2014年6月23日月曜日

三谷幸喜『清州会議』

 梅雨の重い曇り空が広がっている。こんな日はどことなく気分もすっきりせず、「ブルー・マンディー」の感がある。先週は週末に休みを取ることができなかったので、疲れも溜まっているのかもしれない。今日は早めに帰って、ゆっくりお風呂に入ろうかと思ったりもする。

 先日、映画で抱腹絶倒の面白さを見せたという三谷幸喜『清州会議』(2012年 幻冬舎 2013年 幻冬舎文庫)を楽しく読んだ。

 清州会議そのものは、天正10年(1582年)に尾張の清州城で織田家の後継者と遺領の配分を決めるために織田家の宿老(重臣)たちによって開かれた会議で、この会議によって、織田信長を討った明智光秀を山崎の戦で破った羽柴秀吉(豊臣秀吉)が後の天下取りへと台頭していく道を開いたと言える。

 本書は、その清州会議に集まった柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興、それに信長の後継者候補となって争った信長の次男の信雄、三男の信孝(神戸家に養子に入っていたので神戸信孝)、そして、信長の妹で絶世の美女と言われた「お市の方」や秀吉の妻の「寧々」、関東に出陣していたために会議に参加できなかった滝川一益、あるいはまた秀吉の軍師としての黒田官兵衛などが、それぞれにデファオルメされ、独白を語るという形で物語が展開されている。

 しかも、その独白も「現代語訳」という形で、現代の話し言葉を採用することで滑稽味を増すセリフとして記されており、それぞれの人物像によって言葉使いが変わり、会議に臨む本心が露吐されるという姿がとられて、微妙な心理の揺れが面白く描き出されている。

 会議は、信長の家臣団の中でも筆頭であった柴田勝家が、わずか10日の間に主君の仇を討って台頭してきた羽柴秀吉を抑え込むためのものでもあり、資質的に信長の後継としてふさわしいと思われた三男の信孝を推挙し、それに対抗するために羽柴秀吉が、最初は次男の信雄を推挙していたが、あまりに愚かで、最後に、信長が家督を既に長男の信忠に譲っていたことと、その信忠が本能寺の変で死んだことにより、信忠の子である三歳になる三法師(秀信)が継ぐのが正統であることを主張し、結局、その長子相続の筋目を通すことに賛同した丹羽長秀の寝返り(丹羽秀長は柴田勝家の盟友だった)などによって、結局、羽柴秀吉の主張が通る形で決着する。

 本書では、そこに「お市の方」の思惑なども絡まり、「お市の方」は、やがて柴田勝家に嫁ぐことになるが、そこに秀吉の色恋も絡んで、人物像が膨らませてある。また、何もかも承知の上で黒田官兵衛が助言をしたリする展開にもなっている。

 清州会議は織田家の後継者を決めるだけでなく、信長や明智光秀の遺領の配分を巡っても協議が行われるが、そこでも、相手の思惑を取り入れたようで、結局は天下を手中にしようとする秀吉の巧みな策略の勝利となっていく。

 歴史的には、柴田勝家と羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、その年の終わり(1582年末)に「賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)」で争うことになり、翌1583年に秀吉の勝利となって、柴田勝家と妻となった「お市の方」は自害に追い込まれる。

 いずれにしても、清州会議というものをこれほど巧みな心理劇として描いたのは作者が初めてではないかと思う。もともと三谷幸喜は面白い脚本を書く人だったが、小説として、それを独白(モノローグ)の展開として描くところに着目点と技法のうまさを感じる。楽しめた作品であった。

2014年6月13日金曜日

清水義範『会津春秋』(2)

 梅雨の晴れ間となったが、蒸し暑い。でも、なかなか乾かなかった洗濯物がこれで一気に乾いてくれるだろう。だが、早いもので、こちらではもう紫陽花の季節が終わろうとしている。コブシの花が甘い香りを漂わせて清楚な装いを見せてくれている。今年はエルニーニョ現象が起こる気配があるとかで、梅雨が長引くかもしれない。ある人に誘われて夜の散歩に出ることにしているが、雨が降り続くと散歩もお休みになり、大いに残念な気がする。だが雨の風情も、大きな被害が出なければ、いいものである。

 さて、清水義範『会津春秋』(2012年 集英社文庫)の続きであるが、鳥羽伏見の戦いで敗れ、大阪からやっとのことで江戸に帰った会津藩士の秋月新之助は、会津藩江戸屋敷で商人に身をやつして江戸の様子を探っていた橋口八郎太と出会う。八郎太は、敵味方に分かれた藩どうしであるが友情は別だと言い切って新之助に会いに来たのである。そして、新政府軍と幕府軍の交戦は避けられず、会津が新政府軍と交戦するとき、相手が薩摩なのか長州なのかで事情が変わってくる。長州は積年の恨みを会津に抱いていると言う。新之助はそのことを心に留めていく。

 やがて、江戸の会津藩士はすべて会津に帰り、秋月新之助も六年ぶりで自分の家に帰る。彼には「お栄」という妻と二人の子どもがいた。「お栄」は、新之助が惚れた「お咲」が安政の大地震で死んだあとで娶った妻であるが、利発で、自分はどんなことがあっても子どもたちのために生きのびようと思っていると語る。それを聞いて、新之助は、自分も精一杯生きようと努力すると語り合ったりする。

 他方、江戸にいる橋口八郎太は、勝麟太郎(海舟)の家に出入りするようになっていた。江戸惑乱作戦のために西郷隆盛から命じられて江戸で騒ぎを起こした者たちが庄内藩兵を主力とする幕府兵に捕縛され、幕府の軍事取扱役となっていた勝海舟に預けられていたのを探るために出かけて行った時に勝海舟と出会い、その魅力に引き込まれていったのである。勝海舟は山岡鉄舟を西郷隆盛のところに使いにやる手助けを橋口八郎太に頼み、こうして山岡鉄舟が西郷に会って、江戸城引き渡しのための勝海舟と西郷隆盛の会談を整えるのである。こうして江戸城は無血開城されることになった。

 だが、その年、慶応4年は9月から明治元年となるが、会津は戦火に包まれていく。会津は奥羽越列藩同盟を結んで新政府軍に対抗するが、列藩同盟の諸国が次々と敗れていく中で、ついに新政府軍に取り囲まれて単独での戦火の火ぶたが切られることになる。会津戦争は、会津の人々にとって過酷で悲惨な結末となる。会津鶴ヶ城に籠城した人々はよく戦ったが、ついに白旗を掲げ、藩主の容保親子は謹慎となり、城内の会津藩士は米沢藩の預かりとなった。その時、秋月新之助と橋口八郎太は、互いに生きていることを確認したが、友は勝者と敗者に分かれる宿命にあったのである。

 翌年、明治2年(1869年)、多くの旧会津藩士は東京に送られ過酷を究める捕虜生活を強いられるが、6月に版籍奉還が行われたが、陸奥南部藩の一角に三万石を与えられて斗南藩の再興をゆるされる。だが、斗南藩での生活も過酷を究めた。ほとんどが激寒地での開拓に従事したが、作物はほとんど採れなかった。秋月新之助も家族を連れて斗南藩の開拓民としての生活を始めていく。しかし、絶えず耐え難い空腹に襲われ、寒さに震えなければならなかった。そして、翌年の7月に廃藩置県が発布されるに及んで、秋月新之助は家族を連れて東京に出ることを決心する。

 だが、東京で新しい生活の手段のあてがあるわけではなかった。会津に残していた自宅を処分した金もすぐに底をついてきた。幸い、「お栄」の裁縫の腕が買われ、越後屋呉服店(後の三越)からの仕事の依頼を受けるようになっていく。しかし、それでも家族四人が細々と食べるのに精いっぱいで、長男の教育にまで手が回らない状態だった。秋月新之助が習得していたオランダ語はもはや役に立たず、「お咲」の兄が営む私塾を訪ねてみても、英語が必要な時代になったと言われた。しかし、その私塾に息子の教育だけは頼むことができた。こうして日々を過ごしているうちに、秋月新之助は、偶然、陸軍大尉となっている橋口八郎太と出会うのである。そして、橋口の勧めで邏卒(巡査)の職に就くことができ、こうして秋月新之助は新しくできた警察の邏卒として働いていく。橋口との交流も再開される。東京は日ごとに代わり、世の中の流れも堰を切ったように変わっていった。だが、秋月新之助と橋口八郎太との友情は変わらずにもたれていた。

 しかし、明治6年(1873年)、西郷隆盛が突然政界から身を引いて鹿児島に帰ってしまった。表面的には征韓論争に敗れた形だった。西郷に心酔していた橋口八郎太も西郷に従って鹿児島に帰って行った。そして、西南戦争が勃発した。国内最後の内戦ともいえる。明治政府は総力を結集して西郷を潰しにかかり、警視庁の邏卒も西南戦争に駆り出されて、秋月新之助も田原坂の戦いに駆り出される。そして、その戦の前日、秋月新之助は薩摩兵として戦っている橋口八郎太と会い、最後の別れをする。新之助は銃弾に倒れた八郎太の遺体を発見する。こうして、彼らの地上の友情は終わったが、新之助は、あいつの分も生きようと思って帰京していくのである。

 作者は「あとがき」の中で、「(会津史という悲惨な歴史の中で、さらりと、しかも逞しく生きていく主人公)そんな、ぼんやりした主人公を書くことができて、こういう会津史もあってもいいだろう」(本書378ページ)と記しているが、幕末史を全般的になぞって、その中で主人公を生き生きと活かし、しかも、敵同士の友情を描いており、史的資料の裏付けもしっかりしているだけになかなかの作品になっている。文章も、切れがあって読みやすい。ただ、日本史の書物を読むようなところもあり、これで情景描写がもう少しあるということはないが、幕末の激動を追うだけでも大変な分量になるのだから、やむを得ないことかもしれないと思う。

2014年6月5日木曜日

清水義範『会津春秋』(1)

 例年になく暑い夏日が続いた後で、少し早く梅雨入りし、雨模様の湿度の高い日々になている。熊本は思った以上に湿度が高い。だが、紫陽花が鮮やかに咲いて清涼感を醸し出してくれている。雨にぬれるグランドを高校生たちが駆け抜けていく。

 先日来、清水義範『会津春秋』(2012年 集英社文庫)を読んでいた。これは2009年から2011年にかけて『小説すばる』で『会津の月、薩摩の星』と題されて発表されたものに加筆、修正がくわえられて、改題されて出されたと奥付に記されており、元の表題が示す通り、会津と薩摩という幕末の激動した藩の中で生きる二人の人間の藩という枠を超えた友情を著わしたものである。特徴的なことは、徳川親藩として辛苦をなめた会津藩に生きる青年と、雄藩として維新を起こすものの西南戦争で敗れていく薩摩藩士の姿を描き、その二人が友人であるという、これまでの幕末を題材にとった小説の中では描かれなかったような人物設定がされている点である。

 主人公の一人である秋月新之助は、12歳の時に会津藩の世嗣となった松平容保の近習となり、藩命によって西洋砲術を学ぶために佐久間象山の塾に入塾し、習ったことを容保に伝えるという役を仰せつかった。彼は、おっとりとした性格で、剣術の腕はないが、あまり拘りのない素朴さを持ち合わせた人物だった。そして、その象山の塾で、砲術に必要な算術(詳証術)には頭を抱える状態であったが、様々な有為の青年たちと出会うのである。

 実際、佐久間象山の塾には、実に多種多彩な人物たちが集まっていた。長州の吉田寅次郎(松陰)、福井の橋本左内、越後長岡の河井継之助などがいたし、後には坂本竜馬も籍を置いていた。それらの人々の中で、自分と同じように算術(詳証術)が苦手である薩摩藩の橋口八郎太という青年と出会う。この橋口八郎太がもう一人の主人公となる人物である。

 橋口八郎太は、世に名君と謳われた島津斉彬の配下の者で、斉彬を信奉し、同じように西洋砲術を学ぶために佐久間象山の塾に入塾していた者だった。体つきもがっしりし、示現流の相当な遣い手でもあった。象山が行った大砲の試射で、この橋口八郎太が怪我をし、秋月新之助が彼を見舞ったことが縁で、二人の間に友情が芽生えていくのである。

 やがて象山の塾で、雑用をして手伝い仕事をしていた「お咲」という娘に二人とも惚れてしまう。「お咲」は、塾頭の一人の妹で、数学が好きで、数学を学びたいと思って下働きを志願してきた女性だった。そして、数学が苦手な秋月新之助に数学の手ほどきをし、砲弾の軌道を計算する二次方程式(放物線)の理屈を教えたりするのである。新之助はその利発さに目を見張り、彼女に惚れていく。だが、友人となった橋口八郎太も「お咲」に惚れ、そのことを先に新之助に打ち明ける。新之助は友情と恋の板挟みに悩んだりするし、数学がだめだからオランダ語の習得に熱心になったりする。そんな青春期を過ごしていくのである。

 そして、嘉永6年(1853年)、ペリーが米国艦隊を率いて浦賀沖にやってきて、時流は大きく流れ始める。会津藩も浦賀に警護に派兵されるが、新之助は、手持ちの槍や刀でどうして黒船に立ち向かえるだろうと疑念に思ったりする。だが、ペリーはいったん帰国し、次の年の一月に七隻の艦隊を率いて江戸湾に再来し、三月に日米和親条約を結ばされてしまう。かくして日本の鎖国政策は終わるが、象山門下生の吉田寅次郎(松陰)の密出国の事件が発覚し、象山も咎めを受け、象山塾も閉じわれることとなる。新之助は「お咲」に自分の恋心を伝え、橋口八郎太との友情から彼も「お咲」に惚れていることを告げ、「お咲」にどちらを選ぶかを任せることにする。橋口八郎太は西郷隆盛に心酔し、西郷隆盛の意を受けて活動を開始していた。

 だが、不幸にも、そこに安政の大地震が起こり、「お咲」はその地震で命を落としてしまう。そうしているうちに疾風怒濤の時代の嵐が吹き荒れていった。尊王攘夷の熱波の中で、京都では暗殺が横行した。文久2年(1862年)、会津藩主松平容保は、京都の治安維持のために設けられた京都守護職を無理やり押しつけられ、会津藩士約千名が入京し、容保の近習であった秋月新之助も藩主に従って京都へ入り、公用局という新設の役務の末席に籍を置くことになった。そして、西郷隆盛の意で動いていた橋口八郎太と再会する。

 薩摩藩でも、英明の誉れが高かった島津斉彬が没し、藩の実権を斉彬の母違いの弟の島津久光が握り、安政の大獄後に事情が一変し、西郷隆盛は久光の激怒をかって囚人となり、藩の過激分子を一掃するということで「寺田屋事件」が起こっていた。また、8月(現:9月)には神奈川の生麦村でイギリス人商人たちを殺傷するという事件も起こしていた。橋口八郎太はそういう薩摩藩の激流の中にいた。会津の秋月新之助と薩摩の橋口八郎太は、そうしたそれぞれの藩の状況を屈託なく語り合うし、政治的な状況が二人の友情に影を挟むこともなかった。

 会津藩の傘下に置かれた新撰組の活動も活発化してきたし、当時の江戸幕府がとろうとしていた公武合体策に対する反幕府の旗印を長州が強くして来ていた。そして、薩摩は会津と手を結び、台頭してきた長州勢力の一掃を図るようになっていく。かくして京都の長州勢力とそれに加担していた尊攘派の七人の公家が京都から追い出されるという事件が起こり(七卿落ち)、やがてはそれが長州による京都襲撃の「蛤御門の変」(禁門の変)へと繋がっていく。

 そうした状況下で、島原の料亭で飲んでいた秋月新之助と橋口八郎太のところに、新撰組に追われた坂本竜馬が逃げ込んでくるという設定で、坂本竜馬の姿が、この二人の立場を通して描かれるようになる。竜馬の人を惹きつける魅力に二人とも捕らえられたりするのである。また、新撰組の中でも暴虐無人の振る舞いをしていた芹沢鴨の粛清があったりする。そんな中で、秋月新之助は、時局の対応に疲労し健康を害していた藩主の松平容保の心情の聞き役として仕えたりしていく。

 文久4年(1864年)、元号が元治に改まり、公武合体策を行うために組織された朝議が、各大名の身勝手さで空中分解した後、密かに京都襲撃を企んでいた長州藩士を中心にした浪士たちが新撰組によって惨殺・捕縛されるという「池田屋事件」が勃発し、次いで、秋月新之助と橋口八郎太の師であった佐久間象山が暗殺された。そして長州兵による「蛤御門の変」が勃発する。このとき、薩摩と会津は共同して御所を護る戦いに出て、秋月新之助も橋口八郎太も共に戦う。

 だが、事態はそれから大きく動いていく。第一次長州征伐が行われたころから、幕府の弱体化は隠しようもなくなり、坂本竜馬の働きによって長州と薩摩が手を結んでいくのである。そして、徳川家茂が病没し、孝明天皇が没して、ついに、徳川慶喜によって大政奉還が起こる。そして、大政奉還を建策した坂本竜馬が暗殺された。そして、会津藩は御所から追放され、徳川慶喜は二条城から大阪城へと逃げて行った。どこまでも将軍家を護る宿命を負った会津藩は、やむを得ず慶喜が逃げた大阪城へと移動する。秋月新之助も大阪へと向かう。その時、新之助は薩摩がどうでも将軍家を潰すつもりでいることを橋口八郎太からの手紙で知らされていた。だが、どうにもならず、ついに慶応4年(1968年)の正月に鳥羽伏見の戦いが始まってしまう。そしてこの時、またしても将軍徳川慶喜は、松平容保らを引き連れて密かに船で大阪から脱出し、江戸へ逃げるのである。鳥羽伏見の戦いでは錦の御旗が薩長軍に翻り、幕府軍は朝敵の賊軍になり、置き去りにされた幕府軍の兵たちはさんざんの苦労をしながら江戸へと落ち延びていくのである。秋月新之助も苦労を重ねて江戸の会津藩邸へと戻っていく。

 ここから、悲惨を究めた会津戦争を経て、会津の秋月新之助と薩摩の橋口八郎太の人生は大きく変転し、やがて運命のいたずらとも思える道を歩むことになり、物語は佳境に入っていくが、そのことについてはまた次回に記すことにしたい。

 なかなかこれを書く時間も取れなくなっているが、折々にでも読書ノートとして記し続けたいとは思っている。

2014年5月23日金曜日

吉川英治『貝殻一平』

汗ばむほどの初夏の日差しが射している。「涼暮れの季」で寒暖の差があり、夕暮れ時が一番気持ちのいい季節になっている。今夜からまた東京で、土曜日の最終便で帰ってくることになっている。4月以来、時間が細切れになって、まとまったことができないではいるが、これもまたわたしに「与えられた時」だろうと思っている。

さて、吉川英治『万花地獄』(吉川英治全集4 1983年 講談社)に続いて、同年に出された講談社版の全集6に収められている『貝殻一平』(吉川英治全集6 1983年 講談社)を、これも面白く読んだ。通常、吉川英治の作品史において、初期の『剣難女難』や『鳴門秘帖』といった冒険活劇譚から作風を転化させたものとして本作があげられたりするが、わたしには、本作もエンターテイメント性の強い活劇譚のように思われた。本作も、江戸から中山道を通って京都へ、そして京都から紀伊、紀伊から大阪・京都という道行の中で登場人物たちの喜怒哀楽と愛憎が展開されているし、江戸城中の機密文書の争奪が最初のころの鍵となっている。

しかし、本書で歴史的事件が取り上げられ、それが大きな背景となっているし、特に幕末史の中でも暴挙のように記されている「天誅組」の事件が物語の山となっている点が、これまでとは異なっていると言えるかもしれない。

ともあれ、物語は、文久2年(1862年)5月25日、江戸城大奥に使える「扇子の方」が赤坂山王神社への代参の折に、城中の機密文書を盗んで疾走するという場面から始まっていく。

この日に年代が設定されているのは、このころ尊王攘夷の機運が高まり、幕藩体制が大きく揺らいで、江戸幕府と京都の朝廷間の関係が緊迫性を増し、薩摩藩の実権を握っていた島津久光が公武合体策を進めるために藩兵を率いて京都へ上洛するという出来事が起こっている。外様大名が藩兵を出兵させるというのはこれまでになかったことであった。

そうした歴史的状態を背景にして、「扇子の方」は、やがては明治天皇の外祖父(娘の中山慶子が明治天皇の母)となる中山忠能(ただやす)の娘で、江戸城中の状況を探るために大奥に送り込まれていたという設定になっている。天誅組を指導した中山忠光は「扇子の兄」となっている。

その「扇子の方」の逃亡の途中で、それを陰ながら護っていく人物として、沢井転(うたた)という青年剣士が登場してくる。この沢井転がこの物語の主人公の一人なのである。そして、「扇子の方」と機密文書の行方を追いかける大目付の与力たち、その中でも執念を持って追いかける青木鉄生や目明しの「すっぽんの定」などが追いつ追われつの逃走劇を中山道の下諏訪や飯田を経て京都へと展開されていく。

また、その道中で貝殻座という旅芸人一座が登場し、その女座主のお千代とその用心棒の青江左次馬が登場して、「扇子の方」の逃亡劇に微妙に絡んできたりする。そして、物語の後半部分で、この貝殻座に「一平」という人物が絡んでくるのである。

そしてさらに、実は、この「一平」と沢井転は、共に名奉行として名高かった矢部駿河守定兼(さだのり)の双子の忘れ形見であったことが明かされていく。矢部定兼は、勘定奉行、江戸町奉行を歴任した俊才であり、また情と正義感に厚い人であったが、老中の水野忠邦と目付の鳥居耀蔵らの策略で失脚させられ、桑名藩預かりとなり、自ら食を絶って憤死した(天保13年 1842年)人で、矢部家はその後、鶴松という養子を立てて再興されたが、本書では、6歳の時に行方不明となった定兼の実子「菊太郎」を探す矢部家の老臣たちも登場する。この老臣たちは、いわば「滅び行く忠義の見本」のような人物として描かれている。

一平と沢井転は、共に矢部定兼の子であったが、双子を嫌う風習で、一平は生まれて間もなく房州の海に流され、かろうじて拾われて育ち、やがて大阪の武家の仲間(下僕)として働くようになっていた。そして、その主人の一人娘の「お加代」と恋仲となり、駆け落ちするのである。この武家が新撰組に加わる山崎蒸の縁戚であったことから、山崎蒸に追われることになり、興行していた貝殻座に逃げ込んで、そこで道化役者に化けて逃げ延びる。彼は根っから陽気で、あまり物事も考えない代わりに邪気もなく、小心で臆病さをもち、女性の母性愛を掻き立てるような人物で、貝殻座の女座主の「お千代」の世話を受けていくようになる。一平は、まさに「庶民」の典型として描かれるのである。だが、物語そのものが彼を中心にして展開されないため、彼についてはどこか焦点がぼやけた感じがしないでもない。

物語は、歴史的事件である「天誅組」の方へと流れている。他方、京に逃げのびた「扇子の方」は、一時は捕縛されて二条城に連れて行かれるが、沢井転によって救出される。だがそれによってますます「扇子の方」と沢井転はお尋ね者としてさらに厳しい詮索の対象になっていく。時、あたかも会津藩主松平容保が京都守護職となり、新撰組が結成され、攘夷を叫んだ熱情的な浪士たちが中山忠光を主として天誅組を結成し、やがては紀伊で幕府軍との戦闘を開始するようになるのである。その戦に「扇子の方」も沢井転も、そして貝殻座のお千代も一平も巻き込まれていくことになる。

そして、天誅組は敗れ、中山忠光は沢井転の働きによって大阪に逃げ延びることができた。ちなみに中山忠光は、その後、長州藩によって保護されるが、第一次長州征伐後に長州藩内で再び保守派が台頭した時に、長州豊浦郡で刺客によって暗殺されている(元治元年 1864年)。

この物語は、社会の上層階級と下層階級を対比させ、幕末という動乱期に起こった出来事を通して、政治がもたらす非情さやつまらなさ、だが庶民を翻弄してしまう社会状況を人物像を通して展開しようとしたものだと言えるかもしれないが、そうした思想的な実験は、まだあまり成功しておらず、むしろ、活劇譚としての物語の展開と面白さが前面に出ている作品だと言えるだろう。

それにしても、吉川英治の構成力や物語の展開のスピード、そして様々な登場人物たちの個性を描く力量、歴史的検証の確かさなど、改めて敬服する。それらを踏まえて、なお、面白さが加わった作品であった。

2014年5月17日土曜日

吉川英治『万花地獄』

 このところ天気と気温が目まぐるしく変わり日々が続き、今日は曇天の少し肌寒い朝を迎えた。熊本での生活にまだ少し身体が慣れないところがあって、日常の業務に追われる日々になっているが、少しずつ気候にも環境にも親しんでいくだろうと楽観的に思っている。ただ、こちらでの市立図書館の蔵書の種類が全く異なって、なるほど、地方によって蔵書の種類が異なるのかと、改めて思った。司書の人たちの好みの違いかもしれない。

 そんなことを思いながら、吉川英治『万花地獄』(吉川英治全集4 1983年 講談社)を図書館から借りてきて、古典的な冒険活劇潭として面白く読んだ。この作品は、1927年(昭和2年)1月から1929年(昭和4年)4月まで雑誌『キング』に連載されたもので、90年近くも前に執筆されたものであるが、活劇時代小説として、今なお色褪せないストーリーの展開とテンポをもっていると思う。もちろん、登場人物は、善は善、悪は悪という類型的なものだし、思想的には勧善懲悪という大衆時代小説の典型的なものではあるが、活劇潭としては、埋蔵されている甲府金(武田信玄が密かに埋蔵していたとされる莫大な金の延べ棒)の在処を巡る闘いが甲州御代崎一万石の乗っ取りを企む者との闘いとして展開され、舞台が甲州御代崎と江戸という二つの舞台での交互の展開となって、波瀾万丈の面白さがある。

 物語は、悪と欲の権化であるような御代崎藩(作者の創作であろう)の家老司馬大学によって、藩主の駒木大内記(だいないき)が不治の病者とされて藩政が私物化されている状態から始まる。司馬大学は、藩主の駒木大内記に毒を飲ませて失明させ、ものを言うこともできない廃人同様の状態にされてしまっていたのである。さらに彼は、大内記の娘の光江と、陣屋内に埋蔵されていると言われる莫大な甲府金を我がものにしようと企んでいた。埋蔵金は、「万花多宝塔」にある。それがわかったが、さらに「多宝塔」の中の秘庫を開くのに鍵が必要で、その鍵の在処を知っているのが光江であった。大学は色と欲の権化なのである。

 他方、それを阻もうと、元駒木家の家臣で剣の遣い手である小枝角太郎(さえだ かくたろう)と、かつて光江に仕えていた奥女中の「お妻」が生命を賭して司馬大学との闘いを展開していくのである。小枝角太郎と「お妻」は恋仲であった。それに「お妻」の兄で、将軍家御用達将棋の駒作りのための木材を探す飛車兵衛が助成し、さらに廃人同様になって幽閉されている駒木大内記の病を癒すために医者の幸安と弟子の少年荘八が加わる。作者は少年の描き方が巧みで、荘八は明朗闊達な少年で、吹き矢をよく遣い、すばしっこいところがあって、小枝角太郎やお妻の危機を何度も救ったりもする。

 また、角太郎が使う愛刀の国重を研ぎに出したことから、御代崎の名人研師の研八とその娘の「お吟」が事件に関わり、司馬大学の悪政に業を煮やしていた研八と「お吟」の運命を変えていく。研八は司馬大学に殺され、「お吟」も捕われ人になったりする。さらに、「お吟」も角太郎に惚れ、「お妻」のと微妙な関係を生じたりもする。角太郎にしろ、光江にしろ、あるいは「お妻」や「お吟」にしろ、すべて美男美女である。

 司馬大学の方にも凄腕の浪人の久米段之進とその毒婦の「お兼」などがついたり、縁戚として老中の水野山城守が登場して政治的な駆け引きが行われたりして、欲でつながった人間関係が出来上がっていく。

 それらに加えて、美少年とも思われる美貌の持ち主で柔術の達人で、山窩(山の民)の一党と共に強盗団を率いる花又三日之助という不思議な人物が登場し、あるときは司馬大学に、又ある時は小枝角太郎に加担したりする。彼もまた、埋蔵されている甲府金を狙っているように見えるが、実はそこには深い事情があり、本書の中では重要な役割を果たしていく人物となっている。

 物語は司馬大学の奸計によって主人公たちが陥る危機の連続で、危機一髪のところで思わぬ助けが入ることで展開されていき、最後の「万花多宝塔」の内部での死闘で決着がつく。現代の優れた時代小説のように人間が掘り下げられて描かれることは少ないが、ストーリーの展開の妙があり、エンターテイメント性は抜群である。ここでは詳細は記さないが、あらゆるところで善が忍従を強いられ、悪が勝利を収めそうであるがそうはならないという山場がいくつも作られている。よくもこれだけのことを思いつき、味のある小道具でリアリティを出したと着想の素晴らしさに感嘆する。

 この頃、吉川英治は作家として多いに売れた時代で、物語り手として脂がのった時代であった。だが、家庭的には妻の「やす」との間にひびが入りはじめ、「やす」のヒステリー症状が昂じていった頃であった。それだけにまた、作品の執筆にのめり込む度合いも高かったのかもしれない。筆運びが自由奔放で、思う存分に書いたという印象が随所に見られ、それだけでも愉しめる作品である。

2014年5月14日水曜日

風野真知雄『穴屋佐平次難題始末』

 午後から雨になり、今は雨音が木霊するくらいに激しく降っている。午後、少し時間ができたので、風野真知雄『穴屋佐平次難題始末』(2008年 徳間文庫)を気楽に読んでいた。まったく肩の凝らない滑稽本の類で、「穴屋」という不思議な商売を生業にする佐平次という男を主人公にし、葛飾北斎は登場するは、太田南畝(蜀山人)、写楽、首切り浅右衛門で知られる山田浅右衛門は登場するは、果ては二宮金次郎、シーボルトまで登場するという予想外の展開を見せる作品である。

 主人公の佐平次自体、元公儀御庭番で、佐渡の金山の内偵に行ったときに上司にもぐった穴を爆破されて、危うく命を失いかけ、それ以来、御庭番から逃げて、変わった商売をする者たちが住む長屋で「どんな穴でも開けます」という看板を掲げて「穴屋」を始めたという経歴を持っている。

 そして、彼が住む長屋に蛇を商いにする女性の「お巳い」と知り合い、恋仲となるが、「お巳い」は女陰のない女性で、最後にはシーボルトのオランダ語通詞から教えられた「リーフデ(liefde)」(love 愛)の深い姿に目覚めていくという恋話も展開されている。

 その穴屋佐平次が最初に出会うのが葛飾北斎で、北斎は絶世の美女と言われる女を覗いて絵にしたいから覗き穴を掘るように佐平次に依頼するのである。だが、それは北斎のスケベ心ではなく、その女性の美しさにも負けない富嶽百景を描くためだという落ちになる。

 こういう具合に、著名な人々が、さもあり得るかもしれないという脚色を交えて登場し、穴を掘ることで佐平次が親交をもっていく展開になっている。

 こうした娯楽作品は、まさにエンターテイメント性にあふれていて、だからと言って歴史的なことが踏まえられて、そこに作者の筆力が加わるので、まことに気楽に読めるのである。だから、こうした作品は一気に読めて、読む方も気楽になる。まことに現代の滑稽本である。

 だが、最近、再び凛とした人物を描いた作品を読みたいと思っている。凛としたものを秘めながら生きる人物を描いた作品を探すが、これが意外に難しい。

2014年5月8日木曜日

熊谷達也『邂逅の森』(2)

 連休が明けて皐月の碧空が広がっている。連休中に一度だけ、車で15分ほどのところにある温泉に行ってきた。今のわたしにとってはそれでもう十分で、後は買い物に出たり、自宅での本の整理などを少ししたりであった。

さて、熊谷達也『邂逅の森』(2004年 文藝春秋、2006年 文春文庫)の続きであるが、富治が「文枝」に会いに行った日に、「イク」は、自ら身を引いて失踪した。「文枝」の息子が訪ねてきて、「イク」と話をしたという。富治は、「イク」が自分にはかけがえのない存在であることを改めて感じて、必死になって「イク」の行方を探す。「イク」が富治の実家に行ったと聞き、実家に行ってみるし、仙台の遊女屋にも行ってみる。だが、「イク」の行方はようとして知れなかった。そして、以前、「肘折温泉に行きたい」ということを思い出して、肘折温泉に出かけ、そこで、身を引いて土産物屋で働こうとしている「イク」をようやく見つけるのである。それは、富治と「イク」が最初に出会った場所であった。富治は、「俺の大事な女房に買ってやるから」と言って、こけし人形を売り子として働く「イク」に求めるのである。

 こうして「イク」と富治の生活が元に戻り、富治はマタギ仕事に出かける。マタギの仕事もすっかり様子が変わり、富治はこのままマタギを続けることの是非を自らに問うていた。マタギを辞めて「イク」と二人で暮らすつもりであった。

 だが、富治は最後のマタギ仕事に出る。そして、「山の神」の化身とも思われる熊に出会うのである。こうして、熊と富治の真剣勝負が始まる。互いに死力を尽くす。富治は右足をやられ、朦朧とする意識の中で「イク」の待つ家に向かって歩きはじめるところで終わる。富治の生死はどこにも記されないが、読者は富治が片足を引きずり、朦朧とした意識のままでも「イク」のところにたどり着くことを期待するだけである。

 「山の神」とも思える熊との対決は圧巻で、互いに力と知恵を尽くして対決する。「山の神様が宿っていようがいまいが、山の中で、一対一で対峙した時、野生の生き物のほうが人間に勝ってしかるべきなのだ。それが自然の姿であるべきなのだ」(文庫版530ページ)という一文が本書で示される自然の中での人間の姿の一つの帰結であろう。

 時代は明治から大正という、いわば日本の近代化が急速に、半ば強制的に進められた時代で、自然を相手のマタギの生活にもその時代が大きく影を落としていく姿が生活の座の視点で克明に描かれている。現代の日本には、もはやここで描かれたような自然はないが、自然の厳しさとその恩恵を受けていく素朴な人間の在り方が主題として取り上げられ、そこに人間の愛情の物語が織りなされているのである。その意味でも、作者が意識してこの物語を著わした視点があり、この作者の作家としての力量の確かさを感じる作品だった。

 「それにつけても疲れる日々よ」と組織の中で思う。もともと非組織的人間である者が、覚悟はしていたとはいえ組織の中に組み入れられているのだから当然ではあるが、なんだか30年前に帰ったようで、旧日の感覚を思い出したりしている。まあ、これも一生かもしれない。