2011年11月23日水曜日

高橋義夫『メリケンざむらい』

今日はよく晴れていて、澄みきった碧空が広がっている。日毎に寒さが強く感じられるようになってきてはいるが、今日のような素敵な天気の休日にはぶらぶらと近所を歩くのも悪くはない。花屋の店先では、シクラメンやポインセチアが色鮮やかに並べられ、苦労の多かったこの一年にも慰めを与えてくれている。

 前回、現在の五千円札にも肖像が描かれている明治初期の極めて優れた作家である樋口一葉を描いた出久根達郎『萩のしずく』を読んだが、続いて、歴史上の人物である米田桂次郎(こめだ けいじろう)を描いた高橋義夫『メリケンざむらい』(1990年 講談社 1994年 講談社文庫)を、かなり面白く読んだ。面白いというよりも、むしろ、この人の人生の悲哀のようなものを感じながら読み、作品はその悲哀がどことなく漂うような見事な仕上がりとなっている。

 米田桂次郎(1843-1917年)という人は、幕末から明治にかけて、一種の「西洋かぶれ」のようにして生きた人であるが、一言で言えば、トミーと呼ばれ人気を博し、幕末期の幕府の中で抜群の語学力で通詞(通訳)として活躍したが、深い挫折を経験した人であった。その概略を記すと以下のようになり、本書も彼の人生を追うようにして記されていて、それが本書の内容ともなっているので、少し詳細に記しておこう。もちろん、作家としての優れた視点と描き方が本書には十分ある。

 米田桂次郎は、天保14年(1843年)に江戸小石川の旗本小花和庄助(度正-のりまさ)の次男として生まれたが、病弱のために出生届けが幕府に出されておらず、彼が3歳の頃、病弱を理由に松戸の豪農であった横尾金蔵方に里子に出され、横尾為八と呼ばれた。そして、母方の実家である米田家に継嗣がいなかったことから、米田家へ引き取られ米田猪一郎の養子となった。10歳のころではなかったかと思われるし、喘息の持病があった。やがて、11歳の時に、米田家の叔父で幕府のオランダ語通詞の立石得十郎のもとで語学を学び、下田で森山栄之助から英語を学んだ。その頃から江戸幕府はオランダ以上に英語の必要性を認識し始めており、桂次郎は、叔父の立石得十郎を通じて、安政4年(1857年)にアメリカ総領事ハリスや通訳のヒュースケンから英語を学んだといわれている。桂次郎の人生にとって、叔父の立石得十郎の存在は極めて大きいものとなるのである。

 安政2年(1855年)には江戸では安政の大地震が起こっているが、下田にいた米田桂次郎はその混乱を免れ、1858年にハリスが下田から江戸へ移住したのを機に長崎へさらなる英語の習得に行っている。長崎には姉の寿賀とその夫がいて、彼の面倒を見た。長崎の英語伝習所に入学したが、彼の英語のレベルは相当に高く、生徒というよりは助教のような働きまでしていたといわれる。

 1859年に江戸幕府は、長崎に加えて横浜と函館の三港を開港し貿易を許可せざるを得なかったが、それにともない英語の通詞(通訳)が必要となり、長崎の英語伝習所で卓越した英語力を持った桂次郎を呼び戻し、横浜運上所(税関)の通詞見習いとして採用した。若干16歳で、見習い通詞ではあったが幕府の役をもらうというのは格段の出世であったといえるだろう。そして、翌年の安政7年(1860年)、江戸幕府は日米修好通商条約の批准書交換の為に遣米使節派遣を検討し、桂次郎は叔父の立石得十郎の養子となって立石斧次郎と改名し、使節団の随行を許されるのである。この遣米使節団に勝海舟や福沢諭吉らが咸臨丸で同行したのである。

 養父の立石得十郎は、斧次郎(桂次郎)のことを幼名の為八から「タメ、タメ」と呼んでいたことから、彼はアメリカ人に「トミー」と呼ばれ、親しまれて可愛がられ、米国では熱烈な歓迎を受けた。16歳の少年であり、下ぶくれのぽっちゃりした顔立ちをしていた釜次郎は、持ち前の豊かな好奇心と物怖じしない明るい性格も幸いし、巧みな英語を語ることから、「トミー、トミー」と親しまれて、アメリカの婦人たちからもてはやされた。「トミーポルカ」という彼を讃える歌まで作られている。おそらく、それが彼の人生の絶頂期だったと言えるだろう。米国での桂次郎の歓迎ぶりは、彼を有頂天にさせ、以後彼はその熱烈に歓迎された経験をずっと抱いて生きることになるのである。

 帰国後、彼は暗殺されたヒュースケンに代わり、ハリスの通訳として勤め、18歳から20歳まで幕府の開成所の教授職並出役になり、田辺太一(フランス語通訳)や益田孝(後の三井物産社長)、福沢諭吉らと親交をもちながら、下谷七軒町の自宅で英語塾を開き、英語以外は話すことを禁止した教育を行ったている。彼の「西洋かぶれ」ぶりは相当なもので、時にはひんしゅくを買ったりしているが、他人を見下したようなところがあり、決して好意的には見られなかったといわれる。彼の少年のころの絶頂期の経験が次第に禍しはじめたのだろうと思う。また、19歳の時に妻の「照」との間に長男をもうけるが、家庭を顧みるようなことはほとんどなかった。そして、20歳の時に実兄の小花和重太郎によって幕府に「弟丈夫届け」が出され、名を米田桂次郎と改めた。

 慶応元年(1865年)には、長州征伐に向かう将軍徳川家茂に随行し、大阪城では通詞として活躍するが、慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いの時に、実兄の小花和重太郎と共に将軍徳川慶喜に随行して海陽丸で大阪を脱出して江戸へ帰っている。その後、兄の重太郎と共に大鳥圭介率いる旧幕府軍に合流して薩長軍と戦い、宇都宮で兄の重太郎が死亡し、次いで大桑の戦いで太ももに貫通銃創を負うが、大鳥圭介と共に仙台へ脱出して、堪能であった英語を駆使して旧幕府軍の武器の調達のために上海に渡る。だが、時代と状況は一気に動き、桂次郎は、武器の調達を断念し、明治2年頃(1869年)に帰国した。しかし、新政府から旧幕府軍の隊長として賞金首の人相書きが廻っていたために、父の小花和度正は小花和家の先祖で上州長野原箕輪城主であった長野姓を名乗らせ「長野桂次郎」と改名し、慶応義塾の福沢諭吉の推薦で金沢の英学校に英語教員の職を得る。だがそれを一年で切り上げ、翌年、政府の筆頭書記官の田辺太一の強い推薦で岩倉具視、大久保利通、木戸孝允等岩倉使節団に二等書記官の肩書きで通訳として随行することになり、明治政府から帰京命令を受けた。

 米田桂次郎はアメリカへの夢が捨てきれず、12年前の少年時代のような熱烈歓迎を期待していたが、現状は変わっており、大した活躍も出来ないままに二等書記官の職を解任され、工部七等出仕に格下げされた。格下げの理由として、アメリカへ向かう船内で無礼な振る舞いをしたと言いがかりをつけられ船中裁判にかけられた為だとも言われている。本書では、同行した女性たちにダンスを教えようとしたことが、今でいうセクシャルハラスメントに当たるものだということで船中裁判にかけられたことになっている。帰国後も政府の官吏として働くが、明治10年(1877年)に工部省鉱山寮が廃止になって失業する。ある意味で、栄華を極めてきたが34歳で路頭に迷うことになるのである。

 失業した桂次郎は、かつての旧幕府軍が夢と描いた北海道開拓を志し、家族を連れて北海道石狩へ移住し、缶詰事業を興すが失敗し、家族で開拓に従事するが厳しく、やがてすべての収入の道が閉ざされて帰京し、明治20年(1887年-44歳)の時にハワイ移民監督官となってハワイ王国に移住した。しかし、そこでも生活が困窮して、わずか一年で帰国し、二度目の妻の「おわか」の実家からの援助で酒屋を営み生計を立てていた。明治24年(1891年-47歳)の時に、ようやく大阪控訴院に招かれ、桂次郎は、単身赴任をし、官舎に雪という女性と暮らしている。その間に妻の「おわか」が死去するが、明治42年(1909年-66歳)まで勤めている。、そして、退官した後に西伊豆の戸田村に買ってあった家で余生を送り、世話をしていた雪を呼び寄せて再婚し、静かな余生のうちに大正6年(1917年)に77歳で死去した。

 米田桂次郎の晩年は、西伊豆の戸田村で、妻の雪と愛犬(ラブラドール)とで暮らす静かなものだったようであるが、激動する時代の中で翻弄され続けた人生だったと言えるかも知れない。彼はこの晩年に洗礼を受けてクリスチャンになっている。

 「時流」という言葉がある。それに乗るときもあれば、押し流されるときもある。利発で明るく、才気あふれる少年だった米田桂次郎は、まさに時流に乗って活躍し、やがて、時流に押し流されて人生を送り続けた人だったと言える気がする。政治や社会の状況に翻弄されたとも言える。

 本書の中心は、彼が「トミー」と呼ばれた絶頂期と戊辰戦争に巻き込まれていく姿であり、ちょっとしたことで死を免れるが、「死に損なった者」の没落をたどり、やがてすべてが終わったようにして静かに人生を終えていく姿である。多かれ少なかれ、明治初期の知識人たちは「西洋かぶれ」であり、第二次世界大戦後もそれが繰り返されたが、米田桂次郎は、そういう「知識人」の先駆けだったとも言えるであろう。知識人は、その知識の故にともすれば状況に振り回されやすい。米田桂次郎という人の人生を考えるとき、そんな思いがふつふつと湧いてしまう。

 歴史小説というのは、作者が取り扱う人物をどのような視点で見ているかで内容が異なってくるが、作者が米田桂次郎に注いでいる視線は、温かい。そんなことを感じながら、この作品を読み終わった。

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