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2013年5月20日月曜日

浅田次郎『憑神』


 雨になった。昨夕から降り続いているが、しばらくぼんやりと雨の景色を眺めていた。今日は所属している研究会で『現代社会の分析』という少々やっかいで大きすぎるテーマについて話をすることになっており、現代の社会学者がよく用いている「ロジスティック曲線」について考えていた。社会現象を微分関数で表すことで、歴史と社会をうまく説明できるのだが、歴史を鳥瞰しようとするヘーゲル的史観の延長かもしれないと思ったりもする。

 それはともかく、浅田次郎の時代小説で2007年には降旗康男によって映画化もされている『憑神』(2005年 新潮社 2007年 新潮文庫)を、軽いタッチで重い主題を描いた作品だと思いながら読んだ。重い主題といっても近代精神の具現化のようなものであり、内容が重いわけではない。

 主人公の別所彦四郎は、下級御家人の次男で、文武ともに優れているのだが、どうにも運が開けずに悶々としている状態に置かれていた。昌平坂学問所で彼と同輩の榎本釜次郎(榎本武揚)は、彼よりも劣っていたにもかかわらず、とんとん拍子に出世しているにもかかわらず、彦四郎は養子先に離縁されて兄の家に居候として出戻っているような状態だった。

 彼は、実家よりも上級の役職を持つ家に婿養子で入り、過不足なく、真面目に勤めていたが、後継となる子が出来るや否や、養家の父親の奸計で、離縁させられ、家を追い出されていたのである。養家としては、「種馬」の役割を果たしたのだから、早々に彦四郎の追い出しを計ったのである。

 そんな中、ある夏の夜、眠られずに出かけた蕎麦屋の主から榎本釜次郎の出世の原因が向島の「三囲(みめぐり)稲荷」の神通力のおかげだというような話を聞き、その帰り道に酔って転げ落ちた土手の下に、寂れた稲荷の祠があり、「三巡(みめぐり)稲荷」とあるところから、その祠に手を合わせて出世を神頼みするのである。

 ところが、彼が神頼みした「三巡稲荷」の神は、貧乏神、疫病神、死神の災いの神が次々と巡ってくるというもので、まず、最初に貧乏神が現れる。貧乏神が彦四郎に憑くやいなや、たちまち彼が居遇する兄の家の家計が立ち行かなくなり、長年の借金の返済を急に迫られて、あげくは御家人株を売って武士を止めるところまで話が進んでいく。

 脳天気な彦四郎の兄は、御家人株が500両で売れるという話を聞いて、苦労するよりもそのほうがいいと考えたりするが、実際は食い扶持をなくすだけで、困窮は目に見えているし、別所家は軽禄の徒歩とはいえ、家康以来の影鎧の管理という役務と共に、いざとなったら将軍の影武者になるという先祖伝来の役務を負ってきていた家柄だった。真面目で実直な彦四郎は、武士としてその役務を放棄することはできないと考えて、苦慮する。

 そして、それらすべてのことは貧乏神がもたらしたことであるので、なんとか貧乏神と交渉する。取り憑いた貧乏神は、彦四郎の実直な人柄に負けて、禍をほかの誰かに振るという「役替え」があることを教え、彦四郎は自分を追い出した婿養子先にその禍を振る。するとたちまち、彼を追い出した旗本の家が火事となる。だが、彦四郎を追い出したとは言え、そこには彼の妻と一人息子がおり、彼らが路頭に迷うことになったのを彦四郎は後悔する。彼は、どこまでも「人がいい」のである。

 だが、こうして貧乏神の役割が済んだと思ったら、今度は相撲取りの姿をした疫病神に取り憑かれるのである。疫病神は徳川家茂に取り憑き、孝明天皇に取り憑いて政局を大きく変えたという。事実、この二人の死によって、時局は大きく変化し、時代は大政奉還から明治維新へと急展開していくのである。諸物価は高騰し、江戸市民は混乱する。その疫病神が、彦四郎の兄を重い病にし、別所家の「お役」が果たせなくするのである。彦四郎が禍の役替えを兄に振ったからである。

 こうして、彦四郎は兄の代わりに別所家の役務を果たすことになるが、禍を他人に転嫁する自分に対して許せない思いももっていたし、彼の息子は自分の家が火事となり、祖父がお役御免になったことに対する恨みをもって、それが彦四郎の仕業だと思って、その恨みを晴らそうとしたりした。

 そうしているうちに、邪神の中でも最も強力な死神が、今度は小さな女の子の姿で取り憑く。彦四郎は、今度ばかりは命に関わることだからと、その禍を自分で引き受ける決心をしていく。

 彦四郎は、武士としてどこまでも家役を守り、徳川家に忠節を尽くそうとするが、将軍となった徳川慶喜は、鳥羽伏見の戦いの後に大阪城から江戸に逃げ帰っており、愕然とすることが多かった。そして、やがて上野の彰義隊の戦いになっていく。

 彦四郎は、勝海舟や官軍から新政府入りを勧められるが、これを断り、徳川家の終わりを認識しつつも新しい時代の礎となるために、自分の死を恐れず、旧来の武士が武士の本文を全うしたことを示すため、徳川慶喜は上野から既に水戸へと移っていたが、自ら徳川将軍の影鎧を着込み、慶喜となって上野に向かうのである。

 この作品には、社会の激変の中でも自らの矜持を全うしていくことが大筋としてあり、その中で、人間の命には限りがあるが、それゆえにこそ尊い生き方があるということ、そういう魂の問題が盛り込まれているのである。

 幕末から明治にかけての日本近代史を見るたびに、もう少しあの時に深く考えられたり、特に明治政府にもう少し優れた人物がいたりしたら、少しは日本はよかったのではないかと思うことがしばしばあるが、社会の激変という現象の中で、変わらない人間の生き方というのもあり、この作品の主人公を通してそういうことに想いを寄せることができる作品だった。読んでいるうちに、仕事もできないし頼りにもならず、楽なことを求めたがる彦四郎の兄さんというのもなかなかの人物ではないかと思ったりする。浅田次郎は、「うまい」作家だとつくづく思う。

2011年11月16日水曜日

浅田次郎『五郎治殿御始末』

碧空という名にふさわしい空が広がっているが、気温が低くなって空気が冷たい。街路樹の紅葉が進み、駅の向こうにある欅やハナミズキ、そしてこの近くの銀杏も黄色い葉を盛んに散らしはじめた。この近くではまっ赤に燃えるモミジを見かけることがないのが残念な気もするが、木々のこうした変化をぼんやり眺めるのはとてもいい。一葉の葉がひらりと落ちるように、人の哀しみも落ちてくれないだろうかと思ったりする。

 浅田次郎『五郎治殿御始末』(2003年 中央公論新社)について記しておこう。これは、再読の形で読んだのだが、幕末から明治維新を経て新しい時代となっていく大混乱期を生きた人々を描いた短編集で、「それぞれの明治維新」とでもいうような作品である。

 本書には、「椿寺まで」、「箱舘証文」、「西を向く侍」、「遠い砲音」、「柘榴坂の仇討」、「五郎治殿御始末」の六編が収められている。

 最初の「椿寺まで」は、上野での彰義隊の戦いで自ら重症を負いながらも生きのびて、武家を廃して商人となった男が、甲州勝沼で薩長軍と戦って討たれた友人の息子を引き取り、手代として可愛がって、その子を連れて甲州街道を遡って日野の先の高幡にある通称「椿寺」まで出かけていく話である。

 息子の母親は、父親が勝沼で討ち死にした後、息子を道連れに自害しようとしたが、そこに駆けつけた男に止められ、男は息子を引き取り、母親は椿寺で尼僧として暮らす生活をしていたのである。明治政府がとった廃仏毀釈の影響もあり、寺の佇まいは貧しく、母親はひっそりと暮らしていた。男は商人にはなったが武士としての矜持も強くもち、何も語らずに息子をそこへ連れて行く。息子は男が元武士であることに気づいたりして、椿寺の寺男の話から事情を聞いて、寺にいる尼僧が自分の母親であるとわかっていくが、親子の名乗りはあげない。

 しかし、そこは母と子である。息子は、かつて自分を引き取って育ててくれた男が流したという血の涙を自分も流しているのではないかと思いつつも、時代の向こうにすべてを置いて、新しい時代を健気に生きていこうとするのである。ただ、その寺を去るときに、足下に落ちていた大輪の椿の花をそっと懐に入れて。

 第二話「箱舘証文」は、新しい時代になじめない感覚を持ちながらも明治政府の役人として働いていた大河内厚のところへ、ある日、警視庁に勤めているという旧会津藩士の中野伝兵衛が訪ねてくる。中野伝兵衛は、今は名前を渡辺一郎に変えているが、かつて箱舘の戦いの折、徳島藩士であった大河内厚は敵方であった中野伝兵衛と遭遇して、争い、負けて咽元に脇差しを当てられた時、中野伝兵衛から「そこもとの命、千両で売らぬか」と言われて、命の代金としての千両を支払う証文を書いていた。中野伝兵衛は、その千両の掛け取りにやってきたというのである。

 一週間の猶予を与えられ、困惑した大河内厚は、かつて尊皇攘夷の志士であり文武を学んだ師である山野方斎を訪ねて相談する。すると、その師の手元に、かつて白河の戦いのおりに中野伝兵衛が自分の命の代金として千両を支払うという証文を山野方斎に書いていたことがわかる。これで双方の命の代金を精算すれば何事もないということになり、大河内厚と山野方斎は中野伝兵衛の家を訪ねる。月給十円という中野伝兵衛の住まいは、貧しく、老いた母と二人の娘があった。中野伝兵衛は、山野方斎がもつ命の代金証文を見て愕然とし、取り立てをやめることを承諾するのに一週間の猶予を求める。

 時に、大河内厚が勤める工部省の上役として洋行帰りの若い長州人が赴任し、旧を破壊し、新をめざすことに熱意を燃やす。江戸城を取り巻く門が無用の長物として次々と破壊され牛込の楓門も破壊されようとする。しかし、大河内厚は、意を決して、楓門は武家文化の精神を今に伝えるもので、鉄道建設の傷害となるのであれば、せめてその鉄道が敷かれるまでは待ってくれ、これは武士の命乞いだ、と独り反対するのである。

 次の週、大河内厚と山野方斎は中野伝兵衛に会うために出かけ、そこで中野伝兵衛にやくざ者の連れがあることに驚く。そのやくざ者は、今はやくざ稼業に身を落としてしまったが、かつては京都見廻り組で、鳥羽伏見の戦いで山野方斎を組み伏せたときに、ふとばかばかしくなって、山野方斎に命の値段としての千両の借用証書を書かせていたのである。同じ国の人間が争い合うことのばかばかしさ、それが命の値段の借用書書のやりとりだったのである。戦場に倒れた者たちの無念、それが都合三千両の生命の借用書なのである。

 そのことをお互いに胸の中で思い知った彼らは、その借用書を焼き捨て、語り合い、大河内厚が、せめて楓御門を残すことに尽力を尽くしたことで、すべてを了簡していくのである。そして、いずれ鉄道が敷かれれば、楓御門は飯田橋の名のみ残して消え去る定めかも知れないが、その時はまた小役人の矜りのかけて抗おうと思っていくのである。

 ちなみに、今は、この楓門(牛込門)は、飯田橋駅西口近くに石組みだけが残されたものとなっている。

 第三話「西を向く侍」は、有能で暦の専門家として幕府の天文方に出役していた成瀬勘十郎は、新政府に出仕することになっていたが、待命を受けたまま五年の月日を無為に過ごし、その間に養うことができない妻子を甲州の義兄のもとに預け、上地(土地の召し上げ)で棲むところがなくなった隣家の老婆と共に暮らしていた。そのころ明治政府が出していた暦には誤りが多く、成瀬勘十郎はその誤りを修正することで、早く出仕して生活を楽にしたいと願っていた。

 明治5年11月9日(西暦1872年12月9日)、明治政府はそれまでの暦を改め、太陽暦によるグレゴリオ暦を採用する改暦詔書を太政官令として発布した。12月2日を大晦日として、翌日の12月3日を明治6年元旦とするというものであった。これによって師走に掛け取りをしていた商人や人々は、師走がわずか2日間しかないのだから大混乱に陥った。

 成瀬勘十郎は、自分の家に借金の掛け取りにきた札差(多くは没落したが、新貨幣の両替をする何軒かの札差は残った)から改暦の話を聞き、暦は人々の暮らしに直結し、特に農民にとっては暦に従って暮らしを立てていたのだから、このように改暦すべきではないと憤り、文部省にそれを正に出かける。

 文部省の役人たちは成瀬勘十郎の暦に対する専門知識についてはよく知っており、成瀬勘十郎は、この度の改暦が官員の俸給を削減するためのものではないかと指摘したりする。だが、時の文部卿は、太陽暦が採用されればおぬしはお役御免になるのを心配しているとか、西洋暦も知っているので待命を解いて雇用せよとかいうのだろうと矮小なことしか言わない。

 成瀬勘十郎は、論を尽くし、涙を流しながら、「西洋の法に準ずるは世の趨勢ではござるが、日本政府はあくまで固有なる日本人のために、政を致さねばなり申さぬ。外交や交易、ましてや財政難を理由に突然の改暦をなさしめて国民を混乱に陥れるなど、いかにも小人の政にござる」(101-102ページ)と訴える。

 しかし、文部省は何も答えす、成瀬勘十郎は、帰りに古道具屋で家宝の刀を売り、借財を返済して老婆を老婆の家族のいる駿府へ送り、自分は甲府に行くという。一年が三百六十五日で、大の月が一、三、五、十、十二で、晦日が月ごとに変わっていく。馴染みがなく、混乱する。その時、掛け取りに来ていた両替商の手代に「西向く侍」というのはどうだろうと成瀬勘十郎はいうのである。二、四、六、九、士(武士の士で十一)で、晦日が三十日、それ以外は三十一日というわけである。

 手代は、これはいい。これで人々が混乱から救われる、月の晦日を間違えることはないし、西方から来て天下をわがものとした薩長への恨みも忘れることはないだろうと、これを広めることにした、というのである。

 わたしも幼い頃にこの言葉を母から習った記憶がある。それで、正しく暦を数えることを覚えた。もちろん、その時は、薩長への恨みなど知る術もなかったが、人々の暮らしのために命がけで奔走した人間も、確かに、明治になってもいただろうと思ったりする。

 第四話「遠い砲音」も、「時」に関する話で、一日の時間の数え方までがすっかり変わってしまい、それが変わるということは人の暮らし方が変わるということだから、人々の戸惑いも大きかったに違いない。それまではだいたい2時間おきに刻まれるおおよその時刻で人々は暮らしていたが、時間単位、分単位で行動が決められることになる。

 物語は、長門清浦藩の藩主に仕えながら、新政府の近衛砲兵隊の将校として出仕している土江彦蔵を中心として描かれる。四十を過ぎて近衛砲兵として推挙された幸運はあったにせよ、分単位で行動が決められることになかなか馴染めない土江彦蔵は、新しい時間の感覚に馴染めずに、砲兵調練などにはいつも遅刻してしまう。合同調練にも遅刻し、秒単位で時計を合わせるのにもまごつき、ついには訓練中の小隊の上に砲弾を炸裂するという事故まで起こしてしまう。責任を問われるが、その時、指導に当たっていたフランスの大尉が彼をかばう。そして、土江彦蔵が、旧藩主の世話を親身になってしていることをほめて、「軍人の本分は忠節にあり、その忠節を主君に対して常日頃からしておる貴官こそ、あっぱれなる近衛将校だ」と語るのである。

 フランスの大尉は、土江彦蔵が仕えている旧藩主に外国語を教えており、どこか浮世離れしたところのある旧藩主が、「ことあるときには、土江を宜しう頼む」と頼んでいたのである。そして、昼の時報を打つ空砲を撃つことを任じられる。相変わらず、ミニウト(分)とセカンド(秒)に追い回される。

 その日々の中で、彼をかばったフランスの大尉が帰国することになり、土江彦蔵が仕える旧藩主も同行することになった。旧藩主は、土江彦蔵の息子も連れて行きたいと申し出る。土江彦蔵の忠義に報いたいのだ、と涙ながらに語るのである。仕え、そしてそれに可能な限り報いていく、そうした深い絆がここにはあり、彼らが出立するときに見事に号砲を打っていくのである。彼は、人間が時に支配されるのではなく、時に支配されていく人間でありたいと考えていたのである。新しい時刻表示という生活の根本を変えていくようなことのなかで、昔ながらの矜持をもって生きている人間の爽やかな姿がここに描かれているのである。

 第五話「柘榴坂の仇討」は、桜田門外の変(万延元年3月3日-1860年3月24日)のそこの後の物語である。雪が降りしきる中で殺された井伊直弼の駕籠廻りの近習を勤めていた志村金吾は、生き残り、その事件を胸に秘めて、せめて主君の仇を討ちたいと貧乏長屋に潜むようにして暮らしていた。彼の妻は場末の酌婦をしながら生活を支えていた。

 そして、明治6年、あの事件から13年の月日が流れ、志村金吾は警視庁を退職した人物からようやく事件を起こした刺客たちのその後の姿を聴くことができた。水戸藩浪人17名と薩摩藩浪人1名の計18名の刺客のうち、その場で斬られたのが2名、事が成ったと自決したものが4名、そして自訴して切腹したものが7名、残りの5名が行くへ不明となっていたのである。その5名も、世に顔を出すこともできずにひたすら雌伏していたという。

 その年、仇討ち禁止令が出される。その禁止令を愕然とした思いで聞いていたひとりの車引きがいて、新橋の駅前で偶然にも志村金吾を乗せるのである。やがて、志村金吾は、その車引きが、実は、桜田門外の変の時に井伊直弼の駕籠に向かって偽の直訴状を差し出してきた侍であり、車引きも、その時に柄袋を刀に被させられていたために脇差しを抜いて対峙してきた侍が志村金吾であることを知っていく。お互いに死ぬ覚悟をもって対峙する。車引きは自ら咽をかき切って自死しようとするが、その時に、志村金吾が、「あのとき、掃部頭(かもんのかみ)様は仰せになった。かりそめにも命をかけたる者の訴えを、おろそかには扱うな。・・・掃部頭様はの、よしんばその訴えが命を奪う刀であっても、甘んじて受けるべきと思われたのじゃ。おぬしら水戸者は命をかけた。だからわしは、主の仇といえども、おぬしを斬るわけには参らぬ」(181ページ)と言うのである。

 二人の時は、あのときに止まっていたままで、13年の月日を過ごしてきていたのである。そして二人は泣く。

 やがて金吾は苦労をかけた妻が酌婦を務める酒場に行き、仇討ち禁止令が出たことを告げると喜び、金吾は、この先は車引きでもすると告げる。金吾の廻りの時が流れはじめ、腕がちぎれ足が折れても、この妻に報いていこうと決心していくのである。

 この作品は、短編ながらも奥行きの深い作品だと思う。長い苦節を経てたどり着いた地平で、ひとりの矜持をもって生きてきた男が、妻のために新しい一歩を踏み出す瞬間、その瞬間が切り取られて車引きをする彼の姿が彷彿とさせられる。

 表題作ともなっている第六話「五郎治殿後始末」は、明治元年に生まれた曾祖父の思い出を孫が聞き取るという構図で、曾祖父の祖父に当たる岩井五郎治は、桑名藩士で、息子を越後での薩長との戦いで失いながらも桑名に残り、事後処理の勤めを果たしていた。旧藩士の整理で、整理される者たちからは「長州の狗」と軽蔑され、恨まれながらその役を果たしていた。付け髷をつけて見栄えはしないが、温厚で利発な人でもあった。そして、役を退き、政府から与えられる金子も辞退し、家財の一切を売り払い、その金を菩提寺に寄進し、寄る辺ない旧藩士に分け、使用人が生活できるように渡して、同居していた語り手である孫を尾張の母親の実家に帰すように取りはからうのである。

 桑名と尾張は、維新の際に尾張が薩長についたために仇敵となったが、五郎治はその仇の尾張の母親の実家に頭を下げるのである。その旅の途上、自分を実家に届けた後で、武士としての矜持を守るために五郎治が自決する覚悟であることを知り、二人で死に場所を探し始める。そして、まさに死なんとするときに、駆けつけていた旅籠の主人によって自決を止められてしまう。旅籠の主人は、参勤交代のおりにお世話になった五郎治をよく知り、度々桑名の家にも訪ねて来ており、旅の途上で見かけて心配になってついてきていたのである。そして、旅籠の主人が命がけで五郎治を説得して、五郎治はその主人の心に感じ、自決をやめるのである。

 やがて、五郎治は、その旅籠で仕事をするようになったが、曾祖父をその旅籠に預けてひとり何処かへと行ってしまう。それからしばらくして、西南戦争の年、ひとりの将校が現れて、五郎治の最後を告げる。旧桑名藩主松平定敬(さだあき)も、朝旨に従って西南戦争に出て、五郎治は鳥羽伏見以来の仇を討って、桑名の武士として旧藩主の眼前で死を迎えたという。そして、遺品として、かつて人々から笑われた「付け髷」を渡すのである。

 五郎治は、藩の始末をし、家の始末をし、そして、ついに自分の始末も果たした。「決して逃げず、後戻りもせず、あたう限りの最善の方法ですべての始末をする」(228ページ)。男の始末とはそうあらねばならないと作者は語る。「おのれをかたらざることを道徳とし、慎み深く生きる」(231ページ)。それが五郎治の始末だったと語るのである。

 人は、いかようにも毅然としていきることができる。「自分ヲカンジョウニ入レズ」あらゆる事を受け止め、世相の中で曲げず、そして騒がず、心に情けをもち、ただひたすらに自分の矩を超えずに与えられている人生を黙々と歩む、そういう姿がこの短編集では江戸から明治へと価値観の何もかもが目まぐるしく変わっていった激動する時代の中で描かれているのである。浅田次郎の時代小説の中には、そういう人間の姿が描き出されていると、いくつかの作品を読んで思う。

2011年10月29日土曜日

浅田次郎『輪違屋糸里』

 今日も穏やかに晴れている。穏やかな秋の日々というものは、特別に何もなくてもいいものである。現代は、人が穏やかに暮らすことから遠くなった気がしないでもないが、「つつましやかさ」の美徳が失われて、高い精神性も失われ、穏やかさと静けさが失われたような気もする。

 ふと、武家の精進ということを思い起こした。子どもの頃から剣術道場に通い身体を鍛錬し、学問に勤しみ、素読をし、本がなかったのですべてを書き写し、そうすることで一つ一つを身につけ、礼儀と言葉使いに注意を払い、人間としての器を広げていく、そういう精進のことで、実際には多くは出世主義の中に置かれただろうけれども、幕政や藩政の争いとは関わりがなく、生涯をそういう精進の中で過ごした人もいただろう。ひとつひとつの思想性は別にしても、「凛」という言葉や「矜持」という言葉は、そういう人が身につけることができたものかも知れない、と思ったのである。

 そうした「凛」とか「矜持」とかとは無縁であったと思われる幕末の新撰組の中に、浅田次郎は、人から守銭奴とか出稼ぎ浪人とかいわれた吉村貫一郎(実像は不明なところが多く、浅田次郎は子母澤貫の創作に基づいたといわれる)に「凛」や「矜持」が一貫して流れている姿を『壬生義士伝』の中で描き出した。

 その浅田次郎が同じように新撰組を題材にした『輪違屋糸里 上下』(2004年 文藝春秋社)を感慨深く読んだ。「輪違屋」とは、京都の遊郭町であった島原の遊郭で、「糸里」はそこの太夫(花魁)である。「糸里」は、小浜(現:福井県小浜市)の浜の産屋で産み落とされ、母親が産後の肥立ちが悪くて死んでしまい、孤児となり、養父母に育てられていたが、6歳で島原の遊郭「輪違屋」に売られ、そこで育った女性である。

 物語は、その「糸里」の出生から始まるが、「輪違屋」で「糸里」に目をかけて可愛がってくれた太夫(花魁)の音羽太夫が、上洛してきた壬生浪士隊(新撰組)の芹沢鴨に斬り殺されるのである。音羽は島原の太夫としての矜持を貫き、傲慢無礼な芹沢鴨が無礼打ちとして彼女を斬り殺したのである。音羽は臨終の時に「恨むのやない。だあれも恨むのやない。ご恩だけ、胸に刻め。ええな、わいと約束しいや」と「糸里」に言い残す(34ページ)。

 そこから芹沢鴨の人物像が描き出されるのであるが、特に芹沢鴨が強引に犯して、やがて愛妾となり、やがて芹沢鴨と同衾しているところを土方歳三らに殺された太物問屋(呉服商)の女房のお梅を中心にして描き出す。お梅は、京都の西陣に生まれ、島原のお茶屋にいたところを太物問屋の菱屋太兵衛に引かされて妻(一説では妾)になったとされるが、22~23歳くらいの美女で、借金の掛け取りにいったところを芹沢鴨に犯され、後には自ら進んで芹沢のもとに通っていたといわれる。本書では、江戸の幕連女(すれっからし)で、菱屋太兵衛と出会、京都に来て太兵衛の女房を追い出し、傾きかけた菱屋の立て直しのために奔走していた女性として描かれている。そのために菱屋の中では孤立し、夫からも裏切られ、美貌と才能があるだけに孤独になって、周囲と闘いながら生きていくところが、同じように孤独の影をもつ芹沢鴨に惹かれていく姿になっている。

 芹沢鴨は、常陸芹沢村(現:茨城県行方市芹沢)の郷士で、水戸藩上席郷士の芹沢家の三男として生まれ、後に水戸天狗党(攘夷を主張して横浜での外国人殺害を計画していた)に入り、神道無念流の免許皆伝者で、やがて清河八郎が提唱した浪士組に入って京都に来て、清河八郎と別れて京都近藤勇らとに残って壬生浪士組を結成したのである。攘夷思想に凝り固まった傲慢で凶暴なところがあり、鉄扇を愛用して傍若無人に振る舞った。

 だが、本書では、それらの傍若無人な振る舞いには、会津藩が絡んだ朝廷と幕府を巡る長州に対する裏工作があり、酒を飲んで暴れる芹沢鴨と、しらふの時の草花を愛でるような孤独な優しさをもつ芹沢鴨の両面が描かれて、生き難い世の中で肩肘を張って生きなければならない人間の姿として語られていく。

 もちろん、新撰組を題材としているのであるから、新撰組が結成される経緯やそれぞれの人物たちの姿が特徴的に描かれ、近藤勇や土方歳三をはじめ、沖田総司など名が残っているそれぞれの隊士の姿が詳細に描かれていくが、それらが、彼らが屯所とした壬生の八木家や前川家の人々を通して描き出されるのである。これらの新撰組の隊士たちの中で、土方歳三だけは、冷酷な策略家として描き出されている。

 そして、対立した芹沢鴨の一派と近藤勇の一派の闘いが、、武士と百姓の下克上の闘いでもあったという視点で、新見錦を切腹に追い込み、芹沢鴨を斬殺したのは、百姓出身の近藤勇や土方歳三らが抑圧してきた傲慢な武士階級に対する反逆の出来事でもあるという展開がされていく。

 こういう中で、土方歳三に密かな想いを抱いていた「輪違屋」の「糸里」は、その土方歳三の策略で芹沢鴨の家臣としてついてきていた平間重助と寝るように言われ、さらには芹沢鴨暗殺のために睡眠薬を仕掛けるように依頼されるのである。「糸里」の心境は複雑で、芹沢鴨に殺された音羽太夫の恨みもあるし、同僚で、やはり芹沢派のひとりであった平山五郎に惚れてその子を身ごもっていた桔梗屋の吉栄を助けるためもあり、土方歳三の依頼を受けてしまう。

 物語の頂点は、いうまでもなく土方歳三、沖田総司らが芹沢鴨や平山五郎を斬殺した夜で、その夜、夫に裏切られたことを知ったお梅も夫を殺し、芹沢鴨のところに来ているという設定で、「糸里」は、すべてを承知の上で眠り薬を仕込み、平間重助と同衾して襲撃の手引きをして待つ。そして、雨が降りしきる中で芹沢鴨がお梅と共に斬殺されるのである。

 実際は、糸里と吉栄はその場から逃れて行くへがわからなくなったのだが、本書では、その後、「糸里」は、女の矜持をもって、凛として会津藩主と会い、身ごもっていた吉栄が子を産めるように手配を依頼し、自分は島原の太夫としての生涯を送っていくということになっている。

 そして、吉栄は「糸里」が生まれた小浜で無事に子を産み、自分を助けてくれた「糸里」の名前をもらって、生まれた子に「いと」と名づけ、小浜で生きていくというところで終わる。

 権謀術策と暴力、欲が渦巻いてほとんど無政府状態となっていた幕末の京都で、それぞれに身勝手な振る舞いをした男たちに京都の女たちも翻弄されたが、これは、その翻弄された女たちの中で、矜持をもって生き抜こうとした女性と、時代に翻弄されていく男たちの哀れを描いた「哀しみの物語」であり、結末の爽やかさが救いとなる物語である。

 新撰組の経緯についての永倉新八に長饒舌をさせるところや沖田総司の長い独白などは、わたしのような読者にとっては若干興ざめするところがあるのだが、新撰組を武家と百姓として描き、「糸里」の姿で、女の生き方を描き出す展開は見事という他はない。「糸里」や吉栄の姿は感涙を禁じ得ず、深い感動をもって読み終わった。

2011年6月20日月曜日

浅田次郎『憑神』

 今にも泣き出しそうな重い雲が垂れている。九州では大雨が続いているし、東北では震災後のつらい状況が無策のままに続いているが、人はただ己の営みの中で生きるしかないのだから、今日は何を食べようかと思い悩んだりする。

 先日、ふと思い立って「にこにこ動画」という動画サイトで映画を見ていたら、途中で「に~こ、にこ動画(♪)」と入ってきて、「~が午前0時ぐらいをお知らせします」という時報が挿入され、その遊び心に思わず感心した。

 現代社会は、時間というものを何時何分何秒まで気にするようになってしまったが、考えてみるまでもなく、時間というのは場所や人間によって異なるのだから、「~時ぐらい」というのが最も正確な時報の表現であり、「にこにこ動画」の時報が最も正確な表現に近い気がする。

 江戸時代の時刻の「暮れ六つ」とか「七つ発ち」や「八つ(ちなみに「おやつ」はここから由来している)」という数字の時刻表現はだいたい2時間おきぐらいで数えられていたが、それぐらいの時間の感覚が人間の生活にあっているのかも知れないと思ったりもする。時は人の生活の営みの便利のために創られたものだが、その時に追われるのは、やはりどこかねじれた生活だろう。昨日はそんなことをぼんやり考えながら、半日、うつらうつらと眠り続けた。

 閑話休題。浅田次郎『憑神』(2005年 新潮社)を面白く読んだ。この作者の作品は、前に『壬生義士伝』(2000年 文藝春秋社)を読んでいたく感動し、中井貴一が主演した映画も見て、感涙を禁じ得なかったが、作者自身の型破りな人間性はともかくとして、人間に対する視点の面白さと深さは格別なものがあると思っていた。

 『憑神』は、御家人で御徒の家に生まれた次男が、崩壊していく江戸幕府の中で、武士としての矜持を保ちながら生きていく姿を描いたもので、『壬生義士伝』でもそうだったが、いわば「滅びの美学」とでも言うべきものが、不運のユーモアを交えながら描き出されている作品である。

 武家の次男坊として生まれた主人公の別所彦四郎は、文武共に優れた才能を持ちながらも、次男であるがゆえに能力を発揮する場に恵まれず、養子に行った先からも、養家の後継ぎとして男子が産まれるやいなや種馬としての役割が済んだということで、嵌められて出戻りさせられ、鬱々とした部屋済み生活を余儀なくされている身であった。

 そして、ある時、酔った勢いで河原にうち捨てるようにしてあった祠に「なにとぞ宜しく」と掌を合わせてしまい、その祠が貧乏神、疫病神、死に神の三神を巡る「三巡神社」であったことから、次々と禍に陥っていくのである。

 彼は貧乏神、疫病神にたたられていくが、それぞれの神も彼の人柄に打たれたりして、取り憑く「身代わり」を立てたりして、自分が養子に行った先の義父の策略が明らかになったり、自分勝手で小心な兄に変わって御徒としての勤めに出るようななったりし、最後に、死に神を抱きつつ、徳川家の影武者としての御徒の家柄に忠実に、死地を求めて徳川慶喜に成り代わって上野の彰義隊へ、それが愚かなこととわかりつつも赴いていくのである。「限りある命を輝かせて死ぬ」それが、彼がたどり着いた地平である。

 この作品の中で面白い設定だと思ったのは、貧乏神が恰幅のよい大店の主として、不治の病気をもたらす疫病神が、病弱とは縁のないような力強い力士として、また、死に神が生命力溢れる小さな娘として登場することで、「見た目」と「真相」が面白く対比させられている点で、まさに、悪は善の顔をしてやってくるということが面白く設定されているのである。

 もうひとつ、これは作者のどの作品でもそうだが、人はそれぞれの立場で、それぞれの言い分や理屈があり、それぞれの正義があって、そこで動いていることが充分描き出され、そして、それぞれがどこかで少しずつ狂ってきた不幸や不運が生み出されていくという描き方が面白いと思った。

 主人公を種馬として扱い、用が済めば策略を用いて「用無し」として扱った養家、自分勝手で録でもない兄、貧乏神、疫病神、死に神など、それぞれの立場と言い分がある。そして、人のいい主人公がそれぞれの言い分を認め、そのために苦労しながらも、自分の「最後の武士」としての生き方を貫き、その「滅びの美学」を全うしていく姿が物語の中で展開されているのである。

 文章も構成も、言うまでもなくうまく、それだけに読みやすいし、人の「情け」もペーソスも溢れている。主題そのものに普遍性があるわけではないが、物語として面白く読むことができた。著者の作品数が多いので、数冊読んだだけでは何とも言えないが、作者の姿勢は、何となくわかるような気もする。