今日も寒い。大晦日になっても格別普段と変わることがないのだが、世相とかけ離れた脳天気ぶりを発揮する新聞やテレビを横に見ながら、衰えていく体力の中で静かに行く末を考えたりした。想念や思想をじっと抱いたまま片田舎に逼塞することを考え続けているのだが、ふと、アメリカの作家のローラ・インガルス・ワイルダーが『大草原の小さな家』を書いたのが65歳であったことを思い出し、そろそろ壮大で哲学的なファンタジーを書き始めようかと思ったりする。
そんなことを思いながら、安部龍太郎『薩摩燃ゆ』(2004年 小学館)を大変面白く読んだ。作者は、巻末の著者紹介で改めて気づいたのだが、1955年福岡の八女出身で、同窓でもあるので、たぶん、まだ青少年の頃にどこかで直接会ったことがあるかもしれない。しかし、その頃は個人的に思想の季節の中で閉じこもっていたし、化学に没頭していたために、ほとんど何も知らなかった。今回、この作品を読んで、これだけの力量のある作家であることに改めて驚いた次第である。
『薩摩燃ゆ』は、幕末のころに500万両もの借金を抱え、破綻寸前であえいでいた薩摩藩を立て直し、維新の雄藩にまで育て上げた調所笑左衛門廣郷(ずしょ しょうざえもん ひろさと 1776-1849年)の姿を描いたものである。
調所廣郷は、薩摩藩軽格の出で、二十五代藩主であった島津重豪(しげひで)の茶坊主であったが、隠居してもなお厳然とした力をもっていた重豪に才能を見出されて、信頼を受けて重用され、二十六代藩主となった島津斉興(なりおき)の側用人となり、使番や町奉行を歴任した後、家老格となり、やがて家老となって藩の大改革を推進した人物である。彼がいなければ、維新の時の薩摩藩はなく、西郷隆盛も世に出ることはなかったし、明治維新も起きなかったといわれるほどの人物であった。
膨大な借金を抱えていた薩摩藩の中で、重豪に命じられて財政の立て直しに着手するが、行政改革や農政改革を行うと同時に、借金をしていた大阪商人に無利子の250年払いという途方もない策略で対応し、砂糖の専売制を敷いて商品開発を行うと同時に、琉球を通じての密貿易を行い、それらによって、短い年月で500万両の借金から250万両の蓄えのある藩に一変させたのである。本書では、贋金作りにも着手していたことが記されている。彼が画策した密貿易で薩摩藩の財政は立て直され、維新を推進するほどの力をもったが、彼自身は、おそらくその密貿易の責任を取って自死したと思われる。
調所廣郷はこうして藩の財政改革を成し遂げて、藩の重鎮になっていくが、もちろんこれだけの改革を断行するからには、それだけの無理もあり、砂糖の専売制を敷いて生産性を上げて利を得るために、生産地であった大島や徳之島の島民に過酷な状態をもたらしたり、贋金作りの時に出る水銀中毒を引き起こしたり、また、藩内の統制で一向宗徒を弾圧したりしている。本書では、そのあたりの調所廣郷の苦渋の決断が詳細に述べられている。彼が背負った苦悩をこうした姿で述べることが本書の眼目であろう。彼が藩の改革に着手したのは50歳代になってからである。それも驚嘆に値する。
晩年、調所廣郷は、何度も藩主の斉興に隠居を願い出るが許されず、ついには斉興の子の斉彬(なりあきら)と久光との間の争いの中で、すべての責任を取って毒を飲んで死を迎えなければならなかった。
斉彬は、剛胆で英邁であった祖父の重豪に気に入られた秀才の誉れの高い開明派の人物であったが、父親の斉興はそれが気に入らず、妾腹との間に生まれた久光を世継ぎとしたいと思い、それが斉彬と久光の争いになっていくのである。
一般には、調所廣郷は、斉興・久光派に属して藩主斉興の意向を尊重したといわれ、彼が服毒したのも密貿易などの罪が斉興にまで及ぶのを防ぐために責任を取ったのだと言われ、また斉彬の開明策によって藩の財政が再び窮地に陥ることを案じて、斉興・久光側であったと言われているが、本書では、斉彬の人物を見抜き、久光ではなく斉彬を藩主にするためにとった策がまったく裏目に出てしまい、それらすべてを呑み込んで服毒したという理解で後半の話が進められている。
斉興は、剛胆な父親の陰で気の小さなかんしゃく持ちの人物で、本書では斉興の気に入らないことを調所廣郷がしたために、廣郷の長男と長女が忙殺されたのではないかと記され、そのためにも廣郷が斉興・久光側ではなく、真実は斉彬側であったと語られていくのである。
わたしは個人的に斉彬が極めて優れた人物であったと思っているし、維新の時の藩主が久光だったために維新後の日本の歩みが曲がってしまったのではないかとさえ思えることがあるので、薩摩藩の屋台骨となった調所廣郷についてのこの解釈にうなずくところがある。
ともあれ、本書はその調所廣郷の苦労を克明に語りつつ、「前のめりに死ぬ」という薩摩武士としての覚悟をもった人物として見事に描き出している。「何をしたかではなく、どんな覚悟をもっていたかが問われる」(82ページ)のであり、調所廣郷の覚悟が記されていくのである。
改めて、この覚悟を西郷隆盛が引き継いだのだろうと思う。その意味では、調所廣郷によって薩摩武士のよい姿が作られたような気がしないでもない。薩摩武士の多くは嫌われたが、薩摩が戦国からずっと生きのびてきた秘訣もそこにあるような気がするのである。
薩摩(鹿児島)は、桜島の噴火によるシラス台地で痩せた土地である。だが、明治維新を起こしたほどの財力を自力で作った土地である。自主独立の気風に富み、美しいところであり、先年、鹿児島を訪れたときに、錦江湾を眺めながら、その美しさにしばらく佇んでしまったことがある。調所廣郷が作った甲突川の石橋も見事であるし、斉彬が残した諸施設もその先見性に驚いたことがある。西郷隆盛の城山での最後も人の世の哀しみをたたえる。そして、本書を読みながら、歴史の影に調所あり、と思った。本書は、そんな感慨も呼び起こしてくれる作品だった。2011年の最後に、こういう人物について少し考えることができて良かったと思っている。
2011年12月31日土曜日
2011年12月29日木曜日
東郷隆『御町見役うずら伝右衛門・町あるき』
冬型の気圧配置が厳しく、北日本は大荒れで太平洋沿岸は晴れた寒い日々が続いている。今日から図書館が休館日になるというので、昨日、仕事を途中で止めてあざみ野の山内図書館に行ってきた。お正月を読書で過ごそうとする人が多いのか、いつもの陪以上の人が書架を眺めていた。本は売れないそうだが、この国の読書人口はまだまだ捨てたものではないと思ったりした。
先に東郷隆『大江戸打壊し 御用盗銀次郎』(2006年 徳間書店)を読んだが、この一冊だけでは何とも言えない気がしていたので、続いて東郷隆『御町見役うずら伝右衛門・町あるき』(2001年 講談社)を読むことにした。
これも『御町見役うずら伝右衛門』(1999年 講談社)という前作があるのだが、尾張徳川という江戸時代の中でも極めて特異な存在を取り扱っているし、特に八代将軍徳川吉宗と尾張の徳川宗春の確執は人間的にもなかなか興味を引くものがあるので、『御用盗銀次郎』よりも面白く読めた。徳川吉宗と尾張の徳川宗春の確執は様々な時代小説の背景としてよく出てくるが、多くは江戸幕府中興の祖ともいわれる八代将軍徳川吉宗の側から尾張徳川家の悪辣さを描き出すもので、尾張徳川家の立場にいる人物を取り上げた作品は意外に少ない。その意味でも着眼が面白いと思った。
この物語には、その徳川将軍家と尾張徳川家の間の確執が背景としてあり、特に尾張徳川家の七代藩主であった徳川宗春による江戸幕府に対する反骨精神の発揮が背景としてあるので、最初にそのことについて少し触れておこう。
尾張徳川家は、徳川将軍家に後継ぎがいないときに将軍位を継ぐ者を輩出するために設置された「御三家」の筆頭で、尾張藩62万石の藩主である。藩祖義直(徳川家康の九男)以来の勤王思想を受け継ぎ、朝廷とも深い関わりを持っており、明治維新の際には倒幕軍である官軍側についている。それは御三家のひとつでもあった水戸徳川家とよく似ており、御三家のうちの二つまでもが勤王思想であったことは興味深い。その点から見ても、尾張徳川家は徳川将軍家と代々思想的な確執があったと言えるかも知れない。
この確執が最も端的に表れたのが、七代将軍の徳川家継が僅か八歳で没したときの将軍位を巡る争いで、尾張藩主六代目の徳川継友と紀州藩藩主となった徳川吉宗が将軍位を巡って争い、結局、徳川吉宗が八代将軍となったのだが、御三家筆頭としての面目がつぶれ、吉宗との間の確執が続いたのである。将軍となった吉宗が御庭番を作り尾張徳川家を見張らせたことはよく知られた事実である。その徳川継友の死についても(三八歳で急死)、吉宗の陰謀説があったりもする。この徳川継友は、「性質短慮でケチ」と言われたが尾張藩の財政を立て直し、やがて「尾張の春」と呼ばれるような繁栄をもたらしている。この継友に子どもがなかったために弟の宗春(通春)が七代藩主となったのである。
八代将軍徳川吉宗と尾張七代藩主徳川宗春はそれまで昵懇の間柄だったのだが、享保の改革が実行され、質素倹約が徹底されて祭りや芝居などが縮小されたり廃止されたりする時、宗春は尾張城下で祭りを奨励し、芝居見物を許可し、自身も派手な衣装を身に纏って、芝居小屋や遊郭などの施設を許可し、江戸幕府の方針とは全く逆の規制緩和政策を採った。宗春は吉宗に対してよりも幕閣に対して否を唱えたっかったのだろうと思う。「行きすぎた倹約はかえって庶民を苦しめることになる」と考え、江戸幕府の倹約経済政策に真っ向から対立する自由経済政策を採ったのである。
そのことで名古屋の街は活気づき、大いに繁栄した。宗春は、斬新な政策をいくつも打ち出し、まれに見る自由思想の持ち主だったのである。たとえば、宗春の治世の間では尾張藩では一人の死刑も行われなかったし、犯罪を処分する政策ではなく、犯罪を起こさない町作りを目指し、藩士による巡回をさせている。心中も、当時は死罪に値するものであったが、心中未遂者に夫婦として生活する許可を与えている。また、市ヶ谷にあった尾張藩上屋敷を江戸庶民に開放したりした。現代の日本政府の増税策に対して名古屋が減税策を打ち出したのは、一つの面白い現象だろう。歴史は繰り返すのかもしれない。
だが、幕府と朝廷側の争いもあったりして、朝廷と密接に関係していた尾張徳川家の宗春のこうした姿勢が質素倹約による緊縮財政政策を採る幕府の威信を揺らがせているという幕閣の批判が強くなったこともあり、幕府と朝廷の争いの中で宗春と尾張藩は政略的に板挟みとなる。それが宗春失脚につながったりして、尾張藩内部でも混乱が生じたりした。
本書は、その宗春が戸山の尾張藩下屋敷の広大な藩邸内に町屋を建設し、居ながらにして江戸の町が楽しめるような工夫を凝らしたことから、その藩邸内の町屋の責任を担わされた「うずら伝右衛門」を主人公にした物語である。
「うずら伝右衛門」は、戸山下屋敷内で飼われていた鶉(ウズラ)の小屋番であったためにこの名を宗春からつけられたものだが、その下屋敷内の町屋が消失する事件が起こり(この辺りがたぶん前作の物語なのだろうと推測される)、その町屋の再建のために御町屋庭園の責任者として御町見役を仰せつかっているのである。身分としては比較的軽いものではあるが、実は、藩主宗春の同腹(母親が同じ)の弟であり、宗春の信任も厚く、密命を帯びて宗春のために働く者でもあるという設定になている。
この「うずら伝右衛門」にぞっこん惚れているのが宗春の別式女の「百合」で、「百合」は別式女の頭で、屋敷内では家老と同等の力を与えられていた。別式女というのは、礼儀作法や武術に優れ、藩主や藩主家族の警護にあたり、剣術指導もした。大名家の家族が住む奥は男子禁制であるため武芸に優れた女性が必要とされ、外出の際などは男装していたといわれる。「百合」は、いわゆる男装の麗人といわれる美貌の持ち主で、剣の腕も優れているのである。
だからそれだけに武骨でもあり、「うずら伝右衛門」に対する恋心も見え見えで、直線的でほほえましくさえある。本書ではあまり登場しないが、もう一人の恋敵である女八卦見の「お幸」との恋の鞘当てもある。物語は、この「うずら伝右衛門」と「百合」が協力して、屋敷内外で起こる出来事に当たっていくという筋であり、第一話「不典にて候」は、藩邸内に駆け込んできた武士を匿うという武家の作法を逆手にとって「百合」に懸想して尾張藩邸にやってきた青年の素朴な心情を「うずら伝右衛門」が見抜いていくという話である。
第二話「小便組の女」は、旗本家の中間で、実は将軍徳川吉宗の御庭番でもある助十となのる折助賭博(旗本家の中間は奉行所の監視が届かない屋敷内で博打場を開いたりしていた)の親方の甚内の博打場で知り合った医者が、女を旗本の妾などに斡旋する仕事をしていることを知り、「うずら伝右衛門」がその医者の下で使われている女を助けていく話である。妾奉公をさせられる女性は、行った先で寝小便をし、それが嫌がられて帰させられることを繰り返し、医者はその斡旋手数料を稼いでいたのである。こういう女性は、いわゆる「小便組」といわれた女性で、ところが行った先の旗本に惚れ、その心情を何とかしたいという姉から「うずら伝右衛門」が相談を受け、姉に彼女の妹を縛りつけている医者と対決する方法を授けるのである。
たわいもないと言えばたわいもない話なのだが、徳川吉宗の御庭番である甚内と尾張徳川宗春に仕える「うずら伝右衛門」は、本来、仇敵なのだが、「うずら伝右衛門」の飾らない鷹揚さに、甚内はいつのまにか「うずら伝右衛門」に助力していくようになるというのが、主人公の人柄を伝えるものになっている。
第三話「川獺」は、江戸では必要だった井戸さらえや堀さらえ、川さらえの仕事に絡む事件で、尾張藩中屋敷にあった池での「川獺うわさ話」に決着をつける話で、第四話「はやり神始末」は、ひとりの男が水練中に事故死したことから、尾張徳川家三代藩主綱誠(つななり)の側室で四代藩主吉通を生んだ「お福の方」と呼ばれた本寿院の秘事が明らかになりそうになるのを防いでいく話である。
「お福の方」と呼ばれた本寿院は、性的奔放さが目にあまった女性で、寺詣と称しては若い僧侶を弄んだり、屋敷内で町人や役者などを呼び込んで乱交を繰り返し、相撲を見てはその汗の匂いがたまらずに屋敷内で相撲取りを囲ったり、医者に自分の秘所を見られればその医者と交わったりして、淫乱極まりない女性だったと言われている。真相は別にして、実際、あまりのことに幕閣でも噂となり、尾張徳川家は彼女の蟄居を命じているが、尾張徳川家の弱点で、その本寿院の秘事の証拠が幕府に知られると幕閣内で弱みを握られることから、「うずら伝右衛門」が密かにその秘事の証拠を探し出していくというものである。
本寿院は自分の欲望の達成のために金を湯水のように使ったが、本寿院の秘事の証拠は本寿院の宝だと思う人間も出てくる。それを宝として守ってきていたのは、茶商の靑山林屋という諸大名家の御用商人で、そこには歴代「猿者」と呼ばれる陰の忍者集団も仕えていた。「うずら伝右衛門」と「百合」はその「猿者」と戦い、鎖鎌を使う男とも戦い、その家に隠されていた本寿院の宝(秘事の証拠)を探し出していくのである。その宝というのが「張り形(男性器を形取った物)」とうのが笑わせる。「張り形」ひとつに何人もの人間の血が流されるのだが、上に立つ物の無思慮は下の者を苦しめる典型でもあるだろう。
第五話「次郎太刀の行方」も、上に立つ物の気ままさが下にいる者を苦しめる話で、こちらは、武芸を奨励し刀剣好きの徳川吉宗が、ふとしたことから関ヶ原の合戦で使われた大太刀の「次郎太刀」のことを聞き、それを見たいと願って調べたところ、尾張徳川家が所蔵していることがわかり、その謁見を願い出るのである。
ところが、あるはずの「次郎太刀」がない。盗まれていたのである。尾張徳川家では大騒ぎとなり、「うずら伝右衛門」が探し出していくというもので、大山詣と絡んで話が展開されている。
本書が描く「うずら伝右衛門」という主人公は、自由闊達でこだわりがなく、だからといって矜持ははずさず、ある面では宗春の自由さや柔軟性を表したような人物として描かれ、敵とも親しくなり、上に媚びず下に厚い人間で、「ウズラ」小屋でウズラの世話をし、まあ、なかなか面白い主人公であるし、美貌の女剣士「百合」のぐいぐい直線的に迫る恋心もそれなりに受けながら過ごしていくというもので、娯楽時代小説の主人公としては面白い人物だと思う。
個人的に徳川宗春という人間には少し関心があって、後の田沼意次の自由経済政策にも影響を与えたが、厳格な規則づくめの江戸武家の中で卓越した人物だっただろうとは思っているので、内容は別にしても、その尾張徳川家を舞台とした本書も好感を持って読んだかも知れない。徳川宗春に関心があるのは、好みというのではなく、経済・社会思想の点でではあるが。
今年もあと数日になり、やり残したことが山ほどあって、たぶん、茫然と懐手して過ぎ行く年を長めそうな気がする。
先に東郷隆『大江戸打壊し 御用盗銀次郎』(2006年 徳間書店)を読んだが、この一冊だけでは何とも言えない気がしていたので、続いて東郷隆『御町見役うずら伝右衛門・町あるき』(2001年 講談社)を読むことにした。
これも『御町見役うずら伝右衛門』(1999年 講談社)という前作があるのだが、尾張徳川という江戸時代の中でも極めて特異な存在を取り扱っているし、特に八代将軍徳川吉宗と尾張の徳川宗春の確執は人間的にもなかなか興味を引くものがあるので、『御用盗銀次郎』よりも面白く読めた。徳川吉宗と尾張の徳川宗春の確執は様々な時代小説の背景としてよく出てくるが、多くは江戸幕府中興の祖ともいわれる八代将軍徳川吉宗の側から尾張徳川家の悪辣さを描き出すもので、尾張徳川家の立場にいる人物を取り上げた作品は意外に少ない。その意味でも着眼が面白いと思った。
この物語には、その徳川将軍家と尾張徳川家の間の確執が背景としてあり、特に尾張徳川家の七代藩主であった徳川宗春による江戸幕府に対する反骨精神の発揮が背景としてあるので、最初にそのことについて少し触れておこう。
尾張徳川家は、徳川将軍家に後継ぎがいないときに将軍位を継ぐ者を輩出するために設置された「御三家」の筆頭で、尾張藩62万石の藩主である。藩祖義直(徳川家康の九男)以来の勤王思想を受け継ぎ、朝廷とも深い関わりを持っており、明治維新の際には倒幕軍である官軍側についている。それは御三家のひとつでもあった水戸徳川家とよく似ており、御三家のうちの二つまでもが勤王思想であったことは興味深い。その点から見ても、尾張徳川家は徳川将軍家と代々思想的な確執があったと言えるかも知れない。
この確執が最も端的に表れたのが、七代将軍の徳川家継が僅か八歳で没したときの将軍位を巡る争いで、尾張藩主六代目の徳川継友と紀州藩藩主となった徳川吉宗が将軍位を巡って争い、結局、徳川吉宗が八代将軍となったのだが、御三家筆頭としての面目がつぶれ、吉宗との間の確執が続いたのである。将軍となった吉宗が御庭番を作り尾張徳川家を見張らせたことはよく知られた事実である。その徳川継友の死についても(三八歳で急死)、吉宗の陰謀説があったりもする。この徳川継友は、「性質短慮でケチ」と言われたが尾張藩の財政を立て直し、やがて「尾張の春」と呼ばれるような繁栄をもたらしている。この継友に子どもがなかったために弟の宗春(通春)が七代藩主となったのである。
八代将軍徳川吉宗と尾張七代藩主徳川宗春はそれまで昵懇の間柄だったのだが、享保の改革が実行され、質素倹約が徹底されて祭りや芝居などが縮小されたり廃止されたりする時、宗春は尾張城下で祭りを奨励し、芝居見物を許可し、自身も派手な衣装を身に纏って、芝居小屋や遊郭などの施設を許可し、江戸幕府の方針とは全く逆の規制緩和政策を採った。宗春は吉宗に対してよりも幕閣に対して否を唱えたっかったのだろうと思う。「行きすぎた倹約はかえって庶民を苦しめることになる」と考え、江戸幕府の倹約経済政策に真っ向から対立する自由経済政策を採ったのである。
そのことで名古屋の街は活気づき、大いに繁栄した。宗春は、斬新な政策をいくつも打ち出し、まれに見る自由思想の持ち主だったのである。たとえば、宗春の治世の間では尾張藩では一人の死刑も行われなかったし、犯罪を処分する政策ではなく、犯罪を起こさない町作りを目指し、藩士による巡回をさせている。心中も、当時は死罪に値するものであったが、心中未遂者に夫婦として生活する許可を与えている。また、市ヶ谷にあった尾張藩上屋敷を江戸庶民に開放したりした。現代の日本政府の増税策に対して名古屋が減税策を打ち出したのは、一つの面白い現象だろう。歴史は繰り返すのかもしれない。
だが、幕府と朝廷側の争いもあったりして、朝廷と密接に関係していた尾張徳川家の宗春のこうした姿勢が質素倹約による緊縮財政政策を採る幕府の威信を揺らがせているという幕閣の批判が強くなったこともあり、幕府と朝廷の争いの中で宗春と尾張藩は政略的に板挟みとなる。それが宗春失脚につながったりして、尾張藩内部でも混乱が生じたりした。
本書は、その宗春が戸山の尾張藩下屋敷の広大な藩邸内に町屋を建設し、居ながらにして江戸の町が楽しめるような工夫を凝らしたことから、その藩邸内の町屋の責任を担わされた「うずら伝右衛門」を主人公にした物語である。
「うずら伝右衛門」は、戸山下屋敷内で飼われていた鶉(ウズラ)の小屋番であったためにこの名を宗春からつけられたものだが、その下屋敷内の町屋が消失する事件が起こり(この辺りがたぶん前作の物語なのだろうと推測される)、その町屋の再建のために御町屋庭園の責任者として御町見役を仰せつかっているのである。身分としては比較的軽いものではあるが、実は、藩主宗春の同腹(母親が同じ)の弟であり、宗春の信任も厚く、密命を帯びて宗春のために働く者でもあるという設定になている。
この「うずら伝右衛門」にぞっこん惚れているのが宗春の別式女の「百合」で、「百合」は別式女の頭で、屋敷内では家老と同等の力を与えられていた。別式女というのは、礼儀作法や武術に優れ、藩主や藩主家族の警護にあたり、剣術指導もした。大名家の家族が住む奥は男子禁制であるため武芸に優れた女性が必要とされ、外出の際などは男装していたといわれる。「百合」は、いわゆる男装の麗人といわれる美貌の持ち主で、剣の腕も優れているのである。
だからそれだけに武骨でもあり、「うずら伝右衛門」に対する恋心も見え見えで、直線的でほほえましくさえある。本書ではあまり登場しないが、もう一人の恋敵である女八卦見の「お幸」との恋の鞘当てもある。物語は、この「うずら伝右衛門」と「百合」が協力して、屋敷内外で起こる出来事に当たっていくという筋であり、第一話「不典にて候」は、藩邸内に駆け込んできた武士を匿うという武家の作法を逆手にとって「百合」に懸想して尾張藩邸にやってきた青年の素朴な心情を「うずら伝右衛門」が見抜いていくという話である。
第二話「小便組の女」は、旗本家の中間で、実は将軍徳川吉宗の御庭番でもある助十となのる折助賭博(旗本家の中間は奉行所の監視が届かない屋敷内で博打場を開いたりしていた)の親方の甚内の博打場で知り合った医者が、女を旗本の妾などに斡旋する仕事をしていることを知り、「うずら伝右衛門」がその医者の下で使われている女を助けていく話である。妾奉公をさせられる女性は、行った先で寝小便をし、それが嫌がられて帰させられることを繰り返し、医者はその斡旋手数料を稼いでいたのである。こういう女性は、いわゆる「小便組」といわれた女性で、ところが行った先の旗本に惚れ、その心情を何とかしたいという姉から「うずら伝右衛門」が相談を受け、姉に彼女の妹を縛りつけている医者と対決する方法を授けるのである。
たわいもないと言えばたわいもない話なのだが、徳川吉宗の御庭番である甚内と尾張徳川宗春に仕える「うずら伝右衛門」は、本来、仇敵なのだが、「うずら伝右衛門」の飾らない鷹揚さに、甚内はいつのまにか「うずら伝右衛門」に助力していくようになるというのが、主人公の人柄を伝えるものになっている。
第三話「川獺」は、江戸では必要だった井戸さらえや堀さらえ、川さらえの仕事に絡む事件で、尾張藩中屋敷にあった池での「川獺うわさ話」に決着をつける話で、第四話「はやり神始末」は、ひとりの男が水練中に事故死したことから、尾張徳川家三代藩主綱誠(つななり)の側室で四代藩主吉通を生んだ「お福の方」と呼ばれた本寿院の秘事が明らかになりそうになるのを防いでいく話である。
「お福の方」と呼ばれた本寿院は、性的奔放さが目にあまった女性で、寺詣と称しては若い僧侶を弄んだり、屋敷内で町人や役者などを呼び込んで乱交を繰り返し、相撲を見てはその汗の匂いがたまらずに屋敷内で相撲取りを囲ったり、医者に自分の秘所を見られればその医者と交わったりして、淫乱極まりない女性だったと言われている。真相は別にして、実際、あまりのことに幕閣でも噂となり、尾張徳川家は彼女の蟄居を命じているが、尾張徳川家の弱点で、その本寿院の秘事の証拠が幕府に知られると幕閣内で弱みを握られることから、「うずら伝右衛門」が密かにその秘事の証拠を探し出していくというものである。
本寿院は自分の欲望の達成のために金を湯水のように使ったが、本寿院の秘事の証拠は本寿院の宝だと思う人間も出てくる。それを宝として守ってきていたのは、茶商の靑山林屋という諸大名家の御用商人で、そこには歴代「猿者」と呼ばれる陰の忍者集団も仕えていた。「うずら伝右衛門」と「百合」はその「猿者」と戦い、鎖鎌を使う男とも戦い、その家に隠されていた本寿院の宝(秘事の証拠)を探し出していくのである。その宝というのが「張り形(男性器を形取った物)」とうのが笑わせる。「張り形」ひとつに何人もの人間の血が流されるのだが、上に立つ物の無思慮は下の者を苦しめる典型でもあるだろう。
第五話「次郎太刀の行方」も、上に立つ物の気ままさが下にいる者を苦しめる話で、こちらは、武芸を奨励し刀剣好きの徳川吉宗が、ふとしたことから関ヶ原の合戦で使われた大太刀の「次郎太刀」のことを聞き、それを見たいと願って調べたところ、尾張徳川家が所蔵していることがわかり、その謁見を願い出るのである。
ところが、あるはずの「次郎太刀」がない。盗まれていたのである。尾張徳川家では大騒ぎとなり、「うずら伝右衛門」が探し出していくというもので、大山詣と絡んで話が展開されている。
本書が描く「うずら伝右衛門」という主人公は、自由闊達でこだわりがなく、だからといって矜持ははずさず、ある面では宗春の自由さや柔軟性を表したような人物として描かれ、敵とも親しくなり、上に媚びず下に厚い人間で、「ウズラ」小屋でウズラの世話をし、まあ、なかなか面白い主人公であるし、美貌の女剣士「百合」のぐいぐい直線的に迫る恋心もそれなりに受けながら過ごしていくというもので、娯楽時代小説の主人公としては面白い人物だと思う。
個人的に徳川宗春という人間には少し関心があって、後の田沼意次の自由経済政策にも影響を与えたが、厳格な規則づくめの江戸武家の中で卓越した人物だっただろうとは思っているので、内容は別にしても、その尾張徳川家を舞台とした本書も好感を持って読んだかも知れない。徳川宗春に関心があるのは、好みというのではなく、経済・社会思想の点でではあるが。
今年もあと数日になり、やり残したことが山ほどあって、たぶん、茫然と懐手して過ぎ行く年を長めそうな気がする。
2011年12月27日火曜日
東郷隆『大江戸打壊し 御用盗銀次郎』
いよいよ今年も押し詰まってきたわけで、禍と混乱、悲しみの多かった年も終わろうとしている。過ぎ去る時は、もはや取り返すことができない無限の彼方に去る。こうして年々歳々が繰り返されていく。人はただ日々の暮らしの喜怒哀楽の中で生命の営みを続けるだけだが、その生命の営みが難しい。今年はつくづくそう思う。
十年後に切腹を命じられ、淡々と生きるひとりの男の姿を描いた葉室麟『蜩の記』を読んで見たいと思っているが、まだ手にしていない。彼の作品はわたしの琴線に触れてしまい、今年であった最高の作家だと思っている。しかも、『蜩の記』は、いまのわたしの心境にはぴったりのような気がしている。
そんな中で、いささかハードボイルド時代小説のような東郷隆『大江戸打壊し 御用盗銀次郎』(2006年 徳間書店)を読んだ。この作家について詳細は知らないが、ゲームソフトなどでよく聞く『信長の野望』の原作者のようで、わたしのような感性をもつ人間は、どちらかといえばあまり触手が動かない作家なのだが読んでみることにした。内容のほとんどは創作だろうが、ときおり司馬遼太郎的な記述の仕方もあり、こういう作風もありかな、と思いつつ読み進めた。
この作品はシリーズ物の一つであるが、シリーズの表題となっている「御用盗」というのは、幕末のころに混乱した江戸で市中を荒らし回った浪人たちのことで、薩摩藩による倒幕策のひとつとして強盗や喧嘩騒ぎを起こして江戸市中を混乱に陥れた薩摩浪士隊が結成されたりしている。西郷隆盛がそういう浪士隊を使ったとすれば、それは彼に似合わない姑息な手段だったと言える気がする。浪士隊は、商家を襲う打壊し運動も展開したようである。「御用盗」に関する歴史資料はほとんど残されていないが、薩摩浪士隊は、後に相良総三という人物が率いた「赤報隊」に繋がる。
「赤報隊」は、維新の際に薩長新政府の意を受けて、農村などの支持を得るために「年貢が半減される」ということを各地で触れ回ったが、新政府はそういう財力がどこにもなく、彼らが勝手にやったこととして偽官軍の汚名を着せ、絶滅させた。「赤報隊」の浪士たちは、尊皇攘夷と貧民救済を合わせたような思想集団であった。それはまさに「赤心」であったが、政治力も方策もなく、薩長の権力で握りつぶされてしまった哀れさが残る。幕末から明治維新にかけて、新撰組もそうだが、こういう人々が血を流し続けた。こういう人たちを見ると、権力に踊らされて、利用され、やがて捨てられる武士の哀れさをどこか感じるので、何ともやりきれない。
本書は、その御用盗として混乱する時代の中を生き抜いていく魁銀次郎という凄腕の侍を主人公にして、この銀次郎が江戸市中で起こった打壊しなどに関わっていく物語である。銀次郎は、いわゆる「人斬り」であり、江戸幕府が市中警護のために浪人や旗本の次男・三男を中心にして結成した新徴組(京都の新撰組とも繋がりがあった)にも関わり、やがて、庶民の一揆運動のような様相をもった打壊しや「ええじゃないか騒動」とも関係していく。その中で、「赤報隊」を指導した村上四郎左衛門と名乗っていた相良総三とも関わっていく姿が描き出されている。本書の物語の中心をなすのは、江戸市中での打壊し運動である。
ただ、これは前作『御用盗銀次郎』(2004年 徳間書店)があるので、そこから読んでいる人には違和感がないかも知れないが、本作だけを読むと、冒頭に、元新徴組隊士の片岡主水というなかなか腕の立つ浪人が登場し、彼と主人公の銀次郎の出会の話が記されているのだが、それ以後にはこの片岡主水が全く登場せずに、冒頭に出てくる片岡主水は何だったのか、という思いが残ってしまった。しかし、内容は無頼の人斬りとして生きていく魁銀次郎の姿と当時の攘夷浪士たちの倒幕運動の展開で、それなりの面白さはある。文章も、内容に合わせてあるのかも知れないが、どこか武骨で、当時の殺伐とした雰囲気が伝わるとはいえ、全体的にニヒルなハードボイルド的である。ただ、どちらかと言えば、今のわたしの心情には合わない気がしながら読み終えた。
「人斬り」は、土佐の岡田以蔵や薩摩の田中新兵衛、中村半次郎(後の桐野利秋)などもそうだが、どこかやるせなさが残る。このうち、桐野利秋だけが明治まで生き残ったが、西南戦争で戦死している。彼らは、ある意味で純朴だったのだが、それだけに力に利用される悲しみを背負っている。
本書の主人公魁銀次郎は、そういう哀しみよりも、むしろ、割り切って自由闊達に生きようとした姿がある人物として描き出され、その意味ではハードボイルド時代小説とでもいうべき作品になっている。
十年後に切腹を命じられ、淡々と生きるひとりの男の姿を描いた葉室麟『蜩の記』を読んで見たいと思っているが、まだ手にしていない。彼の作品はわたしの琴線に触れてしまい、今年であった最高の作家だと思っている。しかも、『蜩の記』は、いまのわたしの心境にはぴったりのような気がしている。
そんな中で、いささかハードボイルド時代小説のような東郷隆『大江戸打壊し 御用盗銀次郎』(2006年 徳間書店)を読んだ。この作家について詳細は知らないが、ゲームソフトなどでよく聞く『信長の野望』の原作者のようで、わたしのような感性をもつ人間は、どちらかといえばあまり触手が動かない作家なのだが読んでみることにした。内容のほとんどは創作だろうが、ときおり司馬遼太郎的な記述の仕方もあり、こういう作風もありかな、と思いつつ読み進めた。
この作品はシリーズ物の一つであるが、シリーズの表題となっている「御用盗」というのは、幕末のころに混乱した江戸で市中を荒らし回った浪人たちのことで、薩摩藩による倒幕策のひとつとして強盗や喧嘩騒ぎを起こして江戸市中を混乱に陥れた薩摩浪士隊が結成されたりしている。西郷隆盛がそういう浪士隊を使ったとすれば、それは彼に似合わない姑息な手段だったと言える気がする。浪士隊は、商家を襲う打壊し運動も展開したようである。「御用盗」に関する歴史資料はほとんど残されていないが、薩摩浪士隊は、後に相良総三という人物が率いた「赤報隊」に繋がる。
「赤報隊」は、維新の際に薩長新政府の意を受けて、農村などの支持を得るために「年貢が半減される」ということを各地で触れ回ったが、新政府はそういう財力がどこにもなく、彼らが勝手にやったこととして偽官軍の汚名を着せ、絶滅させた。「赤報隊」の浪士たちは、尊皇攘夷と貧民救済を合わせたような思想集団であった。それはまさに「赤心」であったが、政治力も方策もなく、薩長の権力で握りつぶされてしまった哀れさが残る。幕末から明治維新にかけて、新撰組もそうだが、こういう人々が血を流し続けた。こういう人たちを見ると、権力に踊らされて、利用され、やがて捨てられる武士の哀れさをどこか感じるので、何ともやりきれない。
本書は、その御用盗として混乱する時代の中を生き抜いていく魁銀次郎という凄腕の侍を主人公にして、この銀次郎が江戸市中で起こった打壊しなどに関わっていく物語である。銀次郎は、いわゆる「人斬り」であり、江戸幕府が市中警護のために浪人や旗本の次男・三男を中心にして結成した新徴組(京都の新撰組とも繋がりがあった)にも関わり、やがて、庶民の一揆運動のような様相をもった打壊しや「ええじゃないか騒動」とも関係していく。その中で、「赤報隊」を指導した村上四郎左衛門と名乗っていた相良総三とも関わっていく姿が描き出されている。本書の物語の中心をなすのは、江戸市中での打壊し運動である。
ただ、これは前作『御用盗銀次郎』(2004年 徳間書店)があるので、そこから読んでいる人には違和感がないかも知れないが、本作だけを読むと、冒頭に、元新徴組隊士の片岡主水というなかなか腕の立つ浪人が登場し、彼と主人公の銀次郎の出会の話が記されているのだが、それ以後にはこの片岡主水が全く登場せずに、冒頭に出てくる片岡主水は何だったのか、という思いが残ってしまった。しかし、内容は無頼の人斬りとして生きていく魁銀次郎の姿と当時の攘夷浪士たちの倒幕運動の展開で、それなりの面白さはある。文章も、内容に合わせてあるのかも知れないが、どこか武骨で、当時の殺伐とした雰囲気が伝わるとはいえ、全体的にニヒルなハードボイルド的である。ただ、どちらかと言えば、今のわたしの心情には合わない気がしながら読み終えた。
「人斬り」は、土佐の岡田以蔵や薩摩の田中新兵衛、中村半次郎(後の桐野利秋)などもそうだが、どこかやるせなさが残る。このうち、桐野利秋だけが明治まで生き残ったが、西南戦争で戦死している。彼らは、ある意味で純朴だったのだが、それだけに力に利用される悲しみを背負っている。
本書の主人公魁銀次郎は、そういう哀しみよりも、むしろ、割り切って自由闊達に生きようとした姿がある人物として描き出され、その意味ではハードボイルド時代小説とでもいうべき作品になっている。
2011年12月23日金曜日
高橋義夫『亡者の鐘 御隠居忍法』
寒波の襲来した冬らしい寒い曇り空が広がっている。昨日は冬至で、これから徐々に日中の時間が長くなっていくのだが、「地球は何もかも乗せて巡るなあ」と思ったりする。静かに時が流れていくのをぼんやり眺めていた。北朝鮮での指導者の死も、行き交う人たちも自分の「実存」にはかすかな意味しかもたらさないので、目くじらを立てて騒動することもなく、再び、ひたすら日常の自己満足に向かっていくのも悪くないと思っている。結局は、自分が満足できるかどうか、それが自己の関心事であってもよい。
そんなことを考えながら夜を過ごし、高橋義夫『亡者の鐘 御隠居忍法』(2006年 中央公論社)を気楽に読んだ。これは、このシリーズの五作品目の作品だが、一話完結の形で記されているので、前作を知らなくても気楽に読めるが、四作目の『御隠居忍法 唐船番』(2002年 実業之日本社)を以前に読んでいた。出版社が変わっているので表題の表記の仕方が変えてあるのだろう。
主人公は、鹿間狸斎という元公儀御庭番の伊賀者で、四十歳の声を聞くとさっさと家督を息子に譲り、隠居して、嫁いだ娘が住む奥州笹野藩(現:山形県米沢市)の五合枡村というところで暮らすようになった人物である。隠居といってもまだ四十歳代で、知力も気力もあり、伊賀者として身につけた探索力と手腕もある。彼が隠居すると同時に、彼の妻は彼の元を去ったが、五合枡村で「おすえ」という手伝いの女性との間に子どももできている。ある意味で羨ましい境遇ではある。
このシリーズは、その鹿間狸斎が関係する人々の事件や元の上司で御庭番を束ねる人物からの依頼などで、隠居の身とはいえ探索する事件に関わっていく話が展開されているのだが、本書では、彼が住む五合枡村の近くの天領であった小板橋郷の奥寺で住持学頭(寺の総責任者)が鐘つき堂の釣り鐘の下敷きになって死に、それ以来、その奥寺の時の鐘が「亡者の鐘」と呼ばれるようになったことから、その噂の真相と住持学頭の死の真相を探っていく話である。
奥寺の住持学頭の死についての探索のために幕府から靑山俊蔵という侍が遣わされることになり、鹿間狸斎に、狸斎の上司であった御庭番頭からの添書をつけての助力の依頼があったことから、狸斎が靑山俊蔵に同行して小板橋郷まで出かけていく所から始まるのである。
死んだ住持学頭の奥寺は、江戸の東叡山が直轄する寺で、東叡山寛永寺が徳川家の菩提寺であり、奥寺での事件は幕府にとっても大きな事件だったのである。派遣されてきた靑山俊蔵は、自分は算学侍だというが、どうも御庭番のひとりらしい。
その靑山俊蔵とともに狸斎は、医者で冬虫夏草を探しているという触れ込みで奥寺まで出かけ、奥寺の住持学頭が鐘の下敷きで死んだのではなく、殺されたことを見抜いていくが、奥寺の村民全部が彼らの探索の邪魔をし、命さえ狙おうとするのである。奥寺の住民全部が外からの介入を阻止しようとしているのである。
そんな中で探索に出た靑山俊蔵も崖から落とされて怪我をしたり、矢を射かけられたりするし、同行した岡っ引きの手下も怪我をしてしまう。だが、鹿間狸斎は探索を続け、この村が昔の「隠れ忍びの里」で、殺された住持学頭が江戸から奥寺の財政改革のためにやってきて、末寺の寺領を取り上げる策に出たために、末寺と村民たちが刺客を放って住持学頭を殺したことを突きとめていくのである。
全体を通してみれば、主人公の鹿間狸斎は、隠居とはいえまだ40代の若さであり、しかも公儀御庭番として鍛え抜かれた技量と知識があり、彼が関わる事件が、人の欲が絡んだ財政問題、あるいはお家騒動であったりするという展開は、まあ、いってみれば気慰めの娯楽小説としての面白さがある。
地方色の豊かさや村の閉鎖性などがよく表されている。村が閉鎖されているだけに人間関係が複雑にならざるを得ず、わたしのようなボヘミアン的志向の強い人間には、その人間関係に縛られている姿が不思議に思えたりする。嫌ならさっさと出て行き、そうして野垂れ死にしても良いと、今のわたしは思っている。物語の本筋とは無関係だが、本書の犯人のひとりが即身仏なる場面が描かれているが、若いころに野ざらしの中で餓死することを考えていたことを、ふと思い出したりした。
村を守る、あるいは国を守る、家を守るという意識の強烈さはよく知っているが、守るべきものはあまりないと思っているから、そういう意識が下敷きになっている人々に会うと、わたしも閉口してしまう。思想的なことをいえば、この物語は閉鎖性と開放性の戦いの物語のようなものだろう。
そんなことを考えながら夜を過ごし、高橋義夫『亡者の鐘 御隠居忍法』(2006年 中央公論社)を気楽に読んだ。これは、このシリーズの五作品目の作品だが、一話完結の形で記されているので、前作を知らなくても気楽に読めるが、四作目の『御隠居忍法 唐船番』(2002年 実業之日本社)を以前に読んでいた。出版社が変わっているので表題の表記の仕方が変えてあるのだろう。
主人公は、鹿間狸斎という元公儀御庭番の伊賀者で、四十歳の声を聞くとさっさと家督を息子に譲り、隠居して、嫁いだ娘が住む奥州笹野藩(現:山形県米沢市)の五合枡村というところで暮らすようになった人物である。隠居といってもまだ四十歳代で、知力も気力もあり、伊賀者として身につけた探索力と手腕もある。彼が隠居すると同時に、彼の妻は彼の元を去ったが、五合枡村で「おすえ」という手伝いの女性との間に子どももできている。ある意味で羨ましい境遇ではある。
このシリーズは、その鹿間狸斎が関係する人々の事件や元の上司で御庭番を束ねる人物からの依頼などで、隠居の身とはいえ探索する事件に関わっていく話が展開されているのだが、本書では、彼が住む五合枡村の近くの天領であった小板橋郷の奥寺で住持学頭(寺の総責任者)が鐘つき堂の釣り鐘の下敷きになって死に、それ以来、その奥寺の時の鐘が「亡者の鐘」と呼ばれるようになったことから、その噂の真相と住持学頭の死の真相を探っていく話である。
奥寺の住持学頭の死についての探索のために幕府から靑山俊蔵という侍が遣わされることになり、鹿間狸斎に、狸斎の上司であった御庭番頭からの添書をつけての助力の依頼があったことから、狸斎が靑山俊蔵に同行して小板橋郷まで出かけていく所から始まるのである。
死んだ住持学頭の奥寺は、江戸の東叡山が直轄する寺で、東叡山寛永寺が徳川家の菩提寺であり、奥寺での事件は幕府にとっても大きな事件だったのである。派遣されてきた靑山俊蔵は、自分は算学侍だというが、どうも御庭番のひとりらしい。
その靑山俊蔵とともに狸斎は、医者で冬虫夏草を探しているという触れ込みで奥寺まで出かけ、奥寺の住持学頭が鐘の下敷きで死んだのではなく、殺されたことを見抜いていくが、奥寺の村民全部が彼らの探索の邪魔をし、命さえ狙おうとするのである。奥寺の住民全部が外からの介入を阻止しようとしているのである。
そんな中で探索に出た靑山俊蔵も崖から落とされて怪我をしたり、矢を射かけられたりするし、同行した岡っ引きの手下も怪我をしてしまう。だが、鹿間狸斎は探索を続け、この村が昔の「隠れ忍びの里」で、殺された住持学頭が江戸から奥寺の財政改革のためにやってきて、末寺の寺領を取り上げる策に出たために、末寺と村民たちが刺客を放って住持学頭を殺したことを突きとめていくのである。
全体を通してみれば、主人公の鹿間狸斎は、隠居とはいえまだ40代の若さであり、しかも公儀御庭番として鍛え抜かれた技量と知識があり、彼が関わる事件が、人の欲が絡んだ財政問題、あるいはお家騒動であったりするという展開は、まあ、いってみれば気慰めの娯楽小説としての面白さがある。
地方色の豊かさや村の閉鎖性などがよく表されている。村が閉鎖されているだけに人間関係が複雑にならざるを得ず、わたしのようなボヘミアン的志向の強い人間には、その人間関係に縛られている姿が不思議に思えたりする。嫌ならさっさと出て行き、そうして野垂れ死にしても良いと、今のわたしは思っている。物語の本筋とは無関係だが、本書の犯人のひとりが即身仏なる場面が描かれているが、若いころに野ざらしの中で餓死することを考えていたことを、ふと思い出したりした。
村を守る、あるいは国を守る、家を守るという意識の強烈さはよく知っているが、守るべきものはあまりないと思っているから、そういう意識が下敷きになっている人々に会うと、わたしも閉口してしまう。思想的なことをいえば、この物語は閉鎖性と開放性の戦いの物語のようなものだろう。
2011年12月21日水曜日
宮部みゆき『おまえさん 上下』(2)
朝方は雲が覆った冬空が広がっていたが、今の時間になって雲が晴れ、陽がさしている。冬はこんなに寒かったかなと思うほどだが、たぶん、こちらの体調の具合にもよるのだろう寒さが堪える。
今年は、喪中欠礼の葉書がたくさん届き、「しがらみを捨てて、自分の意志を大切にして生きること」の大切さを改めて感じたりしている。少々自己中心的であっても、他者にも優しく「矩を越えなければ」それがいいのではないかと思ったりもする。「変えるべきものは変え、変えることができないものは受け入れ、変えるべきものと変えることができないものを見分けていく」そうして、自分が納得できればそれでいい。自己の範囲をどこまでとるかが問題だが、時間とお金は自己満足のために使おう。偽善はもういい。一休和尚や良寛さん、小林一茶などを思い起こしたりする。
そんなことを考えながら、昨夜、磁器のサラダボールを洗っていたら、不思議に真っ二つに割れてしまった。力を加えたわけでも何かに当てたわけでもなく、自然にパカリと割れた感じで、昔から器がこういう割れ方をするのは不吉のしるしといわれてきたことが頭をよぎり、大切なものが失われたのかも知れないと思ったりした。もちろん、現実には掌を切ったぐらいで何の変化もなかったのだが。
そんな一日が明けて、さて、宮部みゆき『おまえさん』の続きを記すことにした。事件は20年の歳月を経て起こったのである。20年前に犯した罪を背負いながら生きてきた大黒屋の主人と「瓶屋」の新兵衛、久助は、それぞれの人生を歩んでいく。しかし、新兵衛と久助が殺されて不安になった大黒屋の主人が、自らが犯した事件を井筒平四郎らに告白する。だが、事柄はそれだけではなく、「瓶屋」の隣で医家を開いていた医師が死に、まだ喪が明けないうちに医師の妻であった美貌の「佐多枝」が新兵衛の後妻になっていた。そのことで医師の死に疑念がもたれたのである。
新兵衛には、人形のように美しい「史乃」という娘がおり、新兵衛が美貌の「佐多枝」を後妻として迎えたころから、父親に対する疑念もあって親子関係がぎくしゃくしていた。「佐多枝」の夫である医師の死は、酒に酔って溝にはまった全くの事故死だったのだが、娘の「史乃」は、父親が「佐多枝」を自分のものにするために殺したと疑い続けていたのである。「史乃」は、20年前に父親が起こした殺人も知っていた。しかし、医師の死とと久助の死が結びつかないでいた。
こういう事態を打開するのは、やはり、天才弓之助である。弓之助の視点は、天才らしく素直である。弓之助は瓶屋新兵衛が室内で殺され、しかも家で争われた形跡もないことから、手引きをする者がいたに違いないと考え犯人を探り出していくのである。
そして、事故死した隣家の医師にいた男前の弟子が、医師の死と20年前の事件を関連づけ、いわば天誅を下すようなつもりで、久助と新兵衛を「史乃」と共同して殺し、夜鷹は捜査の目を欺くために殺したことを明白にしていくのである。「史乃」と若い男前の弟子は、美男美女で、互いに愛し合っていたのである。だが、井筒平四郎は若い医師の弟子は「佐多枝」に想いがあるのではないかと考えたりする。
同心の間島信之輔は、事件で知り合った「史乃」に惹かれ、恋心を抱き、探索の進展をついもらしてしまう。そして、手が回ったことを知った若い弟子と「史乃」は逃亡するのである。行くへはようとしてつかめなかった。間島信之輔の失敗を間島家にやっかいになっていた大叔父と呼ぶ本宮源右衛門がかぶり、信之輔は鬱々とした日々を過ごしていく。若い間島信之輔は、また、瓶屋に出いるするうちに「佐多枝」にも惹かれていく。
だが、しばらく経って、ふとしたことで犯人の若い弟子と「史乃」の隠れ家がわかり、「史乃」は捕縛されて、若い弟子は追い詰められて水死することで事件が決着するのである。
その間に、間島家を出た本宮源右衛門は、「お徳」の家の2階で学問所を開くことになったり、様々な人間模様が展開され、富くじが当たったばかりに身を滅ぼすことになってしまった男や、その周囲の人々の物語があったり、殺された夜鷹やその友人の話があったりして、実に多彩な展開がされている。ひとりひとりの人物には、ひとりひとりの人生と生活があり、それが描き出されているのだから、これだけの長編になるのもうなずける。「おでこ」の母親がなぜ「おでこ」を捨てたのか、その「おでこ」を気遣う政五郎とお紺の夫婦の姿など感動的であるし、井筒平四郎の物事に拘らないさっぱりとした大きな性格や細君のよさ、天才美少年弓之助の面白さなど、ふんだんに描き出される。登場人物たちに生きた人間の匂いがするのである。
本書で取り扱われる事件そのものは極めて単純である。それは、いってみれば、見栄えの良い美貌の青年にたぶらかされて、正義の仮面をかぶり、生家である生薬屋の乗っ取りが陰にあることも知らずに父親殺しをした娘の事件である。だが、それにまつわるひとりひとりの人間の人生と生活、心情が丁寧に、しかも軽妙な筆使いで展開されていくのである。宮部みゆきは、やはり、うまい作家だと思う。おそらく、今、一番うまい物語作家だろうと思う。これは、細部にわたってそのうまさが光る作品だった。
今年は、喪中欠礼の葉書がたくさん届き、「しがらみを捨てて、自分の意志を大切にして生きること」の大切さを改めて感じたりしている。少々自己中心的であっても、他者にも優しく「矩を越えなければ」それがいいのではないかと思ったりもする。「変えるべきものは変え、変えることができないものは受け入れ、変えるべきものと変えることができないものを見分けていく」そうして、自分が納得できればそれでいい。自己の範囲をどこまでとるかが問題だが、時間とお金は自己満足のために使おう。偽善はもういい。一休和尚や良寛さん、小林一茶などを思い起こしたりする。
そんなことを考えながら、昨夜、磁器のサラダボールを洗っていたら、不思議に真っ二つに割れてしまった。力を加えたわけでも何かに当てたわけでもなく、自然にパカリと割れた感じで、昔から器がこういう割れ方をするのは不吉のしるしといわれてきたことが頭をよぎり、大切なものが失われたのかも知れないと思ったりした。もちろん、現実には掌を切ったぐらいで何の変化もなかったのだが。
そんな一日が明けて、さて、宮部みゆき『おまえさん』の続きを記すことにした。事件は20年の歳月を経て起こったのである。20年前に犯した罪を背負いながら生きてきた大黒屋の主人と「瓶屋」の新兵衛、久助は、それぞれの人生を歩んでいく。しかし、新兵衛と久助が殺されて不安になった大黒屋の主人が、自らが犯した事件を井筒平四郎らに告白する。だが、事柄はそれだけではなく、「瓶屋」の隣で医家を開いていた医師が死に、まだ喪が明けないうちに医師の妻であった美貌の「佐多枝」が新兵衛の後妻になっていた。そのことで医師の死に疑念がもたれたのである。
新兵衛には、人形のように美しい「史乃」という娘がおり、新兵衛が美貌の「佐多枝」を後妻として迎えたころから、父親に対する疑念もあって親子関係がぎくしゃくしていた。「佐多枝」の夫である医師の死は、酒に酔って溝にはまった全くの事故死だったのだが、娘の「史乃」は、父親が「佐多枝」を自分のものにするために殺したと疑い続けていたのである。「史乃」は、20年前に父親が起こした殺人も知っていた。しかし、医師の死とと久助の死が結びつかないでいた。
こういう事態を打開するのは、やはり、天才弓之助である。弓之助の視点は、天才らしく素直である。弓之助は瓶屋新兵衛が室内で殺され、しかも家で争われた形跡もないことから、手引きをする者がいたに違いないと考え犯人を探り出していくのである。
そして、事故死した隣家の医師にいた男前の弟子が、医師の死と20年前の事件を関連づけ、いわば天誅を下すようなつもりで、久助と新兵衛を「史乃」と共同して殺し、夜鷹は捜査の目を欺くために殺したことを明白にしていくのである。「史乃」と若い男前の弟子は、美男美女で、互いに愛し合っていたのである。だが、井筒平四郎は若い医師の弟子は「佐多枝」に想いがあるのではないかと考えたりする。
同心の間島信之輔は、事件で知り合った「史乃」に惹かれ、恋心を抱き、探索の進展をついもらしてしまう。そして、手が回ったことを知った若い弟子と「史乃」は逃亡するのである。行くへはようとしてつかめなかった。間島信之輔の失敗を間島家にやっかいになっていた大叔父と呼ぶ本宮源右衛門がかぶり、信之輔は鬱々とした日々を過ごしていく。若い間島信之輔は、また、瓶屋に出いるするうちに「佐多枝」にも惹かれていく。
だが、しばらく経って、ふとしたことで犯人の若い弟子と「史乃」の隠れ家がわかり、「史乃」は捕縛されて、若い弟子は追い詰められて水死することで事件が決着するのである。
その間に、間島家を出た本宮源右衛門は、「お徳」の家の2階で学問所を開くことになったり、様々な人間模様が展開され、富くじが当たったばかりに身を滅ぼすことになってしまった男や、その周囲の人々の物語があったり、殺された夜鷹やその友人の話があったりして、実に多彩な展開がされている。ひとりひとりの人物には、ひとりひとりの人生と生活があり、それが描き出されているのだから、これだけの長編になるのもうなずける。「おでこ」の母親がなぜ「おでこ」を捨てたのか、その「おでこ」を気遣う政五郎とお紺の夫婦の姿など感動的であるし、井筒平四郎の物事に拘らないさっぱりとした大きな性格や細君のよさ、天才美少年弓之助の面白さなど、ふんだんに描き出される。登場人物たちに生きた人間の匂いがするのである。
本書で取り扱われる事件そのものは極めて単純である。それは、いってみれば、見栄えの良い美貌の青年にたぶらかされて、正義の仮面をかぶり、生家である生薬屋の乗っ取りが陰にあることも知らずに父親殺しをした娘の事件である。だが、それにまつわるひとりひとりの人間の人生と生活、心情が丁寧に、しかも軽妙な筆使いで展開されていくのである。宮部みゆきは、やはり、うまい作家だと思う。おそらく、今、一番うまい物語作家だろうと思う。これは、細部にわたってそのうまさが光る作品だった。
2011年12月19日月曜日
宮部みゆき『おまえさん 上下』(1)
クリスマス前の一週間となり、年も押し詰まって慌ただしくなっているのだが、だいたい毎年、今頃は気分も呆けたようになっている。年明け早々に締めきりのある原稿にも手をつけずに、いっさいを横に置いてぼんやりと日々を過ごしている。これではいけないと朝から掃除をはじめ、カーテンを洗濯し、寝具を変えたりしていた。
ようやく一段落つき、宮部みゆき『おまえさん 上・下』(2011年 講談社文庫)を楽しみながら読んでいたので記しておくことにする。これは『ぼんくら』(2000年 講談社)、『日暮らし』(2005年 講談社)に続く作品で、どちらかといえばミステリーやSF物よりも時代小説の方がいい作品だと思っている宮部みゆきの久々のまとまった時代小説だから、発売されるとすぐに購入していた。作者の時代小説の最高作品は『孤宿の人』だと思うが、『ぼんくら』、『日暮らし』、『おまえさん』のシリーズの発行年がほぼ5年ごとで、まず、作者の思考力の持続性に脱帽する。しかも、本質的に物語作家であり長編作家である作者の書き下ろす分量は、本書でもかなり厚い上下二巻本で、執筆するエネルギー量にも驚嘆する。長編になる理由は作者の人間観をよく表していると思う。
宮部みゆきの文章や感性も非常に優れているが、この連続した三作品は、何と言っても登場人物がユニークである。
中心となっているのは奉行所臨時廻りの同心である井筒平四郎で、物覚えも悪く、細かなことは考えたくもなく、できるだけ働きたくないと思っているほどの茫洋とした人物だが、内実は、人を罪に定めることが嫌いで、鷹揚で懐が深く、情け深い人物なのである。実際は、繊細な感性と明察力をもっているが、それを決して表に出さないだけである。だから、かなりいいかげんな人間に映る。容貌も風采が上がらず、細い目に頬がこけて顎が長く、無精ひげがぼそぼそと生え、ひょろりとした体格をしている。剣の腕もからっきし駄目で、すぐに腰が引け、ぎっくり腰の持病もあって体力もない。こういう人物が作中の中心人物なのだから、展開が面白くないわけがない。
彼は仕事をしたくないので、ふとした事件で知り合った煮売り屋の「お徳」が営む「おとく屋」に入り浸っている。「お徳」との出会は『ぼんくら』で詳しく述べられている。その「お徳」もまた人情家で、気っぷのいい女性だが、しっかり者であり、井筒平四郎の本当の良さをよく知っている人物である。彼女は平四郎が自分の店でごろごろするのを喜んでいるのである。
彼の細君は、彼とは反対に絶世の美貌の持ち主で、明るく機知に富んでおり、手習い所の師匠をするほどの女性である。二人には子どもがない。その細君の姉が藍玉屋に嫁いでもうけた12歳になる四男の弓之助を養子にしたいと思っている。本書では、その細君の機知ぶりが光り、平四郎が恐れ入る場面も描かれている。
平四郎が可愛がり、養子にしたいと思っている藍玉屋の四男である少年弓之助は、誰もが虜になるほどの完璧な美貌の持ち主で、その美貌故に女難に遭うのではないかと思われるほどの少年であるが、それ以上に天才的な頭脳の持ち主である。天が二物も三物もを与えた少年である。自らも学問に精進し、家でもよく働くしっかり者であるが、好奇心旺盛で、物の道理を見極めたいと思っている。そのため少し風変わりな言動もとったりするが、人々の信任も厚い。ただ、おねしょ癖が治らない少年でもある。そして、叔父である平四郎を助け、難解な事件も筋道を立てて解決することができる才能の持ち主である。平四郎と並んで物語の主人公でもあり、その成長ぶりが巧みな筆致で描き出されていく。
平四郎の人物を見抜き、彼の人柄に惚れて、彼のために働く岡っ引きの政五郎は町の人からも信頼の厚い人情家で、機転が利き、「お紺」という妻があり、その「お紺」も人情家で蕎麦屋を営んでいる。そして、その政五郎とお紺の夫婦が引き取って育て、可愛がっているのが「おでこ」と呼ばれる三太郎で、「おでこ」は、すべての事柄を正しく記憶することができる特異な才能の持ち主なのである。「おでこ」と弓之助は深い友人となって、名コンビを作っている。
「おでこ」の父親は人を殺して牢屋で死に、「おでこ」は「鈍くて他の兄弟の足を引っ張る」という理由で母親からも捨てられたのである。その「おでこ」を周囲の人々は温かく信頼をもって育てている。母親が「おでこ」を捨てたのは事情があったことが本書で明らかにされていくが、どう考えても、「おでこ」の母親の「おきえ」は身勝手な哀れな女性でもある。
その他の周辺人物たちも、平四郎の家に仕える小物である小平次やおかまの髪結いである浅次郎、「お徳」の店で働く二人の少女、政五郎の手下たち、あるいはいくつかの事件に関わり合いのあった人物たちも、それぞれ個性豊かに描き出されて、物語の人間模様が描かれている。
本書では、それらの人物に加えて、新しく同心になった間島信之輔や、彼が大叔父と呼ぶ風変わりな本宮源右衛門という老人が登場し、物語はこの間島信之輔を巡っても展開される。
間島信之輔は若い同心で、十手術をはじめとする腕も立ち、人柄もよく、見所のある立派な青年であり、平四郎に学ぶことが多いと尊敬しているが、醜男で、平四郎はそれをしきりに残念がったりする。そして、この間島信之輔が抱く恋心が思わぬ方向に発展していったりするのである。
本宮源右衛門という老人は、冷飯食いの境遇で親戚中を盥回しにされ、間島家でやっかいになっているのだが、見聞が広く、学問もある老人で、事件の核心を見抜く力もあり、やがては天才少年である弓之助や「おでこ」が師と仰いでいくようになってくのである。
また、本書ではじめて弓之助の兄弟が登場し、長兄の結婚話や三男である淳三郎という気のいいお気楽な青年も登場し、この淳三郎の活躍が記されたりしている。
こういう多彩な人物たちの中で、本書で中心となっている事件は、「お徳」の家の近くの橋の上で一人の風采の上がらない男が斬り殺され、ついで同じ手口で「瓶屋」という薬屋の主人が殺され、また、夜鷹が殺されるという事件である。これらの手口が同じだと見抜いたのは間島信之輔の大叔父の本宮源右衛門で、井筒平四郎、間島信之輔、そして岡っ引きの政五郎が、それらの事件の探索を開始するのである。
最初の二つの事件の関連がなく、橋の上で殺された男の身元がなかなかわからなかったし、次に殺された「瓶屋」の主人との関連もない。「瓶屋」の主人が殺された理由もわからない。だが、殺された人の姿がいつまでも橋の上に残っていたことから、なにかの薬を飲んでいて血が固まってしまったことを本宮源右衛門と弓之助が気づき、それが、かつて「ざく」と呼ばれる調剤師だったことがわかっていくのである。そして、次に殺された「瓶屋」という薬屋の主人との関係が次第に明らかになるのである。それは、20年前に、大黒屋という生薬屋で、橋の上で殺された男と「瓶屋」の主人が、同じように「ざく(調剤師)」として働いていたことであった。
この二人が殺された理由が20年前に遡って調べられていく。20年前、今の大黒屋の主人である藤右衛門と瓶屋の新兵衛、そして橋の上で殺された久助は、共に大黒屋の奉公人で、その店にいた傲慢な「ざく(調剤師)」に怒り、また彼が新しい薬を作り出したことを知り、彼を湯屋で殺してしまっていたのである。「瓶屋」新兵衛は、その薬を使って独立したいと思っていた。そして、殺された「ざく」が新しく作ったかゆみ止めの薬が「瓶屋」で売り出されて評判を取っていた。今度の事件はその意趣返しではないかと思われたのである。
そこで、湯屋で殺された「ざく」の係累が探し出されていくが、そこに同じ手口で夜鷹が殺され、また、殺された「ざく」が女房にしたいと思っていた女とその腹に宿っていた子どもも死んでいることがわかり、事件は再び謎に包まれていくのである。
だが、この袋小路に陥ってしまった事件の謎を弓之助が見事に解き明かす。そして、物語は新たな展開へと進んで行く。この辺りのことからは、今日は、少し、しなければならないことが残っているから、また次に書くことにしたい。
ようやく一段落つき、宮部みゆき『おまえさん 上・下』(2011年 講談社文庫)を楽しみながら読んでいたので記しておくことにする。これは『ぼんくら』(2000年 講談社)、『日暮らし』(2005年 講談社)に続く作品で、どちらかといえばミステリーやSF物よりも時代小説の方がいい作品だと思っている宮部みゆきの久々のまとまった時代小説だから、発売されるとすぐに購入していた。作者の時代小説の最高作品は『孤宿の人』だと思うが、『ぼんくら』、『日暮らし』、『おまえさん』のシリーズの発行年がほぼ5年ごとで、まず、作者の思考力の持続性に脱帽する。しかも、本質的に物語作家であり長編作家である作者の書き下ろす分量は、本書でもかなり厚い上下二巻本で、執筆するエネルギー量にも驚嘆する。長編になる理由は作者の人間観をよく表していると思う。
宮部みゆきの文章や感性も非常に優れているが、この連続した三作品は、何と言っても登場人物がユニークである。
中心となっているのは奉行所臨時廻りの同心である井筒平四郎で、物覚えも悪く、細かなことは考えたくもなく、できるだけ働きたくないと思っているほどの茫洋とした人物だが、内実は、人を罪に定めることが嫌いで、鷹揚で懐が深く、情け深い人物なのである。実際は、繊細な感性と明察力をもっているが、それを決して表に出さないだけである。だから、かなりいいかげんな人間に映る。容貌も風采が上がらず、細い目に頬がこけて顎が長く、無精ひげがぼそぼそと生え、ひょろりとした体格をしている。剣の腕もからっきし駄目で、すぐに腰が引け、ぎっくり腰の持病もあって体力もない。こういう人物が作中の中心人物なのだから、展開が面白くないわけがない。
彼は仕事をしたくないので、ふとした事件で知り合った煮売り屋の「お徳」が営む「おとく屋」に入り浸っている。「お徳」との出会は『ぼんくら』で詳しく述べられている。その「お徳」もまた人情家で、気っぷのいい女性だが、しっかり者であり、井筒平四郎の本当の良さをよく知っている人物である。彼女は平四郎が自分の店でごろごろするのを喜んでいるのである。
彼の細君は、彼とは反対に絶世の美貌の持ち主で、明るく機知に富んでおり、手習い所の師匠をするほどの女性である。二人には子どもがない。その細君の姉が藍玉屋に嫁いでもうけた12歳になる四男の弓之助を養子にしたいと思っている。本書では、その細君の機知ぶりが光り、平四郎が恐れ入る場面も描かれている。
平四郎が可愛がり、養子にしたいと思っている藍玉屋の四男である少年弓之助は、誰もが虜になるほどの完璧な美貌の持ち主で、その美貌故に女難に遭うのではないかと思われるほどの少年であるが、それ以上に天才的な頭脳の持ち主である。天が二物も三物もを与えた少年である。自らも学問に精進し、家でもよく働くしっかり者であるが、好奇心旺盛で、物の道理を見極めたいと思っている。そのため少し風変わりな言動もとったりするが、人々の信任も厚い。ただ、おねしょ癖が治らない少年でもある。そして、叔父である平四郎を助け、難解な事件も筋道を立てて解決することができる才能の持ち主である。平四郎と並んで物語の主人公でもあり、その成長ぶりが巧みな筆致で描き出されていく。
平四郎の人物を見抜き、彼の人柄に惚れて、彼のために働く岡っ引きの政五郎は町の人からも信頼の厚い人情家で、機転が利き、「お紺」という妻があり、その「お紺」も人情家で蕎麦屋を営んでいる。そして、その政五郎とお紺の夫婦が引き取って育て、可愛がっているのが「おでこ」と呼ばれる三太郎で、「おでこ」は、すべての事柄を正しく記憶することができる特異な才能の持ち主なのである。「おでこ」と弓之助は深い友人となって、名コンビを作っている。
「おでこ」の父親は人を殺して牢屋で死に、「おでこ」は「鈍くて他の兄弟の足を引っ張る」という理由で母親からも捨てられたのである。その「おでこ」を周囲の人々は温かく信頼をもって育てている。母親が「おでこ」を捨てたのは事情があったことが本書で明らかにされていくが、どう考えても、「おでこ」の母親の「おきえ」は身勝手な哀れな女性でもある。
その他の周辺人物たちも、平四郎の家に仕える小物である小平次やおかまの髪結いである浅次郎、「お徳」の店で働く二人の少女、政五郎の手下たち、あるいはいくつかの事件に関わり合いのあった人物たちも、それぞれ個性豊かに描き出されて、物語の人間模様が描かれている。
本書では、それらの人物に加えて、新しく同心になった間島信之輔や、彼が大叔父と呼ぶ風変わりな本宮源右衛門という老人が登場し、物語はこの間島信之輔を巡っても展開される。
間島信之輔は若い同心で、十手術をはじめとする腕も立ち、人柄もよく、見所のある立派な青年であり、平四郎に学ぶことが多いと尊敬しているが、醜男で、平四郎はそれをしきりに残念がったりする。そして、この間島信之輔が抱く恋心が思わぬ方向に発展していったりするのである。
本宮源右衛門という老人は、冷飯食いの境遇で親戚中を盥回しにされ、間島家でやっかいになっているのだが、見聞が広く、学問もある老人で、事件の核心を見抜く力もあり、やがては天才少年である弓之助や「おでこ」が師と仰いでいくようになってくのである。
また、本書ではじめて弓之助の兄弟が登場し、長兄の結婚話や三男である淳三郎という気のいいお気楽な青年も登場し、この淳三郎の活躍が記されたりしている。
こういう多彩な人物たちの中で、本書で中心となっている事件は、「お徳」の家の近くの橋の上で一人の風采の上がらない男が斬り殺され、ついで同じ手口で「瓶屋」という薬屋の主人が殺され、また、夜鷹が殺されるという事件である。これらの手口が同じだと見抜いたのは間島信之輔の大叔父の本宮源右衛門で、井筒平四郎、間島信之輔、そして岡っ引きの政五郎が、それらの事件の探索を開始するのである。
最初の二つの事件の関連がなく、橋の上で殺された男の身元がなかなかわからなかったし、次に殺された「瓶屋」の主人との関連もない。「瓶屋」の主人が殺された理由もわからない。だが、殺された人の姿がいつまでも橋の上に残っていたことから、なにかの薬を飲んでいて血が固まってしまったことを本宮源右衛門と弓之助が気づき、それが、かつて「ざく」と呼ばれる調剤師だったことがわかっていくのである。そして、次に殺された「瓶屋」という薬屋の主人との関係が次第に明らかになるのである。それは、20年前に、大黒屋という生薬屋で、橋の上で殺された男と「瓶屋」の主人が、同じように「ざく(調剤師)」として働いていたことであった。
この二人が殺された理由が20年前に遡って調べられていく。20年前、今の大黒屋の主人である藤右衛門と瓶屋の新兵衛、そして橋の上で殺された久助は、共に大黒屋の奉公人で、その店にいた傲慢な「ざく(調剤師)」に怒り、また彼が新しい薬を作り出したことを知り、彼を湯屋で殺してしまっていたのである。「瓶屋」新兵衛は、その薬を使って独立したいと思っていた。そして、殺された「ざく」が新しく作ったかゆみ止めの薬が「瓶屋」で売り出されて評判を取っていた。今度の事件はその意趣返しではないかと思われたのである。
そこで、湯屋で殺された「ざく」の係累が探し出されていくが、そこに同じ手口で夜鷹が殺され、また、殺された「ざく」が女房にしたいと思っていた女とその腹に宿っていた子どもも死んでいることがわかり、事件は再び謎に包まれていくのである。
だが、この袋小路に陥ってしまった事件の謎を弓之助が見事に解き明かす。そして、物語は新たな展開へと進んで行く。この辺りのことからは、今日は、少し、しなければならないことが残っているから、また次に書くことにしたい。
2011年12月16日金曜日
松井今朝子『西南の嵐 銀座開花おもかげ草紙』
天気が猫の目のように変わって、昨日はどんよりと曇って寒かったが、今朝はよく晴れている。ただ、気温は低く、セーターを引っ張り出して着込んだりした。最近は、寒さに負けて出かける時に車を使うことが多くなっていたのだが、今朝、体力の衰えを感じて、今日は少し歩いてみようと思ったりする。
先日、松井今朝子『西南の嵐 銀座開花おもかげ草紙』(2010年 新潮社)を面白く読んでいたので記しておく。この書物を手にとって、これがすぐに『銀座開花事件帖』(2005年 新潮社)の続編だと気づいた。前作の出版が2005年で、これが2010年だから、5年もの月日があるので、その間にもこのシリーズで何か書かれているかも知れないが、どうもこれが続編のような気がする。前作である『銀座開花事件帖』を読んだのがいつか調べてみると、2010年9月21日で、わたし自身も一年以上たってから続編を読んだことになるのだが、明治初期の銀座を舞台にして、新しい世の中と古い世の中が混在する極めて混乱した時代に生きた人々を描いた作品だったのでよく覚えていた。
前作から引き続いて登場して来る人物は、大垣藩主戸田家の四男として生まれ、明治4年(1871年)に岩倉具視らの外交使節団に同行し、帰国後、洗礼を受けてクリスチャンとなり、銀座に原胤昭と共にキリスト教書店「十時屋」を設立したり、キリスト教会を設立したりして、民権運動でも活躍し、日本最初の政治小説である『民権講義情海波瀾』を書いた戸田欽堂(1850-1890年)や、元南町奉行所与力で、維新後クリスチャンとなって戸田欽堂(三郎四郎氏益)と共に「十時屋書店」を開き、民権運動に関わったりして、後に(明治16年)新聞条例違反で投獄された経験から日本初の教誨師となった原胤昭(1853-1942)などが、実に巧みに、それも物語の中心を為す人物として描かれている。「十時屋書店」は現在の教文館であり、原胤昭が設立した原女学校は女子学院である。教文館には時々出かけるし、女子学院も先生や生徒と出会う機会がよくある。
本書では戸田欽堂は、大名の子息らしくどこか育ちのよい器の大きな人物として描かれているし、原胤昭は西洋の新風を身につけた利発さをもちながらも、元町奉行所与力らしい毅然として生きる人物として描かれている。
だが、本書の主人公はこれらの人々ではなく、元旗本の次男で、上野戦争で薩摩藩士の残虐非道の仕打ちを見てこの藩士と争い、維新後、人を殺すことを快感と思うような残虐な薩摩藩士が明治政府の高官となったために銀座裏に身を隠しながら、薩摩藩士に殺された人々の恨みと、あのような人間は将来的に悪しか行わないことからその男を誅したいと思っている久保田宗八郎である。
旧来の文化や精神性と新しい明治の世の姿がぶつかり合う銀座で、侍としての矜持と新しい精神性を求める気持ちが主人公の中にあって、時代の激流の中で自分の生き方を探り出していこうとする姿が描かれていくのである。
上野戦争の時の薩摩の官軍隊長であった石谷蕃隆の残虐非道ぶりを偶然に目撃して、見るに見かねて彼と対決して峰打ちで斬り、命を取らなかったことが仇となって、維新後、政府高官になった石谷蕃隆に狙われるようになり、自分の親族や母親代わりに育ててくれた女性を殺され、なんとかその仇を討ちたいと思っていた久保田宗八郎は、戸田家の若様が作った銀座裏の赤煉瓦の借家に身を寄せながら、石谷蕃隆に近づく道を探し、無為徒食の日々を送っていた。前作では、その借家に住まう過程やそこで起こったいくつかの事件に関係して事件の解決に奔走する姿が描かれていたが、本作ではその借家に出入りしていた人々のその後の顛末が、1877年(明治10年)の西南戦争と絡んで展開されていく。
1876年(明治9年)に、明治政府は秩禄処分(武家の禄-給金-の廃止)や廃刀令を出し、それによって武家の生活は急激に瓦解していったが、そのことに不満を持ち、攘夷勤王の思想を強く引きずっていた熊本の肥後藩士たちが「敬神党」と呼ばれる集団を作り、大挙して反乱を起こした通称「神風連の乱」と呼ばれる反乱が起こった。これに引き続いて福岡で「秋月の乱」が起こり、山口の萩で前原一誠が挙兵し、やがてこれが西郷隆盛を担ぎ出した西南戦争へと繋がっていくが、本書はその明治10年の一連の事件を背景としており、まず、「神風連の乱」の生き残りである加瀬久磨次という青年を久保田宗八郎が銀座裏の煉瓦棟で一時預かりの形で匿っているところから始まるのである。
加瀬久磨次は、頑なに西洋風の生活を拒み、部屋の中で蟄居同様に生活していたが、窓の外を通る若い女性に岡惚れし、この女性が男に連れ去れれるのを目撃して家を飛び出し、ついには官憲に捕まってしまうのであるが、女性には女性の事情があり、彼女はただ母親との貧しい生活を支えるために酌婦になるだけだったのである。一本気な加瀬久磨次の古い体質の武家としての直情的な姿と、生きるための手管を使う女性、そういう姿が描かれていくのである。大体において、男は状況の中で死んでいくが、どんな世の中になっても女は生き残るような力がある。したたかさを生来的にもっているのだと思う。
それはともかく、やがて西南戦争が勃発する。銀座裏の煉瓦棟の住人であり、戸田や久保田とも親交があった純朴な市来巡査も所属する警視庁の命令で西南戦争に駆り出されるし、久保田宗八郎が仇と狙う残虐な石谷蕃隆も九州へ向けて出発する。久保田宗八郎に惚れて一緒に生活していた古い江戸の気っぷの良さをもつ髪結いをしている比呂(ひろ)が助けていた旧旗本の子女の夫も、生活のために官軍の輜重(弾薬や食糧を運ぶ役)として西南戦争に行く。戦地は熊本である。
そして、田原坂の激戦の最中に、市来巡査は殺されかけるところを石谷蕃隆に助けられ、その石谷蕃隆が右足を打たれたところを彼が助け、その蕃隆を荷車で引いて野戦病院となっていた寺まで運んだのが、比呂が髪結いとして助けていた旗本の子女の夫であるという運命の巡り合わせが起こるのである。旗本の子女の夫は西南戦争で命を落とす。
熊本にいたころ、西南戦争の激戦地であった田原坂は毎日のように通った。少し山の中に入れば、その痕跡は今も生々しく残っているが、そこを通る度に「分け入っても 分け入っても 青い山」という山頭火の言葉が浮かんでいたのを思い出す。
その田原坂で市来巡査が助けた石谷蕃隆が友人である久保田宗八郎の仇敵であることを知りつつも、市来巡査は片足を失った石谷蕃隆を介護する役が命じられ、帰京する。そして、銀座に帰り着いたときに、久保田宗八郎と出会い、久保田宗八郎は石谷蕃隆と対決する。だが、石谷蕃隆が既に片足を失っていることで、彼は刀を収めていくのである。
そうしているうちに、久保田宗八郎に惚れて、彼の世話をしていた比呂が癌に冒されていることがわかり、次第に比呂は痩せ衰えていって宗八郎のことを想いながら死んでいく。比呂は、医者の娘であり、原胤昭や戸田欽堂とも親交をもってクリスチャンでもあった闊達な娘であった鵜殿綾が久保田宗八郎に惚れていることを知っており、彼女に跡を託していくのである。比呂の宗八郎を想う愛情の深さは涙を誘うものがある。比呂は、以前は品川の遊女であったが、しゃきしゃきの江戸っ子気質をもつさっぱりとした女性で、髪結いをしながら宗八郎を支えてきたのである。その支えを宗八郎は失う。
それは、宗八郎にとって一つの終焉であった。だが、久保田宗八郎は、比呂を失い、仇と思っていた石谷蕃隆との決着も自ら刀を引くことで終え、それらを胸に納めながら、かつて比呂と一緒に渡りたかった品川の海を眺め、いつかはこの海を渡れそうな気がしていくのである。時が新しい時を刻みはじめ、その流れ来ては去っていく時を眺め、再び歩み出していくのである。
明治10年(1877年)は、ようやく旧体制が終わりを告げる年でもあった。だが、新しい夜明けはまだ来ずに、混沌とした状態が続き、人の暮らしは逼迫し、人心も荒れていた。だが、始まったのだから、人はその中を歩んでいく以外の道はない。西郷隆盛のように、それが愚かなことであると重々承知してもその道を行かなければならない時でもあった。そういう中で生きるひとりの人間、それがこの書で描かれているような気がする。読了後、たぶん、主人公の久保田宗八郎のような人間が、時代に翻弄されることなく自らを貫いて生きていく人間になっていくのだろうというような、漠とした感想をもった。前作もそうだったが、本作も味のある作品だと思う。
先日、松井今朝子『西南の嵐 銀座開花おもかげ草紙』(2010年 新潮社)を面白く読んでいたので記しておく。この書物を手にとって、これがすぐに『銀座開花事件帖』(2005年 新潮社)の続編だと気づいた。前作の出版が2005年で、これが2010年だから、5年もの月日があるので、その間にもこのシリーズで何か書かれているかも知れないが、どうもこれが続編のような気がする。前作である『銀座開花事件帖』を読んだのがいつか調べてみると、2010年9月21日で、わたし自身も一年以上たってから続編を読んだことになるのだが、明治初期の銀座を舞台にして、新しい世の中と古い世の中が混在する極めて混乱した時代に生きた人々を描いた作品だったのでよく覚えていた。
前作から引き続いて登場して来る人物は、大垣藩主戸田家の四男として生まれ、明治4年(1871年)に岩倉具視らの外交使節団に同行し、帰国後、洗礼を受けてクリスチャンとなり、銀座に原胤昭と共にキリスト教書店「十時屋」を設立したり、キリスト教会を設立したりして、民権運動でも活躍し、日本最初の政治小説である『民権講義情海波瀾』を書いた戸田欽堂(1850-1890年)や、元南町奉行所与力で、維新後クリスチャンとなって戸田欽堂(三郎四郎氏益)と共に「十時屋書店」を開き、民権運動に関わったりして、後に(明治16年)新聞条例違反で投獄された経験から日本初の教誨師となった原胤昭(1853-1942)などが、実に巧みに、それも物語の中心を為す人物として描かれている。「十時屋書店」は現在の教文館であり、原胤昭が設立した原女学校は女子学院である。教文館には時々出かけるし、女子学院も先生や生徒と出会う機会がよくある。
本書では戸田欽堂は、大名の子息らしくどこか育ちのよい器の大きな人物として描かれているし、原胤昭は西洋の新風を身につけた利発さをもちながらも、元町奉行所与力らしい毅然として生きる人物として描かれている。
だが、本書の主人公はこれらの人々ではなく、元旗本の次男で、上野戦争で薩摩藩士の残虐非道の仕打ちを見てこの藩士と争い、維新後、人を殺すことを快感と思うような残虐な薩摩藩士が明治政府の高官となったために銀座裏に身を隠しながら、薩摩藩士に殺された人々の恨みと、あのような人間は将来的に悪しか行わないことからその男を誅したいと思っている久保田宗八郎である。
旧来の文化や精神性と新しい明治の世の姿がぶつかり合う銀座で、侍としての矜持と新しい精神性を求める気持ちが主人公の中にあって、時代の激流の中で自分の生き方を探り出していこうとする姿が描かれていくのである。
上野戦争の時の薩摩の官軍隊長であった石谷蕃隆の残虐非道ぶりを偶然に目撃して、見るに見かねて彼と対決して峰打ちで斬り、命を取らなかったことが仇となって、維新後、政府高官になった石谷蕃隆に狙われるようになり、自分の親族や母親代わりに育ててくれた女性を殺され、なんとかその仇を討ちたいと思っていた久保田宗八郎は、戸田家の若様が作った銀座裏の赤煉瓦の借家に身を寄せながら、石谷蕃隆に近づく道を探し、無為徒食の日々を送っていた。前作では、その借家に住まう過程やそこで起こったいくつかの事件に関係して事件の解決に奔走する姿が描かれていたが、本作ではその借家に出入りしていた人々のその後の顛末が、1877年(明治10年)の西南戦争と絡んで展開されていく。
1876年(明治9年)に、明治政府は秩禄処分(武家の禄-給金-の廃止)や廃刀令を出し、それによって武家の生活は急激に瓦解していったが、そのことに不満を持ち、攘夷勤王の思想を強く引きずっていた熊本の肥後藩士たちが「敬神党」と呼ばれる集団を作り、大挙して反乱を起こした通称「神風連の乱」と呼ばれる反乱が起こった。これに引き続いて福岡で「秋月の乱」が起こり、山口の萩で前原一誠が挙兵し、やがてこれが西郷隆盛を担ぎ出した西南戦争へと繋がっていくが、本書はその明治10年の一連の事件を背景としており、まず、「神風連の乱」の生き残りである加瀬久磨次という青年を久保田宗八郎が銀座裏の煉瓦棟で一時預かりの形で匿っているところから始まるのである。
加瀬久磨次は、頑なに西洋風の生活を拒み、部屋の中で蟄居同様に生活していたが、窓の外を通る若い女性に岡惚れし、この女性が男に連れ去れれるのを目撃して家を飛び出し、ついには官憲に捕まってしまうのであるが、女性には女性の事情があり、彼女はただ母親との貧しい生活を支えるために酌婦になるだけだったのである。一本気な加瀬久磨次の古い体質の武家としての直情的な姿と、生きるための手管を使う女性、そういう姿が描かれていくのである。大体において、男は状況の中で死んでいくが、どんな世の中になっても女は生き残るような力がある。したたかさを生来的にもっているのだと思う。
それはともかく、やがて西南戦争が勃発する。銀座裏の煉瓦棟の住人であり、戸田や久保田とも親交があった純朴な市来巡査も所属する警視庁の命令で西南戦争に駆り出されるし、久保田宗八郎が仇と狙う残虐な石谷蕃隆も九州へ向けて出発する。久保田宗八郎に惚れて一緒に生活していた古い江戸の気っぷの良さをもつ髪結いをしている比呂(ひろ)が助けていた旧旗本の子女の夫も、生活のために官軍の輜重(弾薬や食糧を運ぶ役)として西南戦争に行く。戦地は熊本である。
そして、田原坂の激戦の最中に、市来巡査は殺されかけるところを石谷蕃隆に助けられ、その石谷蕃隆が右足を打たれたところを彼が助け、その蕃隆を荷車で引いて野戦病院となっていた寺まで運んだのが、比呂が髪結いとして助けていた旗本の子女の夫であるという運命の巡り合わせが起こるのである。旗本の子女の夫は西南戦争で命を落とす。
熊本にいたころ、西南戦争の激戦地であった田原坂は毎日のように通った。少し山の中に入れば、その痕跡は今も生々しく残っているが、そこを通る度に「分け入っても 分け入っても 青い山」という山頭火の言葉が浮かんでいたのを思い出す。
その田原坂で市来巡査が助けた石谷蕃隆が友人である久保田宗八郎の仇敵であることを知りつつも、市来巡査は片足を失った石谷蕃隆を介護する役が命じられ、帰京する。そして、銀座に帰り着いたときに、久保田宗八郎と出会い、久保田宗八郎は石谷蕃隆と対決する。だが、石谷蕃隆が既に片足を失っていることで、彼は刀を収めていくのである。
そうしているうちに、久保田宗八郎に惚れて、彼の世話をしていた比呂が癌に冒されていることがわかり、次第に比呂は痩せ衰えていって宗八郎のことを想いながら死んでいく。比呂は、医者の娘であり、原胤昭や戸田欽堂とも親交をもってクリスチャンでもあった闊達な娘であった鵜殿綾が久保田宗八郎に惚れていることを知っており、彼女に跡を託していくのである。比呂の宗八郎を想う愛情の深さは涙を誘うものがある。比呂は、以前は品川の遊女であったが、しゃきしゃきの江戸っ子気質をもつさっぱりとした女性で、髪結いをしながら宗八郎を支えてきたのである。その支えを宗八郎は失う。
それは、宗八郎にとって一つの終焉であった。だが、久保田宗八郎は、比呂を失い、仇と思っていた石谷蕃隆との決着も自ら刀を引くことで終え、それらを胸に納めながら、かつて比呂と一緒に渡りたかった品川の海を眺め、いつかはこの海を渡れそうな気がしていくのである。時が新しい時を刻みはじめ、その流れ来ては去っていく時を眺め、再び歩み出していくのである。
明治10年(1877年)は、ようやく旧体制が終わりを告げる年でもあった。だが、新しい夜明けはまだ来ずに、混沌とした状態が続き、人の暮らしは逼迫し、人心も荒れていた。だが、始まったのだから、人はその中を歩んでいく以外の道はない。西郷隆盛のように、それが愚かなことであると重々承知してもその道を行かなければならない時でもあった。そういう中で生きるひとりの人間、それがこの書で描かれているような気がする。読了後、たぶん、主人公の久保田宗八郎のような人間が、時代に翻弄されることなく自らを貫いて生きていく人間になっていくのだろうというような、漠とした感想をもった。前作もそうだったが、本作も味のある作品だと思う。
2011年12月14日水曜日
畠中恵『まんまこと』
昨日まで晴れていたのに、一転して雨が雪でも落ちてきそうなどんよりした灰色の雲が広がっている。その空を眺めながらコーヒーを入れ、新聞に目を通して、いつものように一日が始まる。骨身を削るような空気の冷たさがある。少し風邪気味なのか身体が重い。
畠中恵『まんまこと』(2007年 文藝春秋)を気楽に読んでいたので記しておくことにする。この作者については、以前『しゃばけ』がテレビで放映されて、取り扱われる題材が、「もののけ」や「ゆうれい話」、あるいは生活の苦労があまりない「若旦那」などの印象があって、なかなか触手が伸びなかったのだが、実際に作品を読んでみると、平易な流れるような文体で、なかなか味のある人物像を描く作家だということに気がついた。
この作品も、「若旦那」である江戸時代の町名主の跡取り息子を主人公にした作品であるが、小さいころから真面目だった名主の若旦那が、失恋を機にぐれだし、近所でも評判のお気楽でいい加減な男となり、友人と遊び呆けているが、人情家で、様々な町内の揉め事を物事に拘らない視点で収めていくという内容である。
江戸期、特に中期の18世紀には江戸は南北の町奉行の支配下で3名の町年寄が置かれ、その町年寄の下にさらに250名ほどの町名主が約1600町に置かれて、治安や民政に当たっていたが、本書はその町名主の息子であるお気楽に日々を送っている麻之助(町名主は苗字が許され、父は高橋宗右衛門という)を主人公にして、奉行所で扱う刑事事件以外の町内の揉め事を明晰な頭脳と楽天気質で解決していく顛末を描いたものである。
従って、描かれるものは生死に関わるような事件ではないが、かといってどうにも裁きようのない日常の中で起こりうる難問で、たとえば、第一話「まんまこと」では、麻之助の遊び仲間でもあり友人でもある同じ町名主の息子で、容姿端麗の女好きである清十郎のところに身に覚えのない娘から子どもができたと押しつけられ、その娘の本当の父親を捜し出してすべてを丸く収めたり(こう書いてしまうと簡単なようだが、娘を身ごもらせた男の身勝手さや娘の心情など、実にうまく展開されている)、第二話「柿の実は半分」では、麻之助が柿泥棒をした家に娘を名乗る女性が現れ、それが嘘と知りつつも娘として受け入れる孤独な老人や、その老人のもつ財産を巡る親戚の争いの中で、老人と娘の二人の孤独を埋める策を考案したり、第三話「万年、青いやつ」では、高価となる万年青の苗を自分のものだと言い張る二人の人間の間で、その真相を探し、その間を裁いたり、第四話「吾が子か、他の子か、誰の子か」では、自分の孫を捜す武家の勘違いを正していったりしていくわけである。
麻之助は少し可愛いと見れば手当たり次第に手を出していく女好きの清十郎と同心見習い押している真面目で堅物の吉五郎の友人がいて、三人は神田の剣術道場で知り合い、以後、いつもつるんでいるのである。それぞれが特徴があって、しかも互いを認め合っているので、無理のない友情が続いている。そして、この麻之助と幼馴染みで札差の妾腹の子であった美貌の「お由有」は、双方共に恋心をもってはいたが結ばれることなく、「お由有」は、友人の清十郎の父に嫁いでいる。そこに複雑な二人の心情があるし、真面目だった麻之助が突然好い加減な人間に様変わりした事情もあった。「お由有」には幸太という子があり、いわば「お由有」の若気の至りの子であるが、この子を麻之助も可愛がっていた。しかし、清十郎の父であり、「お由有」の夫でもある町名主を逆恨みして幸太を誘拐する事件が起こったりする(第六話「靜心なく」)。
二人の心情は複雑で、麻之助は「お由有」に想いを寄せ続けているが、踏み切れなかったし、今も踏み切れないでいる。麻之助はお気楽ないい加減さを装っているが、根は生真面目で正直なのである。また、麻之助に縁談話が持ち込まれるが、相手とされる女性に複雑な事情があり、その事情を知っていったり、想いを寄せる「お由有」とは、遂には結ばれない定めにあることを自覚していったりしていく過程が巧みに描かれている。
若いころの自分のふがいなさからいい加減な人間を装うようになったが、もともと頭脳明晰でさっぱりした性格の持ち主である麻之助が、世の中の機微を知っていきながら町名主として成長していく姿が、彼の恋とともに描き出されているのである。
柔らかな筆致で、しかも麻之助や清十郎の名コンビや堅物の吉五郎、いい加減に生きている麻之助を案じたり認めたりする彼の父親など、ゆるりとした中でも情の溢れる人々の姿が描き出されて、極めて気楽に読める作品になっている。作者は、元々は漫画家だったそうだが、全体がコミカルで面白い。考えてみるまでもなく、人生はいい加減でお気楽なものなのだから、高杉晋作ではないが、自分に正直であれば、「おもしろきこともなき世をおもしろく」でいいのである。
畠中恵『まんまこと』(2007年 文藝春秋)を気楽に読んでいたので記しておくことにする。この作者については、以前『しゃばけ』がテレビで放映されて、取り扱われる題材が、「もののけ」や「ゆうれい話」、あるいは生活の苦労があまりない「若旦那」などの印象があって、なかなか触手が伸びなかったのだが、実際に作品を読んでみると、平易な流れるような文体で、なかなか味のある人物像を描く作家だということに気がついた。
この作品も、「若旦那」である江戸時代の町名主の跡取り息子を主人公にした作品であるが、小さいころから真面目だった名主の若旦那が、失恋を機にぐれだし、近所でも評判のお気楽でいい加減な男となり、友人と遊び呆けているが、人情家で、様々な町内の揉め事を物事に拘らない視点で収めていくという内容である。
江戸期、特に中期の18世紀には江戸は南北の町奉行の支配下で3名の町年寄が置かれ、その町年寄の下にさらに250名ほどの町名主が約1600町に置かれて、治安や民政に当たっていたが、本書はその町名主の息子であるお気楽に日々を送っている麻之助(町名主は苗字が許され、父は高橋宗右衛門という)を主人公にして、奉行所で扱う刑事事件以外の町内の揉め事を明晰な頭脳と楽天気質で解決していく顛末を描いたものである。
従って、描かれるものは生死に関わるような事件ではないが、かといってどうにも裁きようのない日常の中で起こりうる難問で、たとえば、第一話「まんまこと」では、麻之助の遊び仲間でもあり友人でもある同じ町名主の息子で、容姿端麗の女好きである清十郎のところに身に覚えのない娘から子どもができたと押しつけられ、その娘の本当の父親を捜し出してすべてを丸く収めたり(こう書いてしまうと簡単なようだが、娘を身ごもらせた男の身勝手さや娘の心情など、実にうまく展開されている)、第二話「柿の実は半分」では、麻之助が柿泥棒をした家に娘を名乗る女性が現れ、それが嘘と知りつつも娘として受け入れる孤独な老人や、その老人のもつ財産を巡る親戚の争いの中で、老人と娘の二人の孤独を埋める策を考案したり、第三話「万年、青いやつ」では、高価となる万年青の苗を自分のものだと言い張る二人の人間の間で、その真相を探し、その間を裁いたり、第四話「吾が子か、他の子か、誰の子か」では、自分の孫を捜す武家の勘違いを正していったりしていくわけである。
麻之助は少し可愛いと見れば手当たり次第に手を出していく女好きの清十郎と同心見習い押している真面目で堅物の吉五郎の友人がいて、三人は神田の剣術道場で知り合い、以後、いつもつるんでいるのである。それぞれが特徴があって、しかも互いを認め合っているので、無理のない友情が続いている。そして、この麻之助と幼馴染みで札差の妾腹の子であった美貌の「お由有」は、双方共に恋心をもってはいたが結ばれることなく、「お由有」は、友人の清十郎の父に嫁いでいる。そこに複雑な二人の心情があるし、真面目だった麻之助が突然好い加減な人間に様変わりした事情もあった。「お由有」には幸太という子があり、いわば「お由有」の若気の至りの子であるが、この子を麻之助も可愛がっていた。しかし、清十郎の父であり、「お由有」の夫でもある町名主を逆恨みして幸太を誘拐する事件が起こったりする(第六話「靜心なく」)。
二人の心情は複雑で、麻之助は「お由有」に想いを寄せ続けているが、踏み切れなかったし、今も踏み切れないでいる。麻之助はお気楽ないい加減さを装っているが、根は生真面目で正直なのである。また、麻之助に縁談話が持ち込まれるが、相手とされる女性に複雑な事情があり、その事情を知っていったり、想いを寄せる「お由有」とは、遂には結ばれない定めにあることを自覚していったりしていく過程が巧みに描かれている。
若いころの自分のふがいなさからいい加減な人間を装うようになったが、もともと頭脳明晰でさっぱりした性格の持ち主である麻之助が、世の中の機微を知っていきながら町名主として成長していく姿が、彼の恋とともに描き出されているのである。
柔らかな筆致で、しかも麻之助や清十郎の名コンビや堅物の吉五郎、いい加減に生きている麻之助を案じたり認めたりする彼の父親など、ゆるりとした中でも情の溢れる人々の姿が描き出されて、極めて気楽に読める作品になっている。作者は、元々は漫画家だったそうだが、全体がコミカルで面白い。考えてみるまでもなく、人生はいい加減でお気楽なものなのだから、高杉晋作ではないが、自分に正直であれば、「おもしろきこともなき世をおもしろく」でいいのである。
2011年12月12日月曜日
羽太雄平『家老脱藩 与一郎 江戸へ行く』
昨日、今日と、日中は陽が差してありがたいが、寒さが日毎に厳しく感じられる。一日一日を数えるようにして過ごしているが、「ミンナニデクノボウトヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ」今日も憮然と過ごしそうな気配がある。午後からS.キルケゴールの思想について話をすることになっており、以前書いた『逍遙の人-S.キルケゴール』を読み返したり、それを書いていたころのことを思い出したりしていた。
そんな中で、羽太雄平『家老脱藩 与一郎 江戸を行く』(2006年 角川書店)を結構面白く読んだ。これは、手に取ったときは知らなかったが、読み進めるうちにどうも前作があるようだと思い、奥づけを見ると、やはりシリーズ物で、『峠越え』、『新任家老 与一郎(されど道なかば)』の前2作があって、3作品目であるということであった。しかし、前作を読まなくても物語の展開のおおよその背景はわかり、日光近辺の小藩の新任家老となった榎戸与一郎という主人公を中心に、藩内で起こる勢力争いを絡めながら、彼が、ひとりの人間として、あるいは武士として新しい地平を開いていく物語である。
主人公の榎戸与一郎は、その藩の中でも特別な存在であった家柄家老の榎戸家の嫡男として生まれ、甲源一刀流の遣い手でありながらも、どこか、あくせくしない茫洋としたところがあったが、筆頭家老であった父親の弥次郎衛門の力が強く、彼の家柄からどうしても藩内の勢力争いに巻き込まれざるを得ない状態に置かれていた。そうした藩主の跡目を巡る争いや藩内での抗争に巻き込まれていく姿は前作で展開されているのだろうと思われる。
彼は、その父親が隠居し、家老の末席に加えられたが、藩主の側女となっていた姉の七重が子を産んで死んでから、その死にまつわる様々なこともあり、父親も病に倒れて抑えが効かなくなり、いつの間に酒に溺れて酒毒に犯され(アルコール中毒)、その依存症に苦しみながらも、新しい藩命として藩主の側女の選定のために江戸へ向かわせられることになる。そこから本書の物語が始まるのだが、彼の江戸行きは、彼の酒毒を直すためでもあり、友人でもあった元目付頭で、今は藩籍を奪われている奥山左十郎も同行する。だが、アルコール依存症の与一郎は、あの手この手を使って何とか酒を入手しようとするのである。彼は江戸についても酒を求めて意地汚く奔走する。
そういうアルコール依存症に陥っている与一郎の姿が、実にリアリティーをもって描き出されており、のどから手が出るほど酒を求める姿が展開されていく。友人の奥山左十郎も、冷ややかだが苦心するし、彼はまた与一郎の護衛の密命も帯びていた。藩内での抗争は裏で続いていたからである。
そういう中で、彼は正体不明の三人の武士に襲われる。与一郎は甲源一刀流の遣い手であったが酒毒に犯されていたために危険にさらされる。だが、奥山左十郎が護衛役としてつけていた滝沢染之丞によって助けられ、加えて、以前、着任したばかりの藩主と旧来の家老職との間の対立で殺さねばならなかった公儀隠密と目される男の息子である向坂兵馬によって父の敵として狙われたりする。
危機の脱出のためには、酒毒は何としても抜かなければならない。そのために友人の奥山左十郎は苦心していく。そして、ようやく治りかけるころ、与一郎の表向きの役目である藩主の側室候補者に会うための花見の宴席が前将軍の母である随陽院の手によって開かれ、与一郎はその宴席に出る(もちろんこの随陽院も作者の創作だろう)。与一郎の藩主が茶席で随陽院に仕える加寿江という女性に一目惚れし、その女性を見定めるのが与一郎の役目であった。
だが、この花見の席で、随陽院はなぜか冷たく与一郎をあしらい、その反動もあって、勧められた酒を飲んでしまい、彼は一気に酒毒患者特有の状態に陥ってしまうのである。側にいた加寿江の膝に突っ伏して前後不覚になってしまい、表向きの役目は失敗する。しかし、そこには随陽院自身が抱えていた彼の父親の弥次郎衛門と関わる事情があったのである。そして、前後不覚に陥った与一郎を乗せた駕籠での帰路、彼は再び正体不明の七、八人の武士団に襲われるのである。
襲われた与一郎を奥山左十郎は芝の日蔭町にあった隠れ家に匿い、国元から連絡のために出てきていたきていた以蔵の世話を受けながら本格的な酒毒(アルコール依存症)の治療を始める。酒毒から抜け出るために酒断ちをしていた与一郎は、花見の席でつい酒を飲んでしまい、自己嫌悪のどん底まで墜ちて、もはや無理やり酒から遠ざける必要があった。以蔵は与一郎の母の兄であり、叔父であったためにその辺りの信頼は深いものがあった。与一郎は酒欲しさに暴れるが左十郎は無理やり彼を押さえ込む日々が続いた。そうしているうちに、奥山左十郎の一子で、藩の剣術指南役を勤めたことがある野川十左衛門の元に残してきた小次郎が剣術修行のために江戸に出てくるという話が伝えられたり、与一郎の弟で藩の重職の斎藤家に養子にいった弥三郎も江戸藩邸に出てくるということが伝えられたりするが、与一郎を襲った武士団の正体はまだ釈然としなかった。
与一郎を襲った武士集団について、奥山左十郎は藩内の派閥の一つである伊勢党ではないかと思っている。もともと伊勢の豪族であった藩祖が連れてきた譜代の家臣が伊勢党で、藩祖が東三河に領地をもらったときに雇った家臣団が三河衆と呼ばれ、関ヶ原の合戦の後に北関東に移封されたときに、在地の領主であった榎戸家を家老就任の条件で招いた最新参の家臣団が関東衆と呼ばれ、藩内には三つの家臣団があったのである。そして、榎戸家は代々が家老に就任する家柄家老であったのである。しかし、そこに新藩主が養子に入った際に「直仕置き(藩主が直接藩政を行うこと)」のために実家から呼び寄せた家臣団があり、酒井衆と呼ばれ、そのことで藩内にごたごたが起こっていたのである(この辺りは前作で記されているのだろうと思う)。つまり、榎戸家は藩内では特別の存在で、譜代の伊勢党にとっては目障りなものであったのである。こうした事情の中で、与一郎の存在をなきものにしようとする動きが起こっていると左十郎は見ていたのである。
だが、そこに突然、自分の膝の上で前後不覚に陥り、襲撃された与一郎を案じて、随陽院に仕えていた加寿江が訪ねてくる。加寿江は藩主が側女にしたいと思っていた女性ではあったが、一心に与一郎の看護に当たり始める。与一郎を襲ったのも、伊勢党の領軸である鵜殿采女の三男で、中西一刀流の遣い手である鵜殿忠三郎ではないかととの推測ができるようになる。与一郎は加寿江の看護と医者の適切な処置で酒毒から抜け始め、体力の回復を待つばかりとなっていく。加寿江の願いを入れて与一郎のもとに行くことを許した随陽院も密かに加寿江や与一郎を守らせている気配がある。藩主の側女の判定にきた与一郎を冷たくあしらった随陽院が、なぜ与一郎を警護するのかの謎は、次ぎに明らかになっていくが、謎だらけの状態で与一郎は回復に努め始めていくのである。
かつて与一郎の父である弥次郎衛門が江戸で放蕩三昧の生活をしていたころ恋仲となった娘が随陽院であった。随陽院は経師屋の娘であったが大奥の最下級の半下としてお湯殿で奉公していたときに将軍のお手つきとなったのである。このあたりは八代将軍の徳川吉宗の母の実例がある。他方、弥次郎衛門の方も、父親が急死したために急遽、強引に藩に連れ戻され、二人はそのまま別れていたのである。こういう経過が与一郎の父と随陽院の間にはあり、それが随陽院の一連の態度に関連していたのである。
加寿江は、そういう事情は知らなかったが、藩主の側女になることを断り、次第に与一郎に想いを寄せていくようになる。だが、加寿江の正式な断りを藩の江戸屋敷は藩主に伝えずに、与一郎は藩主の怒りをかっていくことになっていく。藩主石見守は直仕置きを行おうとするほどの自意識と英邁さをもっていたが、底意地の悪いところがある人物で、自分に反抗するものは決して許すことのない激しい性格の持ち主であった。
与一郎の酒毒も次第に抜け始め、加寿江を護衛していたのが公儀お庭番の倉地由之助であることがわかる中で、与一郎の世話をしていた以蔵が、可愛がっていた姪の七重が死んだときの藩医であった村田雪庵を見かけ、その後を追う。七重は万年青の根の毒で死に、その万年青は鵜殿采女の屋敷にあり、雪庵が一枚噛んでいたのではないかと疑っていたからである。雪庵は七重が倒れたときに急に江戸へ行き、その後焼死したと伝えられていたが、火傷で顔を変えて身を隠していたのである。雪庵は音羽町の香具師の元締めで地回りの大物と繋がり、その香具師の大物の用心棒が与一郎を仇と狙う向坂兵馬であった。だが、以蔵は、その香具師が営む賭場で雪庵を見張っていたところを捕まってしまう。そして、加寿江もまた何者かに呼び出されて地回りに捕縛されてしまう。与一郎と加寿江が話しているのを向坂兵馬が見つけ、地回りに加寿江の後とつけさせていたのである。
その中で、随陽院に命じられて加寿江を護衛していた倉地由之助の祖母が、鈴木春信が美人画で描いた美女の「笠森お仙」であることや、加寿江がその血筋であり、倉地由之助と腹違いの姉であることなども記されていく。評判の美女であった「笠森お仙」が公儀お庭番家の倉地家に嫁いだことはよく知られている事実である。
与一郎たちと公儀お庭番は加寿江と以蔵を懸命に探し出そうとし、ようやく地回りに監禁されている場所を見つけて奪還に走るが、すんでの所で再び連れ去られてしまう。どうやら、その一件には藩内の伊勢党が絡んでおり、中西一刀流の遣い手である鵜殿忠三郎が出てくる。鵜殿忠三郎一味は加寿江を無理やり国元に連れて行くつもりらしいと推測される。
そこで与一郎たちも加寿江の救出に向かうことにする。その途中で、与一郎を仇と狙う向坂兵馬と出会うが、与一郎は飄々と向坂兵馬に近づき、鵜殿忠三郎に裏切られた兵馬に、立ち会いを条件に鵜殿を探す手伝いをしないかと相談するのである。その話に納得した兵馬も一同に加わることにして、鵜殿一味に連れ去られた加寿江と以蔵を救い出す旅に出るのである。
その途上で、鵜殿一味は口封じのために七重の殺害に関係があった雪庵を殺し、また正体を知った以蔵を殺してしまう。だが、与一郎たちは、藩内に入る直前に、鵜殿一味に追いつき、死闘を繰り返す。そして、この戦いで向坂兵馬は傷つき、加寿江の腹違いの弟で公儀お庭番の倉地由之助は斬られてしまうが、ようやく加寿江を救出することができたのである。しかし、藩内には入らずに近くで待つようにとの父親からの知らせを受ける。与一郎に、自分が側女にしようとした加寿江を連れて逃げたということで、藩主から上意討ちの命令が下されていたからである。与一郎を討つ命令は、奥山左十郎の子で与一郎も弟のようにして可愛がっていた小次郎だという。藩主の底意地の悪さが光る上意討ちの命令だった。
だが、小十郎自身が与一郎の弟の弥三郎と共にやってきて、自分は幕臣である野川家に養子に入ったから、藩主の家臣ではなく上意討ちの命令には従わないと断り、代わりに与一郎を上意討ちにくるのは、与一郎らを江戸で世話をした滝沢染之丞であった。藩主の石見守は、どこまでもしつこい嫌がらせをするのである。その滝沢染之丞が来る前に、病身を押して与一郎の父親の弥次郎衛門がやってきて、すべての藩籍を返上して新しい藩を作ると言い出すのである。驚く人々を前に、実は、榎戸家には神君家康から与えられた「お墨付」があり、少なくとも一万石を賜ることができると言い出すのである。
新しい藩を作る方向へ彼らは向かっていく。だが、上意討ちを命じられた滝沢染之丞がやって来て、与一郎に変わり奥山左十郎の子の小次郎が彼と剣の勝負を挑むことになって、見事にこれを討ち、また、七重を毒殺した真の犯人が同じ関東衆であった家老が筆頭家老の地位を狙って伊勢党と組んでいることがわかり、弥次郎衛門は奥山左十郎に仇を討つことを最後の頼みとして依頼するのである。そして、弥次郎衛門は娘の七重殺しの犯人を討って、病死する。
榎戸与一郎らの新藩創設は、神君家康の「お墨付」もあり、幕府も認め、随陽院もその力を貸す。七千五百石が認められ、新田開発などもあり、九千石になるという。随陽院は加寿江と与一郎の婚儀の祝いとして自分の化粧領を差し出すとまでいうのである。だが、与一郎はそれを遠慮して、九千石の交代寄合(一万石以上の大名ではないが、大名と同じ資格で、江戸住まいだが領地に帰ることが許されている大身の旗本)として新しい藩ができるのである。
そこへ隣藩となる旧藩主の石見守がやってくる。のっけから与一郎に皮肉を言い、加寿江のことも皮肉る。そして、七重が生んだ娘を養子にやってもよいと言い出す。石見守の腹の内はわかっているが、子どもが産めないことで自分との結婚を躊躇していた加寿江のこともあり、また、姉の七重のこともあって、与一郎はその話を受けることにする。ところが、石見守はさらに、与一郎を仇と狙っていた向坂兵馬のことを聞いたこともあって、兵馬に向かって脱藩の罪をゆるし、召し抱えることにするから仇討ちができるとそそのかすのである。だが、兵馬は、自分はここに来る途中で一度榎戸家の家来となったので、もはや仇討ちができないと明瞭に断るのである。
与一郎は加寿江と共にオオムラサキの蝶が飛び交う榎戸郷に向かって歩み出していく。そこで、この物語は爽快さを残して終わるのである。
本書の中で、すべてが落ち着こうとするときに、与一郎の弟である弥三郎が掛軸の揮毫を依頼する場面が描かれ、その言葉が「行不由径(行くに径-こみち-に由らす)」という言葉であることが記されている(356ページ)。論語に記されている孔子の言葉であるが、これが本書のすべてを表す言葉でもあるだろう。藩内や様々なところで、様々な駆け引きと画策が行われるが、主人公は「大道」を同道と悪びれなく生きていくのであり、その姿が描かれているのである。
「行くに径に由らず」まさにそれこそが、人がいつも自分らしく胸を張って生きていく姿だろう。余の策略家はいつも「径(小道)」を践み迷う。素直であること、素朴であること、「径(小道)に由らず」なのであり、その姿を作者が描こうとしていることがよく伝わる物語であった。
そんな中で、羽太雄平『家老脱藩 与一郎 江戸を行く』(2006年 角川書店)を結構面白く読んだ。これは、手に取ったときは知らなかったが、読み進めるうちにどうも前作があるようだと思い、奥づけを見ると、やはりシリーズ物で、『峠越え』、『新任家老 与一郎(されど道なかば)』の前2作があって、3作品目であるということであった。しかし、前作を読まなくても物語の展開のおおよその背景はわかり、日光近辺の小藩の新任家老となった榎戸与一郎という主人公を中心に、藩内で起こる勢力争いを絡めながら、彼が、ひとりの人間として、あるいは武士として新しい地平を開いていく物語である。
主人公の榎戸与一郎は、その藩の中でも特別な存在であった家柄家老の榎戸家の嫡男として生まれ、甲源一刀流の遣い手でありながらも、どこか、あくせくしない茫洋としたところがあったが、筆頭家老であった父親の弥次郎衛門の力が強く、彼の家柄からどうしても藩内の勢力争いに巻き込まれざるを得ない状態に置かれていた。そうした藩主の跡目を巡る争いや藩内での抗争に巻き込まれていく姿は前作で展開されているのだろうと思われる。
彼は、その父親が隠居し、家老の末席に加えられたが、藩主の側女となっていた姉の七重が子を産んで死んでから、その死にまつわる様々なこともあり、父親も病に倒れて抑えが効かなくなり、いつの間に酒に溺れて酒毒に犯され(アルコール中毒)、その依存症に苦しみながらも、新しい藩命として藩主の側女の選定のために江戸へ向かわせられることになる。そこから本書の物語が始まるのだが、彼の江戸行きは、彼の酒毒を直すためでもあり、友人でもあった元目付頭で、今は藩籍を奪われている奥山左十郎も同行する。だが、アルコール依存症の与一郎は、あの手この手を使って何とか酒を入手しようとするのである。彼は江戸についても酒を求めて意地汚く奔走する。
そういうアルコール依存症に陥っている与一郎の姿が、実にリアリティーをもって描き出されており、のどから手が出るほど酒を求める姿が展開されていく。友人の奥山左十郎も、冷ややかだが苦心するし、彼はまた与一郎の護衛の密命も帯びていた。藩内での抗争は裏で続いていたからである。
そういう中で、彼は正体不明の三人の武士に襲われる。与一郎は甲源一刀流の遣い手であったが酒毒に犯されていたために危険にさらされる。だが、奥山左十郎が護衛役としてつけていた滝沢染之丞によって助けられ、加えて、以前、着任したばかりの藩主と旧来の家老職との間の対立で殺さねばならなかった公儀隠密と目される男の息子である向坂兵馬によって父の敵として狙われたりする。
危機の脱出のためには、酒毒は何としても抜かなければならない。そのために友人の奥山左十郎は苦心していく。そして、ようやく治りかけるころ、与一郎の表向きの役目である藩主の側室候補者に会うための花見の宴席が前将軍の母である随陽院の手によって開かれ、与一郎はその宴席に出る(もちろんこの随陽院も作者の創作だろう)。与一郎の藩主が茶席で随陽院に仕える加寿江という女性に一目惚れし、その女性を見定めるのが与一郎の役目であった。
だが、この花見の席で、随陽院はなぜか冷たく与一郎をあしらい、その反動もあって、勧められた酒を飲んでしまい、彼は一気に酒毒患者特有の状態に陥ってしまうのである。側にいた加寿江の膝に突っ伏して前後不覚になってしまい、表向きの役目は失敗する。しかし、そこには随陽院自身が抱えていた彼の父親の弥次郎衛門と関わる事情があったのである。そして、前後不覚に陥った与一郎を乗せた駕籠での帰路、彼は再び正体不明の七、八人の武士団に襲われるのである。
襲われた与一郎を奥山左十郎は芝の日蔭町にあった隠れ家に匿い、国元から連絡のために出てきていたきていた以蔵の世話を受けながら本格的な酒毒(アルコール依存症)の治療を始める。酒毒から抜け出るために酒断ちをしていた与一郎は、花見の席でつい酒を飲んでしまい、自己嫌悪のどん底まで墜ちて、もはや無理やり酒から遠ざける必要があった。以蔵は与一郎の母の兄であり、叔父であったためにその辺りの信頼は深いものがあった。与一郎は酒欲しさに暴れるが左十郎は無理やり彼を押さえ込む日々が続いた。そうしているうちに、奥山左十郎の一子で、藩の剣術指南役を勤めたことがある野川十左衛門の元に残してきた小次郎が剣術修行のために江戸に出てくるという話が伝えられたり、与一郎の弟で藩の重職の斎藤家に養子にいった弥三郎も江戸藩邸に出てくるということが伝えられたりするが、与一郎を襲った武士団の正体はまだ釈然としなかった。
与一郎を襲った武士集団について、奥山左十郎は藩内の派閥の一つである伊勢党ではないかと思っている。もともと伊勢の豪族であった藩祖が連れてきた譜代の家臣が伊勢党で、藩祖が東三河に領地をもらったときに雇った家臣団が三河衆と呼ばれ、関ヶ原の合戦の後に北関東に移封されたときに、在地の領主であった榎戸家を家老就任の条件で招いた最新参の家臣団が関東衆と呼ばれ、藩内には三つの家臣団があったのである。そして、榎戸家は代々が家老に就任する家柄家老であったのである。しかし、そこに新藩主が養子に入った際に「直仕置き(藩主が直接藩政を行うこと)」のために実家から呼び寄せた家臣団があり、酒井衆と呼ばれ、そのことで藩内にごたごたが起こっていたのである(この辺りは前作で記されているのだろうと思う)。つまり、榎戸家は藩内では特別の存在で、譜代の伊勢党にとっては目障りなものであったのである。こうした事情の中で、与一郎の存在をなきものにしようとする動きが起こっていると左十郎は見ていたのである。
だが、そこに突然、自分の膝の上で前後不覚に陥り、襲撃された与一郎を案じて、随陽院に仕えていた加寿江が訪ねてくる。加寿江は藩主が側女にしたいと思っていた女性ではあったが、一心に与一郎の看護に当たり始める。与一郎を襲ったのも、伊勢党の領軸である鵜殿采女の三男で、中西一刀流の遣い手である鵜殿忠三郎ではないかととの推測ができるようになる。与一郎は加寿江の看護と医者の適切な処置で酒毒から抜け始め、体力の回復を待つばかりとなっていく。加寿江の願いを入れて与一郎のもとに行くことを許した随陽院も密かに加寿江や与一郎を守らせている気配がある。藩主の側女の判定にきた与一郎を冷たくあしらった随陽院が、なぜ与一郎を警護するのかの謎は、次ぎに明らかになっていくが、謎だらけの状態で与一郎は回復に努め始めていくのである。
かつて与一郎の父である弥次郎衛門が江戸で放蕩三昧の生活をしていたころ恋仲となった娘が随陽院であった。随陽院は経師屋の娘であったが大奥の最下級の半下としてお湯殿で奉公していたときに将軍のお手つきとなったのである。このあたりは八代将軍の徳川吉宗の母の実例がある。他方、弥次郎衛門の方も、父親が急死したために急遽、強引に藩に連れ戻され、二人はそのまま別れていたのである。こういう経過が与一郎の父と随陽院の間にはあり、それが随陽院の一連の態度に関連していたのである。
加寿江は、そういう事情は知らなかったが、藩主の側女になることを断り、次第に与一郎に想いを寄せていくようになる。だが、加寿江の正式な断りを藩の江戸屋敷は藩主に伝えずに、与一郎は藩主の怒りをかっていくことになっていく。藩主石見守は直仕置きを行おうとするほどの自意識と英邁さをもっていたが、底意地の悪いところがある人物で、自分に反抗するものは決して許すことのない激しい性格の持ち主であった。
与一郎の酒毒も次第に抜け始め、加寿江を護衛していたのが公儀お庭番の倉地由之助であることがわかる中で、与一郎の世話をしていた以蔵が、可愛がっていた姪の七重が死んだときの藩医であった村田雪庵を見かけ、その後を追う。七重は万年青の根の毒で死に、その万年青は鵜殿采女の屋敷にあり、雪庵が一枚噛んでいたのではないかと疑っていたからである。雪庵は七重が倒れたときに急に江戸へ行き、その後焼死したと伝えられていたが、火傷で顔を変えて身を隠していたのである。雪庵は音羽町の香具師の元締めで地回りの大物と繋がり、その香具師の大物の用心棒が与一郎を仇と狙う向坂兵馬であった。だが、以蔵は、その香具師が営む賭場で雪庵を見張っていたところを捕まってしまう。そして、加寿江もまた何者かに呼び出されて地回りに捕縛されてしまう。与一郎と加寿江が話しているのを向坂兵馬が見つけ、地回りに加寿江の後とつけさせていたのである。
その中で、随陽院に命じられて加寿江を護衛していた倉地由之助の祖母が、鈴木春信が美人画で描いた美女の「笠森お仙」であることや、加寿江がその血筋であり、倉地由之助と腹違いの姉であることなども記されていく。評判の美女であった「笠森お仙」が公儀お庭番家の倉地家に嫁いだことはよく知られている事実である。
与一郎たちと公儀お庭番は加寿江と以蔵を懸命に探し出そうとし、ようやく地回りに監禁されている場所を見つけて奪還に走るが、すんでの所で再び連れ去られてしまう。どうやら、その一件には藩内の伊勢党が絡んでおり、中西一刀流の遣い手である鵜殿忠三郎が出てくる。鵜殿忠三郎一味は加寿江を無理やり国元に連れて行くつもりらしいと推測される。
そこで与一郎たちも加寿江の救出に向かうことにする。その途中で、与一郎を仇と狙う向坂兵馬と出会うが、与一郎は飄々と向坂兵馬に近づき、鵜殿忠三郎に裏切られた兵馬に、立ち会いを条件に鵜殿を探す手伝いをしないかと相談するのである。その話に納得した兵馬も一同に加わることにして、鵜殿一味に連れ去られた加寿江と以蔵を救い出す旅に出るのである。
その途上で、鵜殿一味は口封じのために七重の殺害に関係があった雪庵を殺し、また正体を知った以蔵を殺してしまう。だが、与一郎たちは、藩内に入る直前に、鵜殿一味に追いつき、死闘を繰り返す。そして、この戦いで向坂兵馬は傷つき、加寿江の腹違いの弟で公儀お庭番の倉地由之助は斬られてしまうが、ようやく加寿江を救出することができたのである。しかし、藩内には入らずに近くで待つようにとの父親からの知らせを受ける。与一郎に、自分が側女にしようとした加寿江を連れて逃げたということで、藩主から上意討ちの命令が下されていたからである。与一郎を討つ命令は、奥山左十郎の子で与一郎も弟のようにして可愛がっていた小次郎だという。藩主の底意地の悪さが光る上意討ちの命令だった。
だが、小十郎自身が与一郎の弟の弥三郎と共にやってきて、自分は幕臣である野川家に養子に入ったから、藩主の家臣ではなく上意討ちの命令には従わないと断り、代わりに与一郎を上意討ちにくるのは、与一郎らを江戸で世話をした滝沢染之丞であった。藩主の石見守は、どこまでもしつこい嫌がらせをするのである。その滝沢染之丞が来る前に、病身を押して与一郎の父親の弥次郎衛門がやってきて、すべての藩籍を返上して新しい藩を作ると言い出すのである。驚く人々を前に、実は、榎戸家には神君家康から与えられた「お墨付」があり、少なくとも一万石を賜ることができると言い出すのである。
新しい藩を作る方向へ彼らは向かっていく。だが、上意討ちを命じられた滝沢染之丞がやって来て、与一郎に変わり奥山左十郎の子の小次郎が彼と剣の勝負を挑むことになって、見事にこれを討ち、また、七重を毒殺した真の犯人が同じ関東衆であった家老が筆頭家老の地位を狙って伊勢党と組んでいることがわかり、弥次郎衛門は奥山左十郎に仇を討つことを最後の頼みとして依頼するのである。そして、弥次郎衛門は娘の七重殺しの犯人を討って、病死する。
榎戸与一郎らの新藩創設は、神君家康の「お墨付」もあり、幕府も認め、随陽院もその力を貸す。七千五百石が認められ、新田開発などもあり、九千石になるという。随陽院は加寿江と与一郎の婚儀の祝いとして自分の化粧領を差し出すとまでいうのである。だが、与一郎はそれを遠慮して、九千石の交代寄合(一万石以上の大名ではないが、大名と同じ資格で、江戸住まいだが領地に帰ることが許されている大身の旗本)として新しい藩ができるのである。
そこへ隣藩となる旧藩主の石見守がやってくる。のっけから与一郎に皮肉を言い、加寿江のことも皮肉る。そして、七重が生んだ娘を養子にやってもよいと言い出す。石見守の腹の内はわかっているが、子どもが産めないことで自分との結婚を躊躇していた加寿江のこともあり、また、姉の七重のこともあって、与一郎はその話を受けることにする。ところが、石見守はさらに、与一郎を仇と狙っていた向坂兵馬のことを聞いたこともあって、兵馬に向かって脱藩の罪をゆるし、召し抱えることにするから仇討ちができるとそそのかすのである。だが、兵馬は、自分はここに来る途中で一度榎戸家の家来となったので、もはや仇討ちができないと明瞭に断るのである。
与一郎は加寿江と共にオオムラサキの蝶が飛び交う榎戸郷に向かって歩み出していく。そこで、この物語は爽快さを残して終わるのである。
本書の中で、すべてが落ち着こうとするときに、与一郎の弟である弥三郎が掛軸の揮毫を依頼する場面が描かれ、その言葉が「行不由径(行くに径-こみち-に由らす)」という言葉であることが記されている(356ページ)。論語に記されている孔子の言葉であるが、これが本書のすべてを表す言葉でもあるだろう。藩内や様々なところで、様々な駆け引きと画策が行われるが、主人公は「大道」を同道と悪びれなく生きていくのであり、その姿が描かれているのである。
「行くに径に由らず」まさにそれこそが、人がいつも自分らしく胸を張って生きていく姿だろう。余の策略家はいつも「径(小道)」を践み迷う。素直であること、素朴であること、「径(小道)に由らず」なのであり、その姿を作者が描こうとしていることがよく伝わる物語であった。
2011年12月9日金曜日
葉室麟『川あかり』(2)
予報通り震えるほどの寒い日になった。湿気を含んだ空気が冷え込んでいくような寒さで、疲労感も溜まっていく。寒いと身体を縮めていくのか、痛めている頸椎も痛み出したりしてくる。思いっきり暖房を効かせた部屋でぬくぬくと過ごせたらいいだろうな、と思ったりする。ひとつひとつをもっとゆっくりと丁寧にしていきたいのだが、今の時期はそれがなかなか適わない。
それはともかく、さて、葉室麟『川あかり』の続きであるが、大阪商人と癒着して私腹を肥やし、藩政を牛耳っていた家老の甘利典膳の刺殺を命じられた臆病者の伊東七十郎が川止めで知り合った佐々豪右衛門に連れて行かれた粗末な木賃宿には、川向こうの崇厳寺村の庄屋をしていたが病んで寝ついている佐次右衛門という老人とその孫の「さと」という娘、「五郎」という六歳ぐらいの子が階下にいて、佐々豪右衛門は伊東七十郎に、まず、挨拶料をやれとか、薬代を出せとかぶしつけに言うのである。伊東七十郎は面食らってしまうし、彼が寝泊まりすることになった二階には、白木の位牌を前にぶつぶつとお経を唱えている怪しげな坊主の徳元、猿廻しをしている弥之助、三味線を弾いて門付けの鳥追いをしているらしい二十二、三歳くらいの「お若」、やくざ者らしい遊び人の千吉がいて、それぞれ川あけを待っていた。
また、宿で飯炊きをしている「お茂婆」がいて、その木賃宿はいろいろな事情を抱えた人間が転がり込む吹き溜まりのような宿だった。朴訥で素朴な伊東七十郎は、そういう連中からからかわれながらもその宿で刺殺相手の甘利典膳が来るのを待つことにしたのである。そのくだりは面白おかしく丁寧に描かれている。雨は降り続き、なかなか川止めは明けそうにない。
そういう中で、佐々豪右衛門は、病で寝ついている佐次右衛門と孫たちの事情を伊東七十郎に話す。それは、10年前にも一月ほど雨が降り続き、巨勢川があふれそうになり、下流の大地主がもつ土地を救うために崇厳寺村がある土手の堤防を役人が切ってしまい、崇厳寺村が水没してしまった出来事であった。
下流の土地をもつ大地主は商人でもあり、藩に多額の金を貸し,苗字帯刀も許されていたので、綾瀬藩と隣接していた上野藩では、その田畑を救うために崇厳寺村を犠牲にしたのである。崇厳寺村の庄屋であった佐次右衛門は私財をはたいて水没した村の再建にかけずり回ったが、一人の力では無理で、そのうちに「おさと」たちの両親が流行病で死んでしまい、佐次右衛門は二人を引き取って村に帰るところであるというのである。その話を聞いて、伊東七十郎は、なけなしの一両を薬代として「おさと」に渡したりする。
そして、佐々豪右衛門から伊東七十郎の剣の腕が全く駄目なのを見抜かれたりして、伊東七十郎は自分が刺客であることを話し出すのである。佐々豪右衛門は「誰かが貧乏くじを引かねばならぬような話は、やはりおかしい」と言い、「ひとりだけが犠牲にならなければならないことなど、この世の中にはひとつもない。この世の苦は、皆で分かち合うべきものだ」と語るが(88-89ページ)、伊東七十郎は、「自分は臆病者だが、卑怯者ではない」(91ページ)と思うのである。伊東七十郎は、優しさのあまり剣の腕はからっきし駄目だが、身を守るための秘儀を父親から授けられていた。
相変わらず川止めが続く中で、七十郎が寝泊まりする木賃宿で一つの事件が起こる。逃げた女房を追って馬方の松蔵という男が斧をもって押しかけてきたのである。松蔵は女房が薬の行商人と浮気したと思い込み、行商人を斧で殺して女房を追いかけてきたのである。酔って乱暴を働き、「おさと」が人質に取られてしまう。そして遂に飯炊き婆の「お茂婆」が匿っていた女房が見つかってしまう。だれも手出しができずに七十郎の脇差しも取り上げられていた。だが、七十郎は、松蔵の隙を突いて棒手裏剣の技を繰り出し、「おさと」を助け、松蔵を捕らえるのである。
その時、七十郎が松蔵に言う言葉が彼の誠実な人柄を表す言葉になっている。彼はこう言う、
「松蔵殿、あんたは馬鹿だ。大事に思っている人なら、だまされたっていいじゃあないですか。信じるというのは、そういうことです」(112ぺーじ)。
これは、わたし自身が本当にそう思ってきたことで、こういう形で物語の展開の中で生き生きと語られることにひどく嬉しくなった言葉でもあり、葉室麟の他の作品でも随所に見られる深い意味合いのある言葉だとつくづく思う。
それはともかく、こうして伊東七十郎が剣の腕は駄目だが手裏剣の名手であることが知られてしまうが、捕縛に来た役人から、この辺りを荒らし回る「流れ星」と名乗る強盗団がいることを聞かされる。「流れ星」なる強盗団は、大店と武家屋敷ばかり狙う強盗団で、だれも気づかないうちに盗みを働き、署名を残していくという。
そして、実は木賃宿の二階に寝泊まりしている五人の男女がその「流れ星」なる強盗団で、七十郎は、偶然、怪しげな坊主の徳元が厨子の中に金の観音像をもっていることに気づいてしまう。そうしているうちに、役人が宿改めに来て、造り酒屋の大店である「出雲屋」から金の仏像が「流れ星」によって盗まれたことを告げる。七十郎は、徳元がもっていた金の観音像がそれであると気づいたが、役人の目からそれを隠し、彼らが「流れ星」であることを知る。彼らが強盗団となり、金の仏像を盗んだのには事情があった。
また、彼に刺殺を命じた増田惣右衛門から刺殺を急ぐように書状が届き、藩内屈指の剣の遣い手であり、稲垣頼母を暗殺したと思われる佐野又四郎が伊東七十郎を討つために追手として出たことを知らされる。七十郎は、自分ではとても適わないと愕然とする。
そこで、一味の首領格とも思える佐々豪右衛門から、その金の仏像を預かってくれと依頼され、その代わりに伊東七十郎に戦い方を教え、手助けすると申し出る。七十郎は、その申し出を一応受けて、その日から佐々豪右衛門の指導で稽古を始める。だが、七十郎の腕は上達しない。そんな中で、七十郎の追手である佐野又四郎の行くへを探っていた「お若」が人質として捕らえられてしまう。
伊東七十郎は、とても適わないと思いながらも「お若」を助けるために佐野又四郎と対決することを決心する。
「馬鹿を言うな。お主には大事な役目があるのだ。どこかに身を隠せ。お若は、わしらが取り戻す」と佐々豪右衛門は言う。だが、「ひと殺しを捕まえた後、お若さんから自分が人質になっても助けてくれるかと訊かれて、わたしは助けると答えました。ですから、わたしはお若さんを助けなければなりません」と七十郎は泣きそうな顔で言うのである。「恐ろしくて、いますぐ逃げ出したいです。でも、男が一度、口にしたことです。約束を守らなければ、お若さんは裏切られたと思うでしょう。わたしはお若さんにそんな思いはさせたくありません」と答えるのである(176ページ)。
この緊迫したくだりは胸を打つ。伊東七十郎の、どこまでもまっすぐで、人を悲しませたり、裏切られたた思いをもたせたりしたくないという決意は、彼の率直な人間性の豊かさを見事に表している。『いのちなりけり』の雨宮蔵人の青年版とも言えるだろう。
捕らわれた「お若」を救うために、伊東七十郎は剣の遣い手である佐野又四郎と一人対峙する。そして、斬られる寸前に、父親から身を守るために習っていた針を又四郎の目に放ち、彼を倒してしまうのである。そして、木賃宿の二階に寝起きする五人がなぜ強盗団の「流れ星」になったかの事情を知る。
十年前、巨勢川が氾濫したとき、佐々豪右衛門は崇厳寺村の寺子屋の師匠をしていて、徳元も弥之助も百姓であり、お若と千吉は豪右衛門の寺子屋に通っていたという。だが、大店の「出雲屋」がもっていた下流の田畑を救うために上野藩の役人が土手を切り壊して大水が崇厳寺村に流れ込み、徳元の女房と子どもが埋もれて死に、弥之助も村を離れて猿回しになったのである。そして、お若と千吉は、親を失った後に人買いに拐かされて江戸に売られてしまうのである。
佐々豪右衛門は二人を助け出すため江戸に行き、途中で出会った徳元と弥之助と共に二人を助け出して来たのである。ここにはその様子が詳しく記されているが、二人が人買いに拐かされた裏には、上野藩の大店であった「出雲屋」が絡んでいたのである。他方、崇厳寺村の庄屋であった佐次右衛門は、私財をなげうって村の再建を図っていたが、破産寸前となり、仕方なしに「出雲屋」に借金を頼った。「出雲屋」は千両の金を貸すといって証文を取り、とりあえず百両だけ貸したのである。ところが、残りを貸さないままで証文を盾に千両の借金の取り立てに来て、佐次右衛門の書画骨董を運び出し、佐次右衛門が最後の頼みとしていた金の仏像までも盗み出していたのである。金の仏像に関して「出雲屋」は知らぬ存ぜぬを言うだけである。
佐々豪右衛門と徳元、弥之助は、上野藩の役人と「出雲屋」の手代たちが酒盛りをしている「出雲屋」の別邸に行き、役人たちの刀や金目の物を持ち出し、こうして彼らは強盗団となり、「出雲屋」と関係がある大店や役人の屋敷だけを狙い、盗んだ金は村に送り、「出雲屋」に盗み取られた金の仏像を探していたのである。そして、ようやくそのありかを捜し出して、それを佐次右衛門に返すために盗み出してきたのだというのである。
この話を聞いて、伊東七十郎は、川あけまで金の仏像を守ることを「お若」に約束する。だが、そこに彼に刺殺を命じた増田惣右衛門から使わされて美祢本人が木賃宿にやってきた。綾瀬藩内で寺に立て籠もった若者たちが自分たちを扇動した儒学者を殺そうとして誤って庄屋の娘を殺してしまい、もはや甘利典膳を殺すしか道がなくなり、藩の遣い手であった佐野又四郎が追手になったことで七十郎が臆病風に吹かれて逃げ出すのではないかと案じ、美祢を差し出して念を押すためであった。
そこへ「出雲屋」自身が乗り込んできて、金の仏像を返せと言い出す。だが、伊東七十郎は、金の仏像は自分がもっているが真の持ち主がわかるまでは返せないと言い、「出雲屋」自身が金策に困っていると指摘する。それによって、ついてきていた上野藩の役人に「出雲屋」の借用書が大阪商人の手に渡ると上野藩は大変なことになると言い、役人たちと「出雲屋」を追い払うのである。
そして、念押しの犠牲となろうとする美祢に「典膳を討つのは、増田様から命じられたからではないのです。まして、稲垣家の五百石のためでも、美祢様のためでもありません。わたしは不正によって苦しむ領民のために刺客になりたいのです」(255ページ)と言って美祢を返すのである。
美祢は、自分がこれまでに七十郎に対して思い違いをしていたことに気づき、七十郎の本当の姿を知っていくが、七十郎は美祢を拒んでそのまま返す。彼は自分が返り討ちにあうだろうと思っていた。七十郎は、その夕暮れ、河畔で「おさと」から「川明かり」の話を聞く。それが本書の神髄でもあるので、ちょっと抜き出しておこう。
「七十郎さん、川明かりって知っていますか」
「川明かり? 知りません」
「もうじき川明かりが見えます。日が暮れて、あたりが暗くなっても川は白く輝いているんです。ほら・・・・」
おさとの言葉通りだった。
空は菫色で雲はまだ薄紫に染まっているが、山裾から河岸にかけては薄闇に覆われていた。だが、墨を塗ったかのような景色の中に、蛇行する川だけがほのかに白く浮き出ている.小波が銀色に輝き、生きているようにゆったりと流れていた。
川その物が光を放っているかのようである。
(まるで、黄泉の国を流れる命の川だ)
七十郎はそんなことを思いながら、茫然として見つめた。なぜか、心が温まるような眺めだった。
「お祖父ちゃんがよく言うのです。日が落ちてあたりが暗くなっても、川面だけが白く輝いているのを見ると、元気になれる。なんにもいいことがなくっても、ひとの心には光が残っていると思えるからって」(260-261ページ)
粗末な木賃宿にいた五人の「流れ星」と名乗る強盗団は、崇厳寺村にとっては「川明かり」であり、そしてなによりも、伊東七十郎の素朴で正直でまっすぐな姿こそが「川明かり」そのものである。本書は、これが書きたくて書かれたのではないかと思うほどである。そんな七十郎に「お若」も言う。「女はね、一度でもいいから大切にしてもらうと、自分を大切に思って生きていくことができるんです。わたしは七十郎さんから一生、胸に抱いていける宝物をもらったんですよ」と)266ページ)。
伊東七十郎が刺殺を命じられた甘利典膳は、借金のために父親が自害したことから「棒引き侍」とか「藩の面汚し」とか軽蔑されながら文武両道に励みながら、容姿も優れていたことから小姓組(藩所やその家族の世話をする役)として認められ、藩主に気に入られ、粉骨砕身して働き出世してきた人物であった。軽格の出であることから風当たりも強く、特に家老であった稲垣頼母の父親からは「成り上がり者」と蔑まれ、幾たびも危機を迎え、それを何とかしのいできて家老にまでのし上がったのである。大阪商人と癒着して得た金を藩内にばらまき、自らも私腹を肥やし、さらに藩政を牛耳るために上士の若者たちを切腹に追いやって上士の家を取り潰し、意のままに動く軽格の者を登用することを考えていた。
だが、肥やしていた私腹財産のことが藩主に知れ、一刻もその証拠を隠す必要があったのである。刺客が放たれたことも知っていたが、藩内一の遣い手である佐野又四郎がなんとかするだろうと思っていた。蔑まれてきた私怨を晴らすことも彼の脳裏には色濃くあった。
こうして、いよいよ川止めが止み、渡航が可能になった。七十郎が最後の朝を迎える日でもある。七十郎は皆に別れを告げて、ひとり川岸に向かう。甘利典膳の乗った輦台(れんだい・・川を渡るときに人を乗せるもの)が近づき、六人もの屈強な護衛がいる。臆病者である七十郎は恐ろしくなるが、それでも、典膳に向かっていく。しかし、棒立ちになったまま震えて動けない。そんな七十郎を見て、典膳はさげすむようにするだけである。
そのとき、七十郎の様子を案じていた五人の者たちが七十郎を助けるために駆けつけてきて一芝居打つ。典膳の護衛の武士たちはそちらに引きつけられ、ようやくひとりになった典膳に七十郎は名乗りを上げることができた。だが、典膳は、藩内一の臆病者と聞き、ひ弱そうに見える七十郎を冷笑するだけであった。七十郎は典膳に軽くあしらわれてしまい、典膳から斬られそうになる。だがその時、猿廻しの弥之助が飼っていた猿が典膳に飛びかかり、典膳は弥之助を殺そうとする。それを見て、震えていた七十郎は奮起し、典膳に向かっていく。そして、背中を斬られそうになるところで、脇差しを逆手にとったままで背中から典膳にぶつかり、不遜に笑っていた典膳を刺すのである。だが、護衛をしていた六人の侍たちが帰ってきて七十郎を取り囲む。
七十郎の窮地を見て、佐々豪右衛門を初めとする五人の者たちが命がけで七十郎を助け出そうとする。五人で屈強の侍六人に勝てるわけがないが、彼らは自分たちの命をかける。その姿を見て、「大切な人を守ろうと思えば怖いものはありません」(316ページ)と言い、七十郎は自分が斬られると進みである。そして、まさに刀が振り上げられたとき、綾瀬藩江戸屋敷詰の側用人が駆けつけてきて、ことを収めるのである。
すべてが収まり、木賃宿で知り合った五人や佐次右衛門、「おさと」らと分かれるときが来た。それぞれが川を渡っていく。「お若」も渡り賃が払えないので腰巻きだけで泳いでいく。それを見ながら、自分は一応藩に帰って報告はするが美祢とは夫婦にならないし、これからも臆病者として静かに生きていくだろうと考えていた。「お若」の肌がまぶしく光る。それを見ながら、女人の肌を見ることは妻だけであると言ってしまっていたことを思い出し、「お若」の肌を見てしまったのだから、国元に帰ったら「お若」を迎えにいこうと思うところで、この物語が爽やかに終わる。
読み終わって、単純だけれど、やはり並々ならぬ物語の展開と人物像を描きあげ、その中で人として生きることの上で大切にすべきことを盛り込んでいく作者に深く感服した。時代小説の神髄のようなものが作者の作品の中にはあると思う。
それはともかく、さて、葉室麟『川あかり』の続きであるが、大阪商人と癒着して私腹を肥やし、藩政を牛耳っていた家老の甘利典膳の刺殺を命じられた臆病者の伊東七十郎が川止めで知り合った佐々豪右衛門に連れて行かれた粗末な木賃宿には、川向こうの崇厳寺村の庄屋をしていたが病んで寝ついている佐次右衛門という老人とその孫の「さと」という娘、「五郎」という六歳ぐらいの子が階下にいて、佐々豪右衛門は伊東七十郎に、まず、挨拶料をやれとか、薬代を出せとかぶしつけに言うのである。伊東七十郎は面食らってしまうし、彼が寝泊まりすることになった二階には、白木の位牌を前にぶつぶつとお経を唱えている怪しげな坊主の徳元、猿廻しをしている弥之助、三味線を弾いて門付けの鳥追いをしているらしい二十二、三歳くらいの「お若」、やくざ者らしい遊び人の千吉がいて、それぞれ川あけを待っていた。
また、宿で飯炊きをしている「お茂婆」がいて、その木賃宿はいろいろな事情を抱えた人間が転がり込む吹き溜まりのような宿だった。朴訥で素朴な伊東七十郎は、そういう連中からからかわれながらもその宿で刺殺相手の甘利典膳が来るのを待つことにしたのである。そのくだりは面白おかしく丁寧に描かれている。雨は降り続き、なかなか川止めは明けそうにない。
そういう中で、佐々豪右衛門は、病で寝ついている佐次右衛門と孫たちの事情を伊東七十郎に話す。それは、10年前にも一月ほど雨が降り続き、巨勢川があふれそうになり、下流の大地主がもつ土地を救うために崇厳寺村がある土手の堤防を役人が切ってしまい、崇厳寺村が水没してしまった出来事であった。
下流の土地をもつ大地主は商人でもあり、藩に多額の金を貸し,苗字帯刀も許されていたので、綾瀬藩と隣接していた上野藩では、その田畑を救うために崇厳寺村を犠牲にしたのである。崇厳寺村の庄屋であった佐次右衛門は私財をはたいて水没した村の再建にかけずり回ったが、一人の力では無理で、そのうちに「おさと」たちの両親が流行病で死んでしまい、佐次右衛門は二人を引き取って村に帰るところであるというのである。その話を聞いて、伊東七十郎は、なけなしの一両を薬代として「おさと」に渡したりする。
そして、佐々豪右衛門から伊東七十郎の剣の腕が全く駄目なのを見抜かれたりして、伊東七十郎は自分が刺客であることを話し出すのである。佐々豪右衛門は「誰かが貧乏くじを引かねばならぬような話は、やはりおかしい」と言い、「ひとりだけが犠牲にならなければならないことなど、この世の中にはひとつもない。この世の苦は、皆で分かち合うべきものだ」と語るが(88-89ページ)、伊東七十郎は、「自分は臆病者だが、卑怯者ではない」(91ページ)と思うのである。伊東七十郎は、優しさのあまり剣の腕はからっきし駄目だが、身を守るための秘儀を父親から授けられていた。
相変わらず川止めが続く中で、七十郎が寝泊まりする木賃宿で一つの事件が起こる。逃げた女房を追って馬方の松蔵という男が斧をもって押しかけてきたのである。松蔵は女房が薬の行商人と浮気したと思い込み、行商人を斧で殺して女房を追いかけてきたのである。酔って乱暴を働き、「おさと」が人質に取られてしまう。そして遂に飯炊き婆の「お茂婆」が匿っていた女房が見つかってしまう。だれも手出しができずに七十郎の脇差しも取り上げられていた。だが、七十郎は、松蔵の隙を突いて棒手裏剣の技を繰り出し、「おさと」を助け、松蔵を捕らえるのである。
その時、七十郎が松蔵に言う言葉が彼の誠実な人柄を表す言葉になっている。彼はこう言う、
「松蔵殿、あんたは馬鹿だ。大事に思っている人なら、だまされたっていいじゃあないですか。信じるというのは、そういうことです」(112ぺーじ)。
これは、わたし自身が本当にそう思ってきたことで、こういう形で物語の展開の中で生き生きと語られることにひどく嬉しくなった言葉でもあり、葉室麟の他の作品でも随所に見られる深い意味合いのある言葉だとつくづく思う。
それはともかく、こうして伊東七十郎が剣の腕は駄目だが手裏剣の名手であることが知られてしまうが、捕縛に来た役人から、この辺りを荒らし回る「流れ星」と名乗る強盗団がいることを聞かされる。「流れ星」なる強盗団は、大店と武家屋敷ばかり狙う強盗団で、だれも気づかないうちに盗みを働き、署名を残していくという。
そして、実は木賃宿の二階に寝泊まりしている五人の男女がその「流れ星」なる強盗団で、七十郎は、偶然、怪しげな坊主の徳元が厨子の中に金の観音像をもっていることに気づいてしまう。そうしているうちに、役人が宿改めに来て、造り酒屋の大店である「出雲屋」から金の仏像が「流れ星」によって盗まれたことを告げる。七十郎は、徳元がもっていた金の観音像がそれであると気づいたが、役人の目からそれを隠し、彼らが「流れ星」であることを知る。彼らが強盗団となり、金の仏像を盗んだのには事情があった。
また、彼に刺殺を命じた増田惣右衛門から刺殺を急ぐように書状が届き、藩内屈指の剣の遣い手であり、稲垣頼母を暗殺したと思われる佐野又四郎が伊東七十郎を討つために追手として出たことを知らされる。七十郎は、自分ではとても適わないと愕然とする。
そこで、一味の首領格とも思える佐々豪右衛門から、その金の仏像を預かってくれと依頼され、その代わりに伊東七十郎に戦い方を教え、手助けすると申し出る。七十郎は、その申し出を一応受けて、その日から佐々豪右衛門の指導で稽古を始める。だが、七十郎の腕は上達しない。そんな中で、七十郎の追手である佐野又四郎の行くへを探っていた「お若」が人質として捕らえられてしまう。
伊東七十郎は、とても適わないと思いながらも「お若」を助けるために佐野又四郎と対決することを決心する。
「馬鹿を言うな。お主には大事な役目があるのだ。どこかに身を隠せ。お若は、わしらが取り戻す」と佐々豪右衛門は言う。だが、「ひと殺しを捕まえた後、お若さんから自分が人質になっても助けてくれるかと訊かれて、わたしは助けると答えました。ですから、わたしはお若さんを助けなければなりません」と七十郎は泣きそうな顔で言うのである。「恐ろしくて、いますぐ逃げ出したいです。でも、男が一度、口にしたことです。約束を守らなければ、お若さんは裏切られたと思うでしょう。わたしはお若さんにそんな思いはさせたくありません」と答えるのである(176ページ)。
この緊迫したくだりは胸を打つ。伊東七十郎の、どこまでもまっすぐで、人を悲しませたり、裏切られたた思いをもたせたりしたくないという決意は、彼の率直な人間性の豊かさを見事に表している。『いのちなりけり』の雨宮蔵人の青年版とも言えるだろう。
捕らわれた「お若」を救うために、伊東七十郎は剣の遣い手である佐野又四郎と一人対峙する。そして、斬られる寸前に、父親から身を守るために習っていた針を又四郎の目に放ち、彼を倒してしまうのである。そして、木賃宿の二階に寝起きする五人がなぜ強盗団の「流れ星」になったかの事情を知る。
十年前、巨勢川が氾濫したとき、佐々豪右衛門は崇厳寺村の寺子屋の師匠をしていて、徳元も弥之助も百姓であり、お若と千吉は豪右衛門の寺子屋に通っていたという。だが、大店の「出雲屋」がもっていた下流の田畑を救うために上野藩の役人が土手を切り壊して大水が崇厳寺村に流れ込み、徳元の女房と子どもが埋もれて死に、弥之助も村を離れて猿回しになったのである。そして、お若と千吉は、親を失った後に人買いに拐かされて江戸に売られてしまうのである。
佐々豪右衛門は二人を助け出すため江戸に行き、途中で出会った徳元と弥之助と共に二人を助け出して来たのである。ここにはその様子が詳しく記されているが、二人が人買いに拐かされた裏には、上野藩の大店であった「出雲屋」が絡んでいたのである。他方、崇厳寺村の庄屋であった佐次右衛門は、私財をなげうって村の再建を図っていたが、破産寸前となり、仕方なしに「出雲屋」に借金を頼った。「出雲屋」は千両の金を貸すといって証文を取り、とりあえず百両だけ貸したのである。ところが、残りを貸さないままで証文を盾に千両の借金の取り立てに来て、佐次右衛門の書画骨董を運び出し、佐次右衛門が最後の頼みとしていた金の仏像までも盗み出していたのである。金の仏像に関して「出雲屋」は知らぬ存ぜぬを言うだけである。
佐々豪右衛門と徳元、弥之助は、上野藩の役人と「出雲屋」の手代たちが酒盛りをしている「出雲屋」の別邸に行き、役人たちの刀や金目の物を持ち出し、こうして彼らは強盗団となり、「出雲屋」と関係がある大店や役人の屋敷だけを狙い、盗んだ金は村に送り、「出雲屋」に盗み取られた金の仏像を探していたのである。そして、ようやくそのありかを捜し出して、それを佐次右衛門に返すために盗み出してきたのだというのである。
この話を聞いて、伊東七十郎は、川あけまで金の仏像を守ることを「お若」に約束する。だが、そこに彼に刺殺を命じた増田惣右衛門から使わされて美祢本人が木賃宿にやってきた。綾瀬藩内で寺に立て籠もった若者たちが自分たちを扇動した儒学者を殺そうとして誤って庄屋の娘を殺してしまい、もはや甘利典膳を殺すしか道がなくなり、藩の遣い手であった佐野又四郎が追手になったことで七十郎が臆病風に吹かれて逃げ出すのではないかと案じ、美祢を差し出して念を押すためであった。
そこへ「出雲屋」自身が乗り込んできて、金の仏像を返せと言い出す。だが、伊東七十郎は、金の仏像は自分がもっているが真の持ち主がわかるまでは返せないと言い、「出雲屋」自身が金策に困っていると指摘する。それによって、ついてきていた上野藩の役人に「出雲屋」の借用書が大阪商人の手に渡ると上野藩は大変なことになると言い、役人たちと「出雲屋」を追い払うのである。
そして、念押しの犠牲となろうとする美祢に「典膳を討つのは、増田様から命じられたからではないのです。まして、稲垣家の五百石のためでも、美祢様のためでもありません。わたしは不正によって苦しむ領民のために刺客になりたいのです」(255ページ)と言って美祢を返すのである。
美祢は、自分がこれまでに七十郎に対して思い違いをしていたことに気づき、七十郎の本当の姿を知っていくが、七十郎は美祢を拒んでそのまま返す。彼は自分が返り討ちにあうだろうと思っていた。七十郎は、その夕暮れ、河畔で「おさと」から「川明かり」の話を聞く。それが本書の神髄でもあるので、ちょっと抜き出しておこう。
「七十郎さん、川明かりって知っていますか」
「川明かり? 知りません」
「もうじき川明かりが見えます。日が暮れて、あたりが暗くなっても川は白く輝いているんです。ほら・・・・」
おさとの言葉通りだった。
空は菫色で雲はまだ薄紫に染まっているが、山裾から河岸にかけては薄闇に覆われていた。だが、墨を塗ったかのような景色の中に、蛇行する川だけがほのかに白く浮き出ている.小波が銀色に輝き、生きているようにゆったりと流れていた。
川その物が光を放っているかのようである。
(まるで、黄泉の国を流れる命の川だ)
七十郎はそんなことを思いながら、茫然として見つめた。なぜか、心が温まるような眺めだった。
「お祖父ちゃんがよく言うのです。日が落ちてあたりが暗くなっても、川面だけが白く輝いているのを見ると、元気になれる。なんにもいいことがなくっても、ひとの心には光が残っていると思えるからって」(260-261ページ)
粗末な木賃宿にいた五人の「流れ星」と名乗る強盗団は、崇厳寺村にとっては「川明かり」であり、そしてなによりも、伊東七十郎の素朴で正直でまっすぐな姿こそが「川明かり」そのものである。本書は、これが書きたくて書かれたのではないかと思うほどである。そんな七十郎に「お若」も言う。「女はね、一度でもいいから大切にしてもらうと、自分を大切に思って生きていくことができるんです。わたしは七十郎さんから一生、胸に抱いていける宝物をもらったんですよ」と)266ページ)。
伊東七十郎が刺殺を命じられた甘利典膳は、借金のために父親が自害したことから「棒引き侍」とか「藩の面汚し」とか軽蔑されながら文武両道に励みながら、容姿も優れていたことから小姓組(藩所やその家族の世話をする役)として認められ、藩主に気に入られ、粉骨砕身して働き出世してきた人物であった。軽格の出であることから風当たりも強く、特に家老であった稲垣頼母の父親からは「成り上がり者」と蔑まれ、幾たびも危機を迎え、それを何とかしのいできて家老にまでのし上がったのである。大阪商人と癒着して得た金を藩内にばらまき、自らも私腹を肥やし、さらに藩政を牛耳るために上士の若者たちを切腹に追いやって上士の家を取り潰し、意のままに動く軽格の者を登用することを考えていた。
だが、肥やしていた私腹財産のことが藩主に知れ、一刻もその証拠を隠す必要があったのである。刺客が放たれたことも知っていたが、藩内一の遣い手である佐野又四郎がなんとかするだろうと思っていた。蔑まれてきた私怨を晴らすことも彼の脳裏には色濃くあった。
こうして、いよいよ川止めが止み、渡航が可能になった。七十郎が最後の朝を迎える日でもある。七十郎は皆に別れを告げて、ひとり川岸に向かう。甘利典膳の乗った輦台(れんだい・・川を渡るときに人を乗せるもの)が近づき、六人もの屈強な護衛がいる。臆病者である七十郎は恐ろしくなるが、それでも、典膳に向かっていく。しかし、棒立ちになったまま震えて動けない。そんな七十郎を見て、典膳はさげすむようにするだけである。
そのとき、七十郎の様子を案じていた五人の者たちが七十郎を助けるために駆けつけてきて一芝居打つ。典膳の護衛の武士たちはそちらに引きつけられ、ようやくひとりになった典膳に七十郎は名乗りを上げることができた。だが、典膳は、藩内一の臆病者と聞き、ひ弱そうに見える七十郎を冷笑するだけであった。七十郎は典膳に軽くあしらわれてしまい、典膳から斬られそうになる。だがその時、猿廻しの弥之助が飼っていた猿が典膳に飛びかかり、典膳は弥之助を殺そうとする。それを見て、震えていた七十郎は奮起し、典膳に向かっていく。そして、背中を斬られそうになるところで、脇差しを逆手にとったままで背中から典膳にぶつかり、不遜に笑っていた典膳を刺すのである。だが、護衛をしていた六人の侍たちが帰ってきて七十郎を取り囲む。
七十郎の窮地を見て、佐々豪右衛門を初めとする五人の者たちが命がけで七十郎を助け出そうとする。五人で屈強の侍六人に勝てるわけがないが、彼らは自分たちの命をかける。その姿を見て、「大切な人を守ろうと思えば怖いものはありません」(316ページ)と言い、七十郎は自分が斬られると進みである。そして、まさに刀が振り上げられたとき、綾瀬藩江戸屋敷詰の側用人が駆けつけてきて、ことを収めるのである。
すべてが収まり、木賃宿で知り合った五人や佐次右衛門、「おさと」らと分かれるときが来た。それぞれが川を渡っていく。「お若」も渡り賃が払えないので腰巻きだけで泳いでいく。それを見ながら、自分は一応藩に帰って報告はするが美祢とは夫婦にならないし、これからも臆病者として静かに生きていくだろうと考えていた。「お若」の肌がまぶしく光る。それを見ながら、女人の肌を見ることは妻だけであると言ってしまっていたことを思い出し、「お若」の肌を見てしまったのだから、国元に帰ったら「お若」を迎えにいこうと思うところで、この物語が爽やかに終わる。
読み終わって、単純だけれど、やはり並々ならぬ物語の展開と人物像を描きあげ、その中で人として生きることの上で大切にすべきことを盛り込んでいく作者に深く感服した。時代小説の神髄のようなものが作者の作品の中にはあると思う。
2011年12月7日水曜日
葉室麟『川あかり』(1)
昨日は雨模様で震えるほどの寒さだったが,今日はお昼近くになってよく晴れてきた。師走の日々が慌ただしく過ぎていく中で、可能ならひとつひとつを丁寧に、誠実にしながら過ごしたいと思っているが、いくつかの事柄は自分でも納得がいかないままに過ぎてしまう。
そういう中で,丁寧に構成されて描かれた葉室麟『川あかり』(2011年 双葉社)を、やはり大変興味深く、また感銘をもって読み終わった。葉室麟の作品は、『銀漢の賦』や『秋月記』、『いのちなりけり』、そして『花や散るらん』と読んできて、非常に優れた感銘深い、質の高い嬉しくなるような作品が続いたが、『川あかり』も、これまでとは少し文体を変えた軟らかさをもちながらも、心に深く残る作品だった。
これは、雨で川止め(川の渡航禁止)となった巨勢川のほとりで川の渡航が開始されるのを待つひとりの青年武士の真摯で、まっすぐな姿と、互いに支え合い愛情をもって生きていく人々の姿を描いた作品である。川止めを題材にした作品として、すぐに山本周五郎の『雨あがる』を思い起こしたが、『雨あがる』が苦境の中で生き抜こうとする夫婦の深い愛情の姿を描いた作品であるなら、これは、同じように苦境の中で、深い愛情をもちながら真摯に、誠実に生きる姿を見事な筆致で描き出した作品である。
川止めとなった巨勢川で渡航が開始されるのを待つ伊東七十郎は、自他共に認められた藩内一の臆病者として、これまで綾瀬藩の中で下級藩士として過ごしてきた青年武士である。ちなみに、舞台の背景となっている巨勢川は佐賀県に流れている川であるし、その源とされている鹿伏山は長野県にその名前があり、また、京都の丹波に綾部藩というのはあったが、綾瀬藩という藩はなく、いずれもが作者が創作した背景だろうと思う。
ともあれ、自他共に臆病者と認められる伊東七十郎に、江戸から急遽帰国しようとする家老の甘利典膳を刺殺するようにとの密命が下されるのである。綾瀬藩は、中老の稲垣頼母を長とする一派と家老の甘利典膳を長とする一派の藩を二分する派閥抗争が激しくなり、派閥勢力の一方の長である稲垣頼母が何者かに闇討ちをかけられて殺される事件が起こっていた。藩政を巡る権力争いや派閥抗争は、単に江戸時代の諸藩だけでなく、どこの組織でも起こることであるが、綾瀬藩の場合は、小身の身分から家老にまで成り上がった甘利典膳が藩財政を立て直すために急激な藩内改革を断行したため、旧来の重臣たちが身を守ろうと集まって稲垣派を作り、甘利典膳への抵抗勢力となっていたのである。この辺りの藩政を巡る事情は2009年に角川書店から出された『秋月記』で記された秋月藩の藩政改革を巡る事情を思い起こさせるものでもある。もちろん、本書では、人物像は全く異なっている。
稲垣頼母が殺されたことから、稲垣派は崩壊に追い込まれ、以前から策士として聞こえていた元勘定奉行の増田惣右衛門が稲垣派をまとめることになる。しかし、保守色の強い増田惣右衛門に対して稲垣派の血気にはやる若者たちが稲垣頼母の暗殺についての藩主への直訴を求めて寺に立て籠もっていた。巧妙に立ち回る儒学者の扇動にあおられたところもあった。彼らを扇動した儒学者の振る舞いには裏があったのである。だが、そのことはまだ明らかにされない。
臆病者であった伊東七十郎は、親の代から稲垣派には属していたが、軽格でもあり、恐ろしさもあって、立て籠もりには加わっていなかった。また、周囲からは何の期待もされず無視されるような存在でしかなかった。寺の立て籠もりに誘われるが、場合によっては切腹覚悟であると聞き、母と妹たちを残しては死ねないと思い、何よりも切腹が怖くて青ざめてしまい、若者たちからは嘲りを受けていたのである。
その伊東七十郎に稲垣派の長である増田惣右衛門から藩堺にある巨勢川で甘利典膳を待ち受けて殺すように命令が下りるのである。増田惣右衛門は、家老の甘利典膳が藩政改革の中で大阪商人と癒着して私腹を肥やしていた事実をつかんでいたし、典膳が帰国すれば、寺に立て籠もった若者たちを制裁して、私腹を肥やした証拠を隠滅させて事件を終えるつもりであることを恐れ、なんとか典膳の帰国を阻止しようとしたのである。だが、甘利典膳の剣の腕も相当なもので、藩内のだれも彼を討つことなどできないので、自他共に認める臆病者である伊東七十郎ならば、相手が隙を見せて近寄ることができるのではないかと言う。
そして、伊東七十郎が密かに想いをもっていた稲垣頼母の娘で美貌の美祢という娘と夫婦にさせると約束する。美祢は寺に立て籠もった若者たちの指導的立場にあった藩士に想いを寄せており、その藩士を救うために自分を犠牲にするというのである。伊東七十郎は、その美祢の気持ちを知っており、それだけに、美祢に想いを寄せてはいるが夫婦になるつもりはなく、ただ、美祢の願いを聞き入れたいという思いで、それを引き受ける。
増田惣右衛門は、策士であり、臆病者の伊東七十郎が甘利典膳を殺すことなどはとうていできないが、巨勢川のほとりの隣国で騒動を起こせば、その間に何とかなると考えていたのである。伊東七十郎は、典膳の足止めのための捨て駒として利用されるのである。刺客はいつも利用されるだけの捨て駒に過ぎない。テロリストや下級兵士はいつでもそのようにしか扱われない。
伊東七十郎は、そのことも十分に承知している。しかし、自分はただ、美祢と約束をしたから、その約束を果たすだけだと言うのである。
こうした背景を背負って巨勢川のほとりで伊東七十郎は、川の渡航が許可されるのを待つのだが、路銀が少なくなったこともあり、いつ川あけが行われるかはわからない状態なので、そこで知り合った佐々豪右衛門という牢人者と共に粗末な木賃宿で寝泊まりすることになるのである。この木賃宿には不可思議な男女が寝泊まりしており、素朴でまっすぐな伊東七十郎は、その木賃宿で佐々豪右衛門から手玉に取られていくようになる。伊東七十郎は、佐々豪右衛門を中心とするその木賃宿の泊まり客と不思議な交流を持っていくことになるのである。
だが、この交流こそが本書の主題で、伊東七十郎の素朴でまっすぐな人柄が、難問を抱えた多くの人たちの中で、まるで「川あかり」のように輝いていく物語が展開されていくのである。今日は他のこともしなければならず、そのことについては、また今度にでも記しておくことにする。ともあれ、これも名作であることは間違いない。
そういう中で,丁寧に構成されて描かれた葉室麟『川あかり』(2011年 双葉社)を、やはり大変興味深く、また感銘をもって読み終わった。葉室麟の作品は、『銀漢の賦』や『秋月記』、『いのちなりけり』、そして『花や散るらん』と読んできて、非常に優れた感銘深い、質の高い嬉しくなるような作品が続いたが、『川あかり』も、これまでとは少し文体を変えた軟らかさをもちながらも、心に深く残る作品だった。
これは、雨で川止め(川の渡航禁止)となった巨勢川のほとりで川の渡航が開始されるのを待つひとりの青年武士の真摯で、まっすぐな姿と、互いに支え合い愛情をもって生きていく人々の姿を描いた作品である。川止めを題材にした作品として、すぐに山本周五郎の『雨あがる』を思い起こしたが、『雨あがる』が苦境の中で生き抜こうとする夫婦の深い愛情の姿を描いた作品であるなら、これは、同じように苦境の中で、深い愛情をもちながら真摯に、誠実に生きる姿を見事な筆致で描き出した作品である。
川止めとなった巨勢川で渡航が開始されるのを待つ伊東七十郎は、自他共に認められた藩内一の臆病者として、これまで綾瀬藩の中で下級藩士として過ごしてきた青年武士である。ちなみに、舞台の背景となっている巨勢川は佐賀県に流れている川であるし、その源とされている鹿伏山は長野県にその名前があり、また、京都の丹波に綾部藩というのはあったが、綾瀬藩という藩はなく、いずれもが作者が創作した背景だろうと思う。
ともあれ、自他共に臆病者と認められる伊東七十郎に、江戸から急遽帰国しようとする家老の甘利典膳を刺殺するようにとの密命が下されるのである。綾瀬藩は、中老の稲垣頼母を長とする一派と家老の甘利典膳を長とする一派の藩を二分する派閥抗争が激しくなり、派閥勢力の一方の長である稲垣頼母が何者かに闇討ちをかけられて殺される事件が起こっていた。藩政を巡る権力争いや派閥抗争は、単に江戸時代の諸藩だけでなく、どこの組織でも起こることであるが、綾瀬藩の場合は、小身の身分から家老にまで成り上がった甘利典膳が藩財政を立て直すために急激な藩内改革を断行したため、旧来の重臣たちが身を守ろうと集まって稲垣派を作り、甘利典膳への抵抗勢力となっていたのである。この辺りの藩政を巡る事情は2009年に角川書店から出された『秋月記』で記された秋月藩の藩政改革を巡る事情を思い起こさせるものでもある。もちろん、本書では、人物像は全く異なっている。
稲垣頼母が殺されたことから、稲垣派は崩壊に追い込まれ、以前から策士として聞こえていた元勘定奉行の増田惣右衛門が稲垣派をまとめることになる。しかし、保守色の強い増田惣右衛門に対して稲垣派の血気にはやる若者たちが稲垣頼母の暗殺についての藩主への直訴を求めて寺に立て籠もっていた。巧妙に立ち回る儒学者の扇動にあおられたところもあった。彼らを扇動した儒学者の振る舞いには裏があったのである。だが、そのことはまだ明らかにされない。
臆病者であった伊東七十郎は、親の代から稲垣派には属していたが、軽格でもあり、恐ろしさもあって、立て籠もりには加わっていなかった。また、周囲からは何の期待もされず無視されるような存在でしかなかった。寺の立て籠もりに誘われるが、場合によっては切腹覚悟であると聞き、母と妹たちを残しては死ねないと思い、何よりも切腹が怖くて青ざめてしまい、若者たちからは嘲りを受けていたのである。
その伊東七十郎に稲垣派の長である増田惣右衛門から藩堺にある巨勢川で甘利典膳を待ち受けて殺すように命令が下りるのである。増田惣右衛門は、家老の甘利典膳が藩政改革の中で大阪商人と癒着して私腹を肥やしていた事実をつかんでいたし、典膳が帰国すれば、寺に立て籠もった若者たちを制裁して、私腹を肥やした証拠を隠滅させて事件を終えるつもりであることを恐れ、なんとか典膳の帰国を阻止しようとしたのである。だが、甘利典膳の剣の腕も相当なもので、藩内のだれも彼を討つことなどできないので、自他共に認める臆病者である伊東七十郎ならば、相手が隙を見せて近寄ることができるのではないかと言う。
そして、伊東七十郎が密かに想いをもっていた稲垣頼母の娘で美貌の美祢という娘と夫婦にさせると約束する。美祢は寺に立て籠もった若者たちの指導的立場にあった藩士に想いを寄せており、その藩士を救うために自分を犠牲にするというのである。伊東七十郎は、その美祢の気持ちを知っており、それだけに、美祢に想いを寄せてはいるが夫婦になるつもりはなく、ただ、美祢の願いを聞き入れたいという思いで、それを引き受ける。
増田惣右衛門は、策士であり、臆病者の伊東七十郎が甘利典膳を殺すことなどはとうていできないが、巨勢川のほとりの隣国で騒動を起こせば、その間に何とかなると考えていたのである。伊東七十郎は、典膳の足止めのための捨て駒として利用されるのである。刺客はいつも利用されるだけの捨て駒に過ぎない。テロリストや下級兵士はいつでもそのようにしか扱われない。
伊東七十郎は、そのことも十分に承知している。しかし、自分はただ、美祢と約束をしたから、その約束を果たすだけだと言うのである。
こうした背景を背負って巨勢川のほとりで伊東七十郎は、川の渡航が許可されるのを待つのだが、路銀が少なくなったこともあり、いつ川あけが行われるかはわからない状態なので、そこで知り合った佐々豪右衛門という牢人者と共に粗末な木賃宿で寝泊まりすることになるのである。この木賃宿には不可思議な男女が寝泊まりしており、素朴でまっすぐな伊東七十郎は、その木賃宿で佐々豪右衛門から手玉に取られていくようになる。伊東七十郎は、佐々豪右衛門を中心とするその木賃宿の泊まり客と不思議な交流を持っていくことになるのである。
だが、この交流こそが本書の主題で、伊東七十郎の素朴でまっすぐな人柄が、難問を抱えた多くの人たちの中で、まるで「川あかり」のように輝いていく物語が展開されていくのである。今日は他のこともしなければならず、そのことについては、また今度にでも記しておくことにする。ともあれ、これも名作であることは間違いない。
2011年12月5日月曜日
高橋克彦『蘭陽きらら舞』
昨日からよく晴れた冬空が広がるようになった。今日もよく晴れて気持ちがよいのだが、どことなく疲れが抜けきれないままで目覚めてしまい、あれこれとしなければならないことはあってもんなかなか気乗りがしない。手帳に書き出してあることをただ眺めるばかりである。「これではいかんよ」と思いつつ朝から仕事に手をつけていた。
昨夜、高橋克彦『蘭陽きらら舞』(2009年 文藝春秋社)を読み終えた。これは以前に読んだ『だましゑ歌麿』(1999年 文藝春秋社)や『おこう紅絵暦』(2003年 文藝春秋社)、あるいはまだ読んではいないが、『春朗合わせ鏡』(2006年 文藝春秋社)の続編のような作品で、『おこう紅絵暦』を読んだ時にも思ったのだが、前作を読まないと登場する人物たちやその繋がり、背景などがさっぱいわからないという不親切な作品である。
だが、「春朗」というのは葛飾北斎のことで、『だましゑ歌麿』で人気絵師であった喜多川歌麿の起こした事件に関連して南町奉行所同心であった仙波一之進と出会い、彼の手助けをしていくようになり、また公儀お庭番の家系であったことが記されていくのだが、その仙波一之進の妻となったのが柳橋の美貌の売れっ子芸者であった「おこう」で、一之進の父親で隠居した左門と共に、いわばロッキングチェアー・デティクティブ(揺り椅子探偵)のような名推理を発揮するのである。仙波一之進は南町奉行所筆頭与力に出世している。本書でも取り扱われる事件の重要な鍵は「おこう」が解いていく構成が取られている。その「おこう」を中心にしたのが『おこう紅絵暦』であった。
本書は、「春朗(葛飾北斎)」の友人で、売れない女形役者であり、トンボ(空中回転)を得意とする「蘭陽」を中心に物語が展開していく。「蘭陽」は、役者として売れないことの悲哀や「おとこおんな」として生きていることの辛さ、そして多くの秘密を抱えながら生きているが、底抜けに楽天的で、絵師として生きていこうとする「春朗(北斎)」と名コンビを組んでいくのである。「きらら舞」というのは、この「蘭陽」がトンボ(宙返り)をするときにきらきら光る雲母などの粉をまくところから名づけられた「蘭陽」の得意芸である。
本書で取り扱われるのは、芝居小屋の金が盗まれた事件でとばっちりを受けて役者稼業を廃業させられていた「蘭陽」に戯作者である勝表俵(のちの鶴屋南北)から芝居の話が持ち込まれ、その事件には無関係だったことを証する必要があって、「春朗」と共に芝居小屋の金が盗まれた事件の真相を突きとめていく第一話「きらら舞」や、芝居で使われた古着を切って売り出し一儲けをたくらんだところが、欲をだした古着商に古着売買証を取られたのを取り返していく第二話「はぎ格子」、一家心中した商家に化物が出るという噂を芝居の前評判を高めるために使おうとした表俵の意向を受けて、「蘭陽」と「春朗」が化物屋敷に出かけていくことになり、一家心中の話を聞いた「おこう」が、それが心中に見せかけた殺人であることを見抜いて、「蘭陽」が一芝居打って犯人をあぶり出していく第三話「化物屋敷」など、十二話に渡って物語が展開されている。
各物語の詳細を書くまでもなく、題材は極めて面白いのだが、残念に思うのは、複雑な人間模様が予測される事件でも、「おこう」があっさりと謎を解き、「蘭陽」と「春朗」が名コンビを組みながら真相を実証していくという構造がいずれも取られていて、北斎や鶴屋南北が登場している割には展開があっさりしすぎている気がすることである。当時の絵師や戯作者たちは松平定信の贅沢禁止令もあってかなり苦労したのだが、そうした生活の苦労や泥臭さ、苦闘などは少ししか触れられずに、深みは感じられない。
この作品群の中では、やはり、第一作の『だましゑ歌麿』が一番面白く、まあ、こういう作風もあるのかも知れないが、少なくともわたしのような者にとっては、あっさり読み飛ばしてしまったという印象しか残らない作品だった。
北斎のあの絵のすごさは並の人間にはない凄さで、やはり天才としか言いようがないのだが、天才は生きることに人一倍の苦労をするのだから、そうしたものがにじみ出てくればよいのだが、本書で描かれる北斎(春朗)は、ことさら北斎でなくてもよい気がしたからかも知れない。もう少し北斎の人間性が描かれればよいと思うのは、もちろん、わたしの勝手な望みではあるだろうが。少なくとも、これは娯楽小説で、読んで心が震えるようなものではなかった。
個人的に、この季節には心が震えるような作品を読みたいと思ったりする。そういうわたしの読者としての心情があって、あまり面白く読めなかったのかも知れないと思ったりもする。今年は特に東北大震災が起こり、何もかも奪い去った津波が去った後のがれきの中で、ひとり花束を抱えて涙を流しながら海に向かって佇んでいた少女の報道写真を見て、涙がぽろぽろこぼれてならなかったから、楽天的であればもっと楽天的に、悲観的であれば深く心をえぐるような、そういうことを求めるからだろう。
昨夜、高橋克彦『蘭陽きらら舞』(2009年 文藝春秋社)を読み終えた。これは以前に読んだ『だましゑ歌麿』(1999年 文藝春秋社)や『おこう紅絵暦』(2003年 文藝春秋社)、あるいはまだ読んではいないが、『春朗合わせ鏡』(2006年 文藝春秋社)の続編のような作品で、『おこう紅絵暦』を読んだ時にも思ったのだが、前作を読まないと登場する人物たちやその繋がり、背景などがさっぱいわからないという不親切な作品である。
だが、「春朗」というのは葛飾北斎のことで、『だましゑ歌麿』で人気絵師であった喜多川歌麿の起こした事件に関連して南町奉行所同心であった仙波一之進と出会い、彼の手助けをしていくようになり、また公儀お庭番の家系であったことが記されていくのだが、その仙波一之進の妻となったのが柳橋の美貌の売れっ子芸者であった「おこう」で、一之進の父親で隠居した左門と共に、いわばロッキングチェアー・デティクティブ(揺り椅子探偵)のような名推理を発揮するのである。仙波一之進は南町奉行所筆頭与力に出世している。本書でも取り扱われる事件の重要な鍵は「おこう」が解いていく構成が取られている。その「おこう」を中心にしたのが『おこう紅絵暦』であった。
本書は、「春朗(葛飾北斎)」の友人で、売れない女形役者であり、トンボ(空中回転)を得意とする「蘭陽」を中心に物語が展開していく。「蘭陽」は、役者として売れないことの悲哀や「おとこおんな」として生きていることの辛さ、そして多くの秘密を抱えながら生きているが、底抜けに楽天的で、絵師として生きていこうとする「春朗(北斎)」と名コンビを組んでいくのである。「きらら舞」というのは、この「蘭陽」がトンボ(宙返り)をするときにきらきら光る雲母などの粉をまくところから名づけられた「蘭陽」の得意芸である。
本書で取り扱われるのは、芝居小屋の金が盗まれた事件でとばっちりを受けて役者稼業を廃業させられていた「蘭陽」に戯作者である勝表俵(のちの鶴屋南北)から芝居の話が持ち込まれ、その事件には無関係だったことを証する必要があって、「春朗」と共に芝居小屋の金が盗まれた事件の真相を突きとめていく第一話「きらら舞」や、芝居で使われた古着を切って売り出し一儲けをたくらんだところが、欲をだした古着商に古着売買証を取られたのを取り返していく第二話「はぎ格子」、一家心中した商家に化物が出るという噂を芝居の前評判を高めるために使おうとした表俵の意向を受けて、「蘭陽」と「春朗」が化物屋敷に出かけていくことになり、一家心中の話を聞いた「おこう」が、それが心中に見せかけた殺人であることを見抜いて、「蘭陽」が一芝居打って犯人をあぶり出していく第三話「化物屋敷」など、十二話に渡って物語が展開されている。
各物語の詳細を書くまでもなく、題材は極めて面白いのだが、残念に思うのは、複雑な人間模様が予測される事件でも、「おこう」があっさりと謎を解き、「蘭陽」と「春朗」が名コンビを組みながら真相を実証していくという構造がいずれも取られていて、北斎や鶴屋南北が登場している割には展開があっさりしすぎている気がすることである。当時の絵師や戯作者たちは松平定信の贅沢禁止令もあってかなり苦労したのだが、そうした生活の苦労や泥臭さ、苦闘などは少ししか触れられずに、深みは感じられない。
この作品群の中では、やはり、第一作の『だましゑ歌麿』が一番面白く、まあ、こういう作風もあるのかも知れないが、少なくともわたしのような者にとっては、あっさり読み飛ばしてしまったという印象しか残らない作品だった。
北斎のあの絵のすごさは並の人間にはない凄さで、やはり天才としか言いようがないのだが、天才は生きることに人一倍の苦労をするのだから、そうしたものがにじみ出てくればよいのだが、本書で描かれる北斎(春朗)は、ことさら北斎でなくてもよい気がしたからかも知れない。もう少し北斎の人間性が描かれればよいと思うのは、もちろん、わたしの勝手な望みではあるだろうが。少なくとも、これは娯楽小説で、読んで心が震えるようなものではなかった。
個人的に、この季節には心が震えるような作品を読みたいと思ったりする。そういうわたしの読者としての心情があって、あまり面白く読めなかったのかも知れないと思ったりもする。今年は特に東北大震災が起こり、何もかも奪い去った津波が去った後のがれきの中で、ひとり花束を抱えて涙を流しながら海に向かって佇んでいた少女の報道写真を見て、涙がぽろぽろこぼれてならなかったから、楽天的であればもっと楽天的に、悲観的であれば深く心をえぐるような、そういうことを求めるからだろう。
2011年12月2日金曜日
葉室麟『花や散るらん』(2)
師走に入ると、やはり寒さが一段と厳しくなったような気がする。昨日から雨模様の寒い日となり、平地でも雪が降るかも知れないとの予報が出ている。こんな寒い日々は愛する人と暖かく過ごすのが一番だろうが、わたしの現実では不可能事であるから、節電が叫ばれてはいるが、せいぜい暖房を強くして湯豆腐でも作ろうかと思ったりする。
さて、『花や散るらん』の続きであるが、桂昌院への従一位叙任は公家方と大奥の画策にも関わらず決定され、事柄が別の進展となっていく。桂昌院への従一位の叙位決定で咲弥の大奥での役割は終わったように見受けられたが、浅野内匠頭の刃傷沙汰の折りに見事に大奥を取り鎮めた彼女は、そのまま大奥に留められて出ることができず、ついに徳川綱吉から夜伽の声がかかってしまう。大奥では、30歳を過ぎて綱吉から声がかかった場合、いったん家老の柳沢保明に下げ渡され、綱吉が柳沢の屋敷に赴いた際にそこで綱吉との同衾を強要されるのであった。柳沢保明の側女であった「お染」がそれの例であり、「お染」が生んだ子は徳川綱吉の子ではないかといわれている。
監禁同様に柳沢家に押し込められた咲弥の身が危うくなる。彼女は、夫の蔵人が自分を助けに来てくれると固く信じていたが、それが間に合わずにいよいよとなったら舌を噛み切って死ぬことを決意する。帰りが遅い咲弥の身を案じ、彼女を取り戻す決意をして京都から江戸に出てきていた雨宮蔵人はそのことを知る術もなかったが、咲弥から届けられた和歌を知り、蔵人は咲弥を救い出すため柳沢家に乗り込んでいくのである。そして、柳沢家が火事になった隙を突いて奮闘しながら彼女を助け出すのである。
他方、赤穂の牢人たちは大石内蔵助を中心にまとまりはじめる。この辺りの経過は、よく調べられて描かれており、大石内蔵助の人となりも見事に描かれ、雨宮蔵人が大石内蔵助に自分と似たようなところがあることを認めていったりするという姿で、大石内蔵助の器の大きな姿と雨宮蔵人の姿が重ねられていく。
そして、討ち入り間近の日、咲弥を助けて飛脚屋に潜んでいた蔵人が堀部安兵衛に会いにいった隙を突いて娘の「香也」が何者かに誘拐されてしまう。
雨宮蔵人と咲弥の娘「香也」は、実は、吉良上野介が京都で知り合った女に生ませた子で、吉良上野介が愛した女性もその子の「香也」の母親も、吉良上野介の正室である富子が放った神尾与右衛門に斬り殺されていたのである。吉良上野介の正室であった富子は、米沢藩主上杉定勝の四女で、武門の誉れ高い上杉家は、当時30万石の米沢藩の大名であり、高家とはいえ4千石程度の旗本である吉良家とは格が違っていた。富子は吉良家に嫁いでも上杉家での暮らし方を変えることなく、気位が高く、夫が外で女を作り、しかも子までなしたことが後々跡目相続の禍根を残すことになることを危ぶんで、神尾与右衛門に殺させたのである。従って、「香也」は吉良上野介の孫であった。そして、たまたま「香也」の両親が殺される場に行き会わせた咲弥と蔵人が「香也」だけを助けることができて、自分たちの子として育てていたのである。
隠居した吉良上野介は棲息生活の中で孫娘に会いたいと願い神尾与右衛門に掠わせ、吉良家に留め置いたのである。そして、雨宮蔵人がそれを知ったのは赤穂浪士の討ち入りの日であった。雨宮蔵人は赤穂浪士の討ち入りを知っていたが、蔵人は「香也」を助け出しに行き、討ち入りの最中に「香也」を見つけて助け出すのである。
この辺りのことで、いくつか記しておきたいことがある。一つは、物語の初めから吉良上野介の手先として働いてきていた神尾与右衛門のことで、神尾与右衛門は、大柄で恐ろしげな顔つきをしていたために人々から恐れられるだけで慕われることがなかったが、「香也」の実父だけが彼と親交をもってくれていた。神尾与右衛門は、もともと富子が吉良家に嫁ぐときに上杉家からきた人物で、富子の命に服従を強要されていた。そのために、自分の友人夫妻で「香也」の両親を殺さなければならなかったのである。復命は家臣として絶対であった。吉良上野介と富子の間は冷え切っており、神尾与右衛門は、一方では吉良上野の命を受けると共に、他方では富子の命に服従を強いられていた。つまり、二人の主人に仕えなければならずに、板挟みの状態に置かれていたのである。
この神尾与右衛門に蔵人は、「その主のためなら死んでもよいと思える相手こそがわが主じゃ」と言い、「いまのわしにとっては、咲弥と香也が主だということになるのう」と語る(242ページ)。この蔵人の言葉と姿に神尾与右衛門は打たれて、富子が去った後も吉良家に留まり、赤穂浪士の討ち入りの際に堀部安兵衛から斬られて死ぬのである。彼は、蔵人の言葉によって死地を求め、その場が与えられたといってもよいだろう。自分の主とは誰か、蔵人は躊躇することなく、それは愛する者だと言う。そういう生き方に徹することこそが最も大切なのだとわたしも思う。
二つ目は、蔵人が娘の「香也」を助けるために討ち入りが行われることを知って吉良家に赴くときに、もし討ち入りと重なると赤穂の浪士たちが間違えて蔵人を襲うことがあるかも知れないと言われ、「なんの、おのれの心が直であれば、間違いは起きますまい」というくだりである(274ページ)。この「心が直くあること」、「心を直くすること」、それが雨宮蔵人の神髄であり、この物語は『いのちなりけり』からそういう姿を主題としてもっていたことが改めてわかる。人々は雨宮蔵人のこの心の直さに深い感銘を与えられていくのである。
三つ目は、いよいよ討ち入りの最後、赤穂浪士たちが吉良上野介を捜し出そうとしているときに、その敷地内で雨宮蔵人はようやく「香也」を見つけるが、「香也」が「自分の大好きな人を失いたくない」と言われ、吉良上野介が自分のお爺様だと聞かされ、お爺様を守りたいといくことを承知して、赤穂浪士たちが武士の義によって討ち入りしたことはわかっているが娘との約束は果たさなければならないと決め、47人の赤穂浪士に単身立ち向かうところである。
物語は、そこでその様子を物陰から見ていた吉良上野介が自ら名乗り出て討たれ、蔵人と香也は無事に吉良家を出て行くことになている。もちろん、それは作者の創作だが、何が義かということに対して蔵人が娘との約束を果たすことを躊躇なく選択する姿は、心に迫るものがある。
雪が降りしきる中で「香也」を抱いて門から出たときに、背後で赤穂浪士たちの勝鬨の声が上がる。
「蔵人の腕に抱かれた香也が空を見上げた。
『お父上、雪が-』
薄紫の雲から白い花のように雪が降ってくる。蔵人はつぶやいた。
『いのちの花が散っているのだ』」(287ページ)
と結末が描写される。一篇の短い詩のような言葉でこの物語が終わる時、わたしは本を閉じて深い感銘の中に置かれた。
その他にも、本書には後に国学者の荷田春満(かだのあずまろ)となった羽倉斎(はぐらいつき)と柳沢保明の愛妾にされた公家の娘である正親町町子(おおぎまち まちこ)との実らない恋が、蔵人と咲弥の深い愛情の姿と重ねられて描かれたりする。咲弥が蔵人による救出を信じ切り、そして、実際にその通りに蔵人が柳沢保明の手から咲弥を救い出したとき、町子は咲弥にたいして、「ほんまに幸せなおなごがいた」と思うのである。
朝廷方と幕府、大奥内での勢力争い、徳川綱吉や柳沢保明、吉良上野介、浅野内匠頭、そして大奥やそれぞれの女性たち、そういうすべてがどろどろとした人間たちがうごめく中で、雨宮蔵人と咲弥は「心が直」で、ただひたすら愛する者を信じ、そのために生きる。そういう描き方がされて、まことに見事な作品だと思っている。
人は、自分が愛する者のために生きており、またそのように生きている自分を愛する者がわかってくれていると思えること以上に命の充実はない。人の幸せの究極の姿がこの雨宮蔵人と咲弥にあり、作者が描きたいと思っていた姿が見事な、多くの歴史上の人物や出来事の中での構成と展開の中で示されている。改めて、葉室麟という優れた作家の作品を読めたことを心底思うような感銘深い作品だった。
さて、『花や散るらん』の続きであるが、桂昌院への従一位叙任は公家方と大奥の画策にも関わらず決定され、事柄が別の進展となっていく。桂昌院への従一位の叙位決定で咲弥の大奥での役割は終わったように見受けられたが、浅野内匠頭の刃傷沙汰の折りに見事に大奥を取り鎮めた彼女は、そのまま大奥に留められて出ることができず、ついに徳川綱吉から夜伽の声がかかってしまう。大奥では、30歳を過ぎて綱吉から声がかかった場合、いったん家老の柳沢保明に下げ渡され、綱吉が柳沢の屋敷に赴いた際にそこで綱吉との同衾を強要されるのであった。柳沢保明の側女であった「お染」がそれの例であり、「お染」が生んだ子は徳川綱吉の子ではないかといわれている。
監禁同様に柳沢家に押し込められた咲弥の身が危うくなる。彼女は、夫の蔵人が自分を助けに来てくれると固く信じていたが、それが間に合わずにいよいよとなったら舌を噛み切って死ぬことを決意する。帰りが遅い咲弥の身を案じ、彼女を取り戻す決意をして京都から江戸に出てきていた雨宮蔵人はそのことを知る術もなかったが、咲弥から届けられた和歌を知り、蔵人は咲弥を救い出すため柳沢家に乗り込んでいくのである。そして、柳沢家が火事になった隙を突いて奮闘しながら彼女を助け出すのである。
他方、赤穂の牢人たちは大石内蔵助を中心にまとまりはじめる。この辺りの経過は、よく調べられて描かれており、大石内蔵助の人となりも見事に描かれ、雨宮蔵人が大石内蔵助に自分と似たようなところがあることを認めていったりするという姿で、大石内蔵助の器の大きな姿と雨宮蔵人の姿が重ねられていく。
そして、討ち入り間近の日、咲弥を助けて飛脚屋に潜んでいた蔵人が堀部安兵衛に会いにいった隙を突いて娘の「香也」が何者かに誘拐されてしまう。
雨宮蔵人と咲弥の娘「香也」は、実は、吉良上野介が京都で知り合った女に生ませた子で、吉良上野介が愛した女性もその子の「香也」の母親も、吉良上野介の正室である富子が放った神尾与右衛門に斬り殺されていたのである。吉良上野介の正室であった富子は、米沢藩主上杉定勝の四女で、武門の誉れ高い上杉家は、当時30万石の米沢藩の大名であり、高家とはいえ4千石程度の旗本である吉良家とは格が違っていた。富子は吉良家に嫁いでも上杉家での暮らし方を変えることなく、気位が高く、夫が外で女を作り、しかも子までなしたことが後々跡目相続の禍根を残すことになることを危ぶんで、神尾与右衛門に殺させたのである。従って、「香也」は吉良上野介の孫であった。そして、たまたま「香也」の両親が殺される場に行き会わせた咲弥と蔵人が「香也」だけを助けることができて、自分たちの子として育てていたのである。
隠居した吉良上野介は棲息生活の中で孫娘に会いたいと願い神尾与右衛門に掠わせ、吉良家に留め置いたのである。そして、雨宮蔵人がそれを知ったのは赤穂浪士の討ち入りの日であった。雨宮蔵人は赤穂浪士の討ち入りを知っていたが、蔵人は「香也」を助け出しに行き、討ち入りの最中に「香也」を見つけて助け出すのである。
この辺りのことで、いくつか記しておきたいことがある。一つは、物語の初めから吉良上野介の手先として働いてきていた神尾与右衛門のことで、神尾与右衛門は、大柄で恐ろしげな顔つきをしていたために人々から恐れられるだけで慕われることがなかったが、「香也」の実父だけが彼と親交をもってくれていた。神尾与右衛門は、もともと富子が吉良家に嫁ぐときに上杉家からきた人物で、富子の命に服従を強要されていた。そのために、自分の友人夫妻で「香也」の両親を殺さなければならなかったのである。復命は家臣として絶対であった。吉良上野介と富子の間は冷え切っており、神尾与右衛門は、一方では吉良上野の命を受けると共に、他方では富子の命に服従を強いられていた。つまり、二人の主人に仕えなければならずに、板挟みの状態に置かれていたのである。
この神尾与右衛門に蔵人は、「その主のためなら死んでもよいと思える相手こそがわが主じゃ」と言い、「いまのわしにとっては、咲弥と香也が主だということになるのう」と語る(242ページ)。この蔵人の言葉と姿に神尾与右衛門は打たれて、富子が去った後も吉良家に留まり、赤穂浪士の討ち入りの際に堀部安兵衛から斬られて死ぬのである。彼は、蔵人の言葉によって死地を求め、その場が与えられたといってもよいだろう。自分の主とは誰か、蔵人は躊躇することなく、それは愛する者だと言う。そういう生き方に徹することこそが最も大切なのだとわたしも思う。
二つ目は、蔵人が娘の「香也」を助けるために討ち入りが行われることを知って吉良家に赴くときに、もし討ち入りと重なると赤穂の浪士たちが間違えて蔵人を襲うことがあるかも知れないと言われ、「なんの、おのれの心が直であれば、間違いは起きますまい」というくだりである(274ページ)。この「心が直くあること」、「心を直くすること」、それが雨宮蔵人の神髄であり、この物語は『いのちなりけり』からそういう姿を主題としてもっていたことが改めてわかる。人々は雨宮蔵人のこの心の直さに深い感銘を与えられていくのである。
三つ目は、いよいよ討ち入りの最後、赤穂浪士たちが吉良上野介を捜し出そうとしているときに、その敷地内で雨宮蔵人はようやく「香也」を見つけるが、「香也」が「自分の大好きな人を失いたくない」と言われ、吉良上野介が自分のお爺様だと聞かされ、お爺様を守りたいといくことを承知して、赤穂浪士たちが武士の義によって討ち入りしたことはわかっているが娘との約束は果たさなければならないと決め、47人の赤穂浪士に単身立ち向かうところである。
物語は、そこでその様子を物陰から見ていた吉良上野介が自ら名乗り出て討たれ、蔵人と香也は無事に吉良家を出て行くことになている。もちろん、それは作者の創作だが、何が義かということに対して蔵人が娘との約束を果たすことを躊躇なく選択する姿は、心に迫るものがある。
雪が降りしきる中で「香也」を抱いて門から出たときに、背後で赤穂浪士たちの勝鬨の声が上がる。
「蔵人の腕に抱かれた香也が空を見上げた。
『お父上、雪が-』
薄紫の雲から白い花のように雪が降ってくる。蔵人はつぶやいた。
『いのちの花が散っているのだ』」(287ページ)
と結末が描写される。一篇の短い詩のような言葉でこの物語が終わる時、わたしは本を閉じて深い感銘の中に置かれた。
その他にも、本書には後に国学者の荷田春満(かだのあずまろ)となった羽倉斎(はぐらいつき)と柳沢保明の愛妾にされた公家の娘である正親町町子(おおぎまち まちこ)との実らない恋が、蔵人と咲弥の深い愛情の姿と重ねられて描かれたりする。咲弥が蔵人による救出を信じ切り、そして、実際にその通りに蔵人が柳沢保明の手から咲弥を救い出したとき、町子は咲弥にたいして、「ほんまに幸せなおなごがいた」と思うのである。
朝廷方と幕府、大奥内での勢力争い、徳川綱吉や柳沢保明、吉良上野介、浅野内匠頭、そして大奥やそれぞれの女性たち、そういうすべてがどろどろとした人間たちがうごめく中で、雨宮蔵人と咲弥は「心が直」で、ただひたすら愛する者を信じ、そのために生きる。そういう描き方がされて、まことに見事な作品だと思っている。
人は、自分が愛する者のために生きており、またそのように生きている自分を愛する者がわかってくれていると思えること以上に命の充実はない。人の幸せの究極の姿がこの雨宮蔵人と咲弥にあり、作者が描きたいと思っていた姿が見事な、多くの歴史上の人物や出来事の中での構成と展開の中で示されている。改めて、葉室麟という優れた作家の作品を読めたことを心底思うような感銘深い作品だった。
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