曇り時々晴れ、そして雨模様という梅雨特有の蒸し暑い日になった。昨日はなんだか疲れ果ててしまい、夕方から外出の準備はしたものの、結局出かけずにうつらうつらと眠りこけてしまった。今朝起き出して汗を滴らせながら久しぶりに家中の掃除はしたものの、今、また睡魔に襲われつつある。佐藤雅美の「居眠り紋蔵」ではないが、突如として眠気を感じる。
一昨日の土曜日に杉本章子『狐釣り 信太郎人情始末帖』(2002年 文藝春秋社)を読んだ。これは、このシリーズの3作目で、先に読んだ『水雷屯』の続編に当たるもので、呉服太物店の総領息子であったが、許嫁がある身で吉原の茶屋千歳屋の子持ちの女将に惚れ、結婚を反故にして女将の元に走ったために勘当され、芝居小屋の大札(経理)の手伝いをしながら過ごしている信太郎が持ち前の知恵を働かせて身辺に起こる事件を解決していく物語である。
前作で茶屋の女将との間に子どもができたことを告げられ、女将の連れ子の千代太とも納得がいくように話をして結婚をすることを決意したが、老いて病を抱える父親のことや実家の先行きのこと、女将が営む茶屋の先行きのことなど悩みはつきなかった。そして、本作では、無事に女の子が生まれるが、その子の人別(戸籍)をどうするか、いよいよ決めなければならない事態になっていくのである。
そういう信太郎自身の身の振り方を考えなければならない状態を縦糸にして、以前、彼の許嫁であった女性の家に押し込み強盗が入り、その女性「おすず」が自害してしまった事件で、せめてもの罪滅ぼしと強盗の探索に力を貸して捕らえた強盗の首領たちが牢抜けをして、逆恨みで信太郎の命を狙っている事件や、彼の幼なじみで岡っ引きの手下をしている末吉にまつわる事件が横糸となって物語が織りなされている。
末吉は火事の時に知り合った女性に惚れ、結婚を考えているが、その女性は行方不明になった医者の妻で、その医者がどうなったのかをはっきりさせてから晴れて夫婦になりたいと思い、医者の行方を探り始める。そして、その医者が実は生きていて、商家の乗っ取りを企む悪徳金貸しの手先となって商家の主の毒殺に手を貸していることがわかる。悪徳金貸しは、正体がばれそうになって末吉を刺し、女性は末吉が死んだと思い、自ら毒を飲んで死ぬ。
末吉は一命を取り留め、信太郎は同心や岡っ引きと協力して、悪徳金貸しの悪行の証拠を探し出し、事件を解決していくのである。
信太郎は呉服太物店の跡継ぎとして、算用、始末、才覚も申し分のない人間である。礼儀も正しいし、情もある。企業家としての豊かな才に恵まれている。そして、込み入った事件の真相を暴く知恵も豊かである。しかし、茶屋の女将に惚れ、親を泣かし、周囲を嘆かせ、許嫁を捨てた。彼の妹も婿を取ることができない男に惚れているので、呉服太物店の先行きを案じ続けるが、惚れた女との間に子どももでき、これからどうするか思案し続けなければならない状態に置かれている。
状況が切迫して人は悩むが、本書の主人公は、そういう悩みの中に置かれていても、自分がごく当たり前だと思う友情や愛情に素直であろうとし続けている。それが本書の主人公の魅力のように思われる。ただ、本書では、彼の悩みの糸口のようなものが記されている。それは、彼を勘当した父親が、お互いに馴染んでいくために女将の連れ子の千代太を自分の店で引き取って、千代太を正式な跡継ぎとしてもよいと考えていることである。種々のことから勘当を簡単に解くことはできないが、信太郎の思いと生き方を受け止めようとする親の才覚のある道筋を示そうとするのである。果たしてそれがどうなるかは、本書ではまだ語られないが、それぞれの事情を抱えた者たちが可能な限り幸福であるようにという物語の基調をそこに見ることができるような気がするのである。
人は、もし単純に言うことができるとするならば、誰でも幸せになりたいと願う。そしてそう願っていてもうまくいかない事態が常に起こる。そこには、よこしまな欲や自己保身の思いが働いている。しかし、人が幸福になることができる条件は、究極的にはたった一つしかない。それは、言い尽くされてきたことではあるが「愛情」、しかも本物の愛情に他ならない。
この物語は、そうした愛情の姿を登場人物たちが示していく物語である。このシリーズはまだ続いているので、これから主人公がどうなるのか見ていきたいと思っている。
2010年6月28日月曜日
2010年6月25日金曜日
多岐川恭『紅屋お乱捕物秘帖』
今日も梅雨空が重い。予報では梅雨の晴れ間の日となっていたが、灰色の世界が広がっている。参議院選挙が始まって、各党の政策も発表され、政治は暮らしに直結しているだけに、今の各党の政策には愕然とさせられるものが多い。政治はこれでまた全く、ますます「信用」というものを失うだろう。テレビは今、サッカー、テニス、ゴルフ、野球とスポーツ番組が花盛りで、どのスポーツもなじみがあるので観るのは面白いが、人の暮らしと社会現象が大きく乖離し始めているのを感じたりする。ローマ帝国が滅んでいく過程で、人々がスポーツや演劇に熱狂した現象を思い起こしたりもする。世の中は本当に騒がしい。そして、騒がしい人々はいつも愚かである。
それはそれとして、昨日、多岐川恭『紅屋お乱捕物秘帖 心中くずし』(1999年 徳間文庫)をおもしろおかしく読んだ。娯楽時代小説として、多岐川恭の時代小説の作品はなかなかのものだとつくづく思う。どの時代小説も、登場人物の設定がある意味で独特の、こういう人間がいたら面白く生きていけるだろうという設定になっている。
多岐川恭は直木賞作家で、ことさら歴史考察や江戸の地理や風俗についての考察をひけらかすことはないし、現実性を強調することはないが、物語の背景としてのそれらはしっかりと踏まえられている。
『紅屋お乱捕物秘帖 心中くずし』は、1991年に双葉社から出された『紅屋お乱捕物秘帖』の続編で、おそらくシリーズ化される予定であったのかも知れないが、多岐川恭は1994年に亡くなっているので、この題名の書物はこの二冊だけになっている。
人物の設定がしっかりしていて、ある意味で理想的な人間の設定になっているから、それを記すと、この物語の中心人物は、紅おしろいなどを取り扱う「紅屋」という店をやっている「お乱」である。「お乱」は、誰もがほれぼれするような美貌の持ち主で、ひとり者であるが、さばけた鷹揚な人柄をもち、捕り物好きで、英知に富み、名推察を働かせ、鎖分銅などの遣い手である。捕物名人の「お乱姐さん」として名をはせている。
この「お乱」の店を手伝う妹分の「お勝」は、華奢な体つきであるが柔術の名手で、「お乱」を助けていく。
「お乱」がいつも訪れる破れ寺には、破戒僧の「空源」と虚無僧をしている真岡繁次郎が住み、いずれも元は侍で、めっぽう腕が立つが、荒れ寺に住み着いて、それぞれ僧と虚無僧を自称している。「空源」は情熱的で、繁次郎は冷静である。荒れ寺には「空源」の昔の恋人の娘の「お時」も同居し、二人の世話をしているが、「お時」は悪い男たちにさんざんもてあそばれ、悪事の手伝いをしていたいきさつがあって(おそらく前作で記されているだろう)、「お乱」たちに助けられ、そのまま荒れ寺に居着いているのである。
そして、その荒れ寺に、少し間の抜けた岡っ引きの「鎌吉」というのが出入りして、様々な難事件を持ち込んできては、「お乱」たち一行の助けによって解決していくのであり、「お乱」をライバルとして、また弟子としてみているが、いつも「お乱」にはかなわない。
こうした人物たちが、それぞれの個性を発揮しながら男と女の色と欲に絡んだ事件を暴いていくのだから、物語が面白くないわけはない。事件そのものも、巧妙に心中を装った商家の乗っ取りであったり、昔の裏切られた恨みを晴らす事件であったり、飼い犬を使った強盗殺人事件やSMの猟奇的事件であったりして、人間の色と欲そのものであり、それが真に理を得て描かれ、それに対する「お乱」たちのさわやかさが光るのがとてもいい。
何よりも彼らの暮らしぶりが面白く、「極貧ながら浮世離れした明け暮れがばかに気に入った」(文庫版8ページ)暮らしであり、「毎日毎日、のんべんだらりとしていやがって、お天道様にはずかしくねえか?」(文庫版126ページ)と言われる暮らしであり、「お乱」たちはそのような暮らしぶりを嬉々として営んでいるのである。
個人的に、こういう暮らしぶりとその表現がいたく気に入って、こういう人たちが実際に身近にいたら、生きることは本当に面白いだろうと思ったりするような人物と暮らしである。作者には、同じように世間の風をどこ吹く風と受け止めて生きるような人物を主人公にした『ゆっくり雨太郎捕物控』という傑作のシリーズがあり、こちらも今ぜひ読んでみたいと思っている。
「極貧ながら浮世離れした明け暮れを嬉々として送る」というのは、今のわたしにとっては理想的ですらある。
それはそれとして、昨日、多岐川恭『紅屋お乱捕物秘帖 心中くずし』(1999年 徳間文庫)をおもしろおかしく読んだ。娯楽時代小説として、多岐川恭の時代小説の作品はなかなかのものだとつくづく思う。どの時代小説も、登場人物の設定がある意味で独特の、こういう人間がいたら面白く生きていけるだろうという設定になっている。
多岐川恭は直木賞作家で、ことさら歴史考察や江戸の地理や風俗についての考察をひけらかすことはないし、現実性を強調することはないが、物語の背景としてのそれらはしっかりと踏まえられている。
『紅屋お乱捕物秘帖 心中くずし』は、1991年に双葉社から出された『紅屋お乱捕物秘帖』の続編で、おそらくシリーズ化される予定であったのかも知れないが、多岐川恭は1994年に亡くなっているので、この題名の書物はこの二冊だけになっている。
人物の設定がしっかりしていて、ある意味で理想的な人間の設定になっているから、それを記すと、この物語の中心人物は、紅おしろいなどを取り扱う「紅屋」という店をやっている「お乱」である。「お乱」は、誰もがほれぼれするような美貌の持ち主で、ひとり者であるが、さばけた鷹揚な人柄をもち、捕り物好きで、英知に富み、名推察を働かせ、鎖分銅などの遣い手である。捕物名人の「お乱姐さん」として名をはせている。
この「お乱」の店を手伝う妹分の「お勝」は、華奢な体つきであるが柔術の名手で、「お乱」を助けていく。
「お乱」がいつも訪れる破れ寺には、破戒僧の「空源」と虚無僧をしている真岡繁次郎が住み、いずれも元は侍で、めっぽう腕が立つが、荒れ寺に住み着いて、それぞれ僧と虚無僧を自称している。「空源」は情熱的で、繁次郎は冷静である。荒れ寺には「空源」の昔の恋人の娘の「お時」も同居し、二人の世話をしているが、「お時」は悪い男たちにさんざんもてあそばれ、悪事の手伝いをしていたいきさつがあって(おそらく前作で記されているだろう)、「お乱」たちに助けられ、そのまま荒れ寺に居着いているのである。
そして、その荒れ寺に、少し間の抜けた岡っ引きの「鎌吉」というのが出入りして、様々な難事件を持ち込んできては、「お乱」たち一行の助けによって解決していくのであり、「お乱」をライバルとして、また弟子としてみているが、いつも「お乱」にはかなわない。
こうした人物たちが、それぞれの個性を発揮しながら男と女の色と欲に絡んだ事件を暴いていくのだから、物語が面白くないわけはない。事件そのものも、巧妙に心中を装った商家の乗っ取りであったり、昔の裏切られた恨みを晴らす事件であったり、飼い犬を使った強盗殺人事件やSMの猟奇的事件であったりして、人間の色と欲そのものであり、それが真に理を得て描かれ、それに対する「お乱」たちのさわやかさが光るのがとてもいい。
何よりも彼らの暮らしぶりが面白く、「極貧ながら浮世離れした明け暮れがばかに気に入った」(文庫版8ページ)暮らしであり、「毎日毎日、のんべんだらりとしていやがって、お天道様にはずかしくねえか?」(文庫版126ページ)と言われる暮らしであり、「お乱」たちはそのような暮らしぶりを嬉々として営んでいるのである。
個人的に、こういう暮らしぶりとその表現がいたく気に入って、こういう人たちが実際に身近にいたら、生きることは本当に面白いだろうと思ったりするような人物と暮らしである。作者には、同じように世間の風をどこ吹く風と受け止めて生きるような人物を主人公にした『ゆっくり雨太郎捕物控』という傑作のシリーズがあり、こちらも今ぜひ読んでみたいと思っている。
「極貧ながら浮世離れした明け暮れを嬉々として送る」というのは、今のわたしにとっては理想的ですらある。
2010年6月22日火曜日
佐藤雅美『天才絵師と幻の生首 半次捕物控』
雨模様ではないが湿気のある重い空気と灰色の雲が広がって、梅雨の何とも言えない中途半端な気怠さを感じる日となった。首から左肩の痛みが残っていて睡眠がうまくとれないのか、よけい気怠さを感じてしまう。昨日は、少し事務的な仕事をしながら、先日話をした「カフカ論」の草稿に手を入れたり、加筆をしたりしていたが、中途半端な天気は、人間存在の中途半端な姿を描いたカフカ的な天気だと言えるかも知れない。
先日から佐藤雅美『天才絵師と幻の生首 半次捕物控』(2008年 講談社)を読んでいた。これはこのシリーズの七作目で、今のところこのシリーズでは一番新しい物で、本書には「膏薬と娘心」、「柳原土手白昼の大捕り物」、「玉木の娘はドラ娘」、「真田源左衛門の消えた三十日」、「殺人鬼・左利きの遣い手」、「奇特の幼女と押し込み強盗」、「取らぬ狸の皮算用」、「天才絵師と幻の生首」の八編の短編が収められた連作集で、岡っ引きの半次を引き回し役にしてそれぞれの事件の顛末が述べられたものである。
枯れて乾いたような行為や事情だけを淡々と述べた文章によって、火付けとして捕らえられた娘の事情を明らかにした「膏薬と娘心」、兄弟の犯罪を次々と半次によって暴かれた男が逆恨みして半次を狙ったが、柳原土手で捕まえられた男の事件、「玉木の娘はドラ娘」という囃子詞でうわさ話を振りまいた事件、真田源左衛門という浪人を敵として果たし合いを申し入れたが、仇討ちの場に現れなかった双方の事情を明らかにした「真田源左衛門の消えた三十日」、左利きの遣い手と思われる殺人事件の顛末を暴いた事件、押し込み強盗に入ったが十歳の幼女の勇気によって助かった商家の事件、幼なじみの戯作者と絵師の争いの顛末を記した「取らぬ狸の皮算用」、子どもが描いた生首の絵にまつわる事件、などが語られていく。
作者の佐藤雅美は、以前から、事柄のリアリティーを大事にする作家で、勢い、人間の心情や思い以上に事柄の客観的なことが語られる傾向があったが、本書では、その傾向がますます強くなり、たとえば、このシリーズの初期の頃には、半次の岡っ引きとしての苦労や、生活の苦労、彼自身の女性にまつわる話によって半次が反問していく姿が描かれていたが、本書では、事件の顛末が半次の推理と共に淡々と客観的に述べられるだけになっている。
そのために、わたしのような人間にとって、それぞれの事件に関わる人間の「深み」が描かれずに少々の物足りなさを感じるし、シリーズの重要な脇役として登場する奇異な人物である蟋蟀小三郎の存在にも、彼が金好きで女好き、自分勝手で思い込みが激しいがかなりの剣の使い手で、半次と腐れ縁のようにしてもつれていることが語られはするが、また、ユーモアを添える人物として描かれるが、もう一つ膨らみがあってもいいように思われるのである。
現実性(リアリティー)や客観性を重んじると、なるほど人間の姿は、その行為と彼が語る言葉によってしか表すことができない。その意味では作者がたどり着いている地平は、一つの地平ではあるだろう。行為が存在を規定するあり方は現代の特徴でもある。しかし、人間は行為がすべてではない。また、文学が行為の記録だけとなるなら、それは記録や歴史書であって、文学作品とはならないのではないだろうか。実際の作品では、そのあたりの兼ね合いが難しいところだろうが、枯れた文章に魅力を感じつつも、どこか文学作品としての読後感に薄さを感じてしまう気がするのである。
この作品は、それはそれとして面白く読めるのだが、あまりにも淡々とした記述にそんなことを感じさせられていた。
今日はあざみ野の山内図書館に本を返却しなければならない。昨日が整理日とかで休館だったので、本当は昨日返却予定だったが、いくつかの薬を薬局で買う必要もあり、今日出かけることにした。昨日の夕方は、訪ねてきてくれた中学生のSちゃんに数学の「相似」の話をするついでではあったが、古代ギリシャの初期の哲学たちについて話をした。「相似」は古代ギリシャの初期の哲学者タレスによって使われた方法で、タレスは数学的な「相似」を用いることで、実際に測ることができないピラミッドの高さを測った人だが、この時代の哲学者たちの「観察眼」には恐れ入る。タレスは「観察」による学問の方法を確立した人だと言える。物事をよく観察すること、これが方法と結果を生むということを改めて思う。
先日から佐藤雅美『天才絵師と幻の生首 半次捕物控』(2008年 講談社)を読んでいた。これはこのシリーズの七作目で、今のところこのシリーズでは一番新しい物で、本書には「膏薬と娘心」、「柳原土手白昼の大捕り物」、「玉木の娘はドラ娘」、「真田源左衛門の消えた三十日」、「殺人鬼・左利きの遣い手」、「奇特の幼女と押し込み強盗」、「取らぬ狸の皮算用」、「天才絵師と幻の生首」の八編の短編が収められた連作集で、岡っ引きの半次を引き回し役にしてそれぞれの事件の顛末が述べられたものである。
枯れて乾いたような行為や事情だけを淡々と述べた文章によって、火付けとして捕らえられた娘の事情を明らかにした「膏薬と娘心」、兄弟の犯罪を次々と半次によって暴かれた男が逆恨みして半次を狙ったが、柳原土手で捕まえられた男の事件、「玉木の娘はドラ娘」という囃子詞でうわさ話を振りまいた事件、真田源左衛門という浪人を敵として果たし合いを申し入れたが、仇討ちの場に現れなかった双方の事情を明らかにした「真田源左衛門の消えた三十日」、左利きの遣い手と思われる殺人事件の顛末を暴いた事件、押し込み強盗に入ったが十歳の幼女の勇気によって助かった商家の事件、幼なじみの戯作者と絵師の争いの顛末を記した「取らぬ狸の皮算用」、子どもが描いた生首の絵にまつわる事件、などが語られていく。
作者の佐藤雅美は、以前から、事柄のリアリティーを大事にする作家で、勢い、人間の心情や思い以上に事柄の客観的なことが語られる傾向があったが、本書では、その傾向がますます強くなり、たとえば、このシリーズの初期の頃には、半次の岡っ引きとしての苦労や、生活の苦労、彼自身の女性にまつわる話によって半次が反問していく姿が描かれていたが、本書では、事件の顛末が半次の推理と共に淡々と客観的に述べられるだけになっている。
そのために、わたしのような人間にとって、それぞれの事件に関わる人間の「深み」が描かれずに少々の物足りなさを感じるし、シリーズの重要な脇役として登場する奇異な人物である蟋蟀小三郎の存在にも、彼が金好きで女好き、自分勝手で思い込みが激しいがかなりの剣の使い手で、半次と腐れ縁のようにしてもつれていることが語られはするが、また、ユーモアを添える人物として描かれるが、もう一つ膨らみがあってもいいように思われるのである。
現実性(リアリティー)や客観性を重んじると、なるほど人間の姿は、その行為と彼が語る言葉によってしか表すことができない。その意味では作者がたどり着いている地平は、一つの地平ではあるだろう。行為が存在を規定するあり方は現代の特徴でもある。しかし、人間は行為がすべてではない。また、文学が行為の記録だけとなるなら、それは記録や歴史書であって、文学作品とはならないのではないだろうか。実際の作品では、そのあたりの兼ね合いが難しいところだろうが、枯れた文章に魅力を感じつつも、どこか文学作品としての読後感に薄さを感じてしまう気がするのである。
この作品は、それはそれとして面白く読めるのだが、あまりにも淡々とした記述にそんなことを感じさせられていた。
今日はあざみ野の山内図書館に本を返却しなければならない。昨日が整理日とかで休館だったので、本当は昨日返却予定だったが、いくつかの薬を薬局で買う必要もあり、今日出かけることにした。昨日の夕方は、訪ねてきてくれた中学生のSちゃんに数学の「相似」の話をするついでではあったが、古代ギリシャの初期の哲学たちについて話をした。「相似」は古代ギリシャの初期の哲学者タレスによって使われた方法で、タレスは数学的な「相似」を用いることで、実際に測ることができないピラミッドの高さを測った人だが、この時代の哲学者たちの「観察眼」には恐れ入る。タレスは「観察」による学問の方法を確立した人だと言える。物事をよく観察すること、これが方法と結果を生むということを改めて思う。
2010年6月17日木曜日
宮部みゆき『あやし~怪~』(2)
日中の気温が30度を超える蒸し暑い日になった。こういう蒸し暑さは、疲れやすくなっている身体にこたえる。ひどく眠気を覚えて横になり、うとうとしながらではあるが、宮部みゆき『あやし~怪~』の残りの四編、「女の首」、「時雨鬼」、「灰神楽」、「蜆塚(しじみづか)」を読み終えた。いずれも短編としてはよくまとめられた作品である。
「女の首」は、母親を亡くして袋物屋に奉公に出た子どもが、その奉公先の納戸として使われている部屋の襖に女の首が浮かび上がるのを見て、脅えてしまうが、そのことによって自分の素性が、実はその奉公先から幼い頃に拐かされた息子であったということを知っていく話で、襖に浮かび上がった女の首は、その店の若旦那に勝手に惚れて、悋気して、ひとり息子を拐かし、追われてその息子をカボチャ畑に捨てたが、捕まえられて獄門になった女で、息子を育てたのは、カボチャの葉に守られて助かったのを見つけた女性だった。そして、女の首の亡霊に取り殺されそうになった息子を、亡くなった後も守っていたのである。息子は機転を利かせて女の首の亡者を片付け、守り神としてカボチャを大事にしているという話である。
「時雨鬼」は、男に言い寄られて、今の仕事を辞めて金になるところで働けという甘言で出会茶屋に売られそうになった娘が、不安を抱えて自分に仕事を世話してくれた口入屋に相談に出かけたところ、その口入屋の女将さんだという女が出てきて、自分の過去のことを話し、言い寄ってくる男が信用できないと諭すのだが、昔、時雨時に鬼を見たという話をする。やがて、不安のまま日々を過ごしている娘の所に岡っ引きが訪ねてきて、実は彼女が口入屋を訪ねた時には、その主人は殺されており、その時出てきた女将さんというのは、強盗の一味ではないかと言う。そして、甘言をもって言い寄ってくる男の背後に時雨鬼の幻影を見せる。娘がその後どうしたかは触れられない。
「灰神楽」は、古い火鉢を使っていたまじめでおとなしい女中が、突然、何かに憑かれたように店の主一家の弟に斬りつける。女中と弟には何の関係もない。岡っ引きがその事件を調べ、使っていた火鉢に何か因縁があるのではないかと思い、それを古い寺に預ける。そして、寺の住職から、確かに火鉢から灰神楽がたって、そこから人の怨念が出てきたという手紙をよこすという話である。
「蜆塚」は、亡くなった父親の後を継いで桂庵(口入屋)をするようになった男が、父の友人の病を聞いて蜆をもって見舞いに行き、そこで、何十年も死なずに元の姿で、十数年ごとに仕事の世話を頼みに来る人間がいるという話を聞く。見舞いに行った翌日、その話をした父の友人は死に、彼はその話の証拠を探し始めるが、しばらくして、蜆のいる堀で死んでしまう。そういう人間がいても沿っといておくのが一番だ、という警句を無視したからだろう。彼が死んだ堀に「蜆塚」が建てられた。
これらの短編は、ただ「あやし~怪~」の話である。だからどうだと言うことはない。人間のすさまじい業が「あやし(怪)」として出現する。「あやし(怪)」という姿を借りて、そういう現実を物語ったものである。
わたしのように何事もあきらめの早い人間は、怨念という「念」を抱き続けることもできないが、確かに自分の中には「悪」とでも呼ばなければならないようなものがあるのは事実であり、自分の中に「鬼」が住んでいるのではないかと思えるようなことがある。宮部みゆきは、それを「あやし(怪)」として具現化して作品を書いているが、そこに善悪の判断を軽々しく押しつけないところがよい。ただ、どうせ書くなら、怪談話を超えるようなもっとおどろおどろしたものでもよかったかも知れないが、そこに作者の優しさもあるのだろう。
明日からまた雨らしい。雨の景色をぼんやり眺めるのは本当に好きだが、出かけるにはうっとうしい。そして、雨の日はつくづく寂しさも感じたりする。まあ「ケセラセラ」であり「Let it be」とは思っているが。
「女の首」は、母親を亡くして袋物屋に奉公に出た子どもが、その奉公先の納戸として使われている部屋の襖に女の首が浮かび上がるのを見て、脅えてしまうが、そのことによって自分の素性が、実はその奉公先から幼い頃に拐かされた息子であったということを知っていく話で、襖に浮かび上がった女の首は、その店の若旦那に勝手に惚れて、悋気して、ひとり息子を拐かし、追われてその息子をカボチャ畑に捨てたが、捕まえられて獄門になった女で、息子を育てたのは、カボチャの葉に守られて助かったのを見つけた女性だった。そして、女の首の亡霊に取り殺されそうになった息子を、亡くなった後も守っていたのである。息子は機転を利かせて女の首の亡者を片付け、守り神としてカボチャを大事にしているという話である。
「時雨鬼」は、男に言い寄られて、今の仕事を辞めて金になるところで働けという甘言で出会茶屋に売られそうになった娘が、不安を抱えて自分に仕事を世話してくれた口入屋に相談に出かけたところ、その口入屋の女将さんだという女が出てきて、自分の過去のことを話し、言い寄ってくる男が信用できないと諭すのだが、昔、時雨時に鬼を見たという話をする。やがて、不安のまま日々を過ごしている娘の所に岡っ引きが訪ねてきて、実は彼女が口入屋を訪ねた時には、その主人は殺されており、その時出てきた女将さんというのは、強盗の一味ではないかと言う。そして、甘言をもって言い寄ってくる男の背後に時雨鬼の幻影を見せる。娘がその後どうしたかは触れられない。
「灰神楽」は、古い火鉢を使っていたまじめでおとなしい女中が、突然、何かに憑かれたように店の主一家の弟に斬りつける。女中と弟には何の関係もない。岡っ引きがその事件を調べ、使っていた火鉢に何か因縁があるのではないかと思い、それを古い寺に預ける。そして、寺の住職から、確かに火鉢から灰神楽がたって、そこから人の怨念が出てきたという手紙をよこすという話である。
「蜆塚」は、亡くなった父親の後を継いで桂庵(口入屋)をするようになった男が、父の友人の病を聞いて蜆をもって見舞いに行き、そこで、何十年も死なずに元の姿で、十数年ごとに仕事の世話を頼みに来る人間がいるという話を聞く。見舞いに行った翌日、その話をした父の友人は死に、彼はその話の証拠を探し始めるが、しばらくして、蜆のいる堀で死んでしまう。そういう人間がいても沿っといておくのが一番だ、という警句を無視したからだろう。彼が死んだ堀に「蜆塚」が建てられた。
これらの短編は、ただ「あやし~怪~」の話である。だからどうだと言うことはない。人間のすさまじい業が「あやし(怪)」として出現する。「あやし(怪)」という姿を借りて、そういう現実を物語ったものである。
わたしのように何事もあきらめの早い人間は、怨念という「念」を抱き続けることもできないが、確かに自分の中には「悪」とでも呼ばなければならないようなものがあるのは事実であり、自分の中に「鬼」が住んでいるのではないかと思えるようなことがある。宮部みゆきは、それを「あやし(怪)」として具現化して作品を書いているが、そこに善悪の判断を軽々しく押しつけないところがよい。ただ、どうせ書くなら、怪談話を超えるようなもっとおどろおどろしたものでもよかったかも知れないが、そこに作者の優しさもあるのだろう。
明日からまた雨らしい。雨の景色をぼんやり眺めるのは本当に好きだが、出かけるにはうっとうしい。そして、雨の日はつくづく寂しさも感じたりする。まあ「ケセラセラ」であり「Let it be」とは思っているが。
2010年6月16日水曜日
宮部みゆき『あやし~怪~』(1)
本格的な梅雨入りをしたようで、重い雲が広がって、湿度が高い。ときおり晴れ間が見えたかと思うと雨が滴るように降る。先日から、宮部みゆき『あやし~怪~』(2000年 角川書店)を読んでいるが、集中して読む時間がとれずに、なかなか読み進まない。
これは、強欲や嫉妬心、怨念、恨みといった人の心のない奥に潜む悪が「あやし(怪)」として出現したものとして描き出した短編集で、「居眠り心中」、「影牢」、「布団部屋」、「梅の雨降る」、「安達家の鬼」、「女の首」、「時雨鬼」、「灰神楽」、「蜆塚(しじみづか)」の九編が収録されている。
宮部みゆきは、短編よりも長編の方が物語の展開が十分丹念に進むし、設定されている主人公の特質がよく現れて読み応えがあるように思うし、本質的に長編作家だろうと思うが、短編も、短編なりの創作技法が試みられたりして、作者の意欲的な取り組みを感じることができる。
たとえば、「陽牢」は、始めから終わりまで独白(モノローグ)の形が取られており、商家の一家全員毒殺の事件の事情を調べに来た同心に、その商家に仕えていた番頭が答えていくという形で、そのモノローグによって、息子夫婦に座敷牢に閉じ込められて殺された母親の言い尽くせない恨みが亡霊のようになって出現し、母親に手ひどい仕打ちをした息子夫婦をはじめとする商家が滅びていく姿を描いたものである。モノローグで物語を展開する手法は、ことさら新しいものではないが、物語作家としての作者の力がよく発揮されている。
貧しい家庭で幼い頃から奉公に出なければならなかった姉妹の深い愛情を描き、亡くなった姉によって守られる妹の姿を奉公のつらさと共に描いた「布団部屋」や、その人の悪意の姿によって「鬼」が見えていくという「安達家の鬼」などは、作者が人間の思いやりや情けに対してもつ温かみがあふれた傑作だと言えるだろう。
まだ最初の五編しか読んでおらず、残りの四編については、今夜読み終えるだろうから、明日にでも記すことにする。
先夕、カフカ論の発表のために池袋まで出かけた折、少し休むために、帰りに渋谷の東急デパートの中にあるお蕎麦屋に寄って、久しぶりにおいしいお蕎麦を食べることができた。江戸の昔から関東地方はうどんよりもお蕎麦が主流だが、なかなかおいしい蕎麦に行き当たらなかった。一昨年の秋、長野の戸隠まで、戸隠の伝説を訪ねると同時に蕎麦を食べに研究会の仲間たちと出かけたが、そこでも、本場と言われる蕎麦だがあまりおいしいとは思わなかった。改めて、東京は何でもあるとつくづく思う。
これは、強欲や嫉妬心、怨念、恨みといった人の心のない奥に潜む悪が「あやし(怪)」として出現したものとして描き出した短編集で、「居眠り心中」、「影牢」、「布団部屋」、「梅の雨降る」、「安達家の鬼」、「女の首」、「時雨鬼」、「灰神楽」、「蜆塚(しじみづか)」の九編が収録されている。
宮部みゆきは、短編よりも長編の方が物語の展開が十分丹念に進むし、設定されている主人公の特質がよく現れて読み応えがあるように思うし、本質的に長編作家だろうと思うが、短編も、短編なりの創作技法が試みられたりして、作者の意欲的な取り組みを感じることができる。
たとえば、「陽牢」は、始めから終わりまで独白(モノローグ)の形が取られており、商家の一家全員毒殺の事件の事情を調べに来た同心に、その商家に仕えていた番頭が答えていくという形で、そのモノローグによって、息子夫婦に座敷牢に閉じ込められて殺された母親の言い尽くせない恨みが亡霊のようになって出現し、母親に手ひどい仕打ちをした息子夫婦をはじめとする商家が滅びていく姿を描いたものである。モノローグで物語を展開する手法は、ことさら新しいものではないが、物語作家としての作者の力がよく発揮されている。
貧しい家庭で幼い頃から奉公に出なければならなかった姉妹の深い愛情を描き、亡くなった姉によって守られる妹の姿を奉公のつらさと共に描いた「布団部屋」や、その人の悪意の姿によって「鬼」が見えていくという「安達家の鬼」などは、作者が人間の思いやりや情けに対してもつ温かみがあふれた傑作だと言えるだろう。
まだ最初の五編しか読んでおらず、残りの四編については、今夜読み終えるだろうから、明日にでも記すことにする。
先夕、カフカ論の発表のために池袋まで出かけた折、少し休むために、帰りに渋谷の東急デパートの中にあるお蕎麦屋に寄って、久しぶりにおいしいお蕎麦を食べることができた。江戸の昔から関東地方はうどんよりもお蕎麦が主流だが、なかなかおいしい蕎麦に行き当たらなかった。一昨年の秋、長野の戸隠まで、戸隠の伝説を訪ねると同時に蕎麦を食べに研究会の仲間たちと出かけたが、そこでも、本場と言われる蕎麦だがあまりおいしいとは思わなかった。改めて、東京は何でもあるとつくづく思う。
2010年6月11日金曜日
鳥羽亮『剣客春秋 恋敵』
ほんの時折薄く陽が差す曇り空の下で、今日も日々の暮らしが営まれる。歪んだ構造の中で政治がきしみを立て、経済が揺れ動く。わたしの左肩と腕の痛みのようにどこかすっきりしない状態が世界全体で続いているが、その中で、鳥羽亮『剣客春秋 恋敵』(2005年 幻冬舎)をすっきりと読んだ。
これは前に読んだこのシリーズの2作目の『剣客春秋 女剣士ふたり』に続いたシリーズの5作目で、神田で剣術道場を開いている千坂藤兵衛の娘「里美」が思いを寄せている料理屋の一人息子「彦四郎」の料理屋が巧妙な手口で乗っ取られるのを防いでいく展開になっている。
彦四郎の母「由江」が営む料理屋が、かつてその店の料理人をしていた男「盛蔵」から乗っ取りを謀られる。盛蔵は、傷んできた料理屋の改築の話と自分の娘を彦四郎の嫁にする話をもってくる。その一方で由江の料理屋の料理人を殺し、料理屋を窮地に追い込む。それと同時に、彦四郎が思いを寄せている里美を襲って、自分の娘を押しつけようとする。盛蔵には手荒な手下やごろつきがおり、質屋で悪辣な高利貸しをしている男や手練れの牢人がいて、乗っ取りを画策するのである。
盛蔵らは、ほかにも同じような手口で乗っ取った料理屋や大店がある。娘「里美」と由江・彦四郎の窮地の中で、千坂藤兵衛は、父親として、また剣客として、弟子の同心や岡っ引きと共に真相を探り、これを助けていく。
その間に、江戸の各剣術道場を道場破りしている剣の使い手が藤兵衛の道場にもやってきて、藤兵衛は剣客として彼と対峙することになる。腕はほぼ互角で、木刀の試合では相打ちとなり、真剣勝負へと持ち込まれる。剣の使い手は悪計をもっている盛蔵に言葉巧みに乗せられ里美を襲い、藤兵衛も真剣勝負を覚悟し、やりあうことになる。そして、藤兵衛は、ほんのわずかの差で相手の籠手を打って勝つことができ、盛蔵らの企みも露見し、再び由江の店は立ち直っていく。
そして、娘の里美と彦四郎の縁談も、二人を独立させるということでまとまり、この後の話の展開としてつながっていくのである。
娯楽小説としての醍醐味は十分にある。そして、人を窮地に追いやり、それを助けるような振りを装って乗っ取っていくような乗っ取りの手口は、現代の企業ではもうあまり見られなくなったが、確かにあるのであり、人を陥れようとする意図を持つ人間は確かにいる。「裏切りはいつも接吻と共にやってくる」のであり、「手ひどい仕打ちは善意の仮面をつけている」のである。
作中の中で、千坂藤兵衛は、どっしりとした動かない青眼の構えで相手に対峙する。「動かざること山の如し」である。善意の仮面や隠された悪意の渦の中では、それが最も大事だろう。動かなさすぎるのもどうかと自問したりもするが、「動かない」というのは意味のある存在形態だと改めて思ったりもする。そういう意味でも、動きたくないと思ってごろ寝をしているわたしにとって、これは娯楽小説なのである。
これは前に読んだこのシリーズの2作目の『剣客春秋 女剣士ふたり』に続いたシリーズの5作目で、神田で剣術道場を開いている千坂藤兵衛の娘「里美」が思いを寄せている料理屋の一人息子「彦四郎」の料理屋が巧妙な手口で乗っ取られるのを防いでいく展開になっている。
彦四郎の母「由江」が営む料理屋が、かつてその店の料理人をしていた男「盛蔵」から乗っ取りを謀られる。盛蔵は、傷んできた料理屋の改築の話と自分の娘を彦四郎の嫁にする話をもってくる。その一方で由江の料理屋の料理人を殺し、料理屋を窮地に追い込む。それと同時に、彦四郎が思いを寄せている里美を襲って、自分の娘を押しつけようとする。盛蔵には手荒な手下やごろつきがおり、質屋で悪辣な高利貸しをしている男や手練れの牢人がいて、乗っ取りを画策するのである。
盛蔵らは、ほかにも同じような手口で乗っ取った料理屋や大店がある。娘「里美」と由江・彦四郎の窮地の中で、千坂藤兵衛は、父親として、また剣客として、弟子の同心や岡っ引きと共に真相を探り、これを助けていく。
その間に、江戸の各剣術道場を道場破りしている剣の使い手が藤兵衛の道場にもやってきて、藤兵衛は剣客として彼と対峙することになる。腕はほぼ互角で、木刀の試合では相打ちとなり、真剣勝負へと持ち込まれる。剣の使い手は悪計をもっている盛蔵に言葉巧みに乗せられ里美を襲い、藤兵衛も真剣勝負を覚悟し、やりあうことになる。そして、藤兵衛は、ほんのわずかの差で相手の籠手を打って勝つことができ、盛蔵らの企みも露見し、再び由江の店は立ち直っていく。
そして、娘の里美と彦四郎の縁談も、二人を独立させるということでまとまり、この後の話の展開としてつながっていくのである。
娯楽小説としての醍醐味は十分にある。そして、人を窮地に追いやり、それを助けるような振りを装って乗っ取っていくような乗っ取りの手口は、現代の企業ではもうあまり見られなくなったが、確かにあるのであり、人を陥れようとする意図を持つ人間は確かにいる。「裏切りはいつも接吻と共にやってくる」のであり、「手ひどい仕打ちは善意の仮面をつけている」のである。
作中の中で、千坂藤兵衛は、どっしりとした動かない青眼の構えで相手に対峙する。「動かざること山の如し」である。善意の仮面や隠された悪意の渦の中では、それが最も大事だろう。動かなさすぎるのもどうかと自問したりもするが、「動かない」というのは意味のある存在形態だと改めて思ったりもする。そういう意味でも、動きたくないと思ってごろ寝をしているわたしにとって、これは娯楽小説なのである。
2010年6月10日木曜日
宮部みゆき『あかんべぇ(上・下)』
2~3日続いた梅雨を思わせるような天気が一変して、暑い日差しがよく晴れた空に広がっている。首から肩にかけての違和感はまだ残っているのだが、日々の暮らしと仕事は否応なしにあるわけだし、仕事上の千客や電話は万来するわけだから、もっぱらそれに専念することにしている。
それでも、来週の月曜日に小さな集まりで発表することにしている「カフカ論」を少し進めた。あらためてF.カフカについて考えているわけだが、カフカは作品の中で、「核心に至ることができない人間」の姿を描いているし、いつも「満たされることのない自分」というものを感じていたのかもしれないと思ったりする。
それにしても、文学が思想や哲学に意味を持たなくなって久しくなるが、哲学的考察の対象となるような作家が少なくなったとつくづく思ったりもする。人間の思想自体が大きな混迷期に入っているのだからやむを得ないとは思うが、思想と思想を具現化する言葉が軽くなって意味をなさなくなった現象が政治や経済に噴出して、相対化がここまで進んでしまうと今後どうなるのだろうかと思ったりする。人間が大切にすべきものを大切にしなくなったことを感じ続けている。
歴史・時代小説の方は、これはもちろん根本的にファンタジーの世界に属することであるが、宮部みゆき『あかんべぇ(上下)』(2007年 新潮社文庫)を大変面白く読んだ。宮部みゆきは、文学が人間の抱える問題をリアルに織り込んだファンタジーであるとすれば、その優れた旗手のひとりであることに間違いはないだろう。彼女の作品のほとんど(SFや現代小説はまだ読んでいないが)が大変面白く、また意味を持ったものであることは、また、どの作品にも「温もり」というものを感じるのは、彼女が作家として相当の力量をもっていることと、その感性の豊かさを思わせるものである。
『あかんべぇ』は、深川で料理屋を始めることになった「ふね屋」の十二歳になる娘「おりん」を中心にして、そこで起こる人間の様々な怨念に基づく出来事を解き明かしていく物語である。
人間は、恨みや嫉妬や欲に絡まれながら生きている。多くの場合、未練を残したまま生きなければならない。その「悪」の部分を、宮部みゆきは、この世に未練や恨みを残したまま彷徨っている亡者、怨霊として描く。だから、十二歳のまっすぐな心を持つ健気な少女「おりん」は、高熱のために死にかけるが、その死の淵から生き返ることで、それらの亡者や怨霊が見える少女として設定されている。
深川の海辺大工町で始めることになった料理屋「ふね屋」には、不幸にも様々な亡者や怨霊が巣くっている。井戸に投げ込まれて殺され、「おりん」にあかんべぇを繰り返す少女、美男だが少し崩れたところのある侍、黒髪も艶やかな美女、按摩治療が得意で、病気で死にかけた「おりん」を治す老人、見るも異形で刀を振り回す浪人。「おりん」にはそれらの亡者の姿が見えるし、美男の侍や美女の亡者はまた、まっすぐで健気な「おりん」を助けていく。
料理屋として始まった「ふね屋」は、両親の苦労の甲斐もなく、異形で刀を振り回す浪人の亡者の乱暴や、弟に殺されたと思って料理人の弟に取り憑いてさんざんな悪を働く兄の亡者によってひどい事態に陥る。彼らの姿が見える「おりん」は、ひとり、それらの原因を探っていこうとする。
他の人には、これらの亡者の姿が見えたり見えなかったりする。その亡者と同じような思いを抱いている人にだけ、その亡者の姿が見えていくのである。「おりん」はそのことによって、自分の周囲にいる人々が抱いている苦しみや悲しみを知っていく。
そしてついに、それらの原因が三十年前にこの地で起こった悪鬼のような寺の住職による大量殺人と関係していたことを知り、また料理人の兄を殺したのが、実は、その妻が家族の温かみを取り戻そうと誤って毒をもってしまったことによることが明らかになっていく。そして、「おりん」がそれらを明らかにすることによって、亡者たちは成仏していくのである。
亡者は亡者である。しかし、宮部みゆきは、一人一人の亡者が抱いている恨みや後悔や未練の姿をやむにやまれぬ悲しい姿として丹念に、そして温かく描き出す。美男の剣士は、遊び人として誰からも理解されなかったが、ひとり、悪鬼のような殺人を繰り返す寺の住職を討つために、寺に乗り込んでそこで死んでしまったのであり、美女は寺の住職の愛人として生きていたのであり、異形の浪人は、身過ぎ世過ぎのためにどうすることもできずに住職の手先となって殺人を繰り返していたのであり、あかんべぇの少女は、実は住職の子で、その住職によって殺されたのである。按摩の老人は、住職が悪行をしていることを承知しながら住職の治療をしていたのである。
美女の亡霊はおりんに言う。
「いつもいつも、目先の欲と色恋ばかりを追いかけて、間違いばかりを繰り返していたあたしの人生の、最後に行き着いた先がそこだったのさ。人でなしの情婦(いろ)さ。だからこそあたしは、あの人の魂がこの世にしがみついているうちは、浄土へ行くことができなかったんだ」(文庫版下 321ページ)
そして、その悪の根源である住職もまた、自分がなぜ人殺しを続けたかということについて、
「仏などおらぬ。どこにもおらぬ。わしはそれを確かめた。多くの者を殺し、その血をこの身に浴びることで確かめた。・・・わしはいつも問いかけていた。大声で問いかけていた。仏はおわしますかと。おわしますならばすぐにでもわしの目の前に現れて、わしにふさわしい罰をお与えくださいと。しかし仏は現れなんだ。呼んでも呼んでも現れなんだ。現れなんだからわしは殺生を続け、呼び続け、とうとう声が嗄れてしもうたのじゃ!」(文庫版下 306ページ)と言う。
人間はかくも悲しい存在である。その悲しい存在であることによって悪が生まれる。だから、宮部みゆきは、その悲しみをそっと包もうとするのである。
それゆえ、この作品の中に、「おりん」をはじめとして、美男の侍の甥である隣家の貧乏旗本の夫婦、「ひね勝」と呼ばれて健気に生きている捨て子の少年、自分が捨て子で苦労したために成功して孤児や貧しい子どもを引き取って育て上げる「おりん」の祖父母、一所懸命に生きようとし、捨てられていた「おりん」を神からの授かり物として愛し、慈しむ「おりん」の両親、などさわやかな人間や健気で懸命に生きている人間を登場させるのが光る。
物語の始まりが、その「おりん」の祖父の生涯であるのも、よく考え抜かれた心憎い演出であり、物語の最後が捨て子の「ひね勝」を「ふね屋」で引き取って、新しい始まりを伝えるのもすばらしい。
文章の中で、たとえば、曇り空を描くのに、「今日はあいにくの曇り模様で、空いっぱいに、綿屋が商いを広げている。それもつやつやの真綿でなしに、灰色の古い綿だ。誰かが天の神さまの布団の打ち直しをしているのかもしれない」(文庫版上 158ページ)という表現や、「今夜は夏がもうひと稼ぎしようという腹づもりであるらしく、ひどくむしむしと寝苦しかったから、団扇のつくる淡い風も嬉しかった」(文庫版下 96ページ)という表現があって、作者の豊かな感性と知性をうかがわせる。曇り空を「綿屋が商いを広げている」とか、蒸し暑さを「夏がもうひと稼ぎしようという腹づもり」とかいうことができるような感性は常人にはなかなか思い浮かばないことである。こういう感性は作者の天性のものかもしれないと感銘を受ける。
人間は悲しく、業深い存在だが、それを温かく包むという作者の姿勢は、本当にすばらしい。
それでも、来週の月曜日に小さな集まりで発表することにしている「カフカ論」を少し進めた。あらためてF.カフカについて考えているわけだが、カフカは作品の中で、「核心に至ることができない人間」の姿を描いているし、いつも「満たされることのない自分」というものを感じていたのかもしれないと思ったりする。
それにしても、文学が思想や哲学に意味を持たなくなって久しくなるが、哲学的考察の対象となるような作家が少なくなったとつくづく思ったりもする。人間の思想自体が大きな混迷期に入っているのだからやむを得ないとは思うが、思想と思想を具現化する言葉が軽くなって意味をなさなくなった現象が政治や経済に噴出して、相対化がここまで進んでしまうと今後どうなるのだろうかと思ったりする。人間が大切にすべきものを大切にしなくなったことを感じ続けている。
歴史・時代小説の方は、これはもちろん根本的にファンタジーの世界に属することであるが、宮部みゆき『あかんべぇ(上下)』(2007年 新潮社文庫)を大変面白く読んだ。宮部みゆきは、文学が人間の抱える問題をリアルに織り込んだファンタジーであるとすれば、その優れた旗手のひとりであることに間違いはないだろう。彼女の作品のほとんど(SFや現代小説はまだ読んでいないが)が大変面白く、また意味を持ったものであることは、また、どの作品にも「温もり」というものを感じるのは、彼女が作家として相当の力量をもっていることと、その感性の豊かさを思わせるものである。
『あかんべぇ』は、深川で料理屋を始めることになった「ふね屋」の十二歳になる娘「おりん」を中心にして、そこで起こる人間の様々な怨念に基づく出来事を解き明かしていく物語である。
人間は、恨みや嫉妬や欲に絡まれながら生きている。多くの場合、未練を残したまま生きなければならない。その「悪」の部分を、宮部みゆきは、この世に未練や恨みを残したまま彷徨っている亡者、怨霊として描く。だから、十二歳のまっすぐな心を持つ健気な少女「おりん」は、高熱のために死にかけるが、その死の淵から生き返ることで、それらの亡者や怨霊が見える少女として設定されている。
深川の海辺大工町で始めることになった料理屋「ふね屋」には、不幸にも様々な亡者や怨霊が巣くっている。井戸に投げ込まれて殺され、「おりん」にあかんべぇを繰り返す少女、美男だが少し崩れたところのある侍、黒髪も艶やかな美女、按摩治療が得意で、病気で死にかけた「おりん」を治す老人、見るも異形で刀を振り回す浪人。「おりん」にはそれらの亡者の姿が見えるし、美男の侍や美女の亡者はまた、まっすぐで健気な「おりん」を助けていく。
料理屋として始まった「ふね屋」は、両親の苦労の甲斐もなく、異形で刀を振り回す浪人の亡者の乱暴や、弟に殺されたと思って料理人の弟に取り憑いてさんざんな悪を働く兄の亡者によってひどい事態に陥る。彼らの姿が見える「おりん」は、ひとり、それらの原因を探っていこうとする。
他の人には、これらの亡者の姿が見えたり見えなかったりする。その亡者と同じような思いを抱いている人にだけ、その亡者の姿が見えていくのである。「おりん」はそのことによって、自分の周囲にいる人々が抱いている苦しみや悲しみを知っていく。
そしてついに、それらの原因が三十年前にこの地で起こった悪鬼のような寺の住職による大量殺人と関係していたことを知り、また料理人の兄を殺したのが、実は、その妻が家族の温かみを取り戻そうと誤って毒をもってしまったことによることが明らかになっていく。そして、「おりん」がそれらを明らかにすることによって、亡者たちは成仏していくのである。
亡者は亡者である。しかし、宮部みゆきは、一人一人の亡者が抱いている恨みや後悔や未練の姿をやむにやまれぬ悲しい姿として丹念に、そして温かく描き出す。美男の剣士は、遊び人として誰からも理解されなかったが、ひとり、悪鬼のような殺人を繰り返す寺の住職を討つために、寺に乗り込んでそこで死んでしまったのであり、美女は寺の住職の愛人として生きていたのであり、異形の浪人は、身過ぎ世過ぎのためにどうすることもできずに住職の手先となって殺人を繰り返していたのであり、あかんべぇの少女は、実は住職の子で、その住職によって殺されたのである。按摩の老人は、住職が悪行をしていることを承知しながら住職の治療をしていたのである。
美女の亡霊はおりんに言う。
「いつもいつも、目先の欲と色恋ばかりを追いかけて、間違いばかりを繰り返していたあたしの人生の、最後に行き着いた先がそこだったのさ。人でなしの情婦(いろ)さ。だからこそあたしは、あの人の魂がこの世にしがみついているうちは、浄土へ行くことができなかったんだ」(文庫版下 321ページ)
そして、その悪の根源である住職もまた、自分がなぜ人殺しを続けたかということについて、
「仏などおらぬ。どこにもおらぬ。わしはそれを確かめた。多くの者を殺し、その血をこの身に浴びることで確かめた。・・・わしはいつも問いかけていた。大声で問いかけていた。仏はおわしますかと。おわしますならばすぐにでもわしの目の前に現れて、わしにふさわしい罰をお与えくださいと。しかし仏は現れなんだ。呼んでも呼んでも現れなんだ。現れなんだからわしは殺生を続け、呼び続け、とうとう声が嗄れてしもうたのじゃ!」(文庫版下 306ページ)と言う。
人間はかくも悲しい存在である。その悲しい存在であることによって悪が生まれる。だから、宮部みゆきは、その悲しみをそっと包もうとするのである。
それゆえ、この作品の中に、「おりん」をはじめとして、美男の侍の甥である隣家の貧乏旗本の夫婦、「ひね勝」と呼ばれて健気に生きている捨て子の少年、自分が捨て子で苦労したために成功して孤児や貧しい子どもを引き取って育て上げる「おりん」の祖父母、一所懸命に生きようとし、捨てられていた「おりん」を神からの授かり物として愛し、慈しむ「おりん」の両親、などさわやかな人間や健気で懸命に生きている人間を登場させるのが光る。
物語の始まりが、その「おりん」の祖父の生涯であるのも、よく考え抜かれた心憎い演出であり、物語の最後が捨て子の「ひね勝」を「ふね屋」で引き取って、新しい始まりを伝えるのもすばらしい。
文章の中で、たとえば、曇り空を描くのに、「今日はあいにくの曇り模様で、空いっぱいに、綿屋が商いを広げている。それもつやつやの真綿でなしに、灰色の古い綿だ。誰かが天の神さまの布団の打ち直しをしているのかもしれない」(文庫版上 158ページ)という表現や、「今夜は夏がもうひと稼ぎしようという腹づもりであるらしく、ひどくむしむしと寝苦しかったから、団扇のつくる淡い風も嬉しかった」(文庫版下 96ページ)という表現があって、作者の豊かな感性と知性をうかがわせる。曇り空を「綿屋が商いを広げている」とか、蒸し暑さを「夏がもうひと稼ぎしようという腹づもり」とかいうことができるような感性は常人にはなかなか思い浮かばないことである。こういう感性は作者の天性のものかもしれないと感銘を受ける。
人間は悲しく、業深い存在だが、それを温かく包むという作者の姿勢は、本当にすばらしい。
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