昨日の南風の影響で、気温はまだ高いとは言えないが、初春を思わせる日差しが注いでいる。続けている論文の整理も、昨日からようやく大学教員時代に書いたものに着手し始めた。使っていた言葉や概念が難解すぎるきらいはあるが、自分整理の第一歩としてやっていることで、二度とは書けないようにも思える。言語感覚が全く異なって来ているのを感じたりする。
この2~3年、何でも中途半端に終わっているような気がして、埃をかぶっていたフルートも引っ張り出して吹いてみたが、満足な音が全く出ない。結局、マスターしていなかったということで初歩から始めることにした。継続していないとすぐにだめになるには本物にはなっていないということだろう。S.キルケゴールの「反復」の概念を思い起こしたりする。
昨夜から諸田玲子『山流し、さればこそ』(2004年 角川書店 2008年 角川文庫)を読んでいる。この作品は、江戸で小さな出世街道を歩んでいた御家人が、それを妬む者たちに足を引っ張られ、いわれなき罪に定められて甲府勝手小普請入りを命じられ、妻と子と下僕を連れて鬱屈した思いで甲府へ赴き、そこで新参者へのいじめや虚無感と向き合いながら、「さればこそ」と、自分の人生を探し出していく物語である。
「山流し」とは江戸から山地である甲府への左遷であり、勝手小普請組は、特に何もすることがなく、いわば「出口なき無聊」を囲わなければならない。そのやりきれなさを抱きながら人生を閉ざされてしまった主人公の姿は、現代人の姿でもあるだろう。
諸田玲子は、左遷やいじめといった閉塞状況に置かれた主人公を描くことによって「現代の病」を時代小説の形で展開し、そこで「人が何によって生きるのか」という大きな問題をさりげなく描き、逆境の中でこそ見えてくるものがあることを示す。
「笛吹川を渡ったところで雨がきた。
矢木沢数馬は菅笠の縁を持ち上げ、にわかに明るさの失せた空を眺めた。かなたにあったはずの雨雲が思わぬ速さで迫り、今や頭上をおおっている」(文庫版 7ページ)
という書き出しが、主人公の状況そのものを表わす優れた書き出しになっている。文学者としての諸田玲子の成熟度を示す絶妙な書き出しであり、思わずうなってしまう。
まだ読み始めたばかりで、最近は夜もすることが多くなってなかなか進まないが、続きは今夜にでも読もう。今日は散策日和ではある。
2010年1月29日金曜日
2010年1月28日木曜日
佐藤雅美『百助嘘八百物語』
薄墨を流したような雲が広がって流れていく。午後からは雨の予報も出ているが、洗濯物がたまってしまっているので朝から洗濯機を回した。そろそろ散髪もしなければあまりにひどい状態になっている。
仙台までの往復で佐藤雅美『百助嘘八百物語』(2000年 講談社 2004年 講談社文庫)を読んだ。金もないし能力もない、うだつの上がらない鳶人足で日雇稼ぎをしている「辰次」という青年が腹痛に苦しむ「百助」という老人を助けたことから、この老人の指示に従って江戸から長崎、そして大坂で一攫千金を夢見て詐欺まがいの行為をしながら、ついに大阪の米相場で大金を手にするまでを描いた痛快な作品である。
作者の佐藤雅美は、江戸時代の市場システムと社会構造、そして「金」で動く人間の心理に対する明快な洞察を背景としてもっているので、一獲千金を得る夢物語にもかかわらずリアリティをもった作品になっている。
「辰次」に助けられた「百助」は、実は大阪の大手の両替商の別家の息子だったのだが、米相場に手を出し、失敗したために大阪所払となり、江戸へ出てくる途中で美貌の女雲助から持ち金を盗られ、一文なしで日雇仕事をしていたが、「辰次」と出会うことによって、まず、無尽講でいかさまをして大金を作り、次にそれを元手に金儲けばかりを企む札差し(今で言えば金融機関)の「儲け心」を利用してさらに大金を稼ぎ、大名家の国替えにからむ経済変動を利用したり、両替商と飛脚問屋(今で言えば運送会社)が企んだ詐欺事件を暴いてその上前を強請り取ったり、大名家の家督相続に絡む御家騒動の真相をつかんで城代家老を強請ったりして大金を稼いでいく。
また為替相場で、銭座(銀行)の企みを暴いて大儲けをしたかと思うと、長崎まで出かけて賄賂で肥っていた長崎奉行の家老と悪徳商人を脅して大金をせしめる。そして、ついに大阪での米相場に乗り込み、見事に数万両もの金を稼ぐのである。
「百助」が大金をせしめていくのは、いずれも強欲な商人や自分の利のために企みを謀る武家であり、表には出せない金であって、そういう「ゼニの種」を探して、それをかすめ取っていく手腕と知恵を働かせ、作戦を練り、痛快に振る舞っていく。ただ、最後の大勝負と出た米相場では、うだつの上がらない鳶人足であった「辰次」が自分にとっての「福の神」であると信じる心と「天災による米相場の上昇」という神頼みである。こうしたところが、知恵と行動力をもち合わせている「百助」という老人の人間味を作って、「辰次」との関係や彼に仕えていく浪人たちや商家の下働きや手代などの関係を豊かなものにしている。
「ゼニ儲けを夢み、ゼニがすべて」ではあるが、こうした人情味なしには「ゼニは働かない」。百助の機敏がそれを生かしていくのである。商品相場で金儲けを企む小説としては松本清張の『告訴せず』(1974年 光文社)や企業小説を描いている清水一行という人の作品などがあるが、佐藤雅美の『百助嘘八百物語』は、人情味あふれる物語になっている。
人間が貨幣経済を生みだして以来、人間は貨幣に支配され、「ゼニがゼニを生む」仕組みを作り上げてそれに翻弄されてきて、経済支配社会を形成しているが、金銭を取り巻く状況は現代も少しも変りなく、そこではシビアな物質主義が横行する。それを利用し、それに立ち向かう「百助」が、最後が「信じる心と神頼み」であるというのも、あまりにうまくいきすぎて「夢物語」ではあるが、いい。そして、「世の中はゼニでっせ」と言い切るところが、胡散臭くなくていい。現実には、「金は儲けようと思わないと儲けることができないが、金儲けを企むものは必ず人生を失う」ことも事実ではある。
本書の文末、
「二万両の金とお美津・新太郎母子(「辰次」が貧にあえぐ母子と知り合い、これを助け、思いを寄せる母子)――。
夢だろうと辰次は思った。ほっぺたをつねったら、覚めるに違いないとも。つねってみようかと、辰次はほっぺたにそっと手をやったが、覚めたらまずいと引っ込めた。」(文庫版 343ページ)
という結末の言葉が味わい深い。
仙台までの往復で佐藤雅美『百助嘘八百物語』(2000年 講談社 2004年 講談社文庫)を読んだ。金もないし能力もない、うだつの上がらない鳶人足で日雇稼ぎをしている「辰次」という青年が腹痛に苦しむ「百助」という老人を助けたことから、この老人の指示に従って江戸から長崎、そして大坂で一攫千金を夢見て詐欺まがいの行為をしながら、ついに大阪の米相場で大金を手にするまでを描いた痛快な作品である。
作者の佐藤雅美は、江戸時代の市場システムと社会構造、そして「金」で動く人間の心理に対する明快な洞察を背景としてもっているので、一獲千金を得る夢物語にもかかわらずリアリティをもった作品になっている。
「辰次」に助けられた「百助」は、実は大阪の大手の両替商の別家の息子だったのだが、米相場に手を出し、失敗したために大阪所払となり、江戸へ出てくる途中で美貌の女雲助から持ち金を盗られ、一文なしで日雇仕事をしていたが、「辰次」と出会うことによって、まず、無尽講でいかさまをして大金を作り、次にそれを元手に金儲けばかりを企む札差し(今で言えば金融機関)の「儲け心」を利用してさらに大金を稼ぎ、大名家の国替えにからむ経済変動を利用したり、両替商と飛脚問屋(今で言えば運送会社)が企んだ詐欺事件を暴いてその上前を強請り取ったり、大名家の家督相続に絡む御家騒動の真相をつかんで城代家老を強請ったりして大金を稼いでいく。
また為替相場で、銭座(銀行)の企みを暴いて大儲けをしたかと思うと、長崎まで出かけて賄賂で肥っていた長崎奉行の家老と悪徳商人を脅して大金をせしめる。そして、ついに大阪での米相場に乗り込み、見事に数万両もの金を稼ぐのである。
「百助」が大金をせしめていくのは、いずれも強欲な商人や自分の利のために企みを謀る武家であり、表には出せない金であって、そういう「ゼニの種」を探して、それをかすめ取っていく手腕と知恵を働かせ、作戦を練り、痛快に振る舞っていく。ただ、最後の大勝負と出た米相場では、うだつの上がらない鳶人足であった「辰次」が自分にとっての「福の神」であると信じる心と「天災による米相場の上昇」という神頼みである。こうしたところが、知恵と行動力をもち合わせている「百助」という老人の人間味を作って、「辰次」との関係や彼に仕えていく浪人たちや商家の下働きや手代などの関係を豊かなものにしている。
「ゼニ儲けを夢み、ゼニがすべて」ではあるが、こうした人情味なしには「ゼニは働かない」。百助の機敏がそれを生かしていくのである。商品相場で金儲けを企む小説としては松本清張の『告訴せず』(1974年 光文社)や企業小説を描いている清水一行という人の作品などがあるが、佐藤雅美の『百助嘘八百物語』は、人情味あふれる物語になっている。
人間が貨幣経済を生みだして以来、人間は貨幣に支配され、「ゼニがゼニを生む」仕組みを作り上げてそれに翻弄されてきて、経済支配社会を形成しているが、金銭を取り巻く状況は現代も少しも変りなく、そこではシビアな物質主義が横行する。それを利用し、それに立ち向かう「百助」が、最後が「信じる心と神頼み」であるというのも、あまりにうまくいきすぎて「夢物語」ではあるが、いい。そして、「世の中はゼニでっせ」と言い切るところが、胡散臭くなくていい。現実には、「金は儲けようと思わないと儲けることができないが、金儲けを企むものは必ず人生を失う」ことも事実ではある。
本書の文末、
「二万両の金とお美津・新太郎母子(「辰次」が貧にあえぐ母子と知り合い、これを助け、思いを寄せる母子)――。
夢だろうと辰次は思った。ほっぺたをつねったら、覚めるに違いないとも。つねってみようかと、辰次はほっぺたにそっと手をやったが、覚めたらまずいと引っ込めた。」(文庫版 343ページ)
という結末の言葉が味わい深い。
2010年1月26日火曜日
佐藤雅美『半次捕物控 髻塚不首尾一件始末』(2)
昨日しなかった掃除を朝から初めて、柱や壁まで拭きあげて、一息入れ、午後に出かけなければならない仙台までの新幹線の時刻を調べ、少しの時間があるのでパソコンを開いてこれを書いている。よく晴れた冬の日で、少々寒いが窓を開け放つと気持ちがいい。
昨夜、佐藤雅美『半次捕物帳 髻塚不首尾一件始末』を読み終えた。表題作ともなっている第六話「髻塚不首尾一件始末」は、あまり質の良くない町火消しと植木職人の喧嘩に半次が巻き込まれ、危ういところを風鈴狂四郎に助けられたりするが、結局、町火消しがその喧嘩を利用して金集めのために「髻塚」なるものを作って、そのことが当時の林大学頭衡(はやしだいがくのかみ たいら)の知るところとなり、町奉行を通してとがめられることになって、事なきを得ていくという話である。
「髻」というのは、頭上で頭髪を束ねたもので、ひらたく言えば「ちょんまげ」そのもので、「髻を切る」ことは、本来は生命をかけたことであるか出家することを意味した。町火消しが言いがかりをつけた喧嘩でこれを利用して、塚や記念碑を作り、法要を営むことで商家から多額の御布施をもらおうと画策したのである。
ここには、当時の町火消しの置かれた状況や彼らが何で生計を立てていたかがきちんとした背景となっており、生きるためにはあの手この手を考えなければならない事情は現代も同じで、そうした作者の生活経済に対する感覚が江戸の市井を生き延びていく人々の姿に反映されている。
一方、物語の方は、「第一話」で蟋蟀小三郎と風鈴狂四郎によって煮え湯を飲まされた大名が二人を立ち会わせるために画策して江戸城吹上御殿での「御前試合」なるものを計画し、功名を考える蟋蟀小三郎と再仕官によって国元で貧しい暮らしをしている母との暮らしを考える風鈴狂四郎が、共に、その「御前試合」の計略を知りながらも、その試合に出ていくことを決心していくという展開を見せる。
第七話「小三郎岡惚れのとばっちり」は、「第五話」で登場した蟋蟀小三郎に無理やり弟子にされた男の姉に、女好きの小三郎が「岡惚れ」し、その姉に起こっている縁談の相手を調べてくれるように半次に依頼する。半次が調べていくと、姉の縁談相手のもとの雇い主が、旗本家の養子縁組によって金銭をだまし取っていたことが判明し、それを恐れた雇い主が縁談相手を殺すという事件の顛末が描かれていく。
第八話「命あっての物種」は、いよいよ「御前試合」が開催されることになり、それに出場する一組の武芸者が互いに遺恨を抱くものであり、「御前試合」が「遺恨試合」となって、ついに途中で取りやめになるという出来事を描いたもので、当時(家斉の時代)におかれていた武芸者の顛末が描き出されていく。風鈴狂四郎と蟋蟀小三郎は、結局は立ち会うことはなかったが、風鈴狂四郎は、その腕が見込まれ、再仕官して国元に変えるし、蟋蟀小三郎は「何事も命あっての物種」と思っていく。
こうした八話の連作であるが、作者は、人が生きる上で不可欠な経済、つまり金(ゼニ)で人間が生きている姿を、それぞれ、町火消しや浪人、武芸者、そしていうまでもなく岡っ引き、博徒の事情を描き出すことで、より現実的な人間の姿を描いており、作品のリアリティということからいえば、まさにリアリティにあふれた、しかも娯楽味の大きい作品に仕上げている。
それに、描き出される主人公の半次や蟋蟀小三郎、風鈴狂四郎といった人物にも味があって、それぞれの立場は異なっているが、物事に捕らわれずに飄々と自分の生き方をしている姿は、「金」を中心に動くとはいえ、読んでいてすがすがしくさえある。
今日はこれから新幹線で、また別の佐藤雅美の作品を読もうと思っている。
昨夜、佐藤雅美『半次捕物帳 髻塚不首尾一件始末』を読み終えた。表題作ともなっている第六話「髻塚不首尾一件始末」は、あまり質の良くない町火消しと植木職人の喧嘩に半次が巻き込まれ、危ういところを風鈴狂四郎に助けられたりするが、結局、町火消しがその喧嘩を利用して金集めのために「髻塚」なるものを作って、そのことが当時の林大学頭衡(はやしだいがくのかみ たいら)の知るところとなり、町奉行を通してとがめられることになって、事なきを得ていくという話である。
「髻」というのは、頭上で頭髪を束ねたもので、ひらたく言えば「ちょんまげ」そのもので、「髻を切る」ことは、本来は生命をかけたことであるか出家することを意味した。町火消しが言いがかりをつけた喧嘩でこれを利用して、塚や記念碑を作り、法要を営むことで商家から多額の御布施をもらおうと画策したのである。
ここには、当時の町火消しの置かれた状況や彼らが何で生計を立てていたかがきちんとした背景となっており、生きるためにはあの手この手を考えなければならない事情は現代も同じで、そうした作者の生活経済に対する感覚が江戸の市井を生き延びていく人々の姿に反映されている。
一方、物語の方は、「第一話」で蟋蟀小三郎と風鈴狂四郎によって煮え湯を飲まされた大名が二人を立ち会わせるために画策して江戸城吹上御殿での「御前試合」なるものを計画し、功名を考える蟋蟀小三郎と再仕官によって国元で貧しい暮らしをしている母との暮らしを考える風鈴狂四郎が、共に、その「御前試合」の計略を知りながらも、その試合に出ていくことを決心していくという展開を見せる。
第七話「小三郎岡惚れのとばっちり」は、「第五話」で登場した蟋蟀小三郎に無理やり弟子にされた男の姉に、女好きの小三郎が「岡惚れ」し、その姉に起こっている縁談の相手を調べてくれるように半次に依頼する。半次が調べていくと、姉の縁談相手のもとの雇い主が、旗本家の養子縁組によって金銭をだまし取っていたことが判明し、それを恐れた雇い主が縁談相手を殺すという事件の顛末が描かれていく。
第八話「命あっての物種」は、いよいよ「御前試合」が開催されることになり、それに出場する一組の武芸者が互いに遺恨を抱くものであり、「御前試合」が「遺恨試合」となって、ついに途中で取りやめになるという出来事を描いたもので、当時(家斉の時代)におかれていた武芸者の顛末が描き出されていく。風鈴狂四郎と蟋蟀小三郎は、結局は立ち会うことはなかったが、風鈴狂四郎は、その腕が見込まれ、再仕官して国元に変えるし、蟋蟀小三郎は「何事も命あっての物種」と思っていく。
こうした八話の連作であるが、作者は、人が生きる上で不可欠な経済、つまり金(ゼニ)で人間が生きている姿を、それぞれ、町火消しや浪人、武芸者、そしていうまでもなく岡っ引き、博徒の事情を描き出すことで、より現実的な人間の姿を描いており、作品のリアリティということからいえば、まさにリアリティにあふれた、しかも娯楽味の大きい作品に仕上げている。
それに、描き出される主人公の半次や蟋蟀小三郎、風鈴狂四郎といった人物にも味があって、それぞれの立場は異なっているが、物事に捕らわれずに飄々と自分の生き方をしている姿は、「金」を中心に動くとはいえ、読んでいてすがすがしくさえある。
今日はこれから新幹線で、また別の佐藤雅美の作品を読もうと思っている。
2010年1月25日月曜日
佐藤雅美『半次捕物控 髻塚不首尾一件始末』(1)
昨日の午後は、出かけようと思っていたところにも出かけず、うだうだと、借りてきていた『スターゲイト』(宇宙空間をワームホールでつないで探索をするSF)という米国TVドラマのDVDを見たり、本を読んだり、うとうと眠りこんだりして過ごしてしまい、夕食もありあわせで「雑煮」を作って簡単に済ませ、なんとなく日が暮れるという午後だった。ただ、日暮れの時間が、やはり少しずつ遅くなっているのを西の空をぼんやり眺めて感じていた。
夕暮れ時から、佐藤雅美『半次捕物控 髻塚不首尾一件始末(もとどりづかふしゅびいっけんしまつ)』(2007年 講談社)を読んでいる。これはこのシリーズの6作目の作品で、江戸中期(家斉時代)の江戸の岡っ引き「半次」を主人公に、金と女に目がない凄腕で人間味あふれる侍「蟋蟀小三郎」などを引き回し役にして物語が展開されていくものであるが、時代や社会考証がきちんと織り込まれているので、生身の人間がよく描かれて生活臭があり、事柄が錯綜して、しかもそれぞれに取り扱われている事件が面白く、「捕物帳」物の時代小説としては優れた作品だと思っている。
この6作目の『半次捕物控 髻塚不首尾一件始末』では、いずれも「蟋蟀小三郎」が関わる事件で、第一話「ちよ殿の知恵」では、拝領地(本来は江戸幕府が大名や家臣に貸し与えている土地)の売買をめぐっての争いに、一方の側に「蟋蟀小三郎」が用心棒として雇われ、もう一方の側に「蟋蟀小三郎」と同等の剣の腕を持つ「風鈴狂四郎」という浪人が雇われ、この二人の侍は、剣を抜きあうことになればいずれもけがをするか命を落とすことになるのを知っているので、争いたくなく、しかも用心棒代だけは欲しいという状態で、業を煮やした雇い主側が、二人の決着で争いを決めようとしたところ、「蟋蟀小三郎」が惚れて一緒になっている「ちよ」が知恵を働かせ、火事騒ぎを利用して拝領地に建てられている建物を壊して売買された拝領地に居座っていた側の転居をさせて無事に決着をつけるという話である。
結末は荒唐無稽なのだが、拝領地の売買をめぐる争いは当時の公事(民事)訴訟に基づくものであるし、金目当てに働いているがどこか憎めない蟋蟀小三郎と半次との「かけあい」や、蟋蟀小三郎が惚れている「ちよ」との蟋蟀小三郎との関係、お互いに生き伸びる知恵を働かせる風鈴狂四郎の姿など、抱腹絶倒の感がある。
第二話「助五郎の大手柄」は両国にあった幕府の御米蔵でこぼれおちた米を集めて売買する権利を持った人間の戸籍査証にからむ事件(人別が厳しかったので、人別の売買が行われていた)と大名家の妾腹にからんで当主の叔父と名乗る与太者から大名家が脅されるという事件が取り扱われており、大名家の脅しにからむ事件は第一話に登場した風鈴狂四郎が半次に始末を持ちこむのである。半次はこの二つの事件の探索にあたるが、第一の事件は風鈴狂四郎が行きつけの居酒屋に半次と行った時にそこの主人が人別売買をして偽戸籍を作っている人物であることが判明して、解決され、第二の事件は、第三話「強請の報酬」で、蟋蟀小三郎と昵懇になった風鈴狂四郎の知恵によって、大名家を強請っていた与太者を、その言い分通り大名家に迎え入れる格好で半監禁状態にするということで決着がつく。
この第三話で、蟋蟀小三郎は主家に御暇願いをし、晴れて浪人となって「ちよ」と結婚し、町道場を開いていくが、それが第四話へと繋がる。蟋蟀小三郎は奉行所からも主家からもいろいろな嫌疑を受けていくのだが、そんなものは「どこ吹く風」で、自分のやりたいことを貫いていく。もとより深い思惑があるとは思えないように振舞うし、その姿が小気味よくさえある。半次も、そのことを十分わかっていく。
第四話「銘水江戸乃水出入」は、新たに拝領屋敷を買った吝嗇家の公事宿の主人の吝嗇(けち)によって侮辱を受けた家主と蟋蟀小三郎が、その意趣返しに、酒樽に「銘水江戸乃水」と名札を張って公事宿の主人に届け、公事宿の主人がそれを「酒」と思って旗本のもとに届けたところ、それがただの「水」であるということで失態をしでかし、それを訴訟したことによって蟋蟀小三郎が取り調べを受けるという事件の顛末が描かれている。事件は、訴訟によって市中の噂の種となった旗本が公事宿の主人のあまりに横柄な態度に腹を立て、これを斬り殺すことで、訴訟人がいなくなったことにより蟋蟀小三郎が無罪となる結末となる。
町奉行所は日ごろから蟋蟀小三郎に目をつけており、しかも、奉行はこれを機に拝領屋敷の売買問題を明るみに出したいという思惑があってのことであるが、事件は思わぬ方向でうやむやとなり、蟋蟀小三郎は今回もすれすれのところで事なきを得ていく。
第五話「鬼も目にも涙」は、無理やりに道場の弟子にした悪ガキの姉が嫌な男に無理強いをされていること知った蟋蟀小三郎が、その男から箱訴(目安箱に訴えられる)されたことにからんで、その事件を半次が調べて明らかにしていく話である。
昨夜はここまで読んだが、作者の佐藤雅美は、公事訴訟の一件を描いた『恵比寿屋喜兵衛手控え』(1993年 講談社)で直木賞を受賞しており、公事訴訟についてはかなり綿密な知識があるので、この作品でもそれが見事に生かされて、昇華された形で物語が展開されている。だから、この「捕物帳」でも、それぞれの訴訟人の姿が蟋蟀小三郎という天衣無縫の人物をとおして詳細に描かれ、リアリティをもっている。それぞれの事件そのものの結末は平易すぎるとこともあるように思われるのだが、半次や蟋蟀小三郎の姿が生き生きとしているし、人間が微妙なバランスの上で生きていることが危うい中を飄々と生きていく蟋蟀小三郎の姿を通して描かれている。
知識がこういう姿で昇華されて作品の中で生きているのを見るのは本当に楽しいので、このシリーズは、彼がこれまで書いてきたものが凝縮されているようにも思える。知識は、むき出しのままでは、ただの知識としてしか意味を持たないが、人間の中で昇華されて初めて意義をもつ。この作品はそんなことも感じさせる作品である。
今日は午後から都内で会議が一つある予定だったが、体調がすぐれずに欠席することにした。毎年、この時期はこういうことがあるようになってきた。明日は仙台にまで行かなければならないが、どうだろうか。
夕暮れ時から、佐藤雅美『半次捕物控 髻塚不首尾一件始末(もとどりづかふしゅびいっけんしまつ)』(2007年 講談社)を読んでいる。これはこのシリーズの6作目の作品で、江戸中期(家斉時代)の江戸の岡っ引き「半次」を主人公に、金と女に目がない凄腕で人間味あふれる侍「蟋蟀小三郎」などを引き回し役にして物語が展開されていくものであるが、時代や社会考証がきちんと織り込まれているので、生身の人間がよく描かれて生活臭があり、事柄が錯綜して、しかもそれぞれに取り扱われている事件が面白く、「捕物帳」物の時代小説としては優れた作品だと思っている。
この6作目の『半次捕物控 髻塚不首尾一件始末』では、いずれも「蟋蟀小三郎」が関わる事件で、第一話「ちよ殿の知恵」では、拝領地(本来は江戸幕府が大名や家臣に貸し与えている土地)の売買をめぐっての争いに、一方の側に「蟋蟀小三郎」が用心棒として雇われ、もう一方の側に「蟋蟀小三郎」と同等の剣の腕を持つ「風鈴狂四郎」という浪人が雇われ、この二人の侍は、剣を抜きあうことになればいずれもけがをするか命を落とすことになるのを知っているので、争いたくなく、しかも用心棒代だけは欲しいという状態で、業を煮やした雇い主側が、二人の決着で争いを決めようとしたところ、「蟋蟀小三郎」が惚れて一緒になっている「ちよ」が知恵を働かせ、火事騒ぎを利用して拝領地に建てられている建物を壊して売買された拝領地に居座っていた側の転居をさせて無事に決着をつけるという話である。
結末は荒唐無稽なのだが、拝領地の売買をめぐる争いは当時の公事(民事)訴訟に基づくものであるし、金目当てに働いているがどこか憎めない蟋蟀小三郎と半次との「かけあい」や、蟋蟀小三郎が惚れている「ちよ」との蟋蟀小三郎との関係、お互いに生き伸びる知恵を働かせる風鈴狂四郎の姿など、抱腹絶倒の感がある。
第二話「助五郎の大手柄」は両国にあった幕府の御米蔵でこぼれおちた米を集めて売買する権利を持った人間の戸籍査証にからむ事件(人別が厳しかったので、人別の売買が行われていた)と大名家の妾腹にからんで当主の叔父と名乗る与太者から大名家が脅されるという事件が取り扱われており、大名家の脅しにからむ事件は第一話に登場した風鈴狂四郎が半次に始末を持ちこむのである。半次はこの二つの事件の探索にあたるが、第一の事件は風鈴狂四郎が行きつけの居酒屋に半次と行った時にそこの主人が人別売買をして偽戸籍を作っている人物であることが判明して、解決され、第二の事件は、第三話「強請の報酬」で、蟋蟀小三郎と昵懇になった風鈴狂四郎の知恵によって、大名家を強請っていた与太者を、その言い分通り大名家に迎え入れる格好で半監禁状態にするということで決着がつく。
この第三話で、蟋蟀小三郎は主家に御暇願いをし、晴れて浪人となって「ちよ」と結婚し、町道場を開いていくが、それが第四話へと繋がる。蟋蟀小三郎は奉行所からも主家からもいろいろな嫌疑を受けていくのだが、そんなものは「どこ吹く風」で、自分のやりたいことを貫いていく。もとより深い思惑があるとは思えないように振舞うし、その姿が小気味よくさえある。半次も、そのことを十分わかっていく。
第四話「銘水江戸乃水出入」は、新たに拝領屋敷を買った吝嗇家の公事宿の主人の吝嗇(けち)によって侮辱を受けた家主と蟋蟀小三郎が、その意趣返しに、酒樽に「銘水江戸乃水」と名札を張って公事宿の主人に届け、公事宿の主人がそれを「酒」と思って旗本のもとに届けたところ、それがただの「水」であるということで失態をしでかし、それを訴訟したことによって蟋蟀小三郎が取り調べを受けるという事件の顛末が描かれている。事件は、訴訟によって市中の噂の種となった旗本が公事宿の主人のあまりに横柄な態度に腹を立て、これを斬り殺すことで、訴訟人がいなくなったことにより蟋蟀小三郎が無罪となる結末となる。
町奉行所は日ごろから蟋蟀小三郎に目をつけており、しかも、奉行はこれを機に拝領屋敷の売買問題を明るみに出したいという思惑があってのことであるが、事件は思わぬ方向でうやむやとなり、蟋蟀小三郎は今回もすれすれのところで事なきを得ていく。
第五話「鬼も目にも涙」は、無理やりに道場の弟子にした悪ガキの姉が嫌な男に無理強いをされていること知った蟋蟀小三郎が、その男から箱訴(目安箱に訴えられる)されたことにからんで、その事件を半次が調べて明らかにしていく話である。
昨夜はここまで読んだが、作者の佐藤雅美は、公事訴訟の一件を描いた『恵比寿屋喜兵衛手控え』(1993年 講談社)で直木賞を受賞しており、公事訴訟についてはかなり綿密な知識があるので、この作品でもそれが見事に生かされて、昇華された形で物語が展開されている。だから、この「捕物帳」でも、それぞれの訴訟人の姿が蟋蟀小三郎という天衣無縫の人物をとおして詳細に描かれ、リアリティをもっている。それぞれの事件そのものの結末は平易すぎるとこともあるように思われるのだが、半次や蟋蟀小三郎の姿が生き生きとしているし、人間が微妙なバランスの上で生きていることが危うい中を飄々と生きていく蟋蟀小三郎の姿を通して描かれている。
知識がこういう姿で昇華されて作品の中で生きているのを見るのは本当に楽しいので、このシリーズは、彼がこれまで書いてきたものが凝縮されているようにも思える。知識は、むき出しのままでは、ただの知識としてしか意味を持たないが、人間の中で昇華されて初めて意義をもつ。この作品はそんなことも感じさせる作品である。
今日は午後から都内で会議が一つある予定だったが、体調がすぐれずに欠席することにした。毎年、この時期はこういうことがあるようになってきた。明日は仙台にまで行かなければならないが、どうだろうか。
2010年1月22日金曜日
松井今朝子『二枚目 並木拍子郞種取帳』(2)
予報どおり少し寒い日になった。西高東低の冬型の気圧配置に戻り、寒気団が南下してきているようだ。朝は薄雲りだったが、午後からは晴れてきた。少し詰まっていた仕事を朝から初めて、一段落ついたところでこれを記している。
昨夜、モーツアルトの「小夜曲」や「ピアノソナタ」を聴きながら松井今朝子『二枚目 並木拍子郞種取帳』を読んだ。モーツアルトの曲は、一つ一つが完全にまとまっていて、仰々しくなく、軽いピアノの音が安らぎを与えてくれるとつくづく思う。
『二枚目 並木拍子郞種取帳』の第二話「二枚目」は、芝居の「二枚目」、つまり芝居小屋の右から二枚目の看板にかけられる役者のことで、「二枚目が専ら演じるのは女にもてる色男だが、自身はあくまでも主役ではなく女形の相手役に過ぎない」(73ページ)役者で、その二枚目の役者があまり売れない「三枚目(道化役)」の友人二人にたかられ、強請られ、あげくの果てに人殺しの芝居まで演じられて人を殺したと思いこみ、それを種にまた強請られるという出来事を、事情を調べた並木拍子郞から聞いた五瓶が見事に解決していくという話である。
第三話「見出人(みだしにん)」は、拍子郞と共に五瓶の家に出入りするちゃきちゃきの江戸っ子の料理茶屋の娘のかつて婿養子にするのではないかと言われていた料理人が、女房を殺したかどで捕縛され、その男への思いも少し残っていた娘から真相の究明を依頼された並木拍子郞が五瓶の助言もあってその事件と関わり、料理人が恩人としていた料理茶屋のどら息子がその女房にちょっかいを出し、女房と関係を持ち、女房が関係の冷えた亭主と別れようとすると、今度は邪魔に感じて殺人にまで発展して行ったことを突きとめていく話である。
並木拍子郞は複雑な思いでその事件を解明していくし、料理茶屋の娘の複雑な思いもあるし、外から見れば浮気性のどうしようもない料理人の女房と料理人の思いも単純には割り切れない。そういう割り切れなさが人の思いにはいつもつきまとうが、その姿が事件の解明の過程で明らかに示されていく。
第四話「宴のあと始末」は、芝居小屋で見合いをした米屋の娘が忽然と姿を消した事件に並木拍子郞が関わり、実は見合いの相手であった炭屋の息子と恋仲であった女中の兄が妹を思って、「神隠し」を装って起こした事件であったことを解明していく話で、真相を知っても拍子郞は関わりのあった人々のことを思ってそれを暴露しない。こうした姿で、主人公の並木拍子郞の姿が描き出されていく作品である。
第五話「恋じまい」は、これまで名推量を見せていた狂言作家の並木五瓶自身が、昔溺れこんだ妓楼の女と再会し、再び彼女と逢瀬を重ねていたが、その女が「心中」を装って殺され、その事件に江戸の両替商の悪辣な為替操作が関係していることを拍子郞がつきとめていく話で、五瓶と彼の気さくな女房との関係も壊れかけ、拍子郞はその女房のためにも真相をはっきりさせようとする。
五瓶は、女房も、その殺された女も共に本気で惚れてしもうた、と言う。「どっちの気持ちも真実で、嘘はない。ええ歳をして、愚かな真似をと思うであろうが、老い先短いこの歳になると、他人を好きになるのがだんだんむずかしうなる。そやからこそまた、惚れるという気持ちがわかいときよりもなお大切になる」(271ページ)と言う。女房はそんな亭主を殺したいと思うほど惚れている。そして、関係はぎくしゃくする。
しかし、これは作者が女性だから言わせる言葉ではないかと思う。老いれば、人を好きになるのが難しくなるのは男も女も変わらないにしても。
ともあれ、師走の煤払いの日、五瓶は女から来た手紙を焼き、五瓶の女房も立ち直り、すべての「煤」を払う。そして、すべてを包み込むように綿雪が降り積もっていく。
これらの作品の話の展開のどこにも無理がなく、そして生身の人間の姿が描かれている。文章の切れの良さではなく、構成のうまさが光るし、描かれている人物も生き生きとしている。なかなか読ませる時代推理小説だと思う。小説は、人間が描かれなければ意味がない。深い人間への洞察が具体的な姿として現れる人物像を形成するのは難しい。
しかし、江戸時代の歌舞伎・狂言作者と、武家の出であるがその弟子となる風変りな主人公として探偵役が設定されているこの作品には、人間の情も細やかで、事件の背後にある人の暗さも、共に丁寧に、しかも重くなく描かれているので、真に「うまい」作品なのである。
昨夜、モーツアルトの「小夜曲」や「ピアノソナタ」を聴きながら松井今朝子『二枚目 並木拍子郞種取帳』を読んだ。モーツアルトの曲は、一つ一つが完全にまとまっていて、仰々しくなく、軽いピアノの音が安らぎを与えてくれるとつくづく思う。
『二枚目 並木拍子郞種取帳』の第二話「二枚目」は、芝居の「二枚目」、つまり芝居小屋の右から二枚目の看板にかけられる役者のことで、「二枚目が専ら演じるのは女にもてる色男だが、自身はあくまでも主役ではなく女形の相手役に過ぎない」(73ページ)役者で、その二枚目の役者があまり売れない「三枚目(道化役)」の友人二人にたかられ、強請られ、あげくの果てに人殺しの芝居まで演じられて人を殺したと思いこみ、それを種にまた強請られるという出来事を、事情を調べた並木拍子郞から聞いた五瓶が見事に解決していくという話である。
第三話「見出人(みだしにん)」は、拍子郞と共に五瓶の家に出入りするちゃきちゃきの江戸っ子の料理茶屋の娘のかつて婿養子にするのではないかと言われていた料理人が、女房を殺したかどで捕縛され、その男への思いも少し残っていた娘から真相の究明を依頼された並木拍子郞が五瓶の助言もあってその事件と関わり、料理人が恩人としていた料理茶屋のどら息子がその女房にちょっかいを出し、女房と関係を持ち、女房が関係の冷えた亭主と別れようとすると、今度は邪魔に感じて殺人にまで発展して行ったことを突きとめていく話である。
並木拍子郞は複雑な思いでその事件を解明していくし、料理茶屋の娘の複雑な思いもあるし、外から見れば浮気性のどうしようもない料理人の女房と料理人の思いも単純には割り切れない。そういう割り切れなさが人の思いにはいつもつきまとうが、その姿が事件の解明の過程で明らかに示されていく。
第四話「宴のあと始末」は、芝居小屋で見合いをした米屋の娘が忽然と姿を消した事件に並木拍子郞が関わり、実は見合いの相手であった炭屋の息子と恋仲であった女中の兄が妹を思って、「神隠し」を装って起こした事件であったことを解明していく話で、真相を知っても拍子郞は関わりのあった人々のことを思ってそれを暴露しない。こうした姿で、主人公の並木拍子郞の姿が描き出されていく作品である。
第五話「恋じまい」は、これまで名推量を見せていた狂言作家の並木五瓶自身が、昔溺れこんだ妓楼の女と再会し、再び彼女と逢瀬を重ねていたが、その女が「心中」を装って殺され、その事件に江戸の両替商の悪辣な為替操作が関係していることを拍子郞がつきとめていく話で、五瓶と彼の気さくな女房との関係も壊れかけ、拍子郞はその女房のためにも真相をはっきりさせようとする。
五瓶は、女房も、その殺された女も共に本気で惚れてしもうた、と言う。「どっちの気持ちも真実で、嘘はない。ええ歳をして、愚かな真似をと思うであろうが、老い先短いこの歳になると、他人を好きになるのがだんだんむずかしうなる。そやからこそまた、惚れるという気持ちがわかいときよりもなお大切になる」(271ページ)と言う。女房はそんな亭主を殺したいと思うほど惚れている。そして、関係はぎくしゃくする。
しかし、これは作者が女性だから言わせる言葉ではないかと思う。老いれば、人を好きになるのが難しくなるのは男も女も変わらないにしても。
ともあれ、師走の煤払いの日、五瓶は女から来た手紙を焼き、五瓶の女房も立ち直り、すべての「煤」を払う。そして、すべてを包み込むように綿雪が降り積もっていく。
これらの作品の話の展開のどこにも無理がなく、そして生身の人間の姿が描かれている。文章の切れの良さではなく、構成のうまさが光るし、描かれている人物も生き生きとしている。なかなか読ませる時代推理小説だと思う。小説は、人間が描かれなければ意味がない。深い人間への洞察が具体的な姿として現れる人物像を形成するのは難しい。
しかし、江戸時代の歌舞伎・狂言作者と、武家の出であるがその弟子となる風変りな主人公として探偵役が設定されているこの作品には、人間の情も細やかで、事件の背後にある人の暗さも、共に丁寧に、しかも重くなく描かれているので、真に「うまい」作品なのである。
2010年1月21日木曜日
松井今朝子『二枚目 並木拍子郞種取帳』(1)
大寒の昨日から15度を越える温かい日が続いているが、今日は重い雲が広がっている。明日からまた寒くなるらしい。節分までは寒いかもしれない。春を思わせる暖かい日は嬉しいが、気温の変化が極端になっている。昨夜、遅くまで仕事をしていたせいか、今朝は眠い。「春眠」といけばいいのだが、そうもいかないだろう。
一昨日から松井今朝子『二枚目 並木拍子郞種取帳』(2003年 角川春樹事務所)を読んでいる。この作者の作品で最初に読んだのが江戸時代の戯作者十返舎一九の前半生を描いた『そろそろ旅に』(2008年 講談社)で、江戸で戯作者となるまでに変転の多かった十返舎一九の姿が比較的シリアスな面も含めて描かれており、十返舎一九の苦悩もよく読みとれたので、そういう作風だろうと思っていたが、『二枚目 並木拍子郞種取帳』は軽妙な語り口(文体)で、この作者のまったく違った力量を知ることができる作品である。
この作品には前作『一の富 並木拍子郞種取帳』(2001年 角川春樹事務所)があり、本作でも前作をにおわせる記述があるが、前作を読まなくても十分に面白い短編連作になっている。何よりも、主人公並木拍子郞の設定に無理がなく、並木拍子郞は、本名を筧兵四郎(かけい ひょうしろう)という北町奉行所の与力の次男であるが、歌舞伎と狂言の人気作者並木五瓶(なみき ごへい)に弟子入りし、狂言作者を目指す青年で、市井の噂話や事件を拾い集めて芝居の「種」にすることを師匠から命じられ、様々な事件に関与して行くという設定になっている。
奉行所の与力の次男ということで事件への好奇心も旺盛で、彼が調べてきた事件を、さながらロッキングチェアー探偵よろしく師匠の五瓶の名推理と共に奔走して解決していくという筋立てで、五瓶と拍子郞は、さながら推理者と実地検証者のような名コンビとして事件の解決にあたる推理小説の形で物語が展開されている。
また、歌舞伎や狂言については、作者は専門的な知識を持っており、それが芝居の作者としての五瓶の姿や生活に反映されているので、当時の芝居の置かれた状況を背景として、人物が生き生きとしており、彼の家族や拍子郞が少し思いを寄せている料理茶屋のひとり娘のちゃきちゃきとした江戸っ子気質、並木拍子郞とその娘の恋の行方など伏線もあって、構成のしっかりした作品になっている。
平易な文体で、しかも読ませる作品は、何よりも作品の構成がしっかりしていないとつまらないものになってしまいがちだが、この作品には全体に無理がないように人物の設定がはじめからされており、しっかりした構成の中で物語が展開されているので、まことに「うまい」という言葉がぴったりするような作品になっているように思われる。
第一話「輪廻の家」は、さりげなく登場人物たちの紹介を織り込みながら、老舗の材木問屋の数代に渡る「祟り」をめぐって、「家という重荷を背負わされた」(63ページ)母と娘の葛藤を描いたもので、人の心の奥底に潜むどろどろとした思いが軽妙な筆使いで描かれていく。並木拍子郞は五瓶の推理と共にそれを明らかにしていく。そして、それが明らかになることによって、「祟り」の中に置かれていた材木問屋の家族が解放されていくのである。もちろんここには、早くに夫を亡くした母の悲しみや淋しさ、出来の良い婿をもらった娘への思い、娘婿に対する思い、そして夫婦のあり方などが巧みに描き出されている。そして、読後感の清涼さもきちんと織り込まれている。
昨夜はなんとなく疲れを覚えていたのか、面白いのだが、この第一話までしか読むことができなかった。この人の作品は、歌舞伎などのかなりの専門的な知識を必要とする作品が多く、手を伸ばしにくかったのだが、それはわたしの勝手な先入観だった。今夜また続きを読んでみよう。
一昨日から松井今朝子『二枚目 並木拍子郞種取帳』(2003年 角川春樹事務所)を読んでいる。この作者の作品で最初に読んだのが江戸時代の戯作者十返舎一九の前半生を描いた『そろそろ旅に』(2008年 講談社)で、江戸で戯作者となるまでに変転の多かった十返舎一九の姿が比較的シリアスな面も含めて描かれており、十返舎一九の苦悩もよく読みとれたので、そういう作風だろうと思っていたが、『二枚目 並木拍子郞種取帳』は軽妙な語り口(文体)で、この作者のまったく違った力量を知ることができる作品である。
この作品には前作『一の富 並木拍子郞種取帳』(2001年 角川春樹事務所)があり、本作でも前作をにおわせる記述があるが、前作を読まなくても十分に面白い短編連作になっている。何よりも、主人公並木拍子郞の設定に無理がなく、並木拍子郞は、本名を筧兵四郎(かけい ひょうしろう)という北町奉行所の与力の次男であるが、歌舞伎と狂言の人気作者並木五瓶(なみき ごへい)に弟子入りし、狂言作者を目指す青年で、市井の噂話や事件を拾い集めて芝居の「種」にすることを師匠から命じられ、様々な事件に関与して行くという設定になっている。
奉行所の与力の次男ということで事件への好奇心も旺盛で、彼が調べてきた事件を、さながらロッキングチェアー探偵よろしく師匠の五瓶の名推理と共に奔走して解決していくという筋立てで、五瓶と拍子郞は、さながら推理者と実地検証者のような名コンビとして事件の解決にあたる推理小説の形で物語が展開されている。
また、歌舞伎や狂言については、作者は専門的な知識を持っており、それが芝居の作者としての五瓶の姿や生活に反映されているので、当時の芝居の置かれた状況を背景として、人物が生き生きとしており、彼の家族や拍子郞が少し思いを寄せている料理茶屋のひとり娘のちゃきちゃきとした江戸っ子気質、並木拍子郞とその娘の恋の行方など伏線もあって、構成のしっかりした作品になっている。
平易な文体で、しかも読ませる作品は、何よりも作品の構成がしっかりしていないとつまらないものになってしまいがちだが、この作品には全体に無理がないように人物の設定がはじめからされており、しっかりした構成の中で物語が展開されているので、まことに「うまい」という言葉がぴったりするような作品になっているように思われる。
第一話「輪廻の家」は、さりげなく登場人物たちの紹介を織り込みながら、老舗の材木問屋の数代に渡る「祟り」をめぐって、「家という重荷を背負わされた」(63ページ)母と娘の葛藤を描いたもので、人の心の奥底に潜むどろどろとした思いが軽妙な筆使いで描かれていく。並木拍子郞は五瓶の推理と共にそれを明らかにしていく。そして、それが明らかになることによって、「祟り」の中に置かれていた材木問屋の家族が解放されていくのである。もちろんここには、早くに夫を亡くした母の悲しみや淋しさ、出来の良い婿をもらった娘への思い、娘婿に対する思い、そして夫婦のあり方などが巧みに描き出されている。そして、読後感の清涼さもきちんと織り込まれている。
昨夜はなんとなく疲れを覚えていたのか、面白いのだが、この第一話までしか読むことができなかった。この人の作品は、歌舞伎などのかなりの専門的な知識を必要とする作品が多く、手を伸ばしにくかったのだが、それはわたしの勝手な先入観だった。今夜また続きを読んでみよう。
2010年1月19日火曜日
諸田玲子『昔日より』
昨夜、昨年末に書いた『大江健三郎論』などを掲載したものの合評会を小石川でするというので久しぶりに都内に出かけた。小石川までは年に数回は行っているのだが、どのように行けばいいのかを失念して駅員さんに地下鉄の路線などを聞いて出かけた。東急田園都市線の藤が丘駅の若い駅員さんはとても親切に地図まで出して来て笑顔で教えてくれ、些細なことだが本当に嬉しく思ったりした。
会そのものは気の合う人たちなので何ということはないのだが、ただ、こういう時、自分の驚くほどの饒舌さに自分自身に腹を立てることがよくある。「沈黙」をこよなく愛していたし、最近は、一つ一つのことをきちんと丁寧にできずに、中途半端で終わってしまう状態があって、それを電車に揺られつつ自省しながら深夜に帰宅した。この集まりでは3月に「森有正論」を話すことになっているので、そろそろ準備に取り掛からなければならない。
今朝、広島のMさんから励ましのメールをいただき、昨年のクリスマスに送っていただいた「赤カブ」の絵を改めて取り出し、意を翻らせて、昨夜読み終えた諸田玲子『昔日より』(2005年 講談社)について記しておくことにした。
この作品は、奥付によれば2003年~2004年に「小説現代」で発表された8編の短編を収録したもので、わたし自身の好みから言えば短編の物足りなさがあるが、ひとつひとつはよくまとまった短編であり、江戸開闢期から幕末までの時代順に並べられており、それぞれの時代背景の中でのそれぞれの重荷を背負った人間の姿が描かれている。こうした短編集の組み方も意図的で意欲的であると言えるだろう。
第一篇「新天地」は、江戸開闢期に信濃の小諸近郊の村から江戸に出てきた父子の物語で、関ヶ原の合戦で手柄を立てたという父親を尊敬していた子どもが、次第に父親の姿に失望していき、やがて再び父への敬意を取り戻していく話である。テーマそのものはありふれたものであるが、父親に失望する息子の姿が丹念に描かれている。このテーマは、第七編「打役」へと繋がり、「打役」では、奉行所で罪人を鞭打つ役を代々務めている人物が、穏やかで優しい父親が咎人を鞭打つ役をしていることを知り、その職務を嫌って反抗するが、やがて自分も家督を継いでその役に着き、今度は自分の愛娘から嫌われていくという話になる。
意に沿わない、世間から評価もされない仕事を淡々としていかなければならないことへの葛藤がよく描き出されている。そして、自分がその仕事をし、愛娘から嫌われていく中で、自分の父親のことも理解していくのである。
職業選択の自由というのが表面上認められている現代においても、「意に沿う仕事」ができるような人はごく少数のエリートに過ぎない。多くは皆、「生活のため」に意に沿わない仕事を淡々としていかなければならない。職業の卑賤はあってはならないはずであるが、現実には確かにある。エリート志向や上昇志向の強い現代では、それがとみに激しくなっている。その中で生きなければならない人間の姿を時代小説という形で描き出した意義は大きい。
第二編「黄鷹(わかたか)」は、徳川家康の寵愛を受けた側室の「清雲院」が、同じように側室であった「蓮華院」の訃報を聞き、人生の寂しさを感じている時に、町屋の娘が自分の恋路の成就のために彼女の力を頼って来たのを助けようと、「黄鷹(わかたか)」と呼ばれる彼女の老僕(下忍)と共に再び情熱を燃やしていく話で、「流れのままに転がって生きてきた」人生への最後の抵抗を描いたものと言えるかもしれない。
第三篇「似非侍」は、関ヶ原の合戦後八十年たって江戸幕府が安定期に入った頃になお武士としての矜持をもち続け、その「武士の一分」のために主家を捨て、渡り中間となっている男が、同じように「武士の一分」のために主家の命を受けて彼が仕えている旗本家に入り込み、主家の命への忠義を果たさなければならない姿に「むなしさとあわれ」を感じていく話である。つまらないことのために命を賭し、そしてその命を落としていく。家のため、会社のため、国家のために、或いは自分の地位のために命を賭けていく。そうしたことに何の意味があるのか。人間を目的論的にしか考えることのできない悲哀がこの作品にはよく現れている。
第四編「微笑」は、江戸初期の終わり頃、元禄時代が始まる少し前、江戸幕府が安定を見せ始めたころ水野十郎左衛門が率いた「白袴組」などで有名な「旗本奴」と幡随院長兵衛の「町奴」の対立で江戸市中を騒がせた出来事で、若い頃「旗本奴」として乱暴を働いていた旗本の三男とその友人が、やがて一人は幸運にも幕府の取り締まりの難を逃れ、反対に不良旗本を取り締まる大番組の目付となり、もう一人は捕縛されて獄死するという事態となり、目付となった主人公が獄死した友人への裏切りを背負いながら生きている姿を描いたものであり、過去の自分の行状を悔い、それを隠して生きなければならない人間の姿を描いたものである。
第五編「女犯」は、第四編の男の姿を、かつて男ぶりが評判だった寺の僧侶と不貞を働いた女が、自分の過去を糊塗して生きている姿を描いたもので、姑にもよく仕え、武家の妻として何くわぬ顔で過ごしているが、自分の中の「女」としての性で不貞を働いたことを胸に秘めている。そういう女性が不貞の場所であった廃寺を再び訪れていく。しかし、彼女は自分の過去を胸に秘めたまま日常を生きていくという話である。
第四編にしろ、第五編にしろ、いずれも、それぞれが自分の過去を糊塗しながら生きていかなければならない人間の断面が描かれている。人が生きるということは多かれ少なかれ罪を犯しながら生きることであり、人間にはそれを真実に「ゆるす」力などない。だから、「それでいい」という思いもある。人間が考える正義などに人を救う力もない。まして、倫理的なことはそうだ。むしろ、「あっけんからん」と生きた方がいい。これもまた時代の中での思考かもしれないが。
第六編「子竜(しりょう)」は、反対に、倫理道徳を謹厳に守り、質実剛健を訴えてきた「子竜」こと平山行蔵(1759-1829年)に題材をとったもので、この作品では老いた平山行蔵が、日常としてきた質実剛健の修行にも疲れを覚え始め、隣家の十七歳の娘に思いを寄せたり、彼の直弟子となった青年を助けたりして、ついにはその直弟子と自分が思いを寄せいている娘の駆け落ちを助けたり(自分はそれを知って失恋するのだが)して「人間味」を取り戻していく話である。
ここには、ひとり淋しく老いていかなければならない「老い」の姿があって、やはり、自分の身に引き合わせてもいろいろと考えさせられる。
第七編については先に述べた通りで、第八編「船出」は、江戸幕府崩壊後、夫を上野戦争で失い、幕臣の家族として徳川家が移封された駿河に落ち伸びていく妻が、その駿河への船の中で、それぞれの遺恨を抱いた人々の姿に触れ、「すべてを海に捨てていく」ことを決心していく話である。
こうしてそれぞれの短編を並べてみると、時代は流れ、社会も移り変わり、そして、人は「すべてを海に捨てて生きる」へと繋がっていることがよくわかる。人が生きるということは、そういうことかもしれないとつくづく思う。この短編集はそういうことを改めて思わせる作品群になっていて、そこに作者の意図もあるように思われるのである。人は、捨てきれないものを背負っているにせよ、「今」をたくましく生き抜くために、一切を大海原に流していくほうがいい。「悔い改め」とはそういうことかもしれないとも思う。
今日は図書館に新しい本を借りに行きたいが、仕事も詰まっているので行けるかどうか。一日で出来ることがほんの少しになって来ている。「あれも、これも」と思うが、じっくりとできることに腰を据え直していこう。もともと「ケセラセラ」なのだから。
会そのものは気の合う人たちなので何ということはないのだが、ただ、こういう時、自分の驚くほどの饒舌さに自分自身に腹を立てることがよくある。「沈黙」をこよなく愛していたし、最近は、一つ一つのことをきちんと丁寧にできずに、中途半端で終わってしまう状態があって、それを電車に揺られつつ自省しながら深夜に帰宅した。この集まりでは3月に「森有正論」を話すことになっているので、そろそろ準備に取り掛からなければならない。
今朝、広島のMさんから励ましのメールをいただき、昨年のクリスマスに送っていただいた「赤カブ」の絵を改めて取り出し、意を翻らせて、昨夜読み終えた諸田玲子『昔日より』(2005年 講談社)について記しておくことにした。
この作品は、奥付によれば2003年~2004年に「小説現代」で発表された8編の短編を収録したもので、わたし自身の好みから言えば短編の物足りなさがあるが、ひとつひとつはよくまとまった短編であり、江戸開闢期から幕末までの時代順に並べられており、それぞれの時代背景の中でのそれぞれの重荷を背負った人間の姿が描かれている。こうした短編集の組み方も意図的で意欲的であると言えるだろう。
第一篇「新天地」は、江戸開闢期に信濃の小諸近郊の村から江戸に出てきた父子の物語で、関ヶ原の合戦で手柄を立てたという父親を尊敬していた子どもが、次第に父親の姿に失望していき、やがて再び父への敬意を取り戻していく話である。テーマそのものはありふれたものであるが、父親に失望する息子の姿が丹念に描かれている。このテーマは、第七編「打役」へと繋がり、「打役」では、奉行所で罪人を鞭打つ役を代々務めている人物が、穏やかで優しい父親が咎人を鞭打つ役をしていることを知り、その職務を嫌って反抗するが、やがて自分も家督を継いでその役に着き、今度は自分の愛娘から嫌われていくという話になる。
意に沿わない、世間から評価もされない仕事を淡々としていかなければならないことへの葛藤がよく描き出されている。そして、自分がその仕事をし、愛娘から嫌われていく中で、自分の父親のことも理解していくのである。
職業選択の自由というのが表面上認められている現代においても、「意に沿う仕事」ができるような人はごく少数のエリートに過ぎない。多くは皆、「生活のため」に意に沿わない仕事を淡々としていかなければならない。職業の卑賤はあってはならないはずであるが、現実には確かにある。エリート志向や上昇志向の強い現代では、それがとみに激しくなっている。その中で生きなければならない人間の姿を時代小説という形で描き出した意義は大きい。
第二編「黄鷹(わかたか)」は、徳川家康の寵愛を受けた側室の「清雲院」が、同じように側室であった「蓮華院」の訃報を聞き、人生の寂しさを感じている時に、町屋の娘が自分の恋路の成就のために彼女の力を頼って来たのを助けようと、「黄鷹(わかたか)」と呼ばれる彼女の老僕(下忍)と共に再び情熱を燃やしていく話で、「流れのままに転がって生きてきた」人生への最後の抵抗を描いたものと言えるかもしれない。
第三篇「似非侍」は、関ヶ原の合戦後八十年たって江戸幕府が安定期に入った頃になお武士としての矜持をもち続け、その「武士の一分」のために主家を捨て、渡り中間となっている男が、同じように「武士の一分」のために主家の命を受けて彼が仕えている旗本家に入り込み、主家の命への忠義を果たさなければならない姿に「むなしさとあわれ」を感じていく話である。つまらないことのために命を賭し、そしてその命を落としていく。家のため、会社のため、国家のために、或いは自分の地位のために命を賭けていく。そうしたことに何の意味があるのか。人間を目的論的にしか考えることのできない悲哀がこの作品にはよく現れている。
第四編「微笑」は、江戸初期の終わり頃、元禄時代が始まる少し前、江戸幕府が安定を見せ始めたころ水野十郎左衛門が率いた「白袴組」などで有名な「旗本奴」と幡随院長兵衛の「町奴」の対立で江戸市中を騒がせた出来事で、若い頃「旗本奴」として乱暴を働いていた旗本の三男とその友人が、やがて一人は幸運にも幕府の取り締まりの難を逃れ、反対に不良旗本を取り締まる大番組の目付となり、もう一人は捕縛されて獄死するという事態となり、目付となった主人公が獄死した友人への裏切りを背負いながら生きている姿を描いたものであり、過去の自分の行状を悔い、それを隠して生きなければならない人間の姿を描いたものである。
第五編「女犯」は、第四編の男の姿を、かつて男ぶりが評判だった寺の僧侶と不貞を働いた女が、自分の過去を糊塗して生きている姿を描いたもので、姑にもよく仕え、武家の妻として何くわぬ顔で過ごしているが、自分の中の「女」としての性で不貞を働いたことを胸に秘めている。そういう女性が不貞の場所であった廃寺を再び訪れていく。しかし、彼女は自分の過去を胸に秘めたまま日常を生きていくという話である。
第四編にしろ、第五編にしろ、いずれも、それぞれが自分の過去を糊塗しながら生きていかなければならない人間の断面が描かれている。人が生きるということは多かれ少なかれ罪を犯しながら生きることであり、人間にはそれを真実に「ゆるす」力などない。だから、「それでいい」という思いもある。人間が考える正義などに人を救う力もない。まして、倫理的なことはそうだ。むしろ、「あっけんからん」と生きた方がいい。これもまた時代の中での思考かもしれないが。
第六編「子竜(しりょう)」は、反対に、倫理道徳を謹厳に守り、質実剛健を訴えてきた「子竜」こと平山行蔵(1759-1829年)に題材をとったもので、この作品では老いた平山行蔵が、日常としてきた質実剛健の修行にも疲れを覚え始め、隣家の十七歳の娘に思いを寄せたり、彼の直弟子となった青年を助けたりして、ついにはその直弟子と自分が思いを寄せいている娘の駆け落ちを助けたり(自分はそれを知って失恋するのだが)して「人間味」を取り戻していく話である。
ここには、ひとり淋しく老いていかなければならない「老い」の姿があって、やはり、自分の身に引き合わせてもいろいろと考えさせられる。
第七編については先に述べた通りで、第八編「船出」は、江戸幕府崩壊後、夫を上野戦争で失い、幕臣の家族として徳川家が移封された駿河に落ち伸びていく妻が、その駿河への船の中で、それぞれの遺恨を抱いた人々の姿に触れ、「すべてを海に捨てていく」ことを決心していく話である。
こうしてそれぞれの短編を並べてみると、時代は流れ、社会も移り変わり、そして、人は「すべてを海に捨てて生きる」へと繋がっていることがよくわかる。人が生きるということは、そういうことかもしれないとつくづく思う。この短編集はそういうことを改めて思わせる作品群になっていて、そこに作者の意図もあるように思われるのである。人は、捨てきれないものを背負っているにせよ、「今」をたくましく生き抜くために、一切を大海原に流していくほうがいい。「悔い改め」とはそういうことかもしれないとも思う。
今日は図書館に新しい本を借りに行きたいが、仕事も詰まっているので行けるかどうか。一日で出来ることがほんの少しになって来ている。「あれも、これも」と思うが、じっくりとできることに腰を据え直していこう。もともと「ケセラセラ」なのだから。
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