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2013年5月15日水曜日

滝口康彦『上意討ち心得』(2)「下郎首」、「小隼人と源八」、「綾尾内記覚書」


 昨日は汗ばむほどの天気で、今日も快晴の空が広がってきた。昨日は講義の後でバスにタッチの差で乗り遅れてしまい、暑い中、駅までぶらぶらと歩いてみたりしたために足が棒のようになり、おまけにその後に電車で1時間半ほど立ちっぱなしで、少々、疲れを覚えていた。まあ、運動と思えば、それもまた「よし」であろう。

 それにしても、この国の政治家の歴史認識というか、人間や社会に対する認識の浅さに唖然とする出来事がこのところ続いている。「衰退期の悪あがき」という感じがしないでもないが、そのあまりに前世紀の遺物的思考にうんざりしたりする。

 それはともかく、滝口康彦『上意討ち心得』(1995年 新潮文庫)に収録されている「下郎首」は、武士の心得の代表のように言われる「葉隠武士」である佐賀藩鍋島家の家中でも、全くそういうこととは無縁で、ご都合主義で生きた者や出来事があったことを伝えるもので、無念のうちに死ななければならなかった出来事の顛末が描かれたものである。

 事の起こりは、慶安5年(1652年)5月に佐賀藩鍋島勝茂の十男である鍋島左近が江戸に母親を見舞った帰りの東海道原の宿近郊で、京都の役務を終えて江戸に帰る傲慢な旗本一行とすれ違った所にあった。

 その時に、左近一行の中にいた草履取りの剣之助という若者や挟箱持ちの吉左衛門が、喉が渇いて仕方がなく、行き過ぎようとした茶屋で水を飲んだ。そして、剣之助が吉左衛門の求めに応じて気軽に水を運ぼうとした時、つい慌ててしまって、旗本が乗る馬の鼻づらにぶつかり、その水が騎乗の旗本にかかったのである。

 ただこれだけのことだったが、旗本は「無礼者」と大喝し、槍で剣之介を突き刺したのである。吉左衛門は驚き、自分たちは肥前佐賀三十五万七千石の家臣であると名乗る。だが、旗本は直参(将軍家直属)で、無礼討ちは当然であると言う。当時、旗本は直参というだけでそれを鼻にかけるところがあった。そのあまりの仕打ちに、吉左衛門は、思わず脇差を抜いて馬上の旗本に斬りつけた。事柄が大きくなり、左近一行の家臣たちはその場に駆けつけ、吉左衛門を引き取ったが、斬りつけられた旗本は、吉左衛門を引き渡すように要求した。「下郎の首を差し出せ」と要求したのである。

 この悶着に、吉原の宿に泊まった摂津藩尼崎五万五千石の城主である青山大膳亮幸利が仲介に入ることになったが、吉左衛門の死は逃れようもないことになっていく。

 吉左衛門は自ら覚悟を決めていたが、素直な性質で働き者であり、親孝行でもあった剣之助を、いくら粗相があったにせよ、虫けらのように殺したことを黙って見ていることはできなかったし、佐賀の鍋島家は武勇の家風を誇っており、いくら相手が旗本であろうと貫くべき筋は貫き通すだろうと思っていた。

 旗本は強硬で、鍋島左近に直接謝罪させ、吉左衛門の首を差し出せと言い張るが、なんとか左近の直接の謝罪を食い止めるために、吉左衛門の首を差し出すことで、ようやく了承したというのである。喧嘩両成敗ならば、吉左衛門の首を差し出すなら、剣之介を殺した相手の槍持の首も差し出すように要求するのが妥当だった。

 吉左衛門は覚悟を決めると同時に、剣之助を殺した相手の首を要求した。鍋島の家風ならば、それは当然のことだった。しかし、主である鍋島左近はそんな気はさらさらなく、ただことを丸く収めたいだけであった。そのことを苦々しく思っていた左近の旅に同行した須古八兵衛は、吉左衛門に相手の首を約束して首桶をもってきて、せめて下郎としてではなく侍として切腹させ、その介錯をする。

 その時、吉左衛門は、明らかに無念腹とわかる切腹をし、「下郎一人に腹切らせ・・・、鍋島のご家風・・・、見事なものでございます・・・」と言い残すのである(本書223ページ)。八兵衛が持ってきた首桶の中には、相手の首ではなく石が入っていただけであり、吉左衛門はそれを承知の上で腹を切ったのである。

 鍋島左近もその家臣たちも、そのことについてはなんの痛みも感じていなかった。ただ、ひとり、須古八兵衛だけが、帰国後すぐに隠居して、以後は誰とも会おうとしなかった。吉左衛門と剣之助が葬られた寺の住職曰く「世に聞こゆる鍋島家の御家風も、まことに融通無碍なり」(本書 2227ページ)。

 「葉隠武士」といっても、あるいは「武勇を誇る」とか「侍の矜持」とかいっても、また「士道」といっても、それを体現する者は少なく、実態はこのようなものであったというのが、作者の視点である。そして、社会階級の上位にある者は下位にある者を犠牲にして成り立っているのであり、上位にある者はそのことを自責としてもつべきである。これまで、どの社会でも、人間の集団には階層(ヒエラルキー)が形成されてきた。そういう社会や集団というのは一体何なのかというのは社会学の深い課題でもある。しかし、階層形成というのが人間社会の役割上必要ならば、上位にある者はそういう認識を持つべきである。鍋島家も三代目以降になると幕末になるまで大した人物が出てこなくなった気がしないでもない。

 「小隼人と源八」は、厚い友情で結ばれていた若侍が、互いに相手を思いやりながらも一人の娘に求婚した話で、彼らは一緒に連れ立って堂々と結婚を申し込むのである。娘は、この二人のうちのどちらかを選ばなければならずに悩む。ところが、そのうちの一人である源八の父親が殺され、源八は仇討ちの旅に出なければならなくなる。もう一人の小隼人は、源八が仇討ちから帰るのを待って、公平に婚儀の話を進めたいと言う。

 だが、そのうちに娘が藩主の目にとまり、奥に奉公せよとの内意が届く。娘も娘の親も、この藩主の内意を断ることができない。小隼人はそれを知り、源八の帰りを待っていたが、娘を藩主の毒牙から守るために、仕方なく、娘との縁組を届け出て、娘を守る。

 そして、小隼人と娘が結婚した後で、源八が見事に仇討ちを果たして帰ってくるのである。だが、実は、源八が仇討ちを果たしたのは、小隼人と娘の婚儀の前で、源八は娘と小隼人が結婚するのを待って帰ってきたのである。小隼人はそのことを知り、源八の思いを感じていくのである。結婚を申し込んできた二人の若侍を見守る娘の心情もよく描き出されているし、二人の侍の心意気や友情も厚い。こういう作品は作者としても珍しい作品のような気がする。

 本書に収められている後半の作品の中で、最も優れているのは、次の「綾尾内記覚書」である。これは、岡崎藩の目付である綾尾内記が、宝暦12年(1762年)9月11日から1113日までの覚書として綴ったものという形で物語が展開されていく。

 それは、五年前に長年の辛苦の果てに親の仇討ちを果たして帰参した玉置小五郎と下僕の半蔵に、仇討ちとして討たれたはずの相手である勝山造酒と二年前に江戸であったと言い張る内藤伊右衛門という男が現れたことに端を発する事件であった。

 内藤伊右衛門は酒乱の癖があり、あまり信用が置けない人物であり、玉置小五郎も実直であるし、下僕の半蔵もよく主人に仕える人物であり、その真偽の調査を密かに綾尾内記が命じられるのである。

 だが、事柄が公となり、内藤伊右衛門は意地でも自分があったのが討たれたはずの勝山造酒であると言い張る。

 そこで、勝山造酒と思われる人物を探し出して、直接真偽をとうことになり、勝山造酒本人が現れるのである。その時に、下僕であった半蔵が切々と仇討ちの苦労を語り、また身代わりとなった浪人の困窮した姿を語って、真相を告白する。その深い真実の前で、単につまらない意地を張っていた内藤伊右衛門は、自らを恥じなければならなくなり、自決する。

 主人に偽の仇討ちをさせたということで、半蔵も玉置家の親戚の者からの要求で殺さざるを得なくなり、玉置小五郎も自害する。

 そういう話の展開がされるのだが、武士の一分や武士の意地を張ることの愚かさが、人の思いを殺していく悲劇が描かれるのである。それと共に、勇気を持って名乗り出たとされる勝山造酒という人物の、その行為が小五郎と半蔵という真摯な人間を殺すことになることを描くものである。物語の展開は、実に切々としている。

 作者自身が、1960年の『代表作時代小説』に選ばれた時の「作者のことば」として、「あることのために、討たれる覚悟で二十何年ぶりに姿をあらわした一人の男の、一種の英雄的な行為が、二人の真摯な人間を破滅させてしまう・・・それがほんとうに狙いだったのです」と記していることが、本書の清原康正の「解説」に付記されており、なるほどと思った。

 滝口康彦の短編には、何とも言えない切れ味があって、文学的にも上質の作品だとつくづく思っっている。

2013年5月13日月曜日

滝口康彦『上意討ち心得』(1) 「血染川」、「その心を知らず」


 わたしが住んでいる近くの駅前に、小さなバラの公園が作られていて、今、そのバラが美しく咲いている。ロータリークラブだったか、ライオンズクラブだったか、その人たちが丹精を込めて造園されているのだが、日毎に楽しむことができるのでありがたい。冬枯れていくさまも好きだが、新緑の中で花々が咲く今の季節は美しい。花屋さんの店先には、もう紫陽花が並んでいた。

 上質の小説を読むと、どことなく嬉しくなるが、滝口康彦『上意討ち心得』(1995年 新潮文庫)を静かに感動しながら読んだ。これも短編集で、本書には、「異聞浪人記」、「上意討ち心得」、「拝領妻始末」、「血染川」、「その心を知らず」、「下郎首」、「小隼人と源八」、「綾尾内記覚書」の八篇の短編が収められているが、このうち最初の三篇である「異聞浪人記」、「上意討ち心得」、「拝領妻始末」は、講談社文庫として出されている『一命』(2011)にも収録されているので、ここでは触れないでおく。

 「血染川」は、佐賀藩の藩祖といわれる鍋島直茂の甥にあたり、分家として久間城主であった鍋島助右衛門茂治の壮絶な破滅の物語である。鍋島助右衛門茂治は、剛毅で義に厚い人物だったと言われ、領地の久間にも善政を敷いて領民から慕われたと言われている。

彼の破滅は、秀吉の朝鮮の役(慶長の役 丁酉倭乱)の蔚山城攻防(1598年)の時に端を発している。その時に、鍋島助右衛門茂治は、未完成の蔚山城に篭城して飢餓寸前にまで陥った加藤清正ら日本軍の救出に援軍として駆けつけた鍋島勢の中にあって、一説では、餓死寸前で救出された加藤清正が感激して、自分の老臣(重職)の息子と助右衛門茂治の娘を娶あわせて、末永く縁戚を結ぶことを願ったと言われる。

 朝鮮の役は秀吉の死をもって終わり、関ヶ原の合戦後、佐賀藩鍋島家は直茂の子の勝茂を藩主として家康から安堵されるが、鍋島勝茂は他国(他藩)との縁組を御法度(禁止)としたために、鍋島助右衛門と加藤清正との間でなされた婚儀の約定を行うことができなくなった。

 しかし、どこまでも武士の約束を守ることを貫徹させようと、近所の寺に説法を聞きに行くという口実で、娘を密かに肥後熊本に送り出すのである。助右衛門の娘が若党と駆け落ちしたという他説もあるが、助右衛門が「義」として約束を守ろうとしたというのが真相のようにも思われる。その時、藩主として権力を振るい始めた勝茂に対する反発もあり、「勝茂なにするものぞ」の気概も助右衛門にはあっただろう。鍋島家の本流からすれば、助右衛門が本家筋にあたり、直茂・勝茂は分家筋だったのである。

 娘は、行くへ不明となっていたが、実は、肥後熊本の老臣の一人であった正林隼人の息子の嫁となっていた(一説では清正の妾ともあるが、この問題が起こった時には、清正は既に死亡している)。それが鍋島勝茂の知るところとなり、自分が制定した法度が破られたことを激怒した勝茂が助右衛門の娘の引渡しを加藤家に申し入れるのである。

 使者として立てられたのは剛直で武名を誇る成冨兵庫之介茂安で、成冨兵庫之介茂安は、朝鮮の役の際に加藤清正が、助けられた礼はどのようなことでもすると言った約束を盾にして、娘の一命を約して娘を連れ帰り、使者としての役目を果たす。だが、佐賀に連れ帰られて監禁状態に置かれていた娘は自害し、勝茂は鍋島助右衛門とその息子の織部に切腹を命じるのである。

 助右衛門と息子の織部は、もちろんそのことは覚悟の上で、これらの一連のことが、助右衛門を目の上の瘤と思っていた勝茂によって助右衛門を排除するために行なわれたことも知っており、死の準備を整え、使者を待ったのである。使者が久間に到着したとき、助右衛門と織部は碁を打っており、その一局を済ませて腹を斬るのである。その時、助右衛門の家臣十八人が殉死を願い出て、織部は十八人の首を斬ってから腹を斬ったのである。

 その時に流れ出た血が近くの川を赤く染めたので、その川は血川とか血染川とか呼ばれたという。

 この話は『葉隠』の巻六に記載されており、『葉隠』は、「人物をもたない者の悲劇」として描いているのだが、滝口安彦は、これを藩主の勢力欲に対して壮絶に一徹さを貫き通した武士の物語としているのである。それは、滅びの美学と言えるかもしれないとも思う。

 「その心を知らず」も、『葉隠』巻九から題材が取られたもので、男女の不義密通事件を取り扱ったものである。

 ある武士が家に帰った時に、女房と家来とが寝間で密通を働いている現場に出くわし、女房を斬り殺して、子どもの恥になることだからと病死として処理し、不義密通を働いた家来は後日に暇を出して(解雇追放)、家名を守ったという話である。『葉隠』は、この出来事が江戸で起こったこととしているが、本書は佐賀藩の城下で、しかも不義を働いた女房の妹を主人公にして、対面を保つことのつまらさなを描いたものである。

 「みな」は、姉の突然の死を知らされる。姉は四つになる子を残したままで、姉の夫の夏目陣内は二十五歳、姉は二十二歳だった。夫の評判も良く、家内は安定しているように見えた。「みな」の兄の小弥太と陣内が親しく、姉の婚儀もごく自然な成り行きだった。

 姉の死後、陣内は後添いをもらうこともなく、姉のために立派な墓も建て、小弥太との交わりも欠かすことがなかった。だが、「みな」はそのどこかに違和感を覚えていたのである。そして、やがて姉の一周忌が過ぎ、夏目陣内は、子どもがなついている「みな」との結婚を申し出る。だが、陣内には隠していたことがあった。

 それは、「みな」の姉が死んだのは、実は病死ではなく、家来と不義密通を行っていた現場に陣内が出会い、姉を斬り殺したことによるものだった。その際、陣内は、冷静に血飛沫が飛ばないように処理し、不義を働いた家来には当分今のままで過ごすように命じ、女中に医者を呼びに行かせ、その医者が来る途中で、姉がもう死んだと告げることで、病死を繕ったのである。

 ことが明るみに出れば、それは夏目陣内にとっても恥となり、姉の兄である小弥太にとっても恥となるし、息子もつらくなるだろうから、すべてを内分にして病死としたのである。対面を取り繕うことが行われたのである。夏目陣内が「みな」に結婚を申し出たのも、万一にも秘密がもれても、不貞な妻の妹を嫁に迎えたりはしないはずだと、その秘密をだれも信じないだろうという計算が働いていた。

 「みな」はその事実を知る。そして、兄の小弥太が、家名と人間の真実のどちらを取るか、で悩んできていたことを知るのである。「みな」は、それを知りながら、一応は陣内との婚儀を承諾するが、直接、陣内にあって、その気持ちを確かめようとする。

 「みな」は陣内に、姉を殺した時に憐れむ心はなかったのかと問う。陣内は、不義を働き侍の顔に泥を塗ったのだから、一瞬の迷いも憐れむ心もなかったと言い張る。陣内は冷静に事を処理した。そこに「みな」は陣内の姉に対する一片の愛情もなかったことを知るのである。しかし、陣内の心は揺れた。だが、それも一瞬で、彼は再び家名を守るために、厳然と振舞おうとするのである。

 だが、それから三日後、夏目陣内は佐賀の城下から姿を消す。そして、「みな」は姉の墓参りの時に、姉と密通した男と出会う。男は姉との不義が本気だったといい、それでも陣内のために死ぬわけにはいかなかったと言う。「みな」は、本心を隠して生きなければならない侍の哀しさを思うのである。

 江戸時代も中期以降になるとサムライというよりも武家は対面や格式で生きるようになるが、対面を保とうとするときには人間性というものが押しつぶされていく。作者は、その押しつぶされる人間性が、押しつぶされてもな吹き出るところに真実があり、その真実の前では、対面や格式などは意味を持たなくなることを暗示する。「みな」というひとりの女性が、その真実を大切にしたいと願う姿を描き出すことで、『葉隠』が記していることとは違う視点で人間を見ることを物語るのである。

2013年4月29日月曜日

滝口康彦『遺恨の譜』(2)


 初夏とは呼べないが、この2~3日、ようやく暖かくなって過ごしやすくなっている。新緑が鮮やかで美しい。こういう日々は本当に嬉しい。

 さて、滝口康彦『遺恨の譜』(1996年 新潮文庫)の続きであるが、第四作「下野(しもつけ)さまの母」は、二十六、七年連れ添った夫に、十四年も前に裏切られていたと思った妻の不信感から始まっていく。夫の波多野修理は謹言一直で、五十歳になり、子どもも成長して、孫もいて、妻の「いよ」は対馬藩の家中で、自分は幸せ者だと思って暮らしてきた。

 ところが、信じて疑ったこともなかった夫が、十四年前に背信行為をしていたことが動かぬ証拠とともにわかったのである。夫の相手は、先代の対馬藩主の愛妾の「若狭さま」で、しかも無理心中まで企てていたことが、修理自身が書いた手紙が「若狭さま」の死去とともに遺品として夫に届けられてきたのであった。手紙は間違いなく夫の筆跡で、藩の家老に宛てたたもので、「若狭さま」との無理心中を記したものであった。

 夫の留守中にその文を盗み見た妻の「いよ」の心は乱れ、夫に問い質すが、夫はただ「聞かずにおいてくれ」て言うだけであった。「いよ」の心が地獄のようになったことを承知の上で、夫はただ「それを承知で頼むのだ」というばかりである。

 その手紙の中には、決して人に明かすことができない秘密があったのである。その秘密は、前藩主が亡くなった時から始まった。前藩主の正室には子がなく、国元の愛腹に、母は異なるが三人の男児があった。世子として届けでられている猪三郎義功は十歳、次男の富寿は八歳、五歳の種寿である。猪三郎義功は十歳で届け出られているが、実際は八歳であった。新藩主は届け出られていた猪三郎義功がつき、国家老の古川図書が補佐となり、このままいけば問題は何も起こらなかったはずである。

 ところが、それから七年後、新藩主となった猪三郎義功が病気で急死した。まだ十五歳の元服前で、将軍参観も猶予されていたので、お目通りも済んでいなかったが、義功の死が表沙汰になれば、世子なき状態となり、家の断絶は免れなくなったのである。

 家老の古川図書は、江戸家老の意見も聞きながら善後策を波多野修理らと相談した。無難な方法は、藩主猪三郎義功の病気届を出し、異腹の弟である富寿を世継ぎと定め、それを幕府に承認してもらった後に、猪三郎義功の死を届け出るというものだった。ところがそれには時間もおびただしい金もかかることになる。財政難の状態で藩にその金はない。

 思案に窮して、修理は、若君をすりかえるという案を出す。亡くなったのが三男の種寿ということにして、次男の富寿を猪三郎義功とし、実際の種寿を富寿として、お目通りもまだだったのだから可能であるという。だが、猪三郎義功の母は既に亡くなっているし、富寿の母「お弓の方」も、自分の子が新藩主になるのだからさして不服はないだろうが、種寿の母である「若狭さま」は、自分の子どもが死んだことにされて取り上げられてしまう。その「若狭さま」の説得を修理は任されるのである。そこには、その説得が受け入れられない場合は、「若狭さま」を殺して、修理も死ねという意味が含まれていた。

 「若狭さま」は、控え目で謙遜な女性だったが、あまりの酷い申し出に抵抗を見せる。しかし、修理はその説得に自分お命を賭けなければならなかった。修理は、万一を考えて、家老の古川図書宛に、自分が「若狭さま」に懸想をして、無理心中をするということを一筆書いて書き置いていた。その書置きを修理は「若狭さま」の説得に行った際に落とし、それを「若狭さま」に読まれていたのである。そして、「若狭さま」はその申し出を受け入れた。それから、母と子が決して名乗り合うことができない日々が続いた。

 五年後に、猪三郎義功の富寿は十九歳で将軍お目見えとなり、対馬守を拝命し、富寿の種寿も宗下野(そうしもつけ)を名乗り、家臣からは「下野(しもつけ)さま」と呼ばれるようになった。彼は文武に秀でた若者に成長していき、家臣の信愛も得ていたが、しかし、残念なことに二十歳の時に病を得て死去しなければならなかった。

 あと三日の命と医者から宣告を受け、修理は、実の母である「若狭さま」に最後のお別れを言わせたいと願い、「若狭さま」を「下野さま」の枕元に連れて行く。だが、「若狭さま」は、最後まで気丈に振舞って「下野さま」をどこまでも自分の子としてではなく、富寿として接した。気を失うほど自分を保っていたのである。

 そして、それから三年余に「若狭さま」が亡くなって、かつて修理が書きた書置きと「若狭さま」が書きおいた修理の心遣いへの感謝の文が届けられたのである。文の背後にあったのは、決して色恋沙汰ではなく、人生の悲しい運命であった。だが、真相を明らかにすることは決してできない。「いよよ、こらえてくれい」と修理は望むばかりである。

 人には、誰にも知らすことができない、また知らしてはならないことがある。それはただ、じっと自分の懐に抱いている以外にはない。心をもつ人は特にそうである。人がそのようなものであることを知っている人間と、そのことがわかなない人間がいる。「サムライ」という人間の精神を描く時代小説は、それを描くのに最も適したジャンルであるが、この作品には、作者のそういう思いが込められているように思われた。

 第五作「昔の月」は、薩摩藩領内にある日向都城の領主北郷忠能の「脳乱」ともいえる暴挙の中で、弟が兄を上意討ち(藩主の命令で殺すこと)にしなければならなくなり、命乞いをする兄を逃がしていく話で、兄の出奔によって一家は立ち行かなくなり、月光の中で兄と弟が斬り合うことがあったが、兄は弟に懇願して命を長らえ、そして、年老いて再び都城に帰ってきた僧となった兄と弟が、互いに名乗ることもなく、再び月を仰ぐというものである。藩主の気ままによって家臣が苦しめられる例は数挙にいとまがなく、第六話「鶴姫」でも、藩主の娘の姫君のちょっとした思いやりが、それを守ろうとする家臣の生命を賭した行為へとつながっていく話である。

 ただし、第六話「鶴姫」の場合は、我儘ではなく自分に仕えている奥女中の恋を実らせようとした思いやりからだったが、それによって、その姫を守る家臣が生命を賭けることになってしまうのである。地位ある者は、自分がもつ地位や力、あるいは言動がどのような影響を及ぼすかを知らなければならない。だが、実際にそのことを知る地位ある者は少なく、権威や権力だけが振るわれる現状がある。人の痛みがわからない人間は、決して力をもってはならない。

 第七話「一夜の運」は、刃傷沙汰に及んだ時に、冷静さを取り戻して、「サムライ」としての守らなければならないことを守ったことによって、自分の運命を危機から救っていく話で、舞台が佐賀鍋島家に取られているのは、鍋島家が「葉隠」の精神をもつものだからだろうと思う。ここには陰湿な「いじめ」もがかれるし、その「いじめ」に対して腹を据えかねて報復する姿も描かれ、その中で、「サムライ」として守らなければならないことを守る姿が描かれるのである。

 第八話「千間土居」は、久留米藩と柳川藩の間を流れる暴れ川と称された矢部川の治水工事をめぐる話で、片方が強固な土居(堤防)を築けば、片方の堤防が決壊してしまうという中で、土居(堤防)の工事に当たった普請方どうしのそれぞれの矜持がぶつかり合う話である。事柄を藩の中だけでしか見ることができない人間と、それを越えて見ようとする人間の姿が描かれるが、藩の枠を越えようとした人間が結局は潰されてしまう悲しい姿も、ここにはある。

 表題作となっている第九話「遺恨の譜」は、幕末期に起こった寺田屋騒動を、その関係者であった主人公が明治になってから語るという設定で、「考えていたのは、結局、薩摩の利害だけではなかったか」という視点で描かれ、わたしも、幕末期には薩摩は利害で動いたと思っているので、作者の意図がよくわかるような気がしながら読んだ。ここには、寺田屋事件で死んだ有馬新七や、後で殺された田中河内介(こうちのすけ)親子、海賀宮門(みやと)らの無念の姿が描かれる。

 ここで言う寺田屋騒動というのは、1862年(文久2年)、京都伏見の旅館であった寺田屋に、急進的な尊皇派であった者たちが、久留米の真木和泉を中心にして、関白九条尚忠と京都所司代の酒井忠義を襲撃しようと集まり、そのほとんどは薩摩藩士だったために、薩摩藩主の父で、藩の実権を握っていた島津久光がこれを危惧して、騒動を抑えようと剣術に優れた9名の人間を派遣し、そこで激しい斬り合いをした事件である。寺田屋は、当時、薩摩藩の定宿であった。この時に、急進派であった有馬新七などの6名が斬り殺され、2名が重傷を負い、多くが捕縛された。そして、2名が切腹させられ、諸藩の尊皇浪士は各藩に引き渡され、引き取り手がなかった田中河内介親子などは、薩摩藩が引き取ると称して船に載せ、船内で斬殺したのである。また、薩摩に連れて行った者たちも浜辺で斬殺した。

 これによって、京都の治安に功があったということで朝廷側は島津久光への信望を高めたと言われるが、幕末は、こういう愚かで残忍なことが繰り返されたのである。このころ薩摩は長州に対しててひどい仕打ちをしていたが、数年後に坂本龍馬らの斡旋もあって、薩長同盟を結んでいる。薩摩も長州も「藩」という枠内を越えることができなかった、とわたしは思っているし、それが明治になっても続いたと思っている。人間の視野はいつも狭く、人の目は狭い視野の中だけでしかものを見ることができない。だから、今見ているものに注意が必要だと思ったりもする。

 ともあれ、本書に収められている短編も、文学性の高い珠玉の短編で、読む者を圧倒する力をもっているとわたしは思う。その思想性もかなり高いものがある。

2013年4月25日木曜日

滝口康彦『遺恨の譜』(1)


 春の天気は変わりやすいいが、こうも気温の変化が激しいと、「うむ」と思ったりしながら日々を過ごさなければならず、身体的な齟齬が生まれてきたりする。春ののどかな陽射しには縁遠い湿気を含んだ冷たい風が吹き抜けていく。

 以前、滝口康彦『一命』(2011年 講談社文庫)を読んで、その作品の質の高さに感嘆して、この人の作品をもっと読んでみたいと思っていたら、演歌の作詞家をしているT氏が『遺恨の譜』(1996年 新潮文庫)をもってきてくれて、これも味わい深く読んだ。

 これも『一命』と同じ短編集で、この中には「高柳親子」、「仲秋十五夜」、「青葉雨」、「下野さまの母」、「昔の月」、「鶴姫」、「一夜の運」、「千間土居」、「遺恨の譜」の九篇の短編が収められ、このうちの「高柳親子」は『一命』にも収められており、この作品については、20121221日に記したので、ここでは割愛する。。

 本書の巻末に、縄田一男の「解説」が記されており、その中で縄田一男は「一般に滝口康彦の一連の士道小説は、武家社会の掟のきびしさや非人間性を描く、封建期の慟哭譜として捉えられてきたし、事実、私もそう記したことがある。しかしながら、・・・・彼ら侍は、歴史の枠組みの中でそうした生き方しか許されなかったのである―滝口作品が、まず私たちに教えてくれるのは、この動かしようのない事実である」(本書373ページ)と述べて、組織の中で個を確立していくことに難儀していく姿がそのテーマとなているというようなことを述べているが、全くその通りだと、わたしも思う。

 そして、滝口康彦の作品が光彩を放つのは、そうした普遍的なテーマと共に、その文学性の高さにあるとも思う。短編として、実に質の高い構成で、切れのある文章で綴られる物語と登場人物の余韻が響く。

 「仲秋十五夜」は、夫が亡くなって七年の歳月を経た後に、夫の死の真相を知ることができた妻が、夫の真実の姿を知り、それによって夫への愛情や夫婦であったことをしっかりと心に収めていく話である。

 薩摩島津領の日向の郷士であった淵脇平馬と押川治右衛門は、薩摩藩主島津忠恒が催した鹿狩りの際に、鹿と間違えて、分領の帖佐二万石の領主伊集院源次郎忠真を鉄砲で撃ち殺してしまい、その場で切腹して果てた。誤って撃たれたのは伊集院源次郎忠真と、もう一人薩摩藩の重臣の子であった平田新四郎の二人で、薩摩藩島津家は、重臣の子の平田新四郎も死んだのだがら、これが全くの過失であると主張したが、その場に駆けつけた帖佐伊集院家の家臣たちは納得ができず、島津家家臣団との間で戦いとなり、十数名が討ち死にし果ててしまうという出来事になった。

 この出来事を招いたことで、淵脇平馬と押川治右衛門の葬儀もゆるされなかったが、伊集院源次郎忠真の一族も、後の憂いを断つために、その後すべて殺された。

 その後、平馬の妻「とせ」は、平馬が死んだ八月十七日を心に刻みながらひっそりと生きた。そして、七年が経ち、子どもの平次郎も十二歳になったとき、地頭が藩主からの金子を持って「とせ」を訪れ、実は、あの事件には政治的な裏があって、平馬は藩主の命令を受けて伊集院源次郎直実を殺害したのだということを聞かされるのである。

 そこには、かつて伊集院一族が起こした変によって揺るがされた薩摩島津家が、伊集院家の禍根を断つという政治的思惑があったのである。

 事件の前々夜の八月十五日、暗殺の密命を受けた淵脇平馬と押川治右衛門は、自分の生命を賭した、しかも自分の意に沿わない密命を受け、それぞれに逡巡し、仲秋十五日の夜をそれぞれで過ごしていく。平馬はいつもと変わらぬように静かに寝ていた。だが、事件の真相を聞き、「とせ」は、平馬が寝ていたのではなく、必死に何かに耐えていたのだと気づく。殿様からくだされたという金子が重みを失う。

 そして、「平馬は、七年前の八月十七日に死んだ。昨日まで、とせにとって、忘れてはならない日は八月十七日だった。でも、いまは違う。ほんとうに忘れてならないのは、八月十五日なのだ。今夜なのだ」(90ページ)と思うのである。「とせ」は、そのことによって、藩命で死んだ夫を再び自分の手に取り戻すのである。

 こういう密度の濃い展開と人間の姿は珠玉の短編ならではではないかと思う。第三作目の「青葉雨」は、権力の横暴の中でも、強い意志と愛情をもって生き抜く男女の姿を描いたものであるが、これもまた珠玉の作品である。

 「綾」は、家人の留守中に領内見廻りと称して立ち寄った藩主によって手篭にされた。彼女には結城伊織という相愛の許嫁があり、伊織が出府から帰国したらこの秋にも祝言をあげるばかりであった。

 藩主の左近将監忠房は、正室の他に数名の側室を置き、その他にも奥女中に伽を命じるような好色な男で、「綾」に目をつけ、しかもお側頭の深尾主馬と望月宗十郎が画策しての「綾」への狼藉だった。深尾主馬は出世頭第一の男といわれ、結城伊織のことを知りながらも「綾」に後添いを申し入れ、にべもなく断られたことを根にもって、藩主の狼藉を企んだのである。そして、殿様のお手がついたことを藩内の噂として流した。

 だが、「綾」は、そういうことは一切なかったと断固として言う。彼女はそうしながらも、ひとり伊織との結婚を諦め、屈辱に耐えることを決心した。

 だが、殿様のお手がついたのだから側妾として差し出すようにという申し入れが「綾」の兄の伊吹源三郎になされる。「綾」は、断固として、お手がついたというのは噂に過ぎず、もし、藩主が許嫁の定まった娘に主君の威をかさに力づくでてをつけたことになると、藩主は避難の的になるだろうと主張する。

 そうしているうちに、許嫁の結城伊織が帰国した。伊織は直情怪行で無鉄砲なところがあったが、磊落で、こだわりのない真っ直ぐな性格の男だった。そして、「綾」についての噂を知りながらも、なお「綾」を妻に迎えると言う。自分は「綾」を信じており、噂が本当ならなおさら自分が「綾」を妻として迎えなければならないと言い張った。

 だが、藩への婚姻の届出は御側頭の深尾主馬によって却下されてしまう。しかし伊織は、、主君の名を汚さぬようにしているということを主張して婚姻を認めさせる。しかし、「綾」は、自分は伊織の妻にはなれないと思っていた。

 そういう「綾」の姿を見ていた兄嫁は、すべての事実を知りながらも、「綾」が耐えているのは伊織への想いが断ち切り難くあることを素直に認めて、伊織も同じ想いだから、その結婚を承知するようにと語りきかせるのである。「綾」は、その言葉を青葉の雨の中で泣きながら聞くのである。

 権力の横暴によって泣かされた人間は山ほどいる。そして、その中を、自分の思いを強く持って忍耐して生き抜いた人間もいる。この作品は、そういう人間の姿を、自分の思いに正直になって愛を貫く男女の姿として提示するのである。相手に対する思いやりが深い男と女の仲は、そう簡単には崩れないし、また、崩れないでいて欲しい。

2012年12月21日金曜日

滝口康彦『一命』(3)

 寒い日々になっている。いよいよクリスマスや年末が近づき、流石に少し慌ただしくなっているのだが、この忙しなさも、あと一週間ほどだろう。

 滝口康彦『一命』(2011年 講談社文庫)について3回目になるが、作者が作家デビューした「高柳親子」が書かれた1957年頃は、ちょうど、日本が敗戦の混乱から抜け出そうとした時で、朝鮮戦争によってもたらされた経済成長が始まりかけた頃であった。世を上げて上昇志向が席巻していった時代で、状況に合わせて考え方や生き方をころころと変えていく人々も幅を利かせ始めていた。

 おそらく、滝口康彦は佐賀の炭鉱労働者として働きながら、この作品の執筆に取り掛かっていたのではないかと思うが、炭鉱労働者という過酷な生活の中でこれだけの質の高い作品を書いたことに、わたしは、まず深い敬意を表したいと思っている。

 物語は、第二代小城藩主であった鍋島直能(なおよし 16231689年)の臨終の場面から始まる。小城藩は、初代佐賀藩主鍋島勝茂(勝茂は戦国武将として著名な鍋島直茂の長男)の長男であった鍋島元茂が肥前領内の佐嘉郡・小城郡・松浦郡の七万三千石を与えられたことから始まる佐賀藩の支藩であった。元茂の母親が女中であったことから、彼は、長男でありながらも佐賀藩を継げずに、祖父の直茂の領地を分けられ、分家となったのである。

 その元茂の長男であった直能は、文人肌の人物で、和歌などにも堪能であり、京都の公家たちとも親交があった人であるが、本藩である佐賀藩の干渉を受けて、1679年(延宝7年)に次男の元武に家督を譲って隠居させられた。そして、1681年(天和元年)に出家している。

 その直能の臨終に際して、高柳外記が追腹を切って殉死すると主張するのである。江戸時代の初期頃まで、武家社会の「忠」の証として主君の死に殉死するということが、まるで当たり前にようにして、異常にもてはやされていた。大名間で殉死者の数を誇ったりすることも起こったし、殉死した家は加増されて生活が保証されていたので、特に主君の側近たちは「忠義」の証の殉死を重んじたのである。殉死が強要される風潮があり、有為な若者が死んでいくことも度々起こった。殉死は武家の美徳としてもてはやされたのである。

 しかし、こういう風潮を一掃したかった江戸幕府は、まず、1663年に禁止し、五代将軍綱吉の時代に武家諸法度を改訂した「天和令」によって正式に文書として殉死の禁止を発令した。佐賀藩では、これに先駆けて初代藩主の鍋島勝茂が殉死の禁止を打ち出して、江戸幕府の殉死禁止令に影響を与えたと言われているが、それだけに、小城藩では殉死は忌避すべきことであったのである。殉死者を出すことは藩の取り潰しにも繋がることであった。

 だが、鍋島直能の死に際して、高柳外記は殉死することを主張し、臨終の間に詰めるのである。そこには、高柳外記の壮烈な思いがあった。

 外記の父の高柳織部は、初代小城藩主鍋島元茂に仕え、島原の乱にも出陣し、才色兼備の気骨のある者として元茂に高く評価され、元茂の寵愛を受けていた。柳生宗矩に剣を学んでいた鍋島元茂は、高柳織部にその兵法を教えたりもしていた。織部は「剛の者」だったのである。そして、その元茂が死去した際、追腹を切っての殉死はまだ美徳とされており、側近の数名が割腹して殉死した。だが、もっとも篤く藩主の覚えが目出度かった高柳織部は殉死の道を選ばずに生きていた。織部三十歳である。織部は、まだ若い頃に「追腹を喜ばれるような殿ならば、ご奉仕はご免こうむる」と豪語していた。

 高柳織部は、殉死を考えなかったわけではない。否、むしろ、元茂に殉じることは自然のことだと思っていた。しかし、高柳織部が殉死しないことを騒ぎ出している連中がいることを知り、その軽挙妄動が有為の人間を殺していることに腹を立てて、あえて殉死の道を選ばなかったのである。

 しかし、考えもなしに世の風潮に踊らされて殉死を強要する人々は、高柳織部を激しく非難し、ついには夜襲をかけてきた。そこには藩の老臣たちの意向も働いており、彼は言っても仕方がないことだと悟って、塀にもたれて立ったまま「これは殉死ではない」と語って腹を切るのである。しかし、夜襲をかけてその壮絶な最後を見たはずの者たちは、なお、主君の厚恩を忘れ、武士道を踏みはずして、詰め腹を切らされた不覚者として、織部に汚名を着せたのである。織部の子高柳外記は「不覚者の子」として蔑まれた。織部を襲った者の中には、妻の兄も含まれていたし、後の藩の重臣となった者もいた。

 その彼らが、藩主鍋島直能の死に際して追腹を切って殉死すると言い張る高柳外記を、今度は、殉死は武家諸法度の中で禁じられていると主張して彼の殉死を止めようとするのである。父織部への行為を「時世がそうさせた」と言い放つのである。

 外記には妻もなく、母と二人暮らしであり、自ら胸を病んでいた。彼の脳裏に老いた母の不安げな顔が思い浮かぶが、いよいよ直能が死去した時に、隣室に詰めて見事に腹を切るのである。藩の体裁上、彼の死は乱心として取り扱われた。「外記の死骸は、乱心として下げ渡された」(本書184ページ)の一文で終わる。

 この作品は、戦争体験をした作者の戦後の変節ぶりに対する痛烈な批判でもある。しかし、それだけではなく、時流に流され、あたかも時代や社会状況を分析して、それに応じて生きることを是とするような在り方に対する深い反省を促すものでもある。転身が意味を持つのは、ただ悔い改めが行われた場合だけであって、それは変節とは異なる。しかし、今も「時流を読む、状況を判断する」という美名のもとで安々と変節を行うような変節漢が多いのも事実であろう。

 「拝領妻始末」は、美しい物語である。本作も『上意討ち 拝領妻始末』と題して、小林正樹監督、橋本忍脚本、三船敏郎主演で映画化された作品で、会津藩保科松平家の第3代藩主の松平正容(まさかた 16691731年)の側室であった「いち」を巡る物語である。

 ちなみに、松平正容は、第3代将軍徳川家光の異母弟で、最も優れた人物であった保科正之の六男であったが、長男、次男、三男と早世したために第2代藩主となった四男の保科正経に子がなく、正経の養嗣子となり、第3代藩主となり、徳川家から松平姓の永代使用を許された。

 その正容の側室「いち」は、容貞(かたさだ 17241750年 第4代藩主)を生むが、正容の寵愛が他の新しい側室に移ったために、家臣の笹原与五郎に下げ渡される。主君の側室が家臣の妻として下げ渡されるということは度々起こっていた。権力者はそれを横暴なこととか非人間的なこととかは思わなかったのである。下げ渡された妻は「拝領妻」と呼ばれたが、たいていは主君の側室であったという見高な思いをもっていたために、家臣の家でも同じように振舞ってしまい、夫婦仲というものさえなかったのが普通であった。

 正容は「いち」の以前にも側室を「拝領妻」として家臣に下げ渡し、その下げ渡された妻がことあるごとに夫を軽蔑して罵り、ついには破綻したということが起こっていた。それゆえ、笹原家ではそれを固く辞退しようとしたが、藩命であり、しかも与五郎自身が「いち」を妻として迎えることを承諾した。

 「いち」は与五郎の妻となり、笹原家の予想に反して慎ましやかであり、謙虚であった。しかし、与五郎の母は、それが気に入らずに陰湿な嫁いびりを繰り返した。「いち」はそれにも文句ひとつ言わずに耐えた。

「いち」は、十六歳の時に、突然、五十を過ぎた藩主の正容がその美貌に執心し、男の子をもうけるために無理やり側室に上げられたのである。「いち」には許嫁がいたが、許嫁は加増されるために「いち」を捨て、また、「いち」の父親も出世のために「いち」が側室になることを望み、それ以外の道を塞がれて側室となった。そして、悲しみを胸に秘めたたま一子を生んだ。だが、正容に新しい側室ができ、彼女はお払い箱となったのである。

 しかし、与五郎は妻となった「いち」に「そなたが殿にあいそづかしをされたおかげで、、わたしはよい女房がもらえた」と言う(本書197ページ)。「いち」は、そんな与五郎の妻となって、初めて深い愛情に包まれるのである。与五郎との間に一女が与えられ、幸せが続いた。

 だが、正容の世子が夭折し、「いち」が生んだ容貞が保科松平家の嗣子となった。「いち」は世子の母となるわけで、次期藩主の母が家臣の妻であるのは具合が悪いことになる。藩主の用人たちや家老などが、「いち」を返上するように笹原家に迫る。与五郎の母は、相変わらず嫁いびりをするが、与五郎の父は、「いち」に味方し、与五郎もまた、その藩の意向を拒否し、たとえ家が潰されようとも「いち」を守ると言う。

 藩から笹原家へ圧力がかかり、与五郎の母も弟も、与五郎にはやく「いち」を返上するように言う。親戚一同も、「いち」の父親も、「いち」の返上を強く求めるが、与五郎と与五郎の父は家を取り潰しても「いち」を守ろうとする。「いち」もまた行く気はない。

 しかし、与五郎の弟が「いち」を騙して連れ出し、「いち」はそのまま家老の家の奥座敷に監禁されるのである。そして、与五郎の元に戻るならば、与五郎を切腹させると脅す。「いち」は泣く泣く戻ることを承諾する。そして、家老の申しつけで与五郎に「いち」の返上願いを書くように与五郎に迫る。それがすべてを丸く収める道だという。だが、与五郎は断固としてこれを断る。

 これを聞いて藩主の正容は、「君命に従わなかった」ということで、与五郎と父に対して、知行召しあげ、永押し込め(監禁)の刑を下すのである。そしてまた、世子の母として奥に引き戻されたが、「いち」は、そのような扱いを受けず、母子の名乗りをすることもなく、老女(奥女中)として扱われる。正容が世子の母としての扱いをゆるさなかったのである。

 やがて、その正容が死に、「いち」も血を吐いて奥づとめから身を引き、ついに死を迎えたのである。そして、彼女の黒髪が押し込められている与五郎のもとに届けられたのである。

 こういう内容をもつ「拝領妻始末」は、政治的、あるいは社会的なことで振り回される中で、人としての意地を貫き通し、そしてそのことによって愛を高めた人間の物語なのである。与五郎と「いち」は、ほんの短い間しか一緒にいることができなかったが、彼らは決して不幸ではなかった。与五郎の父もそうである。彼らが受けた処遇は酷かったが、彼らには命を充実させるものがずっとあったからである。人は、それがあれば「生きた」と言えるのである。

 本書に収められている短編は、いずれも、政治や社会や周囲の人々に翻弄される状況の中で人として失ってはならない矜持を貫き、一瞬の光を放っていった人の姿である。短編がその「一瞬の光」を描ききっているとき、それを優れた短編と言う。本作はその優れた短編集である。

2012年12月19日水曜日

滝口康彦『一命』(2)


 朝方は重い雲が広がって寒かったが、ようやく晴れ間が見え始めている。だが、気温が低い。国政を決める衆議院選挙が行われて、政権与党であった民主党が惨敗した。政権を取った時の政策が何一つ実行されず、暮らし向きは以前より悪くなったのだから当然の結果とも言える。新しく政権を復活させた自民党もこれといった打開策があるわけではなく、現状が厳しいだけに政治への期待感が大きくなっているのは、ある意味で危険な兆候ではないかと思ったりもする。

 閑話休題。滝口康彦『一命』(2011年 講談社文庫)の続きであるが、「謀殺」は、戦国末期の肥前(佐賀)の覇者でもあった龍造寺隆信(15291584年)による柳川城主蒲池鎮漣((かまち しげなみ 鎮並とも表され、本書では鎮並 15471581年)の謀殺事件を取り扱ったものである。

 蒲池鎮漣は、猿楽を楽しむなどの文武ともに優れた武将で、筑後十五城の筆頭大名であった。父の蒲池鑑盛(かまち あきもり)は豊後(大分)の大友宗麟の幕下で筑後を統括し、掘割を縦横に巡らせる難攻不落の柳川城を築城して、現在の水郷柳川の基礎を築き、信義に篤い優れた統治者であり、龍造寺隆信が家臣団の反乱にあった時も、彼をかくまって保護し、彼の復帰にも力を貸していた。しかし、龍造寺隆信が大友宗麟と並ぶ戦国大名へとのし上がっていったとき、佐嘉(佐賀)と柳川の距離的な近さもあって、家督を継いだ蒲池鎮漣は、大友氏を離れて、龍造寺氏に接近した。

 佐賀の龍造寺隆信は、自分の娘の玉鶴姫を蒲池鎮漣に嫁がせ、鎮漣の義父として彼を筑後侵攻に協力させるのである。そして、やがて柳川の領有化も図っていく。蒲池鎮漣は、柳川城主として、こうした龍造寺隆信の野望を認めることはできないし、隆信の冷酷非情な行為に反感を抱いていたこともあり、ついに龍造寺隆信との離反を決意する。これに怒った龍造寺隆信は、かつての恩顧も無視して、柳川城を2万の大軍で包囲するが、難攻不落の柳川城は落ちず、鎮漣の叔父の田尻鑑種(鎮漣の母の弟)の仲介で和睦を結ぶ。

 しかし、柳川は龍造寺隆信が九州中央へ進出するための要の場所であり、龍造寺氏を離れた蒲池鎮漣が薩摩の島津氏との接近を図っていたという動きもあって、再度柳川侵攻を行うことにして、難攻不落の柳川城を責めることは難しいから、城主の蒲池鎮漣を謀殺することを画策したのである。

 龍造寺隆信は、龍造寺家と蒲池家の和睦の印として、鎮漣が好んだ猿楽の宴を催すとして、柳川に使者を送り、鎮漣を誘い出そうとしたのである。龍造寺隆信の腹黒さをよく知っている蒲池鎮漣は、初めこれを頑なに拒否するが、使者は、鎮漣の母や重臣を説得してまわり、母親思いの鎮漣はついに断りきれなくなって、万一の場合に備えて屈強な家臣団をつれて肥前に向かう。しかし、与賀神社参拝の際に圧倒的多数の軍団に取り囲まれて、家臣団は討ち死にし、鎮漣はそこで自害した。龍造寺隆信の娘で鎮漣の妻となっていた玉鶴姫は、父が夫を謀殺したことを知ると、鎮漣の後を追って自害している。

 龍造寺隆信は、蒲池鎮漣を謀殺すると、直ちに兵を柳川城に向けて出陣させ、鎮漣一族を抹殺させた。しかし、そのあまりに非道な仕打ちで、筑後の有力者たちの反発を招き、それが以後の龍造寺家の没落に繋がっていった。

 本書は、その龍造寺隆信の使者として、正直者であると知られていた西岡美濃と田原伊勢が選ばれ、彼らが柳川に向かって、謀殺を隠しながら嘘をついて鎮漣の母の千寿を説得していく姿を描いたものである。彼らは、主君から嘘をつくことを命じられ、苦渋のうちに説得をしつつも、夜伽に差し出された娘に手をつけないことで、なんとか密かに謀殺の計画を知らせ、謀殺を未然に防いで、蒲池鎮漣の命を救おうとした。しかし、手をつけられなかった娘が、手をつけられなかったのは自分に魅力がないことだと恥じて、嘘をついて手をつけられたと言ってしまったことから、母の千寿が謀殺はないものと考えて、鎮漣を肥前に送り出してしまった、というのである。「皮肉」な結末は、ほんのささやかな嘘から生じる。でもそれが人の世の事実だろう。

 思うに、蒲池鎮漣は優れた武将であり才覚のある人であったが、彼の悲運は、彼がもっていた才覚によって情勢判断をし、自らの身をその判断に従わせて右往左往させたところにあるのかもしれないと思ったりもする。あるいは、武将としてではなく人として、母親や妻への思いやりに流されて、表面的な優しさをもってしまったところにあるようにも思われる。情勢判断は極めて大事だが、自分を見失ってその情勢に身を委ねると、人は滅びの道を行くしかなくなる、とわたしは思う。蒲池は滅び、蒲池を滅ぼした龍造寺も滅ぶ。それが歴史だろう。主家に命じられた不本意なことをしなければならない家臣の苦渋が本書では優れて描かれている。

 「上意討ち心得」は、真田増誉という人が、徳川幕府が成立する慶長から元和、そして五代将軍綱吉に至るまでの徳川家に関係にあった人の事跡をまとめた『明良洪範』という書物に記載されているエピソードのひとつを基にして書かれた作品である。ちなみにこの『明良洪範』は、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で全巻を読むことができる。

 徳川御三家の一つである紀州藩は、家康の第十男徳川頼宣が藩祖であるが、頼宣が紀州五十五万五千石を成立させたとき、彼は多くの浪人を召抱えた。その時召抱えられた浪人の中には有象無象の人間がおり、本書に登場する浅香大学もその一人として描かれ、彼は藩内屈指の剣の手練であるが、狷介な性質で、些細なことから頼宣お気に入りの近習を斬り捨てて、城下を出奔したのである。怒った頼宣は、上意討ちの命令をくだし、追っ手を選りすぐって向かわせるが、6名のうち4名までが彼に返り討たれ、残り2名が大和郡山の町家に潜む浅香大学の居場所を探し出して戻ってきた。

 業を煮やした頼宣は、里見主馬という一人の家臣に上意討ちの命を下す。しかし、指名された里見主馬は、武芸も学問も平凡で、とても藩内屈指の腕を持っていた浅香大学の相手になるような人物ではなかった。彼が推挙されたのは、浅香大学と並ぶ藩内屈指の剣客で、妹の小雪と主馬との結婚を望んでいる祇園弥三郎の働きかけがあったのである。弥三郎の助太刀があれば、主馬は主命を果たして浅香大学を討つことも不可能ではないと思えたからである。

 里見主馬はごく平凡で目立たない男であり、男ぶりもあまりよくなく、見栄えもしない男であり、取り柄がなさすぎるということで弥三郎の親類縁者からはふさわしくないともなされていた。ところが、どうしたことか妹の小雪は、その主馬に惚れており、弥三郎は兄として、なんとか主馬に手柄を上げさせて、妹との結婚を実現させたいと思ったのである。藩主の頼宣も「介添えには祇園弥三郎を連れていけ」と命じる。

 しかし、主馬は弥三郎の助太刀を巌として否み、単独で郡山に出かけるのである。案じた小雪は、大学に劣らない腕を持つ兄の助太刀を受け入れるようにと主馬の家に行くが、主馬の母親から、かえって、「あなたがたは侍の心得を知らない」とたしなめられてしまう。上意討ちの命は、いたずらな功名争いを避けるために、必ず一人で受けよ。それが上意討ちの心得なのである。母親は「主馬は立派に死んでくる」と言い放つ。

 ところが、武芸に秀でたところがなく、浅香大学には負けると思われていた里見主馬が見事に大学を破って主命を果たす。主馬には秘策があり、本来の左利きの利点を活かして、慢心していた大学を破るのである。しかも、それが上意討ちであることの証を立てる策まで用い、紀伊藩内に彼が上意討ちを見事に行ったことを証し立てる。

 こうして主馬は見事に役目を果たした者として、これまでの目立たない平凡な男から命がけで武士の面目を果たした者として自らの運命を変える。それは小雪との結婚をも可能にすることであった。

 しかし、小雪は、実は、主馬の人目をひかない平凡さに心を惹かれ、取り柄のないところが好きだったのであり、彼が注目を浴びることに寂しさを感じてしまうのである。

 たいていの男は、自分が立身出世をして有為な人間であることが自分の魅力を高めることだと思っているが、女は、男にそれを求める人もいるが、そうでない細やかでも満たされていることを願う人もいる。いずれにしても確実なことは、人間の幸せは立身出世にはないということである。

 「高柳親子」は、作者が1957年に第10回オール読物新人賞の次席を得た商業誌のデビュー作品で、肥前佐賀藩の支藩であった小城藩を舞台にして武家社会の風潮を痛烈に描ききった作品であり、この作品が生まれた時代背景なども考慮したいので、また、次回に記したい。