2011年10月31日月曜日

葉室麟『秋月記』(1)

 穏やかに温かく晴れた日になった。「小春日和」と呼んでもいいかもしれない。風も爽やかで、これで車の騒音さえなければ、ふにゃりと身を置くのにちょうどいい気配がかもしだされている。

 このところいくつかのことが重なって、いくぶん疲れを覚えて気分も低下していたが、そういう気分の低下とは無関係に、季節が秋を深め、銀杏が色づいて、静かな日々が流れている。わたしよりも若干若い友人のT牧師が、残されている時間が少ないので、今のうちに会いたい人に会うという便りを送ってくれた。わたしも、家系的に早死にの家系で、残されている時間は本当に少ないと思いながらも、しばらくは忍耐の日々を過ごそうかと思ったりする。老兵はただ静かに朽ちていくだけでいい。

 閑話休題。葉室麟『秋月記』(2009年 角川書店)を、感動をもって読んだ。葉室麟は極めて優れた硬派の作家だとつくづく思う。厳密に考証された歴史の中に主人公を置き、歴史的人物と縦横に関わらせながら、人の生き様を描き出す。彼が描く人間の姿は、まさに「生き様」であって、単純な「生きた姿」ではない。ある意味で、人間としての矜持や筋を通すことで抱え込む苦悩の中でも、「流されていかない姿」なのである。

 『秋月記』は、筑前福岡の分藩であった秋月藩を舞台にして、やがては状況の変化によって批判され、糾弾されていくひとりの矜持をもった武士の姿を描いたものである。この作品の舞台となった筑前の秋月は、本当に穏やかで静かな山間の一地方である。本書の最後で、流罪となる主人公が「その静謐さこそ、われらが多年、力を尽くして作り上げたもの。されば、それがしにとっては誇りでござる」(287ぺーじ)と語る言葉があるが、何度か訪れて、今も残る館の石垣に沿って桜並木を歩くと、質素でありながらも懸命に生きた人々の「高い精神性をもった静謐さ」をつぶさに感じることができるような雰囲気が漂っていた。

 秋月は、1203年に鎌倉幕府二代目将軍の源頼家から原田種雄(たねかつ)が秋月荘を拝領し、古処山に山城を築いて秋月姓を名乗るところから歴史に登場しはじめている。秋月氏時代は長く続いたが、1587年に豊臣秀吉が大軍を送って九州を制圧したとき、秋月家は、薩摩の島津家との盟約を重んじて抗戦し、破れて、日向に移封されてしまう。その後、関ヶ原の闘いの後で、徳川家康から黒田長政が筑前福岡52万石を拝領し、長政は叔父の直之を秋月に配置した。黒田直之は黒田孝高(黒田官兵衛・如水)やどの長男の黒田長政同様、熱心な切支丹だったともいわれ、このころはキリスト教信仰が盛んだったともいわれる。しかし、徳川幕府の禁教令で秋月の切支丹は廃れていったと思われる。黒田長政の長男黒田忠之が長政の後を継いで福岡藩主となったとき、長政の遺言で、三男の長興(ながおき)に秋月5万石を分知し、1626年に長興が将軍拝謁を賜って福岡藩の分家としての秋月藩が誕生した。祖父も父もキリシタン大名であったが、1637年の島原の乱では長興は幕府命によって出陣している。

 長興以後、12代にわたって世襲となり明治維新を迎えることになるが、藩の趨勢は勤王、佐幕のどちらともつかない状態で、そのために維新後には明治政府の政策に強い不満を持った秋月藩士たち250名余りが挙兵をして秋月の乱を起こしたのである。明治政府は挙兵した秋月藩士を鎮圧し、その後多くの藩士たちは秋月を離れ、秋月城下で賑わっていた商人たちも店をたたみ、過疎化が進んで今日に至っている。今では300軒余りの戸数を数えるだけになっている。
 
 この秋月の歴史の中で、八代目の藩主であった黒田長舒(ながのぶ 1765-1807年)が特に中興の祖として知られ、産業を保護し、学問文化を高め、この時代に、儒学者の原古処や日本で最初に種痘を行った医師の緒方春朔(しゅんさく 1748-1810年)、円山応挙らに学んだ絵師の斎藤秋圃(しゅうほ  1769-1861年)らの傑出した人物が登場している。原古処の娘で女流漢詩人として傑出した才能を発揮した原猷(はら みち 原采蘋)もこの時代の秋月の人である。また、長崎の眼鏡橋と同じような秋月眼鏡橋の設置も黒田長舒の発案だったといわれる。黒田長舒は、7代目藩主の黒田長堅(ながかた)に嗣子がなかったために、母方の血筋であった日向の秋月家から養子に入った人で、秀吉から日向に移封された秋月家から約200年後に秋月家が秋月に戻って来たことになる。

 黒田長舒の死後、次男の黒田長韶(ながつぐ 1808-1830 年)が後を継いで秋月藩主になるが、家臣団を統率する力はなく、家老の間小四郎らに専権を振るわれたと言われ、宗藩であった福岡藩の監督を強く受けた。

 葉室麟『秋月記』は、ちょうどこの頃の秋月藩を取り扱い、専権を振るったと言われる間小四郎(余楽斎)を主人公にした物語で、間小四郎が傲慢に専権を振るって私欲を量ったのではなく、藩のために自らを捨て、武士、あるいは人間としての矜持を強くもった人物であることを描き出すものである。

 間小四郎は、秋月藩上士吉田勝知の次男として生まれ、父親の勝知は、馬廻役200石の剛胆で精悍な人物であったが、無類の臆病者であったエピソードがいくつか語られる。大きな犬に吠えられて脅え、泣き叫ぶ妹を助けることができずに立ち尽くしてしまい、それが原因で妹が発熱して、緒方春朔(しゅんさく)が考案した種痘を受けることができずに死んでしまったことで自責の念に駆られ、また、賊が押し入ったときも震えて人質となり、小便をもらしてしまったことなどが語られ、彼が、自分の臆病心を何とか克服して「決して逃げない男になろう」と決心する経過が語られるのである。

 そして、十歳のころから藩の稽古館(武道の鍛錬と学問の場として七代目藩主の黒田長堅(ながかた)が創設し、長舒(ながのぶ)の時代に盛んになる)で懸命に武道と学問に励んでいくのである。初めのうちは先輩諸氏からひどい目にあい苛められていくが、やがて鍛錬に鍛練を積んで頭角を現していくのである。その稽古館で、伊藤惣兵衛、手塚安太夫らと友情を結び、元服して、青春を謳歌し、吉田家と同じ馬廻役の間家に夫婦養子となるのである。間家には子がなく、遠縁に当たる書院番80石の井上武左衛門の娘「もよ」と夫婦となって養子に入るというものであった。「もよ」は評判の美女であったが、小四郎は江戸遊学が決まり養子縁組は二年間延期されることになる。その延期で先のことはわからなくなるのである。

 だが、「もよ」は、当時としては大変な勇気が必要だっただろうが、江戸出立前の小四郎を訪ね、「江戸からのお帰り、お待ちしております」と告げる(28ページ)。「もよ」14歳である。

 江戸で、小四郎は神道無念流の道場に通い、そこで伊賀同心だった柔術の達人である海賀藤蔵と出会い、親交を結んでいくことになるが、秋月藩の情勢は、家老の宮崎織部と渡辺帯刀の専横ぶりが取り沙汰されるようになっていた。小四郎の江戸遊学は、国元への急使をたてる必要が生じて早めに切り上げられ、小四郎は秋月に帰る。急使は、財政難にも拘わらず、長崎の眼鏡橋と同じようなオランダ風の石橋である眼鏡橋建設に絡んだものだった。家老の宮崎織部が推進し、藩主の長舒(ながのぶ)の裁可が下ったのである。

 その時、一緒に江戸に遊学した坂田第蔵(さかた だいぞう)から依頼された坂田の妻「とせ」に宛てた手紙を届けるが、「とよ」は不義密通の噂があった。「とよ」の相手は、家老の宮崎織部のお気に入りの姫野三弥という男で、本藩の福岡藩から移ってきた人物だった。坂田の妻「とよ」は、やがて、姫野から捨てられて男狂いとなり、家の若党と出奔して、博多の遊女に売られて遊女となるが、この姫野三弥という男が、実は、陰謀を働く手練れのくせ者だったのである。姫野三弥は、小四郎に稽古館で武術を教えてくれた藤田伝助の一人娘「千紗」にも手を出し、「千紗」は姫野に捨てられて自害していたのである。

 そういう中で、小四郎は「もよ」との婚儀を果たして間家の養子となり、まだ無役ではあったが、家老の宮崎織部から依頼されて、緒方春朔(しゅんさく)の種痘のための天然痘患者から採取した落痂(瘡蓋など)を取りに福岡の医師香江良介と共に福岡に行くことを命じられる。福岡藩と秋月藩は軋轢を抱え、福岡藩が何とかして秋月藩を取り込もうと画策していることがあり、福岡藩が秋月藩の有名な医師である緒方春朔(しゅんさく)の名声を阻止しようとするかもしれなかったからである。小四郎は既に種痘を受けており、天然痘にかかる心配はないし、腕も立つ。黒崎の藩の蔵屋敷に勤めていた坂田第蔵と共に働くように命じられる。

 坂田第蔵は黒崎から福岡に来て、遊女となった妻の「とよ」に会おうとするが、「とよ」は四十過ぎの職人と心中しており、坂田の姫野への恨みは深いものとなっていた。

 福岡で種痘のための落痂を入手し、既に福岡にいた武術の師範の藤田伝助と会い、帰路についたとき、彼らは何者かに襲われ、藤田伝助は鉄砲で撃たれて死ぬ。実は、ここにも福岡藩の意向を受けた姫野三弥が働いていたのだが、まだ、そのことは明らかにされない。福岡藩と秋月藩の確執が激しくなり、軋轢が強くなっていくのである。「伏影」と呼ばれる福岡藩の隠密の暗躍が暗示される。

 他方、秋月眼鏡橋と呼ばれることになる石橋の建設が進み、そうしているうちに江戸で親交を結んでいた柔術の達人である海賀藤蔵が訪ねて来て、柔術師範として召し抱えられることになったりするが、家老の渡辺帯刀が大阪で馴染みになった芸妓の「七與(ななよ)」を、大金を使ってひかせて秋月に連れ帰り別邸を与えたことが起こったりする。「七與」には惚れた男がいたが、渡辺帯刀は「七與」を自分のものにするために、中間に殺させており、その中間が罪の重さに絶えかねて自殺するのである。渡辺帯刀が自分の罪を隠すために密かに中間を殺したのではないかとの噂が立つ。

 間小四郎は、石橋建設の見学にいったおりに長崎から出てきていた石工の吉次と知り合うが、この吉次に惚れていた村娘の「いと」を家老の宮崎織部が姫野三弥の甘言で召し抱えようとする出来事が起こる。そして、石橋が完成するが、崩れ落ちてしまい、石工の吉次はその責任を問われる。石橋建設を命じた藩主の黒田長舒(ながのぶ)が死去し、その子の長韶(ながつぐ)が後を継ぎ、そのことで石工たちは赦免されるが、家老の宮崎織部が石工たちの赦免の代わりに「いと」を女中奉公に出させて妾にしたという噂が飛び交うようになる。

 こうした中で、次第に家老の宮崎織部と渡辺帯刀に対する糾弾の声が高まり、藩の財政の逼迫と渡辺帯刀が藩金を使って私腹を肥やそうとしたことなどが明らかになり、石橋完成の折に「いと」を返してくれと直訴した吉次が警護の姫野三弥に斬り殺される事件が起こったりして、ついに、間小四郎らの若手が、小四郎を中心にして藩政改革を訴えるようになっていく。間小四郎は、福岡藩から来ていた姫野三弥の陰謀とも知らずに、彼の嘘で固めた策略にのり、親藩である福岡藩の力を借りて、ついに宮崎織部と渡辺帯刀の罷免に立ち上がっていくのである。

 こうして、通称「織部くずれ」といわれる家老の罷免と流罪という藩政の大変革が起こったのである。福岡藩の中老であった村上大膳は、福岡に滞在していた藩主の長韶(ながつぐ)に問いただし、大目付を送り、家老の宮崎織部らに厳罰を科したのである。間小四郎らは、その功績で、それぞれが藩の重職に就くことになったが、藩政は福岡藩の監督の下に行われるようになってしまう。

 間小四郎の意図とは異なり、秋月藩は全く福岡藩の指導の下に置かれ、稽古館の教授であった原古処は解任され、稽古館は閉鎖された。そして、それまで自主独立の気運を高めていた荻生徂徠(おぎゅうそらい)の系統の徂徠学ではなく、幕府が勧める朱子学を行うように命じられたりする。間小四郎は、自分がしたことがよかったのかどうか悩むのである。

 少し長くなりすぎたので、続きは次回にする。物語の経過を長く書いたのは、作品性を語る以上に、作品が示そうとする事件の顛末の中での主人公の苦悩と矜持を明確にしたいと思うからである。

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