ようやく春が歩き始めた。近くに「桜台」という桜並木のある街があり、その桜もだいぶ咲き始めている。先日、その桜並木の道を通りながら、桜の花びらの美しさは、その淡さと相乗してつくづくいいと思ったりした。
このところ少し慌ただしくて、ゆっくりと机に向かう時間も取れなかったし、今日も午後から仙台に向かうことになっているが、忘れないうちに、南原幹雄『王城の忍者(しのび)』(2005年 新潮社)を読んでいたので、記しておくことにする。
これは江戸時代の中期に起こった尊皇思想の最初の弾圧事件であったと言われる「宝暦の変(1758年 宝暦8年)から、続く「明和の変(1767年 明和4年)」までの京都の公家を中心にした反幕府運動を背景にした天皇家の忍者たち(天皇の駕籠を担ぐ駕輿丁として従事しながら密命を受けて働く者たち)の闘いを描いたものである。
「宝暦の変」は、神道と儒学を統合した山崎闇斎(1619-1682年)が唱えた「垂加神道」を信奉していた竹内敬持(竹内式部)が桃園天皇の若手近習たちに尊皇思想を中心にした彼の学説を講義し始めたのが始まりで、幕府の専制と摂関家による朝廷支配に憤慨していたこれらの若手公家たちが桃園天皇に竹内式部の学説を進講させたのである。
その尊皇思想は、とうぜん、江戸幕府の存在を批判するものであり、幕府との関係を悪化させるものであるが、それを憂慮した関白一条道香は、摂関家を形成していた近衛内前らと図って、天皇の近習7名(徳大寺公城、正親町三条公積、烏丸光胤、坊城俊逸らの7名)の追放を行い、徳大寺公城と関係していた公家を処分し、禁じられていた公家の武芸稽古を理由に竹内式部を京都所司代に告訴して、竹内式部を重追放としたのである。
これは朝廷内における公家の勢力争いと言ってしまえばそれまでのことであるが、後の幕末における尊皇思想にも大きな影響を与えた事件で、この頃から次第に尊皇思想が広まっていった事件でもあった。
その後、蟄居を命じられた徳大寺公城らは、再び密議を行って再起を図るのだが、本書はそのあたりから始まっていく。彼らが天皇を中心にした親政政治奪還のための実質的戦闘部隊として用いたのが、天皇の護衛役であった静原冠者であったとして、その静原冠者の頭領である竜王坊を主人公にして物語を展開していく。
作者によれば、静原冠者は1186年(文治2年)に後白河法皇が鞍馬から静原をとおり大原に建礼門院を訪ねた時に、法皇の駕籠を担いでいったことを機に、免租の特権を受けて駕輿丁として命じられるに至り、駕輿丁は同時に天皇の護衛と密命を受ける忍者であったとしているのである。
他方、1336年(延元元年)に後醍醐天皇が足利尊氏に追われて近江の坂本に逃れた際に、天皇を護衛し、天皇の輿を担いで比叡山から坂本まで駆け、その功績によって課税の永代免除を受け、天皇家の駕輿丁としての役割を担った八瀬童子がおり、八瀬童子と静原冠者とは天皇家の駕輿丁を歴代争う存在であったとする。
この八瀬童子は、民俗学者の柳田國男が「鬼の子孫」として研究したのが有名であるし、作家の隆慶一郎がこの八瀬童子を天皇家の忍者とした作品を描いており、また、近年の1989年(平成元年)に行われた昭和天皇の大葬の礼でも葬列につらなっており、連綿とその歴史が続いている存在である。
物語は、尊皇思想によって武力倒幕を図る若手公家たちとその危うさを危惧する摂関家の争いを、静原患者と八瀬童子の争いとして描き出し、それに静原冠者の頭領である竜王坊の悲恋を絡めて展開するものである。
賊に襲われていたところを助けたことから竜王坊と大原女の「利根」は相思相愛の中となり、密会を重ねるようになるが、それぞれの村のしきたりから結婚には至らない状態が続くし、「利根」自身が、実は敵対する八瀬童子から送り込まれた忍者であるという苦悩の中に置かれていくのである。
加えて、「宝暦の変」は、やがて山県大弐と藤井右門らの「明和の変」につながっていくが、そこに至るまでの朝廷内での争いが連綿と続いていくのである。
「明和の変」は、江戸で幕府若年寄の大岡忠光に仕えた後に、塾を開いて儒学や兵学を教えていた甲斐(甲府)出身の山県大弐が、「柳子新論」などの激烈な尊皇思想を展開していたが、彼の学問に心酔していた上野小幡藩家老の吉田玄蕃らの小幡藩の内紛に関与したということで、謀反の疑いがあるということで密告され、捕縛されて、1767年(明和4年)に処刑された事件で、これに「宝暦の変」に関わっていた藤井右門も山県大弐の弟子として処刑され、竹内式部も遠島の処分を受けている。「宝暦の変」の竹内式部と「明和の変」の山県大弐につながりがあったことは明白で、結局、この時代の尊皇思想と倒幕運動は頓挫したのである。
朝廷の若手公家たちの甘さというのを、本書を読んで感じていた。彼らは力もないのに権力意識だけが強くてにわか仕込みの尊皇思想で策謀を巡らす。
「宝暦の変」で永蟄居を命じられた若手公家たちは密議をこらして「天皇の宣旨をもらい、それによって兵を起こして、幕府に不満のある外様大名を引き入れ、大阪商人から名目銀で資金を集める」という計略を立てる。そして、その尊皇思想の鼓舞のために再び竹内式部を担ぎ出すのである。
この計略は、すべて「人頼み」の計略でしかない。彼らはその根拠のない計略の危うさに気づかないで、運動を進めていく(47-48ページ)。しかし、やがて挙兵直前にまで進んでいくが、その時も、例えば、時を見定めるにしても、「正月ははみんながのんびりしているし、行事が続いて気持ちがゆるむので正月がよかろう」などという(297ページ)。また、大政奉還を狙って江戸を火の海とすることが簡単にできると考えたりもするし、それが実現すれば、それができれば朝廷内での上下関係をなくして平等に役職につけると捕らぬ狸の皮算用で盛り上がったりする(298ページ)。彼らは挙兵するというが、それは浪人たちをあてにした挙兵でもある。彼ら自身に兵力があるわけではない。
計略の粗略さもさることながら、彼らの視野にあるのは権力の座であって、庶民の暮らしではない。これがうまくいくはずがないのである。ただ、こういうことは、実は幕末から明治まで続き、明治維新は、公家の権力闘争ででもあったのである。
しかし、こういう中で、静原冠者の頭領である竜王坊は、自分の役割に忠実に、しかし八瀬童子との権力争いをしながら、行動していく。彼は実際家であり、実際家としての彼の姿が婚礼や恋に悩む者として描かれている。彼の恋は不幸にしてそれぞれの立場のために実を結ばないが、着実に歩んでいく者の姿が残るのである。
本作は、歴史の中で静原冠者と八瀬童子の天皇家の忍者の地位をめぐる争いとして描き出されると同時に、この時代の尊皇思想の危うさと公家のいやらしさと愚かさも描き出されているのではないかと思ったりする。ただ、作者が公家を「愚か者」として描く意図があったかどうかは別にしても、である。
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