先週も台風の襲来があったが、今週末も台風の接近が予測されている。今年は海水温が高かったので台風が発生しやすくなっている気がする。心境的には雨が降ろうが槍が降ろうが変わらないのだが、爽やかな快晴のほうが気持ちがいいに違いなく、次第に秋が深くなっていく日々を、可能ならゆるやかに過ごしたいとは思う。だが、今日も雨である。
ずいぶん前に、市が尾のNさんが岡本嗣郎『終戦のエンペラー 陛下をお救いなさいまし-』(2013年 集英社文庫 2002年ホーム社発行『陛下をお救いなさいまし 河井道とバナー・フェラーズ』改題)を貸してくださっていたのを、ようやく読み終えた。Nさんは、この夏公開された映画をご覧になったとのことだった。
本書は、改題される前の書名が示すように、日本がポツダム宣言を受諾して太平洋戦争の終結を迎えた後、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーの側近として占領下における日本に大きな影響を与え、特に天皇の戦争責任を巡る問題で、東京裁判における天皇の戦争責任訴追を回避するために尽力したボナー・フェラーズの姿を中心にして、彼と彼に大きな影響力を与えた人物として、現在の恵泉女学園の創設者である河井道の姿を描いたものである。
ボナー・フェラーズ(Bonner F. Fellers 1896―1973年)は陸軍軍人として太平洋戦争における日米戦に従軍した人であったが、学究肌の文人的気質を強く持った人で、彼が1971年に日本政府から勲二等瑞宝章を贈られる際の申請書には「ボナー・フェラーズ准将は、連合国総司令部に於ける唯一の親日将校として天皇陛下を戦犯より救出した大恩人である」と記されている人である。司令長官マッカーサーから絶大な信頼を得て、その占領政策の要となった人物である。
本書では、彼が1896年イリノイ州で、質素な生活をして人間の内面性を重要視する敬虔なクエーカー教徒の家に生まれて、クエーカー教徒が設立したアーラム大学で学び、やがて、第一次世界大戦中の1916年(20歳)に2年の学びを終えてウエストポイントの陸軍士官学校に進み、1921年からフィリピン駐留して、そこでダグラス・マッカーサーと出会ったという彼の前半生が簡略に記されている。
そして、アーラム大学在学中に日本から留学していた一色(旧姓:渡辺)ゆりと出会う。一色ゆりは、津田梅子が設立した女子英学塾(現:津田塾大学)の学生だった頃に、そこで教えていた河井道と出会い、卒業後に河井道の尽力でアーラム大学に留学し、上級生となった時に新入生で入ってきたフェラーズの指導責任となったことからフェラーズを知るようになったのである。
そして、1922年にフェラーズが初めて来日したとき、師である河井道と二人で彼をすき焼き屋に連れて行ったりして歓迎したのである。この時、河井道は既にキリスト教青年指導者としての活躍を始めており、その出会い以来、フェラーズは河井道を「戦争を望まないリベラルな日本人」、「世界の素晴らしい女性教育者の一人」として尊敬するようになり、日本における最も敬愛する人物として、河井道に接するようになっていくのである。また、この時に「もっと日本を知りたい」という彼の要望に応えて、ラフカデイォ・ハーン(小泉八雲)の作品を紹介している。フェラーズは、その後、ハーンの全作品を読み、彼に感銘するだけでなく、小泉家の人々とも親交をもつようにさえなった。
フェラーズは、1930年に再び来日しているが、その時に、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の家を訪ね(ラフカディオ・ハーンは1903年に死去している)、その遺影の前に座った時、「仏壇に小さな遺骨がある。だがそれは遺骨を超えたものである。家族の神である。彼らはそれを拝む。ろうそくは26年前にともされ、それいらいずっと消えることなく、ともされ続けてきた。
私はいままでそのような家族の献身を見たことはなかった。日本以外にそのような献身を見出すことはできないだろう」(本書 84ページ)と記して、歴史の中で連綿と続く先祖への崇拝が日本の精神文化の要であると感じたようである。もちろん、これは若いフェラーズの感想であり、民族や宗教を正確に理解したものではないが、彼が日本人のもつこうした献身性に感動し、それが彼の日本理解の大きな要素になったことは疑い得ないだろう。
河井道は、1877年(明治10年)に現在の三重県伊勢市で伊勢神宮神官の家に生まれたが、明治政府は財政難から世襲による官職を廃止するように通達を出し、道の父の河井範康も代々続いてきた神官職を失職し、いくつかの事業に手を出すが失敗して、道が八歳の時(1885年)、叔父を頼って現在の北海道函館市に移住する。河井家は、その叔父の影響で次第にキリスト教を受け入れるようになっていくが、神道とキリスト教がうまく同居するような形であった。このことが、後の道の宗教観や教育観にも大きな影響を与えていると言えるかもしれない。
やがて、八歳の道は叔父の紹介でプロテスタント長老派教会のサラ・C・スミス(1851-1847年)が私費を投じて設立したスミス塾(女学校 現:北里学園女子中学高等学校)の第一回生として入塾した。このことが河井道の人生に大きく作用し、スミス女史との出会いがなければ、後の河井道はなかったと言えるかもしれない。彼女は、人生に挫折した父の背中を見て育った影のある少女であったが、努力家で、おそらく優秀な少女であっただろう。そして、スミス女史は、そういう彼女のひたむきな努力を認めてくれた存在であったのである。このスミス女学校の講師として教えに来ていたのが、札幌農学校を卒業した新渡戸稲造であったのである。
新渡戸稲造は、ひたむきに努力する河井道の才能を見抜いたに違いない。やがて、新渡戸稲造は河井道がスミス女学校を卒業したあとに、彼の勧めで1900年にフィラデルフィアにある北米クエーカー主義の大学であったブリンマー女子大学に留学した。河井道は新渡戸稲造の教え子であり、むしろ直弟子といってもいい女性なのである。キリスト教理解にしろ、天皇の理解にしろ、河井道は新渡戸稲造の弟子としての面を多大に持っている。
河井道がキリスト教の洗礼を受けたのはスミス女学校のころで、当然、プロテスタント長老派教会であっただろうが、クエーカー教徒であった新渡戸稲造の教えを受けて、クエーカーの女子大に留学しているのはなかなか興味深い。同じキリスト教でも、クエーカー派の教会と長老派の教会では、厳密に言えばいくつかの点で異なるのだが、当時の人々は、キリスト教という大枠でくくって理解していたに違いない。河井道は1094年にブリンマー女子大学を卒業して帰国し、津田梅子の女子英学塾の教師となった。そして、そこで生涯彼女と歩みを共にし、彼女の最後を看取った渡辺(一色)ゆりと出会うのであり、彼女を通してボナー・フェラーズと出会うのである。
やがて、河井道は、1929年(昭和4年)、自宅として借り受けた場所を教室にして、恵泉女学園(現:恵泉女学園大学)を設立する。この時、資金も土地もないことに呆れて新渡戸稲造は道の冒険に反対するし、政府も許可を出し渋ったが、道は諦めずに学校開校にこぎつけたと言われている。教室は道の自宅、生徒は9名、教師は道ひとりであった。ただ、新渡戸稲造は河合道の開学した恵泉に協力を惜しまず、自ら講師となったり、寄付を呼びかけたりして助力をし続けた。
クエーカー教徒であり平和主義者であった新渡戸稲造は、戦雲が高まる中で、戦争回避のために尽力していたが、1933年(昭和8年)、カナダのバンフで開かれた太平洋会議に日本代表として出席し、その帰路、病に倒れて死去した。河井道も師と同じように、太平洋戦争開戦前に渡米して、戦争をせずに平和の道を進むことを力説したが、時代は急激に海鮮へと傾いっていった。
戦争中、河井道は、恵泉女学園での天皇の御真影を掲げることを断固として拒否し、軍部に睨まれて何度も検挙されているが、天皇に対する崇敬の念は強烈に持ち続けていた。新渡戸稲造は「天皇は日本国民の統合的象徴である」と語ったが、河井の天皇観もそれに近いし、代々の神官の家に育った河井の方が、より強かったかもしれない。
やがて、敗戦を迎え、日本統治のために連合軍総司令官としてダグラス・マッカーサーが赴任するが、この時にマッカーサーの副官としてフェラーズも来日するのである。フェラーズは戦争中投降を訴えるビラや戦争放棄へのビラを山のように撒いた情報局の責任者であったが、本書では、そのビラの中に既に天皇の戦争責任を追求しない姿勢があったと分析する。
フェラーズは来日してすぐに河井道の行くへを探し、戦後の処理についての河井の意見を聞きたいと願った。そして、再会して、「陛下をお救いなさいまし」との河井の言葉を聞くのである。フェラーズは、連合軍総司令部の中では異色の人物で、彼に出会った人たちはその紳士的な態度や人格に感銘を受けている。
フェラーズもクエーカー教徒であり、河井もクエーカーの薫陶を受けているのだから、互の信頼は厚いし、フェラーズは何よりも河井の人格を深く尊敬していた。こうしてフェラーズは、戦後、天皇の処遇を決めるマッカーサーの政策に意見書を提出して、訴追の回避が行われたのである。フェラーズがマッカーサーに提出した『司令官あて覚書』の影響は大きく、その多くは河井道の進言の通りだった。本書では、これが緊迫した状況の中で行われたことがよく書かれている。
一般に、この文書が後の「象徴天皇制」の基となっていると言われているが、その概念の大筋は新渡戸稲造にあり、そして河井道に受け継がれたものである。
本書は、天皇の戦争責任訴追の回避に何があったかを明確に記すために、フェラーズと河井道の姿を、ちょうど螺旋階段を上るようにして描き出されており、なかなか味わい深いものになっている。もちろん、細かな歴史認識に若干の大まかすぎるところもあるのだが、それは些細なことで大きな問題ではない。
非常に優れていると思ったのは、天皇の戦争責任訴追回避と戦争の放棄が対になっていたという指摘で、自衛のための戦争手段もこれを放棄するという徹底した非戦論が、戦後の日本が取るべき道としてマッカーサーが考えていたことが明記されている点である。米国は、戦後の状況の中で日本への方針を若干変えてき、今日では日本国憲法では自衛権(自衛のために戦うこと)が認められているという解釈になっている。だがどうなのだろう。
本書で若干の問題を感じるのは、キリスト教が十把一握で論じられているところであったり、武田清子が理解した近代日本とキリスト教(『人間観の相克―近代日本の思想とキリスト教』(弘文堂 1959年)の線で、天皇制の問題と河井道のキリスト教理解が展開されたりしている点である。武田清子は優れた近代の分析家ではあったが、もう50年以上前の思想と方法でなされた分析で、戦後の天皇制の問題は、米国の日本政策の問題と合わせて、米国の精神史にも踏み込んでいかなければならないだろう。また、そのキリスト教理解にもある種の限界と偏りがあったとわたしは思っている。クエーカーはキリスト教の中では、やはり、特殊なものである。
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