厳しい寒さが続き、今年はことのほか寒く感じられる。2012年1月23日朝日新聞に、『蜩ノ記』で直木賞を受賞したことで、葉室麟氏自身が、この物語の最初の場面である若い檀野庄三郎が山村に幽閉されて家譜編纂を続ける戸田秋谷を訪ねていくところに触れて、自身の学生時代に筑豊の炭坑の中で炭鉱労働者として働きながら鉱夫たちの姿を描き続けた上野英信氏を訪ねられたことを記しておられた。
その時、上野英信夫妻が「きょう、あなたが来られるというので、近くの土手で摘んできたんだよ」と言って、土筆鍋をごちそうされたという。「若いだけで、いまだ何者でもないわたしをもてなすために土筆を摘んでくださる姿が脳裏に浮かんだ」と葉室氏は記し、「その言葉を聞いて、涙が出そうになった」と心情を露吐されて、その土筆を摘んでくださった「上野さんの背を追って生きたかった。だから『土筆の物語』を書いたのだと思う」と結ばれている。
『蜩ノ記』(2011年 詳伝社)は、作者自身がその新聞紙上で『土筆の物語』と呼ばれた名作で、豊後の小藩(作者の創作の藩)で十年という年月を区切られて切腹を申しつけれらた中で、静かに、しかし覚悟をもって淡々と己の道を歩み続ける主人公とその家族、そして彼に接することになった若い青年の物語である。
戸田秋谷は、藩の勘定奉行であった柳井与市の四男として生まれ、文武ともに励んで優秀であったことから戸田家の養子となり、領民から慕われ尊敬される郡奉行を務めた後、江戸表の中老格用人となっていたが、江戸屋敷で側室と密通し小姓を斬り捨てたという咎で、本来なら改易されて切腹の処罰を受けるはずであったが、彼が手がけていた藩の家譜(歴史)編纂の仕事を続けるために、それが終わる十年後に切腹をするということで六代藩主が幽閉を命じたのである。以後、山深い山村で藩の家譜編纂をしながら幽閉生活を送っていた。
戸田秋谷に残された十年の内、七年が過ぎ去った時、藩の奥右筆(書記官)を勤めていた檀野庄三郎が、服に墨をつけたという些細なことで友人の水上信吾と争い、思わず刀を抜いて水上信吾の右足を斬ってしまう事件が起こってしまう。
水上信吾は藩の家老の中根兵右衛門の甥で、家老の怒りは当然ながら、城内で刀を抜いたことから、本来なら家禄が没収され、切腹のうえに、親類縁者にまで累がおよぶはずであった。しかし、奥右筆支配である上役の原一之進の調整で、事件はただの口論として処理され、檀野庄三郎は隠居させられて身柄を原一之進預かりということになり、右足を斬られた水上信吾は医師の治療を受けたが、歩行が不自由となり、致仕して江戸で学問の道を歩むことになる。
そして、家老の中根兵右衛門から、檀野庄三郎は、家老の所領の向山村に行き、そこに幽閉されている戸田秋谷を見張り、彼が編纂している家譜の内容を知らせ、三年後に迫った秋谷の死を見届け、もし秋谷が他国へ逃げるようなことがあれば家族もろとも殺すように命じられるのである。
だが、檀野庄三郎は、向山村で接した戸田秋谷とその家族の姿に心を打たれていく。定められた死を覚悟しつつ、茅葺き屋根の家で病身の妻織江をいたわりながら、十五六歳になる娘の薫と十歳になる郁太郎の家族で、つつましやかに質素に暮らし、命じられた家譜の編纂を淡々と行い続けている戸田秋谷の姿は、檀野庄三郎の心に衝撃を与えていくのである。戸田秋谷は、檀野庄三郎に命じられたことを鋭く明察し、彼が自分たちの刺客になることもあり得ることを承知しながらも、自分は逃げも隠れもしないと静かに語り、檀野庄三郎を温かく迎えるのである。
戸田秋谷に残された歳月はあと三年である。その暗雲が家族の上に重くのしかかっているにも関わらず、戸田家の人々は互いを思い遣り、つつましいながらも普段の暮らしを続けている。所作のひとつひとつ、言葉のひとつひとつにお互いを思い遣る気持ちがあふれている。その姿を見て、檀野庄三郎は、戸田秋谷が不義密通の事件を起こしたとはとうてい思えなくなっていく。
戸田秋谷は、これまで編纂してきた家譜と「蜩ノ記」と題する自分の日記を隠すことなく檀野庄三郎に見せ、檀野庄三郎はその清書をすることになる。家譜に記されている藩主三浦家の歴史の中で、藩内でだれひとり逆らおうとする者がいないほどの権勢をもつ家老の中根兵右衛門の先祖が犯した藩主の継嗣を巡る騒動のことも記されていた。檀野庄三郎は、家譜がまとまると家老は快く思わないのではないかというが、戸田秋谷は、「家譜が作られるとうことはそういうことでござる。都合好きことも悪しきことも遺され、子子孫孫に伝えられてこそ、指針となりうる」(40ページ)と語る。
家譜の編纂に当たっても、戸田秋谷は、冷静な歴史家としての姿を崩さない。事実をありのままに書くのである。それはまた、事実をありのままに受け入れて生きようとする彼の生き方の姿勢そのものでもある。こうした姿に檀野庄三郎はさらに感銘を受けていくのである。
「蜩ノ記」良かったですね。今ではすっかり葉室ワールドに染まっています。
返信削除コメント、ありがとうございます。
削除葉室麟は、今、もっとも意味のある作品を書く作家だと思いますね。新しい文学の形が彼から始まるような気もします。