「汚れちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる」と歌ったのは中原中也だったが、今日も黄色い銀杏の葉が舞い落ちてあたりを埋め尽くしている。昨夜遅く、市の清掃車が道路の落ち葉を舞いあげていた。ありのままが好きなわたしとしては、あまり落ち葉を掃除してほしくないと思いながら清掃車が行き過ぎるまで眺めていた。気分は中也の「悲しみ」とは縁遠いものだったが。
その深夜、出久根達郎『猫の似づら絵師』(1998年 文藝春秋社)を江戸浮世噺を読むようにして読み終えた。これは先に読んだ『猫にマタタビの旅』の前作に当たるもので、面白おかしい洒落っ気のある軽妙な語り口の中にも何とも言えない味わいのある作品だった。
貸本屋の写本作りをしていた銀太郎と丹三郎という青年(共に二十六歳)が、勤め先の貸本屋が主の博奕好きのために経営が悪化して首となり、途方に暮れているところに、南八丁堀の金時長屋という貧乏長屋に住む男に声をかけられ、彼の両隣の家に住むことになり、この三人があの手この手で世すぎをしていく姿が描かれていく。二人に声をかけた男は、「名前なんかどうでもいい」というので、風呂嫌いで垢にまみれているところから「垢餓鬼源蔵」という名を忠臣蔵の四十七士の赤垣源蔵の名をもじってつけたもので、源蔵はどうしたことかうどんに凝っており、四六時中うどんをこねて、試作品をふたりに食べさせるという変わり者である。
しかし、この源蔵は知恵豊かで、元は武家のようでもあり、その実、東州斎写楽を匂わせるものだが、銀太郎には猫の似顔絵を書く商売を思いつき、丹三郎には貧乏神売りの商売を思いついて、二人はこの商売を始めることにしたのである。なかなかこの商売はうまくいかないが、それぞれの商売にまつわる事件に関わり、特に、猫に関連した事件に関わることになるのである。猫の似顔絵描きの最初の商売は、好色な鰹節問屋の若旦那に囲われていた猫好きの娘「きの」が、若旦那の足が遠のき、好色家であることを知って、何とかこれに仕返しをしようと「探し猫」の広目(広告)を依頼するものである。鰹節問屋だから猫が来ると困るが、市中から「探し猫」を見つけたといって猫を連れてくるものが後を絶たないという事態に陥る。そういう話が第一話で展開される。この「きの」が、どうしたことかその後、源蔵のところに転がり込んで、四人の暮らしとなっていくのである。
その他、猫寺と呼ばれている寺の奇妙な猫の絵馬から、その寺の若い住職が阿片の密売をしていることがわかったり(第二話「猫にマタタビ初春に竹」)、猫の絵を餌にして男から儲けようと一攫千金を企んだ吉原の遊女が、結局、だまされる話(第三話「招き猫だが福にあらず」)や、江戸城米倉の鼠退治に使う猫を飼っている家の男と書院の鼠退治の青大将(蛇)の餌となる鼠を飼っている家の娘の恋のとりもちをしたりする話(第四話 窮鼠猫を好む))、盲目の娘が飼っている黒猫が行くへ不明となり、見つかったが、それは違う黒猫で、金貸しの座頭が飼っている猫であり、その金貸しを恨みに思っている薬種屋がその猫の爪にトリカブト(猛毒)を塗っていたことが分かっていく話(第五話「闇夜に鴉猫」)、猫を押しつけて餌を押し売りする地回り(やくざ)の話(第六話「虎の威を借る猫」)などが、人情味豊かに面白おかしく語られている。
作者の「あとがき」によれば、猫の似づら絵師や貧乏神売りという商売は実際にあった商売らしく、物語はやがて銀太郎が猫の似づら絵で、丹三郎が貧乏神の絵で、そして源蔵がうどんで大きな権力と闘うことになり、幕府転覆に繋がっていくそうだが、これも洒落だろうと思うほど、洒落っ気に飛んだ物語である。しかし、軽妙さにリアリティーがあって、ただの軽妙ではなく、貧乏ではあるが洒落で粋な江戸市民の姿を通して時代を見据えようとする姿勢がある。
主人公たちはすこぶるつきの善人で、大望などはとても描かないが、善人が善意で生きることができる世界がここにあって、何とも言えない味があるのである。「洒落で生きているのだ」というのも悪くないどころか素敵であるに違いないということを思わせる作品である。こういう作品を読むと、「人生ケセラセラ」という気がしないでもない。
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