曇り空の蒸し暑い日になって、なんとなくすっきりしない感覚がつきまとっている。雨になるかもしれない。
この2~3日、山本周五郎『山本周五郎中短編秀作選集1 待つ』(2005年 小学館)を読んでいた。少し前にこの選集の2『惑う』を読んでいたし、まっすぐで素直で、正直な思いを貫こうとする人間の姿を描いた作品に触れ直したいという思いがあって、この中に収められているいくつかの作品は再読なのだが、新しい気持ちで読み直したのである。
ここには、「待つ」という主題のもとで、1940年に書かれた「内蔵允留守」から「柘榴」、「山茶花帖」、「柳橋物語」、「つばくろ(燕)」、「追いついた夢」、「ぼろと釵」、「女は同じ物語」、「裏の木戸はあいている」、「こんち午の日」、「ひとでなし」の十一作品が収められており、このうち「柳橋物語」は中編というよりも長編の趣のある作品である。
「内蔵允留守(くらのすけるす)」は、剣豪として名をはせていた別所内蔵允のもとで剣の修行を積みたいと思って訪ねて来た岡田虎之介は、内蔵允が不在のために近くの農夫の家に身を寄せて待つ間に、毅然として生きている農夫の生き方に触れ、その人柄に惹かれていき、人として生きる姿勢というものを学んでいくという話である。
最後に、その農夫こそが剣の達人である別所内蔵允であることに気づいていくという結末があって、後に山本周五郎が到達した地平からすれば、「青さ」が漂う作品ではあるが、世の中に惑わされずに毅然と生きるという姿が描き出されて、これが戦争の気配がする中で書かれたことを考え合わせれば、作者の姿勢のようなものを感じる作品だった。
「柘榴」は、ひとりの女性がその生涯で真実の愛情の姿を見出していく物語で、厳格な躾のもとで育った真沙は、藩の平徒士である松村昌蔵に嫁ぐが、夫との仲がしっくりいかず、夫が示してくれる愛情表現も嫌悪するほどだった。だが、夫の愛情は一途で、ついに妻を喜ばせるために藩の公金に手を出し、発覚して出奔し、家は断絶となり、彼女は、親類縁者の配慮で国元から江戸屋敷に移される。
そこで奥勤めに出て、藩主の生母などに仕えるうちに、中老となり、年寄り(奥勤めの最高位)となって平穏な生活を続ける。その間にいろいろな夫婦の姿に目がいくようになり、夫婦の愛情の表現にはそれぞれのものがあることを感じていくようになる。
やがて、老いて帰郷し、田舎での隠居生活を始め、そこにひとりの男が下男として雇われることになる。下男は黙々と働き、真沙とも口をきくようになるが、切り倒した樫の木の下敷きになって死を迎える。下男は最後に「いい余生を送らせてもらいました」と言う。その下男は出奔した夫の昌蔵かもしれなかった。人の心の奥深くに秘められたものを理解するようになった真沙は、その下男が夫であったかどうかはわからないが、最後の言葉に胸を打たれていくのである。
「山茶花帖」は、極貧の中で育ち、芸妓として生きる苦労を重ねていた女性が、山茶花の咲く寺で知り合った結城新一郎という侍と恋に落ち、彼の藩内での権力争いも絡んで、身分違いもあり、周囲から身を引くように言われ、彼のために身を引く決心をする。だが、新一郎は信じて待っていてくれ、と語る。そして、そのまま月日は流れるが、その言葉の通りに、新一郎がやがて彼女を妻にするために迎えに来るという話である。
もちろん、こういう物語の展開は甘いし、極貧で育ち、芸妓という境遇にある女性には「白馬の騎士」が登場する夢物語ではあるが、人を愛する思いの一途さと誠実さを率直に展開した作品であるともいえるだろう。男女の絆というものは、互いの信頼と愛によってどのようにでも深くなるし、どのようにも強く確かなものともなりうるのだから、そうした姿を率直に、単純に描くのは、作品を読むものとしては嬉しいことでもある。
「柳橋物語」は、先にも記したように中編というよりは長編の部類に入るだろう作品で、不運に見舞われた女性が、自分を真実に愛してくれるのが誰かを見出していく物語である。
「おせん」は幼馴染みとして育った二人の男のうち、江戸を離れるという庄吉から、一人前になって稼いでくるから待っていてくれ、と思いを告げられる。庄吉は、同じように大工の見習いから入った幸太が棟梁に気に入られて養子になるので、もうその棟梁の下で働けないから上方に行くというのである。「おせん」はその言葉を聞き、自分を思ってくれる庄吉の思いに答えて、待つ、と言ってしまう。そして、その言葉の通りに庄吉を待ち続ける。幸太も「おせん」に一途に思いを寄せてくるが、「おせん」は受けつけようとはしない。
そして、大火に見舞われる。幸太は自分が「おせん」から嫌われていることを知っているが、大火の中を「おせん」を助けに駆けつけ、自らの命を落としてしまう。「おせん」は幸太のおかげで生きのびることができたが、記憶をなくし、精神を病んでしまう。だが、大火の中で拾った赤ん坊と共々、気のいい夫婦に助けられて、徐々に記憶を取り戻していく。
だが、再び、彼女と赤ん坊を助けてくれた夫婦を大水で失ってしまう。夫婦の叔父の世話で、夫婦の家にそのまま残ることができるようになり、赤ん坊を育てていく。そして、庄吉が帰ってくるが、庄吉は「おせん」が幸太といい仲になり、赤ん坊はその幸太との間にできた子どもだという噂を信じて、「おせん」を捨てる。「おせん」は自分のことを信じて欲しいと願うが、庄吉は、だったら子どもを捨てろと言う。だが、「おせん」は子どもを捨てることができない。庄吉は「おせん」のことが信じられないのである。そして、彼が大工として入った棟梁の娘と結婚する。庄吉を信じて待ち続けた「おせん」は愕然とするが、自分を本当に愛してくれたのは誰かに気づいていくのである。
この物語を読みながら、人は、自分を真実に愛してくれる者が誰かがわからずに、一時の言葉や行動に騙されて、同じような間違いをしていくことが多いなぁ、と実感したりもする。この物語には、いくつかの人生があって、そのちょっとした間違いで人生が狂っていく姿が描かれると同時に、そこから立ち直っていく姿も描かれ、主人公がやがて子どもをしっかり育てながら八百屋を営んでいくようになるという作者の優しい希望が最後にあったりして、時代小説のひとつの見本のような作品になっている気がした。1949年の作品だから、戦後の焼け野原を生きぬかなければならなかった状況も反映されているだろうと思う。
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