2012年11月30日金曜日

葉室麟『柚子は九年で』


 曇って雨の気配がする。昨日、散髪の予約を入れていたのをすっかり忘れてしまい、気づいたら夜ということになってしまっていた。「忘却とは忘れ去ることなり」というのは「君の名は」の名セリフだが、意識の外に置かれたものはすぐに忘れるように脳が働く証拠のようなものだろう。認知症は脳機能の低下ではなく、脳の別の働きのような気がしないでもない。

 閑話休題。小説ではないが、葉室麟の随筆集である『柚子は九年で』(2012年 西日本新聞社)を大変興味深く読んだ。この表題は、同氏が2010年に朝日新聞社から出された『柚子の花咲く』という本のテーマとなっている「桃栗三年、柿八年、柚子は九年で花が咲く」という言葉から取られたもので、2012年度の直木賞受賞後に、50歳で執筆を始められたというその軌跡を、それまで西日本新聞などで発表されていた短い文章で記されたものを含めて、まとめたものである。

 「桃栗三年、柿八年、柚子は九年で花が咲く」には、さらに「梨の大馬鹿十八年」というのもあって、わたしなどは梨を上回る大馬鹿者だが、この随筆には、同氏の粘り強さと誠実さが行間に溢れている気がした。本書には、十九篇の短文が「たそがれ官兵衛」として、また、四編の短文が「折々の随筆」、二篇の随筆が「直木賞受賞後に」と題して収められ、巻末には2005年に西日本新聞で発表された短編「夏芝居」が収められている。

 随筆や短編の文章は、同氏の他の作品ほどの「きれ」はないが、文学者として、あるいはひとりの人間としての誠実さを追い求める姿が浮かび上がってくるし、「ゲゲゲの鬼太郎」から白土三平の漫画「影丸」、寺山修司、五味康祐、松本清張、唐詩人の張九齢まで取り上げられるし、三島事件も取り上げられる。そして、これまでの作品の背景となった歴史的人物についても言及され、随題は多岐にわたっている。フランス文学を専攻した後で時代小説を書く、そういう妙味もある。

 これを読みながら、文学がある思想を表すことができる世代に同氏が属しておられることを改めて感じた。思想家は思想を体系化するが、文学者は思想を具体化する。そういう世代に属しておられるから本格的な歴史・時代小説が書けるのだろうと思うし、文学が読み取られて初めてそれが可能になる。葉室麟の作品は、いつかそういう読取られ方をするだろうと思ったりもする。心優しい作家が心優しい人物を時代や状況の厳しさに置いて描く。それが彼の作品だろうと思う。

 作家の随筆を読むのは随分と久しぶりだったが、あっさりと、しかしちょっと立ち止まるような感じのする随筆集だった。

2012年11月28日水曜日

中村彰彦『知恵伊豆と呼ばれた男 老中松平信綱の生涯』


 このところ寒い日が続いている。日没が早いので、気づけば、もう真っ暗ということが多くなっているが、昨日は、薄く暮れゆく薄藍の空に白い月がぽっかり浮かんでいるのを坂道を登りながら見ていた。冬の月も冴えざえとしていていい。

二日ほどかけて中村彰彦『知恵伊豆と呼ばれた男 老中松平信綱の生涯』(2005年 講談社)を読む。作者は歴史資料を丹念に当たって独自の視点から歴史上の人物を描き出すことに定評があるし、わたし自身もいくつかの作者の作品を読んで、いわいるその「史伝」に感じ入ることが多いのだが、作者が取り上げる歴史上の人物には「知者」と呼ばれた人が多いような気がする。

 本書は、「知恵伊豆」とまで称された江戸時代の知者を代表する人物であった松平信綱(15961662年)の生涯を描いたもので、松平信綱を取り扱った作者のほかの作品として『知恵伊豆に聞け』(2003年 実業之日本社)がある。

 松平信綱は、家康の家臣で武蔵国小室(現:埼玉県北足立郡伊奈町)の代官をしていた大河内久綱の長男として生まれたが、6歳か8歳の時(二説がある)、代官の子では御上の近習を勤めることは叶い難いので、松平姓をもつ叔父の松平正綱の養子にして欲しいと懇願して松平家に入ったと言われる。これは、もちろん、信綱の知者ぶりを示すために後に語られたことだろうが、信綱が松平正綱の養子となり、やがて直ぐにやがて二代目将軍となる徳川秀忠に謁見し、慶長9年(1604年)に徳川家光が生まれると、家光付きの小姓に任じられている。信綱8歳の時で、翌年の慶長10年(1605年)には五人扶持を与えられている(扶持はだいたい大人一人の男で一日に一合の米で計算されたとして年間でおおよそ360合(一年の日数はいろいろあったので360日で)、五人扶持で1800合、おおよそ270キロぐらいで、仮に10キロを4000円とすれば、現在のお金で110万円ほどであろうか。もちろん、貨幣価値が異なっているが)。

 信綱は小姓時代にから利発さを発揮し、ひたすら真面目に忠勤に励み、秀忠や於江に目をかけられていたようで、いくつかのエピソードが残され、本書でも取り上げられている。18歳くらいで、後に横須賀藩主となり老中となった井上正就の娘と結婚し、次々と加増されて、寛永5年(1628年)には一万石の大名となっている。彼が加増されたのは、知恵働きや忠勤ぶりで家光の覚えもめでたく、家光が将軍位を嗣ぐときの上洛に従い、その采配ぶりが見事であったためと言われる。信綱は先見の明があり、先を見越した準備に怠りがなく、合理的な精神を発揮したからであると言われる。そのエピソードもいくつか残されて、まさに「知恵伊豆」と呼ばれるほどの才能を発揮している。

 時代は武から官に移ろうとした時代で、彼のような才能を持つ人物を必要とした時代であったとも言えるだろう。武から文、それがこの時代であった。寛永9年(1632年)に大御所となっていた秀忠が死去し、名実ともに家光の時代になった寛永10年(1633年)に幕政の実務を行う「六人衆」となり、さらに老中に任じられ、3万石で武蔵国忍(おし 現:埼玉県行田市)の藩主となっている。信綱は老中として幕府における職務制度(老中職務定則、若年寄職務定則、寺社奉行や勘定頭などの職務)を次々と制定して、江戸幕府の基礎を作り、後には武家諸法度の改正や鎖国政策を完成させている。江戸幕府の幕藩体制は彼によって形成されたといってもいいかもしれない。

 寛永14年(1637年)に「島原の乱」が起こると、江戸幕府は乱の鎮圧のために最初は総大将に板倉重昌を任命したが、乱が長期化し、寛永15年に総大将に任じられ、大きな犠牲を出しながらも結局は兵糧攻めによってこれを鎮圧し、寛永16年(1639年)に3万石を加増され、6万石で川越藩主になった。この時に彼が藩主として川越の城下町を整えたり川越街道を整備したり、玉川上水を開削したりしたのが、今も残っている。寛永15年(1638年)から老中首座であった。

 慶安4年(1651年)に家光が死去し、その家光の遺言によって4代将軍となった家綱に補佐役として仕え、由井正雪らが反乱を企てた「慶安事件」を鎮圧したり、明暦3年(1657年)の「明暦の大火(これによって江戸城の天守閣も焼け落ちた)」の対応をしたりした。そして、寛文2年(1662年)、老中在職のままで病によって死去した。享年67(満65歳)の生涯である。

 松平信綱は、秀忠から家綱までの3代の将軍の時代に、江戸幕府の治世の基礎を築いた人間で、彼によってその後の250年以上にも渡る政治体制が築かれたといっても過言ではなく、「困ったら伊豆に聞け」と言われるほどの知者ぶりを発揮した人物であった。そして、謹厳実直を絵に書いたような生活をし、隙を作らず、面白みがないために同僚などからは「才はあっても徳はなし」と揶揄されたところもあるが、人徳もかなりあった人で、本書はその彼の才と徳を描き出そうとしたものなのである。

 ただ、何らかの人物を描き出そうとするときは、その人物に肩入れして、いわば惚れ込む形でないと描き出せないが、作者はかなり松平信綱に肩入れし、「あばたも笑窪」ではないが、いくつかの点で高評価し過ぎの気がしないでもない。彼は官僚としては極めて優れた人物であったが、その分独善的なところも多分にあったと、わたしは思っている。彼が発揮した知恵も、金と力がある人間の側のものであるように思えるからである。

 ともあれ、松平信綱という人間がどういう人間であるかを知る上では、資料がよくまとめられていて、エピソードもたくさん盛り込まれ、面白く読めた。歴史小説として、ここからもう少し膨らみを持たせることができるのではないかと思えるほど内容は豊かであった。巻末に作者が作成したと思われる松平信綱の詳細な年表が収録されていて、これは貴重な年表になっている。作者の労の多い作品である。

2012年11月26日月曜日

翔田寛『神隠し 子預かり屋こはる事件帖』


 雨になった。この雨で落葉がだいぶ進み、冬木立を目にするようになってきた。昔、「けやき坂」と名づけていた大きな欅のある坂道で、ふと立ち止まって、坂を覆っている欅の枝が冬空にピンと枝を伸ばしている姿を見上げていたことを思い出す。その頃勤めていた大学の研究室に向かう途中の坂道の欅は、「単独者」であることに大きな励ましを与えてくれていたように思う。今は、近くの公園の人気のない冬木立の中を何も考えずに歩くのが好きになっている。「何も足さない。何も引かない」という開高健の言葉を思い出す。

 昨夜は翔田寛『神隠し 子預かり屋こはる事件帖』(2010年 PHP研究所)を一気に読んだ。この作者の作品は初めて読むが、奥付によると、1958年生まれで、小説推理新人賞や、2008年の江戸川乱歩賞を受賞されて、推理小説の分野で活躍されているらしい。本書も、「こはる」という煮売屋の娘で、「子預かり屋」を始めた女性を探偵役にした軽快なミステリー仕立てで、彼女の周りで起こる事件の謎解きが中心になっている。

 主人公の「こはる」は、神田白壁町の煮売屋の娘で、腕利きの大工と結婚して一人娘を授かったが、夫が仕事先の足場から落ちて亡くなり、実家に戻って煮売屋を手伝っている女性で、小太りで、丸い顔と丸い目、丸い鼻をしているが、頭の回転も行動も早いし、何よりも子どもが好きで、自分の子だけではなく、近所の子どもの世話も進んでするような女性である。そして、それが高じて、煮売屋の傍ら「子預かり屋」を開いた女性である。時代は天保8年となっており、天保8年には「大塩平八郎の乱」や「モリソン号事件」が起こっており、世相が騒がしくなっていったのだが、江戸の市井に生きる女性だからか、そうした時代の影はどこにも描かれない。「こはる」は、ただ子どもの扱いがうまく、子育てについてしっかりした考えをもって日々の煮売屋稼業に励むのである。

 その「こはる」が、本書で最初の推理力を発揮するのは、裏店の青物売りの庄太が女房の貯めたへそくりを使い込んで、女房に追い回されて逃げ込んだ別の長屋の床下で、その家の文七とおきんの夫婦の借金が、その家に居候していた姪で元芸者の「おえん」によって返済されていたという話を聞くことから始まる事件である。ところが、「おえん」は、その借金が返済されたという日には既に死んでいた。また、庄太の女房が溜め込んでいた金は二朱と少しで、一朱銀二枚が消えていたというが、庄太が盗っていったのは一朱銀一枚だった。幽霊が文七とおきん夫婦の借金を返すはずもないし、庄太の女房が溜め込んでいた一朱銀はどうなったのか、それが謎として残ったのである。

 庄太の息子の太一は奉公先も決まっていたが、幼い頃から文七とおきん夫婦の子である「おりん」と仲がよく、庄太も文七夫婦をよく知っており、「おりん」は少し目が不自由だった。文七夫婦の家に居候していた「おえん」は、小金を溜め込んでいたと言われる元芸者だったが、一昨日、文七夫婦が留守をしている間に死んでしまっていた。だが、「おえん」が亡くなったあとで、昨夜、文七夫婦の借金が返済され、しかも、庄太が三味線の音を聞いていた。死んだ人間が借金を返し、三味線を引くはずがないのである。返済された借金は、「おえん」が使って紅で唇の跡がくっきりと押された紙にくるまれていたという。

 町方同心の武藤誠之助が「おえん」の死に不審な点はないかと探り、借金返済の不思議の謎を解こうとし、「こはる」の観察眼と推理力に目を見張っていくのである。「こはる」の謎解きは母親の「おてい」になされる。「おてい」は娘の「こはる」の性分と才能を十分知っており、この母娘は互を思いやり心に満ちていて気持ちがいい。

 「こはる」が解いた事件の真相は、奉公先が決まった庄太の息子が、幼馴染で仲の良い「おりん」にしばしの別れを言いに行った時に、「おりん」の家で「おえん」が事切れていた。「おりん」の家の借金は一朱で、そのために目の治療もできずに苦労している「おりん」のことを知っていた庄太の息子は、すぐに自分の家に取って返し、母親が隠していたへそくりの中から一朱をとって、紙にくるんだのである。その紙に、あたかも「おえん」が借金を返したようにするために「おえん」の唇に紅を塗り、それを紙に押し付けて、返済したのである。そして、「おりん」も、「おえん」がまだ生きているのを装うために三味線を弾いたのである。庄太の息子の太一は将来「おりん」を自分の嫁にもらいたいと思うほど「おりん」のことを案じ、「おりん」もそういう太一の気持ちを分かっていたのである。こうして、「幽霊の借金返済」の事件は解決し、すべてを丸く収めていくのである。

 「こはる」の「子預かり屋」は、子どもを預ける親がいなくて、なかなかうまくいかないが、そんな中で、蒟蒻を食べに寄った同心の武藤誠之助から近くの裏店(長屋)の周蔵という男が殺されていたと聞く。「こはる」が関わる第二の事件である。周蔵は、おせんという女房とその連れ子の十四歳になる「お初」と暮らしていたが、博打の味を覚えて働かなくなり、酒に溺れる日々を過ごしていた。おせんは料理屋で働き、「お初」も蕎麦屋の下働きや家事の一切をし、特に「お初」は、くるくるとよく働き、近所の老婆などにも優しい気働きをする娘であった。そして、おせんが五つごろ(午後八時頃)に仕事から帰ってみると周蔵の背中に出刃が突き刺さって死んでいたというのである。周蔵は左足のつけ根にも刺し傷があった。その前に賭場の借金取りが踏み込んできた騒々しい音がして、洗いかけの茶碗が放ってあり、「お初」の姿も見えないことから、「お初」も拐かされたのではないかと言う。

 おせんの最初の亭主は細工師で、早くに両親を亡くしたおせんは結婚して「お初」をもうけ幸せそうであったが、その亭主が流行病でしんでしまい、飾り職人の周蔵と再婚したが、博打にのめり込むようになったのである。

 同じ長屋に住んで「こはる」に子どもを預けている重吉が子どもを預けに来た時に、「こはる」は、近所の連中が六つごろ(午後六時頃)に二人組の男が周蔵の家にやってきてひと悶着騒ぎがあったことを聞いていたと言う。ところが、重吉の女房は六つ半(午後七時頃)に二人組の男がやってきて、周蔵の家に入るやいなや慌てて出て行った姿を目撃したと言う。

 「こはる」は、この事件にいくつかの疑問点があることに気がついていき、同心の武藤誠之助も謎があるという。ひとつは、ご飯を食べずに酒ばかり飲んでいた周蔵の茶碗が井戸の洗い場に残され、しかもそれが欠けていたこと、六つと六つ半に二人組の男が目撃されていること、「お初」を借金のかたに連れて行くなら周蔵を殺す必要もないことなどである。

 こういう謎を「おはつ」はゆっくりと順番に解きながら、真相に迫っていく。それは、仕事から帰った継子の「お初」に酔った周蔵が乱暴をしようと襲いかかり、思わず持っていた包丁で「お初」が周蔵の左足のつけ根を刺してしまい、逃げた「お初」にあった隣家の夫婦が「お初」をかくまって、「お初」を助けるために二人組のやくざ者の話をでっち上げたのである。そして、六つ半に本物のやくざ者が「お初」を借金のかたにとろうとやってきて、血まみれの周蔵を見て慌てて逃げていたのである。その時はまだ周蔵は生きていたが、おせんが仕事から帰って、その周蔵を見て、積もりに積もった我慢の限界が切れて、周蔵の背中を出刃で刺したのである。

 「おはる」は事の真相を見抜くが、おせんと「お初」のためにすべて見て見ぬふりをして、周蔵はどこかのやくざ者に殺され、「お初」は拐かされていたが、怖くなったやくざ者が返したということにしていくのである。同心の武藤誠之助も、その「こはる」の思いを知って、それ以上の追求をしないで、事件は閉じられるのである。

 「こはる」が持ち前の観察眼と明晰な頭脳で謎を解くのは、すべて困っている人を助けるためである。その姿勢が一貫して、第三話「できすぎた娘」では、子どもの扱いがうまい「こはる」が大家の菊蔵から世話になった商家の子どもが泣いてばかりで食が細くなり困っているからなんとかしてもらえないかという依頼を受けたことから始まり、その原因が、その子が母親のように慕っていた女中が突然いなくなったことであることを見抜き、その女中の失踪の謎を解いて、行くへを探し出していく。

女中は働き者で心優しく、ほかの者からも慕われ、商家の後妻の話もあったが、突然姿を消したのである。女中の失踪には深い訳があった。その訳を「こはる」は突き止めていくのである。そこには、火事を利用した身代わりや殺人もあった。偶然が幸いしたり不幸をもたらしたりする出来事が重なる。「こはる」は真相を知っていくが、女中の幸せを願って、それ以上の探索はしないのである。

第四話「叱られっ子」は、母親に嫌われて叱られてばかりいる子どもが、本当は心優しく、ほかの人をかばうような心の持ち主であることを証して、「こはる」が気の強いばかりの母親にそれを示していき、母親が愛情を取り戻していくという話である。

 第五話「嘘吐き弥次郎」は、「こはる」自身の亡くなった亭主に絡んだことの真相が明らかになっていく話で、自分を悪く思わせることで人を助けようとした男の心情を「こはる」が解き明かし、「こはる」の亭主が足場から落ちた出来事ともその男が絡んでいたことから、なぜ、亭主が足場から落ちたのかが突き止められていくとうものである。

 本書には、以上の五話が収められているのだが、「こはる」という愛嬌のある女性を主人公にして、謎解きがどこまでも人助けのためであることが貫かれている。ここで取り扱われている事件の謎は、謎というほどのものではないし、時代を天保にとる必要もないことであるが、そういう姿勢が本書を時代ミステリー小説にしているのだろうと思う。江戸市井に暮らす人々の日常として展開されるのもいいし、「こはる」の真摯でひたむきな姿もいい。そういう女性は、時代小説を背景とした中でしか取り扱われないからである。ミステリーとしても時代小説としても、決して本格的ではないが、肩の凝らない気楽に読める作品である。

2012年11月22日木曜日

坂岡真『うぽっぽ同心十手綴り 病み蛍』


 一昨日は真冬並みの寒さに震え、昨日は暖かさを感じる晴天、そして、今日は朝から雲が広がっている。日曜日の夜に会議で新大久保まで出かけ、ひどく寒い思いをして帰宅したこともあり、今週はどこか冴えない気分で始まっていた。そして、昨夜はなぜかひどい寂寞感を覚えていた。地位や業績を誇りたがる人々とそれに群がる人々に接したからかもしれないし、晩秋の空気に支配されたからかもしれない。独りの生活には、時折こんなこともある。

 そういう中で、坂岡真『うぽっぽ同心十手綴り 病み蛍』(2007年 徳間文庫)を読んでいるうちにどうしようもないと持て余していた寂寞感も消えて、読書が現実逃避ではないが、やはり、物語に浸るというのはいい、と思ったりした。

 これは、出世にも金にも執着しないで飄々と生きて、「うぽっぽ(役たたずの暢気者)」と渾名されている南町奉行所の臨時廻り同心長尾勘兵衛を主人公にしたこのシリーズの6作目で、これ以後に出された作品も既に読んでいるが、取り扱われる事件ごとに一話完結の連作になっているので、どれを読んでも面白く読める。

 とはいえ、主人公の身辺は作品ごとに進んでいき、勘兵衛の妻の静は、一人娘の綾乃が生まれてまもなく突然に理由もわからないままに失踪し、勘兵衛は、男手一つで綾乃を育ててき、その綾乃も家を貸している医者の豪放磊落な井上仁徳の下で医者を志しながら、出入りする同心の末吉鯉四郎に密かな想いを寄せるようになっている。勘兵衛は、失踪した静を思いつつも、料理屋の女将である「おふう」に想いを寄せるようになるが、その「おふう」も死んでしまい、本書は、「おふう」の死によって抜け殻のようになってしまったところから物語が始まっていくのである。

 本書には、「瓜ふたつ」、「病み蛍」、「むくげの花」、「不動詣で」の四作が収められ、第一作「瓜ふたつ」は、主人公の長尾勘兵衛とよく似ているが、娘のために罪を犯してしまう北町奉行所同心の占部誠一郎という男の姿を描いたものである。

 物語は、妊婦が大八車に轢かれてお腹の子を死なせてしまうという事件から始まる。妊婦を轢いたのは将軍家御用達の青物問屋(主に野菜・果物を扱う問屋、八百屋)の「鳴子屋」の大八車で、さっそく女の亭主を名乗る男が「鳴子屋」に押しかけて内済金(示談金)を強請取るということが起こったのである。この事件を扱ったのが北町奉行所の「うぽっぽ」と呼ばれる占部誠一郎だった。

 妊婦のことが気になった長尾勘兵衛が占部誠一郎に会ったとき、占部誠一郎は、「鳴子屋」が青物の値段を釣り上げるために多くの青物を捨てているという事件を探索していると告げ、その証拠を見つけるために勘兵衛に助力を依頼する。

 愛する「おふう」の死によって悲しみに沈んでいた勘兵衛は、この事件をきっかけに再び生気を取り戻し、「鳴子屋」の青物棄却の現場を見つけるが、そこには佃島の人足寄場の与力や同心が絡んでおり、「鳴子屋」の「青物囲い込み事件」がかなり大掛かりなものであることを感じていくのである。そのうちに、「鳴子屋」を強請った妊婦の亭主が殺され、また、妊婦自身も拐かされたり、占部誠一郎の一人娘の婚儀が整おうとしていた相手の物書同心が殺されたりする事件が起こる。勘兵衛自身も何者かに命を狙われたりする。

 だが、これらのことはすべて、北町奉行所の「うぽっぽ」と呼ばれた占部誠一郎が仕組んだことであった。占部誠一郎の一人娘は、利発で可愛らしいところのある娘であるが、顔に疱瘡の跡が残り、そのために婚期を逃し、ようやく50両という持参金付きで物書同心の後妻に収まることになていたのである。占部誠一郎は、その持参金を作るために「青物囲い」をしている「鳴子屋」を脅して金を得ようとし、その途端に妊婦を大八車に轢かせるということを仕掛けたのである。長尾勘兵衛に助力を頼んだのは、勘兵衛の介入によってさらに「鳴子屋」を脅すためであった。

 ところが、婚儀が整おうとしていた物書同心が、さらに200両もの金を要求し、娘を馬鹿にしたことで、占部誠一郎は物書同心を斬り、自暴自棄となっていったのである。これらのことを勘兵衛の地道な捜査で知られてしまう。そして、彼は、「鳴子屋」と、絡んでいた同心を斬り殺して、自害する。

 すべてを知った勘兵衛は、娘のために破滅した占部誠一郎を憐れみ、娘が罪を問われることなく生きていけるように、「鳴子屋の青物囲い込み事件」を占部誠一郎の手柄として事件を処理しようと思うのである。

 こういう主人公の姿は、読んでいて爽快になる。悪は悪であるが、「人を生かす」ことが第一となっていくような在り方、悪に染まったとはいえ、人が命をかけて守ろうとしたものを守っていこうとすること、そういうことにこそ意味があることを改めて感じたりするのである。

 第二話「病み蛍」は、老いて貧しい暮らしを強いられている元岡っ引きが最後の死に花を咲かせる話である。元岡っ引きの源七は、かつて強盗犯を追う途中で太ももを斬られて致命傷を負っていた。かろうじて一命は取り留めたものの、足の自由が効かないことや自分が強盗犯を取り逃がしたことから岡っ引きを引退したのである。彼の一人娘は、飾り職人と結婚したが、夫が亡くなり実家に戻っていた。だが、彼女は夫の子を身ごもっており、源七は孫ができたことを喜んだが、生活が彼の肩にかかり、貧しい長屋暮らしをしていた。勘兵衛は、源七のことが気に掛かり、ときおり、訪れてはそっと助力したりしていた。

 そうしている中で、浅草橋のたもとに女性の死体が上がるという事件が起こる。付近を探索して、何者かと争った跡があり、その女性が殺されたことが分かっていく。女性は柳橋の芸者「小菊」で高利貸しの近江屋から身請け話もあったという。だが、彼女が殺された夜に呼ばれた座敷はかもじ屋(つけ毛屋)の三河屋で、三味線のうまい「小梅」と同席であったという。そして、今度はその「小梅」が厠の梁にかもじ(つけ毛)で首をくくって自害するという事件が起こってしまうのである。

 ここで元岡っ引きの源七が関わった事件と交差する。源七を刺して逃げた強盗犯と「小梅」は昔から繋がっており、強盗犯は、今度は高利貸しの近江屋を狙っていたのである。老いた源七はそのことに気づき、強盗犯を追っていたのである。強盗犯は「小梅」を使って「小菊」から近江屋の金のあり場所を聞いたが、そのことに気づいた「小菊」を「小梅」に殺させたのである。そして、良心の呵責をまだもっていた「小梅」は自害したのである。源七は強盗犯を自分の手で捕らえようとして強盗犯をつけ、逆に殺されてしまう。

 事件の真相を知った勘兵衛は駆けつけ、源七の最後を看取り、強盗犯を捕らえる。勘兵衛はその手柄を源七のものとして奉行所に届け、南町奉行の根岸肥前守から源七の娘に褒美が出されるように取り計らうのである。

 第三話「むくげの花」は、志を持ちながらも藩籍を離れて浪人しなければならなかった男が、最後まで自分の志を貫いていく話である。上野寛永寺の末寺である行元寺の裏山を掘り崩して土を売ろうとした咎で一人の浪人が捕縛された。掘りすぎて土が崩れてきて埋まったところを助け出されたという。名は牛島丑之助といい、名のとおりの大きなもっそりした男で、秋田藩佐竹家の家臣だったという。彼には九歳になる男の子がいて、父子の貧しい二人暮らしであるという。処置を番屋から相談された長尾勘兵衛はその男に会い、彼が土砂崩れを防ぎ、行元寺裏手の長屋を守ろうとしていたことを知ると同時に、彼に妙な魅力を感じていく。そして、彼が秋田藩の日本海に面した土地に砂防林を築こうとしていたが、藩籍を離れなければならなくなり、浪人し、扇子の下絵描きや用心棒などをして生活していることを知るのである。その彼が最活のために描いいている扇の下絵が「むくげの花」で、勘兵衛がもっていた扇子が偶然にも彼が描いたものだったのである。

 その牛島丑之助の息子が何者かに拐かされそうになり、息子の代わりに彼に想いを寄せる扇問屋の次女が拐われてしまう事件が起こる。そして、丑之助もその話を聞いて出て行ったままで戻ってこない。話を聞いた勘兵衛は、彼らが秋田藩佐竹家の上屋敷に捕らわれているのではないかと当たりをつけて上屋敷に向かう。前に、牛島丑之助をつけ狙っていた男が佐竹家の上屋敷に消えるのを目撃していたからである。

 佐竹家上屋敷に乗り込んだ勘兵衛を迎えたのは次席家老で、丑之助は公金を横領し、藩籍を追われ、それを苦に妻女が自害したと告げられる。その妻女は次席家老の娘だとも言う。だが、丑之助は浪人であり、拐われた娘も町人だから、勘兵衛は引渡しを求め、娘は返すが、丑之助を引き取るためには南町奉行の書面が必要だという。勘兵衛は、唯一自分を理解してくれている奉行の根岸肥前守に頼んで、書類を書いてもらい、丑之助は助けられる。

 丑之助の話を聞いてみると、自害したと言われる妻女は、本当は秋田杉を扱う材木商の娘で、莫大な持参金つきで次席家老の養女となり、剣術の午前試合で勝った丑之助と結婚したのだという。そして、丑之助が江戸勤番に命じられた隙を狙って、午前試合に負けた森脇平九郎という男が言葉巧みに彼女に言い寄り、不義の仲となってしまい、しかも丑之助が育てている息子は養父の次席家老の子であると言う。そのことを告げて彼女は自害したと言う。丑之助はその仇を晴らすことを一念としてもっていたのである。

そして、ついに牛島丑之助は決起する。次席家老に果たし状を送り、次席家老は三十人もの家臣に命じて丑之助を取り囲む。そのことを知った長尾勘兵衛は同心の末吉鯉四郎とともに果し合いの場に駆けつけ、丑之助の決死の孤軍奮闘ぶりを目撃する。そして、丑之助に助成する。丑之助は見事に森脇平九郎と次席家老を倒し、本懐を遂げる。丑之助はすべての本懐を遂げたあとで自害しようとしていたが、勘兵衛はこれを止めて、江戸の海岸の砂防林建設のために働くように言う。根岸肥前守がそれを依頼していると告げ、そのことによって丑之助やその子ども、そして彼に想いを寄せていた扇屋の娘が生きるようにしていくのである。

第四話「不動詣で」、江戸で裕福な商人や武家の間で流行った菊細工に絡んで、勘定奉行と材木問屋が禁制の唐人参(朝鮮人参)の抜け荷(密貿易)を行った事件を取り扱ったもので、勘兵衛の一人娘綾乃が想いを寄せ、勘兵衛も何かと仕事を手伝わせている南町奉行所同心の末吉鯉四郎の父親が切腹させられた出来事の真相が語られていく。

末吉鯉四郎の父、山田平右衛門は幕府の勘定方を勤めていたが、汚職に連座した廉で切腹させられ、母も心労がたたって亡くなっていた。末吉鯉四郎は、母方の祖母である志穂に末吉家の養子として育てられ、祖母と二人暮らしをしているが、その祖母が、認知症が進み始めて、夜中に徘徊するということを繰り返していた。志穂の徘徊の道筋は決まっていて、特に毎月二十八日の桶町の不動尊の命日には、「譲(ゆずり)の井戸」で水垢離をするようになっていた。

ところが、その「譲の井戸」で心中事件が起こった。女は菊見の席が設けられた京橋の料理茶屋の美人女将で、男はその菊見の席にいた植木屋で、「菊くらべ」で一等を取った色男だった。だが、調べてみると、二人が心中をするほどの仲ではなかったことが分かっていく。女将には結婚を約束した板前がいた。そして、その事件が起こった時に、どうも鯉四郎の祖母の志穂がそれを見たのではないかと思われた。だが、祖母は物忘れがひどくて覚えていないふしがあった。

勘平衛が、死んだ男の内儀に話を聞いている時に、ふと、占い師の川路順恵という男の名前が出てくる。川路順恵は植木屋の凶事を予告していたという。そして、その川路順恵のもとに勘定奉行の佐原式部正も通っているという。皆、菊細工の「連(グループ)」であるらしい。勘定奉行の佐原式部正は、末吉鯉四郎の父が腹を切らされた時の組頭で、父が残した雑記帳には佐原への恨みが綴られていると言う。

そして、勘平衛が留守の間に、何者かが末吉家の志穂を狙って入り込み、その場に居合わせた綾乃を斬るという事件が起こってしまう。綾乃はかろうじて一命を取り留めるが、それによって志穂が何かを目撃し、その口封じのために襲われた疑いが濃くなっていく。

他方、占い師の川路順恵を探っている時に、そこに材木問屋の木曽屋の内儀も通っていることがわかる。木曽屋は鯉四郎の父が腹を切らされた事件にも深い関わりがあり、江戸城の大規模の普請の時に勘定方は別の材木問屋を推挙していたが、鯉四郎の父が賄賂をもらっていたという事件となり、木曽屋が元請となることが決まった経緯があった。木曽屋は勘定方組頭であった佐原式部正とも深い繋がりがあった。そして、菊細工の連の一人でもあった。

これらのことを丹念に調べていく中で、心中事件に関して、毎年の菊くらべで一等を取っていた木曽屋が、その年の一等を取った植木屋を妬んで、川路順恵に殺しを依頼し、不動詣でに来ていた料理茶屋の女将も殺して心中に見せかけたということがわかっていくのである。

末吉鯉四郎は、この事件の探索の中で、父に謂れ無き罪を着せて切腹に追い込んだのが佐原式部正と木曽屋であることを確信し、単身で佐原式部正の屋敷に乗り込んでいく。鯉四郎は剣の腕も確かであったが、多勢に無勢で、そこにいた川路順恵に捕まってしまう。だが、急を聞いて駆けつけた勘平衛に助け出され、川路順恵は捕り方に捕まる。だが、肝心の佐原式部正と木曽屋は無傷なままで、勘定奉行である佐原式部正を裁くことは容易ではなかった。

そこで、勘平衛は、佐原式部正と木曽屋を捕らえて、抜け荷の唐人参を詰めた桶に二人を入れて、日本橋の晒し場に晒すのである。天下に恥を晒した佐原式部正と木曽屋は切腹、打ち首となる。鯉四郎の祖母の志穂が、物忘れがひどくなっていく頭で、事件の解決の糸口を切り開き、娘夫婦の無念を晴らしたことになり、勘平衛も、その気持ちを察して、綾乃と鯉四郎の婚儀を認めるようになっていくのである。

主人公の「うぽっぽ」こと長尾勘平衛は、芯の強さをそこはかとない柔らかさと情で包んだ人物として描かれ、事件に対処する姿と日常とがその二つを交えて描き出されるので、読んでいくと、いくつかの物語の粗さなどが吹き飛んで、その魅力に引き込まれていく。これは、そうしたことがよくわかる作品だった。

2012年11月17日土曜日

西條奈加『御師 弥五郎 お伊勢参り道中記』


 雨が降って寒い。「国民の信を問う」という形で国会の衆議院が解散され、政治が慌ただしくなっている。誰かが「うんざり自民党、がっかり民主党、わけのわからぬ第三極」と言っておられたが、真に今の国民の心情を言い当てていると思う。あらゆる「政治的な事柄」とは無縁でありたいと思い続けてはいるが、生活を生き難くさせ、国民に無理を強いるような政治は御免こうむりたい、というのがわたしの率直な感想で、社会の病巣の根が深いので、社会的システムの構造を根本から見直すべきだろうと、非力ながら思っている。

 閑話休題。西條奈加『御師 弥五郎 お伊勢参り道中記』(2010年 祥伝社)を、やはりこの作者の作品は誠実で味があると思いながら、とても面白く読んだ。

 これは江戸時代全体を通して非常に流行した「伊勢参り」の世話をする弥五郎という「御師」を主人公にして、ある藩(砥野藩という創作上の藩)の商人が巻き込まれた事件の顛末をお通して、様々な人間模様を描いたものである。

 「御師」というのは、もともとは祈祷を行う神職であったが、各地で「講(お金を貯めで神社に参るもので、江戸時代には庶民の遊興も兼ねていた)」を作り、その旅の世話から参拝までの一切の事柄の面倒を見たもので、今の旅行会社の添乗員のような働きをし、それぞれ、寺の檀家と同じような檀那と呼ばれる贔屓があり、また担当する縄張りも御師毎に決まっていた。神社や仏閣参りは、物見遊山を兼ねた江戸庶民の最大の遊興でもあった、

 伊勢神社の御師の手代である弥五郎が侍たちに襲われている日本橋の材木商巽屋(たつみや)清兵衛を助けるところから物語が始まり、伊勢参りに行くという巽屋の世話と護衛を依頼されるのである。弥五郎自身、彼の上役に当たる手代頭から「坊(ぼん)」と呼ばれたりしていわくがある人物であるが、巽屋の伊勢参りにも深い事情がありそうで、それぞれが伏せられたまま、ともあれ、本所相生町の伊勢講の人々と共に江戸から伊勢に下っていく旅が始まっていくのである。

 人々は旅の途中の風光や名物を楽しみながら賑やかに旅を続けていくが、途中で同行を願い出た百姓が、実は巽屋を殺すための刺客であったり、情けをかけた小さな子どもたちが巽屋の荷物を狙うために雇われた「胡麻の蝿(盗人)」であったりするし、「おかげ参り」の一団が仕組まれたものであったりするということが続き、弥五郎はその度に一緒に連れてきていた友人で岡っ引きの下働きをしている亀太と共に難局を切り抜けていく。

 また、父親を心配した巽屋の一人娘が同行することになったり、講で一緒に来ていた女性が駆け落ちを企んでいたりもする。巽屋も何度か襲われる。それらのこ出来事を、持ち前の勘と剣の腕で弥五郎は切り抜けるのである。

 弥五郎は、実は御師の家の次男で、伊勢で暴れ者と喧嘩してこれを傷つけたために武家に預けられ、その武家も改易となったために、御師の家の手代頭が再び御師の手代見習いとしていたが、伊勢には戻りたくない事情を抱えていたのである。しかし、巽屋のどこか死を覚悟したような態度に気づき、彼の伊勢への旅を助けることにしたのである。

 巽屋は、元は砥野藩の家臣であったが、先代の藩主から藩の財政窮乏を救うために商人になることを命じられ、自分は吝嗇といわれるほどの切り詰めた生活をしながらも材木商として儲けた利益は全て藩に収めるという人物で、幕府の吉野杉を横流ししたのではないかという疑いがかけられていた。砥野藩は伊勢の隣の大和にある小藩で、藩の御用達商人が幕府の吉野杉を横流ししたことが幕府に知られれば大事に至ることが恐れられていた。巽屋は、自分と砥野藩との繋がりを消すために自分が仕えてきた砥野藩が自分に刺客を送ったのではないかと思っていた。

 こうして前途多難な旅が続いていくのだが、やがて、伊勢に入り、弥五郎はかつて自分が傷つけた相手の立場を損なわないように和解し、巽屋を襲ったのが砥野藩ではなく、彼と同じようにして商人になった仲間たちが、自分たちの生活の安定と稼いだ財を自分で使えるようにするために、藩との縁切りを仕組み、謹厳実直な巽屋を疎んじ、これを亡きものにしようとしていたことを突き止めていくのである。

 大まかな筋はそういう展開だが、見事だと思っているのは、この作品には誰ひとり悪人が登場しないことである。巽屋を襲う浪人にも彼なりの事情があるし、胡麻の蝿である子どもたちにも、また、巽屋を殺そうとした商人たちにも事情がある。そういう事情が丁寧に描かれて、それぞれの事情から出来事が起こってしまうことが記されていくのである。そして、「人を生かすことができて、はじめて一人前の御師」ということが語られ、「人を生かす」ことに結末していくのである。

 伊勢参りは、「変わりばえのない暮らしと、きつい仕事に追われる日々」を生きている人々にとって、希望であり、生きるための張り合いであり、極楽を提供するものだと、作者は語る。人間には、そういうものが必要だとわたしも思う。この作品自体が「人を生かす」という視点で人物が描き出されているから、この結末がすんなりくる。

 そして、作者は自分が小説を書くのも、そういうことであったらいいと願っているのではないかと思う。わたしも、自分の仕事についてそう願うところがある。しかし、人間の欲が悪を生み出すのは事実で、世の中には、その欲だけで生きているような人がいるのも事実だろう。欲は力を生むが、「力が正義」というのは、つまらない世の中であるに違いない。人の能力も含めて。

2012年11月14日水曜日

鈴木英治『手習重兵衛 夕映え橋』


 使い古された表現ではあるが、このところ猫の目のように天気と気温が変わっている。2~3日体調を崩していたせいもあるが、なかなか疲れが抜けきれない状態が続き、人生の澱のようなものを感じている。近くの公園では鮮やかな紅葉が始まり、ひらひらと落ち葉が散っている。こんな時は、とりわけ人恋しい。

 昨夜は、鈴木英治『手習重兵衛 夕映え橋』(2009年 中公文庫)を気楽に読んでいた。前にこの作者のこのシリーズの七作品目の『手習重兵衛 母恋い』(2009年 中公文庫)を読んでいたのだが、これはそれに続く八作目の作品となる。

 主人公の興津重兵衛は、止むにやまれぬ事情から友人を斬り、ある藩を出奔して江戸の白金村(港区白金)で手習い所の師匠をしている武士だが、相当な剣の使い手であるにもかかわらずに武士を捨てて、手習い所の師匠として子どもたちを相手に日々を過ごしているのである。彼は、寡黙であるが剣の腕も立ち、明晰な判断力や思いやりも深く、美男で、白金村の「おその」という美貌で可憐な娘と相愛の中で、本書では、その「おその」に求婚し、「おその」は重兵衛の許嫁となっていく。

 本書には、もう一人、主人公の興津重兵衛の友人となった奉行所定町廻り同心の川上惣三郎が重要な役割を果たす人物として登場し、彼は、何事にも鷹揚で、情に厚く、彼を尊敬して事件の探索を手伝う中間の善吉と掛け合い漫才のような会話を交わしながら、事柄にあたっていくのである。本書では、その川上惣三郎が大切な十手を失ってしまい、それを探すということで、惣三郎がその日に立ち寄った様々な場所で、彼が人々に行ってきた思いやりが語られていく。

 他方、興津重兵衛は、剣術道場の主から名刀を見せてもらい、武士を捨てたと言いつつも刀に魅了されていく。彼の出身の藩から若殿の依頼を受けて刀を探しに来た友人と出会い、そのこともあって刀鍛冶を探し出すという展開になっていく。刀鍛冶では、二人の弟子のうちの一人が流行りの見栄えの良い細身の刀を作り、もうひとりの弟子が実用的な斬れる刀を作るということが起こっており、二人の刀鍛冶の間の争いが展開されていく。

 やがてこの二つの話が交差する。それは、惣三郎が情けをかけて行く末を案じていた医者の息子が、自分の生き甲斐を見い出せずに荒れていたのを重兵衛に預け、その重兵衛が刀鍛冶の争いに関わっていくのを見て、また刀鍛冶の姿を見て、刀鍛冶に弟子入りするという結末に至るという展開になっている。

 ただ、これはこれで面白いのだが、どこか展開に間伸びしたところがあって、胸踊るというものになってはいない気がして、また、描かれる人情や思いやりも少し深みが足りない気がして、ちょっと残念な思いがした。もともと、売れている時代小説のパターンが多用されていたが、本作は特に独自性が薄い気がしてならなかったのである。シリーズをどこで終わるかというのは難しいことかもしれないとも思う。引き際は難しい。自分の仕事の引き際を考えるときも、いつもそう思う。

2012年11月12日月曜日

池端洋介『元禄畳奉行秘聞 江戸・尾張放火事件』


 空模様が毎日変わって、段々と冬が近づいているのを感じながら、時が過ぎている。朝は雨模様であったが、お昼前後から晴れてきた。街路樹の銀杏も黄色く色づき始めひらひらと散っている。道行く人の格好は、もうすっかり冬の姿で、どこか縮こまっている感じがしないでもない。

 昨夜も、気楽な作品をと思い、池端洋介『元禄畳奉行秘聞 江戸・尾張放火事件』(2009年 大和書房文庫)を読んでいた。これは、元禄時代の尾張藩士で、『鸚鵡籠中日記』を書き残した朝日文左衛門(重章)を主人公としたこのシリーズの二作目で、一作目と三作目を読んでいたので、その間の物語ということになる。一作目が尾張藩の後継者問題、三作目が徳川将軍職を巡る紀州藩との争いになっており、第二作目は、その紀州藩との争いの萌芽が語られ、特に、紀州の二代目藩主の徳川光貞が将軍徳川綱吉に贋作の刀を贈り、恥をかいたということがあったが、それが尾張藩で作成された物であることから、紀州藩が尾張藩領内で贋作を作ったと思われる村を焼き討ちにするという事件が起こったことを取り上げて、そこに主人公を絡ませる展開となっている。これが表題の「尾張放火事件」である。

 もう一つ、江戸で紀州藩邸が焼けてしまうという大火が起こったが、これを、将軍位をめぐる争いで、紀州藩の信用をなくそうとした尾張藩の付家老であった成瀬家によるものとして物語が展開される。それが「江戸放火事件」である。将軍綱吉には継子がなく、紀州と尾張が後継者をめぐって争う中で、なんとか尾張のから将軍を出して、それによって付家老から大名になろうと成瀬家が画策したというのである。尾張は、家康の九男の徳川義直を藩祖とするが、二代目将軍の秀忠のとき以来、江戸の徳川家に江戸徳川家を脅かすものとして見られてきており、江戸と尾張の関係は常に緊張関係であったのである。

 主人公の朝日文左衛門は、こうした尾張藩の危機的状況の中で、彼の友人たちや飲み仲間、彼が師と仰ぐ天野源蔵(信景)らと共に、事件が大事にならないように働いていくのである。面白いと思っているのは、それが常に朝日文左衛門個人の視点で、しかも下級藩士の視点で語られていく点であり、文左衛門にとって、なんとか家督相続が許されて藩主の「お目見え」となることや、今日の飲み代をどうするか、妻の「お慶」が懐妊したことなどが大事で、刀の贋作事件にしても、彼の叔父が贋作をつかまされたことを発端としているのである。

 つまり、朝日文左衛門というとぼけたユーモラスな人格で、小心だが生類憐れみの令などどこ吹く風で平然と好きな魚とりをし、芝居見物が禁止されても隠れて芝居を見に行き、酒好きで、好奇心旺盛な人物の日常が描き出されて、その流れの中で事件が展開されていくのである。

 ほかの作品でもそうだが、作者は主人公をユーモラスに描く。深刻な状況の中でどこまでも楽天的なのである。だから、読む方も気楽に読むことができる。そして、事件というものの渦中にあっても、普通の人間の日常とはそうしたものであり、それを大事にすることに意味があるのだから、こういう作品とこういう視点はいいと思いながら読んでいる。

 今日はどことなく疲れが残って身体が重い。為すべきことも溜まってきているが、いまひとつ興が乗らないままになっている。まあ、こんな日もあるだろう。