2011年9月11日日曜日

山本兼一『千両花嫁 とびきり屋見立て帖』

 文字通りの、晴れたり曇ったりの蒸し暑い日になった。今年はすっきりした天気というものがなかなかない。

 思いがけずに時間ができたので、昨日読んだ山本兼一『千両花嫁 とびきり屋見立帖』(2008年 文藝春秋社)について記しておくことにする。

 作者は1956年京都市の出身で、本作の舞台も京都三条大橋の通りにある古道具屋である「とびきり屋」となっている。時は幕末で、高杉晋作や坂本龍馬、あるいは新撰組が物語にうまく盛り込まれて登場する。

 主人公は、捨て子として拾われ、老舗の書画骨董・茶道具を扱う道具屋の大店で丁稚奉公から育てられた真之介と、その真之介と駆け落ちのようにして所帯を持った古道具屋の娘「ゆず」の夫婦である。古道具屋で一流の目利きをもつ「からふね屋」で育てられて仕込まれ、二番番頭にまでなったが、「からふね屋」の娘「ゆず」と相愛の仲となり、「ゆず」と夫婦になるために「からふね屋」を飛び出して、懸命に働き、三条大橋のたもとで古道具屋の「とびきり屋」をはじめる。

 「ゆず」には親が決めた茶道家元の若宗匠との婚姻話があったが、それを断って真之介と所帯をもったのである。真之介は、自分の育ての親でもある「ゆず」の両親に結婚を申し入れた際に、「ゆず」の父親の善右衛門も母親の「お琴」も猛反対し、父の善右衛門から「四件間口の店をかまえ、千両の結納金をもってきたらゆるす」と言われて、懸命に働いてそれを実現した。だが、「ゆず」の両親は、千両もの金を作るなど不可能事で、方便として言ったに過ぎないと認めてもらえず、「ゆず」と茶道家元の若旦那との結納が交わされる前に、やむをえず、店に千両を置いてきて、「ゆず」をさらうようにして駆け落ちしたのである。

 「ゆず」は老舗の道具屋で育っただけに、書画骨董・茶道具などの道具の見立てに真之介以上の目利きができ、物怖じしない度胸と決断力もある。そして、その一流の目利きで真之介を選び、彼に心底惚れている。

 こうして、真之介と「ゆず」との新しい夫婦生活が開いたばかりの「とびきり屋」で始まり、彼らの新婚生活、やがて生じる小さな齟齬、そしてそれを乗り越えて夫婦の絆を強くしていく過程が複線となり、新撰組の近藤勇や芹沢鴨、高杉晋作や坂本龍馬などが絡まり、「道具と人間を目利きしていく」、あるいは「本物を見分ける」という主題が展開されていくのである。

 真之介が「ゆず」の結納金として「からふね屋」に置いてきた千両が、軍資金と称して押し入った芹沢鴨によって奪われるが、「ゆず」が桜の産地を当てるという勝負を挑んで奪え返すということが起こったり、高杉晋作と芸者の恋物語が絡んだり、近藤勇が望んだ名刀虎轍を巡る真贋の問題が起こったり、坂本龍馬が「とびきり屋」に宿泊したりするようになったりと、幕末の京都で活躍した人物たちを巡って真之介と「ゆず」の「目利きして本物を見分ける」と言う姿で描き出される。

 本物は、手にしっくり馴染み自然におさまっているということや、人を動かすのは物ではなく心であるということや、あるいは、「大切なんは、しっかりした目で、人と物を見抜くことや。じぶんの目利きさえしっかりしてたら、どんな世の中になっても生きていける」(359ページ)ということが語られていくのである。

 そして、最後に「からふね屋」の総領息子や茶道家元の若宗匠が遊びほうけて新撰組に捕まり、これを真之介が芹沢鴨に「見分け勝負」を挑んで勝って救い出し、真之介と「ゆず」が夫婦として両親に認められ、また、真之介が利休の一番弟子で徳川家康によって切腹させられた古田織部の血筋の者であることがわかっていくところで終わる。

 以前読んだ火坂雅志『骨董屋征次郎手控』も京都の骨董屋を主人公にしたもので、真贋の見極めが重要な要素となっていたが、『骨董屋征次郎手控』の方は、骨董品の売買に絡む人間の欲の問題がミステリー仕立てで描かれていくのに比して、『花嫁千両 とびきり屋見立て帖』は、本物を見分ける目利きを使って、様々な人間の姿を描き、真之介と「ゆず」が爽やかで懸命に夫婦としての絆を強めていくというものになっている。

 文体が簡略で、その簡略さが主人公の爽やかさを伝えるものとなっているので、読みやすい。しかし、人間を見分けるというのは、いつでも難題で、人はその時々の人でしかないから、いくぶん人間像が定形のものになってしまい、幕末の人間像も一般に流布されているものにおさまりすぎている感じが残る。人の評価はいつでも相対的なものでしかないのだから、人間の真贋などはそう簡単ではなく、要は好き嫌いの問題でしかないような気もするが、どうだろうか。真であれ、贋であれ、道具でも人でも、好きであればそれでよいと、わたしは思っている。

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