一昨日は真冬並みの寒さに震え、昨日は暖かさを感じる晴天、そして、今日は朝から雲が広がっている。日曜日の夜に会議で新大久保まで出かけ、ひどく寒い思いをして帰宅したこともあり、今週はどこか冴えない気分で始まっていた。そして、昨夜はなぜかひどい寂寞感を覚えていた。地位や業績を誇りたがる人々とそれに群がる人々に接したからかもしれないし、晩秋の空気に支配されたからかもしれない。独りの生活には、時折こんなこともある。
そういう中で、坂岡真『うぽっぽ同心十手綴り 病み蛍』(2007年 徳間文庫)を読んでいるうちにどうしようもないと持て余していた寂寞感も消えて、読書が現実逃避ではないが、やはり、物語に浸るというのはいい、と思ったりした。
これは、出世にも金にも執着しないで飄々と生きて、「うぽっぽ(役たたずの暢気者)」と渾名されている南町奉行所の臨時廻り同心長尾勘兵衛を主人公にしたこのシリーズの6作目で、これ以後に出された作品も既に読んでいるが、取り扱われる事件ごとに一話完結の連作になっているので、どれを読んでも面白く読める。
とはいえ、主人公の身辺は作品ごとに進んでいき、勘兵衛の妻の静は、一人娘の綾乃が生まれてまもなく突然に理由もわからないままに失踪し、勘兵衛は、男手一つで綾乃を育ててき、その綾乃も家を貸している医者の豪放磊落な井上仁徳の下で医者を志しながら、出入りする同心の末吉鯉四郎に密かな想いを寄せるようになっている。勘兵衛は、失踪した静を思いつつも、料理屋の女将である「おふう」に想いを寄せるようになるが、その「おふう」も死んでしまい、本書は、「おふう」の死によって抜け殻のようになってしまったところから物語が始まっていくのである。
本書には、「瓜ふたつ」、「病み蛍」、「むくげの花」、「不動詣で」の四作が収められ、第一作「瓜ふたつ」は、主人公の長尾勘兵衛とよく似ているが、娘のために罪を犯してしまう北町奉行所同心の占部誠一郎という男の姿を描いたものである。
物語は、妊婦が大八車に轢かれてお腹の子を死なせてしまうという事件から始まる。妊婦を轢いたのは将軍家御用達の青物問屋(主に野菜・果物を扱う問屋、八百屋)の「鳴子屋」の大八車で、さっそく女の亭主を名乗る男が「鳴子屋」に押しかけて内済金(示談金)を強請取るということが起こったのである。この事件を扱ったのが北町奉行所の「うぽっぽ」と呼ばれる占部誠一郎だった。
妊婦のことが気になった長尾勘兵衛が占部誠一郎に会ったとき、占部誠一郎は、「鳴子屋」が青物の値段を釣り上げるために多くの青物を捨てているという事件を探索していると告げ、その証拠を見つけるために勘兵衛に助力を依頼する。
愛する「おふう」の死によって悲しみに沈んでいた勘兵衛は、この事件をきっかけに再び生気を取り戻し、「鳴子屋」の青物棄却の現場を見つけるが、そこには佃島の人足寄場の与力や同心が絡んでおり、「鳴子屋」の「青物囲い込み事件」がかなり大掛かりなものであることを感じていくのである。そのうちに、「鳴子屋」を強請った妊婦の亭主が殺され、また、妊婦自身も拐かされたり、占部誠一郎の一人娘の婚儀が整おうとしていた相手の物書同心が殺されたりする事件が起こる。勘兵衛自身も何者かに命を狙われたりする。
だが、これらのことはすべて、北町奉行所の「うぽっぽ」と呼ばれた占部誠一郎が仕組んだことであった。占部誠一郎の一人娘は、利発で可愛らしいところのある娘であるが、顔に疱瘡の跡が残り、そのために婚期を逃し、ようやく50両という持参金付きで物書同心の後妻に収まることになていたのである。占部誠一郎は、その持参金を作るために「青物囲い」をしている「鳴子屋」を脅して金を得ようとし、その途端に妊婦を大八車に轢かせるということを仕掛けたのである。長尾勘兵衛に助力を頼んだのは、勘兵衛の介入によってさらに「鳴子屋」を脅すためであった。
ところが、婚儀が整おうとしていた物書同心が、さらに200両もの金を要求し、娘を馬鹿にしたことで、占部誠一郎は物書同心を斬り、自暴自棄となっていったのである。これらのことを勘兵衛の地道な捜査で知られてしまう。そして、彼は、「鳴子屋」と、絡んでいた同心を斬り殺して、自害する。
すべてを知った勘兵衛は、娘のために破滅した占部誠一郎を憐れみ、娘が罪を問われることなく生きていけるように、「鳴子屋の青物囲い込み事件」を占部誠一郎の手柄として事件を処理しようと思うのである。
こういう主人公の姿は、読んでいて爽快になる。悪は悪であるが、「人を生かす」ことが第一となっていくような在り方、悪に染まったとはいえ、人が命をかけて守ろうとしたものを守っていこうとすること、そういうことにこそ意味があることを改めて感じたりするのである。
第二話「病み蛍」は、老いて貧しい暮らしを強いられている元岡っ引きが最後の死に花を咲かせる話である。元岡っ引きの源七は、かつて強盗犯を追う途中で太ももを斬られて致命傷を負っていた。かろうじて一命は取り留めたものの、足の自由が効かないことや自分が強盗犯を取り逃がしたことから岡っ引きを引退したのである。彼の一人娘は、飾り職人と結婚したが、夫が亡くなり実家に戻っていた。だが、彼女は夫の子を身ごもっており、源七は孫ができたことを喜んだが、生活が彼の肩にかかり、貧しい長屋暮らしをしていた。勘兵衛は、源七のことが気に掛かり、ときおり、訪れてはそっと助力したりしていた。
そうしている中で、浅草橋のたもとに女性の死体が上がるという事件が起こる。付近を探索して、何者かと争った跡があり、その女性が殺されたことが分かっていく。女性は柳橋の芸者「小菊」で高利貸しの近江屋から身請け話もあったという。だが、彼女が殺された夜に呼ばれた座敷はかもじ屋(つけ毛屋)の三河屋で、三味線のうまい「小梅」と同席であったという。そして、今度はその「小梅」が厠の梁にかもじ(つけ毛)で首をくくって自害するという事件が起こってしまうのである。
ここで元岡っ引きの源七が関わった事件と交差する。源七を刺して逃げた強盗犯と「小梅」は昔から繋がっており、強盗犯は、今度は高利貸しの近江屋を狙っていたのである。老いた源七はそのことに気づき、強盗犯を追っていたのである。強盗犯は「小梅」を使って「小菊」から近江屋の金のあり場所を聞いたが、そのことに気づいた「小菊」を「小梅」に殺させたのである。そして、良心の呵責をまだもっていた「小梅」は自害したのである。源七は強盗犯を自分の手で捕らえようとして強盗犯をつけ、逆に殺されてしまう。
事件の真相を知った勘兵衛は駆けつけ、源七の最後を看取り、強盗犯を捕らえる。勘兵衛はその手柄を源七のものとして奉行所に届け、南町奉行の根岸肥前守から源七の娘に褒美が出されるように取り計らうのである。
第三話「むくげの花」は、志を持ちながらも藩籍を離れて浪人しなければならなかった男が、最後まで自分の志を貫いていく話である。上野寛永寺の末寺である行元寺の裏山を掘り崩して土を売ろうとした咎で一人の浪人が捕縛された。掘りすぎて土が崩れてきて埋まったところを助け出されたという。名は牛島丑之助といい、名のとおりの大きなもっそりした男で、秋田藩佐竹家の家臣だったという。彼には九歳になる男の子がいて、父子の貧しい二人暮らしであるという。処置を番屋から相談された長尾勘兵衛はその男に会い、彼が土砂崩れを防ぎ、行元寺裏手の長屋を守ろうとしていたことを知ると同時に、彼に妙な魅力を感じていく。そして、彼が秋田藩の日本海に面した土地に砂防林を築こうとしていたが、藩籍を離れなければならなくなり、浪人し、扇子の下絵描きや用心棒などをして生活していることを知るのである。その彼が最活のために描いいている扇の下絵が「むくげの花」で、勘兵衛がもっていた扇子が偶然にも彼が描いたものだったのである。
その牛島丑之助の息子が何者かに拐かされそうになり、息子の代わりに彼に想いを寄せる扇問屋の次女が拐われてしまう事件が起こる。そして、丑之助もその話を聞いて出て行ったままで戻ってこない。話を聞いた勘兵衛は、彼らが秋田藩佐竹家の上屋敷に捕らわれているのではないかと当たりをつけて上屋敷に向かう。前に、牛島丑之助をつけ狙っていた男が佐竹家の上屋敷に消えるのを目撃していたからである。
佐竹家上屋敷に乗り込んだ勘兵衛を迎えたのは次席家老で、丑之助は公金を横領し、藩籍を追われ、それを苦に妻女が自害したと告げられる。その妻女は次席家老の娘だとも言う。だが、丑之助は浪人であり、拐われた娘も町人だから、勘兵衛は引渡しを求め、娘は返すが、丑之助を引き取るためには南町奉行の書面が必要だという。勘兵衛は、唯一自分を理解してくれている奉行の根岸肥前守に頼んで、書類を書いてもらい、丑之助は助けられる。
丑之助の話を聞いてみると、自害したと言われる妻女は、本当は秋田杉を扱う材木商の娘で、莫大な持参金つきで次席家老の養女となり、剣術の午前試合で勝った丑之助と結婚したのだという。そして、丑之助が江戸勤番に命じられた隙を狙って、午前試合に負けた森脇平九郎という男が言葉巧みに彼女に言い寄り、不義の仲となってしまい、しかも丑之助が育てている息子は養父の次席家老の子であると言う。そのことを告げて彼女は自害したと言う。丑之助はその仇を晴らすことを一念としてもっていたのである。
そして、ついに牛島丑之助は決起する。次席家老に果たし状を送り、次席家老は三十人もの家臣に命じて丑之助を取り囲む。そのことを知った長尾勘兵衛は同心の末吉鯉四郎とともに果し合いの場に駆けつけ、丑之助の決死の孤軍奮闘ぶりを目撃する。そして、丑之助に助成する。丑之助は見事に森脇平九郎と次席家老を倒し、本懐を遂げる。丑之助はすべての本懐を遂げたあとで自害しようとしていたが、勘兵衛はこれを止めて、江戸の海岸の砂防林建設のために働くように言う。根岸肥前守がそれを依頼していると告げ、そのことによって丑之助やその子ども、そして彼に想いを寄せていた扇屋の娘が生きるようにしていくのである。
第四話「不動詣で」、江戸で裕福な商人や武家の間で流行った菊細工に絡んで、勘定奉行と材木問屋が禁制の唐人参(朝鮮人参)の抜け荷(密貿易)を行った事件を取り扱ったもので、勘兵衛の一人娘綾乃が想いを寄せ、勘兵衛も何かと仕事を手伝わせている南町奉行所同心の末吉鯉四郎の父親が切腹させられた出来事の真相が語られていく。
末吉鯉四郎の父、山田平右衛門は幕府の勘定方を勤めていたが、汚職に連座した廉で切腹させられ、母も心労がたたって亡くなっていた。末吉鯉四郎は、母方の祖母である志穂に末吉家の養子として育てられ、祖母と二人暮らしをしているが、その祖母が、認知症が進み始めて、夜中に徘徊するということを繰り返していた。志穂の徘徊の道筋は決まっていて、特に毎月二十八日の桶町の不動尊の命日には、「譲(ゆずり)の井戸」で水垢離をするようになっていた。
ところが、その「譲の井戸」で心中事件が起こった。女は菊見の席が設けられた京橋の料理茶屋の美人女将で、男はその菊見の席にいた植木屋で、「菊くらべ」で一等を取った色男だった。だが、調べてみると、二人が心中をするほどの仲ではなかったことが分かっていく。女将には結婚を約束した板前がいた。そして、その事件が起こった時に、どうも鯉四郎の祖母の志穂がそれを見たのではないかと思われた。だが、祖母は物忘れがひどくて覚えていないふしがあった。
勘平衛が、死んだ男の内儀に話を聞いている時に、ふと、占い師の川路順恵という男の名前が出てくる。川路順恵は植木屋の凶事を予告していたという。そして、その川路順恵のもとに勘定奉行の佐原式部正も通っているという。皆、菊細工の「連(グループ)」であるらしい。勘定奉行の佐原式部正は、末吉鯉四郎の父が腹を切らされた時の組頭で、父が残した雑記帳には佐原への恨みが綴られていると言う。
そして、勘平衛が留守の間に、何者かが末吉家の志穂を狙って入り込み、その場に居合わせた綾乃を斬るという事件が起こってしまう。綾乃はかろうじて一命を取り留めるが、それによって志穂が何かを目撃し、その口封じのために襲われた疑いが濃くなっていく。
他方、占い師の川路順恵を探っている時に、そこに材木問屋の木曽屋の内儀も通っていることがわかる。木曽屋は鯉四郎の父が腹を切らされた事件にも深い関わりがあり、江戸城の大規模の普請の時に勘定方は別の材木問屋を推挙していたが、鯉四郎の父が賄賂をもらっていたという事件となり、木曽屋が元請となることが決まった経緯があった。木曽屋は勘定方組頭であった佐原式部正とも深い繋がりがあった。そして、菊細工の連の一人でもあった。
これらのことを丹念に調べていく中で、心中事件に関して、毎年の菊くらべで一等を取っていた木曽屋が、その年の一等を取った植木屋を妬んで、川路順恵に殺しを依頼し、不動詣でに来ていた料理茶屋の女将も殺して心中に見せかけたということがわかっていくのである。
末吉鯉四郎は、この事件の探索の中で、父に謂れ無き罪を着せて切腹に追い込んだのが佐原式部正と木曽屋であることを確信し、単身で佐原式部正の屋敷に乗り込んでいく。鯉四郎は剣の腕も確かであったが、多勢に無勢で、そこにいた川路順恵に捕まってしまう。だが、急を聞いて駆けつけた勘平衛に助け出され、川路順恵は捕り方に捕まる。だが、肝心の佐原式部正と木曽屋は無傷なままで、勘定奉行である佐原式部正を裁くことは容易ではなかった。
そこで、勘平衛は、佐原式部正と木曽屋を捕らえて、抜け荷の唐人参を詰めた桶に二人を入れて、日本橋の晒し場に晒すのである。天下に恥を晒した佐原式部正と木曽屋は切腹、打ち首となる。鯉四郎の祖母の志穂が、物忘れがひどくなっていく頭で、事件の解決の糸口を切り開き、娘夫婦の無念を晴らしたことになり、勘平衛も、その気持ちを察して、綾乃と鯉四郎の婚儀を認めるようになっていくのである。
主人公の「うぽっぽ」こと長尾勘平衛は、芯の強さをそこはかとない柔らかさと情で包んだ人物として描かれ、事件に対処する姿と日常とがその二つを交えて描き出されるので、読んでいくと、いくつかの物語の粗さなどが吹き飛んで、その魅力に引き込まれていく。これは、そうしたことがよくわかる作品だった。