
「恋文」は、自分で自分宛に恋文を書く人間の寂しさを語る作品で、酒屋の寮番をしている慶次郎のところにいて、いつの間にか慶次郎と友人になったような佐七という下男の友人で、季節の品物を売って歩く際物売りをしている万吉という男が、縄暖簾の女に惚れて、その女からの恋文と称して自分で自分宛の恋文を書く話であり、そこに笑えない寂しさがあることが漂う作品である。
「歳月」は、夫婦養子にしている晃之助に生まれた孫を可愛がって、機嫌の悪い佐七に好物の煎餅でも買って帰ろうと煎餅屋の前に来ると、男に乱暴されている女がいて、聞くと乱暴している男は女の亭主だという。慶次郎は、その男の乱暴を止めて乱暴されていた女から話を聞く。
女は料理屋の女将で、亭主の茂吉という男は十三歳年下で、若い女を作って、亭主がその若い女を連れているのに出会って口論になったという。
おりゅうというその女は、料理屋の一人娘で、父親の言うとおりに婿にした最初の亭主には、すでに女がいて、店の金を盗んでその女と駆け落ちし、二度目の亭主は若い女を作ったと言う。おりゅうは、最初の亭主と分かれて借金を返したり、店を切り盛りしたりしてやっているうちに、家に出入りしていた植木屋の小僧であった茂吉を誘惑した。その時は茂吉はまだ少年で、体を固くして逃げ去ったが、それから数年後に、行き倒れの若者が彼女の名前を呼んだと自身番が知らせてくれ、自身番に行ってみると、そこにたくましく成長した茂吉がいたのである。そして二人は周囲の反対を押して夫婦になった。だが、茂吉は次第にほかの若い女を作るようになったのである。
茂吉の新しい女は、おりゅうの近所の娘で、植木屋の小僧がいつの間にか若衆となり、よちよち歩きの子が娘となっていく。その歳月の中で人は翻弄されていくとおりゅうは語るのである。茂吉の新しい女は茂吉の子を身ごもり、おりゅうが茂吉と離縁したという話を慶次郎は後で聞く。歳月は人を待たずというが、歳月は人と共に流れていく。このあたりに作者の感慨もあるような気がしながら読んでいた。
「どんぐり」は、男にすがって生きようとするが、結局はつまらない男に引っかかってしまう女と、女の幸せを願いながら別れた男の姿を、いわば「どんぐりの背比べ」のようにして描いた作品で、生活の泥沼から這い上がろうとする女が、結局は捨てた男から助けられていく話である。
「輪つなぎ」は、女絵師を目指していたが、自分をめぐる兄弟子どうしの色恋沙汰で破門となり、最初の亭主とは舅夫婦との折り合いが悪く、二度目の亭主は酒癖が悪く、結局は空き巣狙いとなり、その空き巣で貯めた金を三度目の年下の亭主に盗み取られたから取り返して欲しいという、少し虫のいい依頼を受けた岡っ引きの「蝮の吉次」が、その金の行くへを探索していく話である。
金を盗んで逃げた男は、別の女と駆け落ちの約束をしていたのだが、結局はその女に騙されて女から逃げられていた。その女には、店の金を使い込んで勘当された馬具武具商の若旦那がおり、十両あれば勘当が解けて店に戻れ、店の女将にしてやると言われていたのであった。その仲介をするのが飼葉屋をしている叔父さんで、その金はその飼葉屋の手に渡っていたのである。吉次がそれを突き止めたときは、十両の金が二両二分に減っていた。この作品は、金をめぐる人のつながりであり、そのつながりの薄さが描き出されているのである。
「古着屋」は、商売がどうにもうまくいかなくなり、ついに、人の家に干してある着物を盗んで売るようになった古着屋の顛末を描いたものである。諸物価高騰の中で苦労しなければならない古着屋と彼らが盗みを働いたということを知りながらも放免してやる慶次郎の周囲にいる人々の姿が描かれる。森口慶次郎の情の深さは、彼の周辺の人間たちへと移っていく。
最後の「吾妻橋」は、慶次郎が歩いている時に、八丈島送りから赦免になって帰ってきた男と出会うところから始まる。
男は、瓦職人で、親方の娘と相思相愛だったが、同じようにその娘に恋慕していた兄弟子がその娘に襲いかかるのを見て、兄弟子が持っていた匕首でその兄弟子の足を刺して、刃傷沙汰で八丈島送りとなっていたのである。男は誰に対しても親切で、瓦職人としての腕もよく、真面目に働いていたので、慶次郎はなんとかその男の罪が軽くなるように働いた経緯があった。
他方、刺された方の兄弟子は、賭場に入り浸ったり、縄暖簾で酔いつぶれたりする遊び人だった。瓦職人の親方の女房はそう証言したが、なぜか、事件を扱った北町奉行所は先に斬りかかったという兄弟子は無罪とし、刺した男を島送りとしたのである。刺された男は足を引きずるようになっていた。
そして、刺された男は、親方の女房が嘘をいい、自分は仕事もなくしていたと語り、それを脅し文句にして親方の娘を結婚し、食わせてもらっていたのである。そして、八丈島から帰ってきた男からも金を無心しようとしていたのである。だが、親方の娘は、長い年月の間でその男の女房になっていた。そのことを知った島帰りの男は、すべてを飲み込んで、親方の世話をしながらこれから生きていくという。
その顛末を見ていた慶次郎は、刺された男がわざと刺されたことを見抜いていくが、結末が収まったことでことを荒立てることはしない。年月がすべてを収めていくのを眺めるだけである。
本書はここで終わるが、良くも悪しくも年月がすべてを収めていく姿を作者も静かに見ていたのではないだろうか。それは一つの達観のような気がしないでもない。作者のこの最後の作品は、余韻を残しながら柔らかく終わるという作者の作家としての本質がよく表れた作品だと思いながら読み終わった。人は、温かみを残して終われればそれでいい、とわたしもつくづく思う。