八月の末から九月の初めにかけて自宅を留守にしており、ようやく、今日から再び元の日常に戻った感がある。まだまだ凄まじいくらいの暑い日々が続いている。一昨日は、岡倉天心や横山大観が再起をかけて過ごした茨木の五浦で潮騒の音を聞きながら眠った。
そろそろ本格的に再始動させなければならないと思いつつ、西條奈加『涅槃の雪』(2011年 光文社)を面白く読んだ。作品の着想と構成が上手く、時代小説としての上質さを感じさせる作品だった。
物語は、天保の改革(1841ー1843年)を背景としながら、北町奉行所与力で三十三歳の独身男である高安門佑(たかやすもんすけ)の恋を描いたものであるが、1840年(天保11年)に北町奉行となった遠山景元(1793ー1855年)と1841年(天保12年)4月に南町奉行となった矢部定兼(1789ー1842年)、そして、矢部定兼を失脚させて南町奉行となり、妖怪と言われた鳥居耀蔵(1796ー1873年)という独特の才能と個性を持つ人物たちが改革の嵐の中でそれぞれに対応していった姿を描き、しかも、改革のとばっちりを受けなければならなった人間たちを描いていくものである。
北町奉行の遠山景元も南町奉行の矢部定兼も、共に水野忠邦が打ち出した改革案に反対して意見書を具申したが、特に矢部定兼は4月に南町奉行となり、12月に罷免され、憤死しており、それらのことが背景として丁寧に描かれていく。
物語は、主人公の高安門佑がぶらぶらと町歩きをしている場面から始まる。彼は奉行所与力であったが、非番の日でも町へ出て行くのが好きで、その日も品川まで足を伸ばしているところだった。そして、金杉橋に一人の女が降り落ちる雪を空に向かって両手を伸ばして受け止めている姿を目にする。女は、「空から落ちる雪は、きれいなんだ」と伝法な口のききかたをする遊女だった。天保11年3月2日、北町奉行に遠山景元が就任したばかりの頃であった。
そして、品川の金杉橋で女を見た翌日、高安門佑は、就任したばかりの遠山景元から呼び出され、突然、「今日からおまえは、わしの片腕になれ」と言われてしまう。遠山景元は、豪放磊落の明るさで、妙に俗っぽいところが好きな変わり種の奉行だった。その日から門佑は、日に何度も奉行から呼び出されては市井の話をさせられるという日常が続いた。そして、水野忠邦の天保の改革が始められ、その手始めとして隠売女の大掛かりな一斉取り締まりが始められるのである。門佑も与力の一人としてその取り締まりに出かけ、そこで、金杉橋で見た女が少女のような若い遊女たちを逃がしている場面に遭遇する。門佑は、一応、女を捕え、やがて、遠山景元の裁きを受けるが、遠山景元を名奉行にしたい家臣の内与力たちの思惑もあり、名裁きが行われる。門佑が捕えた女は三十日の押し込めの後の渡世替えか、吉原行きのところを、捕えるときに門佑が女の足を痛めてしまったということで、門佑が働き口を世話すると申し出たことから、奉行は、高安門佑預かりという裁断を下す。遠山景元は、門佑が女の面倒までみると申し出たことから、粋な計らいをしたのである。女の名は「卯乃(うの)と言った。
こうして、卯乃は高安家に住むことになる。その時、「お卯乃、おまえはしばらくこの屋敷に留まれ。ここで炊事洗濯から礼儀作法まで、ひととおりのことを教えてやる」と門佑は言い、「けどあたしは、いいところの町娘なんかとは違う…あたしは、女郎なんだから」と卯乃が答えてことに対して、「おまえはもう、女郎なんかではない!」と門佑は大声で言う。この一言は、女郎として生きてきた卯乃を救う一言であり、こうして卯乃は生きる場所を与えられて、二人の物語が始まるのである。だが、卯乃の家事や行儀作法の覚えは少しも進まず、言葉使いもなかなかなおらなかった。しかし、門佑は卯乃と話すと心が和むのを覚えていくのである。
ちょうどその頃、老中水野忠邦は、南町奉行に矢部定兼を就任させた。矢部定兼は、ひときわ明敏な能吏として知られ、気骨のある剛の者であると同時に人徳に篤い人物として定評があった。こうして水野忠邦は天保の改革に着手したのである。手始めが岡場所の手入れで、卯乃はかろうじてその手入れを免れたことになった。
水野忠邦が行った改革は、徹底した奢侈禁止令として発令され、人々の暮らしぶりの隅から隅まで贅沢と思われるものを一つ一つ挙げて、これを町方に取り締まらせた。遠山景元と矢部定兼はそろって水野忠邦の奢侈禁止令が行き過ぎであるとの意見書を出したが、水野忠邦は頑迷にかいかくを徹底させようとするだけだった。人々の生活は色を失い、がんじがらめにされた。ふまんや反発が起こるのは目に見えていた。そういう中で、取り締る町方同心を狙う奇妙な事件が頻発しはじめた。町方同心や手先、町名主までもが奇妙な傷を負わされたのである。両町奉行所は総力をあげて犯人の捕縛に当たるが、犯人の見当さえつかなかった。老中も改革の妨げとなるようなこの犯罪の解決に奉行の尻をしきりに叩いた。
高安門佑は卯乃を連れて紅葉狩りに出かけた先で、改革のために仕事を失い、不満を持つ人形職人と出会い、その人形職人が犯人であることを突き止めたりしていくのである。
こうして、改革によって翻弄された人間の姿を描きながら、物語は、その「卯乃」と高安門祐との恋を描いてくのだが、そこに武家としての誇りと凛とした姿を絵に書いたような門祐の姉が登場し、この姉の「園江」の粋な計らいが光っていく。
南町奉行となった矢部定兼が、やがて鳥居耀蔵の画策で罷免され、憤死をしていく出来事を挟みながら、天保の改革で無理強いされた人々の鬱憤を描いていくが、矢部定兼の憤死に際して、鳥居耀蔵も「卯乃」も、それが傲慢のなせる業であり、飢えている民百姓の姿からすれば、自己義人の何ものでもないという指摘は鋭い。この観点を「卯乃」から与えられた高安門祐が四国丸亀藩お預かりとなった鳥居耀蔵と訪ね、丸亀藩での耀蔵の姿を描くあたりは、作者の人間観察の深さを偲ばせるものがある。
そして、厳格な門祐の姉の計らいによって、遊女であった「卯乃」が一大決心をして、門祐との關係を成就させていくラストも心憎い演出になっている。
この作品は、読んでよかったと思える作品であり、嬉しくなる読後感を持つ作品である。どことなく浮ついた日々となってしまう八月の終わりにこういう作品を読めてよかったと思っている。
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