2011年11月16日水曜日

浅田次郎『五郎治殿御始末』

碧空という名にふさわしい空が広がっているが、気温が低くなって空気が冷たい。街路樹の紅葉が進み、駅の向こうにある欅やハナミズキ、そしてこの近くの銀杏も黄色い葉を盛んに散らしはじめた。この近くではまっ赤に燃えるモミジを見かけることがないのが残念な気もするが、木々のこうした変化をぼんやり眺めるのはとてもいい。一葉の葉がひらりと落ちるように、人の哀しみも落ちてくれないだろうかと思ったりする。

 浅田次郎『五郎治殿御始末』(2003年 中央公論新社)について記しておこう。これは、再読の形で読んだのだが、幕末から明治維新を経て新しい時代となっていく大混乱期を生きた人々を描いた短編集で、「それぞれの明治維新」とでもいうような作品である。

 本書には、「椿寺まで」、「箱舘証文」、「西を向く侍」、「遠い砲音」、「柘榴坂の仇討」、「五郎治殿御始末」の六編が収められている。

 最初の「椿寺まで」は、上野での彰義隊の戦いで自ら重症を負いながらも生きのびて、武家を廃して商人となった男が、甲州勝沼で薩長軍と戦って討たれた友人の息子を引き取り、手代として可愛がって、その子を連れて甲州街道を遡って日野の先の高幡にある通称「椿寺」まで出かけていく話である。

 息子の母親は、父親が勝沼で討ち死にした後、息子を道連れに自害しようとしたが、そこに駆けつけた男に止められ、男は息子を引き取り、母親は椿寺で尼僧として暮らす生活をしていたのである。明治政府がとった廃仏毀釈の影響もあり、寺の佇まいは貧しく、母親はひっそりと暮らしていた。男は商人にはなったが武士としての矜持も強くもち、何も語らずに息子をそこへ連れて行く。息子は男が元武士であることに気づいたりして、椿寺の寺男の話から事情を聞いて、寺にいる尼僧が自分の母親であるとわかっていくが、親子の名乗りはあげない。

 しかし、そこは母と子である。息子は、かつて自分を引き取って育ててくれた男が流したという血の涙を自分も流しているのではないかと思いつつも、時代の向こうにすべてを置いて、新しい時代を健気に生きていこうとするのである。ただ、その寺を去るときに、足下に落ちていた大輪の椿の花をそっと懐に入れて。

 第二話「箱舘証文」は、新しい時代になじめない感覚を持ちながらも明治政府の役人として働いていた大河内厚のところへ、ある日、警視庁に勤めているという旧会津藩士の中野伝兵衛が訪ねてくる。中野伝兵衛は、今は名前を渡辺一郎に変えているが、かつて箱舘の戦いの折、徳島藩士であった大河内厚は敵方であった中野伝兵衛と遭遇して、争い、負けて咽元に脇差しを当てられた時、中野伝兵衛から「そこもとの命、千両で売らぬか」と言われて、命の代金としての千両を支払う証文を書いていた。中野伝兵衛は、その千両の掛け取りにやってきたというのである。

 一週間の猶予を与えられ、困惑した大河内厚は、かつて尊皇攘夷の志士であり文武を学んだ師である山野方斎を訪ねて相談する。すると、その師の手元に、かつて白河の戦いのおりに中野伝兵衛が自分の命の代金として千両を支払うという証文を山野方斎に書いていたことがわかる。これで双方の命の代金を精算すれば何事もないということになり、大河内厚と山野方斎は中野伝兵衛の家を訪ねる。月給十円という中野伝兵衛の住まいは、貧しく、老いた母と二人の娘があった。中野伝兵衛は、山野方斎がもつ命の代金証文を見て愕然とし、取り立てをやめることを承諾するのに一週間の猶予を求める。

 時に、大河内厚が勤める工部省の上役として洋行帰りの若い長州人が赴任し、旧を破壊し、新をめざすことに熱意を燃やす。江戸城を取り巻く門が無用の長物として次々と破壊され牛込の楓門も破壊されようとする。しかし、大河内厚は、意を決して、楓門は武家文化の精神を今に伝えるもので、鉄道建設の傷害となるのであれば、せめてその鉄道が敷かれるまでは待ってくれ、これは武士の命乞いだ、と独り反対するのである。

 次の週、大河内厚と山野方斎は中野伝兵衛に会うために出かけ、そこで中野伝兵衛にやくざ者の連れがあることに驚く。そのやくざ者は、今はやくざ稼業に身を落としてしまったが、かつては京都見廻り組で、鳥羽伏見の戦いで山野方斎を組み伏せたときに、ふとばかばかしくなって、山野方斎に命の値段としての千両の借用証書を書かせていたのである。同じ国の人間が争い合うことのばかばかしさ、それが命の値段の借用書書のやりとりだったのである。戦場に倒れた者たちの無念、それが都合三千両の生命の借用書なのである。

 そのことをお互いに胸の中で思い知った彼らは、その借用書を焼き捨て、語り合い、大河内厚が、せめて楓御門を残すことに尽力を尽くしたことで、すべてを了簡していくのである。そして、いずれ鉄道が敷かれれば、楓御門は飯田橋の名のみ残して消え去る定めかも知れないが、その時はまた小役人の矜りのかけて抗おうと思っていくのである。

 ちなみに、今は、この楓門(牛込門)は、飯田橋駅西口近くに石組みだけが残されたものとなっている。

 第三話「西を向く侍」は、有能で暦の専門家として幕府の天文方に出役していた成瀬勘十郎は、新政府に出仕することになっていたが、待命を受けたまま五年の月日を無為に過ごし、その間に養うことができない妻子を甲州の義兄のもとに預け、上地(土地の召し上げ)で棲むところがなくなった隣家の老婆と共に暮らしていた。そのころ明治政府が出していた暦には誤りが多く、成瀬勘十郎はその誤りを修正することで、早く出仕して生活を楽にしたいと願っていた。

 明治5年11月9日(西暦1872年12月9日)、明治政府はそれまでの暦を改め、太陽暦によるグレゴリオ暦を採用する改暦詔書を太政官令として発布した。12月2日を大晦日として、翌日の12月3日を明治6年元旦とするというものであった。これによって師走に掛け取りをしていた商人や人々は、師走がわずか2日間しかないのだから大混乱に陥った。

 成瀬勘十郎は、自分の家に借金の掛け取りにきた札差(多くは没落したが、新貨幣の両替をする何軒かの札差は残った)から改暦の話を聞き、暦は人々の暮らしに直結し、特に農民にとっては暦に従って暮らしを立てていたのだから、このように改暦すべきではないと憤り、文部省にそれを正に出かける。

 文部省の役人たちは成瀬勘十郎の暦に対する専門知識についてはよく知っており、成瀬勘十郎は、この度の改暦が官員の俸給を削減するためのものではないかと指摘したりする。だが、時の文部卿は、太陽暦が採用されればおぬしはお役御免になるのを心配しているとか、西洋暦も知っているので待命を解いて雇用せよとかいうのだろうと矮小なことしか言わない。

 成瀬勘十郎は、論を尽くし、涙を流しながら、「西洋の法に準ずるは世の趨勢ではござるが、日本政府はあくまで固有なる日本人のために、政を致さねばなり申さぬ。外交や交易、ましてや財政難を理由に突然の改暦をなさしめて国民を混乱に陥れるなど、いかにも小人の政にござる」(101-102ページ)と訴える。

 しかし、文部省は何も答えす、成瀬勘十郎は、帰りに古道具屋で家宝の刀を売り、借財を返済して老婆を老婆の家族のいる駿府へ送り、自分は甲府に行くという。一年が三百六十五日で、大の月が一、三、五、十、十二で、晦日が月ごとに変わっていく。馴染みがなく、混乱する。その時、掛け取りに来ていた両替商の手代に「西向く侍」というのはどうだろうと成瀬勘十郎はいうのである。二、四、六、九、士(武士の士で十一)で、晦日が三十日、それ以外は三十一日というわけである。

 手代は、これはいい。これで人々が混乱から救われる、月の晦日を間違えることはないし、西方から来て天下をわがものとした薩長への恨みも忘れることはないだろうと、これを広めることにした、というのである。

 わたしも幼い頃にこの言葉を母から習った記憶がある。それで、正しく暦を数えることを覚えた。もちろん、その時は、薩長への恨みなど知る術もなかったが、人々の暮らしのために命がけで奔走した人間も、確かに、明治になってもいただろうと思ったりする。

 第四話「遠い砲音」も、「時」に関する話で、一日の時間の数え方までがすっかり変わってしまい、それが変わるということは人の暮らし方が変わるということだから、人々の戸惑いも大きかったに違いない。それまではだいたい2時間おきに刻まれるおおよその時刻で人々は暮らしていたが、時間単位、分単位で行動が決められることになる。

 物語は、長門清浦藩の藩主に仕えながら、新政府の近衛砲兵隊の将校として出仕している土江彦蔵を中心として描かれる。四十を過ぎて近衛砲兵として推挙された幸運はあったにせよ、分単位で行動が決められることになかなか馴染めない土江彦蔵は、新しい時間の感覚に馴染めずに、砲兵調練などにはいつも遅刻してしまう。合同調練にも遅刻し、秒単位で時計を合わせるのにもまごつき、ついには訓練中の小隊の上に砲弾を炸裂するという事故まで起こしてしまう。責任を問われるが、その時、指導に当たっていたフランスの大尉が彼をかばう。そして、土江彦蔵が、旧藩主の世話を親身になってしていることをほめて、「軍人の本分は忠節にあり、その忠節を主君に対して常日頃からしておる貴官こそ、あっぱれなる近衛将校だ」と語るのである。

 フランスの大尉は、土江彦蔵が仕えている旧藩主に外国語を教えており、どこか浮世離れしたところのある旧藩主が、「ことあるときには、土江を宜しう頼む」と頼んでいたのである。そして、昼の時報を打つ空砲を撃つことを任じられる。相変わらず、ミニウト(分)とセカンド(秒)に追い回される。

 その日々の中で、彼をかばったフランスの大尉が帰国することになり、土江彦蔵が仕える旧藩主も同行することになった。旧藩主は、土江彦蔵の息子も連れて行きたいと申し出る。土江彦蔵の忠義に報いたいのだ、と涙ながらに語るのである。仕え、そしてそれに可能な限り報いていく、そうした深い絆がここにはあり、彼らが出立するときに見事に号砲を打っていくのである。彼は、人間が時に支配されるのではなく、時に支配されていく人間でありたいと考えていたのである。新しい時刻表示という生活の根本を変えていくようなことのなかで、昔ながらの矜持をもって生きている人間の爽やかな姿がここに描かれているのである。

 第五話「柘榴坂の仇討」は、桜田門外の変(万延元年3月3日-1860年3月24日)のそこの後の物語である。雪が降りしきる中で殺された井伊直弼の駕籠廻りの近習を勤めていた志村金吾は、生き残り、その事件を胸に秘めて、せめて主君の仇を討ちたいと貧乏長屋に潜むようにして暮らしていた。彼の妻は場末の酌婦をしながら生活を支えていた。

 そして、明治6年、あの事件から13年の月日が流れ、志村金吾は警視庁を退職した人物からようやく事件を起こした刺客たちのその後の姿を聴くことができた。水戸藩浪人17名と薩摩藩浪人1名の計18名の刺客のうち、その場で斬られたのが2名、事が成ったと自決したものが4名、そして自訴して切腹したものが7名、残りの5名が行くへ不明となっていたのである。その5名も、世に顔を出すこともできずにひたすら雌伏していたという。

 その年、仇討ち禁止令が出される。その禁止令を愕然とした思いで聞いていたひとりの車引きがいて、新橋の駅前で偶然にも志村金吾を乗せるのである。やがて、志村金吾は、その車引きが、実は、桜田門外の変の時に井伊直弼の駕籠に向かって偽の直訴状を差し出してきた侍であり、車引きも、その時に柄袋を刀に被させられていたために脇差しを抜いて対峙してきた侍が志村金吾であることを知っていく。お互いに死ぬ覚悟をもって対峙する。車引きは自ら咽をかき切って自死しようとするが、その時に、志村金吾が、「あのとき、掃部頭(かもんのかみ)様は仰せになった。かりそめにも命をかけたる者の訴えを、おろそかには扱うな。・・・掃部頭様はの、よしんばその訴えが命を奪う刀であっても、甘んじて受けるべきと思われたのじゃ。おぬしら水戸者は命をかけた。だからわしは、主の仇といえども、おぬしを斬るわけには参らぬ」(181ページ)と言うのである。

 二人の時は、あのときに止まっていたままで、13年の月日を過ごしてきていたのである。そして二人は泣く。

 やがて金吾は苦労をかけた妻が酌婦を務める酒場に行き、仇討ち禁止令が出たことを告げると喜び、金吾は、この先は車引きでもすると告げる。金吾の廻りの時が流れはじめ、腕がちぎれ足が折れても、この妻に報いていこうと決心していくのである。

 この作品は、短編ながらも奥行きの深い作品だと思う。長い苦節を経てたどり着いた地平で、ひとりの矜持をもって生きてきた男が、妻のために新しい一歩を踏み出す瞬間、その瞬間が切り取られて車引きをする彼の姿が彷彿とさせられる。

 表題作ともなっている第六話「五郎治殿後始末」は、明治元年に生まれた曾祖父の思い出を孫が聞き取るという構図で、曾祖父の祖父に当たる岩井五郎治は、桑名藩士で、息子を越後での薩長との戦いで失いながらも桑名に残り、事後処理の勤めを果たしていた。旧藩士の整理で、整理される者たちからは「長州の狗」と軽蔑され、恨まれながらその役を果たしていた。付け髷をつけて見栄えはしないが、温厚で利発な人でもあった。そして、役を退き、政府から与えられる金子も辞退し、家財の一切を売り払い、その金を菩提寺に寄進し、寄る辺ない旧藩士に分け、使用人が生活できるように渡して、同居していた語り手である孫を尾張の母親の実家に帰すように取りはからうのである。

 桑名と尾張は、維新の際に尾張が薩長についたために仇敵となったが、五郎治はその仇の尾張の母親の実家に頭を下げるのである。その旅の途上、自分を実家に届けた後で、武士としての矜持を守るために五郎治が自決する覚悟であることを知り、二人で死に場所を探し始める。そして、まさに死なんとするときに、駆けつけていた旅籠の主人によって自決を止められてしまう。旅籠の主人は、参勤交代のおりにお世話になった五郎治をよく知り、度々桑名の家にも訪ねて来ており、旅の途上で見かけて心配になってついてきていたのである。そして、旅籠の主人が命がけで五郎治を説得して、五郎治はその主人の心に感じ、自決をやめるのである。

 やがて、五郎治は、その旅籠で仕事をするようになったが、曾祖父をその旅籠に預けてひとり何処かへと行ってしまう。それからしばらくして、西南戦争の年、ひとりの将校が現れて、五郎治の最後を告げる。旧桑名藩主松平定敬(さだあき)も、朝旨に従って西南戦争に出て、五郎治は鳥羽伏見以来の仇を討って、桑名の武士として旧藩主の眼前で死を迎えたという。そして、遺品として、かつて人々から笑われた「付け髷」を渡すのである。

 五郎治は、藩の始末をし、家の始末をし、そして、ついに自分の始末も果たした。「決して逃げず、後戻りもせず、あたう限りの最善の方法ですべての始末をする」(228ページ)。男の始末とはそうあらねばならないと作者は語る。「おのれをかたらざることを道徳とし、慎み深く生きる」(231ページ)。それが五郎治の始末だったと語るのである。

 人は、いかようにも毅然としていきることができる。「自分ヲカンジョウニ入レズ」あらゆる事を受け止め、世相の中で曲げず、そして騒がず、心に情けをもち、ただひたすらに自分の矩を超えずに与えられている人生を黙々と歩む、そういう姿がこの短編集では江戸から明治へと価値観の何もかもが目まぐるしく変わっていった激動する時代の中で描かれているのである。浅田次郎の時代小説の中には、そういう人間の姿が描き出されていると、いくつかの作品を読んで思う。

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