2013年11月11日月曜日

竹田真砂子『あとより恋の責めくれば 御家人南畝先生』

 もうすっかり寒くなってきた。先週は日々が怒涛のように過ぎて、小説は折々には読んでいたのだが、ついにこれを記す時間が取れずにいた。日々が怒涛になるのは、安直に予定を入れていくからで、すべからくこうなるのが昔からのわたしの悪い癖だと反省している。今週はようやく少し時間が取れるが、来週はまた身動きの取れないの日々となる。どうなるかな、と思いつつも、愚かなり、である。

 さて、竹田真砂子『あとより恋の責めくれば 御家人南畝先生』(2010年 集英社)を比較的面白く読んだ。これは江戸天明期を代表する狂歌師であり文人であった太田南畝(太田直次郎 17491823年)の恋の顛末を描いた作品で、この時代の狂歌は最高に洒落ており、読むだけで吹き出したり、にやりとしたりする作品がたくさん作られているが、その中でも、幕府の御家人でありながらも狂歌師として一世を風靡した太田南畝はなかなか面白い人だったと思っている。彼は四方赤良(よものあから)とか寝惚先生とかいう名を使って、狂歌や洒落本、漢詩文などを作る他にもたくさんの随筆を残している。後年は「蜀山人」という号も使っている。南畝は彼の学者としての号である。

 太田南畝が生まれた太田家は、代々徒歩という幕府下級御家人の家で、南畝(直次郎)は御徒歩としての役目も地道に果たしながら家を守り、24歳の時の安栄2年(1773年)の将軍(家治)上覧の水泳大会では泳者の一人として参加するなどしているし、昌平坂学問所の新しく創設された学問吟味試験(1794年)では、47歳という高齢ながら、御目見得以下の中では首席で合格している。それによって彼は、やがて勘定所勤務となり、支配勘定方にまでなっている。他方、19歳で『寝惚先生文集』を著し、これが評判となって、狂歌や洒落本を作り、彼を中心にした狂歌師のグループが形成されたりしている。彼の狂歌は風刺とウィットに富んでいるが、「それにつけても金のほしさよ」というような何にでも使える下の句を作ったりして、遊び心が万点である。

 竹田真砂子という人の作品を読むのはこれが初めてで、奥付によれば、法政大学文学部を出られて、1982年に『十六夜に』でオール読物新人賞を受賞され、小説の他にも邦楽を軸にした舞台作品なども手がけられている方らしい。

 読んでいて、この作者の日本語はすこぶる美しいと思った。語彙が豊かで、それがきちんと使われているので、文章に澱みがない。こういう美しい日本語を使うことができる人がまだおられるのだと、改めて思った次第である。

 本書は、太田南畝が天明6年(1786年)に吉原の遊女であった三保崎という女性に惚れて身請けしたことを中心に話が展開されていき、やがて、田沼時代の終わりに田沼意次の腹心だったと言われる土山宗次郎と親しかったことで目をつけられ(土山宗次郎は斬首の刑を受ける)、交友のあった戯作者の山東京伝らが弾圧されるのを見て、狂歌をやめて、随筆などを執筆していく姿などが描かれている。

 南畝が身請けした遊女の三保崎は、本書では、病を得ており、これを何とかしようと御家人の身分でありながらも四苦八苦して身請けし、養生をさせていった姿が描かれている。南畝は三保崎に惚れているが、ひたすら養生をするようにと言うだけである。

 本書には、南畝がもっていた真面目さや庶民感覚、他者への思いやりなどが記されており、彼は、面白おかしい洒落た狂歌を真面目に作ったのであり、それが本書でいかんなく描かれている。

 ちなみに、太田南畝は1804年に著した随筆でコーヒーを飲んだことを記しており、これが日本最初のコーヒー飲用記になっている。彼曰く「焦げ臭くて味ふるに堪えず」と記している。1804年は彼が長崎奉行所へ赴任した年である。

 本書の眼目は、従来、太田南畝は遊女の三保崎を身請けして「妻妾同居」をしたと言われていたが、その証拠はどこにもなく、南畝は、病身の三保崎を身請けして、今で言うターミナルケアーをしたのではないかという着想をされて、それが展開されている点であろう。事実を知るすべはないが、面白い着想であり、それが自然に展開されている辺りに作者の力を感じる。幕府による言論統制は幕府崩壊の兆しでもあったが、それもよく盛り込まれて、面白く読めた一冊だった。

0 件のコメント:

コメントを投稿