2013年7月10日水曜日

百田尚樹『永遠の0』(4)

今日も異常なくらい暑い。脳細胞が半分ほど機能を停止して、何かしなければならないことがあったなあ、と思うが、何をしなければならないか失念した。まあ、これくらいで丁度いいのかもしれない。自分で自分の時計を急がせることはないのだから。

さて、百田尚樹『永遠の0』(2006年 太田出版 2009年 講談社文庫)について何回かに分けて記しているが、いよいよ物語のクライマックスに入ることになる。

 大石賢一郎は鹿屋で宮部久蔵と再会した二日後に出撃が決まり、彼は、母宛ての遺書を書き、基地の外を散策してみた。その時、「目に入るすべてのものがいとおしかった」(文庫版 538ページ)と言う。

 「何もかもが美しいと思った。道ばたの草さえも限りなく美しいと思った。しゃがんで見ると、雑草が小さな白い花を咲かせているのが見えた。小指の先よりも小さな花だった。美しい、と心から思った」(538ページ)

 特攻という逃れ難い非業の死を前にして、生きとし生けるものと世界を慈しく思う。そういう心情を丁寧に描くことで、命の営みの尊さが綴られていくのである。そして、出撃する同じ特攻隊員の中に宮部久蔵の姿を見るのである。

 その時、出撃を控えた宮部久蔵が大石健一郎に搭乗する飛行機を取り替えてくれと申し出る。大石賢一郎は、優れた技術を持つ者がより性能のいい零戦五二型に乗るべきだと言って一旦は断るが、宮部久蔵の申し出を受けることになってしまい、彼らは交換した飛行機で出撃した。その時、大石賢一郎は、自分は何としても宮部久蔵を守ろうと決意する。

 そして、「お母さん、ごめんなさい」と大石賢一郎は最後に母を想う。「私の一生は幸せでした。お母さんの愛情を一杯に受けて育ちました。もう一度生まれることがあるなら、またお母さんの子供に生まれてきたいです。出来るなら、今度は女の子として、一生、お母さんと暮らしたいです」(541ページ)と思う。もちろん、これは通俗的なセリフかもしれない。しかし、その通俗に、わたしは感動する。

 大石賢一郎は、いよいよ自分の死期を覚悟する。だが、出撃して一時間も経たないうちに、彼の飛行機の機体の調子がおかしくなり、彼はやむを得ずに喜界島に不時着を敢行する。「大石少尉、絶対にあきらめるな。なんとしても生き残れ!」そいう宮部久蔵の声を聞いたように思ったと、彼は語る。

 大石賢一郎は無事に不時着した。そして、その時、操縦席に残されていた一枚の紙があるのに気がつく。その紙には、「もし生き残ることができたら、私の家族を助けて欲しい」という宮部久蔵の言葉が記されていたのである。宮部久蔵は、自分が乗る予定の零戦五二型のエンジンが不調であることを搭乗前に気がついていた。そして、飛行機を換えることで大石賢一郎を生き残らせ、自らは死を選んだのである。

 それから戦後。大石賢一郎は宮部久蔵が残した言葉を守るためにその家族を探し始める。宮部久蔵の家族を探すのに4年の歳月がかかった。宮部久蔵の妻から遺族年金の申請が出されたからである。宮部久蔵の家族は大阪に住んでいた。

 大石賢一郎は大阪まで訪ねていく。宮部久蔵の妻子は、スラムと呼んでも言いような貧しい町のバラックの小屋に住んでいた。「私がこうして生きていられるのは、宮部さんのお陰です」と大石賢一郎は宮部未亡人に言う。「宮部さんは、私だけでなく、多くの人を助けられました」と語る。「宮部の死は無駄ではなかったのですね」と言う夫人に対して、大石賢一郎は涙をぽろぽろこぼしながら、「許してください。私が代わりに死ねばよかったのです」と言う。夫人は、「あの戦争でなくなった人たちはみんな、私たちのために死んだのでしょう」と語る。そして、「でも、あの人は私に嘘をつきました」、「必ず帰ってくると約束したのに」と言って大粒の涙をこぼす(文庫版 551552ページ)。

 それから大石賢一郎は宮部久蔵の妻子のための援助を惜しみなく始めていく。宮部久蔵の妻の名は「松乃」と言い、その子は「清子」と言った。その「清子」が佐伯健太郎と慶子の母なのである。大石賢一郎は夜行で大阪まで行き、「松乃」と「清子」に会い、そして夜行で東京に帰るということを数ヶ月ごとに続けた。

 そうしているうちに、二人は次第に想い合うようになっていく。大石賢一郎は予備士官だったとき、自らの飛行機を敵機と宮部機の間に割り込ませて、宮部久蔵を助けたことがあった。その時、宮部久蔵は彼の外套を大石賢一郎に譲った。そして、すべてを彼に託して飛び立っていった。宮部久蔵が大石賢一郎に渡した外套は「松乃」が作ったもので、大石賢一郎がそれを着て最初に訪ねてくれたとき、「松乃」は宮部久蔵が帰ってきたのだと思ったと語る。「松乃」は、宮部久蔵が「たとえ死んでも、それでも、ぼくは戻ってくる。生まれ変わってでも、必ず君の元に戻ってくる」と語っていたと告げ、こうして二人は結婚した。

 結婚の時、「松乃」は、幼い子供を抱えて身寄りのない女が生きていくのは大変で、だまされて、あるやくざの組長の囲い者になったことがあったと告白した。だが、そのやくざの組長は、何者かに襲われて殺され、その時に殺した相手が「松乃」に財布を投げて、「生きろ」と言ったという。その男は、かつて宮部久蔵をライバル視して、完膚無きまでに負け、それによって宮部久蔵に不思議な魅力を感じていた景浦介山に違いなかった。彼もまた、戦後、宮部久蔵の家族を探して、そのために命をかけたのであった。

 大石賢一郎と「松乃」は心底お互いがお互いを思いやる愛情豊かな夫婦となり、「松乃」は死のまぎわに大石賢一郎に「ありがとう」といって命の火を消した。

 こうして、祖父であった宮部久蔵の真実の姿を探す旅を佐伯健太郎と慶子は終えた。そして、その時、二人は、人生の中で何を大事にしなければならないかに気づいていく。健太郎は、もう一度司法試験を目指して進んでいくし、慶子は、自分にプロポーズして、「特攻はテロだ」と言い放った高山ではなく、自分のことを真実に愛してくれ、自分もまた心から愛することができる藤木と結婚することを決意していくのである。「大好きな人と結婚しないと、おじいちゃんに怒られちゃうわ」と言う(文庫版 569ページ)。

 周囲の状況がどうであれ、自分が真実に求めるもの、自分が本当に望むこと、そのことに宮部久蔵は誠実に生き、そして死んだのである。本書は、そういう一人の特攻隊員の姿を描き出し、それによって、現代に生きる人間に、「それでいいのか」と問いかけるのである。特攻で死んだ宮部久蔵は26歳であり、その足跡を尋ねた孫の佐伯健太郎も同じ26歳である。

 本書のプロローグとエピローグに、特攻を受けた米軍の艦船に乗っていた米兵の思いが記してある。それは、見事な飛行技術で特攻してきた宮部久蔵の姿を捉えたもので、エピローグでは特攻を受けた艦船の船長さえもが、その飛行技術と精神に深い敬意を払わざるを得なかったことが記されている。

 文庫版で575ページもある長編だが、心が震えるような素晴らしい作品だった。ふと、子どもの頃に読んだちばてつやの漫画『紫電改のタカ』という作品を思い出したりもした。その主人公の滝城太郎も、日本海軍最後の名機と言われる「紫電改」を駆使する航空兵で、撃墜王となるが、戦争の終結を思いながらも自ら特攻隊員となるのである。どちらも愛と悲しみを抱いて生きる人間の姿が描かれている。

 わたしは、戦記物は読まない。だが、この作品は、太平洋戦争について記してあるとは言え、決して戦記物ではなく、心ある人間の物語なのである。

2013年7月8日月曜日

百田尚樹『永遠の0』(3)

 驚く程暑くなった。何をするにしても汗が滴り落ちる。今日は夕方から小石川に出かける用事があったのだが、乗っていた電車が途中で止まってしまい、不通となったために、諦めて、各方面に電話で事情を話して帰宅してきた。それにしても、異常なくらい暑い。

 そういうわけで少し時間も出来たので、百田尚樹『永遠の0』(2006年 太田出版 2009年 講談社文庫)の続きとなるが、戦後は一部上場企業の社長を勤めていた武田武則は、ゆっくりと宮部久蔵のことを語り始める。彼らは特攻要員になって初めて零戦に乗ることを許されたが、その訓練は、ただ急降下することだけだったと言う。それは爆弾を抱いて敵艦に突っ込む死ぬためだけの訓練だった。

 その中で、宮部久蔵は、「上手くなった者から順に行かされます。それなら、ずっと下手なままがいい」と語り、「皆さんは日本に必要な人たちです。この戦争が終われば、必ず必要になる人たちです」と武田貴則に語る(文庫版 439ページ)。そして、戦争は近いうちに終わる、と明言する。「零戦は開戦当初は無敵の戦闘機でした。・・(しかし)零戦は長く戦いすぎました。零戦の悲劇は、後を託せる後続機が育ったなかったことです。零戦は、今や――老兵です」と言う。そういう話をする宮部久蔵こそ日本に必要な人だと武田貴則は思う。「あの人こそ死んではならない人」だと思うのである。

 その訓練中にひとりの特攻要員が急降下に失敗して死ぬということが起こる。その時、兵学校出身の中尉が「死んだ予備士官は精神が足りなかった。そんなことで戦場で戦えるか」と罵倒し、「たかだか訓練で命を落とすような奴は軍人の風上にもおけない。貴重な飛行機をつぶすとは何事か」と怒鳴り声を上げた。だが、その時、宮部久蔵は、その怒鳴りつける上官に向かって「亡くなった伊藤少尉は立派な男でした。軍人の風上にもおけない男ではありません」ときっぱりと発言したのである。中尉は「特務士官の分際で、生意気だぞ」と言って、宮部久蔵を殴りつけた。だが、特攻要員の予備士官たちは、宮部久蔵が亡くなった伊藤の名誉を守ってくれたことに深く感謝した。武田貴則は「自分が特攻に行くことでこの人を守れるならそれでもいい」とさえ思ったと語るのである(443ページ)。

 同じように、そんな宮部久蔵のために命をかけて守った訓令兵がいた、と武田貴則は語る。それは、訓練中に敵機に襲来され、訓練機を見守るようにして飛んでいた宮部久蔵の機体に機銃を発射した時だった。その時に、ひとりの予備学生が先に気づいて、敵機と宮部機の間に飛び込んで、自らの機体に敵の機銃掃射を受けたのである。宮部久蔵はすぐに気がついて抜群の飛行技術で敵機を一掃していったが、飛び込んだ予備学生は貴縦断をまともに受けて、かろうじて命をとりとめていた状態だった。

 そして、担架で運ばれていく予備学生の側で、宮部久蔵が「どうしてあんな無茶をしたのですか」と問うと、その学生は「宮部教官は日本に必要な人です。死んではいけない人です」と語ったというのである(文庫版 446ページ)。

 それから間もなくして、宮部久蔵は何人かの予備士官とともに九州の基地に移動した。この時、九州にいった予備士官は全員が特攻で亡くなった。

 武田貴則の妻は、戦後に貴則と結婚し、昼間は快活に過ごす貴則が夜中に何度もうなされ、それが十年以上も続いたと語る。

 宮部久蔵の真実の姿を調べていた孫の佐伯健太郎と慶子は、次に、元海軍上等飛行兵曹で、戦後はやくざとして裏社会で生きてきた景浦介山という男と会う。彼は、「奴があの戦争を生き延びたいと思っていたのは知っていた。だが、その望みを自ら断ち切ったのだ」と言う。

 景浦介山は貿易商の妾の子として生まれた庶子で、中学の時に母が亡くなって、父親に引き取られたが、その父親からも愛情も姓も与えられす、厄介者として育てられ、米国との開戦後に多量に募集された予科練に行き、歴戦を積み、そこで飛行技術を磨いてきた叩き上げの熟練飛行兵だった。彼は自分の先祖が長岡藩の武士であったこともあり、宮本武蔵のように一人の戦闘機乗りとして戦って、誰にも負けないくらいの飛行技術を身につけていたと言う。彼の生き様はまさに壮烈だった。

 そうして彼は、宮部久蔵と出会い、生きるか死ぬかの戦いの中で家族のことを考える宮部久蔵が許せなかったと言う。しかも、その宮部久蔵が、抜群の腕を持つ戦闘機乗りであることがなお我慢できなかったのだと言うのである。

 彼は、宮部久蔵と飛行技術を競いたいと熱望する。空戦の腕だけが彼の誇りだった。だが、彼が仕掛けた空戦で、彼は宮部久蔵に完膚無きまでに負けてしまう。そして、卑怯にも彼の後ろから彼の機体めがけて機銃を発射してしまう。だが、宮部久蔵はその後ろから発射された機銃弾を見事に避けた。彼は自分の卑怯さに自分で愕然としてサムライらしく自爆しようとした。だが、その時、「無駄死にするな」と宮部久蔵は言ったのである。景浦介山は宮部久蔵のことを、「まさに阿修羅のような戦闘機乗りだった」と語る(文庫版 479ページ)。その時から、彼は、自分は無駄死にをしないし、宮部よ、死ぬなと願うようになる。「お前が死ぬ時は、俺がこの目で見届けてやる」(文庫版 491ページ)と思うのである。

 やがて、日本海軍は特攻作戦を実行していった。景浦介山は多くの特攻に行かされる予備士官たちを見てきたと言う。彼らは、操縦は下手だったが、皆堂々と死んでいった。「愛する者のために死ぬという気持ちが、普通の男をあそこまで強くする」と語る。彼の任務は特攻機に襲いかかる敵機を撃ち落として特攻機を守ることだった。

 やがて、昭和20年の春以降、日本の主要都市はB29の絨毯爆撃で焼け野原となり、5月にはドイツが降伏し、8月に広島と長崎に新型爆弾が落とされた。その威力は凄まじものだったが、終戦の少し前、景浦介山は鹿児島の特攻基地であった鹿屋へ向かい、そこで宮部久蔵と再開した。

 しかし、その時の宮部久蔵の姿はすっかり変わっていた。頬はこけ、無精髭が生えて、目だけが異様に光る人間になっていた。そしてすぐに宮部久蔵は特攻にでた。景浦介山は、どんなことがあっても宮部の機を守り抜くと護衛として飛び立ったが、機体の不調で宮部機を見送るしかなかったという。そして、数日後に戦争が終わった、と語るのである。

 佐伯健太郎と慶子は、祖父である宮部久蔵の最後を知る元通信員だった大西保彦に会うために特攻基地であった鹿屋に向かう。大西は戦後に結婚して鹿児島で旅館を継ぎ、今は隠居している。彼は鹿屋から出撃した特攻隊員の名簿を作成していた。今から突入することを意味する「ツー」と長く押されたモールス信号の音だけを残して、特攻隊員は死んでいった。その音が今も耳にこびりついていると言う。彼は、宮部久蔵が決して威張り散らすこともなく上下の別なく誰とでも丁寧に接する人だったと語る。そして、その宮部久蔵が特攻爆弾である「桜花」の護衛につかされたときは、やりきれない姿をしていたと語りだすのである。その時の「桜花」には、彼の教え子もいたのである。「俺の命は彼らの犠牲の上にある」(文庫版522ページ)と宮部久蔵はつぶやいたと言う。そして、彼自身が特攻で飛び立ったのである。

 その時、奇妙なことが起こったと大西は続ける。一緒に特攻で飛び立つ一人の予備士官に「飛行機を換えてくれ」と頼んだのである。宮部の飛行機は零戦五二型だったが、その予備士官の飛行機は戦闘能力の落ちる旧式の零戦二一型だった。彼はその零戦二一型に乗りたいと言いだしたのである。そして、出撃した。だが、途中でエンジン不調で不時着した飛行機が一機だけあった。それが、宮部が乗るはずだった零戦五二型だったのである。その不時着した飛行機に乗っていたのは、なんと、戦後、健太郎と慶子の祖父として彼らを育んでくれた大石賢一郎だったのである。

 このどんでん返しのような結末。それは胸が震えるような衝撃を与えてくれる。健太郎と慶子は、最後に養祖父の大石賢一郎の話を聞くことになるのである。

 大石賢一郎が宮部久蔵と最初に会ったのは、筑波の航空隊で、彼が学徒出陣の予備士官として特攻訓練を受けた時だった。「宮部さんは惻隠の場を持った男だった」と彼は語る(文庫版 533ページ)。だから、皆、この教官のためなら死んでもいいとさえ思っていたと言う。そして、訓練中に敵機が襲ってきて、自分は思わず敵機と宮部機の間に入って機銃掃射を受けたと語る。大石賢一郎は機銃弾を受けたが一命を取り留めて海軍病院に入院した。その時に、宮部久蔵が一度だけ見舞いに来て、自分の外套をくれたと言う。

 特攻で死ぬ時ほど、真剣に家族や国のこと、自分が亡き後の愛する者の行くへを考えたことはなかったと言う。自分たちは熱狂的に死を受け入れたのでもなければ、喜んで特攻攻撃に赴いたのではない、と語る。彼には婚約者がいたが、東京空襲で亡くなっていた。やがて終戦の数日前に、彼に特攻命令が下り、鹿屋で宮部久蔵と再開したのである。

 何回かに分けて記すことになってしまったが、それだけのものがこの作品にはあると思う。だから、本書の結末については、次回に記すことにする。

2013年7月5日金曜日

百田尚樹『永遠の0』(2)

 明日あたりから猛暑日になるとの予報も出ていたが、今はどんよりとした重い雲が広がっている。夜半から朝にかけて雨もかなり激しく落ちていた。

 さて、百田尚樹『永遠の0』(2006年 太田出版 2009年 講談社文庫)の続きであるが、日本海軍は、戦闘機だけでなく、ただ自爆するためだけの「桜花」と呼ばれるいわば特攻専用爆弾を作製した。

 わたしは、この「桜花」を見たことがある。それはまさに狭くて小さな操縦スペースがついた薄い鉄板の爆弾で、一発の機銃掃射で吹き飛んでしまうような頼りないものだった。人がそれに乗って体当たりしていくのだが、棺桶と呼んでもいいようなものだった。もちろん、着陸用の車輪などない。

 日本海軍はこの「桜花」を中心にした神雷部隊というのを作った。そこでの「桜花」の戦死者は150人以上、重い「桜花」を積んで運ぶ一式陸攻の搭乗員を合わせて800名以上が戦死している。「桜花」は、それだけの戦死者を出しながらも、すべて途中で撃墜されて成功しなかった。それでも日本海軍はこれを強行し続けたし、潜水艦用の「回天」という人間魚雷も作製した。

 この「桜花」の特攻要員となり、練習航空隊の教官として配属されていた宮部久蔵に飛行技術を教えられたひとりの人物に健太郎と慶子は会うことができ、祖父の宮部久蔵について話を聞くことができた。彼は、学徒出陣の飛行予備学生だったが、特攻要員となり、実際に特攻に出る前に終戦を迎え、生き延びて、戦後は千葉県の県会議員を務めていた人であった。

 彼は言う。「宮部さんは素晴らしい教官でした」(文庫版 382ページ)と。そして、当時の様子を語り始めるのである。

 彼は、最初の特攻隊はレイテにおける関大尉と流布されているが、実はその4日前に同じレイテの大和隊にいた久納好孚(くのう こうふ)中尉だったと語りだす。久納中尉は予備学生出身の仕官だったために、海軍としては「特攻第一号の栄誉」を海軍兵学校出身の関大尉にして発表したのだと言う。海軍内にはびこっていた学閥や軍閥、そして官僚主義がここでも顔を出した。学徒出陣の飛行予備学生は、ほとんどが特攻要員として訓練を受け、飛び立って行った。高い飛行技術を持ったベテランとして、宮部久蔵は、その特攻訓練の教官として配属されていたのである。

 宮部久蔵は、そこで多くの学生に「不可」をつけてなかなか合格させない教官だった。そのため予備学生たちには不評で、専任教官に不平を言う者もいたが、宮部久蔵は徹底的に不可をつけ続けた。なぜなら、彼らが戦場に出れば、確実に撃墜されることがわかっていたからである。宮部久蔵は言う。「皆さんのような優れた人たちを教えていて、わたくしの正直な気持ちは、皆さんは搭乗員などになるような人たちではない、ということです。もっと優れた立派な仕事をするべき人たちだと思います。わたしは出来ることなら、皆さんには死んで欲しくありません」(文庫版 393ページ)と。

 特攻に志願せざるを得ないような状況が作られ、すべての飛行予備学生は特攻に志願した。それは志願という形での強要であった。特攻要員の教官として、それが辛くて辛くてたまらない顔で教えた。心ある予備学生たちは、そういう宮部久蔵のことがよくわかっていくのである。その話をした彼の心優しい友人も「行ってくるよ」と言って、沖縄戦の特攻として死んでいった。全機特攻を提唱したのは五航艦の司令長官であった宇垣纏である。彼は、一度飛び立った者が帰ってくることを決して許さなかった。特攻は勝つための作戦ではなく、搭乗員の体当たりだったのである。沖縄戦の後半になると、特攻は、それがまるで当たり前のように通常の命令として下されたのである。

 宮部久蔵の孫の佐伯健太郎と慶子は、東大在学中に同じように飛行予備学生となり、生き延びて、戦後は日本経済復興の第一線で働いて一部上場企業の社長まで勤め上げた武田貴則という人と会う。

 その時、健太郎の姉の慶子に結婚を申し込んでいたジャーナリストの高山隆司も一緒だった。高山は、彼の新聞社での企画話を持ち込んだ人物であると同時に、慶子に結婚を申し込んでいた。慶子は、昔、祖父として自分たちを育ててくれた大石賢一郎の弁護士事務所で働きながら司法試験の勉強をしていた藤木という誠実な男性に心を惹かれていたことがあった。だが、藤木は司法試験に合格せずに、途中で郷里の父親のあとを継ぐために郷里に帰ってしまった。慶子は、藤木への想いを残しながら高山の結婚申し込みに心が揺れていたのである。

 その高山が、武田貴則に会って、「特攻はテロである。特攻隊員はテロリストである」という持論を展開し始めるのである。高山は、武田貴則に「特攻は志願であり、間違った愛国心に鼓舞されてテロ行為を行ったに過ぎない」と言う。自分たちは、戦前の誤りを検証して、戦争と軍隊を否定し、人々の誤った愛国心を正した、と言うのである。

 武田貴則は、特攻隊員が残した遺書の本当の心を読み取って欲しいと言う。「新聞記者だと――。あんたは死に行く者が、乱れる心を押さえに押さえ、残されたわずかな時間に、家族に向けて書いた文章の本当の心の内を読み取れないのか」という。だが、高山は「私は書かれた文章をそのまま読み取ります。・・・彼らは殉教的自爆のテロリストと同じです」と言い張るのである(文庫版 422ページ)。

 武田貴則はジャーナリストたちが戦争を起こしたと指摘する。「正義」という名を借りて、一方を鼓舞し、他方を蔑むことによって人々を扇動し、政治はその世論に引きづられるようにして動き、気づいた時には抜き差しならぬ状態になっていた。それは、戦後も、そして今も変わらない。ジャーナリズムが、いつの間にか裁きの構造をもって、それあたかも「正しいこと」のように振舞う。「正しいこと」が、実は大きな問題であることをジャーナリストは自戒すべきなのに。

 佐伯慶子は、始めは高山の言うことが正しいことだと思っていたし、その結婚の申し出も受ける方向で考えているようだったが、祖父であった宮部久蔵の姿を調べ、その当時に実際に戦場にいた人々と会い、その話を聞くうちに、次第に変わっていく。それは弟の健太郎も同じだった。高山は「特攻隊員はテロリストだ」と言い放つが、彼らの祖父の宮部久蔵はその特攻隊としてなくなっていたのである。高山には、そうした「おもいやり」がない。彼は彼が「正しい」と思っている正義の仮面を振り回すだけである。人間に対する深い愛情なしに何事も語れないことが、「正しいこと」を語りたがる人間にはわからない。

 武田貴則は宮部久蔵の話をする前に、「戦後、特攻隊員は様々な毀誉褒貶(きよほうへん)にあった。国のために命を投げうった真の英雄と称えられた時もあったし、歪んだ狂信的な愛国者とののしられた時もあった。しかしどちらも真実をついていない。彼らは英雄でもなければ狂人でもない。逃れることの出来ない死をいかに受け入れ、その短い生を意味深いものにしようと悩み苦しんだ人間だ」(文庫版 427428ページ)と語り、「しかし彼らは従容としてそれを受け入れた。私の前で笑って飛び立っていった友人を何人も見た。彼らがそこに至るまでにどれほどの葛藤があったのか、それさえ想像出来ない人間が、彼らのことを語る資格はない」(429ページ)と語る。

 これは、真実そうだと、わたしも思う。わたしは十代の終わり頃、まだ右も左もわからない時に、特攻隊員たちや学徒出陣兵たちが残した遺書を集めた『きけ わだつみのこえ』を何度も何度も読み返したことがあった。同じ年代の青年たちが最後に残こしたもの、それを感じたいと思った。だから、ここで作者が武田貴則という人物の言葉として語ることが痛いほどわかるような気がする。臆病者と罵られながらも、なお「生き残ろこと」を貫こうとした作中の宮部久蔵が、なぜ、最後はその特攻で命を散らせたのか。その心情がそこにはある。

 物語は、その宮部久蔵の姿をはっきりと浮かび上がらせていく。武田貴則も「あの人は素晴らしい教官だった」(文庫版 436ページ)と語りだす。その後の展開を書き出すと、また長くなってしまうので、続きはまた次回に記すことにする。

2013年7月3日水曜日

百田尚樹『永遠の0』(1)

 梅雨の変わりやすい天気が続いて、昨日は汗ばむほど晴れたりしたが、今日は朝から曇天が広がっている。

 市が尾のNさんが、百田尚樹『海賊と呼ばれた男』(2012年 講談社)に続いて、彼のデビュー作と言われている『永遠の0』(2006年 太田出版 2009年 講談社文庫)を貸してくださったので、没入して読んでいた。それだけ力のある作品だったのである。

 これは、太平洋戦争中の海軍零式戦闘機の飛行兵の姿を描いたもので、表題の「0」とは「ゼロ戦」のことである。しかし、これは決して戦記物ではなく、ひとりの懸命に生き抜こうとした人間の物語である。

 作者は、奥付によれば、同志社を中退して、放送作家として主に関西方面で人気のあった『探偵!ナイトスクープ』というテレビ番組などを構成されていたらしく、本書の構成としても、現代の青年が特攻で死んだ祖父の真実の姿を求めて、戦争中に祖父と交わりのあった人々を訪ね、インタビューをするという構成が取られており、21世紀の現代と戦争中の出来事が交差していく形で進められて、そこに深い意味を持たせるという味のある構成が取られている。

 そうして、祖父の姿が徐々に浮かび上がってくるのだが、その姿が心を打ち震わせるような姿なのである。

 物語の進め役となる青年は、4年連続で司法試験に落ち、挫折を繰り返す中で自分の人生の目標を失っている二十六歳になる佐伯健太郎で、フリーライターとして活躍を始めようとしている姉の慶子から、新聞社の企画物の関連で、太平洋戦争で戦死した祖父の宮部久蔵のことを調べ始めるところから物語が始まる。

 宮部久蔵という人物が自分たちの実の祖父であることを知ったのは、6年前に祖母が亡くなった時、それまで実の祖父と思っていた大石賢一郎から打ち明けられ、その宮部久蔵が日本の終戦の数日前に神風特攻隊の一員として出撃して帰らぬ人となったことを聞かされたのである。祖父と思っていた大石賢一郎と祖母は実に仲がよく、その間に生まれたこどもたちと佐伯健太郎の母との間に違和感もなかったので、実の祖父がいたことに驚いたものの、佐伯健太郎は気にも止めることはなかった。

 だが、姉の慶子から新聞社の太平洋戦争に関連する企画でその祖父の宮部久蔵について調べることをアルバイトとして引き受けた佐伯健太郎は、残り少なくなった当時の生き残りの人々に会いに出かけていく。戦後60年以上が経ち、当時戦争に駆り出されて人たちは高齢となり、これが最期のチャンスかもしれないと思われた。戦争中のことは、昭和史の暗部として表面だけがなぞられるか、真実が隠されて闇に葬られていくかで、実際に戦場で戦わなければならなかった人たちの苦しみや悲しみの肉声を聞く最期の年代になってきているのである。このことは、本書の初めの方と終わりの方で何度か記され、それもまた作者が本書を世に出した意味づけとなっている。

 佐伯健太郎と慶子が最初に会った人物は、戦争で片腕を失い、戦後のひどい境遇の中で生きなければならなった飛行兵で、彼は宮部久蔵が海軍航空隊の中で一番の臆病者で、死ぬことを恐れていた人間で、「生きて帰りたい」という言葉を臆面もなく言い、死を覚悟してきていた海軍航空隊の笑い者だったと語る。その人物は、敵の戦闘機を死に物狂いで撃ち落としてきたのに、戦後、それが報われずに、いじけてひねた心で、宮部久蔵が臆病者で、唾棄すべき人物だったと罵るのである。

 健太郎と慶子は、その話を聞いて愕然としたが、次に四国の松山で会った元戦友は「臆病者ですか―宮部がですか」と言って、確かに宮部久蔵は命を惜しむところがあったが、極めて優秀なパイロットだったと告げる。宮部久蔵は、激戦の中で、勇気と決断力、状況の判断力と優れた操縦技術をもった人物だったという。ただ彼は、残してきた妻と子のために自分は死ねないと心に決めていたものがあったというのである。

 物語は太平洋戦争の展開順に、真珠湾攻撃から日本の敗戦色が強くなっていくミッドウェイ海戦、ガダルカナル戦からサイパン戦、レイテ沖海戦、そしてやがて沖縄戦へと進んでいく。それぞれの戦いの中で宮部久蔵と出会った人々が登場してくるという形が取られ、当時の軍の司令部の姿と兵士たちの思いが綴られていく。戦略的に見ても、陸軍にしろ海軍にしろ、その組織形態や考え方に随分とひどいものがあり、傲慢な奢りが、戦線の拡大が破滅をもたらすという歴史の教訓を忘れさせていたし、兵士を人として扱うことを躊躇なく捨てさせてしまっていた。兵器戦とは言え、戦争はどこまでも人がするものであり、人を大切にせずに戦争に勝てるわけがない。

 宮部久蔵は、「家族」という人の根源ともなることのために、人間の尊厳をかけて軍隊の中で存在しようとする。それは、軍隊という組織の中では孤独な闘いとなる。妻と子のために絶対に生きて帰るのだと宣言し、それを実行する。彼はそれを超がつくくらいの一流の飛行技術の習得と屈することのない精神を持って貫いていこうとするのである。彼は「命」を大事にする。そしてそれは、自分の命だけでなく、仲間や後輩たち、死に赴かなければならない者たちの命も同様であった。彼は臆病者と嘲笑われても毅然と立ち続ける。

 だから、彼に命を助けられた者たちは、宮部久蔵を優れた尊敬に値する人間と見ていく。孫の佐伯健太郎と慶子は、次第にそういう人物たちと会うことができ、祖父の真実の姿を知っていくようになる。

 やがて、追い詰められ飛行機も船も物資も乏しくなった日本海軍は、飛行機に爆弾を抱かせて敵船に体当たり攻撃をするという「特攻」と呼ばれる戦術を取るようになっていく。兵士の命は消耗品に過ぎなかった。この体当たり作戦は、当時の第一航空艦隊司令長官であった大西瀧治郎が発案して、関行男大尉を隊長にして任命したと言われているが、もともと日本海軍には「海軍魂」としてその素養があり、「志願兵」という名目での強制的命令によって「特攻」を行うことが軍部で既に決められていたと思われる。

 最初に特攻を行ったと言われる関行男大尉については、岡山の老人ホームにいる元海軍中尉の谷川正夫という人物の口を通して、次のように語られている。

 「関大尉には新婚の奥さんがいた。彼女をおいて死ぬことはどれほどか辛かっただろう。彼は出撃前に親しい人に『自分は国のために死ぬのではない。愛する妻のために死ぬのだ』と語ったそうだが、その心境はわかる。関大尉以外の隊員たちもみんな死を前にして、自分なりの死の意味を考え、深い葛藤の末に心を静めて出撃したと思う」(文庫版 341ページ)

 「関大尉は軍神として日本中にその名を轟かせた。関大尉は母一人子一人の身の上で育った人だった。一人息子を失った母は軍神の母としてもてはやされたという。しかし戦後は一転して戦争犯罪人の母として、人々から村八分のような扱いを受け、行商で細々と暮らし、戦後は小学校の用務員に雇われて、昭和二十八年に用務員室で一人寂しくなくなったという」(文庫版344ページ)

 「特攻」は、出撃すれば必ず死ぬ。それは「必死」とか「捨て身」とか言うほど生易しいものではない。若い兵士たちに軍の司令部はそれを強要したのである。だが、その特攻が結構されたレイテ沖海戦で、米軍の輸送船団を撃滅することになっていた栗田建男が率いる艦隊は、「謎の反転」と言われる反転をして輸送船団を攻撃することなく、結局、関大尉らの特攻は戦略上の効果を上げることはなかったのである。

その特攻に志願せざるを得なかった谷川正夫は宮部久蔵とは日中戦争の頃からの戦友で、サイパンで再開し、「宮部の飛行技術は天才的で、彼は勇敢だったと語る。そして、特攻への志願が強制的に求められたとき、宮部久蔵はただひとり志願しなかった。「死ぬために戦ってきたのではない」と彼は谷川正夫に語ったと言うのである。

だが、その宮部久蔵が、なぜ終戦の数日前に特攻で死んだのか。それが明らかになっていくに従って、宮部久蔵という人間が、いかに真摯に、そして「命」を大切にしながら生きたのかが明らかになっていく。それについては、次回に記すことにする。

2013年6月26日水曜日

藤本ひとみ『幕末銃姫伝 京の風 会津の花』(2)

 昨日は雨の予報が出ていなかったので傘も持たずに吉祥寺まで出かけ、ちょうど大学についた頃に「ゲリラ豪雨」に出くわした。昔からこうした雨は「時雨」とか「通り雨」とか呼ばれてあったのだが、降る雨量が違っているので「ゲリラ豪雨」というなんとも味気ない名前がつけられたのかもしれない。「時雨」や「通り雨」が、はるかに情緒があるが、雨の降り方の呼び名一つにも、質ではなく量の世界に移行してしまった世相が反映されているのかもしれないと思ったりもする。

 今日は朝から雨模様である。今日の雨はしとしとと降っている。このところ疲れを覚え続けているので、雨を理由に何もするまいとは思うが、なかなかそうもいかない。生活をするだけでもなかなか大変なのだから。

 閑話休題。藤本ひとみ『幕末銃姫伝 京の風、会津の花』(2010年 中央公論新社 2012年 中公文庫)の続きであるが、薩摩や長州に比べてみても会津の軍政改革ははるかに遅れていた。新進の知識を持つ山本覚馬はそのことで悶々としていくが、ようやく、会津藩は砲銃の重要性を認識して改革の道を取ろうとする。覚馬を後押しするのは家老の梶原平馬らであったが、時すでに遅しで、将軍となった徳川慶喜の幕府再建策などで会津は翻弄されていき、ついに大政奉還を迎えてしまう。それから怒涛のように情勢は流れ、慶応3年、4月に長州の高杉晋作が病死し、10月に大政奉還が行われ、11月に坂本龍馬が暗殺され、12月に王政復古の大号令が出されてしまう。そして、翌、慶応4年1月に、ついに鳥羽伏見の戦いとなり、会津は賊軍となってしまう。

 徳川慶喜は京都から大阪城へ逃げ、さらに、鳥羽伏見の戦いで敗戦が濃厚となるや船で江戸へ逃げる。会津藩主松平容保もその慶喜と同行をさせられる。この時、八重の弟で、まだ若干の少年に過ぎなかった三郎は大阪城警護の時に負傷し、江戸に運ばれるが死去してしまうし、覚馬は鳥羽伏見の戦いで薩摩藩に捕らえられ、斬首された伝えられる。

 会津の山本家ではその知らせを受けて悲痛な思いに沈んでいくが、会津藩主松平容保は会津に帰ってきて、どこまでも徳川家に従順であることを決める。藩祖以来の伝統を守ろうとする。だが、その肝心の徳川将軍の慶喜は恭順の意を表し、江戸城を明け渡して、上野へ、そして水戸へと去っていく。

 京都守護職時代に展開されたことや倒幕の最大の障がいとみなされていた会津は、新政府に恭順の意を表すが、認められずに、ついに、新政府軍との間の戊辰戦争となり、会津は奥羽列藩同盟や奥羽越列藩同盟を形成して抵抗するが、新政府軍の軍事力の前で次々と破れ、ついに籠城戦を取らざるを得なくなる。覚馬が長崎で購入を手配した新式銃も新政府軍の手によって越後で押収されてしまい、武力の準備が整わないままで、新政府軍に取り囲まれていく。こうして、鶴ヶ城での悲惨な籠城戦が展開される。

 この時の会津藩士の姿は、戦術や戦略的には問題はあったが、個々の人々の姿は胸を打つものがある。八重の父の権八も徴用されていく。そして、女ばかりになった山本家も鶴ヶ城へと入り、籠城する。この時、八重は、藩内で銃や砲を最もよく扱えるのは自分であることを自覚して、縦横無尽の働きを展開する。彼女の銃の腕前は天下一品だった。そして、逃げたと思っていた夫の尚之助も城内にいて、八重は尚之助を見直したりしていく。

 だが、奮闘も虚しく、玉は尽き、物資はなくなり、鶴ヶ城は新政府軍の集中砲火を浴びていく。多くの死者が横たわる中、ついに、松平容保は降伏を決意し、白旗が掲げられていく。松平容保とその養子は他藩預かりで山川大蔵らがつきそうだけとなり、藩士も他藩預かり、城内の女子と子ともは解き放ちとなる。八重の夫の川崎尚之助は、元々が他藩の者であるから会津から去ることになり、八重は残された女ばかりの家族を守りながら、女中をしていた美代のところに身を寄せていく。この時、山本八重、23歳であった。

 そして、最後に、鳥羽伏見の戦いの時に薩摩藩に斬首されたと伝えられていた山本覚馬は、彼が文久三年に書いた『守四門両戸之策』を読んでいた薩摩藩士の助命嘆願があって助けられ、盲目ながらも、自分は教育によってこの国の人々のために働くと新しい決意をして京都で暮らしていることが明らかにされる。覚馬は会津にいた山本家の家族を京都に呼び寄せる。

 本書は、そこで終わり、維新後に山本八重が新島襄と再婚して同志社を設立していく姿を描いた続編も出されているが、文章も描写も、人物像も優れている。たとえば、裁縫もうまくなくて女らしいところが少しもなく、腕力だけが自慢という風変わりな自分に八重が絶望しかけていく時、「目眩がしそうなほど、孤独だった」(文庫 108ページ)と綴られている。この一言で、誰からも理解されずに、自分で自分が嫌になっていく八重の哀しみと心情が十分感じられる。「目眩がしそうなほどの孤独」、これは研ぎ澄まされた表現である。こういう表現はそう簡単にできるものではない。

 また、作者はこの時代を生きた会津藩の藩士たちの心を、籠城戦の中で家老として指揮をとる梶原平馬の口を借りてこう言う。
 「我が藩の藩士は皆、心身を擲って幕府につくし、帝につくしてきた。それが突然に朝敵とされ、嘆願も認められず、新政府を名乗る軍隊に一方的に攻められている。こんな馬鹿なことがあるか。この運命に対して、戦いもせずに切腹してどうする。成仏してどうするんだ。私は断固、戦うぞ。こんな運命に従ってたまるか。最後まで戦う。たとえ負けて死んでも、悪鬼となって地獄の底から舞い戻り、永遠に戦い続ける。我らの正義を訴え、誇りを守るためにだ」(文庫 372ページ)。
 壮絶な鶴ヶ城の籠城戦を戦った会津藩士の思いを、まことによく表しているのではないかと思う。

 しかし、作者が本書の中で語ろうとするのは、その戦いではない。むしろ、戦いのない世界を大事にすることを語ろうとするのである。戦いの最中で、ふとした静けさが訪れたとき、ぼろぼろになって籠城している城中に一輪の野菊が回されたことを作者は挿入する。
 「八重も胸を打たれた。あざやかな黄色が目に染み入るようだった。その静かさと、凛とした不動のたたずまいが心を潤していく。毎日の生活の中でなにげなく見過ごしていた野の花が、これほどまでに皆や自分を癒すとは思ってもみないことだった」(文庫 410ページ)と記される。

 そして、八重は自分が本当に望んでいたことが何かに気づくと作者は言う。「それは、あの菊の花のように静かで、変わらない生活だった。同じことを毎日繰り返すような平凡な暮らしや、季節の行事を楽しむ落ち着いた家庭、誰に向かっても隠しだてせずにすむ関係の中で、安心して生きていきたい。この戦が終わり、もし命があったら、これからの人生をそのようにして過ごしたかった」(文庫 412ページ)と八重は思う。

 あるいはまた、八重が大蔵の妻の登勢の最後を看取る場面で、登勢の最期の言葉として「いつか戦いが終わり、皆が自分の納得のいくように生きられるといいですね」(文庫 419ページ)と語り残した言葉を記す。

 もちろん、こういう言葉は、作者の思いの反映ではあるだろうが、それが激戦の最中で語られるだけに胸に響くのである。

 また、「勝負は時の運です。戦っている時に、ちらりとでもそんなことを考えてはいけない。そんなことを考えると、昔の私のように、逃げ出さずにはいられなくなります。負けることは、負けた時に考えましょう」(文庫 414ページ)という八重の夫の川崎尚之助、「人間が生きるのに必要なものは、食べ物と寝る場所だけではない。自分を信じる力、誇れる力がなければ、人は健やかに生きていけないのだ。その力を育てるのは、教育だと信じていた」(文庫 431ページ)と考えて、新しい歩みをはじめようとする山本覚馬、こういう人物の姿も、なかなかのものである。

 本書では、佐久間象山が少し立派すぎる姿で描かれていたり、会津藩家老の西郷頼母の佐川官兵衛の描き方が少し一面的すぎる気もしないでもないが、山本覚馬という、穏やかで落ち着いて聡明であった人物と、自分の生き方をしかり見据えようとした山本八重という女性の姿が、生き生きと蘇ってくるようで、おそらく、彼女の姿を描いた作品としては最高の部類に属するのではないかと思う。

 続編は、また、機会があれば読んで、ここに記したいと思っている。本書も続編も作詞家のT氏がわたしに持ってきてくれた書物で、幸い手元にある。