2014年4月4日金曜日

神坂次郎『およどん盛衰記 南方家の女たち』(1)

 3月末に横浜から熊本に転居した。転居した当日は、熊本は桜が満開で、目を見張るほどの春日の光景が美しく広がっていたが、花散らしの雨が降り、今日は、肌寒い日になっている。これまで引越しの作業に追われていた。自宅と仕事場の二重の引越しとなったために落ち着くまでひどく日数がかかってしまった。まだ、自宅でのネット環境を整えておらず、これを記すのも随分と久しぶりになった。かつて夏目漱石が乗り越えることができなかったようないくつかの拒絶を感じないわけではないが、受容の壁をどう乗り越えるかがしばらくの課題だろう。

閑話休題。豪放磊落、奇行で知られた稀代の生物学者で、民俗学の創始者でもある愛すべき学者の南方熊楠の生活を描いた神坂次郎『およどん盛衰記 南方家の女たち』(1994年 中央公論社 1997年 中公文庫)を、彼なら「さもありなん」と抱腹しつつ読んだ。「およどん」というのは「女中さん」のことで、本書は、南方家に奉公した七人の女中たちとの交流を通して、熊楠の奇行ぶりや彼の周囲の人たちとの面白おかしい生活ぶりを描いた作品である。

 南方熊楠のことを簡単に記しておこう。
南方熊楠ほど自由奔放に生き、しかも「知の巨人」と言われる人はいないかもしれないと思う。彼は、幕末の1867年(慶応3年)に、現在の和歌山市(和歌山城下橋丁)の金物商の次男として生まれ、子どもの頃から天才ぶりを発揮したと言われる。なにせ、1876年(明治9年 9歳)の時に、当時の百科事典とも言うべき『和漢三才図会』全105巻を借りて読み、これを自分の記憶だけを頼りに筆写し始めたり(5年をかけて完成している)、12歳までに当時の植物学書であった『本草綱目』や『大和本草』、日本地理書であった『諸国名所図会』の写筆を完成させたりしている。記憶力がずば抜けており、一度会った人や出来事も細部に至るまで良く覚えていたが、学校はあまり好きではなく、興味のない科目などは見向きもせずに、散漫な態度をたびたび教師に叱られたりしている。植物採集に熱中するあまり、山に入って数日行方不明になるという騒動も起こしている。

 普通の優秀な勉学少年とは全く異なり、勉強は好きだが学校の勉強は嫌いというタイプで、胃の内容物を自由に口から吐き出すことができたらしく、喧嘩をしたら胃の中のものを吐き出して相手にかけたために、喧嘩では一度も負けたことがないという奇行が既にこのころからあったということが伝えられている。

 その彼が中学時代(和歌山中学校:現 和歌山県立桐蔭高校)に出会った先生が素晴らしく、その先生(鳥山啓)から博物学を勧められて、自分の進路を決め、上京して共立学校(現:開成高校、当時は授業は英語)に進み、この時に世界的に有名な植物学者のM.バークレーが菌類6000種を集めたと知って、自分はそれ以上の標本を造り、図譜を作ろうと思い立ったりしている(この決意は実行され、後に15000枚にも及ぶ英文の『彩色生態写生図』をまとめて、日本菌請を集大成している)。この頃も授業よりも読書に熱中する日々だった。

 18歳で東京予備門(現:東京大学)に入学するが、学業には全く興味を示さずに、上野の図書館に通って和漢洋書を読みあさり、遺跡発掘や博物標本採集に明け暮れていた。同窓生には夏目漱石や正岡子規などもいたが、中間試験で落第したために、東京予備門と退学した。「こんなことに一度だけの人生をかけるのは馬鹿馬鹿しい」というのが彼の弁であった。そして、父親を説得して米国に留学する。

 米国ではミシガン農業大学(現:ミシガン州立大学)に入学するが、一年も経たないうちに寄宿舎で飲酒を禁止する規則に触れて放校される(一応自主退学になっている)。だが、動植物の観察と読書に明け暮れ、この時にシカゴの地衣類(菌類と藻類の共生生物)学者W.W.カルキンスに師事して標本製作などについて学んでいる。ミシガンには結局、4年ほど住んでいたが、やがてフロリダに移り、生物を調査しながら生活のために中国人の食品店で住み込みで働いた。そして、この時、新しく発見した緑藻について科学雑誌「ネイチャー」に発表し、国立博物館などから注目されている。

 だが、その年の9月(1891年 24歳)にキューバに採集旅行をし、石灰岩生地衣を発見するも、なぜかそのままサーカス団に入って団員として中南米を旅行している。翌年、1月にフロリダに戻って先の中国人の食品店に住みこむが、9月にイギリスに渡り、その翌年に「ネイチャー」誌に初めての正式な論文となる「極東の星座」が掲載された。これは天文学会の懸賞論文に応募したものだったと言われる。そして、大英博物館に出入りして、考古学、人類学、宗教学などの蔵書を読みふける日々を過ごす。やがて、日本文学研究者でロンドン大学の事務総長をしたF.V.ディキンズと出会い、彼の翻訳を手伝うことで経済的な支援を受けながら、大英博物館の東洋図書目録編纂係りとしての職を得た。

 このディキンズとの関係でも面白い逸話が残されており、ディキンズが『竹取物語』の英訳の草稿に目を通してもらおうと南方熊楠に依頼したら、熊楠はページをめくるごとに翻訳部分の不適切さを鋭く指摘し、推敲するように命じたのである。日本に精通しているという絶対的な自信を持っていたディキンズは、30歳も年下の熊楠の不躾な態度に腹を立てて「目上の人にも敬意を払えない野蛮人め」と罵ったが、熊楠もディキンズの傲慢な態度に激昂して「権威に媚びて明らかな間違いまでも不問にし、阿諛追従するような者など日本にはいない」と怒鳴り返し、喧嘩別れになったのである。だが、しばらくして熊楠の言い分に得心したディケンズは、その後、終生、熊楠の友人として彼を支えた。熊楠は語学が堪能で欧米語はもちろんのこと、1819カ国語をこなしたといわれ、彼の語学習得方法は、「対訳をよく読み、あとは酒場に出向いて会話から覚える」というものであったらしい。

 大英博物館の職員として勤める時にも面白い逸話があり、当時は東洋人に対する蔑視もあって、閲覧に来た人物に馬鹿にされ、熊楠は大勢の人の前で彼に頭突きをくらわせて、3ヶ月の入館禁止処分を受け、さらにその1年後に声高に騒ぐ人物を殴打して、ついに博物館から追放処分を受けている。だが、彼の学才を認めてこれを惜しむ有力なイギリス人たちから嘆願書が出されて復職したのである。このロンドンに滞在中に、亡命していた中国の孫文と知り合い、親交を結んだ。熊楠31歳、孫文32歳で、意気投合したといわれる。

 だが、ついに困窮極まりなくなり、1900年(明治33年 33歳)で帰国し、大阪を経て和歌山に居住し、熊野で植物採集をしたりし、和歌山南部の田辺(現:田辺市)を生涯の居住地と定めて、家督を継いで造り酒屋として成功していた弟の援助で家を借りて、研究に明け暮れた。熊楠は生涯定職に就かなかったために収入も乏しく、父親の遺産や弟の援助に頼っていたが、弟は、何かにつけて金を借りに来たり、大酒飲みで盛り場に出ては芸者を上げて大騒ぎをしたり、喧嘩をしては警察にやっかいになるなどの奇行をする熊楠のことを快くは思っていなかったと言われる。しかし、経済的な援助は続けていた。商人として成功した真面目な弟のような人にとって熊楠のような人間は理解の限度を超えた人物だったのである。

 1905年にディキンズとの共著で『方丈記』の英訳を完成させ、1906年に田辺の神官の四女であった「松枝」と結婚した。熊楠40歳、松枝28歳であった。この時も、松枝を紹介されて惚れた熊楠は、松枝に会う口実に、汚い猫を何度も連れて行って、松枝に洗ってもらうという奇策を講じている。熊楠は猫好きで、ロンドン時代には布団代わりに猫を抱いて眠ったといわれるほどで、彼が飼う猫の名前は、どの猫もいつも「チョボ六」と名づけていた。松枝は熊楠のあまりの生活の破天荒ぶりに腰を抜かしたことだろうが、生涯彼を支える良き伴侶となった。熊楠は、この年に、採取した粘菌の一種が新種として認められるなどの業績を残している。彼は生涯に10種類の粘菌の新種を発見している。

 熊楠の生涯のエピ―ソードは、まことに面白く、本書の扉にも「予の一生すべて小説同様に面白い。・・ちょっとしたつづき物よりも、予の伝のほうが面白かろうと思うが如何」という「南方熊楠語録」の一節が記されているが、これだけの人物はそうそうお目にかかれるものではない。

 本書は、その熊楠が結婚し、その後の奇行振りを、じんわりとした彼の温かみを共に描き出し、熊楠が愛すべき人物であったことを描き出しているのである。長くなったので、その後の熊楠の生涯と本書については次回記すことにする。

0 件のコメント:

コメントを投稿