曇ってはいるが春の気温で暖かい。昨日、ハナミズキが綺麗な花をつかせているのを見て、なんとなく心が和んでいた。今週から、週に一度の割合で吉祥寺まで通うことになり、渋谷から井の頭線に乗り換えて、井の頭線の沿線風景を眺めながら、昨日は南原幹雄『御三家の反逆 上下』(1991年 新人物往来社)を読んでいた。
これは、徳川家の御三家と言われる、尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家が幕府政策の転換によって危機的状況を迎え、その存続のために苦慮していく姿を、主に初代尾張藩主となった徳川義直(1601-1650年)とその附家老であった成瀬正虎(1594-1663年)の側から描いたもので、歴史小説としてなかなか面白いものあった。
戦国武将と言われる人たちの多くは、肉親の情愛というのを現代の尺度とは違った感覚でもっており、下克上はなにも他者との関係だけでなく、親子の関係でもよく起こり、子が親を蹴落とすということが頻繁に起こっている。徳川家康も、彼が江戸幕府を築いて安定させるまでの間に生まれた子どもたちを、どこか嫌っていたようなところがあり、親子関係にもいびつさをもった人だった。
しかし、晩年に生まれた子どもたちは、孫のような感覚があったのかもしれないが、可愛がって、特に、九男の義直、十男の頼宣、十一男の頼房は寵愛した。そして、各地の有力諸大名を抑えるためと後継者の維持のために、それぞれの要所であった尾張(名古屋)と紀州(和歌山)、水戸に親藩を置き、これを身内で固め、御三家とした。義直が初代尾張藩主になったのが7歳で、義直は3歳で甲府藩主であったが、6歳で元服して尾張清洲藩主となり、ついで尾張一帯の藩主として名古屋に城を構えたのである。頼宣が紀州藩主となったのは17歳の時であるが、彼は2歳で水戸藩主である。頼房が水戸藩主となったのは6歳である。そして、徳川宗家に後継者がない場合は、これらの三家、特に尾張と紀州から後継者を出すようにして徳川一党の支配の継続を図ったものである。
家康は、また、それぞれの藩主が幼年のために、信頼できる自分の側近を附家老として派遣し、藩政をとらせた。成瀬家は義直に家康がつけた附家老で、尾張藩には成瀬正成と竹腰正信が附家老としてつけられ、慶長12年(1607年)には平岩親吉が附家老になったが、平岩家は後継者がなくて、慶長16年(1612年)に排除されている。成瀬家は尾張藩附家老であると同時に尾張犬山藩の藩主でもあった。本書の主人公のひとりである成瀬正虎は、その2代目で、正成の子である。
徳川御三家は、将軍を補佐するという名目ではあったが、権力者というものは、どうしても自分の一手に権力を掌握し、その地位を脅かすものは排除する傾向をもつのだから、2代将軍秀忠や3代将軍家光のころになると、その立場が微妙に変化していく。2代将軍秀忠は、おそらく自分よりも優れていると目されていた自分の兄の秀康、弟の忠輝を排除したし、家光は、明らかに自分よりも優れていると考えられ、両親からも寵愛された弟の忠長を排除し、御三家を排斥しようとした。時代も武から文へと変わりつつあり、武を誇る者たちの排斥が続いたのである。
こういう中で、自分の権力を確立し、御三家を排斥しようとした家光と、家康の子であり将軍位候補でもある御三家の間に、当然、確執が生まれ、陰に陽に闘いが展開されるし、それに幕閣やその意を受けた柳生宗矩を中心とする隠密働きとか陰働きと言われるような者たちの画策が行われた。
特に、家光の将軍家と義直の尾張は関係がぎくしゃくし、一触即発の状態が続いたのである。義直は家康の子であるという自尊心も強かったし、大坂の陣にも参戦し、文武ともに優れた人物だったという評もあるくらいであり、家光は、幼少の頃は病弱で、吃音で容姿も美麗とは決して言えず、父の秀忠と母のお江が弟の忠長を寵愛したために嫉妬心も強くて、人一倍権力志向の強い人で、権力掌握のための幕府機構を次々と制定していった人であった。
尾張徳川家と幕府将軍家の確執として残されている記録は、寛永11年(1634年)に家光が病床に伏した際に義直が幕府に無断で大軍を率いて江戸に向かった事件で、家光が万一にも死去すれば、後継者がないために、義直としては御三家の筆頭として徳川家を慮ったとも言われるし、あるいは、将軍位の第一候補として江戸入りを目指したとも言われる。そのときの義直の意図の真偽は定かではないが、いずれにせよ幕府閣僚の土井利勝や松平信綱は尾張藩が大軍を率いて江戸入りされれば、自分たちが敷いてきた幕政体制が壊れるのは必定だから、これを小田原で足止めさせて、義直に江戸入りをさせなかった。
もう一つは、同じ年に行われた家光の大上洛の際に、家光はこの上洛で朝廷との関係がよくなったことを示すと同時に、幕府の権力の強大さを誇示したと言われるが、その帰路に当然寄るべきとされていた名古屋城を素通りしていった事件である。尾張藩としては彼のために造営した御成御殿がまったく無駄になり、その面目を全く無視された格好になり、尾張徳川家と将軍との間の亀裂がますます深まったと言われる。
これらを背景にして、本書は、江戸幕府の権威確立を急いだ家光を中心にする幕閣の意を受けて暗躍する柳生宗矩が放つ隠密と、尾張藩の護衛を行う御深井衆(おふけしゅう)との間の暗闘などを盛り込みながら、2代将軍秀忠の死も、大御所政治を嫌って、権力を掌握するために家光の幕閣による毒殺ではないかという説を展開したりする。圧巻は、寛永13年(1636年)に家光が日光東照宮を造営して参詣した際に御三家が反逆して兵をあげ、一時は江戸城も占拠されたが、調停側の働きで和解し、その事件そのものが歴史から抹消されたという結末が記され、将軍家と御三家の軋轢が爆発したとされていることであろう。
もちろん、そうした反逆事件が実際に起こったかどうかの歴史的確証はどこにもないが、将軍家と御三家の齟齬はこのあともずっと江戸幕府が倒れるまで続いている。御三家どうしも紀州の徳川吉宗が8代将軍になったときに、尾張と紀州の間に熾烈な争いが起こっている。
なお、本書では成瀬正虎は高潔の人物で、強く将軍家光と幕閣に憤りを覚えていたとされているが、附家老という立場は微妙で、実際にはどちらにもとれる解釈が可能であろう。
いずれにせよ、権力争いというのはどこにでもあるが、人は権力や力をもとうとすると、つまらぬことで争わなければならないと、本書を読みながら思っていた。力をもつことは、人の幸せとは無関係である。「力への意志」は、まことに愚かな結末を迎える。
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