2012年10月8日月曜日

中村彰彦『鬼官兵衛烈風録』(1)


 澄み渡る秋空の下で、少し暑い日差しを残しながら好日が過ぎていく。黄昏時の風は、真に心地よい。山積みしている仕事がなかなか片づかないが、ぶらりぶらりと歩くのも悪くない。日々を愉しむ術を身につけることが肝心。そんなことを思いながらパイプたばこを吹かしていた。

 幕末の頃に、薩長や尊王攘夷の人々から「鬼官兵衛」とか「鬼佐川」とかいって恐れられた会津藩士の佐川官兵衛(18311877年)の姿を描いた中村彰彦『鬼官兵衛烈風録』(1991年 新人物往来社)を読んだ。作者の史料の取り扱いにはここでも感嘆する。

 本書は、幕末史を丹念にたどりながら、いくつかのエピソードを交えて「鬼官兵衛」の姿を描き出したもので、会津という幕末の嵐の中心にあって、しかも激烈な会津藩士の中で最も慕われ、尊敬された人物である佐川官兵衛の姿を描き出すのであるから、当然、幕末における会津藩の姿が重要な意味を持つ。佐川官兵衛は、藩主の松平容保に請われて会津藩最後の家老となった人物である。

 佐川官兵衛は、1831年(天保2年)に会津若松城下の佐川幸右衛門直道の嫡男として生まれ、体が大きく、腕力もあり、幼少から文武両道において非常に優れていたと言われている。父親の幸右衛門は三百石の物頭(足軽大将)で、当時、会津藩では三百石以上の嫡子は、藩校の日新館で四書五経から春秋左氏伝、蒙求、十八史略といった漢学を修めなければならず、武芸においても、弓馬槍刀銃のうち一芸以上は免許を得なければならなかった。会津の日新館での学びは相当に厳しいものがあったが、佐川官兵衛はその両方において優れ、和歌をよく詠み、一刀流溝口派の剣技に優れ、馬術も抜きん出ていたと言われる。人柄もよく、人情に厚くて人望を集めた。後に刀工にも深い関心を持ち、刀鍛冶に弟子入りして自ら小刀を造るほどであり、豪放磊落であると同時に繊細でもあったのである。

 彼に残されたエピソードのうち、ひとつは若い頃のもので、父の隠居によって家督を継いだ官兵衛が会津藩江戸藩邸の火消し頭を勤めていたとき、火事で出馬した幕府定火消し役の内藤某(本書では五千七百石取りの大身の旗本内藤家の内藤外記とされている)と道を譲る、譲らないで争いとなり、その内藤外記を斬ってしまったというのがある。その不祥事を内密にするという処置が取られたが、相手が死んでおり、官兵衛は百石の減禄の上、国許での謹慎処分となるのである。本書はこのエピソードから始まっている。

 藩主の松平容保が、蒲柳の質のためにさんざん辞退したが受け入れられずに京都守護職を命じられ、千名もの藩士を連れて上洛した際も、官兵衛は謹慎中のため国許に留め置かれている。この時期、官兵衛は、一度妻帯したが、相手の女性がほとんど感情を表に出すことのない女性で、細やかな愛情を求めていた官兵衛と合わずに離縁し、公私にわたって挫折を味わった。しかし、人の価値というものは、自分が評価されない時にどうするかで決まるものである。彼は学問と文武の修行に励み、それと同時に自分の性格もより豊かな人間性を備えるものになるために物事をおおらかに受け取っていくことに心をくだいていくのである。

 やがて、京都の情勢が激化して、官兵衛も許されて上洛し、物頭となり、会津藩が京都でも開いていた京都日新館の学校奉行を兼ねるようになっていく。彼の人望と信頼は高まり、会津藩の最も優れた精鋭部隊である「別選組」と日新館で学ぶ若い藩士たちで組織された「諸生組」の隊長も兼務するようになっていく。官兵衛は、この時期に再婚したが、婚礼の日に、槍の名人を学校に招いて酒宴をし、そのまま酔い潰れて寝てしまい、後で弟二人から叱責され、官兵衛はその叱責を、肩をすぼめて聞いていたというエピソードが残されている。だが、夫婦仲はよく、年の離れた妻をこよなく愛したと言われる。

 この間、京都では、1864年(元治元年)に長州藩による「禁門の変(蛤御門の変)」が起こり、第一次長州征伐の命が下ったりするのである。前年に公家の七卿とともに京都を追われた長州藩は、三条実美を擁して攘夷の断行と天皇の御親征を訴えて武装をして上京し、これに対して一橋慶喜(後に徳川慶喜)が武力でそれを抑えることを主張して、京を守る会津藩士と蛤御門で激突したのである。

 この時、刀と槍で戦った会津藩士は長州藩の洋式銃の前で苦戦し、薩摩藩が動くことでかろうじて長州藩を退けることができたが、この時に官兵衛は洋式銃の強さをつくづくと実感していた。だが、旧態依然の会津藩では、その進言を取り入れることに消極的だったのである。

 第一次長州征伐は、長州藩が恭順の意を表したことで腰砕けに終わったが、幕閣は、情勢も判断できないまま、それでますます増上慢になってくるし、そういう幕府を見限った薩摩藩は長州藩と手を結んで倒幕の動きを密かに始めていく。会津で至誠を大事にする一徹な教育を受け、藩内もよくまとまっていた会津藩士にとって、長州藩のように藩内で争いあうとか、情勢に応じてめまぐるしく態度を変えるというような薩摩藩や長州藩のあり方は理解できなかったのではないかと思う。ましてや、外面的なメンツだけで生きていた当時の公家のあり方とも立場を異にしていただろう。

 やがて長州藩は、高杉晋作らを中心に恭順から一変し、武力を整え、江戸幕府は長州藩が幕命に従わないことを理由に第二次長州征伐を行う。この時、会津藩は京都守護のためにこれに加わらなかったが、幕府軍は長州軍によって撃退されていく。その最中に、1866年(慶応2年)、将軍家茂が二十一歳の若さで死去し、続いて会津の松平容保のよき理解者でもあった孝明天皇が1867年に死去し、事態は一変していくのである。186711月(慶応3年10月)に、第十五代将軍となった徳川慶喜が大政を奉還する。これによって松平容保は京都守護職の任を解かれるのである。

 しかし、大政奉還が朝廷に出された1014日(現:11月9日)、岩倉具視によって薩摩藩と長州藩に倒幕の密勅が密かに出されていた。これは偽勅の疑いのあるものであり、実行は延期されたが、薩長による武力倒幕は初めから強いものがあったのである。

 将軍徳川慶喜は、松平容保らの反対を押し切り、やがて京都の二条城から大阪の大阪城へと移る。慶喜はこの時から既に逃げのびることを第一にしていたのだが、従った家臣らの意気は高く、やがてこれが鳥羽伏見の戦いへと繋がるのである。松平容保と会津藩士は慶喜に従って京都から大阪城へ移り、会津藩士は大阪城の警護を命じられ、佐川官兵衛も警護の役につく。そして、ついに、1868年正月に鳥羽伏見の戦いが勃発する。

 この戦いは、兵力は幕府軍の方が多かったのだが、薩長軍の銃火器と幕府軍の稚拙な戦いぶりで、薩長軍の勝利で終わるが、佐川官兵衛らの会津藩士は勇猛果敢によく戦い、官兵衛はこの頃から「鬼の官兵衛」と言われるようになった。彼の戦いぶりがよく描き出されている。官兵衛はこの戦いで目を撃たれて負傷したが、それをものともせずに戦い抜いた。そして、徳川慶喜は、鬼神のように戦った佐川官兵衛を歩兵頭並(幕府軍歩兵総督)に任命し、「余が自らこれより直ちに出馬する。皆々、出陣の用意をいたせ」と大阪城にこもった幕府軍を鼓舞した。しかし、その下の根も乾かないうちに、その夜、わずか数名を連れて大阪城を脱出したのである。将軍の裏切り、これは決定的となり、加えて、薩長軍が錦の御旗を掲げたことによって、幕府軍が賊軍となったために幕府軍全敗となったのである。

 慶喜は自分に従った幕府軍に嘘をつき、これを捨て去り、庭を散策するふりを装って脱出した。会津藩主の松平容保は、慶喜の散策につき従うつもりであったところ、ともに脱出することを命じられてやむなく慶喜と行を共にすることになり、後にこれを悔やんだとも言われる。

 将軍に裏切られて憤懣やるかたない官兵衛ら、残された幕府軍にやがて解散が命じられ、会津藩士たちは紀州を山越えして、やがて船で江戸に向かう。松平容保は、江戸に来る会津藩士を迎に出て、彼らに頭を下げ、家督を養子の喜徳(のぶより)に譲る。会津藩士たちは、藩主のこのような姿に打たれて、このような仕打ちをしでかした徳川慶喜をさらに軽蔑するに至ったとも言われる。

 やがて、江戸城の無血開城が行われ、なお各地で薩長軍と戦おうとする者たちを残して官兵衛は藩命に従って会津へ帰る。彼は、鳥羽伏見の戦いの敗北から新式銃の重要性を痛感し、会津藩の武装化を整えていくのである。なお、この時に江戸に残った官兵衛の弟又三郎は、幕府軍の結集を呼びかける際に誤って殺されている。

 会津に帰った松平容保は、何度も朝廷に恭順の意を示したが、「会津憎し」の薩長軍はこれを受け入れず、やむなく会津は薩長軍との戦いに入っていくのである。官軍(薩長軍に錦の御旗が下り、諸藩が従った)に対抗する奥羽列藩同盟が結成され、佐川官兵衛の働きによって越後長岡藩の河井継之助もこれに加わることになって奥羽越列藩同盟が結成されていく。かくして戊辰戦争が始まる。だが、奥羽越列藩同盟は次第に敗北を重ねて行き、自主独立の気概が高かった河井継之助も銃弾に倒れ、ついに、会津は若松鶴ヶ城を中心として官軍と対峙していくようになる。会津鶴ヶ城の会津藩士や城下の商人や農民たちの勇猛な戦いぶりはよく知られるし、その悔しさや悲しさもよく知られている。佐川官兵衛を中心に、会津はよくまとまり、決死の戦を続けたのである。

 この戦いには「会津魂」が込められ、佐川官兵衛にもいくつかのエピソードが残されているし、九州の阿蘇で没するまでにも記したいことがあるので、それを記すと長くなってしまうから次回に記すことにする。

2012年10月3日水曜日

西條奈加『四色の藍』


 新しく発生した台風が小笠原近郊にあり、その影響で重い曇り空が広がっている。南方の海水温度が高くなっているので台風が発生しやすくなっているからだろう。「野分が吹いて秋が来る」の言葉通り、一段と秋が深まっていく。

 昨夜は、人の柔らかさを描いたものを読みたいと思って西條奈加『四色の藍』(2011年 PHP研究所)を楽しみながら読んだ。登場してくる人物が、どこか人生の影や過ち、悲しみを背負っているというのがよく、それらの人たちが、「紫屋」という紺屋(藍染屋)の妻「環(たまき)」を中心にして集まってくるのである。

 「環」は、夫の茂兵衛が突然殺され、その真相を明らかにして夫の恨みを晴らしたいと願い、藍玉問屋や札差、薬種問屋などを手広く商って、裏でも金貸しをしている東雲屋三左衛門が夫を殺したと思って、洗濯婆をしている「おくめ」と、男相手の商売をしている色気の溢れた「お唄」を仲間にして、東雲屋の夫殺害の証拠をつかもうとしていた。「環」の夫の茂兵衛と時を同じくして藍玉問屋の阿波屋八右衛門が自害していたので、役人は、阿波屋八右衛門が茂兵衛を殺して自害したと見ていたが、「環」は違うと思っていたのである。阿波屋八右衛門は四国の阿波徳島藩の藍商で、藩内の藍玉を独占的に扱う豪商で、藍染の意匠に凝る茂兵衛は阿波屋に借金をしていた。

 そして、「環」が東雲屋三左衛門を訪ねている時に、同じように東雲屋三左衛門を訪ねてきた阿波徳島藩の若侍と出会い、「環」が東雲屋の手先から襲われた時に「環」を助けるのである。若侍は蓮沼伊織と名乗り、国元での兄の敵と目される新堀上総(かずさ)が東雲屋にいると聞いて国元から出てきたところであった。同じ東雲屋に関係し、剣の腕も立つところから「環」は、蓮沼伊織に仲間になってくれるように頼み、こうして四人が事件の真相を暴くことに奔走していくのである。

 だが、若侍として男の格好をしているが、蓮沼伊織は実は女性で、伊織という名は兄の名前であり、実際は「伊予」という。そして、兄を殺したと目されている新堀上総は幼馴染で、彼女(彼)が密かに想いを寄せていた相手だったのである。

 紺屋の「環」を中心にして集まったこの四人は、それぞれに生きることの辛さを抱えている。「環」は、料理茶屋で仲居をしていた頃に茂兵衛にみそめられて茂兵衛の後妻となり、年の離れた茂兵衛に可愛がられたが、その茂兵衛が殺されて紺屋をひとりで背負わなければならなくなり、茂兵衛の親戚筋からは受け入れられない中で過ごさなければならなかった。

 「お唄」は、東雲屋の裏稼業の手代をしている暴れ者の源次と夫婦だったが、源次が博打で借金を作ってしまい、その借金のカタに賭場の親分に差し出されてさんざん弄ばれたあげくに売り飛ばされ、一年経って商人の妾として身請けされたが、さらに源次が追いかけてきて、とうとう源次と逃げ出して再び夫婦となったが、また源次が賭場で借金を作り、旗本の閨の相手としてまた売り飛ばされた女性であった。その旗本の閨での嗜好が異常で、「お唄」は体中が傷だらけとなり、やがて「お唄」に飽いた旗本が彼女を自由の身にして、今は男相手の水茶屋勤めをしているのである。彼女は東雲屋の源次に恨みを晴らしたいと思っていた。

 洗濯婆の「おくめ」は、若い頃にある大名家の家臣の家の女中をしていたが、そこで手をつけられて子どもを身ごもったために追い出され、子どもだけを取り上げられて、散々苦労して生きてきた女性であった。彼女は、洗濯婆として東雲屋にも出入りするので、お金のために「環」に協力していると言う。

 そして、蓮沼伊織を名乗る「伊予」は、敬愛した兄を殺され、その仇とみなされる人間が、自分が想いを寄せた新堀上総であり、しかも新堀を追って江戸に来る途中で、助成を申し出て同行していた従兄で許嫁でもあった蓮沼章三郎が無理やり襲ってきたので、これを防ごうとして彼を殺していた。「伊予」は、剣に堪能な使い手でもあった。

 この四人がそれぞれに自分の方法を発揮しながら、「環」の夫を殺した犯人を探っていくのだが、いくつかのどんでん返しが仕組まれて物語が展開されている。そして、「環」の夫殺しの犯人と「伊予」の兄殺しの犯人には繋がりがあり、そこに阿波徳島藩における権力掌握を狙った家老とその家老に賄賂を送って藍玉の独占的取り扱いを狙った商人の悪計が潜んでいることが分かっていったり、その実行犯が意外な人物であったりするのである。

 最初、重要な役割を果たすようには思えなかった奉行所定町周り同心の山根森之介は、「環」に惚れて、「環」もまんざらではない展開になっていくが、実は彼こそが事件の鍵となる人物となっていく。

 もちろん、大名家の家老の権力欲や商人の動き、またそれに従う者たちの姿など、こうした設定は最近の時代小説ではよくある設定で、それが深く掘り下げられているわけではないし、格別のミステリーというものでもないが、どんでん返しのどんでん返しという構成は面白い。また、どうにもならない相手に惚れてしまう女心や親子の情愛も豊かに描かれている。個人的に『烏金』以来、文章の柔らかさを感じさせてくれるいい作品を書かれていると思っている。

2012年10月1日月曜日

安部龍太郎『金沢城嵐の間』


 台風一過で、碧空が広がっている。一夜の嵐、一夢の生。後に残る碧空、という感じである。それにしても、昨夜は凄まじいくらいに風が吹き荒れた。ここは丘の上の高台にあるので余計にそれを感じたのだが、あらゆるものを吹き飛ばそうとするかのように吹き付けてきていた。

 昨夜は、テレビの台風情報を見ながら、安部龍太郎『金沢城嵐の間』(1997年 文藝春秋社)を、非常に優れた作品集だと思いつつ読んだ。これは、「残された男」、「伊賀越えの道」、「義によって」、「金沢城嵐の間」、「萩城の石」、「生きすぎたりや」の6編の短編からなる短編集で、いずれも「武士の一分」に生きた人間たちの姿を描いたものである。

 「残された男」は、江戸時代初期に筑後三十二万石を与えられ、柳河(柳川)の初代藩主となった田中吉政(15481609年)の四男で二代目藩主となった田中忠政(15851620年)の時代に、旧藩主であった立花宗茂を慕い、そのために働き抜いた武士の姿を描いたものである。これはわたしの郷里に近い筑後の出来事でもあるから、少し詳細に記しておこう。

 田中吉政は、豊臣秀吉の甥の羽柴秀次(後の豊臣秀次)に仕える家老であったが、秀吉によって秀次が自害させられた後も「秀次によく諫言した」ということで加増を受け、三河岡崎10万石の城主となった人物であるが、関ヶ原の合戦では徳川方につき、とくに石田三成を捕縛するという功を認められて、立花宗茂に代わって筑後三十二万石を与えられたのである。彼は、柳河で都市設計に力を尽くし、用水路を整備したり、陸路を整備したりして近代的な都市を作り、家督を嫡男の忠政に譲って京都の伏見で没した。今も残る柳川の水路は彼が造成したものである。

 しかし、家督を継いだ田中忠政は、幼少から父の策略で江戸の家康のもとに置かれ、慶長14年(1609年)に家督を継いだが、その家督相続の時には禍根が残った。長兄吉次は父親の勘気を受けて追放されたとの説もあるが病死の説もあり、次兄も病死で、三男(説によっては次男)の康政も病身で吃音症があり、八女の福島に三万石を与えられるが、柳河藩の後継者として不適格とみなされていた。そのために四男の忠政が家督を継ぐことになったのである。ところが、この康政がそのことを不満として恨みを残し、柳河藩の次席家老である宮川大炊と結託して藩主の座を奪おうと画策したのである。

 筑後三十二万石を与えられた田中吉政は、岡崎から連れてきた譜代の家臣の他に旧立花家の家臣などの地元採用の者を多く登用した。だが、地方衆と呼ばれる地元採用の家臣と譜代の家臣とのあいだの待遇の差が大きく、互の反目が生じていたのであり、康政は地方衆を裏から支援して対立を煽ったのである。

 慶長19年(1614年)の大阪冬の陣の際は、九州の抑えのために出陣には至らなかったが、忠政は用意した軍用金を論功行賞として譜代の家臣にばかり与え、地方衆から一斉に反発を受けたのである。このために夏の陣では豊臣側につくべきだとの反論も起こったりして遅参した。政康は、この時も遅参した忠政が豊臣側に内通して疑いがあると幕府に訴えたりしている。

 本書は、この時に、地方衆の代表として切腹覚悟で藩主の忠政に異を唱えた藤崎六衛門の姿を描いたもので、そこには、実は彼が青年の頃に仕えた旧藩主である立花宗茂への信義に応えていくという生涯をかけた姿が貫かれていたことを語るものである。立花宗茂は人の真実を知る人物で、家臣にも慕われ、宗茂のために命をかけても良いと思う家臣が大勢いたが、豊臣側についたために領地を取り上げられて浪々の生活を余儀なくされたのである。しかし、いつかは柳河に帰ることを念願としていた。

 そして、立花宗茂は、田中忠政が36歳で嗣子がなくて没したことや、それまでの田中家の争い、またキリシタンを保護していたことなどから無嗣断絶となり改易されたあと、再び柳河藩を拝領している。田中家の中で立花宗茂のために孤軍奮闘する藤崎六衛門は、青年の頃の宗茂との誓いを貫いて生き抜くのである。その姿が、短編とはいえ、克明に綴られて読むものを圧倒する作品になっている。一度結んだ信義のために生涯をかける。そういう姿が描き出されている。

 「伊賀越えの道」も、「義」に生き抜き、特に父と子、家族のために生きた人間の姿を描いたものである。舞台となるのは、伊賀二十万石(諸説がある)の筒井家である。筒井定次は、関ヶ原の合戦では東軍に属しながらも、石田三成の甘言に乗って徳川側を裏切ろうとし、中坊飛騨守秀祐の働きでかろうじてそれを行わずに領土を安堵されていたが、やがてはその中坊飛騨守秀祐によって、大阪冬の陣で豊臣家に内通しているということ改易された。本書はその中坊飛騨守秀祐の姿を描いたものである。

 中坊秀祐は伊賀二十万石(諸説がある)の筒井家の家老であった。筒井家には後に石田三成の参謀となった島左近がおり、島左近とは盟友であったが意見を異にして左近は筒井家を去っていた。そして関ヶ原の合戦後、秀祐は家督を息子の秀政に譲り、隠居していた。しかし、一番家老であった松浦祐次の一派と対立しており、藩主の筒井定次はそれを押さえる力はなかった。両派の力関係は、中坊秀祐が家老の座を追われたことで決定的となっていたし、中坊秀祐は息子の秀政とともに松浦祐次が放つ刺客に狙われることが多かった。

 だが、中坊秀祐はそうした刺客をものともしない剛毅な性格で、関ヶ原の戦いでも、石田三成の甘言に誘われて筒井定次が徳川方を裏切ろうとしたとき、情勢を見極めて合戦が始まると同時に一千の兵を率いて三成軍を攻め、それによってかろうじて筒井家を救った経緯がある。だが、そのことで藩主の筒井定次との間は厳しいものとなっていた。なんとか生きのびることができた筒井家だったが、徳川家康は大阪城包囲網のために筒井家を取り潰して信頼のおける大名を伊賀上野に置きたいと思っていた。

 だが、藩主の筒井定次は藩政を松浦祐次に任せきりにし、狩りと酒宴、猟色にうつつを抜かし、それを諌める者を容赦なく追放した。藩内では、そういう定次を廃して八歳になる順定を藩主にする以外に筒井家の安泰を図る道がないと考える動きもあり、中坊秀祐の息子の秀政もそういう動きをしていたのである。本書は、そうした秀祐と秀政の親子の関係が描かれながら、秀政が謀反のかどで藩主の祐次に捕縛され、徳川側の大久保長安の策謀なども発覚していき、切腹を免れない状況になっていく過程が克明に記されていく。そこには中坊家を葬り去ろうとする松浦祐次の企みも働いていた。

 こんなことで息子の秀政を死なせてはならないと考えた中坊秀祐は、徳川家の策謀を伝えて捕縛された者たちの助命を図るが、藩主は話にならず、ついに決起して息子を救い出し、伊賀上野を出ていくのである。そして、残された親類縁者や中坊派の者たちを救うために、藩主の筒井定次がキリシタンを利用して密かに鉄砲を買い集めて徳川に弓を引くことを家康に訴えようとしたのである。

 先の「残された男」の場合も同じであるが、この頃の武士には、藩主や自分が仕える者がひどかったり頼りにならなかったりすれば、さっさとそれを見限って己の義を通そうとする気風が色濃く残っていた。封建制とはいえ、絶対君主ではなく、藩主と家臣との間も下克上で、そのために相手を見極めることが重要なこととされたのである。その代わり、一度信義を見出したなら決して裏切らないのも重要となり、それらが「武士の一分」を形成してきたのである。中坊秀祐は傲慢な人間だったと評されることが多いが、本書はまた別の違った視点で彼を描き出しているのである。

 「義によって」は、その表題のとおり、「武士の義」を貫こうとした話で、慶長17年(1614年)に越前福井藩で起こった通称「久世騒動(越前騒動ともいう)」に題材を採ったものである。

越前福井藩では、もともと藩祖である結城秀康(徳川家康の次男)の御付家老である本多富正を中心とする徳川系家臣団と今村盛次(掃部助)を中心とする新参の家臣団との間に軋轢があり、今村盛次は、もとは豊臣秀吉の側室「淀」の生家である浅井氏と同郷の近江京極家の譜代の出身で、徳川家に対しては複雑な感情を持っており、二代目藩主となった松平忠直も徳川本家に対しては反感を抱いていたので、今村派側に組みしていたと言われ、本多富正と共に藩政を動かしていた久世但馬の上意討ちを命じたのである。

事柄の発端は、かつて久世家の足軽をしていた平塚茂平が佐渡に出稼ぎに出て音信不通になっている間に、妻が再婚し、それに悋気を起こして、元妻と再婚相手を殺し、久世家に逃れてきたことによる。今村派であった町奉行の岡部自休は、当然のように犯人の引渡しに応じるが、「窮鳥懐に入れば猟師もこれを撃たず」で、犯人引渡しを否んだ久世家に対して、激しく対立していくのである(本書ではそのようになっているが、久世騒動の発端については諸説がある)。

ところが、この平塚茂平が出奔してしまい、久世家は故意に茂平を逃がしたのではないことを証明する必要に迫られ、本書の主人公となる大木十左衛門がその探索に当たることになる。大木十左衛門は本多富正の家臣で、久世但馬の孫娘と言い交わした仲にあった。

十左衛門は久世家の窮地を救うために茂平を捜すが、茂平は今村掃部の手の者によってさらわれており、この事件の背後にあることがわかっていくのである。そうしているうちに業を煮やした岡部自休が駿府の徳川家康に直訴しようとしたためにこれを捕らえ、藩内で評定が開かれた際に、藩主の忠直が、理は岡部にあり、として久世但馬に謹慎を命じたのである(別説では、対立していた久世家と岡部の仲裁に本多富正が入り、岡部自休を納得させようとしたが、納得できない岡部自休が今村掃部に相談し、かねてから本多富正を排除しようとしていた今村掃部が、藩主忠直の母や兄の思惑もあって、この機に本多富正を窮地に陥れようと画策したというのもある)。

本作では、犯人の平塚茂平を今村掃部の家臣がそそのかして、久世家に逃げ込み、折を見て姿をくらませと勧めたとされ、茂平が十左衛門に発見されようとすると、その茂平を殺したという展開になっていく。こうして久世家の非理を証明する証人がなくなり、城中では、久世但馬を支持していた竹嶋周防守を押し込めて、久世但馬の切腹の見届け人を本多富正が命じられるのである。

久世但馬はこの処断に納得がいかず、これは君側の奸臣の策謀であり、いかに主命とはいえ、これに従っては武士の一分が立たないと蜂起するのである。そして、本多富正に久世但馬を討つことの命がくだされたのである。久世屋敷を囲んだ本多富正の軍の中には大木十左衛門もいたが、久世但馬の孫娘と言い交わした中であり、どう考えても義は久世但馬にあると、彼はひとり久世但馬のもとに行き、軍勢と戦うのである。

本多富正は久世但馬を討つことの非をよく知っていたためになかなか攻撃をしなかったが、後ろから鉄砲を討ちかけられるというひどい仕打ちを天守閣から見物していた今村掃部や藩主にされる事態となったのである。

この戦で、久世親子は屋敷に火をかけ自害し、久世家の一族を始め約150人が全員死亡となり、本多富正も負傷する。そして、やがてこれを幕府が知ることとなり、家康と秀忠の前で採決され、富正側にはお咎めなし、今村掃部には追放、岡部自休には死罪が申し渡されている。

本書は、義のために、そして愛する者のためにあえて死中に行った大木十左衛門の姿を描いたもので、それが「武士の一分」であることを記すのである。

少し長くなったので、以下は簡略に記すが、「金沢城嵐の間」は、慶長7年(1602年)に金沢城本丸御殿で二代目藩主の前田利長の命によって家老の横山長知らによって誅殺された筆頭家老太田但馬守長知を主人公にして、その事件の顛末を語ったものである。

太田長知は前藩主前田利家の妻であった「おまつ」の甥で、利長の義兄にあたり、利家の小姓であった時から猛勇を謳われる武将であり、利家は豊臣秀吉の恩顧の家臣で、秀吉亡き後も徳川家康に唯一押さえが効く人物で、太田長知もどちらかと言えば豊臣家に傾いていたが、加賀前田家は、利長の時代から次第に徳川家康に恭順を示すようになっていった。この誅殺事件には、そうした背景があり、表向きの誅殺の理由は、太田長友が前田利長の愛妾との密通をしたということで、後日、愛妾の「おいま」は目をえぐられて斬首されるという酷い刑に処せられているが、後に家中では利長憑依説が出るほどで、徳川か豊臣かの二者択一を迫られる状況が生んだ悲劇と言えるかもしれない。

太田長知は、剛の者らしく、城中で斬りかかった者ら数名を斬り殺し、誅殺した横山長知も危うく突き殺されるほどで、その死の様は、まことに戦国武将らしくあっぱれなものであったと語り継がれている。本書は、そうした壮絶な非業の死を遂げた太田長知を描き出したものである。

「萩城の石」は、関ヶ原の戦いの後に長州に減封された毛利家の姿を描いたもので、萩に新しく城を作ることになり、その城門の石垣建造にあたっても藩内の勢力争いが起こり、無理難題をふっかけて自己の勢力を拡大しようとした者に対して、武士らしく「義」を貫いっていった男の話である。

「生きすぎたりや」は、この短編集の中でも少し毛色が変わり、「戦うこと」を自分の信条として生きてきた女性である「花江」が、主人の姿に飽き足らずに「武」を誇るものと浮気をしたりするが、結局、彼女の浮気相手だった「武」を誇る者が、ただの表面的な人間であり、不足を感じていた主人が、藩政においても、夫婦のあり方においても、一筋さを貫いていく人物であることに気づいていく話である。

細川忠興が関ヶ原の功によって豊前・豊後の三十九万石を与えられ、中津藩の藩主となった時代であり、細川家の世継ぎ問題に絡んで、英邁の誉れ高い興秋ではなく、徳川家の意を受けた忠利を後継者にするようにとの幕府の要請をはねのけようとした長岡宗信の姿を、その妻女の側から描いたものである。

ここに収められている短編は、すべて、江戸初期の戦国の混沌がまだ残る中での人の一途な生き方を描いたもので、読み応えのあるものだった。諸説があったり、異なった人物評があったりする中で、「武士の義」と「武士の一分」という視点でそれぞれが描かれ、多くの示唆を与えてくれるものであった。歴史・時代小説の短編もこういう作品はいいと思う。珠玉の作品である。

2012年9月28日金曜日

南原幹雄『将軍家の刺客』


 接近している台風の影響で、曇って、ときおり、「野分」という言葉がぴったりのような強い風が吹く。今年の中秋の名月は30日(日)だそうだが、台風の本土上陸が予想されているので、観月はむりだろう。

少し前に、南原幹雄『将軍家の刺客』(2003年 徳間書店)を読んだ。これは江戸時代初期に徳川家康と共に江戸幕府を作り、智者、切れ者と言われながらも失意のうちに晩年を過ごさなければならなかった本多正純の晩年の姿を、幕閣から送り込まれる刺客と本多正純を守ろうとする忍者たちとの攻防を織り込みながら描き出したものである。

 本多正純(15651637年)は、徳川家康が最も信頼して参謀・相談役としていた本多正信(15381616年)の長男として生まれ、家康の側近となり、その才気で家康の寵愛を受けて、父正信とともに江戸幕府草創期の中心人物となった人間である。家康が将軍職の座を秀忠に譲り、駿府で大御所として二元政治を始めると、正純は家康の補佐として、そして秀忠の補佐に秀忠を支えてきた大久保忠隣がつき、両者の調停を正純の父親の正信が果たすという形が取られたが、当然、江戸の秀忠は駿府の家康に頭が上がらないのだから、正純は家康の懐刀として比類ない権勢を誇っていった。

 やがて、秀忠の補佐をしていた大久保忠隣を、慶長19年(1614年)に起こった「大久保長安事件」に関連させて謀略を用いて失脚させ、徳川幕府初期の政治の一切を掌握するようになり、豊臣家を滅ぼすための口実となった「方広寺鐘銘事件」(豊臣家が建立した鐘楼に家康を侮辱する銘が刻まれている問の言いがかりをつけた)を金地院崇伝らと画策して大阪冬の陣の発端を開くようにしたとも言われ、また、冬の陣の後、大阪城の外堀を埋め立てる交渉を成功させている。これによって難攻不落と言われた大阪城は裸城となり、続く夏の陣で豊臣家は滅びたのである。彼は策略家として徳川家第一の功労者になったのである。

 しかし、その2年後の元和2年(1616年)、徳川家康と、それに続いて後を追うようにして父親の本多正信が死去し、正純は秀忠の幕閣に加えられ、家康の遺言を聞いた者として、遺産の分配や日光東照宮造営奉行などを務めるが、亡き家康の権勢を傘にきたところもあり、秀忠やその側近の幕閣に疎まれ、秀忠側近として力をつけてきていた土井利勝から排斥されていく。

 正純の父の正信は、権勢を得て自ら大身になると、人々の嫉妬や恨みを買うことになるので、決して加増を望んではならないと言い残し、自らも家康の度々の加増を断るほど身を律していたが、正純は自分の働きの報酬としては当然のこととして宇都宮十五万五千石の大名となる。

 だが、このことが正純失脚の始まりで、正純が改築した宇都宮城に秀忠暗殺の仕掛けが施されているということが訴えられたのである。正純の宇都宮拝命で宇都宮城を追い出されることになった前城主の奥平忠昌の祖母は、家康の長女で、秀忠の姉に当たる加納御前(亀姫)であり、亀姫はまた、正純の策謀によって失脚させられた大久保忠隣の長男忠常の妻でもあったから、正純に対する恨みは骨髄のものだったのである。将軍秀忠は造成された日光参詣の帰路、宇都宮城に一泊する予定であったが、「正純が宇都宮城の天井に仕掛けを施して秀忠暗殺を企んでいる」との直訴を受けて、宇都宮城一泊を中止した(宇都宮釣天井事件)。

 やがて、幕閣は都合14箇条からなる罪状嫌疑を突きつけ、このうち、城の修築で正純の意に従わなかったという理由で将軍家直属の根来同心を処刑したこと、鉄砲の無断購入、許可なく抜け穴の工事をしたことの三つが咎められることになる。秀忠は、先代から忠勤に励んだことを鑑みて、出羽の由利郡への五万五千石の減封に処すが、正純は謀反に身に覚えがないということで毅然とこれを拒絶した。それが秀忠の更なる怒りを買い、秀忠は本多家を改易し(取り潰し)、正純の身柄は佐竹義宣に預けられて、出羽の横手に流罪となったのである。正純の改易の表向きの理由は「日頃の奉公、よろしからず」である。こうした正純への処置には、将軍秀忠と老中土井利勝の思惑が働いていたというのが通説である。

 正純を預かった佐竹家では、流罪とはいえ、かつての老中首座であった正純を手厚くもてなしていたが、後に幕府がこれを知り、厳しい監視のもとで屋敷を釘付けにし、ひどい幽閉状態に置くことを命じたので、陽も射さない屋敷の中で、正純の嫡男の正勝は35歳で病死した。やがてこの釘付け状態はあまりにもひどいということで改善され、正純はその7年後の1637年まで生きた。享年73である。

 本書は、家康の時代に智謀を誇り、権勢を誇った正純が一瞬にして転落していき、佐竹家預りとなって生きていく姿を追いながら、正純を徹底的になき者にしようとする土井利勝が放つ刺客と、正純の身を守ろうとする者たちの死闘を描いたもので、放たれた刺客とそれを阻止しようとする者たちが、かつては師弟の中であり、それぞれの手の内を知る者どうしであることを前提に戦う姿を描いていく。ひどい境遇に落とされた正純がよく耐え抜いていく姿も克明に描かれる。

 もちろん、エンターティメント性の高い南原幹雄の作品であり、緊迫する死闘の描写や男女の絡みなども十分に描かれているが、本多正純と石田三成が同じような智略に溺れる者であるとされている点が興味深い。「智に働けば角が立つ」ではないが、謀に生きる者は謀に滅び、自分の智を頼りとする者は智によって裏切られていく。図る者は図られる。そんなことを痛切に感じさせる作品ともなっている。本田正純という、栄華を誇り、やがて転落して非業のうちに人生を終えなければならなかった人物を中心にエンターティメント性をふんだんに盛り込んだ作品である。

2012年9月26日水曜日

葉室麟『散り椿』(5)


 天気が目まぐるしく変わりながら、秋が進んでいく。時が、しなければならないことを山積みしたまま過ぎていくが、今しばし秋を楽しもうかと思っている。

比較的長く、葉室麟『散り椿』(2012年 角川書店)について記してきているが、家老の石田玄蕃は、榊原采女が瓜生新兵衛の妻であった「篠」と密会をしていたという噂を流させ、新兵衛によって采女を殺させようと企む。その噂を流すために采女の母親を利用する。采女の母親はまんまとその計略に乗り噂を広めていく。「篠」が采女に想いを残していたと思っていた新兵衛は、その噂で傷ついていく。新兵衛のような人間でも噂に傷つくのであるが、事態は切迫し、いよいよ扇野藩の藩主である親家が継子である政家を伴って国入りしてきたのである。

国入りした病身の藩主親家は、国入りしても床に伏したままで、もっぱら世子の政家がさっそく新しい活動を開始する。政家は懸案だった水路造りをする予定の村々に視察に出かけようとする。だが、そこには後継者争いを起こそうとしている石田玄蕃の手の者によって視察の途中で暗殺される危険があったのである。

 そこで坂下藤吾と瓜生新兵衛が政家の身を守るための囮として使われることになる。瓜生新兵衛はそれを承知の上で、政家の暗殺を阻止するために藤吾と共に出かけていく。案の定、二人は石田玄蕃の手の者に襲われ、かろうじてこれを撃退するが、政家は鉄砲で撃たれる。

 しかし実は、撃たれたのは政家ではなく身代わりとなっていた篠原三右衛門だった。三右衛門は政家が命を狙われていることを知って、自ら身代わりを申し出ていたのである。撃たれた三右衛門はこと切れる寸前に、榊原采女の父親を斬ったのが自分であることを告白する。抜刀して切りつけてきた父親の刀をかわすはずみで、采女は父親の小手を斬るが、逆上した父親が采女を殺そうとした瞬間に三右衛門が飛び込んで首筋を斬ってしまったと語るのである。そして、自分が「蜻蛉組」の組頭であったことも告白する。藩主に政家の命を守るように命じられたからであり、采女の父親を斬ったのも「蜻蛉組」の仕事であったと語り、藤吾を「蜻蛉組」に入れたのは、藤吾を守るためだったと言う。彼は「蜻蛉組」の組頭となってから采女を陰ながら助けてきたので、石田玄蕃に憎まれ、玄蕃は「蜻蛉組」を潰そうとするだろうと語り、藤吾に娘の「美鈴」を頼む、と言い残して息を引き取る。

 政家の身代わりとなった篠原三右衛門が襲われた頃、榊原采女は政家を伴って紙問屋の田中屋を訪れ、これまでの金の流れを断ち切り、水路造りの事業のために金を用いる話をつける。政家はそのために江戸で行部家成の息子である旗本とも話をつけたと語る。そして、政家は、田中屋の承諾を得られた後で、一息ついて茶を口にする。ところが石田玄蕃の手は田中屋の中にも伸びていて、その茶の中に毒が入れてあり、采女はそれを見過ごしてしまった。服毒した政家は重体に陥り、采女に自宅謹慎の処分が下る。

 采女は、父親と争った夜、篠原三右衛門から、三右衛門が「蜻蛉組」であり、采女の父親が行部家成と石田玄蕃に利用されたことを語り、その二人を倒すことを目的としてきた。だが、最後の土壇場で、石田玄蕃は藩主の継子である政家の毒殺という手段に出て、事態は逆転してしまった。

 石田玄蕃は、坂下藤吾の父親の源之進が自害したのが、使途不明金の罪を咎められるためでなく、采女の父親が殺された時にいたのが采女であることを知っていて、その秘密を守るために自害したと思っている。そして、篠原三右衛門を政家の身代わりに立てたのは、采女が自分の秘密を守るために死なせるためだったと邪推する。玄蕃は采女が父親を殺したと思い込んでおり、重職たちに榊原采女が恐ろしい男であることを告げて、藩主に、行部家成の孫を養子とし、「蜻蛉組」を解散するよう進言する。政家は既に石田玄蕃の手の中に置かれていた。こうして全ては石田玄蕃の思うままになったのである。

 「蜻蛉組」が解散させられれば、組頭であった篠原家もただでは済まない。事実、三右衛門の葬儀も出せず、罪人のよう扱われていた。だが、藤吾は「美鈴」に何があろうとも必ず守ると約束する。それは、石田玄蕃の手の中にある藩全体を敵にまわすことでもあった。

 その五日後、石田玄蕃が榊原采女を直接訪ねてくるということが起こる。玄蕃は、采女が父親を殺し、坂下源之進がその秘密を守るために自害したことを告げ、万座の中で玄蕃に詫びを入れよと語る。そうしなければ、世子の警護に手抜かりがあった咎で切腹を命じると告げるのである。

 翌日、新兵衛が榊原采女を訪ねる。妻の「篠」との約束を果たすため椿を見に来たと言う。だが、「篠」が死の間際に望んだもう一つは、采女を助けることだったと語る。「わしは、篠に一日としていい目を見させてやることができなかった。篠は、辛く苦しい思いの中で生き、この世を去った。だから篠の頼みなら、おのれにとってどんなに苦しいことであろうとも聞こうと心に決めたのだ」「願いを果たしたら褒めてくれるか、と訊いたら篠は褒めると言ってくれたぞ。お主には事を成し遂げた時、褒めてくれる人はおるまい」(289290ページ)と、胸の内を采女に語るのである。

 そして、采女に向かって刀を抜き、彼と斬り合うことによって、采女が父親を殺したのではないことと、篠原三右衛門が最後に告白したことを伝えるのである。采女は三右衛門が「蜻蛉組」であったから世子の身代わりとなり、自分もまた「蜻蛉組」の一人であることを新兵衛に告白する。だが、それも、無に帰してしまった。すべては石田玄蕃の思うままになったのである。

それを聞いて、新兵衛は「お主はおのれを殺して生きようとする。それが他の者の生きる道を閉ざしてしまうこともあるのだ」と語り、自分の妻の「篠」もまた、どんな邪魔があろうとも「お主がしっかりと受けとめることができていたならば、篠は別の行き方ができたはずだ。わしと夫婦になったばかりに、寂しく世を去らねばならなかったではないか」と言う(294ページ)。

 だが、采女は「篠」の想いは違うと言い出し、篠が最後によこした手紙に書かれてあった和歌「くもりの日影としなれる我なれば 日にこそ見えね身をばはなれず」を持ち出してきて、これは采女への想いを綴ったのではなく、自分は決して新兵衛の側を離れることはないから、采女の気持ちは受け入れられないという意味であることに気づいたことを伝えるのである。「篠」の心は、あの頃すでに新兵衛に寄り添っていたのであり、「篠」は新兵衛を死なせたくないばかりに、采女のことを話して彼が郷里で生きるように願ったのだと告げるのである。

 ここで初めて「面影」と題する章で「篠」の真実の思いが述べられていく。
 「篠」は、「暮らしが貧しくても新兵衛とともに過ごしていく日々の清々しさは何物にも代え難いと思っていた。それだけに新兵衛がこのまま朽ちるのではないかと案じられた」(299ページ)。新兵衛の友の榊原采女は順調に出世しつつあると伝え聞く。新兵衛をこのまま朽ちさせてはならないと思う。

確かに、若い頃は采女に対してほのかな想いを抱いたこともあった。だが、采女との縁談が持ち上がり、それが破談になり、すぐに新兵衛との縁組が決められ、「篠」は戸惑った。新兵衛は、朴訥で愚直であったが、それだけに細やかな心使いをする優しさがあり、新兵衛との縁組の話が持ち上がった時に、新兵衛が坂下家を訪ね、「決して無理に話を進められませんように」と「篠」の父親に申し入れたことがあった。その時、「篠」の父親が「娘がお気に召さないのだろうか」と尋ね、漢詩の素養があまりない新兵衛は大声で『詩経』の一節を吟じたのである。それは「篠」を「君子の好逑(こうきゅう)・・よい連れ合い」と歌ったものだった。そして、「篠」は新兵衛の人柄に惚れきっている自分に気がついたのである。彼女は、新兵衛に影のように添って生きる決心をし、新兵衛が国を追われた時も、彼についていったのである。彼女は、生活が苦しくても新兵衛と心がふれあって過ごしていけるだけで満ち足りていたのである。

 だが、自分の寿命が尽きることが迫った時、新兵衛は無欲な上に自分とともに生きることを心の支えにしているように見受けられ、自分が死んだら、生きる張りを失って死を選ぶかもしれないと恐れ、新兵衛を死なせたくないと願った。新兵衛に生きて欲しい、生きて、生きて、生き抜いて欲しい。ただそれだけのために「願い事」を語ったのである。

 采女は「新兵衛、散る椿はな、残る椿があると思えばこそ、見事に散っていけるのだ。篠殿が、お主に椿の花を見て欲しいと願ったのは、花の傍らで再び会えると信じたゆえだろう」と新兵衛に語る(307ページ)。新兵衛と采女は「篠」の真実の想いに深く心を至らせるのである。

 そうしているところに、篠原三右衛門の遺族に討手が差し向けられるという知らせが藤吾のところに「蜻蛉組」の小頭から伝えられ、藤吾は「美鈴」を助けるために篠原家に向かったという知らせを藤吾の母の美里が伝えに来る。

 知らせを受けたとき、藤吾は、「父上亡き後、わたしはひたすら出世を望んで参りました。何としても家禄をもとに戻し、重職の座に連なるほど立身するのが、父上の無念を晴らすことになる、と思ってきたのです。されど・・・今は違います。あの瓜生新兵衛殿のような、馬鹿げた生き方は決してするまい、と胸に誓っていました。しかし、このように美鈴殿に危難が迫っていると聞くと、じっとしていることはできません。・・・石田ご家老の討手を妨げれば、わが家は取りつぶされ、藩にもいられなくなりましょう。癪にさわりますが、新兵衛殿と同じ道を歩むことになるのです。・・・しかし、それでもわたしは、たいせつなひとを守り通したいのです。母上、申し訳ございません」(308309ページ)と語って、太刀を取って行ったという。

 新兵衛は藤吾の後を追い、采女は石田玄蕃の要請に応じて登城する。篠原家に藤吾が駆けつけたとき、討手が迫り、藤吾は「美鈴」をかばって奮闘するが脚を斬られてしまう。藩の剣術指南役まで討手に加わっていた。水路造りを進めていた庄屋を殺した上役もいた。藤吾は、逃げろという「美鈴」に、「わたしは、あなたをお守りすると心に誓ったのです。自分の心を裏切るわけには参りません」と言い、懸命に奮闘する。だが、討手に斬られようとする。そのとき、新兵衛がつむじ風のように飛び込んで討手を退ける。新兵衛は藤吾に「藤吾、大丈夫か。よう、がんばった。どうやら武士らしゅうなったではないか」と声をかける。すると藤吾は「わたしは、別に武士らしくなりたいと思ってはおりません。まして瓜生殿のようになるのだけは、ご免こうむりたい」と答える。
 「そうか、だが、お主のやっておることは、わしがしたことと同じようなものだ」
 「それゆえ、一生の不覚だと思っております」
 破顔して新兵衛は言った。
 「しかし、わしにお主のような息子がいたなら誇りに思うぞ」(319320ページ)

 ここにあるのは、お互いを認め合った信頼である。そういう姿をこういうふうに描き出すことができるところに作者の力がある。

 他方、榊原家に残り、采女の母親の人として悲しい姿に触れながら、ふと庭の椿に目をやった里美は、そこに「篠」が立っている幻を見たような気になり、新兵衛と「篠」のことを思い出す。新兵衛は、非番の日になると釣りに行っては、釣果があると坂下家を訪ねてきた。朴訥な新兵衛は気づかなかったが、「篠」は新兵衛が訪ねる頃を見計らって庭に出ていた。新兵衛は時候の挨拶をするだけだが、「篠」は嬉しそうに微笑んで新兵衛を見つめていた。そして、今もなお、「篠」は椿の傍らで新兵衛が来るのを待っているのだと思った。「たとえ、この世を去ろうとも、人の想いはこれほど深く生き続けるものなのか」(326ページ)と、里美は思う。

 登城した榊原采女に、行部家成の孫が世子の政家の養子となり、毒を盛られた政家の後を継ぐことが告げられ、衆目の前で石田玄蕃に詫びを入れることが命じられる。采女は、かつて新兵衛が不正に立ち向かった時に自分も立つべきだったと語る。それができなかったばかりに、いたずらに藩に混乱を招いたことを詫びると語る。玄蕃は采女に命乞いをするように迫る。

 だが、その時、榊原采女は脇差を抜いて石田玄蕃に斬りつける。そして、それは藩主の意にかなった上意であると明言する。なぜなら、藩主以外の者が「蜻蛉組」の解散を命じた場合、それは「蜻蛉組」に対して命じた者を討てという上意が藩主から下ったことを意味するからである。だが、采女も取り囲まれた藩士たちから一斉に斬られ、その場でこと切れてしまうのである。「蜻蛉組」のこうした仕掛けは、どんでん返しとしてうならせるものがある。

 そこに、毒を盛られたが回復し始めた世子の政家が登場するが、采女の死には間に合わなかったものの、石田玄蕃を討ったことが上意であることを明言する。采女はわざと石田玄蕃に止めを刺さなかったので、石田玄蕃は一命を取り留めるが、御役御免の処置がくだされる。藩主の親家は石田玄蕃に「蜻蛉組」の解散を命じさせ、それによって上意討ちを仕向けたのである。そのことを知る者は「蜻蛉組」の小頭以上の者であり、唯一石田玄蕃を討つことができた采女がその役を負ったのである。

 だが、すべてを画策した行部家成は健在だった。この禍根を断たない限り、再び藩内に争いが起こる。榊原采女の死も無駄になる。坂下藤吾は「蜻蛉組」によって行部家成に断固たる処置を取るよう進言し、その役を瓜生新兵衛が負うのである。瓜生新兵衛は、坂下源之進、篠原三右衛門、榊原采女といった非業の死を遂げなければならなかった友のために立ち上がり、行部家成に、二度とこのようなことはしないと誓わせるのである。

 やがて、政家が回復し、藩主の家督を継ぎ、篠原家は嫡男が家督を継いで、坂下家は元の百八十石に戻され、藤吾は「美鈴」と夫婦になった。そして、藤吾と「美鈴」は榊原家の夫婦養子となり、榊原家四百五十石を継ぎ、坂下家はその子が受け継ぐことになるとの処置が下され、里美と新兵衛も榊原家に移り、元の椿の家に住むことになるのである。

 平穏な時が流れ、瓜生新兵衛にも剣術指南役が申し出され、里美と共に瓜生家を再興する機会が与えられ、里美もまた新兵衛をしたっていることを告げるが、新兵衛は里美が「篠」に似ており、自分もまた里見への想いを持つがゆえに、扇野藩を出ていくのである。

 「また椿の花を見たいという思いにはなられませぬか」
 里美が懸命に言うと、新兵衛は歩みを止め、
 「いずれ、そのような日が来るやもしれぬな」
 と背を向けたままつぶやいた。
 「この屋敷でその日が来るのをお待ちいたしております」
 新兵衛は何も答えず、裏木戸から出ていった。里美は後を追えず、袖で顔をおおって立ち尽くした。しばらく後、はっとした里美が裏木戸から出て新兵衛の姿を捜すが、どこにも人影は見当たらない。
 秋の日に照らされた、目に鮮やかな紅葉が、道に影を落とすばかりであった。(355ページ)

 で、本書は閉じられる。結末の余韻が強く残る閉じ方で、この本を閉じて、しばらく瞑目していた。小説が与えてくれる感動が、この静かな結末にある。

 葉室麟は、朴訥で不器用であるが真っ直ぐに生きようとする人間を描き続けている。わたしはその姿勢に喝采したい。魂に生きる人間の姿がここにある。読んでよかった。つくづくそう思う。