昨日は温かい日差しの中で春一番が吹いて、朝から相模大野を経て町田まで出かけなければならず、コートを着ていると汗ばむほどだった。
町田は多摩丘陵と相模原台地に位置し、江戸時代中期からは韮山代官が統括した農村地帯であったが、近年、小田急線が開発されるにしたがい、私立大学や学校が移転したり設立されたりして学生が多く住むようになり、人口が爆発的に増加して、都内の繁華街である新宿と同じような開発がなされてきた。新宿は歓楽街としての盛衰が激しいが、町田は学生街の感がある。駅近郊の建物や商店など、町田はミニ新宿のようであるが、近郊が農村であり、都内の都市とはまた異なった趣があるし、雑多な感じが漂っている。しかし、小田急線沿線や田園都市線沿線は、どこでも画一的な都市計画がされて、都市そのものには面白みはない。
今朝は曇って、黒い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうである。予報では雨と出ていた。気温が少し高く、それだけはありがたい。
昨日、町田までの往復で諸田玲子『かってまま』(2007年 文藝春秋社)を読んでいた。これは「かげっぽち」、「だりむくれ」、「しわんぼう」、「とうへんぼく」、「かってまま」、「みょうちき」、「けれん」と、それぞれ人を形容する形容詞がひらがらで記された七編からなる短編小説集で、それぞれの形容詞で表わされる、七人の女性の姿を描いた作品集となっている。
まだ第一話の「かげっぽち」しか読んでいないが、これは、いつも旗本家の美貌の娘の「お古」を下げ渡されて生活していた女性が自分自身の幸せを見出していく物語である。彼女が厄介になっている旗本家の娘が父親の知れない子を妊娠した。旗本家の娘は婚約をしているが相手はだれかわからない。そこでそれを隠ぺいするために、旗本家の娘が産んだ子を自分の子どもとして押しつけられ、その旗本家の郎党と結婚させられる。娘は、その郞党に思いを寄せていたのだが、自分の亭主となった郞党が子どもの実の父親で、旗本家の娘の不義の相手であり、それも自分に押しつけられたのだと思い込んでいる。
彼女はそれでも自分なりの幸を探し出そうとするが、いつも旗本家の娘が不幸の影のように付きまとう。旗本家の娘は火事で焼け出されて、彼女の家に転がり込み、夫の様子も変だ。彼女の悩みは深まる。
しかし、その悩みが極まった時、真相を知る。旗本家の娘の相手が自分の夫ではなく、娘が通っていた寺の修行僧であったという。「かげっぽち」というのは、「身代り」とか「人の影になっている人間」とかいう意味なのだろう。彼女は、自分が決してその「かげっぽち」ではなく、自分の人生を歩んでいくものであることに気がついて行くのである。
物語のプロットもいい。主人公の女性が旗本家の娘の「かげっぽち」として生きなければならない必然性もよく描かれているし、彼女の心情もよく描き出されている。しかし、わたしにはどうしてもどこかねちねちしているように感じられて理解に苦しむところがある。彼女には、言ってみれば「素直さ」がない。信頼がない。こういう女性の心情は、本当に理解に苦しむ。
事柄は単純で、彼女が自分の気持ちを素直に夫に語ることができ、夫もまた自分の妻となった女性に事情を打ち明ければ済むことである。お互いの深い信頼があれば、事柄は違った展開となる。もちろん、作者はそのことを承知の上で、それができない人間の姿を描いているのだろうが、真相を知る結末が、不義の相手が修行僧であるというのは「凡庸」のような気がする。
ただ、こういう感想は多分に読者の心情を反映しているものだから、今のわたしの心情が、おそらく、もっとスカッとしたものと接したいと思っているからではあるだろうし、物事は単純化して見るのが一番わかりやすいと思っているからだろう。「複雑な現象を全部はぎ取って、自分は本当は何をどうしたいのか」を心底探ってみるのが一番いい。もちろん、現実には「忍耐」を要求される。しかし、ただ、「素直であることと素朴であることが人を救う」ことは疑いえない。
ともあれ、この作者は多面的で、期待するところも大きいから、収められている他の作品も読み進めよう。今日もまた、なんとなくあわただしく過ぎるような気がする。しなければならないこともたくさんあるし、洗濯機も「終わりましたよ」という信号音を出してくれている。忘れずに干そう。
2010年2月26日金曜日
2010年2月24日水曜日
佐藤雅美『町医 北村宗哲』
今日もよく晴れて、比較的暖かな日となった。こういう穏やかな日和が続くと、つくづく嬉しい。昨日見かけた花屋さんの店先は春の花でいっぱいである。クロッカスが大きな芽を出していた。
昨夜から佐藤雅美『町医 北村宗哲』(2006年 角川書店)を読んでいる。これは昨年末ごろに読んだ『啓順地獄旅』と『啓順純情旅』に続くような作品で、前作では、医学館でも学んだことがある医者の啓順が、ふとしたことから渡世人の世界に入り、そこで江戸の顔役の娘を殺したかどで顔役から追われることになって各地を遍歴して行くというもので、最後は江戸にもどって顔役と対決し、江戸で落ち着くという筋立てだったが、今作では、その江戸での町医者としての生活の姿が、「北村宗哲」と言う名前で描かれている。だから、宗哲の前歴は「啓順」とほとんど変わらず、宗哲は渡世人の前歴をもつ町医者として、医院を開業しており、しかもなお江戸の顔役たちの間ではよく知れ渡った人物であり、医院を訪れる患者や持ちこまれる相談事に当たっていくというものである。
前作同様、作者は江戸の医学界の事情に精通しており、当時の漢方の処方の仕方や病にも精通していて、その知識を駆使して物語が展開されるので、独自の醍醐味があるし、主人公の人柄も前作同様、情もあり、頼まれるといやとも言えず、金持ちや権高な人物からは大金をもらうが貧しい者には手弁当でも面倒をみるという姿勢が貫かれている。また、作者は、どの作品でも、「生活者」の視点で書いているので、生活感もあふれている。だからと言って、人情噺では終わらない。物語の結末も、悲劇は悲劇のままで記される。
こうした作品は、時代小説の中でも、しっかりした資料に基づいたリアリティのある独自の作風をもつ作品だと言えるだろう。資料を駆使した作風としては司馬遼太郎が著名だが、佐藤雅美は資料を物語の中で使って展開しようとする。その意味で文学作品としてはよくできた作品ではないだろうか。作者の円熟味を感じさせる作品である。
今日は、車も少し動かさなければまた故障しそうだから、夕方、TUTAYAにでも行って『スターゲイト』というアメリカのSFテレビドラマのDVDでも借りてこよう。アメリカのSFドラマは、本当に傑作が多いと思うし、映像がとても凝っているという気がする。そういえば、子どもの頃に『宇宙家族ロビンソン』というテレビドラマをよく見ていたし、たぶん中学生のころではなかったかと思うが、『タイムトンネル』というドラマも見ていた。『タイムトンネル』は、「タイムトンネル」を使って過去の様々な事件に遭遇して行くというもので、詳細な歴史教育の要素もあった。『スターゲイト』は、その『タイムトンネル』の宇宙版で、「スターゲイト」というワームホールで宇宙空間を瞬時につなぐものが発見され、それを駆使して宇宙の各惑星に出かけていくというものである。使われる科学用語や発想は、物理学や生物学などの諸自然科学にしっかり基づいているので、それもおもしろい。人間模様や行動には現代アメリカの気風がうかがえて、それもおもしろい。
ともあれ、まずは仕事を片づけよう。
昨夜から佐藤雅美『町医 北村宗哲』(2006年 角川書店)を読んでいる。これは昨年末ごろに読んだ『啓順地獄旅』と『啓順純情旅』に続くような作品で、前作では、医学館でも学んだことがある医者の啓順が、ふとしたことから渡世人の世界に入り、そこで江戸の顔役の娘を殺したかどで顔役から追われることになって各地を遍歴して行くというもので、最後は江戸にもどって顔役と対決し、江戸で落ち着くという筋立てだったが、今作では、その江戸での町医者としての生活の姿が、「北村宗哲」と言う名前で描かれている。だから、宗哲の前歴は「啓順」とほとんど変わらず、宗哲は渡世人の前歴をもつ町医者として、医院を開業しており、しかもなお江戸の顔役たちの間ではよく知れ渡った人物であり、医院を訪れる患者や持ちこまれる相談事に当たっていくというものである。
前作同様、作者は江戸の医学界の事情に精通しており、当時の漢方の処方の仕方や病にも精通していて、その知識を駆使して物語が展開されるので、独自の醍醐味があるし、主人公の人柄も前作同様、情もあり、頼まれるといやとも言えず、金持ちや権高な人物からは大金をもらうが貧しい者には手弁当でも面倒をみるという姿勢が貫かれている。また、作者は、どの作品でも、「生活者」の視点で書いているので、生活感もあふれている。だからと言って、人情噺では終わらない。物語の結末も、悲劇は悲劇のままで記される。
こうした作品は、時代小説の中でも、しっかりした資料に基づいたリアリティのある独自の作風をもつ作品だと言えるだろう。資料を駆使した作風としては司馬遼太郎が著名だが、佐藤雅美は資料を物語の中で使って展開しようとする。その意味で文学作品としてはよくできた作品ではないだろうか。作者の円熟味を感じさせる作品である。
今日は、車も少し動かさなければまた故障しそうだから、夕方、TUTAYAにでも行って『スターゲイト』というアメリカのSFテレビドラマのDVDでも借りてこよう。アメリカのSFドラマは、本当に傑作が多いと思うし、映像がとても凝っているという気がする。そういえば、子どもの頃に『宇宙家族ロビンソン』というテレビドラマをよく見ていたし、たぶん中学生のころではなかったかと思うが、『タイムトンネル』というドラマも見ていた。『タイムトンネル』は、「タイムトンネル」を使って過去の様々な事件に遭遇して行くというもので、詳細な歴史教育の要素もあった。『スターゲイト』は、その『タイムトンネル』の宇宙版で、「スターゲイト」というワームホールで宇宙空間を瞬時につなぐものが発見され、それを駆使して宇宙の各惑星に出かけていくというものである。使われる科学用語や発想は、物理学や生物学などの諸自然科学にしっかり基づいているので、それもおもしろい。人間模様や行動には現代アメリカの気風がうかがえて、それもおもしろい。
ともあれ、まずは仕事を片づけよう。
2010年2月23日火曜日
白石一郎『おんな舟 十時半睡事件帖』(2)
これまでの寒さが嘘のように気温が上がり、晴れて、早春ののどかさが少し感じられるような日差しが暖かい。こんな日はのんびりと外を歩くのが一番だろう。歩いて30分くらいのところの鶴見川上流に植えられている何本かの梅の木も花を咲かせている。
昨日、白石一郎『おんな舟 十時半睡事件帖』を爽快な気分で読み終わった。この作品の良いところは、無理に勧善懲悪で事件が解決されず、主人公の十時半睡が、いわゆる「大人の判断」をするところである。
第五話「駆落ち者」は、十時半睡の伝馬船に赤ん坊が捨てられ、乳母として雇った女が実はその赤ん坊の実の母親であり、母親は福岡(黒田)藩の藩士の嫁であったが、夫と婚家のひどい仕打ちに耐えかねて幼馴染と駆け落ちし、江戸に来たが、人足をしていた夫が事故で働けなくなり、赤ん坊を、かつて福岡で著名であった十時半睡の船に捨てたのである。赤ん坊は今の夫の子ではなく、前夫の福岡藩士の子である。半睡は「女敵討ち(妻を奪われた武士が妻と男を殺す)」というのがあることを母親に話し、今の夫と赤ん坊とで暮らしていくようにと赤ん坊を母親に返す。
第六話「おんな宿」は、共同生活をしている家出娘たちが、「助っ人」と呼んでいる男たちと「愛人契約」を結んで生活をしているという、まことに「愛人クラブ」とか「援助交際」とかをする現代の若い女性たちの生態を反映したような話である。そのうちの一人が、半睡が贔屓にしている小料理屋の女将の知り合いで、そのつてで、ひとりは小料理屋に雇われ、もうひとりが半睡の屋敷の下働きに雇われ、その実態を知っていくという話である。娘たちと「助っ人」との間のごたごたも起こる。だが、娘たちは極めてドライに割り切っている。半睡の家で働く女も、気心もよく素直でよく働くが、「助っ人」をもちたいと思っている。そして、事柄が明るみに出て娘たちは姿を消す。
半睡は言う。
「およねという娘(家出娘)、そなたに似てなかなか良い娘であった。仕合わせになってくれればよいがのう」・・・「むりじゃろうな」(文庫版 227ページ)
第七話「叩きのめせ」は、町屋に住んでもあまり面白いことがないという半睡に、屋根船で江戸湾に出て釣りをすることを勧めた家臣が準備した船宿が、急死した旧友の後妻で、後妻は旧友から金をもらって弟と二人でその船宿を営んでいるという。しかし、実はその後妻と弟は姉弟ではなく情人関係であることを知り、旧友の死にもそのことが影を落としていたことを知る。
半睡はその出来事を明るみに出すことについて、それを追求しても「失うものはあっても、得るものは何もない。鈴木甚太夫殿(旧友)は世間に笑われ、甚三郎殿(旧友の息子)も鈴木家の面目を失う」(文庫版 259ページ)といい、「放っとこう」と言う。一方で、迷い込んだ猫を飼うことになったことで、猫がいたずらをするという理由で幕府の御家人が半睡の家を強請る。その御家人が強請りに来た時、小石を懐紙に入れてつかませ、戻ってきたところを木刀で叩きのめせ、と待ちかまえる。
この第七話では、事柄の結果を充分に予測して、「人を生かす」ことを第一義に考えて合理的な判断を下す半睡の人柄がよく表わされている。
第七話の後半で、そろそろ福岡に戻ろうかと思っているところが描かれているので、舞台がまた福岡に戻るのかもしれないが、このシリーズの作品は、なかなか含蓄があって面白い。本のカバーに「珠玉の連作時代小説」という宣伝文句が書かれていたが、本当にそうだと思った。
昨夕、訪ねて来てくれた中学生のSちゃんに数学の二次方程式の話をしたが、二次方程式には必ず解があるように、この作品は「解」のある作品である。そして、「解」があるということは、すっきりとして嬉しいことに違いない。今週は少し予定が詰まっていたので、こういう爽快な小説を読むのはとてもいい。
昨日、白石一郎『おんな舟 十時半睡事件帖』を爽快な気分で読み終わった。この作品の良いところは、無理に勧善懲悪で事件が解決されず、主人公の十時半睡が、いわゆる「大人の判断」をするところである。
第五話「駆落ち者」は、十時半睡の伝馬船に赤ん坊が捨てられ、乳母として雇った女が実はその赤ん坊の実の母親であり、母親は福岡(黒田)藩の藩士の嫁であったが、夫と婚家のひどい仕打ちに耐えかねて幼馴染と駆け落ちし、江戸に来たが、人足をしていた夫が事故で働けなくなり、赤ん坊を、かつて福岡で著名であった十時半睡の船に捨てたのである。赤ん坊は今の夫の子ではなく、前夫の福岡藩士の子である。半睡は「女敵討ち(妻を奪われた武士が妻と男を殺す)」というのがあることを母親に話し、今の夫と赤ん坊とで暮らしていくようにと赤ん坊を母親に返す。
第六話「おんな宿」は、共同生活をしている家出娘たちが、「助っ人」と呼んでいる男たちと「愛人契約」を結んで生活をしているという、まことに「愛人クラブ」とか「援助交際」とかをする現代の若い女性たちの生態を反映したような話である。そのうちの一人が、半睡が贔屓にしている小料理屋の女将の知り合いで、そのつてで、ひとりは小料理屋に雇われ、もうひとりが半睡の屋敷の下働きに雇われ、その実態を知っていくという話である。娘たちと「助っ人」との間のごたごたも起こる。だが、娘たちは極めてドライに割り切っている。半睡の家で働く女も、気心もよく素直でよく働くが、「助っ人」をもちたいと思っている。そして、事柄が明るみに出て娘たちは姿を消す。
半睡は言う。
「およねという娘(家出娘)、そなたに似てなかなか良い娘であった。仕合わせになってくれればよいがのう」・・・「むりじゃろうな」(文庫版 227ページ)
第七話「叩きのめせ」は、町屋に住んでもあまり面白いことがないという半睡に、屋根船で江戸湾に出て釣りをすることを勧めた家臣が準備した船宿が、急死した旧友の後妻で、後妻は旧友から金をもらって弟と二人でその船宿を営んでいるという。しかし、実はその後妻と弟は姉弟ではなく情人関係であることを知り、旧友の死にもそのことが影を落としていたことを知る。
半睡はその出来事を明るみに出すことについて、それを追求しても「失うものはあっても、得るものは何もない。鈴木甚太夫殿(旧友)は世間に笑われ、甚三郎殿(旧友の息子)も鈴木家の面目を失う」(文庫版 259ページ)といい、「放っとこう」と言う。一方で、迷い込んだ猫を飼うことになったことで、猫がいたずらをするという理由で幕府の御家人が半睡の家を強請る。その御家人が強請りに来た時、小石を懐紙に入れてつかませ、戻ってきたところを木刀で叩きのめせ、と待ちかまえる。
この第七話では、事柄の結果を充分に予測して、「人を生かす」ことを第一義に考えて合理的な判断を下す半睡の人柄がよく表わされている。
第七話の後半で、そろそろ福岡に戻ろうかと思っているところが描かれているので、舞台がまた福岡に戻るのかもしれないが、このシリーズの作品は、なかなか含蓄があって面白い。本のカバーに「珠玉の連作時代小説」という宣伝文句が書かれていたが、本当にそうだと思った。
昨夕、訪ねて来てくれた中学生のSちゃんに数学の二次方程式の話をしたが、二次方程式には必ず解があるように、この作品は「解」のある作品である。そして、「解」があるということは、すっきりとして嬉しいことに違いない。今週は少し予定が詰まっていたので、こういう爽快な小説を読むのはとてもいい。
2010年2月22日月曜日
白石一郎『おんな舟 十時半睡事件帖』(1)
気温が少し上がって晴れ間が見える。昨日、洗濯をしたまま干すのを忘れて都内での会議に出たので、今朝はもう一度洗い直して干したり、いくぶん溜っている疲れもあって、少しゆっくりとコーヒーを入れて早春が感じられ始めている景色を眺めたりしていた。
19日(金)に記した六道慧『径に由らず』の表題となっている言葉は、『論語』の中の「行くに径に由らず」という言葉から取られたものであることが、237ページに記してあり、「近道や抜け道を行かず、正々堂々と本道を行く」の意であることが記されて、主人公の姿を現すものとなっているが、作品の中での主人公のその描写はともかく、妙にこの言葉が記憶に残った。そして、孔子は「宇宙(天)の大きさと広がりを人間に体現させようとしたのかもしれない」などと思ったりした。『論語』は、儒教的解釈は別にして、人に天の大きさを示してくれる書物のような気がする。
昨日(21日)の午後行われた都内での会議の往復の電車の中で、白石一郎『おんな舟 十時半睡事件帖』(1997年 講談社 2000年 講談社文庫)を読み始めた。
奥付によれば、作者の白石一郎は、1931年生まれで、主として海を舞台にした作品を書き、1987年『海狼伝』で直木賞、1992年『戦鬼たちの海』で柴田錬三郎賞、1999年『怒涛のごとく』で吉川英治文学賞などを受賞した作家としての輝かしい実績をもつ人らしい。そして時代小説としての『十時半睡事件帖』もテレビドラマ化されて放映されたようだ。この『おんな舟』も、このシリーズの六作目となっている。
残念ながら、わたしはこの人の作品にこれまで一度も触れることがなかったし、この作者についても無知であったが、このシリーズの主な舞台が、わたしの郷里でもある福岡と江戸で、主人公の十時半睡(ととき はんすい)は黒田藩(福岡)の総目付(今でいえば検察庁長官)であり、「半分眠って暮らす」という「半睡」という名前が、なんとなく「半眼で生きよう」と思ってきたわたしに面白く感じられて、図書館で目について借りてきた次第である。
主人公の十時半睡の本名は十時一右衛門で、黒田藩の寺社奉行、郡奉行、勘定奉行、町奉行を歴任した切れ者であるが、出世欲もなく、妻と死別して齢六十を過ぎて隠居の身で、自ら「半分眠って暮らす」という意味で「半睡」と号していた。黒田藩が、彼の進言を入れて「十人目付」という警察・検察制度を敷いた際、適任者がいないために彼がそれを取りまとめる総目付として再任され、様々な事件に「人を生かす」という視座の「大岡裁き」並みの名判断をしていくのである。
半睡は総目付という重職についているが、目付部屋へは月に二三度しか行かずに、気ままに過ごすことを信条とし、尊大さも堅苦しさもなく、江戸藩邸では、堅苦しい藩邸を避けて気楽な町屋に住んだりするが、持ちこまれる相談事も多く、難事件や珍事件に関わっていくのである。この『おんな舟』で半睡は深川の小名木川に面した所に藩邸から移り住むくだりが描かれているので、前作までの舞台は主として福岡であろう。
半睡が福岡から江戸に出てくる事情は本作では触れられていないが、福岡で総目付として働いていた半睡は、謹厳実直そのものであった息子が女性関係で不始末を仕出かしたために責任を取って総目付を辞めていたが、江戸藩邸で起こった刃傷沙汰のために江戸藩邸でも十人目付の制度を採用することとなり、筆頭家老に強引に説得されて、江戸の総目付として就任したのである。半睡は、自分に厳しく人にやさしい。
第一話「突っ風」は、福岡藩主に災厄の兆候があるから厄除けの加持祈祷をさせてくれと申し出た修験者が藩主の生母を使って申し出たため、事柄が政治的判断を必要とすることになり、判断がつきかねた藩の重役たちの依頼で、半睡がそれを解決していくという話である。半睡は盲信に対して客観的・合理的精神をもっている。
第二話「御船騒動」は、福岡から江戸に向かった藩主の御用船と毛利家の御用船が海難事故を起こし、その責任を問われる事件で、半睡は、その両者も責任を問われることなく済むように事件を処置して行くのである。ここには、「人を生かす」という半睡の見事な姿勢が貫かれている。そのために、負担しなければならないものを負担するという見事な覚悟がこの難題を解決してくことへと繋がっていることが描き出される。
第三話「小名木川」では、藩主の江戸詰(参勤交代)で江戸へやって来た勤番の若い藩士が無聊を慰めるために行っていた赤坂溜池での釣りに乗じて、彼をたぶらかして江戸藩邸での強盗を計画していた盗人たちが捕えられるという事件で、半睡が風紀の乱れを感じてこれを引き締めるという顛末が描かれている。
表題作ともなっている第四話「おんな川」は、赤坂溜池近くの中屋敷から深川の小名木川沿いに転居した半睡が、伝馬船を作って藩邸への往復を行おうとして、同じように小名木川を猪牙舟(ちょっきぶね)で自宅と黒江町の小料理屋を往復する女将と知り合い、この女将の奇抜な行動を知らされていく話で、やがて半睡はこの女将の経営する小料理屋を贔屓にするようになっていく。
昨日はここまでしか読むことができなかったが、面白いシリーズに出会ったと思っている。また、現在は福岡市としてひとつになっているが、わたしの感覚でも、福岡と博多は違うし、歴史的にも、そして街の気風も異なっている。そこには軋轢もある。そのあたりも、前の作品では明瞭に記されているだろうから楽しみである。福岡城(舞鶴城)のある大濠公園の近辺は、本当に懐かしい。
19日(金)に記した六道慧『径に由らず』の表題となっている言葉は、『論語』の中の「行くに径に由らず」という言葉から取られたものであることが、237ページに記してあり、「近道や抜け道を行かず、正々堂々と本道を行く」の意であることが記されて、主人公の姿を現すものとなっているが、作品の中での主人公のその描写はともかく、妙にこの言葉が記憶に残った。そして、孔子は「宇宙(天)の大きさと広がりを人間に体現させようとしたのかもしれない」などと思ったりした。『論語』は、儒教的解釈は別にして、人に天の大きさを示してくれる書物のような気がする。
昨日(21日)の午後行われた都内での会議の往復の電車の中で、白石一郎『おんな舟 十時半睡事件帖』(1997年 講談社 2000年 講談社文庫)を読み始めた。
奥付によれば、作者の白石一郎は、1931年生まれで、主として海を舞台にした作品を書き、1987年『海狼伝』で直木賞、1992年『戦鬼たちの海』で柴田錬三郎賞、1999年『怒涛のごとく』で吉川英治文学賞などを受賞した作家としての輝かしい実績をもつ人らしい。そして時代小説としての『十時半睡事件帖』もテレビドラマ化されて放映されたようだ。この『おんな舟』も、このシリーズの六作目となっている。
残念ながら、わたしはこの人の作品にこれまで一度も触れることがなかったし、この作者についても無知であったが、このシリーズの主な舞台が、わたしの郷里でもある福岡と江戸で、主人公の十時半睡(ととき はんすい)は黒田藩(福岡)の総目付(今でいえば検察庁長官)であり、「半分眠って暮らす」という「半睡」という名前が、なんとなく「半眼で生きよう」と思ってきたわたしに面白く感じられて、図書館で目について借りてきた次第である。
主人公の十時半睡の本名は十時一右衛門で、黒田藩の寺社奉行、郡奉行、勘定奉行、町奉行を歴任した切れ者であるが、出世欲もなく、妻と死別して齢六十を過ぎて隠居の身で、自ら「半分眠って暮らす」という意味で「半睡」と号していた。黒田藩が、彼の進言を入れて「十人目付」という警察・検察制度を敷いた際、適任者がいないために彼がそれを取りまとめる総目付として再任され、様々な事件に「人を生かす」という視座の「大岡裁き」並みの名判断をしていくのである。
半睡は総目付という重職についているが、目付部屋へは月に二三度しか行かずに、気ままに過ごすことを信条とし、尊大さも堅苦しさもなく、江戸藩邸では、堅苦しい藩邸を避けて気楽な町屋に住んだりするが、持ちこまれる相談事も多く、難事件や珍事件に関わっていくのである。この『おんな舟』で半睡は深川の小名木川に面した所に藩邸から移り住むくだりが描かれているので、前作までの舞台は主として福岡であろう。
半睡が福岡から江戸に出てくる事情は本作では触れられていないが、福岡で総目付として働いていた半睡は、謹厳実直そのものであった息子が女性関係で不始末を仕出かしたために責任を取って総目付を辞めていたが、江戸藩邸で起こった刃傷沙汰のために江戸藩邸でも十人目付の制度を採用することとなり、筆頭家老に強引に説得されて、江戸の総目付として就任したのである。半睡は、自分に厳しく人にやさしい。
第一話「突っ風」は、福岡藩主に災厄の兆候があるから厄除けの加持祈祷をさせてくれと申し出た修験者が藩主の生母を使って申し出たため、事柄が政治的判断を必要とすることになり、判断がつきかねた藩の重役たちの依頼で、半睡がそれを解決していくという話である。半睡は盲信に対して客観的・合理的精神をもっている。
第二話「御船騒動」は、福岡から江戸に向かった藩主の御用船と毛利家の御用船が海難事故を起こし、その責任を問われる事件で、半睡は、その両者も責任を問われることなく済むように事件を処置して行くのである。ここには、「人を生かす」という半睡の見事な姿勢が貫かれている。そのために、負担しなければならないものを負担するという見事な覚悟がこの難題を解決してくことへと繋がっていることが描き出される。
第三話「小名木川」では、藩主の江戸詰(参勤交代)で江戸へやって来た勤番の若い藩士が無聊を慰めるために行っていた赤坂溜池での釣りに乗じて、彼をたぶらかして江戸藩邸での強盗を計画していた盗人たちが捕えられるという事件で、半睡が風紀の乱れを感じてこれを引き締めるという顛末が描かれている。
表題作ともなっている第四話「おんな川」は、赤坂溜池近くの中屋敷から深川の小名木川沿いに転居した半睡が、伝馬船を作って藩邸への往復を行おうとして、同じように小名木川を猪牙舟(ちょっきぶね)で自宅と黒江町の小料理屋を往復する女将と知り合い、この女将の奇抜な行動を知らされていく話で、やがて半睡はこの女将の経営する小料理屋を贔屓にするようになっていく。
昨日はここまでしか読むことができなかったが、面白いシリーズに出会ったと思っている。また、現在は福岡市としてひとつになっているが、わたしの感覚でも、福岡と博多は違うし、歴史的にも、そして街の気風も異なっている。そこには軋轢もある。そのあたりも、前の作品では明瞭に記されているだろうから楽しみである。福岡城(舞鶴城)のある大濠公園の近辺は、本当に懐かしい。
2010年2月19日金曜日
六道慧『径に由らず 御算用日記』
少し晴れ間も見えた空が、今は薄墨色の雲に覆われている。昨日までの寒さは少し緩んだかもしれないが、変わらずに寒く感じる。ただ時折、陽が差してありがたい。
昨夜遅く、フジテレビで放映されている『のだめカンタービレ フィナーレ(アニメ)』を見ながら、六道慧(りくどう けい)『径に由らず(こみちによらず) 御算用日記』(2008年 光文社文庫)を読んでいた。この作者の作品は初めて読むし、作者についても、東京両国生まれでSFファンタジーなどを執筆後に時代小説を書いているぐらいしかわからなかったが、村上豊という人のカバーの絵が気に入っているので手にした次第である。
この作品は、『御算用日記』というシリーズの八作目で、文化・文政の頃(1800年代の初期)に、能州(能登-現:石川県)から出て来て二人の個性的な姉と暮らしながら、その姉たちの多額の借金のために幕府御算用者とならなければならなかった主人公「生田数之進」とその友人である「早乙女一角」とが、幕府目付(検察)の依頼を受けて、各藩の内情を調べていくというものである。
「御算用者」というのは、要するに勘定方(経理)で、歴史的には、この名前を使っていた加賀藩の「御算用者」が著名で、たぶん作者もそこから主人公を能登の出身としたのだろうと思われるが、作中では、「幕府御算用者」として、幕府目付役の指示のもとで、各藩の不正を暴く密命を受けて取潰しの証拠を集める役割を果たす者として使われている。
主人公の「生田数之進」は、姉たちに頭が上がらずに茫洋とした性格であるが、物事を見抜く目と知恵のひらめきをもち、彼の知恵は「千両智恵」と呼ばれるほどで、同じ長屋に住む人たちや周囲の人たちからも頼りにされている。友人の「早乙女一角」は、物事にこだわらないさっぱりした性格で、武芸百般の歌舞伎役者顔負けの色男であり、二人はそれぞれ認めあい、助け合って、深い信頼で結ばれており、上司となった目付も、できるなら諸藩を取り潰したくないという人情家である。
主人公の上の姉ふたりのひとりは着るものに目がなく、もう一人は食べるものに目がない。自意識も高く、弟の生田数之進に厳しく辛らつである。かろうじて惣菜を作って売っているが、商売敵もあり、その商売敵が数之進に夜這いをかけたりもする。姉の惣菜を売っている娘や大食いの姉を利用しようとする商人、その姉に惚れている友人の早乙女一角の舅など、それぞれ多彩で特徴あふれる人物たちが脇役で物語を進展させる。生田数之進は身分違いの姫に恋をし、腑抜けのようになったりもする。
『径に由らず』は、女色にふけり芸事を好むどうしようもない藩主をいだく丹後の鶴川藩が、それにも関らずに五年の間に借財を半分に減らすということの裏側に隠されたものを、数之進と一角が探索を命じられて暴いていくというもので、物語の展開には荒唐無稽の面白さがある。
ただ、文章は荒い。日本語の美文の中に込められている「情」もあまり感じられない。時代や社会背景に対する考察にも少し曖昧なところがある。しかし、物語の展開と登場人物たちは、それぞれが誇張された姿であるとはいえ、面白い。作者は青少年向けの伝記小説やSFファンタジーを書いてきたそうだが、そういう一面が時代小説の中でも生かされているのだろう。今のこの国のファンタジーには思想性が欠けていて、この作品がそうだとは言えないし、この作者の作品はほかにも多くあるから、少なくともこのシリーズだけは読み終えた後でしか言えないことではあるが、そうした現代に書かれたひとつの時代小説のファンタジーと言えるかもしれない。
今日は、陽も差す時が時折あるので、山積みしている仕事を早く片付けて、散策にでも出よう。
昨夜遅く、フジテレビで放映されている『のだめカンタービレ フィナーレ(アニメ)』を見ながら、六道慧(りくどう けい)『径に由らず(こみちによらず) 御算用日記』(2008年 光文社文庫)を読んでいた。この作者の作品は初めて読むし、作者についても、東京両国生まれでSFファンタジーなどを執筆後に時代小説を書いているぐらいしかわからなかったが、村上豊という人のカバーの絵が気に入っているので手にした次第である。
この作品は、『御算用日記』というシリーズの八作目で、文化・文政の頃(1800年代の初期)に、能州(能登-現:石川県)から出て来て二人の個性的な姉と暮らしながら、その姉たちの多額の借金のために幕府御算用者とならなければならなかった主人公「生田数之進」とその友人である「早乙女一角」とが、幕府目付(検察)の依頼を受けて、各藩の内情を調べていくというものである。
「御算用者」というのは、要するに勘定方(経理)で、歴史的には、この名前を使っていた加賀藩の「御算用者」が著名で、たぶん作者もそこから主人公を能登の出身としたのだろうと思われるが、作中では、「幕府御算用者」として、幕府目付役の指示のもとで、各藩の不正を暴く密命を受けて取潰しの証拠を集める役割を果たす者として使われている。
主人公の「生田数之進」は、姉たちに頭が上がらずに茫洋とした性格であるが、物事を見抜く目と知恵のひらめきをもち、彼の知恵は「千両智恵」と呼ばれるほどで、同じ長屋に住む人たちや周囲の人たちからも頼りにされている。友人の「早乙女一角」は、物事にこだわらないさっぱりした性格で、武芸百般の歌舞伎役者顔負けの色男であり、二人はそれぞれ認めあい、助け合って、深い信頼で結ばれており、上司となった目付も、できるなら諸藩を取り潰したくないという人情家である。
主人公の上の姉ふたりのひとりは着るものに目がなく、もう一人は食べるものに目がない。自意識も高く、弟の生田数之進に厳しく辛らつである。かろうじて惣菜を作って売っているが、商売敵もあり、その商売敵が数之進に夜這いをかけたりもする。姉の惣菜を売っている娘や大食いの姉を利用しようとする商人、その姉に惚れている友人の早乙女一角の舅など、それぞれ多彩で特徴あふれる人物たちが脇役で物語を進展させる。生田数之進は身分違いの姫に恋をし、腑抜けのようになったりもする。
『径に由らず』は、女色にふけり芸事を好むどうしようもない藩主をいだく丹後の鶴川藩が、それにも関らずに五年の間に借財を半分に減らすということの裏側に隠されたものを、数之進と一角が探索を命じられて暴いていくというもので、物語の展開には荒唐無稽の面白さがある。
ただ、文章は荒い。日本語の美文の中に込められている「情」もあまり感じられない。時代や社会背景に対する考察にも少し曖昧なところがある。しかし、物語の展開と登場人物たちは、それぞれが誇張された姿であるとはいえ、面白い。作者は青少年向けの伝記小説やSFファンタジーを書いてきたそうだが、そういう一面が時代小説の中でも生かされているのだろう。今のこの国のファンタジーには思想性が欠けていて、この作品がそうだとは言えないし、この作者の作品はほかにも多くあるから、少なくともこのシリーズだけは読み終えた後でしか言えないことではあるが、そうした現代に書かれたひとつの時代小説のファンタジーと言えるかもしれない。
今日は、陽も差す時が時折あるので、山積みしている仕事を早く片付けて、散策にでも出よう。
2010年2月18日木曜日
藤原緋沙子『潮騒 浄瑠璃長屋春秋記』
昨夜半から降り出した雪が積もり、再び雪景色が広がった。朝のうちは曇って寒かったが、午後からは予報のとおり陽が差して来ている。姪が仕事の研修でこちらに来たので寄りたいという連絡があって、部屋を少し片づけたり書物を整理したりして、夕方までに今日の予定の仕事を済ませようとPCに向かっていた。
昨日の夜、「あざみ野」の山内図書館から数冊の本を借りて来ていたので、昨夜は藤原緋沙子『潮騒 浄瑠璃長屋春秋記』(2006年 徳間文庫)を読んだ。この作者の作品は、『見届け人秋月伊織事件帖』のシリーズや『渡り用人 片桐弦一郎控』のシリーズなどを何冊か以前に読んでおり、プロットのうまさがあったので読んでみることにしたのである。『潮騒 浄瑠璃長屋春秋記』は、このシリーズの二作目だろうが、徳間文庫のカバーではシリーズの何作目かの数字がない。
このシリーズは、理由もわからないままに失踪した妻を探して主人公「青柳新八郎」が浪人の身となり、口入れ屋(仕事斡旋所)の仕事をしたり、長屋の住まいに「よろず相談」の看板を掛けて相談事を引き受けたりして糊塗をしのぎながら、様々な事件を解決しつつ、少しずつ愛妻の失踪の理由と行くえ探っていくという筋立てで物語が展開されている。
『潮騒』には表題作のほかに「雨の声」、「別れ蝉」の二話、合計三話が収められているが、第一話「潮騒」は、貧乏御家人の養女となった娘が、養家からひどい仕打ちを受け、とくに養母の金策のために茶屋奉公に出されたり、結納金目当てに意に沿わない男のところに嫁に出されようとしたりするのを主人公の青柳新八郎が救っていくという話であり、第二話「雨の声」は、青柳新八郎の郷里から出てきた百姓の依頼で、殺人事件を目撃した娘を救出して、その娘の縁談を無事に進ませていくというもので、第三話「別れの蝉」は、事情があって浪人している青年武士が浪人しなければならなかった事情の真相を突きとめていくというものである。
いずれも主人公に仕事を世話する口入れ屋、その口入れ屋の仕事をする友人、長屋に住んで主人公に密かな思いを寄せいている女性、また、それぞれの事件の複雑な人間模様と背景などが描かれて、面白くは読める。
『潮騒』では、失踪した妻が、禁書令によって捕縛されて死んだ蘭学者の実の子どもで、妻は江戸を逃れてきたその父である蘭学者の世話をするために失踪したのではないか、そして夫に類が及ぶのを恐れて捕縛を逃れるために身を隠しているのではないか、ということが暗示されている。
しかし、辛口になるかもしれないが、こうした設定は、たとえば藤沢周平の『用心棒日月妙』での設定や登場人物、新しいところでは佐伯泰英の『居眠り磐音 江戸双紙』などの設定と類似していて、あまり新鮮味がないし、前に読んだ彼女の『見届け人秋月伊織事件帖』などと比べると文章も荒く、人物の描写も通り一遍のような気がしてならない。登場人物たちの生活感も、もちろん書かれてはいるが、あまり実感がない。いくつものシリーズを同時に書いて作品を量産しているということも目にするので、少し残念な気がする。
昨日の夜、「あざみ野」の山内図書館から数冊の本を借りて来ていたので、昨夜は藤原緋沙子『潮騒 浄瑠璃長屋春秋記』(2006年 徳間文庫)を読んだ。この作者の作品は、『見届け人秋月伊織事件帖』のシリーズや『渡り用人 片桐弦一郎控』のシリーズなどを何冊か以前に読んでおり、プロットのうまさがあったので読んでみることにしたのである。『潮騒 浄瑠璃長屋春秋記』は、このシリーズの二作目だろうが、徳間文庫のカバーではシリーズの何作目かの数字がない。
このシリーズは、理由もわからないままに失踪した妻を探して主人公「青柳新八郎」が浪人の身となり、口入れ屋(仕事斡旋所)の仕事をしたり、長屋の住まいに「よろず相談」の看板を掛けて相談事を引き受けたりして糊塗をしのぎながら、様々な事件を解決しつつ、少しずつ愛妻の失踪の理由と行くえ探っていくという筋立てで物語が展開されている。
『潮騒』には表題作のほかに「雨の声」、「別れ蝉」の二話、合計三話が収められているが、第一話「潮騒」は、貧乏御家人の養女となった娘が、養家からひどい仕打ちを受け、とくに養母の金策のために茶屋奉公に出されたり、結納金目当てに意に沿わない男のところに嫁に出されようとしたりするのを主人公の青柳新八郎が救っていくという話であり、第二話「雨の声」は、青柳新八郎の郷里から出てきた百姓の依頼で、殺人事件を目撃した娘を救出して、その娘の縁談を無事に進ませていくというもので、第三話「別れの蝉」は、事情があって浪人している青年武士が浪人しなければならなかった事情の真相を突きとめていくというものである。
いずれも主人公に仕事を世話する口入れ屋、その口入れ屋の仕事をする友人、長屋に住んで主人公に密かな思いを寄せいている女性、また、それぞれの事件の複雑な人間模様と背景などが描かれて、面白くは読める。
『潮騒』では、失踪した妻が、禁書令によって捕縛されて死んだ蘭学者の実の子どもで、妻は江戸を逃れてきたその父である蘭学者の世話をするために失踪したのではないか、そして夫に類が及ぶのを恐れて捕縛を逃れるために身を隠しているのではないか、ということが暗示されている。
しかし、辛口になるかもしれないが、こうした設定は、たとえば藤沢周平の『用心棒日月妙』での設定や登場人物、新しいところでは佐伯泰英の『居眠り磐音 江戸双紙』などの設定と類似していて、あまり新鮮味がないし、前に読んだ彼女の『見届け人秋月伊織事件帖』などと比べると文章も荒く、人物の描写も通り一遍のような気がしてならない。登場人物たちの生活感も、もちろん書かれてはいるが、あまり実感がない。いくつものシリーズを同時に書いて作品を量産しているということも目にするので、少し残念な気がする。
2010年2月16日火曜日
平岩弓枝『新・御宿かわせみ』
どうも今週は金曜日までひどく気温の低い日が続くらしい。今日もどんよりとした寒空が広がっている。今朝は広島のMさんからラ・トゥールの『大工の聖ヨセフ』の部分を模写した葉書が届けられた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652年)は、確か小さなパン屋の息子として生まれたが、フランスのルイ13世から「国王付画家」の称号などをもらった人で、『いかさま師』などの風俗画を生き生きと描いたものと、聖書に題材を取った『悔い改めるマグダラのマリア』や『聖トマス』、『大工の聖ヨセフ』などの作品があったと思う。
『いかさま師』では、カードゲームをする人たちの真中に描かれた女性の狡猾そうな眼が人間の狡さをよく象徴していて特徴的で、他方、聖書に題材を取ったものは、ほとんどの背景が暗闇でその中で光を放つたいまつやろうそくに照らし出された人物によって深い精神性が表わされていたように記憶していた。確か、『聖トマス』は、国立西洋美術館が所蔵していたと思う。
記憶を確かにするために調べてみたら、『大工の聖ヨセフ』は1640年ごろの作品で、現在ルーブル美術館が所蔵しているらしい。送ってくださった模写は、大工仕事をするヨセフの手元を子どものイエスがろうそくで灯りを燈している部分で、光のぬくもりがよく表わされていた。
「光」を大切にしたレンブラント(1606-1669年)も同時代の人であり、改めて、17世紀のヨーロッパは人間の精神性が深められた時代だったのかもしれないと思ったりした。この頃の哲学者として著名なのはデカルト(1596-1650年)であり、その少し後の時代にはスピノザ(1632-1677年)がいて、真に多彩な時代だったような気がする。スピノザは、その哲学は別にしても好きな哲学者のひとりではある。ともあれ、Mさんにはいつも何かの精神性を与えられて感謝している。
ところで、昨日は図書館に行くことができなかったので所有している書物の中で平岩弓枝『新・御宿かわせみ』(2008年 文藝春秋社)を書架から取り出して再読した。これは昨夏に福岡の実家に行った際に実家の隣にある本屋に姪の子どもである優美ちゃんの手を引いて行って買い求めたものである。飛行機の搭乗チケットの半券が栞かわりに挟まれていた。そして再読して、改めて、物語の展開のうまさに脱帽した次第である。
『御宿かわせみ』シリーズは、幕末にかかる頃の時代背景の中で、与力の次男「神林東吾」と「かわせみ」という宿の女主人「るい」、そして、東吾の友人であり同心である「畝源三郎」を中心に様々な事件を解決していくというシリーズで、描き出されるどの人物もとても魅力的で、全巻を読んでいたが、新たにそれらの主人公たちの子どもたちを中心にして「明治編」とも呼ぶべきものが書き始められて、楽しみに読み続けているシリーズのひとつである。
前シリーズの主要な人物であった「神林東吾」は、榎本武揚の依頼で江戸から函館に向かう幕府軍艦「美加保丸」に乗り込むが、銚子沖で台風にあい、「美加保丸」は破船沈没して行方不明となっている。東吾の妻であり「かわせみ」の女主人「るい」と愛娘の「千春」は東吾が生きていると堅く信じて待ち続けている。「千春」は母の「るい」に代わって「かわせみ」を切り盛りするようになっている。
一方、神林東吾の母方の父であり幕府の御典医であった麻生家は維新の混乱の中で何者かに襲われて一家皆殺しにあい、外出していて生き残った新進気鋭でさっぱりした気質をもつ麻生宗太郎と娘の花世は、宗太郎が元南町奉行所与力で東吾の兄である神林通之進の住む家の隣で医院を開設し、天真爛漫で鋭さをもつが情にも厚い花世が「かわせみ」に下宿しながら築地居留地にあるA6番女学校に通いながらその居留地にあるイギリス人医師バーンズの手伝いをする境遇になっている。花世は、やがてA6番女学校の教師となる。ちなみにA6番女学校は現在の女子学院に繋がっている。
神林東吾の友人で共に数々の事件を解決していた元南町奉行所同心の「畝源三郎」は、麻生家の事件を調べている途中で何者かによって銃撃されて非業の死を遂げ、その子「畝源太郎」はひとり畝家に残ってそれらの事件を調べている。東吾の子ではあるが神林通之進の養子となっている神林麻太郎や千春、麻生花世とは深い友情で結ばれており、探偵稼業をしながら司法を学んでいく。
神林麻太郎は、自分の実の父が東吾であるとは知らないが、東吾によく似て行動力も好奇心も旺盛で、さっぱりした気性と鋭い思索をもち、殺された麻生家の息子の代わりにイギリスに留学して医学を学び、築地居留地のバーンズ医師のもとに下宿して、新進気鋭の医者として働きながら畝源太郎を手伝っていく。それは、父の神林東吾と畝源三郎との関係を彷彿させるものである。
明治編の物語は、その神林麻太郎がイギリス留学から帰国するところから始まるが、神林麻太郎、畝源太郎、神林千春、麻生花世、そして「るい」や麻生宗太郎、神林通之進、かつての畝源三郎の下働きをしていた蕎麦屋の長助、「かわせみ」の人たち、バーンズ医師やその家族など多彩な、そしてそれぞれ特徴のある人物たちによって物語が織りなされていく。維新後という変化の激しい時代を背景として、変わっていく世相の中でそれらの人々がどのように生きていくかということも大きなテーマとなっている。
最初の事件は、バーンズ診療所の患者である貿易商のスミス家で高価なダイヤの指輪が紛失し、疑いをかけられた中国人の下女を助けるために花世が畝源太郎と神林麻太郎に助力を求めているうちに、もう一人のイギリス人下女が殺され、その事件の真相を暴いていくというのもで、第二話「蝶丸屋降りん」は、本妻の子と妾の子がいた「蝶丸屋」という大店で、妾の子が死んだ事件の謎を麻太郎の新しい医学の知識などを用いて解決していく話である。
そして、第三話「桜十字の紋章」は、明治政府がとった「神仏分離令」などによって起こった混乱に乗じて宗教の名を借りて老人を殺して財産を巻き上げていた擬似宗教集団の事件を解決して行くというもので、ここでは聡明で冷静な神林通之進も大活躍をする。第四話「花世の縁談」は、縁談が起こっても見向きもしないで我が道を行っている花世が親しくしているローランドという若い医者が処方した薬を飲んでいた患者が毒物中毒にかかった事件で、それはかつてその患者を診ていた医者が知識を誤ったものであることを突きとめていくものである。いずれも、政治も知識も、何もかにもが中途半端な状態が続いた明治期に、確かな知識と目をもって事柄にあたっていく麻太郎や花世、畝源太郎によって事件の真相が明らかになり、それを「るい」や神林通之進らが助けていく展開である。
第五話「江利香という女」は、「かわせみ」に止まっていた絵師夫婦の「江利香」という女が殺された。その事件を調べてみると、実は、江利香の妹と弟が借金のかたに女衒(ぜげん-女を売買する者)に捕らわれそうになったのを助けるために夫婦を装い、彼女が奔走していたことが分かり、源太郎と麻太郎がその妹と弟を助けだしていくという話である。
そして、最後の「天が泣く」は、長い間苦労して麻生家の事件と畝源三郎の死の真相を探っていた花世、源太郎、麻太郎たちが、それぞれの持ち味を生かして、ついに事柄の真相を暴きだしていく話である。ここには、当時の青山にあった牧場などが細かな背景として置かれている。あえて詳細は記さないが、「天が泣く」というのは、真に見事な表題で、それぞれの青年たちがその悲劇を乗り越えて、ここからまた新しく出発して行く。
『御宿かわせみ』も『新・御宿かわせみ』も、この作品の優れて感動的なところは、それぞれに登場する主人公たちとそれらをめぐる人々が深い信頼と情で結ばれているところである。そして、それが温かい。文章に一つ一つが洗練されて、その温かみが伝わる。俵万智さんの歌を借りていえば、「寒いねと語りかければ 寒いねと こたえる人のいるあたたかさ」の「温かさ」があるのである。それが確かな時代と社会背景への視点の中で生き生きと描かれているのである。読んでいて本当に嬉しくなる。
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