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2011年1月5日水曜日

杉本章子『銀河祭りのふたり 信太郎人情始末帖』

 碧空が広がっているが、気温が低く空気が冷たい。幕の内が開けて気ぜわしさが戻ってきた。たわいのない夢ばかり見て眠りが浅いのか、朝から気が抜けたようなどことない気怠さを感じている。バイオリズムが低くなっているのかも知れない。

 それでも、杉本章子『銀河祭りのふたり 信太郎人情始末帖』(2008年 文藝春秋社)を爽やかな読後感をもって読み終えた。このシリーズは、第1作目の『おすず』以外に、第2作目の『水雷屯』から第6作目の『その日』まで順に読んでおり、本作はその第7作目の作品で、太物問屋の大店の主人となった主人公の信太郎の商人としてのけじめをつけていく姿と、彼が惚れて一緒になった元吉原の引き手茶屋の女将であった「おぬい」が商家の新造(妻)として奥向きを切り盛りしていく姿を織り込みながら、亡くなった父親が残した妾腹の兄との関係を修復していく姿を人情味溢れる筆致で描き出したものである。

 「おぬい」を嫌い抜いて辛く当たっていた信太郎の母「おさだ」も、孫娘を間に挟みながら、「おぬい」の陰日向のない人柄で次第に「おぬい」を支えていく者となり、義姉で気の強い「おふじ」も彼女の家に奉公に出されていた「おぬい」の連れ子の「千代太」の奉公人として働く健気で真っ直ぐな人柄に触れることで「おぬい親子」に向けていた嫌悪を氷解していく。

 また、本書の表題ともなっている第三話「銀河祭りのふたり」では、信太郎の友人で徒目付となっている磯貝貞五郎と芸者である「小つな」の恋の顛末が、貞五郎に思いを寄せている義姉の「千恵」の心情とともに描き出されていく。

 御家人の次男であった磯貝貞五郎は兄が家督を継いだときに、家を出て、芝居小屋で笛を吹く囃子方をしていた時に芸者の「小つな」と恋仲になったが、兄が殺された後に磯貝家に戻り、徒目付として働いていた。「小つな」を妻に迎えたいと思っていたが、「小つな」が芸者であることから母親を初め周囲の反対にあっていたのである。義姉の「千恵」とは幼なじみであった。

 他方、義姉の「千恵」は、貞五郎とは幼なじみで恋心を抱いていたが、彼女の姉が貞五郎の兄との結婚を前にして亡くなったために、家どうしの話し合いで、貞五郎への思いを抱いたまま彼の兄の妻となっていた。その夫が死んだ後、貞五郎の母や周囲の勧めもあり、また自分の思いを通すために貞五郎に言い寄っていくのである。

 貞五郎は徒目付としての仕事に情熱を傾けて江戸城御金蔵破りの犯人の探索に精を傾けていたが、義姉の「千恵」の思いを知り、周囲を傷つけないように、「小つな」への愛を貫いて、役を引いて、侍を捨て、「小つな」の元へ行くのである。それが七夕の夜で、「銀河祭りの夜」であった。

 また、信太郎の家に恨みを抱いていた妾腹の子で太物問屋を乗っ取って近づいて来ていた兄の「玄太」との関係も二人が巻き込まれた事件をきっかけに回復されていく。

 商人としての義理を欠いたために筋を通す信太郎に見放されて借金を重ねて「玄太」に店を乗っ取られ、借金苦で自死した太物問屋の息子たちの逆恨みで、信太郎と玄太の両方とも監禁されて殺されかける事件が起こったのである。監禁され、二人はなんとかしてそこを脱出しようとするが、うまくいかない。そういう中で互いに思いを分かっていくのである。

 二人は、信太郎に恩を感じている奉行所の同心や幼なじみで岡っ引きの手下になっている「元吉」の手によって救い出されていく。「元吉」は、本書で、彼が前に傷ついたときに助けてくれた気立てのいい娘と夫婦になる約束ができ、彼を使っていた親分の後を継いで、晴れて岡っ引きになっていく。

 こうしてすべが柔らかな温かみに包まれて終わる。すべての恋はそれぞれに自分の正直な思いを貫くことで一応の形をなしていく。描かれる人物たちが理想的すぎるところがないわけではないが、商人としてのけじめをつけて生きる姿は、昨今には見られない人間としてのけじめのつけ方でもあり、武家の矜持、商人の矜持、友情や愛情の矜持ということを考えさせるものではある。何にしろ、自分の心底の思いに正直になることこそが、人の幸せの第一歩であることに違いはないのだから。

 今日はあざみ野の山内図書館によって、暮れに借りてきた本を返却して新しい本を借り、それから都内の会議に出る予定である。数冊の本を抱えて電車に揺られるのは面倒な気もするが、気乗りはしないが責任のある会議が予定されているのだし、本の返却日でもあるのだから致し方ないだろう。昨日、図書館に行けばよかったのだが、それをしなかった罰のようなものだろう。しなければならない仕事も次第に山積みしてきたなあ、と思ったりもする。まあ、すべて世はこともなしで、いいか。

2010年11月29日月曜日

杉本章子『その日 信太郎人情始末帖』

 昨日、シクラメンの小さな鉢植えを一鉢買った。紅色に白の筋が入った花びらの柔らかさもそうなのだが、何よりもその丸い葉の鶯色に和みがある。そして、今日は洗濯日和で、朝から寝具を干し、シーツを洗い、掃除をしていた。このところ少し予定が立て混ではいるのだが、ゆっくりとこなしていければと思っている。

 昨夕、杉本章子『その日 信太郎人情始末帖』(2007年 文藝春秋社)を読み始め、興が乗って結局最後まで読んでしまった。これは、このシリーズの6作目で、2002年に中山義秀文学賞の受賞作品となった第1作の『おすず 信太郎人情始末帖』以外は、シリーズの順番ごとに読んでいるので、呉服太物問屋の大店の総領息子が、許嫁がありつつも吉原の引手茶屋の女将「おぬい」と恋仲となり、勘当され、芝居小屋の大札(経理)の手伝いをしながら、様々なことがらに関わり、その中を自分の恋を貫き、やがて父親の死を迎えて勘当が解けるという物語の展開の次第を順に追っていることになる。

 このシリーズの作品には、いくつもの世界が無理なく組み込まれていて、大きくは主人公が芝居小屋と関係していることから江戸の芝居の世界、役者や戯作者、また芝居小屋の運営に携わる世界と、太物問屋の世界、つまり商人の世界の2つであるが、勘当された信太郎が裏店の貧乏長屋に住んでいることから描き出される江戸庶民の世界、芝居の笛方として働いていた御家人の次男坊との関わりから下級武士の世界、その恋人が芸者であることから芸者の世界、そして、信太郎が惚れている「おぬい」が吉原の引手茶屋の女将であることから吉原遊女の世界、また、信太郎の幼なじみが岡っ引きであることからの市中で起こる様々な事件、そうした世界が巧みに描かれているのである。もちろん、恋愛や親子、嫁姑の問題なども主たる大きな筋立てとなっている。それらが実に人情豊かに描き出されるのである。

 本作では、勘当を解かれ亡き父親の後を継いで太物問屋の後を継いだ信太郎が商人として生きていく姿を中心に、「おぬい」を嫁として迎えていくことにまつわる様々な誤解が氷解していく過程が描かれているが、芝居小屋の火事の際に大札(「おぬい」の叔父)を助け出そうとして失明してしまった信太郎の手足となるためにすべてを捨てて女中奉公となった「おぬい」と、彼女を受け入れない信太郎の母「おさだ」との関係、乗っ取りを企む商売上の裏切りと信頼の姿が描かれている。「おぬい」の決断によって丁稚奉公に出された連れ子の「千代太」の成長していく姿もひと味もふた味もある。

 この作品の最も優れていると思えるところは、人をその丸ごと受け入れていくことの難しさと大切さが丹念に描き出されているところで、社会的な身分の問題や人の欲、様々な思惑が渦巻く中を、周囲に細かい配慮をしながらもひたすらお互いの思いを大切にしてきた信太郎と「おぬい」の姿が頂点に達する婚礼の日の描写は、人を受け入れて生きていくことの素晴らしさに満ちている。情の細やかさは作者ならではのものだろうと思う。

 「その日」というのは、安政の大地震(1855年11月11日・・旧暦10月2日)が起こった日ということで、その日の登場人物たちの安否がひとりひとり、それぞれの人物に合わせて描き出されるのもいい。「おぬい」が営んでいた引手茶屋を預かる老夫婦が共に死んでいく姿も胸を打つ。安政の大地震はマグニチュード7ぐらいの大地震で、これで江戸市中はほとんど崩壊し、死者4000人以上を出したもので、各地で悲惨な状態が展開された。

 何と言っても、この作品で描かれる人物たちは、「生きて、そこで生活している」人たちとして作品の中で動いている。そのリアリティーがしっかりしているので、「情」も生きる。

 ひとつ欲を言えば、安政の大地震のころから世情の不安定さも増し、やがて安政の大獄(1858-1859年)なども起こっており、その10年後には徳川幕府も滅びたわけだし、そうした世情の不安定さは人間の生き方にも大きな変化をもたらし、経済状況も大きく変わったはずで、その影響を太物問屋の主として生きる主人公がどのように受けていたのかという歴史のリアリティーも織り込まれると良いと思ったりもする。しかし、それは小説としては望外の望みだろう。

 ともあれ、この作品は読んで嬉しくなる作品である。とかく注文をつけたがる社会の中で、「何も足さず、何も引かず」人を受容することができる人間の素晴らしさがここにはある。

2010年8月14日土曜日

杉本章子『火喰鳥 信太郎人情始末帖』

 曇って蒸し暑い日になっている。こういう日は怠け心がむくむくと起き上がって何もせずに街をぶらぶらと歩きたいと思ったりする。徒歩圏内にある青葉台駅周辺は、デパートもあるし、大きな本屋もある。スターバックスかドトールでコーヒーをのんびり飲みながら行き交う人を眺めるのもいいだろう。だが、今日は少し仕事がある。書斎のエアコンの修理がまだなので、ちょっとした作業でも汗がにじみ出る。

 昨夜、杉本章子『火喰鳥 信太郎人情始末帖』(2006年 文藝春秋社)を読んだ。これは、このシリーズの5作目で、これまでにも『水雷屯』、『狐釣り』、『きずな』を読んできており、大店の総領息子であったが、吉原の水茶屋の女将に惚れたために許嫁を捨て、勘当され、芝居小屋の大札(経理)の手伝いをしながら、明察を働かせて難事件を解決する信太郎という人物を中心にした人間模様を描いた作品で、随所に女性ならではの作者の細やかな設定が施され、人と人とのかかわりの難しさとありがたさがにじみ出ている作品である。

 「火喰鳥」というのは、江戸の町をなめるようにして起こっていた火事の形容で、この作品でも、父親が亡くなっていよいよ大店の後を継ぐことを決心した信太郎が、惚れた水茶屋の女将「おぬい」のつてで勤めていた芝居小屋が火事に見舞われ、「おぬい」の伯父で芝居小屋の大札をしていた久右衛門を助けるために火事場に飛び込み失明する。久右衛門は、信太郎と「おぬい」のよき理解者であったが、この火事で焼け死ぬ。

 信太郎の失明を知った「おぬい」は、いても立ってもいられなくなるが、結婚に反対する信太郎の母と気の強い姉の抵抗の中で、信太郎に近づくことさえなかなかできない。「おぬい」は、自分が受け入れられないことを知りつつも、亡くなった信太郎の父親の愛情や信太郎への思いを強くして、柔らかく、礼儀正しく、しかし毅然として婚家に向かう。母の代から守ってきた水茶屋を譲り、財産を処分し、嫁として迎え入れられないなら女中として信太郎のそばに行くことを決心するのである。「おぬい」は、信太郎の失明が自分の伯父を助けるためであったという負い目も感じる。

 今回の作品では、何かの事件が取り扱われるのではないが、嫁と姑の確執を始め、基本的に「受け入れられない状態」の中での苦闘がよく表わされている。

 人間にとって、自分が受け入れられていないということを自覚しなければならないことほど辛いことはない。そこでは、まず、人は自分の孤独や孤立と闘わなければならないし、それを支えるものがそう簡単にはない。「おぬい」は、信太郎への愛情を支えに、その孤軍奮闘を展開しようとするのである。それは、信太郎の友人で御徒目付となった貞五郎の妻となることを決心した芸者の「小つな」も同じで、「他家に入る」という異なった状況に置かれる人間の、自分の存在を確立するための苦闘が展開されるのである。

 この作品の中で、信太郎が住んでいた貧乏長屋の人たちの姿が描かれるが、その中で、彼らについて「おぬい」が思うくだりが次のように述べられている。

 「たとえはた目には、みじめな長屋暮らしと映ったとしても、万年店で過ごした四年の歳月は信太郎にとって、ひとの情愛に包まれたかけがえのない日々だったにちがいない。いま、あらためてそう思った」(141ページ)。

 はた目に何と見えようと「ひとの情愛に包まれたかけがえのない日々」が、信太郎と「おぬい」の生活であり、それが本シリーズの中で展開されているのである。

 考えるまでもなく、一般に、時代小説の中で描かれる江戸の長屋暮らしは、たいてい、そうした貧しい中での人の情愛を描いたものである。実際には、江戸の裏店にあった貧乏長屋の暮らしは惨めで悲惨で厳しいものだったに違いないし、多くの場合は、貧しさの中で人の心もとがり、とげとげしくぎしぎしときしむようなものだっただろう。大まかに、江戸時代の江戸の人々はいま以上に楽天的ではあったが、決して簡単なものではなかった。

 だが、それでも人は生きていた。そういう視点でこの時代の人々を見る現代の作家たちが、そうした情愛を大切に描こうとするのは、思い入れがあるとはいえ、現代人が失いかけている「暮らしの中での人情」の琴線に触れることだからだろうと思う。「ひとの情愛に包まれたかけがえのない日々」という言葉だけで涙があふれてくる。情けが人を生かしたり殺したりする。

 個人的なことを言えば、わたしも、もうとげとげしさやぎしぎしとしたことは心底いやであるし、問題提起という美名での批判の世界でも生きたくない。人間の鋭さなども放棄した。鈍化は、生物学的な貴重な存在手段であって、鈍化していくことは悪いことではないと思っている。日々の暮らしをぽつりぽつりと生きていく。それでいい。

2010年7月19日月曜日

杉本章子『きずな 信太郎人情始末帖』

 積乱雲がもくもくと立ち上がり、昨日から猛暑日が続いている。じっとしていても汗が滴る。昨夕はそれでも涼風が吹いていたのだが、今日は、木々の梢も微動だにしない。

 土曜日(17日)から昨日にかけて、杉本章子『きずな 信太郎人情始末帖』(2004年 文藝春秋社)を読んだ。これは、先に読んだこのシリーズの『狐釣り』に続く四作目で、呉服太物店の跡取りで許嫁がありながらも、吉原の引手茶屋の女将で子持ちの女性に惚れて勘当された美濃屋の信太郎を主人公にした話で、『狐釣り』では、信太郎と彼が惚れた女将の「おぬい」との間に子どもができ、いよいよ自分の身の振り方をはっきりさせなければならない状況が描かれていた。

 本作には、「昔の男」、「深川節」、「ねずみ花火」、「鳴かぬ蛍」、「きずな」の5編が収められているが、読み終わって嬉しくなったことの一つに、信太郎とおぬいの身辺状況を描いた「昔の男」と「きずな」が最初と最後に置かれていて、ちょうどサンドイッチのようにして、その間に信太郎の友人でもあり御家人の次男で芝居の囃子方で笛吹きをしていた磯貝貞五郎の兄が殺されるという事件の顛末が挟まれている構成になっていることである。

 「サンドイッチ方式」とでも呼ばれるような構成なのだが、そこに少しも無理がない。まず、全体をうまく包む第一話「昔の男」と第五話「きずな」であるが、「昔の男」ではおぬいが昔つきあったことがある侍のことで、それを知る旗本がおぬいに脅しをかける。おぬいはそれをきっぱりとはねつけようとするが、手口が巧妙である。だが、そこに信太郎の父親がきて、脅す旗本を逆に追い返し、おぬいと信太郎の父親の初顔合わせの場面ができ、信太郎の父親は脅しに屈しないおぬいのことを気に入っていくのである。

 男女のことの中で、きっぱりとした対応ができるためには、自分の愛情に自信が必要である.自分がとことん惚れていることを知っていれば、愛情の問題はほとんど解決していく。おぬいにはそれがあるのであり、また、第五話「きずな」でそのことを知った信太郎が少し悋気(嫉妬)を起こしかけるが、それもふたりの間を裂くに至らない。「悋気は寝屋で」というのがいい。

 信太郎の父親は、おぬいとこうして顔合わせをし、なんとか勘当している信太郎と自分の美濃屋との関係を修復させようと、おぬいの連れ子である千代太を自分の店に引き取ろうとするが、周囲は猛反対をし、特に気の強い信太郎の姉がいきり立つ中、持病の心臓の発作が起こり、他界してしまう。

 知らせを受けて駆けつけたおぬいは、はじめは逡巡するが、千代太と信太郎との間にできた娘に、「祖父(じいさま)」ときっぱりと言わせるのである。

 勘当したとはいえ、理解をもて接しようとした信太郎の父親が亡くなって、さて、信太郎とおぬいはどうするか、それが今後の興味をそそる筋立てとなっている。

 その間に挟まれた2-4話では、自分の兄を殺された磯貝貞五郎が、信太郎の協力を得て真相を突き止めていく話であるが、ここでも身分違いの恋の行くへが問題となる。貞五郎は芝居の囃子方として粋で売り物の柳橋芸者の売れっ子と夫婦同然の暮らしをしていたが、兄の死によって武家の家督を継がなければならなくなり、売れっ子芸者は身分違いと諦めようとする。

 しかし、貞五郎は彼女を嫁にしたいと申し出る。貞五郎の兄嫁と母親が乗り込んできて、身分違いを言い立てる。貞五郎は元々兄嫁が結婚する前からの幼なじみであり、兄嫁と結婚させるというのである。自分でも武家の妻などにはなれないと思うところもある。しかし、女の意地もあったのかもしれないが、売れっ子芸者は貞五郎の申し出を受け入れていく。

 事件の探索と恋模様の二筋が絡み合って、磯貝貞五郎の顛末が語られているのである。そして、様々な状況やのっぴきならない関係があったとしても、結局は自分の決断と思いの強さが事柄を決していくことが全体を貫いているのである。

 「人間は精神である」と言い切ったのはS.キルケゴールであるが、「精神は決断」であり、その決断に従って生きているのだから、どのような決断をするかがその人の人格と人生を決めていく。『信太郎人情始末帖』では、主人公たちはそれぞれ「自分の愛」に誠実に決断していく姿が描かれている。作家の精神はそう単純なものではないが、このシリーズを読む限りにおいては、作者にもどこか一本気な所があるのかも知れないと思ったりもする。

 今年のお正月に見た映画の『のだめカンタービレ 最終章(前編)』がDVDになっていたので借りてきた。何度もこれを見ているのだが、改めてDVDで見ても、これは本当に面白いし、使われている音楽がとてもいい。この作品の中では主演の上野樹里の顔つきがとても柔らかである。作られる時のスタッフも雰囲気も良かったのだろう。5月に公開された後編も早くDVDになればと思っている。

2010年6月28日月曜日

杉本章子『狐釣り 信太郎人情始末帖』

 曇り時々晴れ、そして雨模様という梅雨特有の蒸し暑い日になった。昨日はなんだか疲れ果ててしまい、夕方から外出の準備はしたものの、結局出かけずにうつらうつらと眠りこけてしまった。今朝起き出して汗を滴らせながら久しぶりに家中の掃除はしたものの、今、また睡魔に襲われつつある。佐藤雅美の「居眠り紋蔵」ではないが、突如として眠気を感じる。

 一昨日の土曜日に杉本章子『狐釣り 信太郎人情始末帖』(2002年 文藝春秋社)を読んだ。これは、このシリーズの3作目で、先に読んだ『水雷屯』の続編に当たるもので、呉服太物店の総領息子であったが、許嫁がある身で吉原の茶屋千歳屋の子持ちの女将に惚れ、結婚を反故にして女将の元に走ったために勘当され、芝居小屋の大札(経理)の手伝いをしながら過ごしている信太郎が持ち前の知恵を働かせて身辺に起こる事件を解決していく物語である。

 前作で茶屋の女将との間に子どもができたことを告げられ、女将の連れ子の千代太とも納得がいくように話をして結婚をすることを決意したが、老いて病を抱える父親のことや実家の先行きのこと、女将が営む茶屋の先行きのことなど悩みはつきなかった。そして、本作では、無事に女の子が生まれるが、その子の人別(戸籍)をどうするか、いよいよ決めなければならない事態になっていくのである。

 そういう信太郎自身の身の振り方を考えなければならない状態を縦糸にして、以前、彼の許嫁であった女性の家に押し込み強盗が入り、その女性「おすず」が自害してしまった事件で、せめてもの罪滅ぼしと強盗の探索に力を貸して捕らえた強盗の首領たちが牢抜けをして、逆恨みで信太郎の命を狙っている事件や、彼の幼なじみで岡っ引きの手下をしている末吉にまつわる事件が横糸となって物語が織りなされている。

 末吉は火事の時に知り合った女性に惚れ、結婚を考えているが、その女性は行方不明になった医者の妻で、その医者がどうなったのかをはっきりさせてから晴れて夫婦になりたいと思い、医者の行方を探り始める。そして、その医者が実は生きていて、商家の乗っ取りを企む悪徳金貸しの手先となって商家の主の毒殺に手を貸していることがわかる。悪徳金貸しは、正体がばれそうになって末吉を刺し、女性は末吉が死んだと思い、自ら毒を飲んで死ぬ。

 末吉は一命を取り留め、信太郎は同心や岡っ引きと協力して、悪徳金貸しの悪行の証拠を探し出し、事件を解決していくのである。

 信太郎は呉服太物店の跡継ぎとして、算用、始末、才覚も申し分のない人間である。礼儀も正しいし、情もある。企業家としての豊かな才に恵まれている。そして、込み入った事件の真相を暴く知恵も豊かである。しかし、茶屋の女将に惚れ、親を泣かし、周囲を嘆かせ、許嫁を捨てた。彼の妹も婿を取ることができない男に惚れているので、呉服太物店の先行きを案じ続けるが、惚れた女との間に子どももでき、これからどうするか思案し続けなければならない状態に置かれている。

 状況が切迫して人は悩むが、本書の主人公は、そういう悩みの中に置かれていても、自分がごく当たり前だと思う友情や愛情に素直であろうとし続けている。それが本書の主人公の魅力のように思われる。ただ、本書では、彼の悩みの糸口のようなものが記されている。それは、彼を勘当した父親が、お互いに馴染んでいくために女将の連れ子の千代太を自分の店で引き取って、千代太を正式な跡継ぎとしてもよいと考えていることである。種々のことから勘当を簡単に解くことはできないが、信太郎の思いと生き方を受け止めようとする親の才覚のある道筋を示そうとするのである。果たしてそれがどうなるかは、本書ではまだ語られないが、それぞれの事情を抱えた者たちが可能な限り幸福であるようにという物語の基調をそこに見ることができるような気がするのである。

 人は、もし単純に言うことができるとするならば、誰でも幸せになりたいと願う。そしてそう願っていてもうまくいかない事態が常に起こる。そこには、よこしまな欲や自己保身の思いが働いている。しかし、人が幸福になることができる条件は、究極的にはたった一つしかない。それは、言い尽くされてきたことではあるが「愛情」、しかも本物の愛情に他ならない。

 この物語は、そうした愛情の姿を登場人物たちが示していく物語である。このシリーズはまだ続いているので、これから主人公がどうなるのか見ていきたいと思っている。

2010年6月1日火曜日

杉本章子『水雷屯 信太郎人情始末帖』

 先週の木曜日の夜に雨に打たれたのがいけなかったのか、金曜日から頸椎の痛みが激しくなって、左肩から先に激痛が走り、病院の麻酔薬も痛み止めも効き目がなく、身の置き所のないような状態で過ごしていた。この痛みは、絶望とは異なって「死に至る病」ではないが、痛みが走ると仕事はおろか日常生活も困ったことになる。日頃の不摂生なのだから「耐えがたきを耐える」しかない。本を片手に横になって、眠ったり起きたりしていた。

 そうしていてもおもしろい本はおもしろく、杉本章子『水雷屯(すいらいちゅん) 信太郎人情始末帖』(2002年 文藝春秋社)を読んだ。

 表題の「水雷屯(すいらいちゅん)」というのは、第一作に八卦占いによる「多事多難の相」ということで使われている言葉であり、ありていに言えば「大凶」と同じような意味だろうと思う。

 杉本章子という人は、奥付によれば1953年生まれで、1989年に、江戸から明治に移り変わる中で最後の木版浮世絵師といわれた小林清親の波瀾の生涯を描いた『東京新大橋雨中図』で直木賞を受賞している。福岡県生まれで、1984年に福岡市文学賞、1995年に福岡県文化賞を受賞されているらしいが、わたしはこの作者の作品を読むのはこれが初めてである。

 本書はこのシリーズの2作目で、第1作『おすず 信太郎人情始末帖』は2002年に中山義秀文学賞の受賞作品らしい。本書は、呉服太物の大店の総領息子である信太郎が、二歳年上で子持ちであった吉原の引手茶屋の女将「おぬい」と深い恋仲となり、許嫁の「おすず」があったものだから大問題となり(このあたりの顛末が第1作だろう)、ついに勘当されて、芝居小屋の大札(勘定方)の手伝いをしながら、身近に起こる様々な事件や出来事を彼の明察を用いて解き明かしていくもので、時代の設定は黒船騒ぎ(1853年)が起こる幕末である。

 出来事のすべては幕末期の江戸庶民の暮らしの中での出来事であり、すべてを捨ててまでも自分の恋を貫いた信太郎の姿がそれに重なる形で進められる。本書は5作からなる短編連作で、それぞれの事件の裏に隠された複雑さとそこでの欲の絡んだ人間模様が、さわやかに、そして控えめに推察される信太郎の明察で明らかにされていく。

 一話一話について少し述べようと思ったが、左手が痛みなしには動かなくなっている今、それを断念して、とにかくおもしろい、とだけ記しておきたい。