2012年2月22日水曜日

鳥羽亮『ももんじや 御助宿控帳』

今日は少し曇っているが、このところ寒さが緩み、嬉しい限りである。青年のころに『若者たち』という映画を見て、その中で田中邦衛さんだったかが「春になると嬉しくって仕方がない。もう寒さに震えなくてすむから」というような台詞を語られていたのが妙に頭に残っていて、日々の生活に追われる中で、今頃の季節によく思い出す。

 1970年代、多くの青年たちが「自立」を求めていた時代だった。だが、この国は、いつから至極当たり前のように「他人のふんどしで相撲を取る」ような貧しい発想をするようになってきたのだろうかと、今の政府の動きを見ながら思ったりする。全体的に寄生虫のような発想しかしなくなり、「自立の思想」の影さえ見えなくなった気がする。貧しいけれども自分の足で凜と立つ姿勢をとることを思い知ったのではないか。

 そんなことをぼんやり考えながら、他方では鳥羽亮『ももんじや 御助宿控帳』(2009年 朝日新聞出版朝日文庫)を気楽に面白く読んだ。「ももんじや」というのは、江戸時代に猪や鹿、あるいは鳥や兎といった獣肉を食べさせた小料理屋で、そこを人助けの商売の拠点として集う御助人たちの活躍を描いたものである。

 御助宿でもある「ももんじや」を営むのは、元は深川州崎で地回り(やくざ)をしていたといわれる還暦を過ぎた茂十で、茂十は十五歳になる孫娘の「おはる」と「ももんじや」を切り盛りしながら、御助宿の元締めとして御助商売に携わっているのである。

 この「ももんじや」に居候し、御助人の中心になっているのは、百地十四郎という二十五歳の若侍である。百地十四郎は、元は二百石の旗本家の三男だったが、妾腹で、子どものころから家臣のような扱いを受けてきていた。だが、不憫に思った父親が剣道だけは習わせ、剣の才能もあり、北辰一刀流の遣い手として剣名をあげるほどの腕前になった。しかし、兄弟子に誘われて賭け試合をし、打ち負かした相手に恨まれて襲われ、はずみで斬り殺してしまい、破門されて自堕落な生活を続け、「ももんじや」に入り浸るようになって、ついには居候のようになってしまったのである。

 物語は、この「ももんじや」の前の通りで、年端もいかない十五、六の少年と妹と見られる十三、四の少女が四人の武士に取り囲まれて斬り合いをしているところから始まる。「ももんじや」に出入りし、膏薬売りをしながら御助人の仕事もしている助八がその斬り合いを知らせに百地十四郎のもとに駆け込み、十四郎が武士に取り囲まれていた少年と少女を助けるところから始まっていくのである。

 少年は出羽国滝園藩(作者の創作だろう)の井川泉之助と名乗り、少女はその妹の「ゆき」と名乗る。二人は殺された父親の仇を討つために江戸に出てきたのである。だが、そこには滝園藩における権力争いが絡んでいて、藩の大規模な普請工事に絡んで豪商と結託して私腹を肥やそうとしていた国許の次席家老の権力掌握の野望が渦巻いていたのである。

 井川兄妹が江戸で身を寄せた叔父は、彼らを助けたのが御助人であることを知り、御助宿である「ももんじや」に二人の仇討ちの助力を願い出る。「ももんじや」では、その依頼を受けて、百地十四郎や同じ御助人である牢人の波野平八郎、助八や廻り髪結いをしている佐吉、元は修験者だったという坊主頭の伝海、女掏摸であった簪を使う「お京」らによって、二人の仇を捜し出していくのである。

 百地十四郎は二人に仇を討たせるために、二人に剣を教え、二人は「ももんじや」の御助人によって見事に仇を果たし、それによって内紛していた藩の騒動も収まっていくという結末となる。

 物語の展開そのものや登場人物たちの設定などは、数多の時代小説のどこでも見かけるものであるが、鳥羽亮のこなれた文章と兄妹の修行や剣を交えての争いの場面などは、なるほど剣道を知る者の作だと思わせられ、娯楽小説として気楽に読めるものとなっている。

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