2012年7月11日水曜日

火坂雅志『軍師の門』(1)


 昨日、今日と、暑い夏の日差しが降り注いでいる。近くの小学校でプールの授業でもあっているのだろうか、子どもたちの歓声が響いてくる。こういう光景は本当にいい。

 先に「軍師」と呼ばれた黒田官兵衛孝高を描いた上田秀人『月の武将 黒田官兵衛』(2007年 徳間文庫)を読んだ際に、同じように黒田官兵衛を取り扱った火坂雅志『軍師の門 上下』(2008年 角川学芸出版)を読んでみたいと思っていたが、先日、図書館に行った際にこれが書架に並べてあったので借りてきた。

 火坂雅志は、この書物の中で、まず、竹中半兵衛重治(15441579年)の姿を描くことから始めている。竹中半兵衛重治は、美濃(現:岐阜県南部)の斎藤氏(応仁の乱で美濃の実権を掌握し、戦国時代に斎藤道三が継承した)の家臣で、大野郡大御堂(現:岐阜県揖斐郡)の城主であった竹中重元の子として生まれ、父の死後に家督を継いで、菩提山城主(菩提山に居を移して城を築いたのは父の重元)となり、美濃の国主であった斎藤義龍(義龍は父の道三とはうまくいかずに、父親と兄弟を殺している)に仕え、義龍の死後は、その子の斎藤龍興に仕えた。

 時代は織田信長が台頭してきて美濃攻略を始めた頃だが、斎藤勢は竹中半兵衛重治の戦術などでこれを退けていったりしている。だが、主君の斎藤龍興は凡庸な人間で、酒色に溺れ、一部の気に入った側近だけを重用して、竹中半兵衛重治などは遠ざけられていた。

 『太閤記』や『常山紀談』によれば、竹中半兵衛は、体が弱く、体格も見た目が痩身で女性のようで、出陣するときも痩せ馬に静かに乗っているだけのような人で、そのために主君の龍興や家臣団から侮られて、嘲弄され、櫓の上から顔に小便をかけられたこともあったと言う。

 だが、そうしたことが重なる中で、竹中半兵衛は主君の斎藤龍興や家臣団を見限り、弟や舅の安藤守就(もりなり)とともに、わずか1617人の手勢で龍興の居城であった稲葉山城(後の岐阜城)を奪い取るという離れ業をやってのけた。何度も攻撃したがついに稲葉山城を陥すことができなかった織田信長がそのことを知って美濃の半国と引き換えに稲葉山城を譲るように交渉してきたが、竹中半兵衛は断固としてこれを拒否し、その年(1564年-永禄7年-)の八月には、逃げのびていた斎藤龍興にあっさりと城を返している。

 後々のエピソードでも、竹中半兵衛の功績に報いようと秀吉(豊臣秀吉)が加増を申し出たのを、竹中半兵衛はあっさりと断ったと言われる(『武功雑記』)ほど、執着心がない人で、せっかく奪い取った城を元の城主に返すには、それなりの理由があったと思われるが、彼が世人とは全く違う価値観をもっていた人であったのは事実であろう。本書では、そのあたりを「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり」の格言のように「名を立てる」ということに置いていたとして展開していくが、わたしには、竹中半兵衛という人は世の常識では測り知ることができない全く違う価値観を生きた人のように思える。半兵衛の価値観は、やはり、信義にあった。彼が稲葉山城を奪ったのは、斎藤龍興がその信義に値しなかった人にすぎなかっただけではないだろうか。

 その後、竹中半兵衛は、北近江の浅井長政の客分として、浅井家の下で一年余を過ごすが、おそらく、温厚ではあったがそれ以上のものを浅井長政に見い出せなかったのか、そこを引き払って郷里で隠棲する。浅井家でも、竹中半兵衛の武功を知りつつも、見た目が婦人のようで、小さくひ弱に見える竹中半兵衛を重用することはなかったのかもしれない。歴史に「もし」はありえないが、もし、竹中半兵衛が浅井家に残っていたら、後に浅井家が滅亡することにはならなかったのではないかと思ったりもする。人の真価を見抜き、これを用いることができなかった者たちは、ことごとく滅亡している。

 竹中半兵衛の真価を見抜いていたのは織田信長である。織田信長は、1657年(永禄10年)に美濃の斎藤氏を攻略し、竹中半兵衛を家臣に加えたいと考えて、木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)に命じて彼を勧誘し、後の創作的なエピソードではあるが、秀吉はこれを『三国志』の劉備玄徳が諸葛亮孔明を招いた時のように「三顧の礼」をつくし、竹中半兵衛はその時に秀吉の才能を見抜いて、信長に直接仕えるのではなく、秀吉の家臣になることを了承したと言われる。

 秀吉は信長の家臣であるから、おそらく、竹中半兵衛が秀吉の寄騎として仕えることを了承したのだろうと思われる。1658年(永禄11年)に織田信長は足利義昭を室町幕府第14代将軍に就任させ、「天下布武」を実行しようとしたが、将軍となった足利義昭は次第に増上慢になり、各地に密書を送るなどして自己の権力掌握へと動きを見せ、越前の朝倉、三好三人衆を中心にした摂津の三好家、そして後に大阪の石山本願寺(一向宗=浄土真宗)の顕如らによって織田信長包囲網が形成されるようになっていく中で、1570年(元亀元年)、信長が美貌の妹のお市を妻にやった浅井長政が裏切り、織田軍と朝倉・浅井軍が姉川(現:滋賀県長浜市)の川原で決戦することになる(「姉川の戦い」)。この合戦の後に、秀吉は竹中半兵衛と共に押さえとして横山城(現:滋賀県長浜市)に置かれることになる。このあたりで、竹中半兵衛ははっきりと秀吉のもとで働くようになったのではないかと思われる。

 しかし、本書ではエピソードに従い、秀吉が信長の名を受けて「三顧の礼」を尽くして竹中半兵衛のもとに自ら通い、その時に竹中半兵衛が秀吉の人柄と才能に惹かれていった次第を物語っていくのである。そして、そのころに、黒田官兵衛(この時はまだ小寺姓)が竹中半兵衛に憧れて、彼を訪れるが、半兵衛に「悪くなれ。智者は悪者」と言われてすごすごと帰っていったという展開になっている。

 実は、竹中半兵衛と黒田官兵衛がいつ最初の出会いをしたのかは記録になく、記録にないということは作者が自分の想像力を自由に発揮できるということでもあり、このあたりの出会いの物語が作者の人物観をよく表していると言えるかもしれない。ただ、黒田官兵衛が竹中半兵衛を訪ねた際に、偶然、竹中半兵衛の助けを何としても得たいと思っていた豊臣秀吉(この時ままだ木下姓)と会い、黒田官兵衛が秀吉の人物性に驚嘆していく出来事が描かれるが、これはあまりに史実とかけ離れたものではないかと思ったりはする。また、黒田官兵衛と竹中半兵衛が最初に出会った時に、自分が思い描いていた智者の姿とは異なっていたことや自分と半兵衛の違いに愕然としていく姿が描かれるが、いかに黒田官兵衛がまだ若い頃であったにせよ、創作しすぎのような気がしないでもない。

 個人的な所感を言えば、こういう書き出しの部分には、竹中半兵衛と黒田官兵衛という二人の傑出した人物を描くことに対する作者の「気負い」のようなものが感じられたのである。しかし、物語は、史的な事実に即しながらも面白く展開され、上巻は、秀吉の播磨攻めと二人の智者の活躍、そして、黒田官兵衛が荒木村重によって長い間監禁され、ついには不具を得てしまったことや、その間に、信長に人質として出していた黒田官兵衛の子の松寿丸(長政)を自分の信義や命までも賭して守ったこと、お温和で穏やかな中に燃えるような思いを秘めて生きた竹中半兵衛の死で終わる。竹中半兵衛が秀吉に言い残したことは「寛容の心をもってことに当たれ、仁愛をもって徳政を行え」ということであったと作者は記す。竹中半兵衛は、享年三十六で、秀吉の三木城攻めの中で死を迎える。半兵衛の墓は、今、陣地があった兵庫県三木市平井山観光ぶどう園と志染町の栄運寺にある。黒田官兵衛は、その子の松寿丸だけでなく、囚われの身となった自らの命も半兵衛によって救われたのである。黒田官兵衛という人は、生涯、そのことを忘れなかった。

 この中で、労咳(結核)の病を得て、自らの死を覚悟した竹中半兵衛が医師であった徳運軒全宗と次のように会話する場面は、特に優れていたので、抜書きしておく。

 「わたしの診立てでは、竹中どのの肺腑は・・・」
 「言うな」
 と、半兵衛は全宗をさえぎった。
 「おのれのことは、おのれ自身が一番よくわかっている」
 「ならば・・・」
 「頼む、徳運軒。わしの病のこと、羽柴家の者たちには洩らしてくれるな」
 「竹中どの」
 「人の命にはかぎりがある。誰にも、いつか終わりのときはやってくる。かぎりあるものならば、短くとも華やかに、悔いの残らぬよう花を咲かせたい。千年は望まぬが、せめてあと三年・・・。わしに時をくれ」
 「・・・・」
 諦念と生への執着にふちどられた竹中半兵衛の貌(かお)を、徳運軒全宗はしばし何も言わず、鷹のような目つきで擬視していた。
 ややあって、
 「わかりました」
 医者は深くうなずいた。
 「陽の気を高める、加減瀉白散(かげんしゃはくさん)を調合しておきましょう」
 軒を吹きすぎる風の音が寂しい。(上巻 320321ページ)

 「軒を吹きすぎる風の音が寂しい」という表現に、竹中半兵衛の人と成りがすべて表現しきれているように思われたのである。

2012年7月9日月曜日

諸田玲子『恋かたみ 狸穴あいあい坂』


 久しぶりに碧空が見える。梅雨が明けたわけではないが、日傘をさした人たちが行き交い、夏の風物を醸しだし、窓辺に吊るした貝殻の風鈴も涼やかな音を立てている。少々疲れた脳細胞を駆使して今日もあれやこれやの仕事を始めているが、こんな日はただぼんやりと流れに身を任せるようにして過ごすのも悪くないだろう。

 昨日は、爽やかに物語られた諸田玲子『恋かたみ 狸穴あいあい坂』(2011年 集英社)を読んだ。これは、前作『狸穴あいあい坂』(2007年 集英社)の続編で、麻生の狸穴に元火盗改めの老武士のところに住む好奇心旺盛でしっかり者である孫娘の「結寿(ゆず)」の活躍と恋心を描いた作品である。

 口やかましい息子の後妻とあまりうまくいかずに狸穴の口入屋(就職斡旋業)である「ゆすら庵」の裏屋を借りて住む元火盗改めの頑固老武士のところに、これまた継母が武家の妻女の矜持を押しつけるのをきらった孫娘の「結寿」が祖父の世話をするという理由で移り住み、そこで、ふとしたことで出会った町方の隠密廻り同心である妻木道三郎と数々の事件を通して互いに恋心を抱くようになっていくのである。

 しかし、「結寿」の祖父も実家も御手先組与力の火盗改めで、火盗改めと町方同心とでは家格も異なった上に犬猿の仲であり、しかも、妻木道三郎は前妻を亡くした子持ちで、二人は互いに想いを寄せ合っているがどうにもならない境遇に置かれていたのである。「結寿」は、自分の恋心を止めることができないし、口入屋の子どもたちも道三郎の子どもも、二人を応援しようとするが、武家の婚姻は家を優先させるために、「結寿」は自分の恋心を明かすこともできずに悶々とした日々を過ごしていくのである。

 そういう中で、近所の旗本家の小火騒ぎが起こり、それが旗本の妻女の悋気によることが分かったり、夫を亡くして早くから隠棲していた武家の女性が悪党と知りつつも関係を持っていた男の素性が発覚していったりするのである。彼女は悪党と知りつつも男と関係を持ち、しかもその男が彼女を利用して彼女の家を強盗団の隠れ家として使うような盗賊の首領であったのである。「結寿」は、こういう事件に関わり、その関わりの中で、女としての生き方を考えさせられていくのであるが、実家の継母がもってきた縁談話が着々と進行していく。

 「結寿」は、道三郎と結ばれるためには、もはや「駆け落ち」しかないとまで思いつめていく。しかしそのとき、男と駆け落ちした母親をもつ武士が、母親の相手の男を「仇」として仇討に来て、名前が似ていたことから間違って「結寿」の祖父と争うという出来事が起こり、「結寿」や祖父たちも彼の仇討を手助けすることになり、相手の男を探し出していくのである。

 「仇」として探し出した相手の男は、もはや、武士を捨て、小さな履物屋を営み、母親も既に病でなくなっていた。そして、母親が捨ててきた子どものことを長年の間気にかけていたことを知り、彼は仇討を断念していくのである。「結寿」は、この事件を通して、「駆け落ち」が周囲、とくに子どもを不幸にし、決して幸いなことではないことを実感していく。だが、その間にも「結寿」の婚姻話は進められ、婚姻の日取りまで決まってしまう。

 結局、「結寿」と道三郎は、互の思いを知りつつも最後の別れをする。そして、「結寿」は道三郎への想いを残したまま、家が決めた婚家に嫁いでいく。「結寿」の夫となった男も心優しく温厚な男で、婚家でも「結寿」を温かく迎えてくれる。だが、「結寿」の心の中には道三郎の面影が強く残っているままであった。

 しかし、同じように男への心を残したままに嫁いでいた御手先組頭の妻女が、相手の男が甲府勤番になったために最後の別れをしたいということで、アリバイ作りを依頼された「結寿」は、それを引受ける。ところが、妻女と男が船宿で逢瀬をしている間に、妻女の夫が倒れるということが起こり、妻女が夫のところに駆けつけ、平然と貞淑な妻を演じている姿を見て、「結寿」は考えさせられていくのである。「結寿」の夫は、おっとりしているようでありながらも、御手先組頭の妻女が何をしていたのかを明察する鋭さを見せたりする。

 妻木道三郎も姉や親戚の強い意思でほかの女性と結婚する。「結寿」と道三郎は、互いに想いを寄せながらも、それぞれの家の事情で異なった夫をもち、妻をもっていくのである。二人が会うことはなかった。

 だが、「結寿」の婚家の離に住む老婆が可愛がっていた猫がいなくなったことや婚家の弟の不行状などから、やがてそれが強盗団の事件につながっていき、強盗団を探索していた妻木道三郎と狸穴の坂で出会ってしまう。二人は、互いにそれぞれを心に留めることで、それぞれ別の道を歩むことを確かめ、再び分かれていく。そして、「結寿」は、次第に婚家に馴染んでいくようになっていくのである。

 こうして見ると、道ならぬ恋の中にいる主人公が、どろどろとした想念の中にいるようであるが、「結寿」も妻木道三郎も爽やかで真っ直ぐな人間であり、主な登場人物たちも思いやりや愛情が深い鷹揚な人々で、「結寿」が自分の恋心や生き方を一つ一つ自分で納得させながら爽やかに生きていく姿が描かれているのである。女性としての生き方を模索していく姿が物語を通して描き出されていくのであり、物語の展開は春先から次のとし年の春先までの一年の季節が「山桜桃(ゆすらうめ)」の姿と合わせて織り成されている。

 ここには、前作で語られた老いた者の生き様や、あるいはしっかり生きようとする子どもたちの姿はあまり出てこない。道三郎の子どもの健気に生きる姿と「結寿」との関係も、もう少し描かれていたらと思うが、叶わぬ愛ながらも、それを抱いて生きようとする女性の姿が丹念に描き出され、それも嫌味がないので、読後感も爽やかである。

 作者は、人間の深部をよく知る作家だと思っているが、他方で、こういうあっさりと爽やかな文体で描かれる物語も味があると思ったりしている。気楽に読める一冊である。

2012年7月6日金曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集19 柳生非情剣』(2)


 このところ蒸し暑い日々が続くようになり、今日も重い梅雨空が広がっている。変わらずに能天気な生活ぶりなのだが、こういう季節は疲れを覚えやすいなあ、と思ったりもする。

さて、隆慶一郎『隆慶一郎全集19 柳生非情剣』の続きであるが、苦労をし、また策謀も重ねて柳生家を再興させた柳生宗矩の次男、柳生友矩についての物語が「柳枝の剣」で語られていく。柳生友矩は、宗矩の側室「お藤」の子で、「お藤」は美貌で柳生宗矩の側室になったと言われるほどの美女であり、友矩はその血を受け継いで、無骨者が多い柳生家の中でも稀に見る眉目秀麗の好男子だったと言われる。

彼は、三代将軍徳川家光の怒りを買って退けられた兄の三厳(十兵衛)の代わりに小姓として勤め、家光の剣の相手をしながら、衆道癖(同性愛)のあった家光と衆道関係になり、その寵愛を一身に受けて加増されていくなど、兵法者としての姿からは遠い存在だった。性格も穏やかだったと言われる。

しかし、本書では、その中で柳生友矩が子どもの頃から兄の十兵衛に打たれ続けることで、打たれても平然と受ける心と己の死を覚悟した生き方を身につけ、相手の攻撃を寸前でひらりとかわしていくしなやかな柳の枝のような技を身につけ、実は十兵衛でさえかなわない相手であったと語るのである。

父親の宗矩は、江戸幕府で初めての大名を監督する総目付の役についたばかりで、諸藩に睨みを利かす立場にあり、自分の子が将軍の寵愛を受ける衆道であることを恥じ、家光と引き離すために彼を病気として柳生の里に引きこもらせ、十兵衛を刺客として送り込んで亡き者にしてしまうことを決心し、友矩は刺客となった十兵衛と対決することになる。そして、友紀は十兵衛の剣を見切っていたが、「そろそろ終わりにしましょう」といって十兵衛に斬られたと語る。

なお、家光はこのことで怒り、柳生宗矩が死去した後で、領地を長男の三厳(十兵衛)と宗冬で分割するように命じて、柳生家を大名から追い落としたと言われる。柳生友矩が27歳の若さで死去したこともあって、友矩に関する記録がほとんど残っておらず、彼がそのような剣技を身につけていたかどうか、あるいは十兵衛に殺されたのかどうかはともかく、柳生家が友矩の死去で家光の怒りを買ったのは事実だろう。

この一度没落しかけた柳生家を再び大名にまでしていったのは、柳生宗矩の三男の宗冬(16131675年)である。この宗冬についての物語が「ぼうふらの剣」で語られていく。表題は、宗冬が晩年に池の中で浮沈するボウフラの動きを見て剣技を悟ったと言われていることからつけられているが、宗冬は兵法者というよりもむしろ政治家だっただろう。彼は四代将軍徳川家綱の剣術兵法指南となっていくが、兄弟の中では天才肌の三厳(十兵衛)などと比べて剣の才能は劣っていたとされる。しかし、家督を兄の三厳(十兵衛)から受け継ぎ、1668年(寛文8年)に加増されて、再び大名となっている。

本書では、兄の三厳(十兵衛)から剣のシゴキを受けて泣き虫だったが、そのおかげで剣術家としての体ができていくようになったと語る。だが、一時は剣の道を捨てようとまで思うようになる。しかし、あるときに、家光の剣の相手として、父親の柳生宗矩と立ち会っている際、ふと宗矩の太刀筋が見えるようになり、自分の木刀がもう少し長かったら父親の宗矩に勝っていたとつぶやいて、宗矩から気絶するほど打たれてしまうことが起こってしまう。そして、父親の怒りを恐れて、そのまま出奔し、柳生家とは縁があった能の金春家の猿楽師喜多(北)七太夫のもとに身を寄せるのである。

柳生家と金春家は、かつてそれぞれの秘伝である「西江水」と「一足一見」を交わした関係で、宗冬は、この金春家で「西江水」の秘技を学ぶのである。「西江水」とは、詳細は分からないが、簡単に言えば「機をよく見て、その機に石火のようにあわせて動く」剣技であろう。それを身につけて、宗冬は柳生家に戻り、その家督を継いだというのである。晩年の宗冬は穏やかな人だたと言われるが、権謀術作が渦巻いた彼の時代の幕閣内でしのぎを削ったことは間違いないであろう。

柳生一族の中でも、何といっても異彩を放ち、天才とまで言われるのは、柳生三厳(十兵衛-16071650年)である。柳生三厳(十兵衛)に関しては、実に多くの小説が書かれているし、伝説や講談話もたくさんある。柳生宗矩の長男として生まれ、幼い頃から優れた剣の資質を発揮して、三代将軍徳川家光の剣の相手をさせられていたが、家光から打たれるのが嫌で、これをこっぴどく打ち返したりしていたために家光の怒りを買い、20歳の時に小田原に身柄預かりとなり、その後諸国を放浪したと言われる。しかし、実際は不明である。

本書では、この三厳(十兵衛)について、彼が剣の境地に達っしていった姿を描いた「柳生の鬼」と、熊本で「心の一方」と呼ばれる一種の不動金縛りの術のような剣を使う二階堂兵法の二階堂大吉との闘いを物語った「心の一方」が収められている。作者は、すでに多くの十兵衛を天才として取り扱った作品があるためか、あまりこの十兵衛には関心がなかったのではないかと思ったりもする。

柳生宗矩の兄で、戦で不具者となりながら父親の柳生石舟斎から新陰流二世を受け継いだ柳生厳勝の姿を描いた「跛行(あしなえ)の剣」は、本書の中でも読み応えのある作品だった。特に、戦場で被弾して腰から下が動けなくなった厳勝が、自らに歩行訓練を貸して、優れた剣技を身につけるようになると同時に、彼が不能者となり、「子が必要なのだ」という身勝手な理由で父親の石舟斎が彼の妻と関係するようになってからの彼の姿など、逃れられない境遇の中で、父親と妻の裏切りを受けつつも毅然として生きていく姿として描かれている。

柳生石舟斎の四男で宗矩の兄である柳生宗章(15661603年)については「逆風の太刀」で描かれる。彼は、柳生家を出て、小早川季秋に仕え、関ヶ原の合戦に参戦するが、小早川季秋が若くして死去して小早川家が改易されると、米子の中村一忠の執政家老横田村詮に乞われて客将となった。横田村詮は、名地政者として著名であった。しかし、藩主の中村一忠がこれを妬み、村詮が城内で謀殺されたことから、横田一族は飯山に籠って中村一忠と対戦するのである。中村一忠は隣国の援助を受けてこれを鎮圧するが、その時に、柳生宗章は義憤から横田一族に味方し、凄まじい働き(一説では吹雪の中で敵兵18名を撫で斬りにしたと言われる)をするが、刀折れて壮絶な戦士を遂げた。この柳生宗章だけは、本書の中で「士」として描かれている。

作者が『柳生非情剣』の中で描き出したのは、やはり、「人でなし」の人間たちであり、それゆえの悲哀と、もがきの姿である。作者が語る「覚者」というのは彼らを歴史に照らしてみると言い過ぎのような気もするが、これもまた極めて面白く読めた一冊だった。本書に収録されているその他のものについては、割愛することにするが、「時代小説の愉しみ」は、作者自身の姿を知る上で大いに楽しんで読めたし、文体も小説とは異なった流れをもち、これはこれで極めて優れたものだった。

2012年7月4日水曜日

隆慶一郎『隆慶一郎全集19 柳生非情剣』(1)


晴れの日と雨の日が交互に訪れて梅雨の終わりを感じさせる暑い日になっている。こういう日は、黄昏時にぶらりと歩くのが気持ちいいだろうな、と思う。

 このところ、2010年に新潮社から出された『隆慶一郎全集』の最後の巻になる隆慶一郎『隆慶一郎全集第19巻 柳生非情剣』(2010年 新潮社)を読みすすめている。これで2-5巻の4冊にわたって収められている『影武者徳川家康』を除いては、この全集本のすべてを読んだことになるが、『第19巻 柳生非情剣』には、「柳生刺客状」、「慶安御前試合」、「柳枝の剣」、「ぼうふらの剣」、「柳生の鬼」、「跛行(あしなえ)の剣」、「逆風の太刀」、「心の一方」、「銚子湊慕情」、「時代小説の愉しみ」、のほかに、池田一朗としての「ポール・ヴァレリイに関するノート」、シナリオ「にあんちゃん」と対談、年譜などが収められている。

 個人的に、わたし自身は闘いや争いが大嫌いで、どうしても闘わなければならなくなったとしたら、ただ己の死を覚悟しておればいいと思っているだけで、死を覚悟することと死を賭して闘うことは全く異なっているから、ただ死を覚悟してその場にいるだけを選ぶので、基本的には闘いの手段である「剣」というものを己の生涯にしてきた柳生一族にも、また、剣技を禅の思想に近づけようとした柳生新陰流にも全く関心がない。

 しかし、「人の姿」としてこれを見るとき、そこに悲哀があるのは事実で、柳生一族という「生き難さ」を生きなければならなかった人間たちが抱えていた悲哀を知ることは意味のあることかもしれない。

 そう思って、この本を読み始めたら、作者自身が、1988年に講談社から出された『柳生非情剣』の中の「あとがき」で次のように述べられていて、なるほど、と思った。

 作者は、剣は人を斬るための人殺しの術で、剣の達者とは人殺しの達者であり、「人でなし」であると語った後で、「『ひとでなし』だからこそ、人がはっきりと見えるのである。『人でなし』だからこそ、冷厳な世のからくりに涙することが出来るのである。そして『人でなし』だからこそ、時として『覚者』になることもできるのではないか」(本書 607608ページ)と語る。

 その視点で、柳生一族が肉親相克の中で生きてきた姿をそれぞれの人物に焦点を当てて描いたのが本書である。もちろん、ここには作者一流の歴史解釈があって、歴史物語として面白く読めるものになっている。

 「柳生刺客状」は、1986年の『オール読物』8月号に発表され、死後の1990年に講談社から出された作品集『柳生刺客状』に収録されたもので、徳川将軍家剣術指南役として、また、大名として柳生家を再興させた柳生宗矩(15711646年)と、宗矩の甥にあたり祖父の石舟斎や父親の柳生厳勝から直接剣の指導を受けて柳生新陰流の正当な後継者となり、尾張柳生の祖となった柳生利厳(15791650年)の姿を作者らしい歴史の裏側から描いたものである。

 柳生宗矩は、新陰流の祖である上州の上泉伊勢守信綱(1508?-1577年)から新陰流を伝授された柳生宗厳(むねよし-石舟斎-15271606年)の五男として生まれ、柳生新陰流(江戸柳生)を確立していた人物であるが、彼ほど歴史の評価を二分する人物はいないかもしれない。あるときは、優れた剣客として、また有能な官吏として三代将軍徳川家光を支え、江戸幕府の幕藩体制を盤石なものとしていった人物として描かれ、ほかの場合には「腹黒い陰謀家」、あるいは「影の暗殺集団の首魁」として描かれる。

 隆慶一郎は、どちらかと言えば後者の評価を柳生宗矩に対して行なっているが、本書では、それが父親であった柳生石舟斎への恨みと、自身で身を立てなければならなかった境遇、特に彼が仕えた二代将軍の徳川秀忠の陰湿な残酷さの片棒を担がなければならなかった立場にあったと展開するのである。そして、三代将軍徳川家光が彼を頼ったというのではなく、彼を恐れたと語る。

 後に宗矩が将軍家剣術流儀として確立した江戸柳生と新陰流正統を誇る利厳が設立した尾張柳生は、互いに相克の関係になるが、ここで作者は、宗矩が利厳との剣の試合に敗れた代わりに、徳川家康、そして徳川秀忠の意を受けた影の暗殺を引き受けることによって世俗的な地位を確立していった取物語を展開する。その際に、家康が既に影武者であることを秀忠に注進して、秀忠の陰湿な陰謀を手助けするようになっていったと語るのである(もちろん、こうした展開は史実と創作が入り混じっている)。

 この中で、柳生利厳が、戦場で自分が殺した夥しい死骸に自失し、自らを失っていく姿が描かれ、その時に、父親の柳生厳勝が、「修羅の中にいる」と語る息子の利厳に「おれはね、まさしく仏たちの中にいたよ」と語る場面がある(4748ページ)。やがて、累々と屍が横たわるようなどんな死であれ、それを仏としていくことに利厳が気づいていき、それによって宗矩との試合に勝っていくという筋立てが取られている。こういうところが、作者が言う「覚者の姿」であるかもしれないと思ったりする。

 「慶安御前試合」は、尾張柳生の開祖となった柳生利厳の三男で、新陰流五世となった柳生厳包(としかね-連也斉-16251964年)と、江戸柳生の確立者である柳生宗矩の三男で、やがては柳生家の家督を継いで四代将軍徳川家綱の剣術兵法師範となった柳生宗冬の慶安4年(1651年)に三代将軍徳川家光の前で行われた「慶安御前試合」をきっかけにして、尾張柳生の柳生厳包(連也斉)の姿を描いたものである。

 本書では、天才的な剣技をもつ柳生厳包の姿が、彼の恋とともに描かれていくが、将軍家指南役としてどうしても負けることをゆるされなかった江戸柳生の柳生宗冬は、弟の義仙(芳徳寺の開基者-烈堂-)が率いる暗殺集団である裏柳生に依頼して、柳生厳包を襲うのである。厳包(連也斉)は江戸に向かう途中の道中で義仙の手のものに襲われ、なんとかこれを退けるが、その時に睾丸を二つとも失うという手傷を受けてしまう。だが、「御前試合」では、柳生厳包が柳生宗冬が置かれていた苦境を悟り、肋の一寸を斬らせて、宗冬の手の甲を砕いたという結果に終わり、宗冬は家光後の家綱に忠勤を励むことによって十七年後に大名となり、厳包は、睾丸を失ったことから生涯を独身で通して七十歳で没したという展開になっている。本書が、柳生厳包が「人の悲しみを知る人」として描かれるのは大変興味深い。

 柳生宗矩の次男で、宗冬の兄(異母)であり、三代将軍徳川家光との衆道(同性愛)の関係にあったと言われる柳生友矩(16131639年)の姿を描いた「柳枝の剣」については、次回に記すことにする。

2012年7月2日月曜日

芦川淳一『うつけ与力事件帖 皐月の空』


 ぼやぼやしているうちに一年の半分が過ぎて、7月の声を聞いてしまったという感があるが、ぼやぼやしながら生きるのも悪くはないので、一層スローダウンして、今月も過ごしていこうと思っている。もちろん、仕事は待っていてくれないが、そろそろ「暑さ」を理由にできるだろうと笑いながら思っている。

 そんな思いで7月を迎える中、芦川淳一『うつけ与力事件帖 皐月の空』(2009年 学研M文庫)を気楽に読んだ。この作者の作品は、前に「おいらか俊作江戸綴り」のシリーズを数冊読んでいるが、そのシリーズの主人公ものんびりとした陽だまりのような気性から「おいらか」と呼ばれているが、本作の主人公も、周囲の人から「うつけ(役立たず)」と呼ばれる南町奉行所の当番方与力である栗原平之助という人物である。

 「当番方与力」というのは、各奉行所に三騎(三人)いて、庶務や受付などの一般事務を三交代で宿直して行い、捕物があれば出役し、刑の執行があればそれが正しく行われたかどうかを見届ける検使も行う役職であるが、奉行所与力の中でも、いわば平与力で、普通は与力に成り立ての者がつくのだが、主人公の栗原平之助は長年この当番方与力のままの人物である。しかも、通常は三騎だが、彼は四番目の、いわば当番方与力の補佐のような立場で、何をするということもなく日を過ごしている余計者の当番方与力なのである。日頃はただ、与力部屋で、眠そうな顔をして古い書物を読んでいて、「うつけ」とか、役に立たないことから「散木(さんぼく)」とか呼ばれているのである。彼が南町奉行所で与力であること自体が不思議がられる始末である。

 作者はこの主人公を、中背の小太り、眉毛が太く、目が大きいが、いつも垂れ下がったような半眼気味の、要するに「冴えない中年」として設定している。彼には、おっとりとした美人の妻「桂」がいて、遊び呆けている十七歳の息子の「新一郎」と、美貌だが勝気で剣術の稽古ばかりしている十五歳になる娘の「美耶」がいる。

 この「うつけ与力」と呼ばれる栗原平之助が「うつけ」の日々を送るようになった事情を、本書は、若い頃の彼があまりに才気活発で、どんな事件にも首を突っ込んで解決の糸口を見出していったために、次第に他の与力たちから疎ましく思われるようになり、そのことを察知して、ある日から突然「うつけ」を装うようになり、ついにはそれが習い性となってしまったと語る。図抜けた才能の持ち主が、自分の才能を無意識に発揮してしまうと周囲から疎まれ、やがて嫌われて阻害されていくことはよくあることであり、特に、凡庸な時代ではそうで、作者がこの物語を、世相が表面の太平に溺れていた文政の頃に置いているので、この状況はよくわかるような気がする。

 しかし、この「うつけ与力」の下に、若くて情熱的な青年の同心が配属されることになる。この青年同心は、元は「定町廻り」という同心の中でも花形と言われる役職についていたのだが、幕政につながる同僚の同心のあまりのひどさを告発したのがもとで、同心の初心者がなる番方若同心に格下げされ、しかも「うつけ」と呼ばれる栗原平之助の下につくという閑職に追いやられた青年である。名を矢車京太郎という(彼は重要な脇役となっていくので、この命名はもう少し凝ってもいいような気もするが)。

 正義感が強く、純真で、いつかは定町廻り同心に返り咲きたいと思っている矢車京太郎は、「うつけ」と呼ばれる栗原平之助の無聊を囲ったような日々にとまどうが、次第に彼に惹かれ始め、彼の姿から大事なことを学んでいくようになるのである。

 きっかけは、「疾風の権蔵一味」と呼ばれていた盗賊の一味が、再び江戸で押し込み強盗を始め、何の手がかりもないままに奉行所全体が右往左往し始めたことによる。奉行の筒井和泉守が、どうも奉行所内に「疾風の権蔵一味」と繋がって捜査状況を内通している者がいるようなので、栗原平之助に内偵することを依頼するのである。筒井和泉守は、前奉行からの申送りとして、困ったことが起こったら、「うつけ」を装っているがもともと優れていた栗原平之助を使うように話が通じていた。奉行だけが、彼が「
うつけ」を装っていることを知っているのである。

 平之助は矢車京太郎を使って内通者を探り出す。そして、幼馴染の女のために金を必要とし、「疾風の権蔵」に罠にハメられた内通者を探し出し、「疾風の権蔵一味」を一網打尽にしていくのである。だが、内通した同心は「疾風の権蔵一味」の凄腕の浪人から殺されてしまい、内通者の幼馴染の女も、元同心であっら女の父親が奉行所の失態を引受させられて死に追いやられたことを恨みに思って、始めから内通者を騙していたのである。彼女は「疾風の権蔵」の女となり、恨みを晴らそうとしたのである。栗原平之助は、女はどうせ獄門になるから、内通者の家族を守るために、女に自害を勧め、一切を内密にして、手柄もほかの与力や同心に譲り、この事件を処理していくのである(第一話「さんぼく与力」)。

 そして、この事件によって、未熟だが正義感が強い矢車京之介によって煽られた形で、「うつけ」を装っていた栗原平之助の魂に火がついていく。

 第二話「青い空」は、町人の幼児の拐かし事件の裏に武家の後継をめぐる問題があることを見抜いていく出来事であり、第三話「光仙寺事件」は、寺の僧と武家の妻たちのとの不義を描いた枕絵が出回り、多くの武家の妻女と不義を働いていた僧が殺された事件の真相をつかんでいく話で、奉行所内の同心の妻女も絡んでいたこともあり、これを隠密裏に処理していく話である。

 そして、第四話「息子の災厄」は、栗原平之助の息子の新一郎が溺れてしまった女が何者かに連れ去られ、それを追いかける新一郎が行くへ不明になったことから、栗原平之助が父親として、息子の将来を案じて、その事件に関わっていくという話である。

 物語の設定や展開は、昨今の多くの書下ろし時代小説によく見られるものではあるが、主人公やその家族、あるいは周辺の人物の設定などで、こういう設定が面白くない訳はなく、気楽に面白く読めるし、「うつけ」と言われながらも才能を発揮し、しかも、人間を守るためにすべてを内密に処理していく主人公と、彼の下についた若い同心の成長、勝気な主人公の娘との恋や遊ぼ呆けていた主人公の息子の成長、そういうものが織り込まれながら、今後が展開されていくのだろうと思う。

 事柄よりも人間を大事にしていく、そういう一本の線があるので、読後感も爽やかさがあって、気楽に面白く読めた一冊だった。

2012年6月29日金曜日

高橋義夫『かげろう飛脚 鬼悠市風信帖』


 めまぐるしく変わる今年の梅雨の天気は、体調の管理がなかなかのところがあるが、雨であれ晴れであれ、日常生活が変わらないというのが現代の生活様式かもしれないと、溜まった仕事を横目にしながら思ったりする。相変わらず、政治も経済も酷い有様だが、能天気に暮らすことにもてる才能を発揮して、明日のことは明日、と決め込んで、今日も一日を過ごしている。

 その中で、高橋義夫『かげろう飛脚 鬼悠市風信帖』(2003年 文藝春秋社)を面白く読んでいた。物語の構成と展開のうまさが光る作品で、主人公は、東北の松ケ岡藩(作者の創作)という小藩で、御家人の中では最も軽格の足軽をしている鬼悠市という鬼のような風貌と巨体を持つ人物である。

 彼は、表向きは決まった役職もなく、竹で鳥籠を作る職人仕事をしているが、風貌に似合わない繊細な彼の鳥籠は江戸や上方でも知られ、藩内では売買が禁じられているものの献上品として用いられたりするほどのものであった。しかし、彼には裏の役目があり、藩の奏者番(藩主への取り次ぎ役で、たとえば江戸幕府内では大目付と並ぶ重職であった)をしている加納正右衛門からの直接の任務を引き受ける、いわば隠密であったのである。

 物語は、この鬼悠市が加納正右衛門から、松ケ岡藩の分家である黒岩藩の元家老を預かり、彼を監視すると同時に保護するという役を言い渡されるところから始まる。鬼悠市は、彼を自宅に隣接している長源寺で預かり、養子としてもらっている少年の柿太郎にその世話を依頼することにする。

 彼が預かった黒岩藩の元家老であった日向杢兵衛は、藩政上の何らかの事情で長預かりの身となったのだが、その日常は穏やかで落ち着き、草花の絵を描いたりする静かなもので、世話をする少年の柿太郎が次第にその人徳に惹かれていくほどのものであった。

 鬼悠市は藩政のことなどに全く関心はないのだが、鬼悠市が日向杢兵衛を預かることを知った上司の足軽組頭の竹熊与一郎がさっそくやってきて、黒岩藩の内情を知らせる。竹熊与一郎は日向杢兵衛がいる長源寺周辺の警護を命じられているのである。もともと二万石弱しかない黒岩藩では、実高が少ない上に不作が続き、収穫が半分も満たなくなったために藩士に半知借上げ(俸給の半分しか出さないこと)をしてもまだ足りずに、あちらこちらで貧窮が続いていた。藩主は、そうした藩の窮乏をよそに公儀の役を次々と引受け、藩は破綻寸前にまで追い込まれていたのである。黒岩藩の御家人たちは、武具や刀まで質入して窮乏をしのいでいたし、領民には一揆の気配も濃厚になっていた。

 日向杢兵衛は、こうした藩の危機を救うために、まず、公儀の役を次々と引き受ける藩主の交代を上訴したのである。しかし、それが不忠不義であるとして免職され、長預かりの身となったのである。そのため、彼を不忠不義者として黒岩藩の血気盛んな若者たちが誅せんとして襲ってくる。鬼悠市は、そうした襲来者から日向杢兵衛を守らなければならなくなるのである。鬼悠市は、屈指の剣の遣い手でもあった。

 人望の厚かった日向杢兵衛が免職され、藩政から排斥されていった影には、黒岩藩の城代家老と本藩である松ケ岡藩の家老の結託による米札の売買に絡んだ私腹を肥やす陰謀が渦巻いていたことが次第に明らかになっていく。黒岩藩では祿米の支給の代わりに米札を出していたが、この米札は額面の三分の一でしか米と引替できず、しかもこの米札を半値で買い取ることで、その差額を懐に入れようとしたのである。この米札のからくりを、鬼悠市は、零落したが平然と生きている米相場師に依頼して探り出していくのである。この零落した米相場師の姿もなかなか魅力的である。

 こうした中で、黒岩藩の城代家老一派から送り込まれてくる刺客との死闘を繰り返しながら、日向杢兵衛を護っていくが、藩の上層部の意向で、日向杢兵衛は捕らえられ、奏者番であった加納正右衛門の改易も行われてしなう事態となってしまう。

 だが、黒岩藩には「かげろう飛脚」と呼ばれる内密の連絡網があり、日向杢兵衛はその「かげろう飛脚」を使って藩政の改革派と連絡を取っており、いよいよの行動を起こす手はずを整えていた。その「かげろう飛脚」とは思いもかけない人物で、その連絡方法も思いがけないものであったが、鬼悠市は、「かげろう飛脚」と共に、日向杢兵衛の意志を伝えるために雪山の中を奔走していくのである。

 日向杢兵衛がとっていた秘策とは、領民の苦渋を知る郡代や家中の御家人すべてが死装束をして登城し、藩主や城代家老の非を改めるというものであった。そして、これが成功して、黒岩藩の一連の騒動が終わり、日向杢兵衛が帰藩し、鬼悠市の日常が戻るのである。

 こうした筋立が、一つ一つの具体的な出来事を通して描き出され、作者の構成のうまさと手法が見事に織り込まれて読み易い展開になっている。

 ただ、個人的な好みをいえば、不遇の状態に置かれても泰然と生きる日向杢兵衛の姿や、彼と接して感化を受けていく少年柿太郎の姿がもう少し描かれて、そこに人格の交流というものが醸し出されていくならば、鬼悠市がこの事件に加担していく姿も、もっと胸を打つのではないかと思ったりした。

 しかし、よく考え抜かれた作品で、面白く読め、ちょっと調べてみたら、これはシリーズ化されているようで、機会があればそれを読んでみたいと思うような作品であった。

2012年6月26日火曜日

上田秀人『月の武将 黒田官兵衛』


 このところずっとどんよりとした雲が広がり、昨日は肌寒さを覚えるほどだったが、今日は久しぶりに碧空が覗いている。先の日曜日に、宗教改革者のM.ルターについての2回に渡る話を終えて、一段落ついたのだが、彼の代表的な著作を再読したり、いくつかの論文を読んだりしていたために、改めて見れば、もう六月も末で、この月の小説の読書量は減少していたと思ったりする。もちろん、別にたくさん読めばいいというわけではないにしても。

 昨夕から夜にかけて、書き下ろし作品である上田秀人『月の武将 黒田官兵衛』(2007年 徳間文庫)を読んでいた。作者の作品は、これまで『闕所物奉行 裏帳合』のシリーズや『目付鷹垣隼人正裏録』のシリーズを何冊か読んでいるが、これは「軍師」の名を冠された黒田官兵衛孝高(如水)の姿を描いた歴史小説である。

 戦国の時代の中で「軍師」の名を冠されているのは竹中半兵衛重治(15441579年)と黒田官兵衛孝高(15461604年)の二人で、二人とも豊臣秀吉が「三顧の礼」をつくして自分の参謀とした人物であるが、竹中半兵衛重治は、1579年(天正7年)に秀吉がまだ播磨の国(現:兵庫県南西部)を攻略している中で、肺の病を患い若干36歳で死去している。黒田官兵衛が秀吉に仕えるようになったのは竹中半兵衛よりも12年ほど後で、半兵衛の早死によって二人の交流はわずか4年ほどしかなかったのだが、二人はお互いを「優れた者」と認め合い、織田信長が黒田官兵衛の長子「松寿丸」(黒田長政)の殺害を秀吉に命じた時に、「松寿丸」の命を助け、黒田官兵衛はその恩を生涯忘れず、自分の家の家紋や兜にも竹中半兵衛の家紋を貰い受けたり、その戒名であった「深龍水徹」を刻んでいたりしたと言われる。

ちなみに、黒田官兵衛が隠居後に名乗った「如水」は、旧約聖書のモーセの後継者となったヨシュア(ジュスエと当時は言われていた)の名に由来するとも言われるが、竹中半兵衛の戒名「水徹」に由来するとも言われる。黒田官兵衛は、熱心なキリシタン大名であった高山右近などの勧めもあってキリスト教の洗礼を受けてキリシタン大名となったが、1587年(天正15年)に豊臣秀吉が「伴天連追放令」を出すと、これに従い、隠居して「如水」を名乗ったのが、その2年後の1589年(4243歳)であるから、その時にキリシタンに由来する名前を使ったとは考えられない。黒田官兵衛はどこまでも竹中半兵衛を尊敬していたのである。

黒田官兵衛は、近江の黒田村の出身とされているが、祖父の代に備前国邑久郡(おくのこおり)福岡村(現:岡山県東北部・・ちなみに現在の九州の福岡という名前は、ここから名づけられたものである)から播磨国に移り、西播磨最大の大名であった小寺家に仕え、小寺家の当主小寺政職は、黒田官兵衛の祖父黒田重隆を重臣として迎えて姫路城代に任じている。従って、黒田官兵衛は姫路城代の息子として生まれ、16歳で小寺政職の近習として出仕した。1567年(永禄10年)、21歳の頃に父親から家督と家老職を継ぎ、姫路城代となった。

その2年後の1569年(永禄12年)に西播磨に勢力を持っていた赤松政秀がおよそ3000の兵をもって姫路城に攻め込んでくるが、官兵衛はその十分の一にも満たない300ほどの兵力で、これを2度にわたって撃退した。これによって官兵衛の名は一挙に上がり、その奇襲作戦と共に智将の名が知られるようになっていくのである。

本書は、その赤松政秀との戦の場面から始まり、黒田官兵衛が適切な情勢判断、状況判断をもって、また人間の行動に対する深い洞察をもって奇襲作戦を建て、攻めるべき時に攻め、引くときに引くという見事な采配を振るっていった姿を描くところから始まる。時は、室町幕府が衰退してそれぞれの領主たち群雄割拠し始めていた時代であり、やがて、小領主たちが統合されていって播磨国は、西の赤松家、中央の小寺家、東の別所家の三つの領主たちが争い合う状態だったのである。黒田官兵衛は、その小寺家に仕える者として、それぞれに対応せざるを得なくなっていくのである。そして、さらに、それよりも強大な毛利家が西に控えていた。毛利家は、毛利元就の活躍で中国地方のほぼ三分の二と九州の一部を支配する大大名となっていた。そして、輝元を中心にして、吉川元春、小早川隆景の元就の三人の子どもたちが不動の体制を敷いていた。

こうした中で黒田官兵衛はなんとか主家の小寺家が立ち行くように状況判断をしていくのだが、彼の目に映ったのは、桶狭間の戦いに勝利し、最強と言われた武田騎馬軍団を多数の鉄砲を使って打ち破った織田信長の姿である。周辺の領主たちが毛利の強大さに目を奪われ、信長の非道とも思える戦の仕方に批判的であったのに対して、官兵衛は情勢を分析して織田信長につくことを決めていく。そして、つてを求め、頭を下げて、すでに信長の配下になっていた摂津の荒木村重を頼る。戦が、これまでの個人から集団によるものに変わったことを見抜き、集団戦の威力をひしひしと感じていたからである。

しかし、その中でも黒田官兵衛が重視したのは、何よりも家臣との信頼関係であったが、本書はそのあたりを彼の手先として働く薬売りの仁吉という人物を登場させて、彼と一緒に魚とりに出かけていく姿として描き出している(2428ページ)。また、領主が直接動くことで家臣の信頼を得ていく姿が随所で描かれる。

荒木村重は信長の配下となって信長からの信頼を得ていたが、武田との戦も終わり、何より信長は役に立たない人物を嫌うと語るが、官兵衛が「役に立つか立たぬかは、使ってみなければわかりますまい。荒木殿、あなたは見ただけでその餅がうまいかまずいかを見抜けるとでも言われるか」(43ページ)と答えたという。そこには荒木村重が信長の配下となった時に餅を食べたという出来事があったのだが、官兵衛はそのことをよく知っていったのである。

こうした姿は、よく調べ、その上で自分の考えを語っていく黒田官兵衛ならではのものだろう。「ものは使ってみなければわからない」ということを自信をもって語ることができたところに黒田官兵衛の生き様がある。こうした展開はなるほどよく考えられていると思った。

荒木村重は、後に信長に反旗を翻らせ、使者として出向いた官兵衛を捕え、一年余にわたって穴蔵に放り込み、そのために官兵衛は、生涯、頭に痘瘡ができ、足が不自由になって、戦の時は輿に乗らなければならず、杖をついて、まっすぐに座れなくなってしまうが、この時は信長の家臣の中でも筆頭格の羽柴秀吉(豊臣秀吉)に紹介するのである。

人物を見抜くことにかけては図抜けた才能をもっていた秀吉は、官兵衛が荒木村重の紹介状を携えて訪ねてくると、官兵衛を歓待し、妻の「ねね」と共にあけっぴろげで歓迎する。その姿を見た黒田官兵衛はこれほどの器量人はいないと判断し、彼の下で働くことを決意していくのである。秀吉の妻「ねね」は、実に多くの武将から慕われた人で、黒田官兵衛も「ねね」によって自分の嫡男の松寿丸(長政)の命を助けられている。

こうして黒田官兵衛は、秀吉の軍師として、先に秀吉の下で働いていた竹中半兵衛と共に軍略を立てて山陽地方の攻略を行なっていくのである。裏切りや寝返りが続き、彼の主家であった小寺政職の優柔不断な甘い判断で小寺家が右往左往していく中で、黒田官兵衛は揺るぎない確信をもって信長と秀吉に仕え、竹中半兵衛亡き後は、秀吉が最も頼りにする軍師となていくのである。秀吉の高松城水責め、鳥取城攻略のすべてに献策をし、これを成功させていく。

秀吉は、官兵衛を最も頼りにしていたが、敵に回せばこれほど恐ろしい存在はないということも知っていたと言われ、そのため、秀吉が天下平定した後は遠い九州(中津)に領地を与えたとも言われる。

そして、毛利との対決が迫る中で、信長が明智光秀によって襲われる本能寺の変が起こる。官兵衛は、秀吉にそれを伏して毛利と急遽和解し、光秀を撃つことを進言するのである。官兵衛は信長亡き後の天下人になるのは秀吉をおいて他にないと見抜いていたのである。

本書は、この秀吉への進言をもって終わるが、描かれている織田信長や豊臣秀吉の姿が現代の定説に従ったものであり過ぎるとはいえ、黒田官兵衛の人物をよく描いていると思いながら読むことができた。

黒田官兵衛については、既に優れた多く作品が書かれ、小説だけでも、坂口安吾『二流の人』、吉川英治『黒田如水』、松本清張『軍師の境遇』、司馬遼太郎『播磨灘物語』、池波正太郎『武士の紋章』を挙げることができるし、わたし自身の出身が福岡ということもあって、藩祖となった黒田官兵衛には大いに関心があり、以下の作品はまだ読んではいないが読みたいと思っている作品としては、安部龍太郎『風の如く、水の如く』、火坂雅志『軍師の門』、岳宏一郎『軍師官兵衛』、『群雲、賎ケ岳へ』などがある。

黒田官兵衛が残した「われ人に媚びず、富貴を望まず」はとみに有名だが、こうした気概はいつの世にも重要な意味を持つものだろうと思っている。