ようやくまた、秋らしい日々が戻ってきた。晴れた秋の空は穏やかさが漂って美しい。「空の鳥を見よ」である。
先日来、宮部みゆき『桜ほうさら』(2013年 PHP研究所)を、やはりこの人は、言葉の使い方と文章、そして展開の巧さにおいて随一の作家だと思いつつ読んでいた。ストーリーテラーとして現代の第一人者であるだろう。
『桜ほうさら』という聞きなれない言葉が表題として使われているが、作者によれば、甲州の韮山地方で、「あれこれといろんなことがあって大変だ、大騒ぎだっていうようなときに」使われる言葉で「ささらほうさら」というのがあり(41-42ページ)、その言葉をもじって作者が創作した言葉である。
「ささらほうさら」という言葉の音の響きがどこか柔らかくて、大騒ぎしているようなイメージではなく、いろいろなことが起こる中を流されながらも自分の身を天に委ねていくような大らかさがあるような感じがするこの言葉を、さらに桜にかけて、桜の花びらが風に吹かれてしきりに散っていくような印象が「桜ほうさら」という言葉から浮かぶ。
本書は、江戸から二日ほどの近郊にある搗根藩(とうがねはん-作者の創作による藩)という小藩の八十石の小納戸役(服や日用品を管理する役)であった古橋宗左右衛門(そうざえもん)が賄賂を取ったという疑いをかけられて切腹した後、取り潰しにあった古橋家の次男である古橋笙之介(しょうのすけ)が江戸に出てきて、貧乏裏店に住みながら貸本屋の写本作りをして糊口をしのいでいるところから始まる。
笙之介の父の宗左右衛門は、真面目で実直な人柄であり、穏和で、思いやりの深い心優しい人であったが、あるとき突然に藩の御用達の道具屋である「波野千(はのせん)」から賄賂を受け取ったという訴えを起こされ、彼が書いたと言われる証文が提出された。宗左右衛門には身に覚えがなかったが、証文に書かれていた筆跡は紛れもなく彼のものだった。そして、宗左右衛門の妻の里江が長男である勝之介の猟官運動に多大な金を使っていたことが明るみに出て、閉門蟄居を命じられたのである。この事件には何か裏があると目されていたが、宗左右衛門は、閉門蟄居を命じられて三日後に、自宅の庭先で腹を切り、その介錯を長男の勝之介がしたのである。
宗左右衛門と気の強い妻の里江の間はなかなか反りが合わず、里江は剣の腕も立つ優秀な長男の勝之介を溺愛し、勝之介もまた、気の弱い父親を軽蔑していた。勝之介は父親を介錯したあと、「無様だ」と吐き捨てるほど父親を蔑視していたのである。武辺者ぶりを尊ぶ家中の雰囲気があった。だが、笙之介はその父親が好きで、彼の深い愛情や心優しさを汲み取るところがあった。笙之介自身も、剣もからっきしだめで、兄や母からは軟弱者と見られていた。彼もまた穏和で心優しい性格を父親から譲り受けていたのである。そして、二十歳になる笙之介は藩校に通い、剣ではだめでも文ならと励んでいた。そして、そこの老師に見込まれて、学問を続けながら祐筆(書記役)になる話もあったが、父親の一件で、その話も消え、老師の内弟子としての生活を送るようになった。
そして、兄の勝之介の再興を諦めない母から、江戸留守居役の坂崎重秀のところに行って、古橋家の再興を頼むように言われる。母の里江が宗左右衛門のところに嫁いだのは三度目の婚儀で、江戸留守居役の坂崎重秀は、死別した最初の夫の縁故に当たる。坂崎重秀も笙之介を江戸にやるように手配しているという。それで、彼は江戸に出てきて、坂崎重秀の手配で、彼の密命を受けて、貧乏長屋に住んで、貸本の写本作りをしながら生活しているのである。坂崎の密命とは、父の収賄罪糾弾の際に用いられた本人のものと区別がつかないような筆跡で証文を書くことができる人物を探し出すというものだった。
笙之介の人柄は長屋の者たちからも慕われ、彼の日常は何事もなく過ぎていく。貧しい者たちが肩を寄せ合い助け合っていく姿を経験していく。そして、彼に写本作りの仕事をもってくる貸本屋の村田屋治兵衛も彼の人柄を信頼し、何かと配慮をしてくれる。そんな中で、あるとき、長屋の裏手の掘割の土手に植えられている桜の木の下に、切り髪で少しおでこが出ているような愛らしい女性がいるのを見る。彼にはその女性はまるで桜の精のように見えた。それが、彼と和香との最初の出会いだった。彼はその女性のことがひどく気になったのである。
和香は、仕立屋の一人娘であったが、体の左半分に赤い痣があり、それを隠して家から一歩も出ないような暮らしをしていた。彼女の痣は遺伝的な体質だという。だが、笙之介は、和香に痣があることを知っても、少しも気持ちは変わらなかった。そういう笙之介との出会いを通じて、和香もだんだんと変わっていき、徐々に人前にも出るようになっていく。この二人のそれぞれの思いは美しい。和香は、利発で、賢く、勝気さを持ち合わせている愛らしい女性だった。
そのうち、貧しい小藩の老侍が、隠居した大殿が気鬱のようになって訳のわからない文字を書くようになり、その文字の判読ができる鍵をもっている人物の名が古橋笙之介という名であり、同名の笙之介を訪ねてきて、笙之介が和香と協力して、何とかその鍵となる人物やそれにゆかりのある者を探し出して、大殿が書いた文字の判読を行うという出来事も起こったりする。文字は人。だとしたら、他人の筆跡と同じような筆跡を使うことができる人物はいるのか。笙之介が受けていた密命の要の部分が、やがて明らかになっていく。
笙之介を江戸に呼んだ江戸留守居役の坂崎重秀によって、次第に搗根藩(とうがねはん)の内情やそこで起こっている権力争いなどの姿がわかってくる。坂崎重秀は、心底、笙之介の身を案じ、母の里江と兄の勝之介の行く末を案じていたのである。彼は磊落で、成り行きを温かく見守るようなところのある太っ腹の人物であると同時に、やり手でもある。
笙之介は坂崎重秀から命じられた同じ筆跡を書くことができる者を探し出していく。そうして、そういう人物が、世を拗ね、人を拗ね、ねじ切れて生きていることを知るのである。そして、父親の冤罪から始まる事件で、父親を訴えた御用達の道具屋の乗っ取りから藩の勢力争い、そして、それに加担していた兄の勝之介の野望などが明らかにされていく。今回はここまでとして、もう少し書いておきたいことがあるので、続きは次回にでも記そう。