久しぶりに朝から晴れ、朝焼けが、葛飾北斎が描いた「東海道五十三次の日本橋」に描かれているような茜色の一筋の線になっているのがまだ開けきれない早朝の東の空に見えた。
昨夜、鳥羽亮『はぐれ長屋の用心棒 黒衣の刺客』(2006年 双葉社 双葉文庫)を読んだ。これはこのシリーズの7作目だが、読み進めていくうちに、これは前に読んだことがあるのではないかと思って読書歴を調べてみたが、まだ読んでいない作品だった。つまり、このシリーズの作品の大まかな構成がほとんど変わらず、世のはぐれ者が住むことから「はぐれ長屋」と呼ばれている貧乏長屋の住人の五人が、老年期に差しかかった華町源九郎という貧乏傘張り牢人だが剣の遣い手を中心に、諸悪と闘い、その相手の中にも相当の剣の遣い手がいて、これと死闘を演じ、事件を解決していくという物語の展開の骨子がどの作品でも展開されていて、錯覚を起こしたというわけである。シリーズ物だから、それでもいいと思っている。
この作品では、「はぐれ長屋」の住人で、半人前の手間賃稼ぎをしている大工の房吉が何者かに殺され、住人たちがその犯人を探索していく過程で、江戸市中を騒がせている盗賊一味が背景にあって、房吉がその盗賊の一人の顔を見てしまったことから口封じのために殺されたことがわかってくる。
他方、第2作『袖返し』で華町源九郎と男女の関係になり、お互いに思いを寄せ合っている親子ほども歳の離れた浜乃屋という小料理屋の「お吟」に、大きな料理屋をもたせてやると言い寄ってくる男が現れた。お吟は元掏摸で、父親が殺され、自分の身も狙われているときに華町源九郎に匿われ、助けられて源九郎といい仲になったのであるが、大きな料理屋をもつというのは魅力的な話であった。お吟とその男は浜乃屋で親密な様子を見せる。お吟もまんざらではなさそうである。
華町源九郎は、歳も離れているし、自分のような貧乏浪人ではお吟を幸せにはできないので、ひとり淋しく、悋気を感じながらも、その判断をお吟に委ねようとするが、お吟に言い寄ってきた古手屋(古着などを扱う店)の主人がどうもおかしいと思い、密かに調べていくうちに、その男が江戸市中を騒がせている盗賊の頭であることを知っていく。大工の房吉もその強盗団のひとりに殺されていたのだった。
こうして、強盗団との対決を決意するが、強盗団に雇われている剣の遣い手が一筋縄ではいかない。だが、はぐれ長屋の住人たちは、計画を練って、奉行所の捕り方も使って強盗団を捕らえ、房吉の仇も討ち、剣の遣い手とも紙一重の差で勝負に勝って一件は落着する。華町源九郎とお吟との仲も深まる。
この作品の中では、老年期を迎えた華町源九郎が、若いお吟のことを案じて、ひとり淋しく孤独をかこおうとする場面が光っているように思えた。彼は夜陰をとぼとぼと歩く。老年期の男の悲哀がにじみ出る。この光景が何とも言えない。
物語の展開そのものも剣劇の場面も、一つのパターン化されたようなものがあるのだが、こうしたちょっとしたことがこの作品の魅力になっていると思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿