2012年1月30日月曜日

葉室麟『蜩ノ記』(2)

晴れてはいるが気温が低くて寒さが厳しい。軟弱な精神の持ち主であるわたしは、この寒さの中でいまひとつ調子が出ないでいる。だが、変わらず日常を過ごしていこう。時間が細切れで、新しい物語の骨格すらまとめることができないが、それもまた、よし、かもしれない。

 さて、葉室麟『蜩ノ記』の続きであるが、戸田秋谷が幽閉されて暮らす向山村は、かつては戸田家の領地であり、郡奉行として村民の生活のために骨身を惜しまなかった秋谷を慕う村人が大勢いた。今は戸田家から取り上げられて家老の中根兵右衛門の領地となっているが、村人たちは秋谷を慕ってなにかと相談を持ちかけたり、つつましい暮らしをする戸田家を助けたりしていた。檀野庄三郎は、そういう村人たちと戸田家の人々の関わりも見ていくのである。

 戸田秋谷の日常は、ほとんど何も変わらない。家譜の編纂に当たっても、秋谷が単に藩のお家のためだけではなく、領民のために、かつての藩の悪政もありのままに記そうとしていることが次第にわかっていく。そういう中で、檀野庄三郎は、秋谷が親しく交わりをもっている瓦岳南麓の寺の住職である慶仙和尚を訪ねる(ちなみに瓦岳という山はないが筑豊の田川に香春岳という石灰質の山があり、作者が新聞で記した上野英信氏は田川に住まれていたので、そのイメージが採られているのではないかと思う)。

 その慶仙和尚から、七年前に起こった戸田秋谷の事件について教えられる。和尚は「秋谷殿が藩主の側室と一夜を過ごし、小姓を斬り捨てたのはまことのことじゃ」と言い、「だが、秋谷殿は罪を犯したのではない。自ら進んで罪を背負ったのだ」と語る。そして、それは「藩のためかもしれぬが、ひとりの女子のためであるかもしれぬ」と語って、秋谷が不義密通をして一夜を過ごしたと言われた相手が、「お由の方」であったことを教える。

 「お由の方」は、秋谷が生まれ育った柳井家に仕えた足軽の娘で、秋谷が戸田家に養子にはいるまでは同じ家で暮らしていたが、六代藩主三浦兼通にみそめられて側室となり、事件後は尼寺で暮らしているという。そして、七年前の事件が起こったのは、別の側室であった「お美代の方」が産んだ義之が嫡男となり、藩主兼通の正室が亡くなったときに、兼通が最も寵愛していた「お由の方」を正室にしたいと考えていた時のことだったという。「お由の方」が正室になれば、嫡男とされていた義之が廃嫡される可能性があった。そういう藩主の継嗣を巡る争いがあったときに、秋谷の事件が起こったのだと語るのである。秋谷が斬った小姓は、赤座弥五郎と言い、「お由の方」の養父となった赤座家の五男だという。戸田秋谷の事件には、そういう複雑な藩内の事情が絡み合っていたのである。

 それゆえ、現藩主の義之もその側近たちも、家老の中根兵右衛門も、事件の真相に蓋をしたまま戸田秋谷が黙って切腹してくれることを望んでおり、秋谷がその事件を家譜にどのように記すか気がかりなのである。檀野庄三郎は、秋谷が抱える孤独と藩の揉め事の愚かしさを感じていく(檀野庄三郎と慶仙和尚の対話を描いた54ページ辺りの描写は、まさに絶妙である)。

 他方、不義密通という汚名を着せられたことを秋谷の妻織江がどう思っているのかを知りたいと思っていた檀野庄三郎に、織江は、「わたくしは夫と離れようとは思いませんでした」と率直に語り、「(事件の真相については)わたくしは、何も知りません。(しかし)夫がどのようなひととなりであるかをわかっている」と語るのである(57ページ)。そこには、たとえ世間や藩でどのような話がでても、夫を心底信じている女性の姿がある。こういう深い信頼が秋谷と織江の夫婦にあり、それがつつましいが暖かい幽閉生活の基となっているのである。

 織江は、事件について、「お由の方」が江戸屋敷で毒を盛られ、その変事を聞きつけて「お由の方」を守るために上屋敷から下屋敷に移して警護を続けたと語りはじめる。ところが「お美代の方」派であった江戸家老の宇津木頼母が、秋谷と「お由の方」の間に不義密通があると言い始め、下屋敷に移った「お由の方」を襲撃する事件が起こったと語る。秋谷は「お由の方」を守って襲撃者と斬り合い、その時の襲撃者のひとりが小姓の赤座弥五郎であった。秋谷は、そのまま「お由の方」を守って逃げのび、市中に一晩を過ごして、上屋敷に連れ帰ったのである。だが、こうしたことを一言も語らなかったために、兼通から一晩の不義を疑われ、家譜編纂の仕事と十年後の切腹を命じられ、「お由の方」は国許に送り返されて剃髪し、尼僧となられた、と語る。

 そして、「なにがあったのかは、わたくしにもわかりません。ですが、夫は何があろうとひとに恥じるようなことは決してしないと信じております」(61ページ)ときっぱりと語るのである。秋谷が記していた「蜩ノ記」には、三年前に藩主兼通が亡くなった折に、「お由の方」にゆるしが出ていることが記されているが、秋谷自身のことについては何も記されず、また、そのことも公にはなっていなかった。檀野庄三郎は、秋谷の人としての姿や家族の姿に触れて、なんとかして真相をはっきりさせて、戸田秋谷の切腹を止めたいという思いを固めていく。

 そうして日々が過ぎていく中で、檀野庄三郎は、秋谷の息子郁太郎の友人の源吉と出会う。源吉は妹思いの優しい利発な子で、藁葺きの小さな百姓家に住む百姓の子で、郁太郎とは親友だった。この源吉の話がとてもいいのだが、それについてはおいおい記していくことにする。源吉は本書のもう一つの要となっている。

 一方、秋の収穫が不作だったために農民たちが年貢で困り、昔の出来事に倣って一揆への気運が高まりはじめていた。一揆を起こせば首謀者たちへの咎は明かで、秋谷は農民たちの暴挙を何とか押さえようとする。農民たちがもちだした昔の出来事とうのは「辛丑義民」の出来事だという。それは、五代藩主三浦義兼が藩の台所も顧みずに酒色にふけっていたために、これを隠居させて、英邁の誉れ高い兼通を藩主にしようとした重臣たちが義兼を別荘に閉じ込めた事件の際に、復権を目論んでいた中根大蔵にたきつけられた百姓三人が江戸の老中に訴えを起こし、それによって義兼が救われて、三人の百姓たちが大庄屋にまでなったという出来事だった。

 その出来事に倣って、農民たちが一揆を起こして年貢の軽減を江戸表に訴え出ようとしていたのである。戸田秋谷は、その中根大蔵から見込まれて郡奉行となり、また家老格用心となったのだが、秋谷は大蔵のやり方を良しとはしていなかったし、現家老の中根兵右衛門はその中根大蔵の息子であった。秋谷と家老の中根兵右衛門との間には少なからぬ因縁があったのである。

 農民たちは近隣の村々と談合して一揆の相談をはじめていた。農民の暴発を押さえようとする戸田秋谷を気に入らない過激な行動をする者も現れ、近在の猟師たちが使う鎖分銅で脅されたりもする。昔、非道な郡方の役人が鎖分銅で殺されるという事件があり、このあたりの百姓たちは鎖分銅を使うのである。

 それは、年貢の取り立て方法が毎年定められた年貢を納める定免法から収穫高にあわせて取り立てる検見法に変えられ、私腹を肥やすために都合の好い検見をしていた役人が何者かに殺された事件であった。この事件も、後の展開に重要な意味をもってくるのである。

 ともあれ、こうした綿密な構成と展開には恐れ入る。ひとつひとつがきちんと、しかも無理なく展開され、複雑な構成の中で、だがそれが、主人公とその家族、あるいは源吉や檀野庄三郎のまっすぐな生き方を示すものとして描かれているのだから、少々長くはなるが、出来るだけ展開に沿ってまとめておきたいと思っているので、何回かに分けて記すことになりそうである。続きは、また次回。

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