驚くほどの暑さが続いている。これほど暑さが長く続くさすがに体力的に厳しい。だが、乙川優三郎『生き』(2004年 文藝春秋社 2005年 文春文庫)を非常に感動して読んだ。これは2002年の直木賞受賞作品だが、表題作「生きる」の他に、「安穏河原」、「早梅記」の三編の中編を収めた中編集である。いずれの作品も、文字通り「生きる」こと、あるいは「どうにもならないことの中で真摯に生きること」を主題としたものであり、主人公たちだけでなく、主人公たちを支えた女性たちの生き方にも深く胸を打たれた。
第一作「生きる」は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、武家の「忠義」の証しとして行われていた「殉死」の問題を取り扱いながら、「生きることの苦闘を抱えた中での生」を直接物語るものである。「殉死」は、主君の死に続いて忠義の臣が追腹を斬ることであり、権力者が権力者であることの証しとなり、愚かにも「殉死者の数」を競うようなところがあったのである。
石田又右衛門は、関ヶ原の合戦で父親が浪人となり、少年の頃は非常に貧しい暮らしを強いられていたが、やがて父親がある藩の藩主によって召抱えられるようになり、ようやく、貧を脱して、以後、藩主の寵遇を得て順調に出世し、馬廻り役五百石を賜わるようになっていた。娘は既に嫁ぎ、孫もでき、息子も成長していた。気がかりといえば、妻の佐和が病がちであったことと息子が苦労知らずで直情的に育ったことくらいであった。
ところが、石田家を取り立ててきた藩主が死期を迎えるようになり、「殉死」が取りざたされるようになってきた。藩主は才覚にも自覚にも富み、穏やかで徳もあり、家中で慕われていたので、彼の後を追って追腹を斬る者が続出することが予測された。追腹を斬ることは主君に仕える武しらしいことであると考えられていた。石田又右衛門自身は、当然、藩主の寵遇を得て来てここまでこられたのだがら、追腹を斬って殉死の覚悟を決めていたし、藩内でも彼が殉死するのが当然とみなされていた。
しかし、筆頭家老の梶谷半左衛門から呼び出され、旗奉行の小野寺郡蔵と共に、家中でやたら追腹を斬っていたずらに有為の人物を失うことを避けるために追腹禁止を出すことを話し出されて、二人とも追腹を斬らない誓紙を出すよう依頼される。二人は不承不承ながらそれを受け入れ、追腹をしないことを誓う。
そして、藩主が江戸表で亡くなり、梶谷家老命で追腹禁止令が出される。だが、藩主の遺体が国もとに運ばれてくる途中で、藩主の小姓、又右衛門とは旧知の郡代、近習など、次々と追腹を斬って殉死する者が現れた。又右衛門の周囲でも、この時とばかり彼に追腹を斬ることを露骨に勧めるものたちも現れ、又右衛門の息子も誇りのために父親の武士としての当然の殉死を望んだりする。
そういう中で、又右衛門の娘が嫁いだ先の婿が殉死をするのではないかと案んじられた。娘は、そのことを恐れ、又右衛門になんとか殉死をしないように説得してくれと依頼されていた。だが、藩主の葬儀の際に娘の婿は、幼い子を残して追腹を斬ってしまった。そして、娘から婿の追腹を止めて欲しいと頼まれていたにも関わらず、そのような事態になったために、娘の家から義絶されてしまう。
追腹禁止令が出されたとはいえ、家中では見事に殉死した者たちへの喝采が叫ばれ、殉死するだろうと思われていながらいに残っている石田又右衛門に非難と侮蔑の目が向けられていった。藩内でも、追腹禁止令を出した首席家老を追い落とすために、殉死を奨励する一派の力が強くなり、殉死者に対して始めは厳しい処罰がなされたが、次第に処罰が緩められ、又右衛門の娘の家も減封されたものの家の存続は保証された。だが、夫をなくした娘は次第に精神の錯乱を来たすようになっていた。藩内の雰囲気から首席家老の梶谷半左衛門は追い落とされて反対勢力が実権を握るようになっていた。そんな中で、又右衛門の息子も、自分の父親を恥じて自死する。
追腹をしない誓約をした石田又右衛門は、あらゆる屈辱に耐えながら生きていた。そんな中で、妻の佐和が、彼が死なないでいることを喜んでくれて、それだけが彼の支えであり、慰めとなっていた。だが、その佐和も病が重くなり死を迎え、又右衛門は、全くの孤独となった。藩内で、彼は臆病者と罵られ針の筵に座っているような心地であった。
そうして2年の歳月が流れ、ある日、同じように追腹を斬らない誓紙を立てた小野寺郡代と出会う。彼もまた、同じように人々の蔑みを耐えて生き、そしてそれに疲れていた。そして、それから数日後に、追腹は斬らなかったものの彼は餓死したのである。
そのことがあってから石田又右衛門は自らを改める。人々の蔑みを耐えることだけの日々をやめて、「お前らに人間の値打ちがわかるか」という思いをもって堂々と生きる道を選ぶのである。こうして、月日が流れ、彼は年老いた。その間に藩の執政は二度変わり、殉死を称えていた者が実権を握ったが対したことはできず、再び罷免されていた梶谷半左衛門が首席家老が復権した。その復権には、徳川幕府が正式に殉死を禁じたことも大きかった。又右衛門は、それらを眺めながら、「陋習にとらわれてきたのは自分を侮蔑した家中であって、そのくせ絶大な権力が決めたことには従順ではないか。物事が正しいか否かは権力の意向とは別のものであるのに、自ら判断を放棄したも同然だろう。そういう輩がのうのうと生き長らえて、一途な人が死んでいった」(文庫版 96ページ)と思うのである。
彼は、毅然として生きることを決め、そのように生きてきたが、孤独であった。だが、長い間彼に仕えて来た女中から彼が追腹を斬らずに生きることを喜んだ病んでいた妻の佐和が「何を幸せに思うかは人それぞれで、たとえ病いで寝たっきりでも日差しが濃くなると心も明るくなるし、風が花の香を運んでくればもうそういう季節かと思う、起き上がりその花を見ることができたら、それだけでも病人は幸せです」と言っていたことを聞く。その時、義絶されていた娘が成長した孫を連れて来たのである。「又右衛門はもう一度、背筋を伸ばし、かたく拳を握りしめた。震える唇を噛みしめ、これでもかと凛として二人を見つめながら、やがておろおろと
なんという壮絶な終わり方だろうかと思う。「おろおろと泣き出した」という短い一文が、この物語の主人公の生き様のすべてを物語る。「生きる」、それはすべてこの瞬間に凝縮され、この瞬間があれば、人は生きていける。そういうことが、しみじみと伝わる。
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