今年の春は、行きつ戻りつで、気温の変化が激しく、昨日もひどく寒い日で、体調管理の難しい季節になっているが、ようやく春本番の4月になった。今月から時間が少し慌ただしく過ぎていくような気がしないでもない。
昨夜は、和田竜『忍びの国』(2008年 新潮社)を面白く読んでいた。1590年(天正18年)に現在の埼玉県行田市にある忍(おす)城の攻防を描いた『のぼうの城』(2007年 小学館)に続く作者の2作品目の作品である。
『忍びの国』は、その表題のとおり、伊賀忍者で知られる伊賀の「丸山合戦」(1578年天正6年)と言われる戦いの攻防を描いたもので、物語は、伊賀に隣接していた伊勢の北畠具教(きたばたけ とものり 1528-1576年)の暗殺から始まる。
北畠家は歴代、伊勢の国司であったが、織田信長の伊勢侵攻で敗れ、八代目の具教が暗殺されたことで途絶える。北畠具教は、織田信長と、信長の次男で北畠具教の婿養子となっていた織田信雄(おだ のぶかつ)の命で、旧臣の長野左京亮や加留左京進によって暗殺されたと言われるが、本書では加留左京進は登場せずに、代わりに、武士の誇りを強烈に持つ人物としての日置大膳と、かつては伊賀忍者であったが、伊賀の忍者集団のあまりの非人間性のために伊賀を捨てて織田信雄についた柘植三郎左衛門を登場させる。
こうした登場人物像の設定は、本書の中心的な流れに関係しており、物語は、非人間性をもつ伊賀の忍びの代表としての一流の技を持つ「無門」(この人物の前では防御門は無きに等しいという意味でこの名が付けられている)という人物と、武士の矜持に生きる日置大膳、そして、その間で揺れる柘植三郎左衛門の姿を中心にして、「戦う集団」であった伊賀忍者の姿を描くことで、「人間とは何か」を問いかけようとするものとなっているのである。
日置大膳は、かつての主君を暗殺することに躊躇しつつも、暗殺団の一人に加わるが、そうした自分の所業を恥じて、武士であることを純粋に誇りとする武辺一辺倒の無骨な人間になることへと進んでいく。彼は日置流の弓の名手であるとともに、その武功は伊勢で並ぶ者がないと言われるほどの剛直な人物として描かれる。
他方、戦闘集団としての伊賀忍者は、ただ己の利だけで生きる刹那主義的な人間の集団として描き出され、百地三太夫らの伊賀忍者の頭たちは、若くて凡庸な織田信雄を伊賀との戦に引きづり込んで、これを撃つことで名を挙げ、諸国の諸大名たちに自分たちを高く売り込むことを画策していくのである。彼らは肉親の情もなく、それぞれに利用し合うだけで、息子が殺されても平然とし、人の心理の隙をついて物事を画策していくだけである。
こうした伊賀忍者のあり方に嫌気がさして、かつては伊賀忍者の頭領の一人でもあった柘植三郎左衛門は、伊賀忍者のようなものがあってはならないと考え、織田信長のもとに走り、織田信雄の家臣となって伊賀殲滅を考えていたのである。
また、愛する弟を殺されても平然としているばかりか、実は弟を殺させて織田信雄を戦に引き込もうと画策するような父親の姿に愕然とした下山平兵衛も伊賀の滅亡を望んで、信雄のもとに走るのである。しかしそれもまた伊賀の頭領たちの心理作戦の一つだったのである。
こういう中で、伊賀の中でも超一流と言われるほどの腕をもつ「無門」という人物が異彩を放っていく。彼は、百地三太夫によってどこからか連れてこられて、厳しい忍びとしての修行を重ね、驚くべき技を発揮するようになった。彼もまた「銭、銭」の人間であるが、自由人としての闊達さや人間らしさを温存させているところがあるのである。
彼には「お国」という妻がいる。京都の武家の家からさらってきたのであるが、「お国」は、勝気な女性で、平然と、苦労をかけないと言ったのだから、月に40貫の銭を稼いでくるまでは寝屋を共にしないと豪語し、「無門」は彼女に頭が上がらないのである。誰もが恐るほどの「無門」だが、「お国」の前ではただの腰抜け夫に成り下がるのである。
だが、「無門」は命懸けで「お国」を守る。「お国」を傷つけようとするものがあれば、的であれ味方であれ、彼は容赦なく敢然と戦うのである。彼にとって「お国」は、自分が人間であることの最後の砦であり、彼女を大切にすることが人間であることの証であるからである。
伊賀の頭領たちの画策で、織田信雄は次第に伊賀攻めへと駆り立てられていく。信長という偉大すぎる父を持つ信雄は、鬱屈した精神の持ち主で、その隙をつけ込まれるのである。
こうして、1578年(天正6年)の「丸山合戦」の火蓋が切られていく。戦闘は激烈で、日置大膳らの働きで伊賀は破れそうになるが、「無門」の活躍がめざましく、織田信雄は敗戦の憂き目を見ることになる。この戦で、人間らしさを求めた柘植三郎左衛門は死ぬ。
戦に勝った伊賀の頭領たちは、彼らの思惑通りにことが運びほくそえむ。しかし、この戦の中で「お国」を失った「無門」は、伊賀の非人間性を思い知り、伊賀にも織田信長にも与しない自由人として生きていく道を選んでいくのである。織田信雄は戦には敗れたが、そのことで人間として、武将として成長する。そして、伊賀は、結局は、1581年(天正9年)、織田信長の大軍によって滅ぼし尽くされるのである。
なお、この作品には、後に石川五右衛門となる人物も登場し、「利」を求める伊賀忍者の一人として描かれている。そして、伊賀の忍者集団が生来的にもつ非人間性が全国にはびこってきという図式が描かれていく。
利を求める人間と義理を重んじる人間、そして利からも義理からも自由で、自分の愛を大切にする人間。この作品にはそうした人間模様が、伊賀の国の攻防戦を通して描かれているのである。
天の下の何ものにも属さない。しかし、属さないで生きていくには力が必要。そうかもしれないが、力がなくても、何ものにも属さないで自由な人間として生きる道もある。そんなことを思いながら、この本を読み終えた。
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