春分の日が過ぎても、昨日は一日冷たい雨が降り、今日も午前中は雨模様になった。風は北東から吹いているので、おそらくこの雨には福島の原子力発電所から漏れている放射性物質が微量に含まれているだろう。ほうれん草や原乳からも放射能が検出されたと報道されている。もちろん、公表されている放射線量によれば人体にほとんど影響はない。むしろつまらない風評被害や過剰な危機感の方がよほど悪影響を及ぼしているに違いない。被災地で続いている嘆きと悲嘆の中での静かな忍耐に学ぶべきだと思っている。昨日、長期にわたっての支援活動を続けるための体制作りをして、輸送が可能になったことからトラック便を送り出すことになった。
個人的には、風邪で寝込んだ後でもあり、体調が今ひとつのところがあるのだが、回復の兆しがあるので、もう大丈夫だろうと思っている。ただ、溜まっている家事をこなす気力はまだ湧いてこない。いくつかの仕事をこなすのが今のところ一番いいことだと思って籠もっている。
しかし、まとまった思考はまだ無理でぼんやりすることが多い。そういう中で夜はほとんど何もせずにずっと本を読んでおり、昨日は千野隆司『主税助捕物暦 虎狼舞い』(2007年 双葉文庫)を、変わらず優れた構成と展開だと思いながら読んだ。これがこのシリーズの何作目になるのかはちょっと分からなかったが、2作目の『天狗斬り』は以前に読んでいて、主人公の楓山主税助が浮気のために破綻した夫婦の関係をどう修復していくのかという複線が続いていて、物語の中心である事件の展開とは別に、本書では妻の「美里」が心臓を患い、その妻を愛おしく看病していく主人公の思いが事件の展開と重ねられて丁寧に展開されている。
本書で取り扱われるのは、火事騒ぎにまぎれて押し込み強盗殺人を犯した犯人が、ついでに押し込んだ甘味処で、普段は風采が上がらずに小心者と思われていた甘味屋の亭主「宇吉」にあっという間もなくやっつけられ、そのことが江戸中の評判となり、「宇吉」を巡って土地の地回りどうしが暗躍し、宇吉の過去と火事で焼け落ちた橋の普請を巡っての地回りどうしの争いの顛末である。
橋の普請を巡っての地回りの争いの一方は、かつて「宇吉」が身を置いていた表稼業が口入れ屋で高利貸しでもある高麗屋で、「宇吉」はそこから百両という金を盗んで逐電し、その際に高麗屋の主人に手傷を負わせていた。高麗屋の主人は「宇吉」に恨みを抱き、捜していたが、宇吉のことが評判になって宇吉に手を出そうと女房とひとり娘を拐かし、宇吉を争いの味方に引き入れ、その後で殺そうと企んでいたのである。
橋の普請を巡って争っていたもう一方は、表家業が材木屋の高利貸しで、「宇吉」の腕を見込んで、何とかこれを味方に引き入れようとしたのである。
「宇吉」は、以前は別人物だったが、江戸に舞い戻った時に偶然知り合った女性を助けたことから、その女性のひどい従兄に成り代わり、菓子職人の「宇吉」となって再生し、家族を守って暮らしていた。だが、彼のことが評判となり、高麗屋につけ狙われたりして、橋普請を巡る争いに巻き込まれていくのである。宇吉は妻と娘が拐かされたためにやむを得ず争いの渦中に引きずり込まれる。
主人公の楓山主税助は、その「宇吉」の過去を知り、彼を守るために一触即発の争いの場に行き、それぞれ争う者たちが自滅していく中で、高麗屋の凄腕の浪人に殺されかける「宇吉」を救い出していく。そして、「宇吉は命がけで、自分を支えてきた女房と娘を守ろうとした。その気持ちが、同じように女房と娘をもつ自分にも、伝わってくるのを主税助は感じた」(318ページ)ところで終わる。
人は誰でもそれぞれに重荷を背負って生きているし、その重荷はそれぞれに異なるが、重荷を負おうとする者は、同じように重荷を負おうとする者がわかる。この作品では、主人公と宇吉という二人のそれぞれの重荷を負っている者が対比的に見事に描かれ、その思いが静かに潜行していく。重荷を負うことが大上段に振りかぶらされないで、日常の流れの中で描き出されるので、味わい深いものとなっている。日常の平穏さのありがたさをつくづく知っている人物が描き出されていい。
平穏であることは有り難いことである。そして、その有り難さを真実に知る者は、また、平穏であることに固執したりはしないが、平穏であることを慈しむことを知っている。「無事」とは「事」が「無い」ことをいうのであり、淡々と日常がすごせることこそが有り難いことであるに違いない。ともあれ、「落ち着いて、穏やかに信頼して過ごすこと」、そういうことをこの頃とくに思っている。
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