台風が太平洋沿岸部に沿って北上してきているので、雨が降ったり止んだりする日になった。高温で湿度が高いために、むあーとした空気に包まれている。
昨日は半日ほどかけて掃除や洗濯などの家事をこなした後、南原幹雄『箱崎別れ船』(1983年 青樹社 1990年 徳間文庫)を読んだ。読んでいてなんとなく一時代前の男女関係の姿を描いた時代小説を読んでいるような気もしないではなかったが、本書は、川の流れに浮かぶ船になぞらえて十一人の江戸の庶民の生活の中で息づいていた女性たちの点描を十一の短編でまとめた短編集である。
ここで描かれているのは、作者の初版本のあとがきの言葉を借りて言えば、「いずれも高い身分や格式をもつ者ではなく、茶屋の女、仲居、女中、妾、酌取女、遊女・・・たちである」
それぞれに男が絡んで、その男との関係の中で人生が決まっていくような人生を歩んでいくのだが、結末も様々で、好きな男とうまくいく場合もあれば、いっそうひどい状態に陥る場合もあるし、性に溺れ、破局したり、罪を犯したりする場合もある。ただ、いずれの場合も、その時々であるとはいえ、また、生活の問題が色濃く関係しているとはいえ、たとえ性的に奔放であったとしても、どろどろとした関係に陥ったとしても、その時々の男に対しての思いは純粋なものがあるものとして描かれている。作者には、相手が好きであったり惚れたりしている時に性的な幸福感も増すという考えがあるように見受けられる。
だが、そういうことは男の幻想かもしれないという気がしないでもない。そうでも思わないとやってられないというところがあるような気がしないでもないのである。人間は、他の動植物と同じような生物であり、すべてはホルモンの働きであったりもするが、それと同時に精神性ももつから、そこに意味を見出さないと人間性を失ってしまうので、男と女という基本的には生物学的関係にも何らかの意味を見出したいと願う。そしてそれゆえに、男女それぞれがそこで幻想を抱くし、その幻想で悩みもする。
とは言え、誰かを好きになるというのは純粋で崇高な精神の働きであることは間違いない。そして、特に男女の場合は、その思いは具体的に生殖行動へと繋がるから、その意味では、生殖行動は純粋な精神の働きと言えないわけではない。そのあたりが人間の不可思議さでもある。
そういうことはこの作品とは無関係なことなのだが、これだけ男女間における女性の姿が点描されると、わたしのような人間にはなんとなく人間に対する不信感が起こるのを禁じ得ない。「騙し騙されるのが男と女」というところには留まりたくないと思っているので、駆け引きの中で生きている人間の姿に、どこかいやらしさを感じるのだろう。
作品そのものに対する評価は別にして、作者が言うほどこの作品で描かれる女性の姿に、「人間らしい、女らしい人生」を感じることはできなかった。もちろん、それはわたしの経験不足なのかもしれないが。今のわたしは、男女の話よりも、もっと違う話を読みたいと思っている。
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