昨日、シクラメンの小さな鉢植えを一鉢買った。紅色に白の筋が入った花びらの柔らかさもそうなのだが、何よりもその丸い葉の鶯色に和みがある。そして、今日は洗濯日和で、朝から寝具を干し、シーツを洗い、掃除をしていた。このところ少し予定が立て混ではいるのだが、ゆっくりとこなしていければと思っている。
昨夕、杉本章子『その日 信太郎人情始末帖』(2007年 文藝春秋社)を読み始め、興が乗って結局最後まで読んでしまった。これは、このシリーズの6作目で、2002年に中山義秀文学賞の受賞作品となった第1作の『おすず 信太郎人情始末帖』以外は、シリーズの順番ごとに読んでいるので、呉服太物問屋の大店の総領息子が、許嫁がありつつも吉原の引手茶屋の女将「おぬい」と恋仲となり、勘当され、芝居小屋の大札(経理)の手伝いをしながら、様々なことがらに関わり、その中を自分の恋を貫き、やがて父親の死を迎えて勘当が解けるという物語の展開の次第を順に追っていることになる。
このシリーズの作品には、いくつもの世界が無理なく組み込まれていて、大きくは主人公が芝居小屋と関係していることから江戸の芝居の世界、役者や戯作者、また芝居小屋の運営に携わる世界と、太物問屋の世界、つまり商人の世界の2つであるが、勘当された信太郎が裏店の貧乏長屋に住んでいることから描き出される江戸庶民の世界、芝居の笛方として働いていた御家人の次男坊との関わりから下級武士の世界、その恋人が芸者であることから芸者の世界、そして、信太郎が惚れている「おぬい」が吉原の引手茶屋の女将であることから吉原遊女の世界、また、信太郎の幼なじみが岡っ引きであることからの市中で起こる様々な事件、そうした世界が巧みに描かれているのである。もちろん、恋愛や親子、嫁姑の問題なども主たる大きな筋立てとなっている。それらが実に人情豊かに描き出されるのである。
本作では、勘当を解かれ亡き父親の後を継いで太物問屋の後を継いだ信太郎が商人として生きていく姿を中心に、「おぬい」を嫁として迎えていくことにまつわる様々な誤解が氷解していく過程が描かれているが、芝居小屋の火事の際に大札(「おぬい」の叔父)を助け出そうとして失明してしまった信太郎の手足となるためにすべてを捨てて女中奉公となった「おぬい」と、彼女を受け入れない信太郎の母「おさだ」との関係、乗っ取りを企む商売上の裏切りと信頼の姿が描かれている。「おぬい」の決断によって丁稚奉公に出された連れ子の「千代太」の成長していく姿もひと味もふた味もある。
この作品の最も優れていると思えるところは、人をその丸ごと受け入れていくことの難しさと大切さが丹念に描き出されているところで、社会的な身分の問題や人の欲、様々な思惑が渦巻く中を、周囲に細かい配慮をしながらもひたすらお互いの思いを大切にしてきた信太郎と「おぬい」の姿が頂点に達する婚礼の日の描写は、人を受け入れて生きていくことの素晴らしさに満ちている。情の細やかさは作者ならではのものだろうと思う。
「その日」というのは、安政の大地震(1855年11月11日・・旧暦10月2日)が起こった日ということで、その日の登場人物たちの安否がひとりひとり、それぞれの人物に合わせて描き出されるのもいい。「おぬい」が営んでいた引手茶屋を預かる老夫婦が共に死んでいく姿も胸を打つ。安政の大地震はマグニチュード7ぐらいの大地震で、これで江戸市中はほとんど崩壊し、死者4000人以上を出したもので、各地で悲惨な状態が展開された。
何と言っても、この作品で描かれる人物たちは、「生きて、そこで生活している」人たちとして作品の中で動いている。そのリアリティーがしっかりしているので、「情」も生きる。
ひとつ欲を言えば、安政の大地震のころから世情の不安定さも増し、やがて安政の大獄(1858-1859年)なども起こっており、その10年後には徳川幕府も滅びたわけだし、そうした世情の不安定さは人間の生き方にも大きな変化をもたらし、経済状況も大きく変わったはずで、その影響を太物問屋の主として生きる主人公がどのように受けていたのかという歴史のリアリティーも織り込まれると良いと思ったりもする。しかし、それは小説としては望外の望みだろう。
ともあれ、この作品は読んで嬉しくなる作品である。とかく注文をつけたがる社会の中で、「何も足さず、何も引かず」人を受容することができる人間の素晴らしさがここにはある。
一冊目の、「何の落ち度もない許婚を信太郎が裏切る」という設定で躓いてしまい、途中から読まずに積読状態なっています。良い作品だと聞いてはいたのですが、もう一度読んでみます。
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