ラベル 井川香四郎 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 井川香四郎 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年11月18日月曜日

井川香四郎『うだつ屋智右衛門縁起帳』

 今日は、小春日和の嬉しくなるような温かさを感じる日になっている。今日から水曜日までの3日間、幕張で研修会というのがあり、何か話すように依頼されてはいるが、「すべて世はこともなし」でもいい気がしているし、「立派になること」が前提とされている会議や研修は、自分の肌に合わない気がしている。

 それはともかく、ある程度の能力と財力を持った人間が他者の危機を救い、成功していくという物語は、たとえばわたしのような人間にとって、面白くも何ともないばかりか、うんざりする思いがするし、どことなく、社会的に成功したいと思っている人間や世間に媚びたような感じさえする。

 井川香四郎『うだつ屋智右衛門縁起帳』(2012年 光文社文庫)は、そんな作品だった。表題の「うだつ屋」というのは、建築物の棟上げをする意味の言葉として用いられる「うだつが上がる」から来た「成功する」とか「立派になる」とかいう意味で使われる言葉を用いたもので、要するに「人を成功させるのを商売にしている」という意味であろうし、主人公の「智右衛門」という名前は、知恵を用いてそれを行う人物という設定であろう。表題からして、安直な気がするし、この作者の同じような成功物語である『てっぺん 幕末繁盛記』(2012年 祥伝社文庫)を読んだときにも感じた軽薄さが、本作でも感じられた。

 本書には四話が収められているが、いずれも、財力も知恵も人徳も備えた智右衛門が、財政窮乏で困窮する商人や個人、あるいは諸藩の財政再建策を打ち出して、それを成功させていく物語である。その策も、まあ、陳腐といえば陳腐のような気がする。

 社会への迎合以外に作者がどんな思考をしてこういう作品を書くのかはわからないし、この作品については、ここに記しておくほどでもなかったのだが、まあ、一応読んだということで記した次第である。

2013年9月16日月曜日

井川香四郎『てっぺん 幕末繁盛記』

 今日は「敬老の日」だが、台風18号の暴風雨圏に入り、朝から激しい雨と風に見舞われている。窓ガラスを叩きつける雨とゴーゴーと吹き渡っていく風を未明からずっと眺めていた。夕方から都内で集まりがあるので、なんとか無事に過ぎ去って欲しい。

 昨夕、ぼんやりとテレビを見ながら思っていたことであるが、成功物語というのは、もしそれが金持ちになるとか社会的地位が上昇することとかいったような事柄を「成功」の基準にして書かれるなら、これほどつまらなくうんざりするものはない。現代人は、誰もが社会的上昇志向をもって生きているので、この手の成功物語を比較的好み、たとえば、現在のテレビ番組なども、よくよく見れば、バラエティーからニュース番組まで「成功主義」で構成されている。

 しかし、この手の成功物語ほど人間を軽蔑しているものはないのである。人の価値というものは、うまくいったこととか成功したことで計られるべきではないからである。アンデルセンの『みにくいアヒルの子』に対して、みにくいアヒルの子は白鳥なんかにならなくてもよいのではないか、アヒルはアヒル、白鳥は白鳥でどこが悪いかと批判したキルケゴールの主張は、現代こそ再考された方が良いと思う。

 なぜ、こんなことを書いたかといえば、一人の男の成功物語である井川香四郎『てっぺん 幕末繁盛記』(2012年 祥伝社文庫)を読んだからである。

 これは、幕末の頃に住友家の銅山であった四国の別子銅山で生まれ、そこで堀子(鉱夫)として働く鉄次郎という気一本の男が、やがて銅山を取り巻く陰湿な駆け引きに巻き込まれて銅山を追われ、大阪に出て、持ち前の気一本さと度胸、胆力で、やがて老舗の材木問屋を受け継いでいくまでの姿を描いたものである。

 物語の中には、もちろん、恋愛もあるが、計略を巡らせて自分お手柄をあげようとする役人や、私腹を肥やそうとするもの、激しい嫉妬から陰湿な行動に出る者、何とかして金儲けをしようとする者、そして、鉄次郎の人間味や胆力、ひたむきさを見抜いて彼を助ける者などが登場して、主人公の人生は一筋縄ではいかないが、運と出会う人間に恵まれて、彼は成功者となっていくのである。

 作者がどういう意図をもってこの作品を書いたのかは分からないが、全体的にはよくある成功譚の一つで、もちろん、それなりに読ませる技術があるので、それなりに面白いものではある。しかし、こういう人物を描くのに時代を幕末にする必要はないだろうとは思う。

2012年1月11日水曜日

井川香四郎『冬の蝶 梟与力吟味帳』

この2~3日は日だまりのありがたさを感じることもあったが、今日辺りからまた等圧線の間隔が狭まる冬型の気圧配置となり、寒さが一段と厳しく感じられてくるとのこと。山のような仕事を横目にしながら、今日も比較的のんきに過ごしている。心の中では、仕事にそろそろ限界を感じているが、今年は「脳天気」一本槍で行こうと思っている。

 そういう気分にぴったりな井川香四郎『冬の蝶 梟与力吟味帳』(2006年 講談社文庫)を読んだ。これはこのシリーズの1作目で、前に4作目の『花詞』を読んでいた。1作目だから、闇に潜む悪を捕らえるところから梟与力と言われる主人公の藤堂逸馬が町人から町奉行所の与力になっていくところやそれぞれの登場人物の背景が描かれているのかと思ったら、そうではなく、すでに正義感の強い爽やかな与力としての活躍を始めており、幼馴染みの友人で剣の腕も立つが無類の女好きである武田信三郎が寺社奉行配下の吟味物調役をしているし、計算がうまいが小心者であることから「パチ助」と渾名されている毛利源之丞は奥右筆(書記官)仕置係(後には勘定吟味役になっている)である。

 物語は、この「パチ助」こと毛利源之丞が奥右筆頭から人件費の削減のために友人の藤堂逸馬か武田信三郎のどちらかを首にするように命じられて、悩むところから始まり、友情と保身の間で悩むが、その悩み方がいかにも脳天気らしいところから描かれている。

 藤堂逸馬と武田信三郎、毛利源之丞は、「一風堂」という自由闊達な気風をもつ寺子屋の同門で、仙人と呼ばれる宮宅又兵衛は、その思想性が南町奉行の鳥居耀蔵からにらまれている人物である。だが、彼ら三人は、その仙人を尊敬し、経営が危機に瀕している「一風堂」にために何とかしたいと思っているのである。

 本書には第一話「仰げば尊し」、第二話「泥に咲く花」、第三話「幻の女」、第四話「冬の蝶」の四話が連作の形で収められており、第一話「仰げば尊し」は、その「一風堂」にまつわる話で、火盗改めに追われた男が逃げ込み、それがかつては乱を起こした大塩平八郎とも繋がりのある男で、農民のために米蔵を開いたことで改易されたが、その農民たちの姿に絶望し、なにもかもが嫌になって盗賊の仲間に入っていた男であったのである。

 「一風堂」の主である仙人は彼を庇うが、盗賊の一人が殺されたことから殺人犯として捕らえられる。しかし、藤堂逸馬がその事件に不信を抱き、盗賊を裏で操って私腹を肥やしていた火盗改めの犯罪を暴いていくのである。

 ここには他者のために苦労するが報われずに絶望した人間に対して真っ直ぐな気持ちをもって生きる藤堂逸馬の爽やかな姿が描かれているが、腕も立ち、頭脳も明晰で、人柄も大らかであるという主人公だからこそで、痛快さもここまでくれば立派なものだと思ったりする。

 第二話「泥に咲く花」は、「一風堂」の手伝いの口を求めてやってきた明るい「茜」という娘と同じような境遇にある寺子屋の女師匠が殺された事件の真相を探っていく話で、殺された女師匠の父親が病で倒れたときに見捨てた医者が、父親の恨みを晴らそうとした女師匠を五月蠅く思って殺してしまった事件の顛末である。金持ちしか相手にせず、しかも病が重いと騙して薬種問屋と結託して大金を巻き上げていた医者の悪事が暴かれていく。悪は、だいたいにおいてこういう典型的な姿は取らずに巧妙なのだが、なぜかこうした痛快時代小説では善悪がはっきりしている。まあ、それも気楽に読めていいのだが。

 第三話「幻の女」は、言いがかりをつけられた娘を助けようとした男が、相手が死んでしまったために捕らえられ、その事件の吟味を藤堂逸馬が担当することになり、その事件に裏に隠されていた寺社の勧進札(寺社の修復のための寄進)を使った詐欺を暴き、寺社奉行配下の大検使(寺社を検査する役)がその勧進札の詐欺の黒幕であることを明白にしていく話である。

 藤堂逸馬は、この犯罪がもみ消されないように鳥居耀蔵をうまく使って犯罪を暴いていくが、ここで、「一風堂」で働くことになり、みんなからも気に入られている「茜」が、実は鳥居耀蔵の密命を帯びて「一風堂」の主である宮宅又兵衛を内偵している女性であることが明らかにされる。「茜」は、鳥居耀蔵の密命を受けているが、藤堂逸馬や彼の友人たち、仙人と呼ばれる宮宅又兵衛などの人柄に触れることで、鳥居耀蔵に疑問を持ち始めている。

 第四話「冬の蝶」は、遊女を殺した罪で死罪判決を受けた男が、処刑される前に藤堂逸馬に会いたいと願い出で、ひとりの女性のその後がどうなったかを知りたいと言い出す。処刑を数日後に控えて、その申し出に疑問を感じた藤堂逸馬が、その事件を調べ直し、その事件の裏に、何人かの侍たちが金蔓となる商人たちを狙って利権をちらつかせては金を奪っていくという悪事が潜んでいたことを明白にし、死罪判決を受けた男の冤罪を晴らしていくというものである。

 前に読んだ『花詞』の時にも記したかも知れないが、こういう主人公たちや物語、事件の展開は、実に気楽に読めていい。爽やかでまっすぐさが売り物の主人公たちは、「読み物」として面白い。気楽に読めるからといって気楽に書かれているわけではなく、あちらこちらの歴史考証はきちんと踏まえられており、現代の問題に対する姿勢もそれとなく描かれ、一言で言えば、安心して楽しめるものになっているのである。娯楽時代小説なのである。

 そして、少し疲れた時などは、こういう「読み物」がいいような気がしないでもないから、面白く読める一冊ではあった。

2011年5月16日月曜日

井川香四郎『梟与力吟味帳 花詞(はなことば)』

 予報では晴れだが、薄く雲が広がっている。いつものように、朝起き出して珈琲を入れ、新聞を読み、シャワーを浴びて、ゆっくりと動き出した。掃除や洗濯をしようかとも思ったが、少し寝不足気味で、「まあ、いいか」と思い直して、少し溜まった仕事を片づけることにした。風がはたはたと吹いて、こんな日の朝は、なんとなく孤独を感じたりしてしまう。

 昨夕から夜にかけて、井川香四郎『梟与力吟味帳 花詞(はなことば)』(2008年 講談社文庫)を胡瓜の糠漬けを肴にしてビールを飲みながら読んだ。

 この作者の作品は、前に一作だけ『船手奉行うたかた日記 風の舟唄』(2010年 幻冬舎時代小説文庫)を読んでいたが、『梟与力吟味帳』のシリーズは、天保の改革(1837-1843年)を断行した水野忠邦の意を受けて厳しい市中取締りを行った鳥居耀蔵(1796-1873年)が南町奉行、「遠山の金さん」で有名な遠山景元(1793-1855年)が南町奉行だった頃、自由と平等を謳う寺子屋で学んだ幼馴染みの三人組が、それぞれ協力して江戸の町で弱い者いじめをする権力者に立ち向かっていくという痛快時代小説とでも言うべきものである。

 このシリーズを原作にして『オトコマエ!』と題されたテレビドラマが、NHK土曜時代劇で2008年に放映されているが、それは残念ながら見ていない。だが、2009年の秋に『オトコマエ!2』が放映され、それは、時折見ていたので、物語の大まかな設定は知っており、通説に従って、鳥居耀藏が悪で、遠山景元が善、という設定のあまりの通俗ぶりに「?」を感じながらも、主人公の藤堂逸馬が町人から奉行所与力になった青年であったり、幼馴染みで剣の腕も確かな武田信三郎(寺社奉行配下の吟味物調役支配取次という下級役人)が人のいい性格を持つ青年であったり、同じ幼馴染みで勘定吟味改役というかなりの重職についている毛利源之丞が、立派な名前を持ちながらも算盤が得意なところから「パチ助」と呼ばれ、しかも計算高いわりにどこか抜けていたりする青年であったりして、正義感と爽やかさだけで悪と立ち向かうという筋立てに面白さを感じていた。

 ただし、「パチ助」こと毛利源之丞は、なぜかドラマの方には登場しない。もちろん、ドラマはドラマでそれでいい。

 『花詞』は、このシリーズの四作目の作品で、第一話「花詞」、第二話「別れ霜」、第三話「東風吹かば」、第四話「やじろうべえ」の四話が収められており、いずれも南町奉行の鳥居耀蔵の暗躍や企みが影にあって、主人公の藤堂逸馬を中心にして、その企みをことごとく「人助け」の視点から粉砕していくというものである。

 第一話「花詞」は、元金を保証して高利息を払うという名目で金集めをしていた札差に対して、預けた元金を返して欲しいという訴えが公事宿の「真琴」を通して出されるが、札差しは一年預かりという約定を盾にとって元金を返さないという事件の顛末を描いたものである。その札差しには、札差しを使って金儲けを企む鳥居耀蔵の手が働いていたし、主人公の藤堂逸馬の先輩であり鬼与力と恐れられていた正義感の強い元与力が、娘を殺されて与力を辞め、公事師(訴訟などを取り扱う者)として雇われていた。

 だが、札差しの過去に不審を感じた藤堂逸馬は、その札差さしが、かつては貧乏長屋で蜆売りなどをしていた健気な子どもだったのが、いつの間にか札差しの養子となり、札差しの後継ぎや養父を殺してのし上がっていたことを知り、「誠実」というスミレの花言葉にかけて、真実を暴いていくのである。

 第二話「別れ霜」は、工事現場で大怪我をした男を武田信三郎が名医と評判の医者に担ぎ込むが、医者はなぜか手当もしないまま他の医者の所へ行けといい、男は死んでしまう。死んだ男の女房はそのことに納得がいかずに、公事宿の「真琴」に頼んで医者を相手に訴訟を起こす。藤堂逸馬がその一件の裁きに当たることになる。

 その過程で、津軽藩の追手番(藩内から逃亡した犯罪者を探す役)と知り合い、事故で死んだ男が、かつて仲間と共に津軽藩で強盗事件を起こしていたひとりであったことを知り、強盗仲間が逃げる途中で長崎帰りの医者を道中で襲ったが、強盗仲間の首領は立ち向かった医者に殺され、残った二人の子分たちがそのことで医者を脅していたことを知る。どんな事情があっても殺人は殺人として裁かれるために、医者は彼らから脅され、そのひとりが大怪我をして担ぎ込まれたのである。

 そうした事情があったことを探り出し、医者を脅した強盗の子分を捕らえ、津軽藩追手番の侍に引き渡す。ところが、追手番の侍は津軽への犯人連行の途中で、強盗たちが奪った金を隠していることを知っており、その隠し場所を吐き出させて奪い取ろうとしていたのである。そのことを見抜いていた藤堂逸馬は、武田信三郎の手を借りて、強盗の子分を取り戻す。追手番の侍は、どうにもならないことを知って自死する。また、名医として慕われていた医者に対しては、以後三年の間牢医者として働くという裁きを下して、一件を落着させるのである。

 第三話「東風吹かば」は、逸馬の幼馴染みである「パチ助」が、上役から頼まれて上役の妾をあずかる話で、老中水野忠邦は厳格な人物で、勘定吟味役の上役は自分が妾を囲っていることがばれると改易させられるかも知れないと恐れて、人の良い「パチ助」に偽装を依頼するのである。

 だが、妾として囲われていた女性には、かつて相愛の菓子職人がおり、その菓子職人が鳥居耀蔵も一枚噛んでいた大店の商人たちの「阿片句会」の見張りに使われ、捕縛されて、ひとり罪を着せられて鳥居耀蔵によって遠島の刑を受けていたのである。だが無実の罪で嵌められたことを知って菓子職人が島抜けし、舞い戻ってきた。

 鳥居耀蔵は「阿片句会」のことが発覚するのを恐れ、家臣を使って島抜けした菓子職人を殺そうとする。だが、藤堂逸馬によって菓子職人は捕らえられ、鳥居耀蔵の企みは失敗し、逸馬の進言で遠山景元は、評定所会議(各奉行が集まって裁きをする会議)で、菓子職人が嵌められて遠島になったのだから無罪であることを主張して、菓子職人を放免し、妾として囲われていた相愛の女性共々に江戸を離れるという結果になる。そして、妾を囲っているのではないかと疑われた「パチ助」のために、逸馬はその家族を屋形船にさそって、家族の仲を取り持つというところで終わる。

 表題はもちろん、「東風吹かば 匂いをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」という「飛梅伝説」で有名な菅原道真の歌からとられたもので、望郷の歌であったこの歌を、この作品では男女の相聞歌として用いているものである。

 第四話「やじろべえ」は、かつて寺子屋の「一風堂」で同席していた男が、儒学者として江戸に舞い戻り、江戸の町を混乱させることを企んで、鳥居耀蔵と水野忠邦によって非業の死を迎えなければならなかった武田信三郎の父親の恨みを晴らしたいと思っていた信三郎の母を巻き込んで騒動を起こそうとするのを、信三郎と逸馬が協力して阻止していくというものである。様々な政治的な力が働く中で、「ただただ人々を守る」という思いで働く逸馬の姿が貫かれていく。

 江戸末期の混乱していく幕府体制の中で、どこまでも非政治的であろうとし、しかも弱者のための行動や正義、人への思いやりや情を大切にし、その姿勢を爽やかに貫こうとする主人公たちの姿は、ある意味で考えさせられるものであるが、人の爽快さというのは、そういうものかもしれないと思ったりする。

 作品全体に少し雑なところもあるし、人物像も通説に従いすぎているのだが、作品の展開としては、こうした展開は面白く読めるだろう。欲を言えば、歴史的考察はきちんとされているのだが、鳥居耀蔵や遠山景元は、歴史上の人物であり、実際の人物像と通説には大きな隔たりがあるのだから、もう少し深く掘り下げた人物として描かれた方がよい気がした。鳥居耀蔵などはあまりに戯画化されすぎている気がする。

2011年2月5日土曜日

井川香四郎『御船手奉行うたかた日記 風の舟唄』

 立春の声を聞いて、日中は少し春を感じさせる陽気になって梅がちらほらと咲き始めている。寒さが厳しい中で清楚な花をつける一重の白梅が好きで、枝垂れ梅を鉢植えにしていたのだが、我が家の梅はなかなか花をつけてくれない。植え替えたり肥料をやったりする手入れを怠ったせいだろう。

 昨日、図書館に行って目についた井川香四郎『船手奉行うたかた日記 風の舟唄』(2010年 幻冬舎時代小説文庫)を借りてきて読んだ。

 「船手奉行」もしくは「船奉行」は、江戸時代の徳川幕府では「船手頭」と呼ばれ、元々は徳川の水軍で、軍艦の管理と海上輸送の任についていた。しかし、太平が続く中で水軍としての役割がなくなり、たとえば世襲が認められていた船手頭の筆頭である向井家は、将軍が乗船する御召船の管理・運営などの役職をしていた。船手頭の下には、普通は船手同心30名、船頭などの水主50人がつけられており、海上輸送の荷改めなども船奉行の管轄であった。もちろん、各藩にも船手奉行(船奉行)が置かれていたが、組織構造と役割は概ね幕府の組織を踏襲したものとなっていった。

 江戸は河川も多く、堀割などの水路が発達し、現在のベネチア以上の海上都市でもあり、水路を利用した輸送手段が活発に取られていたので、船奉行の役割は重要であったが、太平が続く中で荷改めなどもほとんど形骸化し、船手同心の質も悪く、町奉行所の同心よりも下位に見られていた。下位の御船手は囚人の海上輸送などにも携わっていたので、「不浄役人」と蔑まれたりもした。

 こうした船手同心に着目し、それを主人公に設定した作者の着想はなかなかのもので、しかも、純真で正義感が強く、いささか青臭い青年が新人同心としてそれまでの因習を破りながら、その真っ直ぐさを発揮して事件に当たっていき、徐々に成長していく姿として物語を展開しているので、シリーズ物としての妙味があると言えるような気がした。

 巻末に収録されている出版社の広告を見れば、本書はこのシリーズの6作目で、『いのちの絆』(第1作)、『巣立ち雛』(第2作)、『ため息橋』(第3作)、『咲残る』(第4作)、『花涼み』(第5作)に続くものだということがわかるが、前作を全く読んでいないので、作品の登場人物の人間関係が、いまひとつ把握しがたい気がしないでもない。

 本書では「帆、満つる」(第一話)、「にが汐」(第二話)、「せせなげ」(第三話)、「風の舟唄」(第四話)が収められ、豪商の手を借りて幕府の若年寄(幕臣の支配)となった傲慢な大名が花火見物のために幕府御用船を出して船上で宴を催していたところ、地震があって津波を受け、船が転覆しそうになり、傲慢さに業を煮やしていたにも関わらず、護衛を命じられていた主人公の船手同心である早乙女薙左(さおとめ なぎさ)の、何事にも公平で生命を重んじる働きで助けられ、改心していく話(第一話)から始められている。

 第二話「にが汐」は、手柄を焦ったために強盗に女房を殺された岡っ引きが、その復讐のために、その強盗の昔の友人ではあったが何の関係もない男たちを罠に嵌めて復讐心を満たそうとしていたのを早乙女薙左が、持ち前の正義感と情けで見破っていく話であり、第三話「せせなげ」は、盗んだ金を貧しい者に配っていた「竜宮の辰蔵」と呼ばれる強盗が両替商から大金を盗み出したということで、町方がその犯人を捕らえるが、薙左がよく調べてみると、そこには裏がありそうで、両替商は旗本からの借り入れを断るために贋金を作り、強盗事件をでっちあげようとしたことがわかり、町方もそれに一枚かんで犯人をでっちあげようとしていたことがわかっていく話である。表題の「せせなげ」は小さな溝の下水の流れを表す言葉で、「せせなげ」のようにして生きている人々の側に立って真相を突きとめ、傲慢な町方と渡り合っていく主人公の姿が描かれていくのである。

 第四話「風の舟唄」は、川船で行商をしている子どもが、遊女が監禁されたようにして暮らしていかなければならない「雪蛍」と呼ばれる岡場所の遊女を逃がすことが事件の発端として語られる。遊女は少年の手によって逃れようとするが、追いかけてきた忘八(遊女屋の仕事をしている男衆)に捕まる。しかし、その忘八が殺され、逃げた遊女が犯人として町方に捕らえられてしまうのである。川船で行商をしている子どもと親しかった早乙女薙左は、真相究明に立ち上がり、ついには遊女屋に単身で乗り込んでいく。そしてそこで「竜宮の辰蔵」と呼ばれる強盗もいて、彼が逃れるために火をつけ、それを見逃して「雪蛍」という岡場所を壊滅させていくのである。

 全体的に、船手同心という役職に、真っ直ぐ、持ち前の正義感を発揮しながら取り組んでいく青年と、その青年を温かく見守る船手奉行所の奉行を初めとする古参の同心たちや、彼を気に入っている船頭たちや周囲の人々、町方との対決などが骨格としてあり、第一話では、江戸の町政の要として認められ、また権威づけられている町年寄とその娘「おかよ」が登場し、「おかよ」は早乙女薙左を自分の婿にすると言うほど気に入って、彼を助けていくようになり、その恋のいく末なども織り込まれて、なかなか味のあるものになっている。

 しかし、主人公の早乙女薙左が正義感の塊で直進する姿が受け入れられたり、武術の達人であったり、もののわかった奉行や先輩たちがいて、あるいは反対の傲慢な人間の姿が絵に描いたような傲慢さを発揮したり、薙左が主張する正義や情けも、どこか類型的で深みにかけるような気がしないでもない。

 たとえば、些細なことなのだが、第四話「風の舟唄」でも、逃げて捕らえられた遊女が薙左に、「私はただ、普通の幸せを掴みたかった・・・惚れた人と所帯を持って、可愛い子を儲けて、平凡で、親子水入らずで・・・凪いだ海のように、ゆったりした暮らしの中で、年を重ねて、おばあちゃんになって・・・それだけなのに・・・ぜんぶ逃げちまう」(293ページ)と語るが、苦酸を舐めなければならなかった女性の言葉としては、こういう言葉は作者の勝手な推量による陳腐なお涙ちょうだいの言葉のように思えてしまうのである。

 作者は、テレビ時代劇の「銭形平次」や「暴れん坊将軍」の脚本も手がけているそうだが、一般受けするように作品が構成され、描かれているのが気にならないわけではない。せっかく、御船手という新しい着想だから、もう少し深みが欲しいというのが正直な読後感である。